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住吉大社-その3

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「撫でうさぎ」から下ってきた所に、摂社「船玉神社」があり、
天鳥船命 (あめのとりふねのみこと)と猿田彦神 (さるたひこのかみ) が
祀られています。
天鳥船命は、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)とも呼ばれ、
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那岐命(いざなみのみこと)との間に
産まれた神で、鳥の様に空を飛べるとされています。
猿田彦神は、天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神で、
「船玉神社」は主に海外への渡航の無事を祈る神として信仰されています。
古くは延喜式にも名前がみえ、住吉の荒魂ともいわれていました。
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「船玉神社」の先に門があり、門の中に神館がありますが、
門は閉じられていて立ち入ることはできません。
石舞台の近くの池の畔の建物も神館の一部と思われます。
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門の南方に「市戎大黒社(いちえびすだいこくしゃ)」があります。
祭神は、事代主命 (ことしろぬしのみこと=えびす)と
大国主命 (おおくにぬしのみこと=だいこく)で、大阪では最古の戎社になります。
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「市戎大黒社の先に「御田」があります。
毎年6月14日に執り行われる「御田植神事」は
国の重要無形民俗文化財に指定されています。
社伝によれば、神宮皇后が五穀豊穣を祈るために、長門国から植女を召して
御田を定められたことに始まると伝えられています。
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御田の前にある建物は、当日、田舞や神田代舞(みとしろまい)、
風流武者行事、棒打合戦、田植踊、住吉踊などの伝統芸能が
奉納される会場となるのでしょうか?
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「御田」から戻り、反橋が架かる池の端の方に神馬像があります。
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駅から参道に入り、反橋を渡る手前を左に進んだ所に神馬舎がありますが、
神馬は1月7日の白馬神事(あおうましんじ)まで出張されているそうです。
住吉大社の神馬は代々白馬で、平安時代以降、
白河天皇や源頼朝などによって奉納されてきました。
江戸時代より大阪炭屋仲間の「神馬講」が普段黒い炭を扱う為、
反対の白馬を奉納してきました。
この伝統は今も続いているそうです。
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神馬像の先に、末社「龍社(たつしゃ)」があり、
 水波野女神 (みづはのめのかみ) が祀られています。
水波野女神は、代表的な水の神(水神)で、龍社はもとは
御井殿社 (みいどのしゃ) と呼ばれていました。
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参道には多くの石灯籠が並んでいます。
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反橋の前を通り過ぎた先に「誕生石」があり、以下のように説明されています。
源頼朝の寵愛を受けた丹後局 (たんごのつぼね) がここで出産した
場所と伝えられ、その子が薩摩藩「島津氏」の始祖・島津忠久公です。
丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したが、北条政子により捕えられ
殺害されるところを家臣の本田次郎親経(ほんだじろうちかつね)によって
難を逃れ、摂津住吉に至った。このあたりで日が暮れ、雷雨に遭い
前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、
局らを住吉の松原に導いてゆき、社頭に至った時には局が産気づいた。
本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍らの大石を抱いて男児を出産した。
これを知った源頼朝は本田次郎を賞し、若君に成長した男児は後に
薩摩・大隅二か国をあてられた。
これが島津氏初代・島津三郎忠久公である。
この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ「誕生石」の聖地に
垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が続いている。」
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「誕生石」の先、右側に寺務所があります。
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寺務所から路面電車が通る車道の方へ出ると時計塔があります。
住吉ライオンズクラブがチャーターナイト25周年記念として奉納し、
昭和61年12月25日に建立されました。
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時計塔から石灯籠が立ち並ぶ車道沿いに参道の方へ進みます。
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阪堺電車「住吉鳥居前」の電停には、パンダ色の電車が止まっていました。
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奥には南海電車の「住吉大社」駅も見え、その奥には住吉公園があります。
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改めて表の参道からお参りします。
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参道を進み、反橋を渡ります。
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反橋を渡った先に建つ鳥居は、古い様式の四角柱の鳥居であるため、
角鳥居 (かくとりい) とも呼ばれています。
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)の筆による
陶製の扁額が掲げられています。
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鳥居と神門をくぐると、縦に「第三本宮」「第二本宮」「第一本宮」と並び、
「第三本宮」の左側に「第四本宮」があり、いずれも国宝に指定されています。
「第四本宮」の祭神は、神功皇后 (息長足姫命・
おきながたらしひめのみこと)です。
『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は
神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導きました。
皇后は大和への帰還中に麛坂皇子(かごさかのおうじ)・
忍熊皇子(おしくまのおうじ)の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも、
船が進まなくなりました。
務古水門(むこのみなと=兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと
住吉三神が三神の和魂を「大津の渟中倉の長峡(おおつのぬなくらのながお)」
で祀るように託宣を下しました。
皇后は、神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになりました。
大津の渟中倉の長峡が、現在の住吉大社の地であり、住吉大社の歴史年表に
よると、鎮祭されたのは、神功皇后摂政11年(211)とされています。
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裏側から見た、手前「第三本宮」と奥に方が「第四本宮」です。
「第三本宮」は、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が祀られています。
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「第二本宮」には、中筒男命(なかつつのおのみこと) が祀られています。
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「第一本宮」には、底筒男命 (そこつつのおのみこと) が祀られています。

現在の住吉公園は、かって海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされ、
『源氏物語』では明石の君に関連した重要な舞台として描かれています。
また、『一寸法師』では、子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に
参拝して、一寸法師を授かったとされています。
源満仲は、摂津守であった天禄元年(970)に住吉大社に参籠し、
住吉大神の神託により摂津国多田(兵庫県川西市多田)を源氏の本拠地としました。
源満仲の三男の源頼信は、河内国壺井(大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とし、
河内源氏の祖となり、源為義の頃に住吉大社宮司の津守氏と婚族の関係にあり、
津守家43代神主は、源頼朝と祖父を同じとしています。
南北朝時代、宮司の津守氏の館の住之江殿(正印殿)に南朝の後村上天皇
行宮が置かれ、約十年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つ
になりました。
正平23年(1368)、後村上天皇が崩御され、長慶天皇は住吉行宮で即位されました。
足利時代になると、幕府からの制圧を受け、社領も大幅に削減され、
現在の境内地と馬場(現:住吉公園)の規模とされました。
明応2年(1493)に起きた明応の政変で、神主津守国則、遊佐氏と姻戚に
あったため上原元秀に撃たれ、社殿が放火されました。
天正4年(1576)には織田信長と大坂本願寺との戦い(石山合戦)に巻き込まれて
社殿の大半を焼失しました。
慶長11年(1606)、豊臣秀頼により本格的な復興が行われるも、
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって再び灰燼に帰しました。
元和4年(1618)に江戸幕府将軍徳川秀忠の命により再興されました。
現在の本殿は、全て文化7年(1810)に再建されたもので、神社建築史上
最古の特殊な様式である「住吉造」で造営されています

住吉大社をほとんど網羅したつもりでいましたが、まだ若干、摂社・末社や
住吉行宮跡など巡れていない所がありました。
次の機会に譲り、仁徳天皇陵へ向かいます。
続く


仁徳天皇陵

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住吉大社の近くで昼食をとり、予定より大幅に遅れて12:15に
住吉大社を後にし、堺市役所へ向かいます。
国道26号線を南下し、国道310号線に入って市役所の駐車場へと向かいました。
市役所の21階ロビーは、地上80mの高さにあり、
無料で360度のパノラマを楽しむことができます。
南海電車が走る、その先に日本一の前方後円墳が望まれますが、
小山にしか見えません。
古墳の右端の方に見えるのは、大仙公園にある平和塔で、
高さは約60m、地上十五階建ての三角柱の建物です。
公園内には、七観音古墳、寺山南山古墳、旗塚古墳、グワショウ坊古墳、
長塚古墳、収塚古墳等の前方後円墳、円墳、方墳があり、
また日本庭園が築かれています。
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こちらは堺泉北臨海工業地帯方面を撮影したものです。
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反正(ばんせい)天皇陵の背後にあるツインの建物はベルマージュ堺で、
タワーマンション、図書館、商業施設などを含む複合施設です。
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北方向を望んだもので、遠くに見える高い建物は、高さ300mの日本一高い
あべのハルカス」で、その左側に大阪城があるのですが、
画像では確認できません。
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アーチ状に見えるのは、港大橋で、その右側にUSJがあります。
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西方向には、場所を確認することはできませんが、

約30分、展望ロビーに滞在し、仁徳天皇陵へ向かいました。
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古墳の周濠を含めた最大長840m、最大幅654m、周囲の距離2,718m、
墳丘の長さ486m、後円部の直径249m、高さ35.8m、前方部の幅307m、
長さ237m、高さ33.9mの大きさがあり、
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)とも呼ばれています。
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外の濠を渡った所に拝所があり、その先に二周目の濠、
更にその先に三周目の濠と、三重の濠によって守護されています。

仁徳天皇の父は応神天皇、母は仲姫命(なかつひめのみこと)、
神功皇后は祖母にあたります。
都を難波高津宮(なにわのたかつのみや)に定めましたが、
その所在地は諸説あります。
説明板によると、この古墳の造営には、一日最大2千人の人が従事して
15年8か月の年月が必要で、延べ680万人の労力が費やされたと考えられています。
『日本書紀』には、仁徳天皇67年の冬10月5日に、この地に行幸して陵地を定め、
同月18日から工事を始めたと記されています。
工事が始まった時、野原から鹿が出てきて倒れ、鹿を調べてみると
鹿の耳から百舌鳥が飛び去り、耳の中が喰い裂かれていたので、
「百舌鳥耳原」と名付けられたと記されています。
仁徳天皇陵は、宮内庁によって管理されているため、立ち入ることができず、
他の天皇陵と同じく山や森を拝むことになります。

