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三門から開山堂

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イメージ 1三門の西側には、国の重要文化財に指定されている東司(とうす)があります。
東司とは便所のことであり、俗に百間便所「百雪隠(ひゃくせっちん)」と称し、禅堂の横に必ず置かれています。
勿論、現在は使用されていません。
室町時代前期に再建されたもので、禅宗の寺院としては、日本最大・最古のもので、現存する唯一の遺構です。


イメージ 2覗いて見ると、土間に幾つもの穴が見られます。
当時は、大便用、小便用、子供用と場所が分けられ、間仕切りが行われていました。
手洗い用の壺も置かれ、冬季には湯を沸かし、濡れた手巾を乾かす焙炉(ほいろ)も設けられていました。
東司使用の作法も定められ、用便さえも修行の一つとされました。

イメージ 3また、当時の排出物は堆肥肥料となって京野菜を育て、寺院には収入源になっていました。








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禅堂は、室町時代の貞和3年(1347)に再建された日本最古のもので、国の重要文化財に指定されています。
南北約42m、東西約22mあり日本最大の禅堂で、かって400人以上の僧が修行し、僧堂とも呼ばれました。
修行僧である雲水が、座禅だけでなく寝食も行う修行道場です。


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禅堂の北側に殿鐘楼があります。
この建物は、室町時代後期のもので、
漆喰の壁はまだ新しさが窺えますので、近年塗り替えられたものと思われます。
廃寺となった西寺の銅鐘を、九条道家が寄進したと伝えられています。
平安時代初期かそれ以前に鋳造されたものと考察され、国の重要文化財に指定され、現在は収蔵庫で保管されています。

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現在、鐘楼にある殿鐘はレプリカです。
殿鐘と梵鐘の違いは、口径一尺八寸
(約54.5cm)以上のものを梵鐘とされ、それ以下の小型のものを殿鐘や半鐘と呼ばれる、とのことです。













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通天橋へ向かいます。
通天橋は、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が天授6年(1380)に、谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝わります。
昭和34年の台風で崩壊しましたが、
2年後に再建され、橋脚部分は鉄筋コンクリートで強化されました。



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通天橋の中間には、通天台が設けられ、橋上から洗玉澗(せんぎょくかん)を堪能できます。
新緑や紅葉の季節なら、より良いでしょうが、訪れる人も少ない今ならではの感じるものがあります。




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通天橋から方丈を望む。









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通天橋を右に折れ、開山堂に向かいます。
開山堂への楼門の手前から方丈を望む。







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開山堂への楼門をくぐると、参道の右側には池と、斜面に沿って築山の庭園が築かれています。







イメージ 13開山堂は、聖一国師が祀られ、「常楽庵」の扁額が掛かっています。
聖一国師こと円爾弁円(えんにべんねん)は、天皇より初めて国師号を贈られた禅僧です。
国師とは、国の民の師あるいは国王の師という意味で高僧につけられた尊称のことです。
摂政関白・九條道家に都に迎えられ、
東福寺を開山しました。

イメージ 14常楽庵は、円爾像を安置する開山堂とその手前の昭堂を中心とした一画を指します。
昭堂とは禅宗の寺院で、祖師の像や位牌を安置するところで、享堂(きょうどう)ともいわれます。
文政2年(1819)焼失後、同9年(1826)までに再建されました。
昭堂の中央部分は2階建の楼閣となっていて、伝衣閣(でんねかく)と称します。
金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(どんこかく)(大徳寺塔頭芳春院)と並び「京の五閣」といわれています。
イメージ 15客殿や庫裏は特に「普門院」と呼称され、かつて十刹の一つに数えられていた名刹「普門寺」の名残を残しています。
普門院の前は、市松模様の枯山水の庭園です。






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普門院の前に座り、庭園を眺めていると「洗心」という言葉が実感できるようです。







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普門院の前から楼門を望む。

続く


背割堤の桜-2

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3月26日午後3時頃の背割堤は、晴れてはいますが、北から冷たい風が吹いています。
前回は自転車で、サイクリングロードを一周しましたが、今日は徒歩で先端まで往復しました。
入口付近には、江戸時代の俳人、其角(きかく)の
「新月や いつをむかしの 男山」と、荷兮(かけい)による
「沓音も しずかにかざす 桜かな」と詠まれた歌碑が建っています。
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桜の木には、番号がふられていて、下流に向かって右側には白の、左側はブルーの番号札が付けられています。
白・ブルーとも先端まで124番の札が付けられていましたが、ブルー側の124番の次の木には札を見つけられませんでしたので249本の桜の木が植えられていることになります。
ブルーの25番の近くに「三川合流から1.0km」の石標があり、ここから先端まで1kmになります。
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全体的には、ブルーの番号札が付けられている方は、開花が遅れています。
唯一、ブルーの33番は、ほぼ8割近く開花していました。
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白の31番の桜です。
1割程度の開花と思われます。
249本ある全体で、これ位開花しているのは3~4程度です。
まだまだ、蕾の方が目立ちます。
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白51番の桜は、上の方の1本の枝のみ満開状態で、その他は1割程度の開花でした。
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小鳥が三羽、楽しくおしゃべりしているようです。

背割堤の桜が見頃となるのは、4月に入ってからだと思われますが、八幡市が毎年「桜まつり」を開催していますので、その期間中は背割堤に併設されている無料駐車場が使えなくなります。
直ぐ近くに臨時の有料駐車場(千円)が開設されます。

通天橋~最勝金剛院、そして仁王門へ

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開山堂を出て下ってきて、振り返ったところです。
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右手の奥まった所に道場入口の門がありますが、当然関係者以外は立入り禁止です。
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道場への通路の向こうには、愛染堂があります。
愛染堂は、南北朝時代の八角小円堂で、宝塔内に愛染明王が安置されています。
国の重要文化財に指定されています。
元は万寿寺にあったのですが、
昭和9年の室戸台風で倒壊したため、現在地に移されました。


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愛染堂の横に、石の柵で囲われてひっそりと建つ五輪塔。
梵字など何も彫られていません。
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五輪塔の後ろ、塀に囲まれて九条家の墓地があり、
多くの宝篋印塔が建っていました。
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通路まで戻り、通天橋を撮影しました。
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洗玉澗(せんぎょくかん)を下ります。
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下ったところから臥雲橋(がうんきょう)を撮影しました。
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通路を進むと経蔵を側面から見ることができます。
経蔵は江戸時代の寛政5年(1793)に建立されました。
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通天橋を出て、最勝金剛院へ向かいます。
最勝金剛院へは、東福寺の境内を通らなければ行けないし、最勝金剛院から先への道もありません。
東福寺境内から最勝金剛院への入口には、「月輪殿下兼実公本墓」の石標が建ち、その背後に紅梅が満開の花を咲かせていました。
九条兼実(よしみち)は、九条家を興しましたが、息子・妻を亡くし、鎌倉時代の建仁2年(1202)に出家しました。
出家後は「月輪殿」と称され、没後は法性寺に葬られました。
最勝金剛院の奥に「八角堂」があり、九条兼実の御廟です。
イメージ 11参道を進むと、山門である日下門に出ます。
最勝金剛院は、平安時代の久安4年(1148)藤原忠通の妻、藤原宗子の発願により法性寺の域内東方の地に建立されました。
久寿2年(1155)、宗子が亡くなり最勝金剛院は、娘の皇嘉門院(こうかもんいん)に引き継がれました。
皇嘉門院は、九条兼実の後見を受け、
兼実の嫡男、良通と親子関係を結び、
最勝金剛院は九条良通に相続されました。
建長2年(1250)最勝金剛院は、東福寺の子院となったとみられていますが、室町時代になって衰退しました。
現在の最勝金剛院は、昭和46年に再建されました。
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九条兼実の御廟である八角堂
八角堂の奥には、九条家11人の墓があります。
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八角堂は木立に囲まれています。
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八角堂の横に建つ十三重の石塔
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最勝金剛院を出て、仁王門へ向かいます。
仁王門の手前に東福寺塔頭の退耕庵があります。






イメージ 16山門の前には、「戊辰役殉難士菩提所」の石柱が建っていて、東福寺に長州藩の陣が置かれた縁で、退耕庵は鳥羽・伏見の戦いの戦死者の菩提寺となりました。















イメージ 17退耕庵は、室町時代の貞和2年(1346)に創建されましたが、応仁の乱で一時荒廃しました。
慶長年間(1596年 - 1615年)に安国寺恵瓊(えけい)によって再興され、
客殿が新しく建設されました。
豊臣秀吉没後、客殿の中にある茶室
「作夢軒(さくむけん)」で、恵瓊、
石田三成、宇喜多秀家らが関が原の戦いの謀議を行ったと伝わります。
(画像は地蔵堂で、客殿の画像はありません)
境内には地蔵堂があり、小野小町作と伝わる、良縁を結び、悪縁を絶つとされる「玉章(たまずさ)地蔵」が祀られています。
世界三大美女といわれる小野小町には、多くの艶書が送られてきました。
老いた小町は、自ら像を立て、これらを
イメージ 18像内に納めたとされています。
堂内には、同じく小町作である乾漆の「小町百歳像」も安置されています。
地蔵堂の内部は自由に拝観できますが、撮影禁止で、庭園などは予約すれば拝観できるようです。
小町寺に関しては、いろいろな説がありますが、江戸時代に東山の渋谷街道にあった小町寺が廃寺となり、本尊であった玉章地蔵や烏石葛辰(うせきかつしん)筆の扁額「小町寺」や小町像、井筒などが退耕庵に遷されました。
イメージ 19地蔵堂の横には、「小野小町百歳井」があります。
小町は、井戸に映った自らの姿を見て、「おもかげの かわらでとしの つもれかし たとえいのちに かぎりあるとも」と詠んだ
と伝えられています。




イメージ 20仁王門は、南北朝時代の明徳2年(1391)に三聖寺の仁王門として建立され、
国の重要文化財に指定されています。
三聖寺廃寺後は万寿寺仁王門となり、
今は東福寺仁王門となりましたが、
仁王様はお留守でした。
三間一戸の八脚門。




イメージ 21仁王門の先に北大門がありますが、この内側の左手に三聖寺がありました。
現在の東福寺の配置からすると、仁王門の不思議だった位置が納得できます。
北大門は、桃山時代の四脚門で、
京都府指定文化財です。
東福寺は方丈など、今回拝観できなかった所が残されていますが、季節を改めて訪れたいと思います。









背割堤の桜-3

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3月30日午後1時頃の背割堤は、晴れて気温も高く、風が心地良く感じます。
明日から八幡市の「桜まつり」が開催されますので、今日は準備が忙しく行われていました。
背割堤に併設されている無料駐車場は、今日から既に使えなくなっていました。
自転車やバイクは使えそうです。
桜まつり期間中は、花見船も運航されるようですが、この乗船料では歩いた方が楽しめそうです。
また、期間中はたこやきやアイスクリームなどの露店も出るようですが、明日の天気予報は雨が降ったり止んだりで気温も6度位下がりそうです。
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桜まつり」に合わすかのように、桜はほぼ満開ですが、画像の上流に向かって右側は、まだ少ししか花を付けていない木もありますので、当分は桜が楽しめそうです。
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上流むかって左側は、満開で花びらが風に舞っているところもあります。
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背割堤の先端でも、何かの準備が行われています。
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背割堤からは、男山ケーブルを正面に見ることができます。
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白の21番の木にはからすが巣を作っていました。