百舌鳥八幡宮へ向かいます。
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百舌鳥八幡宮の手前に、御廟山古墳があります。
御廟山古墳は、前方後円墳で百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つであり、
その中で4番目の大きさです。
墳丘長203m、後円部直径113m、前方部幅136mで、宮内庁によると
被葬候補者として、第15代・応神天皇の陵墓参考地に治定されています。
応神天皇は、父を仲哀天皇、母を神功皇后とし、諱(いみな)を
誉田別尊(ほむたわけのみこと)と称し、八幡神とされています。
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御廟山古墳から府道197号線に戻り、南東方向に進んだ先に
百舌鳥八幡宮があります。
府道から少し左に入った所に鳥居が建ち、参道が続いています。
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鳥居の左側に空き地があり、狛犬が見られます。
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参道を進むと、左側に放生池があります。
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放生池に架かる石橋を渡った右側に弁天社があります。
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放生池の中には、水天宮社があります。
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また、「結び」と名付けられた二対の石柱が建っています。
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放生池の先に石段があり、その右側に確か稲荷社がありましたが、
画像を取り忘れました。
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石段を上った右側に、樹齢700~800年の楠木が葉を茂らせていて、
大阪府の天然記念物に指定されています。
幹回り・約5.2m、樹高・約25mあります。
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左側には絵馬殿があります。
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正面に拝殿があり、文政13年(1830)に建立されました。
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本殿は、拝殿の奥ではなく左側にあり、享保11年(1726)に建立され、
拝殿とともに昭和46年(1971)に修復が行われています。
祭神は、応神天皇で神功皇后と仲哀天皇が配祀されています。

欽明天皇(532-571)の時代に、神功皇后が三韓征討からの帰路、
この百舌鳥の地に立ち寄られました。
八幡大神の宣託をうけて、この地を万代(もず)と称し、
ここに神社を創建して祀られたと伝わります。
その後社運次第に隆昌に赴き、朝野の崇敬愈々厚く、王朝時代には
社僧四十八ケ寺、社家三百六十人、神領寺領八百町歩を擁しました。
古い記録としては、現在滋賀県長浜町に室町時代の応安6年(1373)在銘の
古梵鐘があり、これはもと本社の什物でした。
その銘文中に「近衛天皇の仁平年間(1151~1153)に本社の梵鐘が鋳造された」
旨記されています。
又、山城石清水八幡宮所蔵の古文書には、後白河天皇の保元3年(1158)に、
当社が石清水八幡宮の別宮となっていました。

境内の奥の方に、行基により開基されたと伝わる万代寺があります。
かっては八幡宮の境内にあり、八幡宮の奥の院とも呼ばれていました。
今回訪れたかったのですが、時間がなくなってしまいました。

葛井寺(ふじいでら)へ向かいます。
続く

葛井寺(ふじいでら)

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百舌鳥八幡宮から府道2号線に入り、その先で31号線に入り、
「野中」の信号を左折して府道186号線に入ります。
二つ目の信号を左折すると、藤井寺西幼稚園に突き当たり、
右折した先に葛井寺があります。
葛井寺は、山号を紫雲山と称する真言宗御室派の寺院で、西国三十三所・第五番、
河内西国三十三所・特別客番、神仏霊場巡拝の道・第59番の札所になっています。
楼門は、寛政2年(1790)に建立されました。
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仁王像は寛政8年(1796)に製作されました。
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門の内側には、地獄極楽図が掲げられていました。
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門を入った右側に弁天池があり、弁財天の石像が祀られています。
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左側にある楠の巨木です。
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参道を進むと「役行者像」が祀られています。
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役行者像の先に阿弥陀堂があります。
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堂内には、来迎院の等身の阿弥陀如来立像を中心に、
観音・勢至をはじめ二十五菩薩像が安置されています。
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阿弥陀堂の斜め前に「出世地蔵大菩薩像」が祀られています。
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阿弥陀堂の向かいに大師堂があります。
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堂内には弘法大師像が安置されています。
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大師堂の前に「専心龍乗観世音菩薩像」が祀られています。
「海・山・川に3千年の修行に励んだ龍は、龍神となって天に上り、
観世音菩薩はこの龍神を従え地上に現れた。
天空から舞い降りられた龍乗観世音菩薩に邪心なく、
一心に祈れば願いは必ず叶う。」と記されています。
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大師堂の前には「旗掛けの松」があります。
楠木正成は、葛井寺に陣を構え、正平2年(1347)に境内の松に「非法理権天」
の旗を掲げ、三人の息子とともに秘策を練り、
十倍の細川顕氏(ほそかわあきうじ)勢に大勝しました。
非法理権天とは、「非ハ理ニ勝タズ、理ハ法ニ勝タズ、法ハ権ニ勝タズ、
権ハ天ニ勝タズ」で、
「人間としてなすべきことは天命によってのみ動くものであり、
天を欺くことはできない
すなわち天はすべてを超越するものである」という意味になります。
その後、この旗を掲げられた松は、「旗掛けの松」と呼ばれ、
また、三葉の松葉が見られるそうですが、探している時間が
もったいないので先を急ぎます。
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「旗掛けの松」の斜め前方に鐘楼があります。
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本堂は、延享元年(1744)に起工され、宝暦3年(1753)上棟の棟札があり、
安永5年(1776)に30年余りの年月を費やして竣工されました。
葛井寺の創建は、百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連
(ふじいのむらじ)により6~7世紀頃に創建されたと伝わり、神亀2年(725)、
聖武天皇が本尊の千手観音像を奉納され、行基によって開眼法要が営まれました。
聖武天皇から古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、
平安時代の大同元年(806)、平城天皇の皇子・阿保親王(あぼしんのう)が
再興したとされています。
阿保親王の母も藤井氏であります。
その後、親王の子・在原業平によって奥の院諸堂が造営され、
業平はここに居住したとされています。
永長元年(1096)、大和国の住人・藤井安基が伽藍を修復したと伝わり、
その苗字から藤井寺とも称されるようになりました。
南北朝時代の藤井寺の合戦やその後の兵火により多くの堂塔を焼失しました。
また、永正7年(1510)の地震で諸堂が倒壊しました。
慶長6年(1601)、豊臣秀頼により本格的な再建に着手され、
徳川家代々の外護を受けて再建されてきました。

本尊は、十一面千手千眼観世音菩薩像(乾漆千手観音坐像)で
国宝に指定されています。
8世紀半ばごろの作で、日本に現存する千手観音像としては
最古のものの一つとされ、大阪府下唯一の天平仏でもあります。
秘仏とされ、毎月18日のみ開帳されます。
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本堂の左側に護摩堂があります。
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堂内には、中央に本尊の不動明王像、右側に千手観音像、
左側に役行者像が安置されています。
葛井寺は葛城山の西門といわれ、護摩堂は大峰山入峯(にゅうぶ)の最初に
行場として修験者達の信仰を集めてきました。
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西門は、豊臣秀頼により建立された旧南大門であった四脚門で、
国の重要文化財に指定されています。
付近には多くの風鈴が涼やかな音を奏でていました。
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境内には西国三十三所の各本尊が祀られています。
予定では、道明寺と道明寺天満宮を巡る予定でしたが、
時間がなくなり次回に譲ることになりました。
次回から四天王寺を巡ります。

堀越神社

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京都発5:43の網干行快速で大阪に行き、大阪で環状線に乗換、
天王寺駅に6:46に着きました。
駅から谷町筋を北上した所に堀越神社があります。
堀越神社は、聖徳太子が四天王寺を創建した際、叔父にあたる
崇峻天皇(すしゅんてんのう)を祭神として社殿を造営したのが最初と伝わり、
四天王寺七宮の一つに数えられています。
かつて創建当初から明治中ごろまで境内の南沿いに堀があり、
この堀を渡って参詣したのが社名の由来とされています。
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鳥居をくぐった左側に手水舎があります。
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右側に入ると「熊野第一王子之宮」があります。
京都・城南宮を発ち、船で八軒家浜船着場に着き、
上陸した所に第一王子の窪津王子がありました。
窪津王子は、後に四天王寺・西門近くの「熊野神社」に遷され、
その後「堀越神社」に合祀されました。
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「熊野第一王子之宮」付近に「白龍社」があります。
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「白龍社」の奥の方、神木の根に「太上神仙鎮宅七十二霊符尊神」が
祀られています。
鎮宅とは、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとの義で、下記のような由来があります。
「風水・宅相に精通していた漢の孝文帝が、あるとき孔農県に行幸したとき、
滅茶苦茶凶相の地に、立派な邸宅のあるのを怪しみ、その主人をよんで
尋ねたところ、その昔、災禍打ち続きど貧民となり不幸のどん底にあったとき、
いずこともなく書生二人が現れ、七十二霊符を伝授され、十年にして大富豪となり、二十年にして子孫栄え、三十年にして天子までが訪ねて来るであろうと預言し、
忽然と消えたという。ここに孝文帝はこの霊符の法を深く信仰し、天下に伝えた」
お守りやお札の元祖の神で、節分や七夕など星祭りは、
この神の家内安全、商売繁盛のお祭りです。
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参道に戻り、先に進んだ正面に本殿があります。
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本殿の左側に茶臼山稲荷神社があります。
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稲荷社の左側に狛犬が置かれています。
四天王寺へ向かいます。
続く

四天王寺-その1

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堀越神社から谷町筋に戻り、先に進んで右に入ると四天王寺の西入口があります。
石鳥居は、吉野山・金峯山寺(きんぷせんじ)の銅の鳥居(かねのとりい)と
安芸の宮島・朱丹の大鳥居(木製)とともに日本の三鳥居とされ、
国の重要文化財に指定されています。
この石鳥居は、永仁2年(1294)に建立当初の木造から建て替えられました。
春分・秋分の両彼岸の中日には、太陽が鳥居の中心から海へ沈むそうです。
現在では想像することもできませんが、かっては四天王寺からは
六甲山系と淡路島の中間の水平線に沈む夕日が眺められたそうです。
延暦6年(787)、空海が行った日想観修行が最古の例とされています。
観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には、浄土の情景を思い浮かべる修行
「観想」が16種類記されています。
その最初に説かれているのが、西方の浄土を思って日が没する様子を見詰める
「日想観」で、四天王寺は日本浄土思想発祥の地とされています。
平成13年(2001)秋から四天王寺では、日想観の法要が始まりました。