離宮八幡宮

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イメージ 1JR山崎駅です。









イメージ 2駅前から直ぐの所に妙喜庵があります。
妙喜庵は臨済宗東福寺派の末寺で、
室町時代の明応年間(1492~1501)に
創建されました。
重要文化財に指定されている書院は、
室町時代の文明年間(1469~1487)に建立された書院造の建造物で、山崎宗鑑の旧居とも言われています。
書院の南側に接して茶室「待庵」が建てられています。
「待庵」は、千利休作とされ、
にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型であり数奇屋建築の原型です。
日本最古の茶室建造物で、国宝に指定されています。
拝観には予約が必要です。
イメージ 3妙喜庵から少し駅の方へと戻ると、離宮八幡宮があります。
駅に近い東門は、兵火を免れた江戸時代のもので、大山崎町指定文化財になっています。






イメージ 4門を入ると、「河陽 祇園しだれ桜」が迎えてくれました。

離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたる神社で、八幡大神を祭神とします。
平安時代の貞観元年(859)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することにし、大安寺の僧の行教を九州に使わされました。

イメージ 5そこで、清和天皇の勅命により国家鎮護のため「石清水八幡宮」が建立されました。
その後、石清水八幡宮は男山に移され、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮としました。




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境内には、「河陽宮故址」の碑が建立されています。
















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離宮八幡宮は日本における製油発祥の地であり、境内には「本邦製油発祥地」の碑が建立されています。
貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し
荏胡麻(えごま)油の製造が始まりました。
その後、鎌倉時代に、「大山崎油座」が結成され、荏胡麻油の販売権を独占して、諸国の油商人は離宮八幡宮の許状無しには油を扱うことはできませんでした。






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日本で唯一の「油の神様」として、
現在でも油脂業者との関係が深く、
全国油脂販売業者共通の店頭標識が制定され、境内にも建てられています。





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境内には、油祖像が建立されています。
山崎の油売りは山崎石清水八幡宮の神人(じにん)として八幡宮の燈油を納め、八幡宮の例祭である日使頭祭(ひのとさい)の頭役、御綱引き(淀川を渡る船を引く)といった奉仕をしました。
神人とは、寺社の雑役、力仕事をする人のことです。
日使頭祭とは、平安時代より行われている祭礼で、毎年4月3日には天皇の勅使が離宮八幡宮を参り、その後淀川を渡って石清水八幡宮を参拝しました。
かつて淀川に50隻もの船が出るなど、
京を代表する大変華やかなお祭りとして知られていました。
今も規模は縮小されたものの、離宮八幡宮の重要な祭事として行われています。
一方で、神人は八幡宮の保護を受け油座を結成し、関所の通行料や津(港)の使用料免除などの特権、製油独占権を得ました。

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惣門を入って直ぐの所に、神領境標石が2基保存されています。
字体からおそらく室町時代に立てられたと考えられ、明治維新前の古地図では西国街道の神領出入り口に、それぞれ2基建てられていました。
当時の離宮八幡宮は東の日光東照宮に対して、「西の日光」と語られるほど、広大な神領と多くの社殿を持つ八幡宮となりました。
イメージ 11その神領は、水瀬川から円明寺に及んだといいます。
江戸時代になると、油の原料が荏胡麻から菜種に変わり、山崎の油生産は衰退するようになります。
更に幕末「禁門の変」時に長州藩屯所が山崎にあったため、攻撃を受けて多くの商家とともに焼失しました。
廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、明治9年(1876)には境内北側を国策による鉄道事業の用地となり、境内はさらに縮小して元の敷地の1/3以下になりました。
(画像は、名水百選「離宮の水」の手水舎)
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嵯峨天皇の河陽宮のあった頃には山崎橋がかかり河岸に相応寺、橋の上流には山崎津(港)がありました。
境内にある「かしき石」はその相応寺の塔の心礎であるといわれています。
(画像は離宮八幡宮のHPのものです)




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境内に建つ「神馬」









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明治12年(1879)になって社殿が再興され、昭和4年に改築され現在に至っています。
(画像は拝殿)






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本殿には、応神天皇(おおじんてんのう)、左殿に酒解大神(さかとけのおおかみ)、別称大山祇神(おおやまつみしん)、
右殿に比売三神(ひめさんしん)が祀られています。




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本殿の右側には、若宮社が祀られています。








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本殿の横にある井戸が石清水です。
行教が霊光を見て、この地を掘ると岩間から清水がわき出したので「石清水」の八幡宮を創建しました。
国宝に指定された、現在の石清水八幡宮の原点がこの井戸だと思われます。




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井戸の横にある手水鉢は、江戸時代初期の寛永11年に、勝竜寺城主であった永井日向守大江直清が幕府の命令で造栄奉行として、離宮八幡宮の造替の指揮に当たり、奉献したものです。
元治元年の兵火で焼けたため大きな騰裂があって現在は使われていません。
表面には「寛永十一年十二月 永井日向守大江直清」の署名が残っています。

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境内の奥にある菅原道真腰掛け石は、
道真公が九州へ配流された道中、
西国街道脇の石に座して休息されたことに由来しています。






イメージ 20本殿西側のL字型に立ち並ぶ、摂・末社
に囲まれるように、16個の礎石が4列に並んでいます。
かって建立されていた宝塔の礎石であったことが記録に残されています。

これから、サントリーウィスキー山崎
蒸溜所へ向かいます。
続く












東一口の桜

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イメージ 14月2日午後2時の東一口は、よく晴れていますが、やや強い風が吹いています。
風に冷たさは無く、20度を超える気温では、心地良さを感じます。
さて、「一口」は何て読むのでしょうか?
正解は「いもあらい」です。
一口の由来は、昔、久御山町の「一口」を含む地区は、南北を木津川と宇治川に挟まれ、東は巨椋池でふさがれ、西側に


イメージ 2一か所しか入口がないため、「一口=いちくち or ひとくち」になったと言われています。
入口から入るのは、人だけではなく、疫病も入ってきます。
そこで、この「一口」に小野篁(802~853年)にまつわる縁起を持つ「一口稲荷神社」を祀って疫病を防ぐ、「疫病払い=忌(いみ)を祓う=いみはらい」が語源になったと言われています。
また、別の説では、「疱瘡=天然痘」を「いも」といい、「いもを祓い清める」ことから「いもあらい」になったとも言われています。

東一口前川堤の桜は、「京都の自然二百選」に選定され、4月3日から「桜のつどい」が開催されます。








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前川橋を中心に東は国道1号線、
西は宇治川堤防の手前まで、夜間は提灯に点灯されます。






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前川橋から下流側、上流に向かって左側の桜並木です。
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前川橋から上流側、上流に向かって左側の桜並木です。
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平成20年の護岸工事に伴い、上流に向かって右側の桜が伐採され、橋から上流も下流も若木が植樹されましたので、左側に比べると見劣りしてしまいます。
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桜のトンネルのような道路ですが、たまに自動車も通りますので注意も必要です。
個人的には背割堤より桜が低く、密度が濃いので見ごたえがあります。

サントリー山崎蒸溜所

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離宮八幡宮の続きです。
4月2日(土曜日)は、満開の桜の元でかわいい野点と琴の演奏が行われていました。
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前回、撮影をミスした「かしき石」です。
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大燈籠
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「石清水八幡宮」の名が残る燈籠
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中門
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惣門も江戸時代のもので、兵火を免れ大山崎町指定文化財になっています。
惣門前の通りは、西国街道で京都から下関を結んでいます。
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西国街道は、離宮八幡宮でクランク状に曲がり、京都府と大阪府の境になっています。







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その境、大阪府島本町側に関大明神社(せきだいみょうじんじゃ)があります。
この地は古くは、交通の要衝として関所「山崎関」が設置されたことから、この「関」が関大明神社の名前の由来となりました。
関所は平安時代に廃止され、「関戸院」として貴族や官人の宿泊施設に使われたといいます。
その後の変遷は不明で、関大明神社の創建も定かではありませんが、現在の関大明神社は、関所の跡地に建立されています。
本殿は室町時代の建立と推定されています。
イメージ 11江戸時代の宝暦3年(1753)に、酒解神社から三基の神輿の内一基を譲り受け、神輿庫に保管されています。








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手水舎









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関大明神社の横を流れる小さな川が府境になっているとのことです。
















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西国街道を更に南に進むと、JRの踏切があり、踏切を渡った先にサントリーの山崎蒸溜所があります。
工場見学には予約が必要で、同社HPから行うことができます。
見学コースには、無料と有料(千円)があり、有料のコースは工場見学と「山崎」及び山崎構成原酒のテイスティングが付いています。
当日の有料コースには、約30名が参加しましたが、な~んと半数以上が外国の方々でした。
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工場見学は、まずエレベーターで二階に上がります。
最初に訪れるのが、「仕込み(糖化)」と呼ばれる行程です。






イメージ 16原料である二条大麦と山崎の水を温め、麦芽中の酵素の働きで、でんぷんを糖分に変えます。
これをろ過して、発酵にむかう為の麦汁がつくられます。
仕込みに使われている釜は、一階から二階に達する大きなものです。












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仕込みの向かいの「発酵」の行程は、
ガラスで仕切られた中で行われています。
ここでは、仕込みで作った麦汁をアルコール分約7%の発酵液に変えます。
発酵中の麦汁に酵母を加えると、酵母は麦汁中の糖分を分解し、アルコールと炭酸ガスに変え、ウイスキー特有の香味成分がつくられます。
酵母の種類や発酵条件によって香りなどに特長がでます。
発酵は約60時間かけて行われ、これでできた発酵液をもろみと呼び、この段階でのアルコール分は約7%です。




イメージ 19次の部屋では、蒸溜が行われています。
ここでは、発酵の終わったもろみを銅製のポットスチルにいれて、アルコール濃度を高めます。
通路を挟んで、銅製のポットスチルと呼ばれる単式蒸溜器が左右に並んでいます。
向かって左側では、一回目を初溜が行われています。
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右側では二回目の再溜が行われ、アルコール濃度は65~70%に高められます。










イメージ 20ポットスチルは、形と大きさ、そして蒸溜方法・
加熱方式を違え、様々なタイプのモルト原酒がつくられています。
この生まれたばかりのウイスキーはニューポットと呼ばれています。










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貯蔵庫は、別の建物でずら~っと並んだ樽の多さに圧倒されます。








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蒸溜で出来たニューポットを樽の中で
長期間じっくり寝かせるのですが、
樽には樽材や大きさに種類があります。
樽の内面は、焼かれているのですが、
その焼き方にも違いがあり、更に気温や湿度などによって熟成の度合いが微妙に変化します。



イメージ 23透明だったニューポットが、年月を経るごとに、琥珀色が濃くなり、密度が凝縮されるかのように樽の中の量が減っていきます。
これは、「天使の取り分」と呼ばれるそうです。
長期間の熟成では、樽の蓋が膨らんだりして、原酒の力強さが感じられます。



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貯蔵庫を出たところに庭園があり、ここからテイスティングが行われる部屋へと向かいます。







イメージ 25テイスティングでは、市販の「山崎」、ホワイトオーク材の樽とワイン樽で熟成された原酒の色や香り、そして味わいの違いを感じます。
ホワイトオーク材の樽とワイン樽では、ワイン樽の方が色が濃く、香りはホワイトオーク材の樽ではフルーティーで、
ワイン樽は若干の酸味を感じました。
原酒なのでアルコール濃度は65%以上あり、同量の水を加えて味を確かめます。

イメージ 26そして、山崎の天然水でつくられたソーダ水と「山崎」でハイボールをつくり味わいました。
左端のソーダ水の瓶がその時のものです。
売店でお土産を買って、工場見学を終了しました。
続く

椎尾神社~宝積寺

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イメージ 1サントリー山崎蒸溜所の中央の道路は公道で、その突き当たりに椎尾神社(しいおじんじゃ)があります。
サントリーの工場見学が昼頃に終わりましたので、椎尾神社にお参りしました。
椎尾神社が現存す所は、かっては慈悲尾谷と呼ばれ、西観音寺がありました。
西観音寺は、奈良時代の天平18年(746)に聖武天皇の勅命を受けた行基により開創されました。

イメージ 2江戸時代の初期には、僧坊が12もあるほど勢いがあったのですが、明治元年の廃仏毀釈によって西観音寺は廃寺となりました。
椎尾神社は、西観音寺より北東に移動し、現在地に再建されました。

西観音寺の本堂は観音寺へ、閻魔堂は大念寺へ、閻魔大王と眷属(けんぞく)の五尊像は宝積寺に遷されました。

イメージ 3神楽殿










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本殿









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本殿









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本殿に供えられていたサントリーの樽。
どのような原酒になるのでしょうか?
