鳥居には修理の跡が見られます。
過去、幾多の地震や災害による修理の記録が残されていますが、
平成7年(1995)の阪神淡路大震災で石柱にヒビが入り、傾きが生じたため、
平成9年に半解体修理が行われました。
その際、島木を包む銅板の中から、永正(1504~1520)・寛文年間
(1661~1673)などの写経や経本などが多数確認されました。
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鳥居に架かる扁額は、高さ1.5mx横1.1mあり、「釈迦如来・転法輪処・
当極楽土・東門中心」と記され、弘法大師または
小野道風の筆によるとされています。
四天王寺HPによると『 おシャカさんが説法を説く所であり、
ここが極楽の東門の中心である』の意です。
この額は箕の形をしており「チリトリ」のように全ての願いを
すくいとって漏らさない阿彌陀如来の本願を現しています。

当日は、縁日で多くの露店が出て、朝早くからの参拝者もあり、
思うような画像が撮れなかった所や、抜けてしまった所もあります。
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鳥居をくぐった先に「引導石」がありますが、
肝心の「引導石」が撮れていませんでした。
「引導」とは、「衆生を導き、仏道の正法に引き入れること」との意味があり、
釈尊が「生者必滅・会者定離」の人生無常の迷いの世界より人々を
究極の悟りの世界へと導かれたことに始まります。
古記録によれば葬送の時、しばらく棺を引導石の前に置き、北引導鐘堂の鐘を
三つ打てば、聖徳太子自らこの引導石の上に影向され
安養の浄土にお導き下さると伝えられています。
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四天王寺高校の門の付近に「西国巡礼三十三度行者満願供養塔」があり、
大阪府の文化財に指定されています。
江戸時代、人々は自由に移動することが禁じられていましたが、
行者と呼ばれる人達は、大寺院の会所という組織に入ることで、
ある程度自由に霊場を巡ることができました。
西国三十三所観音霊場を巡礼する行者は「三十三度行者」と呼ばれ、
人々から託された願いを携え、霊場を巡礼しました。
この供養塔は、住吉大社近くの西の坊という寺院が組織した「住吉組」の行者が、
無事に巡礼を終えたことを記念にして文久2年(1862)に建立されたものです。
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高校の門を通り過ぎた所に「見真堂」があります。
親鸞聖人を顕彰し、建立されたもので、阿彌陀如来を本尊とし、
向かって右に聖徳太子像、左に名号本尊の「南無阿弥陀仏」の六字名号の
掛け軸が祀ってあります。
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「見真堂」の前には、親鸞聖人像が建立されています。
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「見真堂」から参道に戻った正面に西大門があります。
推古天皇元年(593)に創建され、昭和37年(1962)、
松下幸之助氏の寄贈により再建されました。
極楽に通ずる門の意味から、通称「極楽門」とよばれています。
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極楽門を入って左側に進むと修行大師像が建立され、その左側に大師堂があります。
大師堂の西側に布袋堂がありますが、いずれも画像は撮り忘れました。
修行大師像の周囲に四国八十八ヶ所霊場の砂が敷かれ、
参拝することができますが、1回に付300円が必要です。
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南の突き当りには阿弥陀堂があり、その右側に納骨堂があります。
昭和28年(1953)に四天王寺末寺の三重県国束寺(くずかじ)の本堂を
移築したものです。
法然上人二十五霊場の札所となっています。
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阿弥陀堂の左側、奥に万燈院があります。
聖武天皇の勅願により創建されたと伝わり、十一面観音坐像を本尊とし、
不動明王像、普賢菩薩像などの諸仏が安置されています。
また、紙の衣を着て修行した羅漢像が安置されていることから
「紙衣堂(かみこどう)」とも呼ばれています。
この羅漢は、五百羅漢の一人で、難病に苦しみながら紙の衣を着て修行をし、
病気平癒の請願を立てたと伝わります。
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万燈院の前に賓頭盧尊者像が祀られています。
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万燈院の左側に南大門があります。
推古天皇元年(593)に創建され、現在の門は昭和60年(1985)に
再建されたものです。
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門の内側に「熊野権現礼拝(らいはい)石」があります。
かって、熊野詣にはまずこの場所にて熊野を遥拝し、道中の安全を祈り、
熊野街道を南へと向かったと言われています。
続く

四天王寺-その2

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南大門を出て東に進むと唐門がありますが、詳細は不明です。
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唐門を入った所に「太子井戸屋形」があります。
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「太子井戸屋形」の右側に「鯨鐘楼(げいしょうろう)」があります。
北にある北鐘楼に対して南鐘楼とも呼ばれていますが、
鐘楼とは思えない建物に見えます。
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「鯨鐘楼」の右方向に「聖霊院(太子殿)」がありますが、
まだ開門されていませんので、その前の参道を北へ進みます。
左側に「野沢菜原種、旅の起点」の石碑が建立されています。
平成28年11月10日に、長野県の野沢温泉村から寄贈されました。
江戸時代の宝暦6年(1756)に、野沢の健命寺の住職が京都に遊学したとき、
四天王寺を訪れ、地元名産の「天王寺蕪」の種を持ち帰りました。
住職が持ち帰った種を植えたところ、カブは小さく大振りな葉柄の美味なる
蕪菜に育ち、後に野沢菜になったそうです。
平成21年10月、野沢菜伝来250年を記念して、往時の街道をたどる旅が行われ、
中山道経由で23日間、平成25年には北国街道経由で30日を要したそうです。
天王寺蕪は、天王寺付近が発祥地だといわれ、江戸時代から明治末期まで
盛んに栽培されましたが、耐病性の問題から大正末にはすたれました。
現在、「天王寺蕪の会」というグループが、この伝統野菜の
復興に取り組んでいるそうです。
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野沢菜の碑の先に、普賢菩薩が祀られています。
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「聖霊院(太子殿)」の中門。
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更に参道を進むと、宝物館がありますが、拝観時間は8:30からで、
まだ40分余り時間が早いです。
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宝物館の南側に「長持形石棺蓋」が展示されています。
荒陵(あらはか=現在の茶臼山付近)から出土したとされています。
いつの頃からか、亀井堂東の小溝に架けられ、この橋を渡ると
安産になるという、四天王寺の七不思議の一つと伝えられてきました。
明治時代になって、古墳時代の石棺の蓋であることが判明しました。
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「長持形石棺蓋」の右側に西門の石鳥居の笠石が展示されています。
鎌倉時代の永仁2年(1294)、忍性上人の発願により、
創建当初の木造から石造りに改められました。
この笠石は、石造りに改めらた当初のものと伝えられています。
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突き当りには、大阪府の文化財に指定されている石槽が展示されています。
縦1.99m、横1.15m、高さ0.87m、深さ0.57mあり、
元は西大門の西南外で手水鉢として使われていたものです。
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参道に戻り北へ進んだ先に亀井堂があり、その手前に亀井不動尊があります。
推古天皇元年(593)、聖徳太子が尊い声に呼び止められ、
亀井の井戸を覗かれると、不動明王の姿が水面に映っていたため、
ここに不動尊を祀られたのが始まりとされています。
本尊の水掛け不動尊は、近畿36不動尊の第一番霊場の本尊でもあり、
左に子育地蔵尊、右に延命地蔵尊が祀られています。

亀井堂には、金堂の地下から湧き出ていると云われる井戸があります。
その霊水に回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれています。
現在の建物は、昭和30年(1955)に再建されたもので、東側は影向の間と呼ばれ、
左右に馬頭観音と地蔵菩薩が安置されています。
中央には、聖徳太子が井戸に映った姿を、楊枝で描いた
自画像をと伝わる楊枝の御影が安置されています。
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亀井堂の右方向に石神堂があり、牛王尊(ごおうそん)が祀られています。
四天王寺が建立される時、建築資材である石や材木を運搬した牛が、
伽藍が完成すると石と化したと伝わる巨石が祀られています。
推古天皇元年(593)に創建されました。
石神堂から東方向に進んだ所に門らしき建物が見えていたのですが、
行きそびれてしまいました。
本坊の庭園「極楽浄土の庭」へ向かいます。
続く

四天王寺-その3(極楽浄土の庭)

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石神堂前の参道を北へ進んだ所に、本坊の門があり、
その横に庭園への受付けがあります。
庭園と中心伽藍、宝物館の拝観料がセットになった割引券がありますが、
本日は縁日で中心伽藍は無料開放されています。
庭園も通常は8:30からですが、8:00から開園され、
拝観料300円を納め、中に入ります。
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入った所に五智光院があり、国の重要文化財に指定されています。
大日如来を本尊とする五智如来を安置し、授戒灌頂会を修する道場で、
灌頂堂ともいわれます。
鎌倉時代初期の文治3年(1187)、後白河法皇が四天王寺で灌頂を受ける際に
灌頂堂として建立されたのが始まりとされています。
現在の建物は、元和9年(1623)に徳川秀忠により再建されたもので、
元は極楽門の南側にあったものを明治34年(1901)に現在地に移築し、
背面に建物が増築されました。
堂内には、徳川家代々の位牌が祀られています。
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渡廊の下をくぐり、庭園へと向かいます。
庭園は「極楽浄土の庭」と名付けられています。
西方十万億土の彼方にあるとされる極楽浄土には、阿弥陀如来が住み、
その説法を聞くことで、たちまち悟りを得て仏となることができるとされています。
そこは、荘厳な美と歓喜の世界とされ、その世界を意識して
「極楽浄土の庭」は作庭されました。
しかし、今は蝉の大合唱で、耳を塞ぎたくなります。
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庭に入った左側に、釈迦の滝があり、上部の左側に釈迦三尊を表した石があります。
「極楽浄土の庭」は、中国の僧・善導が『散善義』で説いた
二河白道(にがびゃくどう)』の説話に基づき改修、造園され、
平成15年(2003)8月8日より一般公開されています。
二河とは火の河と水の河を意味し、釈迦の滝から流れ出る河は、
火の河とされています。
憎しみは燃え上がると表すことから、火の河は怒りや憎しみを意味します。
釈迦の滝から分かれた河は、水の河とされ、欲に流されると表すことから、
貪りや執着する心を意味します。
火の河は、瑠璃光の池へと注ぎ、水の河との間にある白道は、
極楽の池へと続いています。
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瑠璃光の池には、薬師の滝があります。
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瑠璃光の池を通り過ぎた所に、茶室・青龍亭があります。
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青龍亭の右側に臨池亭があります。
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臨池亭の先に、松下幸之助氏によって寄贈された和松庵があり、
抹茶が頂けるようですが、準備中でした。
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極楽には、蓮の華が咲いていると説かれています。
残念ながら、極楽の池の蓮の華は少し早かったようです。
池の中には、阿弥陀三尊を表した石が配されています。
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池の東側に八角亭があり、登録有形文化財に指定されています。
明治36年(1903)、現在の天王寺公園を中心に開催された
第五回内国勧業博覧会の建物が移築されたもので、
青い洋風の建物は、極楽の池には違和感があります。
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池の周囲を巡って行くと、一心大神(弁財天)が祀られた祠があります。
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祠から少し緩やかな石段を上ると湯屋方丈があり、
国の重要文化財に指定されています。
昔は「清所」といい、聖徳太子の誕生を祝う「生身供」を調進する所として
使用されていました。
現在の建物は、江戸時代初期の元和3年(1617)、徳川秀忠によって再建され、
国の重要文化財に指定されています。
再建当初は、五智光院の前に建立されていたのですが、明治33年(1900)に
現在地に移築され、昭和57年~59年にかけて半解体修理が行われました。
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湯屋方丈の前には、観音浄土とされる補陀落の庭があります。
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湯屋方丈の横には、井戸が残され、十三重石塔が建立されています。
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釈迦の滝近くまで戻った所で、荒陵(あらはか)稲荷の石標に気付き、
外側の通路を進みます。
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通路の先に、自然石で組まれたような、大きな石灯籠があり、
その先に荒陵稲荷があります。
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かって、境内地には数か所に稲荷社や吒枳尼天(だきにてん)社が
祀られていましたが、明治の神仏分離令や第二次大戦の大阪大空襲で、
殆どが失われ、唯一残されたのが荒陵稲荷です。
荒陵稲荷は、境内の北東隅にあり、鬼門を鎮守しています。
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この地に焼失した稲荷社や吒枳尼天社が合祀されています。
右が稲荷社で、左が吒枳尼天社です。

英霊堂へ向かいます。
続く

四天王寺-その4

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極楽浄土の庭から西方向に進んだ右側に英霊堂があります。
明治39年(1906)に大釣鐘堂として建立され、
当時世界一大きい大梵鐘が釣られていました。
鐘は第二次大戦で供出され、その縁により戦没英霊を奉祀する
英霊堂と改名され現在に至ります。
毎月21日と8月15日の終戦記念日に、世界の平和を祈り、
戦争や災害犠牲者供養の為の法要が行われています。
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英霊堂の西側に大黒堂があります。
創建されたのは不明ですが、現在の建物は江戸時代の嘉永2年(1849)に
再建されたもので、元は南大門の西、万灯院の後ろにあったものが
現在地に移されました。
本尊は、三面大黒天と呼ばれ、正面に大黒天、右面に弁財天、
左面に毘沙門天の三面を持っています。
大黒天信仰は、最澄が天台山から持ち帰り、延暦寺に自ら刻んだ
三面大黒天を祀ったのが始まりとされています。
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大黒天堂から西に進み、北に少し入った所に元三(がんざん)大師堂があります。
平安時代に最澄によって創建されたと伝わり、大坂冬の陣で建物は焼失しました。
現在の建物は、江戸時代初期の元和9年(1623)に徳川秀頼により、
唯寺普門院として再建されたものです。
唯寺は塔頭の一つだったのでしょうか?
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再建当初は伝教大師像と普賢菩薩像が安置されていましたが、
後に元三大師像が本尊として祀られるようになり、
元三大師堂と呼ばれるようになりました。
堂内には、元三大師像、弘法大師像、文殊菩薩像、普賢菩薩像、
如意輪観世音菩薩像、不動明王像が安置されています。
元三大師堂は、比叡山横川(よかわ)にもあり、「天台中興の祖」と尊称される
良源が祀られ、リンク先のページに詳細を記しています。
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元三大師堂から参道に戻り、西へ進むと中之門があります。
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中之門の手前、左側に地蔵山があり、多くの地蔵尊が祀られています。
明治時代に近郷及び境内諸方より集めた有縁無縁の地蔵尊を、
小丘に合祀したのが始まりす。
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小丘へ上る手前に、融通地蔵尊が祀られています。
明治時代の末期、路面電車が通る道路工事が行われたため、
一心寺の門前西、逢坂の途中にあった「逢坂清水の井戸」の石組とともに
現在地に移されました。
この井戸は、いつも同じように清水をたたえ、水枯れせず茶の湯にも
適した名水であり、天王寺七名水の一つに数えられていました。
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丘の上には拝所があり、その背後には一際大きな地蔵像が祀られています。
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地蔵像の両横には小さな地蔵像が多数奉納されています。
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地蔵山から南下した所、池の畔に地蔵菩薩像と観音菩薩像が安置されています。
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右側には仏足石があります。
六時礼讃堂へ向かいます。
続く

四天王寺-その5

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池を挟んで北鐘堂が見えます。
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北鐘堂は、正式には黄鐘楼といい、北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれます。
かって、葬送の時、石鳥居の先にある引導石の前に棺を置き、
この鐘が三回撞かれたと云われています。
その鐘は外からは見えませんが、遠く極楽までも響くと云われています。
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北鐘堂の先に太鼓楼があります。
元は刻を知らせる太鼓を鳴らすお堂でしたが、
再建の際に梵鐘が釣られ鐘楼となりました。
本尊は虚空蔵菩薩で、毎月21日には開堂されます。
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六時礼讃堂の前、亀の池に架かっている石橋の上に石舞台があります。
住吉大社の石舞台厳島神社の平舞台とともに、
日本三大舞台の一つとされています。
元は木造でしたが、文化5年(1808)に石造りで再建され、
国の重要文化財に指定されています。
東西9.9m、南北12.6mの大きさがあります。
毎年4月22日に聖徳太子を偲んで行われる聖霊会舞楽大法要の際には、
古来の作法にのっとり舞台上で舞楽が舞われます。
8月11~12日には盆踊りも行われるようです。
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石舞台の手前、北鐘堂と太鼓楼の間に御供所があり、その左右に楽舎があります。
御供所は、聖霊会の際に御供物が安置される場所であり、
御供物はここから六時礼讃堂へと運ばれ、堂内の宝前に供えられます。
舞楽には「左方の舞」と「右方の舞」があり、
舞に対応して左方楽舎、右方楽舎が楽を奏でます。
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六時礼讃堂は、境内中央に位置し、薬師如来坐像と四天王像が安置されています。
元和9年(1623)に椎寺薬師堂を移築、建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
六時礼讃(ろくじらいさん)とは、浄土教における法要、念仏三昧行の一つで、
1日を6つに分け、誦経(読経)、念仏、礼拝が行われます。
また、「四六時中」の語源ともなっています。
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中心伽藍の周囲を南側に廻り、中門から入ります。
中心伽藍は、中門から北へ五重塔、金堂、講堂が一直線状に配され、
その周囲を回廊で囲まれています。
四天王寺は創建以来、度重なる災害により古い建物は悉く失われています。
近世以降でも、天正4年(1576)に石山本願寺攻めの兵火で焼失し、
豊臣秀吉によって再建されています。
慶長19年(1614)には大坂冬の陣で焼失し、江戸幕府の援助で再建されました。
しかし、幕末の享和元年(1801)に落雷により焼失し、
文化9年(1812)に再建されました。
昭和9年(1934)の室戸台風で五重塔と中門が倒壊し、金堂も大被害を受けました。
五重塔は昭和14年(1939)に再建されましたが、昭和20年(1945)の
大阪大空襲で国宝の東大門他伽藍とともに焼失しました。
現在の中心伽藍は、日本では最も古い建築様式の一つである
「四天王寺式伽藍配置」を踏襲し、昭和32年(1957)からコンクリート造りで
再建にかかり、昭和38年(1963)に落慶法要が営まれました。
中門は、創建当初の様式を再現して再建されました。
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門には鮮やかな色彩の金剛力士像が伽藍を守護しています。
左、密迹金剛力士(みっしゃく・吽像)、右、那羅延金剛力士 (ならえん・阿像)
ブレてしまったのが少し残念。
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門を入ると正面に五重塔が迫ってきます。
現在の五重塔は8代目で、昭和34年(1959)に再建されました。
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中心伽藍を囲む回廊を巡ります。
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金堂の堂内には、中央に本尊救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が安置されています。
周囲の壁面には中村岳陵筆の「仏伝図」の壁画が描かれています。

講堂の画像は取り忘れましたが、堂内西側を「夏堂」(げどう)、
東側を「冬堂」(とうどう)と称し、それぞれ阿弥陀如来坐像
松久朋琳・宗琳作)、十一面観音立像(佐川定慶作)を本尊とし、
安置されています。
金堂、講堂とも堂内の撮影は禁止されています。
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中心伽藍を出て、東側にある「聖霊院(太子殿)」へ向かいます。
唐門から中へと入ります。
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聖霊院の主要な建物は前殿と奥殿で、更にその北に絵堂がありますが、
立ち入りできるのは前殿のみです。
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前殿には、聖徳太子十六歳像・太子二歳像・四天王像が、
奥殿には太子四十九歳像(1月22日のみ公開の秘仏)が祀られています。
聖霊院は聖徳太子が祀られていることから太子殿とも呼ばれています。
四天王寺の草創について『日本書紀』に次のように記されています。
「用明天皇2年(587)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と
排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。
蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ
攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、
自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。
聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、
この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、
「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」と
いう誓願をした。
その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。
その6年後、推古天皇元年(593)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で
四天王寺の建立に取りかかった。」
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聖霊院の境内には、宝篋印塔も見られます。