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椎尾神社から西国街道に戻り、JR山崎駅前を通り過ぎると踏み切りがあるので、それを渡ると天王山の登山口です。
登山道に入らず、線路沿いの京都駅方向のすぐ先、道路脇に山崎院跡の石碑が建っています。
ここからは、日本でも最古級の壁画断片などが出土しました。
山崎院は、奈良時代の天平3年(731)に
行基によって創建されました。
神亀2年(725)に行基は山崎橋を架橋し、橋の維持管理と、伝教の道場として、山崎院を建立しました。





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石碑が建つその脇を特急列車が走り抜けて行きます。








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登山口まで戻ります。
登山口には、「天王山登り口」の石標と、山崎宗鑑の冷泉庵跡があり、句碑が建てられています。
「うつききて ねぶとに鳴や 郭公(ほととぎす)」
「うつき」とは卯月のことでしょうか?



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句碑から少し進んで、急な石段を上った所に大念寺があります。
















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室町時代後期の弘治元年(1555)に創建されましたが、幕末の禁門の変に長州藩の一部が大念寺に布陣していたことで巻き込まれて焼失しましたが、その後再建され、現在の本堂は明治12年(1879)に西観音寺の閻魔堂を移築して再建されました。



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本堂の扁額

本尊の「阿弥陀如来立像」
(高さ80cm)は、鎌倉時代の寛元1年
(1243)に、浄土宗西山派の派祖・証空
(1177-1247)が臨終の際の念持物として造立されましたが、その後各所を転々として明治になって大念寺に遷されました。
円仁が自刻したとされる真如堂の本尊を写したもので、拝観には予約が必要です。






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大念寺の境内から横に進めば、石段を下らずに天王山への登山道に戻れ、先に進むと宝積寺(ほうしゃくじ)に出られます。
仁王門は、鎌倉時代に建立されたと思われます。
宝積寺は、鎌倉時代の貞永1年(1232)に焼失した記録がありますので、その翌年に再建されたと思われます。
江戸時代初期の慶長10年頃(1605)豊臣
イメージ 15家によって改築された三間一戸八脚門で、京都府指定文化財です。

二躯の木造金剛力士立像は、鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されています。

こちらの仁王像は、千手観音の眷属(けんぞく)である二十八部衆の仁王像で、開口の阿形(あぎょう)像は、「那羅延堅固王(ならえんけんごおう)」像です。















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口を結んだ吽形(うんぎょう)像は
「密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)」像です。

金網が張ってないので、迫力をより強く感じ取れます。





















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仁王門をくぐった先に、コンクリート造りのまだ新しそうな鐘楼があります。
説明板には「平成十年 二月吉日 良縁成就 待宵の鐘 室町時代 宝寺」と記されています。





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待宵の鐘

















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鐘楼の先に、やはりコンクリート造りの不動堂がありますが、ガラス戸は施錠されています。







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ガラス戸越しに中を覗いて見ると、
不動明王像が祀られていました。
















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参道の斜め向かい側に建つ三重塔は、「豊臣秀吉 一夜之塔」の駒札が掲げられ、合戦の勝利祝いに、秀吉が一夜で建立したという逸話が残っています。
(不可能だと思いますが...)

山崎の合戦では、豊臣秀吉が宝積寺に本陣を置き、合戦後には天王山の山頂に山崎城を築きました。

三重塔は合戦後、桃山時代の 天正12年(1584)に建立されたもので本瓦葺、高さ19.5mで、国の重要文化財に指定されています。




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三重塔の前には、「千年桜」が植えられていますが、サントリーの工場見学の際に訪れた時にはまだ開花前で、改めて訪れた時は散初めになっていました。














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三重塔の横には墓地があり、「殉国 十七士墓」の墓石が建っています。
禁門の変で、戦いに敗れ天王山中で自刃した隊長真木和泉守以下十七名は、当初この宝積寺の三重塔前に葬られました。
墓参者の多さに幕府は怒り、墓を暴いて遺骸を竹薮に棄て、寺領は没収され、3寺が焼かれました。
江戸幕府が倒れた明治元年(1868)に十七烈士の屍は、天王山の山中へと移されました。







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本堂
宝積寺は神亀年間(724-729)に、
聖武天皇の勅命を受けた行基により開創されました。
第43代・聖武天皇の夢枕に立った竜神がもたらしたとされる寺宝の「打出」と「小槌」の伝承により、宝寺とも呼ばれました。
平安時代の天安2年(858)に、第55代・文徳天皇が御物を奉納したことから
イメージ 27「宝積寺」と改名されました。

本堂は、鎌倉時代に建立されたと思われます。
仁王門と同じく慶長10年頃(1605)、
豊臣家によって改築された、京都府指定文化財です。
本尊の木造「十一面観世音菩薩立像」は、焼失した翌年の貞永2年(1233)に造立され、国の重要文化財に指定されています。
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本堂には、「天王山」の扁額が掛かっています。
















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本堂脇には行基坐像が安置されています。
















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本堂前にが置かれている「秀吉 出世石」は、秀吉が座して天下統一を志したと伝わります。










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本堂と小槌宮の間には、「九重石塔」が建っていますが、鎌倉時代の仁治2年
(1241)の銘文があり、大山崎町文化財に指定されています。
この銘文は、四層め軸部に記されているもので、京都府下では2番目に古いものです。
塔は、聖武天皇の供養のために建てられ、当初は五重だったのが、いつの頃か九重になりました。








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サントリーの工場見学の際に訪れた時には、傾いていたのを補修工事中でしたが、工事が完成し、まっすぐに建っています。















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小槌宮は、大黒天が祀られ、「打出」と「小槌」が奉納されています。
小槌には伝承があり、聖武天皇がまだ皇子であった時に、竜神が夢枕に立ち、小槌を出して「左の掌を打てば、計り知れない果報が授かる」と言って天へ舞い上がって行きました。
皇子が目を覚ますと、枕元に小槌が置かれていて、それで左の掌を打ち、即位することが叶いました。
イメージ 34竜神を信じた聖武天皇は恵方である山崎の地に、小槌を奉納し宝積寺を建立しました。

大黒天は、平成元年から始まった真言宗各派六寺による大黒天の霊場の1番です。

小槌宮の扁額

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閻魔堂の前にある手水舎は、亀から浄水が出ています。









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閻魔堂は、コンクリート造りで、西観音寺から遷された閻魔大王と眷属(けんぞく)の五尊像が祀られています。
閻魔の法廷で書記を務める冥界の役人像が並べて安置され、地獄の法廷が再現されています。
閻魔堂は有料(400円)で拝観できます。



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閻魔堂前のしだれ桜も散り始めています。












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放生池には島が設けられて弁才天が祀られています。








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弁財天へと渡る橋の袂には水掛地蔵尊が祀られています。
















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宝積寺は、明治の廃仏毀釈によって寂れてしまいました。
コンクリート製の新しいお堂が多いのも、そのせいかと思われます。
かっては寺領だった天王山も分割されてしまいました。
天王山への登山路が宝積寺の境内を通り抜けるのは、その名残かもしれません。

観音寺へと向かいます。続く





 


天王山

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宝積寺の直ぐ先に、アサヒビール美術館への下り道がありますが、天王山への登山道を進みます。
有害鳥獣捕獲の注意書きが張られています。
変な所に迷い込んで、猪や鹿と間違われないように注意しなければなりません。












イメージ 2横には猿の目撃情報が...
野生の猿とは出会いたくありません。



















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宝積寺から10分くらい歩くと、
青木葉谷展望広場があり、
「秀吉の道」の陶版画が建てられています。
陶版画の詳細はこちら











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展望台から見ると、手前の桂川が淀川に合流しているのがよく見えます。








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展望台から5分くらい進んだ先で、
観音寺からの登山道と合流し、
その先2~3分で旗立松展望台に到着します。






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展望台には、山崎の合戦で羽柴軍と
明智軍が布陣した図と説明文が記されています。












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以前、石清水八幡宮の展望台から天王山を見たので、こちらの展望台から男山を見てみました。




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比叡山方向に視線を移すと、
名神高速道路が天王山のトンネルから出てきて、その先で京都縦貫道が立体交差しています。
立体交差している京都縦貫道の高架下に造られた公園に、山崎合戦古戦場跡の碑が建っています。
公園の前を流れる小泉川を挟んで、
両軍が布陣しました。
その後方、直線距離で1km足らずの所、サントリービール工場の裏辺りに明智軍の本陣が置かれました。


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展望台の袂には「旗立松」が立っていますが、目立たない小さな松です。
羽柴秀吉が士気を高めるために軍旗を掲げたとされる松は、明治の中頃に朽ちてしまい、その後松を植えても枯れてしまい、現在の松は昭和63年に植えられた五代目になります。











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旗立松の傍らには「山崎合戦之地」の石碑が建っています。
先ほどの展望台の図によりますと、
天王山山中を進撃してきた松田・並河両隊と羽柴・黒田軍が対峙したことが窺えますが、天王山の山中では、交戦は無かったようです。











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展望台の向かいには休憩所があり、満開の桜はそんな歴史を忘れさてくれるようです。
ここでお断り。
実は、サントリーの工場見学の際は、
観音寺からの登山道と合流した所で、
登山道を清掃していた方と出会って通行禁止となっていた観音寺への登山道が下れることを確認して、観音寺の方へ下ってしまったのです。
ですから、観音寺からの登山道と合流したから先は、その後改めて訪れた時の記録になり、桜も満開になっていたのです。
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満開の桜の先に酒解(さかとけ)神社の鳥居が建っています。








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鳥居の先に「秀吉の道」の陶版画が2枚建てられています。
1枚目は、「頼みの諸将来たらず-明智光秀の誤算」

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2枚目は「天下分け目の天王山-勝負は川沿いで決まった」のタイトルが付けられています。


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旗立松から100m余りで十七烈士の墓に着きます。
宝積寺からは700mも離れていました。
毎年、10月21日には「天王山十七烈士招魂祭」が行われ、和泉守が自害の際に詠んだとされる和歌や漢詩が吟詠されるそうです。



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十七烈士の墓から少し進むと、酒解神社の末社である厳島社の小さな祠があります。







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厳島社の先には、天照大神社月讀社(つきよみしゃ)・蛭子社(ひるこしゃ)が祀られた三社宮があります。







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三社宮の先に陶版画「明智光秀の最後-
古い常識人の敗北」があります。












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陶版画の直ぐ先、酒解神社境内の鳥居は土台部分だけが残されていて、何やら文字が彫られています。







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苔むしていて判読するのは困難な状況です。
















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傍らには、壊れた鳥居の断片が置かれていました。






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酒解神社は、正式には自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)と舌を噛みそうな名称です。
本殿の南側に建つ板倉造りの神輿庫は、鎌倉時代後期に創建された、切妻造り板倉式の建築物で、国の重要文化財に指定されています。
板倉式とは、柱に溝を彫り、この神輿庫では14cmの厚板を落とし込む工法で、鎌倉時代以降は次第に土蔵に代わっていったため、酒解神社の神輿庫は現存する最古のものです。

イメージ 23自玉手祭来酒解神社創建の由緒は不詳ですが、養老元年(717)建立の棟札があることから奈良時代の創建と推定されています。
旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていました。
その後、自玉手祭來酒解神社の祭祀は
途絶え、明治時代まで所在がわからなくなっていました。
現在の自玉手祭来酒解神社は、

イメージ 24天王山の頂上近くに中世ごろよりあった天神八王子神(牛頭天王=こずてんのう)を祀る「山崎天王社」でした。
天王山は、元は山崎山と呼ばれていましたが、当社にちなんで天王山と呼ばれるようになりました。
山崎天王社の社殿は、江戸時代の文化10年(1813)に大部分を焼失し、文政3年(1820)に再建されました。
明治10年6月、山崎天王社が式内・自玉手祭来酒解神社であるとされ、自玉手祭来酒解神社に改称しました。
現在の祭神・大山祇神(おおやまづみのかみ)はそのときに定められました。
国の有形文化財に指定された現在の本殿は、雨漏りがするのでしょうか?
前面がブルーシートで覆われています。
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本殿前の拝殿?は、鉄骨で補強されています。
















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本殿の横には、宮主社の小さな祠があり、足名稚命(あしなづちのかみ)手名稚命(てなづちのかみ)の夫婦神が祀られています。














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本殿を廻り込む様に進むと、後見社があり大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られています。







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酒解神社から200m先に、山頂と小倉神社への三叉路があり、山頂まで残り100mの急坂を上ります。







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標高270m、天王山の山頂です。
宝積寺を出てから約50分で到着しました。















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最後の陶版画「秀吉の天下人への道はここから始まった」が建てられています。
天正10年、秀吉はこの山頂に山崎城を築きましたが、それ以前南北朝時代の1338年に宝寺城の記述が残っています。
天王山が以前から要衝の地であったことが裏付けられます。






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山頂南側の平らに造成された山崎城の跡地








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跡地の奥には、山崎城の井戸跡が残されています。








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山頂から先ほどの三叉路まで下ってきて、小倉神社の方へ向かった所に石仏が祀られています。
土の中や、落ち葉の下から見つかった無縁仏を集めて祀られた納集仏です。





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小倉神社の方へ進んだ先に、
「龍神池30m」の道標があり、
龍神池の方へ下ります。















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龍神池は、池というよりは水溜りのような状態でした。
現、長岡京市の円明寺村は、水利が悪く水に苦しんでいましたが、それを見かねた龍神が池に舞い降りたという伝承があります。
竜王神社も建てられ、村の守護神として信仰を集めましたが、江戸末期に小倉神社に移されました。
雨乞いの風習は、昭和10年頃まで続いたそうです。
ここから、登山道に戻り観音寺のへ下ります。
続く








「平成28年熊本地震」は、京都で地震を起こす引き金となるか?

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文禄5年(慶長1年・1596年)9月5日、マグニチュード7クラスの慶長伏見大地震が発生し、伏見城の天守閣や石垣が損壊しました。
この地震は、六甲・淡路島断層帯での地震と考えられています。
平成7年(1995)1月17日午前5時46分に発生した「兵庫県南部地震」は、この断層帯の一部分で、淡路島にある野島断層が震源となりました。
この地震で、我が家では食器棚が壁から10cmほど動き、食器が何個か割れてしまいました。
元に戻そうと押してみたのですがビクともしませんでしたので、未だに壁から離れたままになっています。

慶長伏見大地震の前、9月1にマグニチュード7クラスの慶長伊予地震が発生しました。
この地震は、四国を走る中央構造線断層帯が震源と考えられています。

その3日後、9月4日にマグニチュード7.0〜7.8クラスの慶長豊後地震(大分地震)が発生し、地震によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされています。
大分県を走る別府・万年山断層帯(べっぷ・はねやま だんそうたい)での正断層型地震と考えられています。
別府・万年山断層帯は、別府-島原地溝帯の東側に沿うように存在しています。
今回の「平成28年熊本地震」は、布田川断層帯(ふたがわだんそうたい)・日奈久断層帯(ひなぐだんそうたい)が震源となりました。
この断層帯は、別府-島原地溝帯の南側に当たります。

4月16日午前7時11分頃、大分県中部を震源とするマグニチュード5.3の地震が発生しました。
この地震は、別府・万年山断層帯(べっぷ・はねやま だんそうたい)が誘発されて動いたと考えられています。

4月18日午後6時14分頃奈良県でマグニチュード3.1の地震が発生しました。
震源は、中央構造線断層帯上と推定されています。
熊本地震に誘発されて動いたのではないかと、疑ってしまいます。

明治時代に設置された水準点を利用して九州各地の応力の方向と歪みの量を調べると、別府から久住・阿蘇をへて島原にいたる地帯は、南北に伸張していて、この地帯が別府-島原地溝帯と呼ばれています。
九州は、別府-島原地溝帯を境に今も南北に引き裂かれ続けています。

慶長伏見大地震後の慶長10年(1605)に マグニチュード8クラスの慶長地震が発生しています。
これは、関東から九州までの太平洋岸に津波が発生し、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害が出ましたが、津波以外の被害はほとんどありませんでした。
この地震は南海トラフで発生したとする説があります。
内陸の断層帯の地震は、千年単位でエネルギーが蓄積されるといわれています。
慶長伏見大地震からは420年しか経過していませんので、同じような地震が京都に発生するとは考えにくいのですが、南海トラフは要注意だと思われます。

観音寺

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イメージ 1観音寺-本堂
観音寺は、山号を妙音山と称し、通称「山崎聖天」と呼ばれています。
寺伝によると、平安時代の昌泰2年(899)に寛平法皇(宇多天皇)の御願寺として創建されたと伝えられています。
「妙音山」という山号は、地中から現れた薬師如来の石像に「妙音山寛平法皇剏建地(そうけんち)」イメージ 2と彫ってあったことに由来しています。(剏建地?)
創建されてから後は、徐々に衰退し、江戸時代初期になって摂津勝尾寺の僧・木食以空(もくじきいくう)によって再興されました。
木食とは、肉類,五穀を食べず、木の実や草などを食料として修行することで、その修行を続ける高僧が木食上人です。
木食以空は、この地にあった聖徳太子の作と伝えられる十一面千手観世音菩薩を本尊として中興開山しました。
その後、歓喜天(かんぎてん)を鎮守として祀り、住友家、鴻池家、三井家をはじめ、広く商人から信仰されるようになり、発展しました。
画像は歓喜天を祀る聖天堂
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しかし、禁門の変に巻き込まれ、事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外を残して焼失しました。
明治時代に入り観音寺は順次復興され、現在ある建物は西観音寺の本堂や、
聖天堂、鐘楼などを移して再建されたものです。




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梵鐘は桂昌院によって奉納され、
四方に梵字が刻まれています。













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光明殿は、仁和寺より移築されたもので、大正13年までは浴油堂(よくゆどう)と称され、浴油供が修されていました。
後水尾、明正、霊元、中御門天皇の位牌と東山天皇の坐像が祀られています。




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開基薬師堂は、山号由来の
開基薬師如来像が祀られています。
















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境内にある銅製の大塔楼は、江戸時代に住友家の寄進により建立されました。
阪神淡路大震災で一部損傷しましたが、住友家と住友グループによって修復されました。













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土蔵は、禁門の変で唯一焼け残りました。








4月10日、観音寺では「花まつり」が行われました。
当日は、少女による神楽や日本舞踊、そして壬生六斎念仏講中による壬生六斎が奉納されました。
壬生六斎は、平安時代に空也上人(くうやしょうにん)が念仏を広めるために行った踊念仏が始まりとされています。
「六斎」というのも元々は仏教用語で、毎月8日、14日、15日、23日、29日、末日は特に厳しく念仏のお勤めをしなければならないと
いう、「六斎日(ろくさいにち)」の考え方からきているとされます。
六斎念仏は、継承団体によって受け継がれています。
壬生六斎念仏講中は、かつて「壬生村(みぶむら)」と呼ばれ、現、京都市中京区壬生にある継承団体です。
幕末には新撰組が屯所を置いたことでも知られています。
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庫裏の前から急な石段を下ると仁王門に出ます。








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仁王門は昭和になってから建築されたそうです。








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口を結んだ吽形(うんぎょう)像

















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開口の阿形(あぎょう)像























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仁王門から右方向に進むと車道に出て、こちらにも入口があり、ここを上ると薬師堂の横に出られます。















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入口の先には稲荷大明神の社があります。








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稲荷社の先で、天王山への登山道と合流し、ここを下った右側に瓦窯跡があります。







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大山崎瓦窯跡は、平成16年の発掘調査で発見され、国の史跡に指定されました。
平安京造営やその後の修理の際に瓦を
供給していた国営の瓦窯だったと推定されています。
ここから阪急・JRの線路を挟んで下った所に山崎津跡があり、そこから舟で
平安京まで瓦が運ばれたのでしょう。


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今は石碑が建つだけで、何も無い空き地ですが、昔は上図ような光景が広がっていたのでしょう。















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瓦窯跡に隣接して桜の広場公園があります。








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桜の広場公園の桜

















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公園の先に観音寺二の鳥居があります。
聖天堂は天皇の命令により神社造で、
お寺でありながら鳥居があります。







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二の鳥居には聖天宮の扁額が掛かっています。
















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石段を下り、阪急とJRの線路をくぐると一の鳥居があります。










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「観音寺」の扁額が掛かっています。

















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西国街道を横切って突き当りを右に曲がるとマンションが見えますが、その玄関に山崎津跡の説明板が立てられています。
瓦窯跡の真下くらいの位置に当たり、
昭和63年にマンション建設に先立つ発掘調査で、船着場の遺構が見つかりました。
山崎津は延暦3年(784)、長岡京造営に伴い設置されたと考えられています。
平安京造営の際は、先ほどの国営の瓦窯が建設され、この港から舟出しされました。

嵯峨天皇の河陽宮(かやのみや)のあった頃には山崎橋がかかり河岸に相応寺、橋の上流には山崎津(港)がありました。
嵯峨天皇は平安初期の52代天皇で在位期間は809~823年です。
紀貫之は、承平5年(935)に土佐守の任を終え、舟で都への帰路、山崎津に着いたときのことが「土佐日記」に記されています。
「やまざきのほしみゅ。うれしきことかぎりなし。ここに、相応寺のほとりに、しばしふねをとどめて、とかくさだむることあり。」
山崎橋には触れられていません。
もう、この頃には橋は流されて無かったのかもしれません。
西国街道まで戻り、円明教寺へ向かいます。
続く





円明教寺~明智光秀本陣跡

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イメージ 1西国街道を京都方向に進むと、東の黒門跡がありますが、現在は道路の拡幅工事中で石敢当(いしがんとう、せっかんとう、せきがんとう)は、移動されています。
昔の大山崎集落は、離宮八幡宮の神領で、
15世紀にその集落の東と西の端にそれぞれ黒門が設けられました。
夜になると門は閉められ、集落を守っていました。
光秀軍は大山崎の東黒門の出口の先で秀吉軍を待ち受け、山崎合戦が始まったとの記録があります。
魔よけの石とされる石敢当は、悪鬼、邪気は曲がり角を曲がれず石敢当に当たって死ぬといわれています。
石敢当は、京都府には3基しか残されていません。
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東の黒門跡と思われる所で左折し、JRと阪急の線路の下をくぐった先がT字路になっていますので、右折して北上します。
JRの普通電車が通過しています。
大山崎町・町あるきマップによりますと天王山山麓の道です。









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御茶屋池・円明教寺の道標が建っている所で山手の方に左折します。
















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坂道を上って行くと、突き当たりに
円明教寺の山門があります。
山門は、二階が鐘楼となった重層構造ですが、梵鐘は第二次世界大戦時に、
金属の戦時供出されたため、
今は有りません。
円明教寺は、平安時代後期に天台宗の
寛済法師が円明寺を建立したと伝わります。