極楽門近くにある納経所へ向かいます。
四天王寺は、聖徳太子霊跡1番、新西国三十三箇所1番、近畿三十六不動尊1番、
法然上人二十五霊跡6番、西国薬師四十九霊場16番、摂津国八十八箇所25番、
神仏霊場巡拝の道 第43番、西方四十八願所44番、西国三十三所番外、
四国八十八ヶ所霊場番外などの札所になっています。

清水寺へ向かいます。
続く

清水寺

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四天王寺から谷町筋を少し北上し、「子育地蔵尊」の石標が建っている所を
西側に入ると、上町台地の端に突き当たります。
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そこから先は、「清水坂」と呼ばれる下り坂になります。
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「清水坂」の手前を左に曲がると、通天閣がすぐ近くに望めます。
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先に進むと、門は閉じられていて、入り口が分からず一瞬焦りました。
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門から先へ進んだ所に墓地への入口があり、そこから仮本堂へと行けるようです。
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門の東側に、本堂の建設予定地がありますが、
まだ建築が始まるような気配は感じられませんでした。
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墓地の端の方に、鐘が釣られ、その前方に舞台があります。
墓地の中に「子育地蔵尊」が祀られているようですが、
墓地内へは立ち入らなかったので画像はありません。
この地蔵尊には伝承が残されています。
「昔、夜ごとに池に浮かび上がる霊木があり、
その木から赤子の鳴き声が聞こえます。
ある人が、これこそ衆生を加護するために、この世に現れた地蔵尊だとして、
その霊木で地蔵尊像を刻み、清水寺に安置した」と伝えられています。

石段を下り、仮本堂へと向かいます。
清水寺は、元は有栖寺(うすじ)と称し、摂州大江岸と呼ばれた
北・西・南の三方が崖になった精舎神窟の跡に創建されました。
仮本堂に掲げられた縁起書には、開山や四天王寺との関係についての
詳細が省略されていますので不明です。
寛永17年(1640)に延海阿闍梨(えんかいあじゃり)により中興されました。
延海は観世音菩薩の御告げを受けて、京都の清水寺を模した舞台造の本堂を建立し、本尊として京都の清水寺から迎えた千手観音像を安置しました。
このことから、新・清水寺と称されるようになりました。
この観音像は、聖徳太子作との伝承がありました。
現在は、正式には「有栖山清光院清水寺(ありすさん せいこういん
きよみずでら)」と称し、和宗総本山・四天王寺支院となっています。
仮本堂の1階が納経所で、新西国三十三箇所客番、近畿三十六不動尊2番、
摂津国八十八箇所26番の札所になっています。
2階には現在の本尊である十一面千手観世音菩薩、脇侍として阿弥陀如来像と
勢至菩薩像が安置されています。
背後には胎蔵界と金剛界の曼荼羅図が奉安されています。
三尊の左側に安置されているのが風天尊でしょうか?
風天尊は、仏教の護法善神である十二天の一尊であり、風を神格化したもので、
西北の守護神とされています。
初めて出会って、よく解らずに帰ってしまい、
もう一度じっくりと拝みたいと考えています。
また、右の方には役行者像が安置されています。
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仮本堂から奥の方に進むと、大阪市内唯一の天然の滝である
「玉出の滝」があります。
四天王寺・金堂地下にあると伝えられる青龍池の白石玉出の霊水が、
が地下を通り、300m離れたこの地に滝となって流れ出ているとされています。
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滝の奥にある石窟には、不動明王と二童子が祀られています。

大江神社から勝鬘院(しょうまんいん)へ向かいます。
続く

大江神社~勝鬘院(しょうまんいん)

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清水寺から谷町筋に戻り、北上して星光学院を通り過ぎた所を
左に曲がった突き当りに大江神社があります。
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大江神社の横は「愛染坂」と呼ばれる結構急な下りの石段になっています。
この石段は101段あり、健康と長寿を祈って「百歳(ももとせ)の階段」と
名付けられています。
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社頭には「夕陽岡」と刻まれた石碑が置かれています。
かって、この台地のすぐそばまで海がせまり、夕日が沈む際、
茜色に染まる空の美しさにいつしか「夕陽ヶ丘」と呼ばれるようになった
と伝わります。
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大江神社は、四天王寺の鎮守社である四天王寺七宮の一つとして、
聖徳太子が祀られていたと伝わります。
その後、天王寺北村の産土神(うぶすながみ)として、
豊受大神を祭祀するようになりました。
いつの頃よりか、乾の社と称して四天王寺の所管となり、境内には神宮寺が
建立され、毘沙門天が祀られるようになりました。
明治の神仏分離令により、慶応3年(1867)に現在の社名に改称されました。
社地が大江岸(おおえのきし)に続いていたことから大江神社となりました。
明治40年(1907)、近郊の素戔嗚尊を祭神とする土塔神社、
欽明天皇を祭神とし相殿に大己貴命、少彦名命を祀る上之宮神社、
応神天皇を祭神とする男山八幡神社が合祀されました。
また、翌年には素戔嗚尊を祭神とする小儀神社が合祀されました。
第二次世界大戦で絵馬堂と神器庫を残しすべて焼失しましたが、
昭和38年(1963)に本殿及び拝殿が復興されました。
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拝殿の正面に鳥居が建っています。
現在は、鳥居の先で参道は途切れていますが、
かってはここが入口だったと思われます。
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焼け残った絵馬堂でしょうか? 立入はできないようです。
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境内社の日吉稲荷神社
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境内の奥には、毘沙門天を守護する狛虎が鎮座しています。
神仏が分離された際、「吽形」が滋賀に移されました。
平成15年に地元有志によって「吽形」の狛虎が製作されたところ、
翌年阪神タイガースが優勝しました。
それ以来、大江神社は阪神タイガースファンの聖地の一つに数えられています。
現在、平成15年に同時に製作された「阿形」とともに、聖地を守護しています。
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大江神社を出た所に勝鬘院(しょうまんいん)があります。
勝鬘院は、四天王寺の施薬院として推古天皇元年(593)に聖徳太子によって
創建されました。
本堂には、勝鬘夫人坐像が安置され、聖徳太子が人々に勝鬘経を講ぜられたため、
勝鬘院と称するようになりました。
また、金堂に本尊である愛染明王が祀られていることから愛染堂とも
呼ばれています。
西国愛染十七霊場・第1番、聖徳太子霊跡・第29番の札所になっています。
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参道を進むと藥医門があります。
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門を入った左側に大力金剛尊(だいりきこんごうそん)が祀られています。
この像は、清王朝時代のもので、大正時代に活躍した大阪市天王寺区出身の
横綱(第26代)大錦が、満州巡業の折に自身の守護神として気に入って
中国から持ち帰り、初めは大阪国技館に奉安されていましたが、
昭和25年に愛染堂に遷されました。
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門の右側には七福神が祀られています。
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七福神の先に「愛染かつら」の木があります。
樹齢数百年といわれる巨大な桂の木に、ノウゼンカズラのツルが巻き付き、
桂とカズラが一体となったもので、恋愛成就・夫婦和合の霊木として
信仰されています。
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手水舎は、「愛染の霊水」と呼ばれ、常に清浄な霊水が湧き出ています。
この水を飲めば、愛敬を授かり、さらには開運、夫婦和合、良縁成就・安産、
出世、商売繁盛、などの功徳があるとされています。
また、この水で染め物をすると色よく染まると伝えられています。
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手水舎から左奥に進んだ所に、如来塔があり、身代わり観音と身代り地蔵が
並んで祀られています。
継承者がいなくなった墓石が集められ、祀られています。
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如来塔の前方に「腰痛封じの石」があります。
背もたれの突起に背骨のツボを当てながら呼吸をすれば、
腰痛封じに効果があるとされていますが、今のところ
腰痛には困っていませんので試していません。
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金堂の前、両側には慈母観音と慈父地蔵が祀られています。
金堂は境内の中央に位置し、推古天皇元年(593)に聖徳太子によって
施薬院が創建された時に建立されました。
その後の変遷は不明ですが、織田信長による石山本願寺攻めによって焼失し、
徳川二代将軍・秀忠によって再建されました。
金堂は、大阪府の文化財に指定されています。
本尊は愛染明王で、その左右には、薬師如来、勝鬘夫人(弁財天)、
歓喜天、十一面観音などが安置されています。
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金堂の裏側に多宝塔があり、大阪市最古の木造建造物として
国の重要文化財に指定されています。
多宝塔も施薬院の創建時に建立されましたが、石山本願寺攻めで焼失し、
慶長2年(1597)に豊臣秀吉により再建されました。
多宝塔の蛙股(かえるまた)には、十二支の彫刻が施されています。
多宝塔の本尊は、大日大勝金剛尊で、大阪府の文化財に指定されています。
大日大勝金剛尊は秘仏で、毎年6月30日の愛染まつり初日に開扉されます。
大日大勝金剛尊の周りには、仏教の守護神である十二天の壁画と
柱絵が納められています。

谷町筋を北上し、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)へ向かいます。
続く

生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)