イメージ 5その後、京都政界の実力者であった
西園寺公経(きんつね)に譲られ、
別荘(円明寺山荘)の庭園の一部として整備されたのが「御茶屋池」と言われています。
円明寺は、鎌倉中期には西園寺公経の
娘婿である九条道家に譲られ、
池庭が更に整備され、道家の息子で
一条家始祖となる実経(さねつね)に譲られました。

イメージ 6室町時代の応仁・文明の乱(1467~1477)では、兵火を受け衰微してゆき、
江戸時代初期には薬師堂と呼ばれ、
堂のみを残して無住となりました。
円明教寺と呼ばれるようになったのは
近代になってからです。
本尊は、平安時代の薬師如来像で脇侍に日光・月光両菩薩像が祀られています。
平安時代の毘沙門天立像と鎌倉時代の
地蔵菩薩立像も安置されています。

イメージ 7御茶屋池は潅漑用として、水利組合によって管理され、往時を偲ぶことはできません。
唯一、綺麗な錦鯉が2匹、優雅に泳いでいるのが見え、救われたように感じました。
遠くに比叡山から東山連峰が一望できます。
昔は周囲に背の高い民家も無かったでしょうから、舟を浮かべて景色を楽しみ、優雅な時を過ごしていたのでしょう。
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上ってきた坂道を下り、天王山山麓の道を通り過ぎ、そのまま下って行くと、
JRの線路の下をくぐる高さ140cmのトンネルがあります。
正式名称は円妙寺橋梁(えんみょうじきょうりょう)といい、明治8年に完成した、土木学会の「日本の近代土木遺産」でBランクに指定されている貴重な土木遺産です。
大山崎町・町あるきマップでは、
「ねじりマンポ」と紹介されています。
マンポ、聞き慣れない言葉ですが、
鉄道の橋という意味だそうです。
田畑や水路、通路があった所に鉄道が敷設されたため、分断された水路・通路を補うために設置されました。
円明寺から下ってくると、石段を降りてトンネルをくぐります。
イメージ 9ねじりマンポをかがみながら通り抜けました。
次の画像のように、線路に対し通路は斜めに交差しているのですが、
レンガは直角に交差しているように積まれています。
道路側から見ると、アーチ部分のレンガがねじったように見えることから、
「ねじりマンポ」と呼ばれています。










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トンネルの先に橋が架かっています。
橋の名前は「まつたばし」といい、橋の袂には「子供を守る河原の如来さん」が祀られています。
この如来さんは、江戸時代の初め、
難産で母子共に命の危険にさらされていた時、家族や村人が「河原の大日如来」にお百度参りを行いました。
お参りを続けて3日後、無事に赤ちゃんは生まれたのですが、如来さんが消えていました。
昭和の初め、小泉川の改修工事で川底から如来さんが見つかり、橋の袂に祀られるようになったそうです。




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川の両岸には、満開の菜の花がそよ風に揺れています。
堤防には、菜の花の小径が続いています。






イメージ 13下を流れる川が小泉川で、小泉川を挟んで羽柴軍3万6千、明智軍1万5千が対峙し、天正10年(1582)6月13日午後4時30分に合戦の火蓋が切って落とされました。






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橋を渡った所にある公園に、
「山崎合戦古戦場」の碑が建てられています。















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この公園は奥に見える名神高速道路と
立体交差している京都縦貫道の下に造られました。
「天王山夢ほたる公園」という名称で、
付近にヒメボタルの生息地があります。





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公園から手前に見えるのが、大山崎中学校で、左奥に見えるのが、サントリービー工場です。
その工場の裏辺りに明智光秀の本陣が置かれました。
合戦は、多勢に無勢、3時間余りで決着し、本陣から、光秀は勝竜寺城へと逃れ、夜陰にまぎれて妻子が待つ坂本城へ落ち延びようとしたのですが道中、竹槍で刺されて自刃しました。


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公園内にある陸橋を大山崎中学校の方へ渡り、その先で左に曲がります。
保育園を過ぎた所で右に曲がるとT字路に突き当たり、そこに白山神社があります。





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白山大権現の扁額が掛かっています。
屋根が破れているようです。








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社は傾いています。
熊本地震ほどでなくても、やや強い地震で倒れそうに見えます。















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内部も荒れています。

















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白山神社を左折し、突き当りが明智光秀の本陣が置かれた跡です。
光秀の本陣は、境野一号墳と呼ばれる、四世紀後半、古墳時代前期後半に造営された前方後円墳上に築かれたと考えられています。
発掘調査で、空堀跡や火縄銃の鉄砲玉が出土しました。
古墳のある場所は、標高25.2mあり周囲より高くなっています。
今は住宅が立ち並んでいますが、当時は天王山や西国街道が見渡せたと想像されています。






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今は、古墳の周りはフェンスで囲われ立ち入ることはできません。
隙間から覗いて見ても、前方後円墳のような形状は見られず、空き地が広がっているだけでした。
サントリービールの工場を廻り込むように進むと、阪急バスの久貝バス停に出られます。
今回行けなかった小倉神社は、改めて訪れました。
続く


小倉神社

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イメージ 1阪急京都線「長岡天神」駅から阪急バス「 第二大山崎小学校前」で下車した所に
石倉神社があります。
但し、注意しないと見過ごします。
小高い丘というより土を盛って高くした上に、小さな社が祀られています。
石倉神社は、小倉神社の末社で、小倉神社にお参りする前に、お祓いと禊を授ける社で、投石信仰がありました。
石倉神社の小さな社に、小石を投げてから小倉神社にお参りするという風習は
イメージ 2明治の中頃まで続いていました。

かって、石には神さまのほか、人の魂もやどるとされていました。
石は“おはらい”と“みそぎ”を受ける“人の身がわり”だったのです。

石倉神社は、いつも寝ている寝坊な神様が祀られているそうです。
だから社に石を投げて、神様を起こさないと願い事が聞いてもらえないとの伝承
イメージ 3もあります。
石倉神社の社は、10年くらい前に修理、再建されたそうですが、前の土砂が僅かに削られているように見受けられます。

石倉神社の背後は、その際まで宅地のために削られています。




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石倉神社の前を進むと、小倉神社の石柱が建っています。
















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江戸時代の元禄年間(1688~1703)に建立された一の鳥居です。








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神額「正一位小倉大明神」は、小野道風の筆と伝わります。
















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二の鳥居の手前に駐車場があります。
駐車場の横では、マンションの建築が行われています。







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奥の方も無残にも竹薮が切り開かれ宅地にされつつあります。
小倉神社の神域が破壊されています。







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駐車場の横にあるコンクリート造りの
神輿庫には、江戸時代の作とされる神輿2基が納められています。
5月3日の春季例大祭で、神輿が巡幸されるそうです。





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神輿庫の横に龍王神社が祀られています。
龍王神社は、かって、天王山の山頂近くにある竜神池の畔に祀られていたのですが、江戸末期にここに遷されました。













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龍王神社の隣にある稲荷社。









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二の鳥居も元禄年間に建立されました。

















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二の鳥居をくぐると、若宮神社があります。
















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若宮神社の隣に天満宮があります。

















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天満宮、神使の牛。









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鳥居をくぐった左側には手水舎があります。








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手水舎の斜め奥には、境内に背を向けて熊野神社が祀られています。
















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境内の中央には噴水があります。









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噴水の奥には、方除交通安全のやちまた宮が祀られています。
















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やちまた宮の横、天王山への登山道を挟んで短い階段の先に、割拝殿があります。







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割拝殿









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割拝殿の中、右側に「神幸祭板絵」が掛かっています。







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左側に掛かる「奉納相撲板絵」の額には、文政と書かれていますので、
江戸時代のものでしょうか?
雨はしのげても風にはさらされる条件下でも色彩が残されています。






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割拝殿の横に滝不動が祀られています。

















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割拝殿の背後に立つ杉と樅の御神木は、樹齢500~600年とみられています。








イメージ 31割拝殿の先に拝殿があります。
拝殿には舞台があり、神楽が奉納されたのでしょうか?

江戸時代には、境内に能舞台があり、祭礼には小倉能と呼ばれた能が演じられいたそうです。




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拝殿の先、右奥には三社宮があります。
右から八幡宮、天照皇大神宮、若宮社が祀られています。







イメージ 33拝殿の先、左奥には亀の手水があります。
手前の亀さんは休憩中でした。








イメージ 26小倉神社は、乙訓地方(おとくにちほう)で最も古い神社の一つとされています。
奈良時代の養老2年(718)に創建され、
平安遷都の際は御所の鬼門除けとして祈願されました。
嘉祥3年(850)には、神階最高位である「正一位小倉大明神」と号しました。
山崎合戦の際は、秀吉が家臣を遣わし、戦勝を祈願しました。

イメージ 27江戸時代には、徳川幕府から寄進を受け、禁門の変では幕府軍の戦勝祈願が行われました。
本殿は江戸時代の文化8年(1811)、
明治30年(1897)、昭和10年(1935)に
改修、修築が行われました。









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本殿の裏に「小倉神社磬座(いわくら)、地磁波発生の処」と記された丸い石碑があります。
その横に建つ説明文で、地磁波は、
「地球の持っている磁気が特定の場所で強く認められ、機器測定によると此の周辺の空間には磁力波が流れ出しています。」と記されています。

磬座は、「古来、自然崇拝の中心として、山を崇高な神の宿るところとの考えから、御神体の中心とされた岩盤の多い場所」とされています。
最強のパワースポットだと思います。
現代人よりも、五感が敏感だったであろう古代人は、このような場所に霊感を

イメージ 29得て社寺を創建したのでしょう。


















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本殿を3周して、石段を下り、横を流れる谷川のせせらぎに引かれて、川を覗いてみました。
小さな滝がありました。














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谷川に架かる橋を渡ると天王山への登山道です。
JR大山崎駅からの、手軽な縦走コースです。






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谷川沿いに下ると、十二支の石像が並んでいます。

明治の初め頃まで、小倉神社の神輿が
渡御したと伝わる走田神社へ向かいます。
続く





海印寺寂照院

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イメージ 1「 第二大山崎小学校前」のバス停まで戻り、バス道の緩やかな上りを進みます。
「金ヶ原湯川酒店前バス停」の湯川酒店の手前で左折し、自治会館を通り過ぎ、
次の変則十字路を左折すると地蔵院があります。
地蔵院の本尊は、平安時代作の阿弥陀如来像で、台座に「本山金原寺当仏」との墨書があります。
金原寺とは、この先の土御門

イメージ 2(つちみかど)天皇の金原陵(かねがはらのみささぎ)に建立された金原御堂を維持・管理するために建てられた金原寺のことですが、江戸時代には廃絶しました。






イメージ 3地蔵院は、金原寺の別院で地域に密着した小さな寺院です。
軒先に吊り下げられた、半鐘がそのことを物語っているように感じます。
残念ながら、地蔵院の住職は亡くなられ、現在は無住となっていて、本尊を拝見することはできませんでした。












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バス道に戻り、先に進むと道路脇左側に「御陵道改修奉仕記念碑」と刻まれた
石碑が建っています。
左折して進んだ先に土御門天皇の金原陵があります。
土御門天皇は、第83代天皇として鎌倉時代の建久9年(1198)に、僅か4歳で即位し、承元4年(1210)に弟の順徳天皇に譲位し、上皇となりました。


イメージ 5承久3年(1221)、父親の後鳥羽上皇が
鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた承久(じょうきゅう)の乱で、後鳥羽上皇は敗北し、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。
土御門上皇は、何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったのですが、自ら申し出て土佐国に移り、後に
鎌倉幕府の配慮により都に近い阿波国に移されました。

イメージ 6寛喜3年(1231)に37歳で崩御され、
阿波で火葬に付された後、この御陵に
安置されました。
徳島県鳴門市大麻町池谷には土御門天皇を御祭神とする阿波神社があり、
境内に火葬塚があります。
天福元年(1233)、母親の承明門院によって、塚の上に金原御堂(法華堂)が建立され、金原寺が造営されました。
今は、どちらも残されていません。

イメージ 7御陵の前面は、山で塞がれここからは
京都市内を望むことはできません。
今でこそ、周囲には住宅が立ち並んでいますが、当時は人里離れた感が強かったのでは...と想像されます。






バス道へ戻って先に進み、京都縦貫道の下をくぐり、柳谷道のT字路に突き当たります。
そこから少しややこしいのですが、T字路を左折して二筋めを右折し、T字路を右折して橋を渡り、三叉路を左折して直進します。
光風美竹通りに出て、そのまま直進すると右側に寂照院の駐車場と書かれた大きな看板が目に入ります。
イメージ 8駐車場の奥、隅に小さな社が祀られています。









イメージ 9駐車場を出た正面に寂照院の平成16年に再建された仁王門があります。
寂照院は正式には、海印寺寂照院と
いい、山号を木上山(こがみさん)と
号します。
平安時代の弘仁10年(819)、東大寺の
佐伯道雄(どうゆう)僧都によって
海印三昧寺が創建されました。
寺号とされた海印三昧は、寂照院にある仏教用語で、「大海原の波が静まり水が

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澄むと、その面に空中の一切の森羅万象が細大漏らさず映し出されることにたとえた精神集中の境地のことです。
仏がこの三昧に入ると、その海のように広い智慧の心に一切諸法の相が一時にありのままに映し出される。」という意味を持ちます。
海印三昧寺は、海印寺とも称され、
華厳経を学び、国家を守る道場として
嵯峨天皇の勅許を得て創建されました。
塔頭が十院があり、寂照院はその一つです。
山号の木上山には、道雄が妙見菩薩の使いという童子に案内されて当地に赴き、そこに聳えていた椎の大木の上に千手観音菩薩が示現したことから山号を木上山とした、という逸話が残されています。
椎の大木はその後も残され、根元に弁財天が祀られていましたが、
イメージ 11昭和9年(1934)の室戸台風で倒木しました。
海印寺は、嘉祥4年(851)に国の定額寺となり、大伽藍を誇りました。
寺領は、現在の奥海印寺・下海印寺の両集落に広がる大寺院であったとみられています。
平安中期以降に衰微し、仁安2年(1167)には当時の摂政であった藤原基房の祈祷所として摂関家に寄進されました。
鎌倉時代の文永2年(1265)、東大寺
尊勝院の僧・宋性が後嵯峨上皇の院宣を得て、海印寺を同寺の末寺として、再興しました。
室町時代の応仁・文明の乱で、海印寺は焼失し、寂照院のみが兵火から免れましたが、荒廃しました。
仁王像は、南北朝時代、康永3(1344)年造立の結縁勧進が行われたとあります。
運慶・湛慶の流れを汲む仏師の作といわれています。
向かって右側にある阿形は像高2.41m、左側の吽形は2.39mで檜の寄木造で、
長岡京市で唯一の仁王像です。
イメージ 12鎌倉時代の安貞1年(1227)、道元は
宋から孟宗竹を持ち帰り、この地に植えたことから「日本孟宗竹発祥の地」とされ、境内に石碑が建っています。
孟宗竹は、日本の竹類の中で最大で、
高さが25mに達するものもあります。
食用をはじめ、建築材料、農業資材、
漁業資材などとして用いられています。











イメージ 13墓地への入口には地蔵堂が建っています。









イメージ 14地蔵尊像は、古来より近在の方々の信仰を集めたという古い石仏です。
全国の石仏の本にも掲載され、霊験あらたかと伝わります。







イメージ 15本堂が再建されたのは、平成9年(1997)になってからで、コンクリート造りの
2階建てになっています。








イメージ 161階には、中心に阿弥陀如来坐像が安置され、その横には、日本で最古・唯一とされる水子地蔵尊が安置されています。





イメージ 172階には、鎌倉時代の作とされる本尊の十一面千手観音菩薩坐像と、同じく鎌倉時代作とされる四天王立像四体が安置されています。
四天王立像四体は、京都府の重要文化財に指定されています。





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左側に祀られている妙見菩薩坐像は、
平安時代の作とされています。

















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右側には、毘沙門天像と弘法大師勉学の尊像が安置されています。










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本堂の3階を廻り込むように進むと、
裏側に古墳時代の後期7世紀初めに造られたと考えられる走田9号墳があり、
石室を見学することができます。
この古墳は地元有力者の墓と推定される直径約12m、高さ約3.5mの円墳で、
須恵器7点や家形石棺などが出土しました。
平成7年、寂照院の本堂再建に伴う発掘調査で発見されました。








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石室は円墳に掘られた全長5.3mの横穴式で、玄室には石棺が置かれていましたが盗掘に逢い、副葬品や石棺の部材の多くが持ち去られていました。














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本堂の横、墓地の奥には斜面を利用して石仏群が安置されています。








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本堂の右側には、傍生堂があります。









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観音菩薩像が安置されていてペットの
納骨堂になっているようです。
















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傍生堂の前に薬医門がありますが閉じられていました。
仁王門を出て、外から撮影しました。
仁王門と同じく平成16年に再建されました。





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寂照院の裏に走田神社はありますが、
一旦バス道まで出ないと行けません。
バス道を上ると右手に走田神社の鳥居が建っています。






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鳥居をくぐった先に、地蔵尊の祠がありました。








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走田神社は、奥海印寺・長法寺村の産土神(うぶすながみ)で、創建の詳細は不明ですが海印寺が建立される以前から存在していました。
式内社で、「延喜式」にのる乙訓十九座の一つで、春日四柱を祭神としています。
小倉神社と同じ祭神が祀られていたことから、小倉神社の神輿が明治の初め頃まで渡御していました。
イメージ 29かって、「妙見社」と呼ばれ、寂照院の鎮守社でしたが、明治の神仏分離により、合祀されていた妙見菩薩像は寂照院に遷され、走田神社と改称しました。
社名の「走田」とは、初穂をつくる田を指し、早稲田の守護神であったと考えられています。




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参道の石段を上がっていくと、占いに使われるという注連縄が下がっています。









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石段を上ると拝殿があります。









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本殿は覆屋内に納められています。









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本殿の左側に春日社が祀られています。












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右側に稲荷社と熊野神社が祀られています。
円明寺へ向かいます。
続く
















長法寺~子守勝手神社

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イメージ 9走田神社の前のバス道を突き当りまで進み、右に折れると光風台という住宅街にでます。
その奥の竹薮の中に長法稲荷神社があります。






イメージ 10長法稲荷神社は、約350年前の江戸時代前期には鎮座されていたと推定されています。
現在の社は、最近になって整備されたようで、何も知らずに訪れた場合は、
350年の歴史を感じることができませんでした。
朱の鳥居は、伏見稲荷で見慣れた光景で、稲荷神社らしさを感じますが、スケールは小さいです。

イメージ 11社殿










イメージ 12水琴窟がありましたので、水を注ぐとかわいい音が聞こえてきました。









イメージ 13住宅地から西山公園体育館へ向かいます。
体育館を回り込んで裏側に出ると、
八大竜王が祀られている社がありました。






イメージ 14新池の堤防沿いに進んで、車道を左折すると長法寺に出ます。
背後に見えるのが体育館です。








イメージ 15長法寺(ちょうほうじ)は、延喜10年(910)に、三井寺の開祖である智証大師の弟子の、千観上人によって建立されました。
寺伝によれば、諸国を巡礼していた千観上人がこの地に滞在していた時に、夢に観世音菩薩が現れて「この地に留まって寺を建てよ」 とのお告げにより、お堂を建てて十一面観世音菩薩を祀ったのが長法寺の起こりと伝えられています。

イメージ 16祈雨の霊験により、最盛期には七堂伽藍が整い、十二院の坊舎が建てられましたが、応仁・文明の乱で焼失しました。
昭和53年(1978)に洛西観音霊場巡りが再興されたのに伴い、平成2年に本堂と庫裏が再建されましたが、まだ工事をされているようです。
境内に入ると左手に石仏が集められて祀られている祠があります。


イメージ 17手水










イメージ 18右側には、慈母観音の新しそうな立像の脇に、鎌倉時代の作とされる千観供養塔という三重石塔が建っています。
長岡京市で最古の石塔で市の指定文化財です。
背後に建つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、南北朝時代の作で同じく市の指定文化財です。





イメージ 19本堂










イメージ 20本堂のガラス戸は施錠されています。










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本堂を右側に入ると、清涼水が湧き出る「溺泉(おぼろのいずみ)」があります。
山号の清巖山(せいがんざん)は、千観がこの湧き水から名付けたとされています。
長法寺は、天台宗延暦寺の末寺で、京都洛西観音霊場 第九番札所です。


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奥には白山大権現が祀られています。









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白山大権現社

















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長法寺から、体育館の裏側か出てきた所まで戻り、西山公園の方に左折します。








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公園には、ジャブジャブ池があって
これからの季節、水に親しんで涼をとるにはもってこいの公園だと思います。







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公園の先に、コンクリート製の大きな
貯水タンクが2基並んでいます。








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タンクを越えると三叉路に出て、道標が建っていますので、子守勝手神社の方へ進みます。















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この道の突き当たりに子守勝手神社の
鳥居が建っています。








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参道の石段を上がった中間辺りで、
元禄年間(1688~1704)に整備されたというお不動さんの水で手を清めます。















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そのまま石段を上がると、観音寺に出ます。
観音寺は、奈良時代に行基によって開山されたと伝えられていますが、定かではありません。
室町時代初期の暦応3年(1340)には、
文献で初めて見られ、江戸時代の
「都名所図会」にも描かれています。


イメージ 31本尊は十一面観音菩薩像で、行基作とも伝わります。
洛西観音三十三霊場の八番目の札所ですが、普段は無住のため、本尊は光明寺に遷されていて、朱印の受付も光明寺で行われています。





イメージ 32観音寺の右横、同じ敷地内に子守勝手神社があります。
奈良県の吉野川水源に当たる青根ヶ峰の山頂付近に金峯(きんぷ)神社(奥千本)・山腹に吉野水分神社(上千本)・山麓に勝手神社(中千本)があります。
勝手神社は、吉野山の入口に位置することから「入り口・下手」を意味する「勝手」を神社名にされたと思われます。


イメージ 33吉野の勝手明神は単体でも諸国の神社に勧請され、全国28社の勝手神社の総本社となっています。
吉野水分神社祭神の子守明神とは、
勝手明神が男神、子守明神が女神の夫婦神であるとされています。
室町後期成立の能「嵐山」では、吉野から移植された嵐山の桜の花守(はなもり)である老夫婦は実は勝手、子守両神の化身であり、金峯神社の蔵王権現、

イメージ 34勝手明神、子守明神は三身一体であることを宣する筋立てが語られています。
子守勝手神社は、勝手明神、子守明神を合祀し、子守勝手大明神として祀られ、粟生(あお)村の産土神とされてきました。
付近に溜池が多く見られることから、
水の配分の神様として、子孫繁栄の守護神として粟生の地に根付いているようです。







イメージ 35水分神(みずまくりかみ)、天忍穂耳尊(あまのおしほみのきこと)、大山祇命(おおやまつみのみこと)が祭神として祀られています。







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本殿の前には、「粟生十人衆」によって手作りされた干支の竹細工が奉納されています。







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背後には、以前に奉納されたものが並べて置かれていました。









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境内に立つモミの木は、御神木として祀られ、長岡京市の保存樹木に指定されています。