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谷町筋を北上し、千日前通の手前を左に入った先に生國魂神社があり、
神仏霊場巡拝の道48番(大阪7番)の札所になっています。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社に位置付けられています。
社伝では、神武東征の際、神武天皇が摂津国石山碕(現在の大坂城付近)に
生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)を鎮祭したのが
始まりとされています。
生島神・足島神の2神は、『古事記』・『日本書紀』等の神話に記されない
神々であり、日本国土の神霊であるとも、またその国土にあるものを
生成・充足する神々ともされています。
旧社地の近くには、石山本願寺も建立され栄えましたが、
天正8年(1580)の石山合戦の兵火で社殿は焼失し、その後、豊臣秀吉による
大阪城築城に伴い、現在地に遷座されました。
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大阪大空襲により社殿が焼失し、昭和24年(1949)に再建されましたが、
翌年のジェーン台風で倒壊しました。
現在の建物は、昭和31年(1956)4月に鉄筋コンクリート造で再建されたもので、
豪壮な桃山文化の遺構とされる「生國魂造(いくたまづくり)」は再現されました。
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社殿の左側に米澤彦八の碑があります。
米澤彦八は、江戸時代中期の上方の落語家で、「上方落語の始祖」や
「落語家(落語)の祖」と呼ばれています。
かって、生國魂神社境内には小屋があり、彦八は人の足を止めて注目させるため、「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出して興行していました。
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彦八の碑の左側に天満宮があり、菅原道真が祀られています。
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天満宮の左側に住吉神社があり、底筒男神(そこつつおのかみ)、
中筒男神(なかつつおのかみ)、表筒男神(うわつつおのかみ)が祀られています。
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住吉神社から西方への突き当りに皇大神宮があり、天照皇大御神が祀られています。
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皇大神宮から石段を下ります。
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左に曲がると滝から池へと水が注がれています。
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池の中に精鎮社(せいちんしゃ)があり、事代主神(えびす)、
比大神(ひめのおおかみ=べんてん)が祀られています。
元は表参道の蓮池に「弁財天社」として祀られていましたが、
明治初めに精鎮社に改称し、戦後の蓮池埋め立てに伴い現在地に遷座されました。
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精鎮社の西側、北向きに稲荷神社があり、倉稲御魂神(うかのみたまのかみ)が
祀られています。
伏見稲荷大社笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷の一つに数えられる
祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ・佐賀県鹿島市)から分祀されました。
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稲荷神社の右側に源九郎稲荷神社があり、源九郎稲荷大明神、
八兵衛大明神が祀られています。
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源九郎稲荷神社の右側に鴫野神社(しぎのじんじゃ)があり、
市寸島比売神大宮売神(おおみやのめのかみ)、淀姫神が祀られています。
かって、大阪城の東側にあり、大阪城から淀君がこの弁天社に足繁く
通ったことから後に淀君も併せ祀られるようになりました。
大阪ビジネスパーク建設に伴い、現在地に遷座されました。
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鴫野神社から少し戻った右側、北向きに城方向八幡宮(きたむきはちまんぐう)が
あり、誉田別命(応神天皇)、気長足媛命(おきながたらしひめのみこと)、
玉依比売命(たまよりひめのみこと)が祀られています。
北方に位置する大坂城の守護神として鎮祭され、
かつては鳥居前の蓮池付近に鎮座していました。
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城方向八幡宮の右側に鞴神社(ふいごじんじゃ)があり、
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)、石凝杼売命(いしこりどめのかみ)、
香具土神(かぐつちのかみ)が祀られています。
鞴とは、火起こしの道具のことで、鍛冶の神になります。
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鞴神社の右側に家造祖神社(やづくりみおやじんじゃ)があり、
手置帆負神(たおきほおいのかみ)、彦狭知神(ひこさしりのかみ)が
祀られています。
家造りの祖神で、土木建築の守護神とされています。
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家造祖神社の右側に浄瑠璃神社があり、近松門左衛門
文楽(浄瑠璃)関係者が祀られています。
明治9年(1876)に竹本春太夫鶴澤清七らとともに、三業(太夫・三味線・人形)
の先師三十八柱の御霊を境内に合祀したのが始まりとされています。
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浄瑠璃神社の前方に八雲琴の碑があります。
八雲琴は、文政3年(1820)に伊予の中山琴主が創始したもので、
出雲大社に参籠し、神託を得て完成したと伝わります。
長さ約1m、幅約12cmの木製の胴の上に、2本の弦を張った琴。
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鞴神社前の参道を東に進みます。
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織田作之助の像が建立されています。
上方文化の発展に寄与されたとして、
平成25年に生誕100年を祝して建立されました。
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像の前に北門があります。
門を出て高津宮(こうづぐう)へ向かいます。
続く

高津宮(こうづぐう)

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生國魂神社から千日前通を越えて北に進んだ所に高津宮があります。
高津宮は、平安時代の貞観8年(866)に清和天皇の勅命により難波高津宮の
遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まります。
天正11年(1583)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、現在地である
比売古曽神社(ひめこそじんじゃ)の境内に遷座しました。
参道を進むと梅橋があり、橋を渡った所に梅の井がありましたが、
画像は撮り忘れました。
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その先には石段があり、石段の上には知恵の輪が見えます。
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石段の途中には「とこしえの舟 命の木」と名付けられた伊原セイチ氏の
作品が奉納されています。
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現在の本殿は、昭和20年(1945)3月の大阪大空襲によって焼失したため、
昭和36年(1961)10月に再建され、平成11年(1999)に修復が施されました。
本座には仁徳天皇が祀られています。
仁徳天皇は、難波高津宮(なにわのたかつのみや)に都を定め、
宮殿を建てましたが、色も塗らず、垂木や柱に飾り気のない
質素なものだったと伝わります。
ある時、高台から都を眺め、人家から炊煙が立ち上っていないことに気付き、
3年間租税を免除しました。
その間は倹約のために、宮殿の屋根の葺き替えさえなされませんでした。
3年が経過して、天皇が高台に登ると、人家から盛んに炊煙が立ち上っている
のが見え、「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑ひにけり」と詠みました。
租税の免除は、その後も3年間続けられました。
一方で、日本最初の大規模土木事業だったとされる「難波の堀江の開削」と
茨田堤(大阪府寝屋川市付近)」の築造を行いました。
『日本書紀』仁徳紀11年の記事に、「天皇は、洪水や高潮を防ぐため、
難波宮の北に水路を掘削させ、河内平野の水を難波の海へ排水できるようにし、
堀江と名付けた。」との内容の記述が見られます。
同記事には「天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に
茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)を築いた」と
の内容で記載されています。
堺市に仁徳天皇陵があります。
仁徳天皇陵ではないとの説もありますが、個人的には民衆の力添えにより、
世界一と言われる陵が造営され、天皇が葬られたのだと思います。
本殿の左座には、仁徳天皇の父である応神天皇を中心に、
その左右に祖父である仲哀天皇と祖母の神功皇后が祀られています。
右座には、后の葦姫(あしひめ)皇后と長子の履中(りちゅう)天皇
祀られています。
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本殿には神輿も置かれていました。
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本殿の右側に末社の高倉稲荷神社があります。
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神使いの狐像が多数奉納されています。
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本殿の左側に絵馬堂があります。
現在の絵馬堂は、昭和20年(1945)3月の大阪大空襲によって焼失したため、
昭和28年(1953)に再建され、平成11年(1999)に修復が施されました。
仁徳天皇が人家から炊煙が立ち上るのを望んだと伝わる
高殿をイメージした建物だそうです。
昭和30年頃までは大阪市内が一望でき、晴れた日には大阪湾や
遠くに六甲の山並みまで望めたそうです。
江戸時代には、望遠鏡を貸して大阪のまちなみを説明をする
商いまであったそうです。
茶店や料亭などもあり、雪見の名所として知られていたそうです。
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絵馬堂には千石船やクジラの髭が展示されています。
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絵馬堂から奥に進んだ所に神輿庫があり、唯一、空襲による被災を逃れました。
宝暦年間(1751~1764)に建立されましたが、外観はとても綺麗で、
最近修復されたように思えます。
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庫内には2基の神輿が納められているの見えます。
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神輿庫は龍が門番をしています。




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「郡戸王子(こうとおうじ)推定地」と刻まれた石碑が建っています。
郡戸王子は、熊野古道九十九王子の3番目の王子社でしたが、
現在は残されていません。
『摂津志』に高津宮の地に鎮座していた比売許曽神社が郡戸王子とされていた
との記述があることから推定地とされています。
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付近には「木谷逢吟・千種」の顕彰碑が建っています。
木谷逢吟(きたにほうぎん)は、明治10年4月4日、文楽の5代竹本弥太夫の
2男として生まれ、神戸の貿易銀行に就職したことが、後に「貿銀」をもじって
「蓬吟」と号する由来となりました。
大正3年「文芸同攻会」を創立、近松門左衛門の研究に打ち込む一方で、
浄曲名作実演会を開きました。
著書に『大近松全集』などがあります。
木谷千種は、逢吟の妻で日本画家。
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比売古曽神社は、大阪市東成区にも同名神社があり、式内名神大社
「摂津国東生郡 比売許曽神社(下照比売社)」の論社となっています。
かっての、この神社の境内地に高津宮は遷座されました。
現在は高津宮の摂社となっています。
比売古曽神社は、垂仁天皇2年(BC28)、愛来目山(現在の天王寺区小橋町
一帯の高台)に下照比売命(したてるひめのみこと)を祀り、
「高津天神」と称したことに始まると伝わります。
江戸時代の天明年間(1782~1788)までは、牛頭天王を主祭神とする
牛頭天王社でした。
現在は、下照比売命が祀られています。