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参道の途中から愛宕山が望めます。









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子守勝手神社の鳥居まで石段を下り、
前の道を左に進むと比叡山が遠望できます。







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奥に観音池があります。
背後に光明寺の屋根が見えます。








イメージ 7池の周りを散策していると、光明寺の
内部からは立ち入ることができない聖地が見えてしまいます。
いずれ、竹が茂って見えなくなってしまうでしょう。






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池の周囲を経て、先ほどの三叉路まで戻り、光明寺の方へ進みます。
続く







光明寺-その1

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イメージ 1光明寺の総門の前に建つ
「浄土門根元地」と書かれた石碑は、
法然上人が初めて念仏の教えを説かれたのが、この地であることから、正親町(おおぎまち)天皇から賜った
「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地ト謂イツベシ」という言葉によるものです。











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光明寺の総門は、高麗門で江戸時代の
天保16年(1845)に建立されました。











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総門をくぐって、まっすぐに石段の参道が続いているのが表参道で、傾斜が緩やかなことから「女人坂」と呼ばれ、女性やお年寄りでも楽に登れるように配慮されています。





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表参道と紅葉参道との分岐点にある石碑には、馬の背に逆さに乗っている僧の姿が刻まれています。
正直に言って、石の模様が邪魔になって図の判別が難しいです。
法然の弟子であった法力坊蓮生(れんせい)が、関東への布教の旅に出るとき、馬に逆さに乗って浄土とされる西方を拝みながら進んで行った「東行逆馬」のエピソードが残されています。
熊谷次郎直実(なおざね)は、法然上人の弟子となり、法力坊蓮生と名を変えました。
熊谷次郎直実(なおざね)は、法然上人の弟子となり、法力坊蓮生と名を変えました。


イメージ 5光明寺の前身は念仏三昧寺で、鎌倉時代の建久9年(1198)に法然上人を開山として、弟子の法力坊蓮生(れんせい)が建立しました。






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女坂を上がると、正面に御影堂が見えてきます。
入母屋、総欅(ケヤキ)造りで、十八間四面(約33m四方)の大きさがあり、堂々とした威厳を感じます。
現在の御影堂は、江戸時代の享保19年
(1734)に焼失し、宝暦3年(1753)に再建されました。
御影堂は拝観もできますが、内部の撮影は禁止されています。
本尊は、法然上人が自作した「張子の御影」です。
承元の法難(じょうげんのほうなん)によって法然は、讃岐国(現、香川県)に配流され、その船上で母親から法然に宛てられた手紙を材にして、形見として作られたものが「張子の御影」です。
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御影堂の前に建つ「法然上人立教開宗の像」は、昭和57年に法然上人の誕生850年を記念して建てられたものです。
ここ、粟生の地で、専修念仏の最初の教えを説かれた姿を現しています。
台座と像の高さとも2.4mで、合せて4.8mにしたのは四十八願にちなむとされています。


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「法然上人立教開宗の像」の斜め前に建つ鐘楼は、江戸時代の明暦3年(1657)に建立されました。







イメージ 9梵鐘は、金属の戦時供出されたのか、
昭和24年に鋳造されました。
「遣迎鐘」(けんこうがね)と呼ばれ、鐘と撞木が遣迎二尊を象徴しているのだそうです。
遣迎二尊とは、此岸にあり往生者を見送る釈迦如来と、彼岸である浄土からこれを迎えに来る阿弥陀如来のことをいいます。










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鐘楼から参道を挟んで斜め向かいに
観音堂があります。
観音堂は、江戸時代後期に建立され、「十一面千手観音」が祀られていましたが、重要文化財に指定されてからは京都国立博物館に寄託されています。
現在は、粟生観音寺の「十一面千手観音」が祀られています。
光明寺は洛西観音三十三霊場の七番目の札所で、粟生観音寺は八番霊場です。
両寺の受付は光明寺で行われます。







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観音堂の横に建つ経堂は、江戸時代の
宝永4年(1707)に建立されました。
光明寺は、室町時代の応仁・文明の乱と元亀の乱で焼失しました。
元亀の乱は、織田信長が比叡山を焼き討ちにした事件ですが、なぜ光明寺に飛び火したのかは不明です。



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経堂の前に立つ「袈裟掛の松」は、
昭和57年(1982)に株分けされて植えられたものです。
法然上人が念仏の教えを説き始める地として、しばらくこの地に留まろうと思い立ち袈裟を掛けたという伝承によるものです。
もともと、袈裟を掛けたとされる松は、円明寺の裏山に生えていたと伝わります。

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「袈裟掛の松」横の勧化所(かんげしょ)は、休憩所ではありません。
勧化とは、「仏さまの教えを説き、
信心を勧める」という意味で、
毎月の第一土曜日の朝7時からお説教の会が催されています。




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勧化所から阿弥陀堂への参道の途中に、石の柵があり、その前には「圓光大師御石棺」と刻まれた石碑が建っています。
圓光大師とは法然上人の大師号で、
東山天皇から贈られたものです。
法然上人は、現在の知恩院勢至堂付近で80歳で亡くなられ、知恩院の法然廟に葬られました。


イメージ 15法然の遺骸は、石棺の中で護られていましたが、石棺から一筋の不思議な光が放たれ、弟子たちが、この光を追ったところ、粟生の念仏三昧院へたどり着きました。
この逸話から、光明寺と寺名が変更されたと伝わります。
遺骸は、光明寺に運ばれ荼毘に付され、遺骨の一部は最上部の本廟に納められ、一部が知恩院の御廟に安置されました。









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阿弥陀堂と御影堂は、渡り廊下で結ばれその間には、本廟へと続く石段がありますが、立入り禁止になっています。







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阿弥陀堂は、江戸時代の寛政11年
(1799)に再建されたもので、阿弥陀如来像が安置されています。
阿弥陀如来像は、恵心僧都の作とされ、蓮生が琵琶湖の浮御堂に安置されていた千体仏の中尊を遷したものと伝わります。
工事をされているのか、トラックが横付けされていました。

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阿弥陀堂の奥にある石の地蔵尊像









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阿弥陀堂の上空にハンググライダーが飛んでいました。
上空から光明寺がどのように見えているのでしょうか?

御影堂に戻ります。
続く


光明寺-2

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イメージ 1御影堂の左側は、渡り廊下で釈迦堂と結ばれています。
その奥に見えるのは、蓮生閣でしょうか?
立ち入りが禁止されていますので、左側の石段を下ります。






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ボタンの花が一輪、綺麗な花を咲かせていました。







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正面には、江戸時代の万延1年(1860)に建立された勅使門があり、この門の向こうには、信楽庭(しんぎょうてい)があり、その先には釈迦堂が建っています。
光明寺は、紅葉の季節には入山料が必要で、その際に釈迦堂が公開されています。



釈迦堂に安置されている、「頬焼けのお釈迦様」と呼ばれる釈迦如来立像には、
安養寺に伝わる「 弥陀次郎と十一面観世音尊像 」と深い関係があります。

「悪の水次郎と呼ばれるほど評判の悪かった漁師が、托鉢に訪れた僧の頬を焼火箸で焼いて追い返しました。
僧は痛がりもせずに去っていったのを、不思議に思って後をつけて行くと、
僧は粟生・光明寺に入り姿を消しました。
水次郎が寺に入り本尊を拝すると、頬に火箸の跡があり、血が流れていたという。
水次郎は涙ながらに我が罪を謝し、心気一転仏道に帰依するようになり、弥陀次郎と呼ばれるようになりました。  
その後、夢の中で仏のお告げがあり、次郎は淀川から一体の仏像を引き上げました。
この仏像が安養寺本尊の十一面観世音です。」
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勅使門の脇に、高さ50cm位の金属製の塔を見つけました。
















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書院の本玄関









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庫裏









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本玄関と庫裏に囲まれるように
法然上人火葬跡があり、勢至菩薩が祀られています。
安貞2年(1228)正月25日、法然の17回忌に、ここで遺骸は荼毘に付されました。





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火葬跡前に聳える柏槙(びゃくしん)の木は、高さ15m、根元の周囲は4.6mの大木で、長岡京市指定文化財になっています。
樹齢400~500年とされるこの木は、
享保19年(1734)頃に描かれた「光明寺焼失絵図」などから火葬跡に献樹として植えられた一対の内、向かって左側にあたるとみられています。









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衆寮門は、江戸時代末期に建立された高麗門です。








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衆寮門をくぐった正面に講堂があります。








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講堂の手前、右側みは水行場がありますが、今も使われているのでしょうか?








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講堂の横には食堂(じきどう)がありますが、その前は駐車場になっているようです。







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食堂から衆寮門まで戻り、紅葉参道を下ると「茂右衛門屋敷跡」の石碑が建っています。
法然上人が24歳の時、比叡山を下り、
清涼寺へ遊学された際に、粟生の里に立ち寄り、当時村役の高橋茂右衛門宅に一泊しました。



イメージ 14茂右衛門夫婦から「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と願われました。
承安5年(1175)、法然上人が42歳になって浄土宗を立教開宗し、この粟生の地で初めて念仏の法門を説かれました。
「茂右衛門屋敷跡」の石碑の前には、「元祖法然上人他力念仏創述之処」の
石碑が建っています。









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鎮守社









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薬医門は、江戸時代の延宝4年(1676)に建立されました。








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紅葉参道を下って来て、総門の手前に
閻魔堂があります。
安置されている閻魔像は、閻地院の本尊でした。

乙訓寺に向かいます。
続く


乙訓寺

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光明寺道を直進して、赤根天神社に向かいます。
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石の鳥居と燈籠は、江戸時代の宝永6~7年(1709~1710)に、
旧石田家によって寄進されました。
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鳥居をくぐった左側には、幹周り約3.4m、高さ約20mの御神木の
椎の木が聳えていて、長岡京市の保存樹木に指定されています。
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赤根神社は以前、石田家の屋敷内に立つ氏神でしたが、応仁の乱で焼失しました。
現在の本殿は、江戸時代の正徳3年(1713)の造営と伝わり、
今里地区の鎮守社となりました。
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当日は、向日神社還幸祭が行われていたのでしょうか?
子供神輿の巡幸が行われていました。
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神社の横には天神池があります。
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池から道路を挟んだ向かい側の赤根天神社領地に、大峰山参拝・禊ぎ場があります。
昭和40年頃まで、今里地区の若衆は、大峰山で修行を行い、
大人への仲間入りをするという風習があったそうです。
この禊ぎ場では、かって清らかな水が湧き出て、
修行成就と道中安全を願って身を清めた所です。
乙訓寺へ向かいます。
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乙訓寺は、乙訓地域で現存する最も古い寺院です。
寺伝では、推古天皇の勅願によって、聖徳太子が創建したと伝わり、
603年に創建された太秦の広隆寺と同じ頃に創建されたと考えられています。
1200年前の寺領は、東西約327m、南北218mに及びました。
しかし、応仁・文明の乱による衰微や、内紛によって寺地は南禅寺に移り、
禅宗の寺院になりました。
永禄年間(1558〜1569)の信長の兵火により焼失して、
現在ではその面影は残されていません。
現在の寺領は、1200年前の寺領の1/6に縮小し、現存する建築物の殆どは、
江戸時代に再興されたものです。
江戸時代の元禄6年(1693)五代将軍綱吉は、乙訓寺を徳川家の祈祷寺とし、
綱吉の母・桂昌院によって再興されました。
長谷寺で修学した僧の隆光は、乙訓寺中興第一世として、寺を再び真言宗に改め、
堂宇の再建、乙訓寺法度(はっと=きまり)の制定など、復興に尽くしました。
表門は、四脚門で江戸時代の元禄8年(1695)に建立されました。
門の脇には「弘法大師ゆかりの寺」の石碑が建っていますが、
嵯峨天皇は、弘仁2年(811)に空海を当寺の別当に任じました。
空海は1年間、別当職に就き寺院の修造を行い、八幡明神の霊告を受け
「合体大師像」と毘沙門天立像を刻んだと伝わります。
「合体大師像」は、体は空海で首から上は、八幡大菩薩とされ、
本殿の宮殿(ぐうでん)に安置されています。
毘沙門天立像は、毘沙門天立堂に安置され、共に国の重要文化財に指定され、
乙訓寺の歴史を物語るものです。
弘仁3年(812)には、最澄が当寺に一泊して、密教の法論を交わされました。
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参道の両側にはボタンが植えられていますが、今年は開花が早く、5月初旬では花が一輪も残っていませんでした。
残念でしたが、入山料が無料でしたので、良しとしました。
かって、参道には松並木が続いていたのですが、1934年の室戸台風で倒木したため、本山である長谷寺からボタン2株が寄進されました。
歴代住職らの尽力により、現在は30種、2000株に増やされ、ボタンの寺と呼ばれるまでに至りました。





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参道には、稚児大師が祀られています。

















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日限地蔵(ひぎりじぞう)堂
日限地蔵は、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩です。
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イメージ 18早良親王(さわらしんのう)の供養塚
早良親王は桓武天皇の実弟で、
皇太子でしたが、長岡京遷都の
翌延暦4年(785)、建都の長官・藤原種継が暗殺されました。
暗殺団と見られた一味と交流のあった
早良親王は乙訓寺に監禁されたのですが、流罪処分となり淡路島に護送途中、現・大阪府守口市の高瀬神社付近で亡くなりました。

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鐘楼は、長岡京市指定文化財ですが、
建築年度は不明です。








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鐘は、金属の戦時供出によって
昭和43年(1968)に鋳造されましたが、前の鐘銘を再刻しています。















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毘沙門天堂
幽愁の毘沙門天の特別無料拝観期間
毎年12月31日〜1月3日と8月13日〜
8月16日及び牡丹祭り期間中。
上記以外は、予約すれば有料(100円)で
拝観できます。
(☎︎075−951−5759)
撮影は禁止です。


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十三重石塔









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修行をされている時の弘法大師像

















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鎮守八幡社
社殿は元禄8年(1695)に建立されたもので、長岡京市指定文化財になっています。
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聖観音菩薩像

















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三輪明神
奈良県の三輪山を拝するという
原初の神祀りの様を伝える我が国最古
とされる明神が祀られています。






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本堂
本堂は、長岡京市指定文化財で、元禄8年(1695)に建立されました。
かって、大師堂と呼ばれていました。
本堂内の宮殿に、「合体大師像」が安置されています。
乙訓寺は、奈良時代の延暦3年(784)、桓武天皇が長岡京に遷都されたとき、
京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築されました。
昭和41年(1966)、隣接する長岡第三小学校建設に伴う発掘調査で、
講堂や単独僧坊跡が発掘調査されました。
講堂の規模は東西27m、南北12m、両端には回廊が付くという立派な建物
だったことが裏付けられました。
これらの結果から、1200年前当時の乙訓寺は東西約327m、南北218m、
現在の敷地の6倍もあったことが分かりました。
 今、これらの遺跡跡は小学校校庭地下に埋没保存され、
説明板が校庭南端にあります。
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モチノキは、樹齢400~500年と推定され、根元周囲3.55m、
幹周り2.93m、樹高9mあり、長岡京指定文化財です。
昭和9年(1934)の室戸台風で幹が折れるなどの被害を受けましたが、
関係者の努力で以前の樹勢を取り戻しました。
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ミカンの木
弘法大師は、境内で実ったミカンを、詩を添えて嵯峨天皇に献上されたとする
文献が残されています。
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お地蔵様が並んだ石塔
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東門
江戸時代の元禄8年(1695)に建立された高麗門で、長岡京指定文化財です。
長岡天満宮に向かいます。
続く





長岡天満宮-その1

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長岡天満宮は、阪急京都線・長岡天神駅から徒歩10分と交通が便利なこともあって、多くの参拝者が見られます。
正面大鳥居は、総高9.75m、笠木 12m、総重量50tの総御影石製で、
平成14年に奉納されました。
鳥居をくぐると、両側に八条ケ池が広がり、池の周遊路には桜並木が続いています。
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大鳥居からの参道、中堤の両側には樹高約2.5mのキリシマツツジが、
多数植栽されていて、長岡京市の天然記念物に指定されています。
平成5年に中堤が拡幅され、参道は3本に分けられていますが、
真ん中は通ることができません。
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参道の中程には、加賀前田候の寄進とされる
太鼓橋が架かっていますが、通行禁止の真ん中の参道です。
新しい両側の参道にも同じような太鼓橋が架けられています。
八条ケ池は、江戸時代の寛永15(1638)に八条宮智仁親王によって
灌漑用の溜め池として造営されました。
対岸に渡り、約1㎞の外周を一周します。
長岡天満宮は今年になって2回訪れましたが、
桜の季節には出遅れ、キリシマツツジは、完全に終わっていました。
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水上橋を渡り、六角舎へ向かいます。
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六角舎です。
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桜の季節には、六角舎から対岸の桜がこのように望まれます。
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六角舎を出て中ノ島に渡ると、水上植物ゾーンがあります。
ショウブ・アヤメ・カキツバタ・ハスなどが植栽されています。
ハスには早く、アヤメ・カキツバタは遅かったような気がします。
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桜の季節の花壇です。
花壇は東北角にあります。
今の季節よりも、春の方が綺麗です。
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八条ケ池を半周して、大鳥居からの参道を
通り過ぎた所から錦水亭を望む、桜の季節です。
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池をほぼ一周して錦水亭まで来ました。
錦水亭は、明治14年に創業しました。







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錦水亭の庭にある池です。
ちょっと、敷居が高いようなので、外から覗き見しました。
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錦水亭の横に伸びる松の枝、頭をぶつけないように...
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長岡天満宮の参道に出ます。
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参道の石段を上がった所に錦景苑の
入り口があります。
















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錦景苑は、中央に通称弁天池を配した紅葉庭園で、平成19年に完成しました。
池の畔には、菅原道真の句碑が建っています。
「海ならずたたへる水の底までも清き心は月ぞてらさむ」
この歌は太宰府に左遷された菅原道真が、無実の罪であることを、
せめて月だけは明らかにしてくれるであろうと詠んだものです。
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弁天池に架かる約2tもあるという石橋を渡ると、
和泉殿社と白太夫(しらだゆう)社が祀られた社があり、
その脇に「長岡大明神社殿旧跡」の石碑が建っています。
長岡大明神社とは?...気になります。
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錦景苑を、第一駐車場から下ってきた参道の方へ出ると、
笠松地蔵が祀られた社があります。
社の横には、「笠松地蔵尊御出現之地」の石碑が建っています。
昭和49年に弁天池を改修した際に池の底から発見され、その後、
昭和52年にも更に一体が発見されました。
祠には二体のお地蔵さんが祀られています。
参道に戻ります。
続く

長岡天満宮-その2

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前回の補足です。
和泉殿社の祭神は、菅原定義卿(すがわらのさだよしきょう)で、菅原道真から数えて6代目に当たり、学業成就の神とされています。
「更級日記」の作者、菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ)とは、同母姉妹になります。
白太夫(しらだゆう)社の祭神は、「白太夫」度会春彦(わたらいはるひこ)で、
道真公の父君が安産祈願を託した神官であり、のちに道真公の守役として大宰府までお供しました。
子授け・安産の神とされています。
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錦景苑を出て、先ほどの参道に戻ります。
鳥居をくぐり、石段を上がると、酒樽奉献舎があります。
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左右6m、高さ5mの奉献舎には、京都を始め全国の有名な酒造会社の銘酒樽が
多数奉納されています。
毎年4月末には、献酒祭が行われています。
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酒樽奉献舎の前から石段を上ります。
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鳥居をくぐった右側に手水舎があります。
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手水舎の横には、二頭の牛の像が置かれています。
天満宮では、牛は神使(祭神の使者)とされています。
祭神である菅原道真公は、承和12年(845)に誕生されましたが、
この年は乙丑(きのとうし)の年でありました。
また、「道真公は牛に乗り大宰府へ下った」
「道真公には牛がよくなつき、道真公もまた牛を愛育した」
「牛が刺客から道真公を守った」
など牛にまつわる伝説や逸話も数多く残されています。
中でも、横たわった牛(臥牛)には、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言に由来しています。
延喜3年大宰府で亡くなった後、遺骸は牛車で運び出されました。
牛が座り込んで動かなくなった場所が、安楽寺の付近であったので、
そこに埋葬されました。
後に、墓所の上に社殿が築かれ、大宰府天満宮として祀られるようになりました。
金属製の牛は撫牛で、自分の身体の具合の悪い部分をなでたあと、
牛の同じ箇所をなでれば回復するそうです。
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長岡天満宮の創建について、詳細は不明ですが、平安時代、
この地は、菅原道真の領地でした。
道真が太宰府へ左遷された時、この地に立ち寄り
「我が魂長くこの地にとどまるべし」
と名残を惜しまれた縁故によって、
道真自作の木像を祀ったのが創建とされています。
応仁・文明の乱では焼失し、安土・桃山時代の慶長の大地震では、
社殿が倒壊しましたが、その都度再建されました。
江戸時代の(1623)、境内は八条宮智仁親王の家領になりました。
八条ケ池が造営され、(1690)には八条宮家によって本殿が造営されました。
現在の本殿は、昭和16年(1941)に平安神宮の社殿を移築したものです。
正面朱塗りの拝殿は、平成10年に、既存の拝殿を増改築されました。

毎月25日は月次祭(縁日詣り)です。
菅原道真は、6月25日に誕生し、2月25日に亡くなったことから、
25日が縁日とされています。
・毎月25日午前9時始め(祭典時間約20分)
・祭典終了後社務所で宮司を囲んで約30分間お茶とお菓子の
接待があります。(大祭と重なった日等、ない場合もあります)
・会費無料
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本殿の左横には筆塚があります。
長岡天満宮では、毎年5月5日に筆塚祭が行われ、
書道の上達を願い筆の供養が行われます。
当日、筆を持参し供養を行うと、「書道上達御守」が授与されます。
又、正月三が日には、奉納書初めが行われています。
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神楽殿
新年には狂言、夏祭りでは神楽が奉納されるそうです。
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神楽殿の奥に長岡稲荷大明神への石段があります。
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左・松尾竜神・菅竜神と右・山神社
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奥に長岡稲荷大明神社があります。
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長岡稲荷大明神の奥から長岡公園に出られます。
長岡公園には梅林が広がり、散策路から約20種類、
3000本以上の梅を楽しむことができます。
毎年、3月中旬にはこちらで梅花祭が行われています。
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境内に戻ります。
社務所の前に「中小路宗城大人之像」と右・「中小路宗康大人像」
の親子の銅像が建っています。
現在の名誉宮司で孫の宗隆氏が、没後50年の昭和61年の例祭に建立されました。
長岡天満宮は、明治維新後の上地令により10万余坪あった社地は、
2万余坪に縮小しました。
宗城大人は明治35年生まれで、衰微していた天満宮を、社殿改修、八条池石堤、
参道板石を設け、境域を整備しました。
その結果、村社だった社格は、府社へと昇格し、
賑わいを取り戻すようになりました。
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参道を横切って絵馬殿に向かいます。
絵馬殿(白梅殿)は休憩所で、内部には江戸時代の和算額や牛の絵馬が
残されているらしいのですが、素通りしてしまいました。
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絵馬殿の斜め向かいに、左・春日神社、左・八幡宮社が祀られています。
神足神社へ向かいます。
続く
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