地下鉄の谷町九丁目から東梅田まで行き、JRに乗換えて大阪から
さくら夙川まで乗車し、西宮神社へ向かいます。
続く

西宮神社-その1

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JRさくら夙川駅から国道2号線に出て、大阪方面に少し戻り、
えべっさん筋を南下した右側に西宮神社があります。
東門から続く築地塀は、「大練塀(おおねりへい)」と呼ばれています。
境内を取り囲む築地塀のうち、東面及び南面に全長247mに渡って築かれています。
第二次世界大戦で被災し、昭和25年(1950)の大修理の際、
築土の中から宗銭三枚、元銭一枚が発見され、
室町時代初期に築かれたのではないかと推定されています。
現存最古とされ、国の重要文化財に指定されています。
名古屋・熱田神宮の信長塀、京都・三十三間堂の太閤塀と並び
日本三大練塀の一つに数えられています。
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東門から少し南へ進んだ所に表大門があり、慶長9年(1604)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
天文3年(1534)の兵火により境内は悉く焼失し、
慶長9年(1604)から同14年にかけて豊臣秀頼の寄進より再建されました。
表大門は、丹塗りされていることから「赤門」とも呼ばれる四脚門です。
毎年1月10日の十日戎大祭の早朝6時に開門神事が行われます。
鎌倉時代の正元年間(1259~1260)には、すでに十日えびす祭の
潔斎として忌籠祭(いごもりさい)が行われていました。
忌籠祭とは、祭りの執行に際し、氏子全員が戸締まりをして静寂を守り、
灯火も消し、籠もって夜明けを待ち、
神霊を迎えることができる心身になるための神事です。
10日午前4時に大祭が厳粛裡に執り行われ、大祭終了後の
午前6時に表大門を開き、開門神事が行われます。
「走り詣り」は江戸時代頃から行われていましたが、「福男選び」は昭和15年、
「一番詣り」の参拝者を称えたのが始まりです。
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門の前、左側に青銅製の灯篭が2基並んでいますが、その奥に
石の常夜燈のように見えるのは、道標で西宮市の文化財に指定されています。
寛政11年(1799)の年号が入り、「西宮大神宮 左・京都大坂 道」
「右・兵庫はり満 道」と刻まれ、西国街道・山陽道の要衝の地で
あったことを示しています。
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門の前、右側に梅宮神社があり酒解神(さかどけかみ)が祀られています。
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石灯籠が建ち並ぶ境内を通り、南門へ向かいます。
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国道43号線に面して南門があります。
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南門の右側には石灯籠が並んでいます。
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南門の左側は、庭園のように整備されています。
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南門を入った左側に沖恵美酒神社(おきのえびすじんじゃ)があり、
沖恵美酒大神が祀られています。
元は現在地より南西方向の荒戎町に鎮座されていたことから、
戎神の荒御魂を祀っているとも云われています。
明治5年(1872)に現在地に遷座されました。
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沖恵美酒神社の先を左に曲がった所に、廣田神社の境外摂社である
南宮神社があります。
元は、西宮神社そのものが「浜南宮」と呼ばれる廣田神社の摂社で、
南宮神社が原型と云えるのかもしれません。
『日本書紀』に「神功皇后が関門海峡・長門豊浦の津に泊まり海中より
如意珠(こころままのたま)を得らると見ゆるも是なり」
と記載されている「剣珠」は、元は浜南宮に納められていました。
「剣珠」は、廣田神社の宝物で現存する日本最高最古の如意宝珠です。
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南宮神社の狛犬は、一方が傷ついているため親子で社殿を守護しています。
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沖恵美酒神社の斜め向かいに兒社(ちごしゃ)がありますが、
兒社は南宮神社の末社です。
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南宮神社の先、参道は真っ直ぐに社務所まで伸びています。
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参道を進んだ左側に六英堂があります。
六英堂は、かって東京丸の内にあった岩倉具視の私邸の一部で、
度々の変遷を経て、昭和52年(1977)に現在地に移築されました。
明治新政府の主要な人物、公家の三條実美、岩倉具視、薩摩の西郷隆盛
大久保利通、長門の木戸孝允伊藤博文の六人(六英傑)が度々会合を重ねた
ということから、この名が付けられたと言われています。
門は閉じられていますので、通常は公開されていないようです。
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六英堂の先に神馬舎があります。
昔、十日戎の前夜にえびすさんが、馬に乗り市中を巡回されたとの伝承があり、
その名残を伝えるものです。
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神馬舎の先に祈祷殿があります。
祈祷殿を通り過ぎた所で参道は左に曲がり、その先右側に拝殿があります。
続く

西宮神社-その2

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祈祷殿を通り過ぎて、左に曲がった先に「御戎之鐘」が保存されています。
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慶長15年(1610)3月付の銘が有り、豊臣秀頼の寄進より再建された
翌年に当たることから、秀頼の奉納によるものと考えられています。
かって、西宮神社にも鐘楼があったそうです。
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拝殿の前、左右に青銅製の狛犬と馬像が奉納されています。
狛犬は天保12年(1841)に奉納され、馬像は明治32年(1899)4月から
神社境内に作業所と鋳造場も設けて11月に完成させています。
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また、阪神大震災で落下して破損した境内末社・松尾神社の狛犬も置かれています。
寛政2年(1790)に奉納されたものですが、平成7年(1995)1月17日に発生した
阪神淡路大震災で台石から落下し、破損しました。
平成27年、震災より20年に当たることから、
震災の記憶としてこの場所に移されました。
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本殿は、向かって右から第一殿、第二殿、第三殿からなっています。
第一殿には主祭神である蛭児(ひるこ)大神が祀られています。
記紀によると、蛭児は伊弉諾と伊弉冉の間に生まれた子で、身体に障害があり、
三歳になっても立つことができず、葦の船に乗せて流されたとされています。
その後『源平盛衰記』では、摂津国に流れ着き「夷三郎殿」と称する
海を領する神となって祀られるようになりました。

中央の第二殿には天照大御神が祀られ、明治初年から大国主大神
配祀されるようになりました。
西宮神社は、明治5年(1872)3月に廣田神社から分社し、
翌年6月に西宮戎社を大国主西神社と改称しました。
その後の変遷を経て、第二次大戦後、西宮神社と廣田神社は別々の宗教法人となり、大国主西神社は社格を持たぬ神社として、西宮神社の境内神社となりました。

左の第三殿には須佐之男大神が祀られています。

西宮神社は神仏霊場巡拝の道67番(兵庫2番)の札所になっています。
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本殿の左側に火産霊神社(ほむすびじんじゃ)があり、
火皇霊神(ほむすびのかみ)が祀られ、火伏の神として信仰されています。
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火産霊神社の左側に百太夫神社があります。
人形操りでえびす神を慰めたと伝えられている百太夫という人物が祀られています。
かつて、現在地の北東に当たる産所町付近に、
その人形遣い(傀儡師=くぐつし)達が住んでいたと伝わり、
その地に祀られていました。
江戸時代末期の天保10年(1839)に現在地に遷され、
産所町には傀儡師の像が建てられています。
傀儡師たちは「えびすかき」とも呼ばれ、えびす神の人形を操って神得を説き、
巡業を行ってえびす信仰を全国に広めていきました。
時代の変遷により、西宮の人形操りは淡路島に移り、
浄瑠璃と結び付き人形浄瑠璃を生み出しました。

元来、百太夫神は疱瘡(天然痘)に霊験のある神とされ、庶民信仰では
子供の病気予防のため、御神体の顔に塗られたおしろいを子供の額に付けて、
健康に育つようにとする習わしがありました。
西宮神社では、現在でも初宮参りで百太夫神社に参拝し、
赤ちゃんの額におしろいを塗り、健康の祈願が行われています。
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百太夫神社の左奥に六甲山神社(むこやまじんじゃ)があり、
菊理姫命(くくりひめのみこと)が祀られています。
菊理姫命は、白山神社に祀られる白山比神(しらやまひめのかみ)と
同一神とされ、山の守護神です。
かつて「向か津峰」と呼ばれた六甲山全山は、元は廣田神社の社領であり、
六甲山上には今も廣田神社の奥宮である石宝殿が祀られています。
六甲山神社は、その方向に向かって建てられています。
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六甲山神社の左側、東向きに大国主西神社があり、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)が祀られています。
西宮神社自体を式内「大国主西神社」とする説があります。
明治3年(1870)、西宮神社は「大国主西神社」と改称しました。
明治7年6月、大国主西神社(現・西宮神社は)県社に列格しましたが、
この頃、境内末社の大己貴社を大国主西神社であるとする説が挙がり、
教部省は同年8月に大国主西神社(現・西宮神社)の県社指定は取り消されました。
同年11月、大国主西神社を西宮神社に、大己貴社を大国主西神社に改称して、
共に県社に指定されました。
西宮神社の改称問題は、厳密に言えば現在でも解消されていないようです。
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大国主西神社の左側に神輿殿があります。
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神輿殿の左方向に神明神社があり、豊受比女神(ととうけひめのかみ)が
祀られています。
神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神であり、
後に稲荷神(倉稲魂命=うかのみたまのみこと)と習合し、
同一視されるようになりました。
社殿は、明治6年(1873)に大坂奉行所・西宮勤番所の敷地内から
現在地に遷されました。
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神明神社の左側に松尾神社があり、大山咋神(おおやまくいのかみ)、
住吉三前大神(すみよしのみまえのおおかみ)、猿田彦命が祀られています。
大山咋神の「くい」とは、杭のことで、大きな山に杭を打つ神、
すなわち大きな山の所有者の神を意味し、
また、農耕(治水)を司る神とされています。
住吉三前大神は住吉三神と思われ、猿田彦命は、邇邇芸尊(ににぎのみこと )が
天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた=道がいくつもに分かれている所)
に立って高天原から葦原中国までを照らした神です。
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松尾神社から東方向に進むと池があり、池に架かる石橋を渡って
池の中に浮かぶ島へと向かいます。
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島には市杵島神社があり、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が
祀られています。
市杵島姫命は天照大神の子で、邇邇芸尊が降臨に際し、養育係として付き添い、
邇邇芸命を立派に生育させたことから、子守の神さま、子供の守護神とされました。
後の時代の神仏習合においては本地垂迹で弁才天に比定され、
江戸時代の貞享3年(1686)に描かれた絵図には「弁才天」と記載されています。
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市杵島神社がある島からもう一つの島へと橋を渡ると、
自然石が積み上げられた上に宇賀魂神社があり、
宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)が祀られています。
宇賀御魂命は、伏見稲荷大社の主祭神であり、
すべての生き物の生育を司る神とされています。
室町時代の文明年間(1469~1486)以前からこの地に祀られていた
との記録が残されています。
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島には伊勢神宮遥拝所もあります。
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島から拝殿正面に「瑞寶橋」と名付けられた石の太鼓橋が架かっています。
今では渡ることはできませんが、明治4年(1871)に奉納されたもので、
六甲山産の花崗岩が用いられた橋長5.5m、幅員2.5mの石橋で、
国の有形文化財に登録されています。
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社務所前から参道を戻ると、左側に庭津火神社があり、奥津彦神
奥津比女神(おくつひめのかみ)が祀られ、竈の神とされています。
庭津火神社には社殿が無く、塚の形をした封土をご神体とし、
神域内を守護しています。
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塚の形をした封土には、巨石が据えられています。
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東門への参道から出て、JRさくら夙川駅へ向かい、神戸駅まで行き、
神仏霊場巡拝の道70番(兵庫5番)札所の湊川神社へ向かいます。
続く

湊川神社

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JR神戸駅から北へ約5分歩いた所に湊川神社があり、
神仏霊場巡拝の道70番(兵庫5番)の札所になっています。
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表門の手前、右側にも門があります。
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門をくぐり奥の方に、楠木正成公の墓碑があり、贔屓(ひいき)が背負っています。
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墓所には徳川光圀公の像が建立されています。
元禄4年(1691)、徳川光圀公は水戸藩主を辞して、西山荘に隠棲し翌年
「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立しました。
この功績を追慕して、昭和30年(1955)に像が建立されました。
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参道は社殿まで一直線に伸びています。
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鳥居をくぐり、参道を進むと多くの酒樽が奉納されています。
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参道の正面に社殿があり、本殿には三つの御扉があります。
中央の御扉の奥には主神の正成公、向かって右には正成公夫人、
向かって左には御子の正行公と正成公の弟・正季公以下一族十六柱
並びに菊池武吉公が祀られています。
正成公は、九州から京都に向かう足利尊氏を摂津国湊川の地で迎え打ち、
新田義貞らとともに戦うが、延元元年/建武3年(1336)に敗退し自刃しました。
正行公は、正成公の死後も南朝側として戦い、河内の四條畷の戦いで破れて自刃し、明治23年(1890)正行公を主祭神とする四條畷神社が創建されています。
正季公は、兄の正成公とともに湊川の戦で敗れ、『太平記』では、
兄と刺し違えて死んだとされ、死に際に「七生滅敵」と誓ったと描かれています。
『太平記』では、正成公・正季公の兄弟とともに一族16名も自刃したとあり、
これら16柱の神霊も正季らと供に配祀されています。
菊池武吉は菊池武時の七男で、菊池武重の弟であり、
兄とともに新田義貞の軍で戦いましたが、
楠木正成らの自刃の場に居合わせたためにともに自刃しました。
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本殿の右側に昭和天皇が手蒔きされた楠木が植えられています。
昭和62年に佐賀県で行われた全国植樹祭で蒔かれた種から育った楠木を、
平成元年に兵庫県佐賀県人会から奉納されました。
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楠木の背後には「親子さざれ石」が奉納されています。
京都府舞鶴市岡田由里にある採石場で発見され、奉納されました。
楠木正成親子が桜井の駅で決別する場面と重ね合わせ、
「親子さざれ石」と名付けられました。
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「親子さざれ石」の右側、背後に菊水天満宮があり、菅原道真が祀られています。
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神社の前には、神使いである牛の像もあります。
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本殿の左側、奥に入った所に楠木正成戦没地があります。
延元元年(1336)に楠木正成公らが自刃した場所で、
400坪余りが国の史跡に指定されています。
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JR神戸駅まで戻り、加古川駅まで行き、新西国三十三所・第二十七番札所の
鶴林寺へ向かいます。
続く

鶴林寺

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鶴林寺へはJR加古川駅から「かこバス」③別府ルート
(別府 ・ 海洋文化センター方面)に乗換、約8分乗車して「鶴林寺」バス停で
下車、「鶴林寺・南」の信号を北へ少し進んだ所にあります。
但し、平日も土・日も午後は、ほぼ1時間に1本しかバスは運行されていません。

仁王門は、三間一戸の楼門形式で、室町時代に建立され、江戸時代末期に大修理、
改造されたものと推定され、兵庫県の文化財に指定されています。
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仁王門の前には「新西国三十三箇所27番」「聖徳太子霊跡27番」と
刻まれた石柱が建っていますが、その他にも「西国薬師四十九霊場22番」、
「播州薬師霊場9番」の札所となっています。
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仁王像については触れられていませんので、何時頃製作されたのか
定かではありませんが、歴史を感じさせます。
仁王門を入った所で入山料500円を納めますが、宝物館とセットで800円です。
時間は4時前で、4:30になると閉門されますので、
迷いましたが宝物館は諦めました。
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門を入った左側、広場の中に経堂があり、その横に石の鳥居が建っています。
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鳥居の先には行者堂があり、神変大菩薩(役行者)が祀られています。
行者堂は、室町時代の応永13年(1406)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
前面は春日造り、背面は入母屋造りで、こうした建物では最古級とされています。

経堂の先に三重塔があり、兵庫県の文化財に指定されていますが、
画像は取り忘れで表からのものしかありません。
三重塔は室町時代に建立され、江戸時代の文政年間(1818~30)に大修理が行われ、初重はほとんど新材で補修されました。
相輪は初和25年(1950)に改鋳されました。
昭和51年(1976)に放火により内部を焼損しましたが、
昭和55年(1980)に解体復元修理が行われました。
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三重塔の先に常行堂があり、平安時代に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
元は檜皮葺でしたが、室町時代後期の永禄9年(1566)に
瓦屋根に葺き替えられました。
常行堂は、正式には常行三昧堂と云い、本尊である阿弥陀如来像の周囲を、
阿弥陀仏を思いながら念仏を唱えて何十日も歩き続ける
厳しい修行が行われていました。
常行堂は、かなり格式のある天台宗寺院にしか存在せず、
その遺構として、鶴林寺の常行堂は、日本最古のものです。
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常行堂の背後に新薬師堂があり、ウインクする仏像が安置されています。
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新薬師堂の右側に講堂があり、研修道場になっています。
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講堂の前に地蔵堂があり、子安地蔵尊が祀られています。
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地蔵堂の左奥に塔頭の浄心院があり、その右側に宝生院、真光院と
塔頭が横一列に並んでいます。

参道へ戻ります。
本堂前の参道の右側に沙羅双樹、左側に菩提樹が植えられていますが、
画像は撮り忘れました。
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本堂は、棟札から室町時代の応永4年(1397)に建築が判明し、
国宝に指定されています。
鶴林寺の伝承では、高麗の僧・恵便(えべん)が物部氏ら排仏派の迫害から
逃れてこの地に隠棲していたのを、聖徳太子がこの地を訪れ、
崇峻天皇(すしゅんてんのう)2年(589)に、恵便のために
精舎を建立したのが始まりとされています。
太子建立七大寺の一つとされ、当初は刀田山(とたさん)四天王寺聖霊院と
号していました。
養老2年(718)、武蔵国の大目(だいさかん=国司の一役職)・
身人部春則(むとべはるのり)が太子の遺徳を顕彰するため、
七堂伽藍を建立しました。
9世紀の初め、慈覚大師円仁は、入唐の際に立ち寄り、
薬師如来を刻み国家の安泰を祈願されました。
天永3年(1112)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に
「鶴林寺」と寺号が改められました。
「鶴林」とは釈迦 涅槃の「沙羅双樹の林」を意味します。
現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有しますが、鎌倉・室町期には
寺坊だけで30以上の規模を有しました。
戦国時代、近隣の書写山は戦火に巻き込まれましたが、播磨姫路領主だった
黒田職隆(くろだもとたか)、黒田孝高(くろだ よしたか=通称・官兵衛)
親子の説得で信長派となり戦に巻き込まれず、当時の建築物が多数現存しています。
しかし、信長・秀吉の弾圧を受け、江戸幕府の厳しい宗教政策のため、
衰徴していきました。
本尊は、平安時代作の木造薬師如来像で、ともに平安時代作の
持国天像と多聞天像を脇侍としています。
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本堂の右手前、三重石塔が建つその奥に太子堂があり、平安時代の
天永3年(1112)に建立されたもので国宝に指定されています。
兵庫県で最古の建物で、天台宗の伽藍配置では、常行堂と対を成す
「法華堂」だったと考えられています。
堂内の東側壁画に聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれていますが、
その壁画は中世から厨子で覆われ、秘仏扱いとされ、
現在は国の重要文化財に指定されています。
本尊は、釈迦三尊像で、中尊の釈迦如来坐像は像高45.5cm、
平安時代後期の作とされ、国の重要文化財に指定されています。
堂内には、平安時代に描かれた来迎壁、九品来迎図、仏涅槃図が残されて
いますが、黒ずんでいて肉眼では図柄が確認できないそうです。
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本堂の右側に鐘楼があり、室町時代の応永14年(1407)に建立されたもので、
梵鐘とともに国の重要文化財に指定されています。
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鐘楼の右側に法華一石一字塔があります。
江戸時代の明和8年(1771)に建立された供養塔で、法華経の文字を
一つの石に一字づつ書いて千部収め、読誦して回向し三界万霊の菩提を
弔ったものです。
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法華一石一字塔の裏側に回るとマニ車があり、「ふりきり石」と説明され、
「インドの陀羅尼が彫られていて、この石に念じ、回すことで心にある
邪念を振り落とし、新たな自分に生まれ変わる」と解説されています。
また、「願いを叶える効果あり、回すことでより良い未来に自分を
向かわせる功徳がある」とも記載されています。
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法華一石一字塔の右側に観音堂があります。
江戸時代の宝永2年(1705)に、姫路藩主・榊原政邦の寄進により再建されました。
元来、愛太子観音と呼ばれる白鳳時代の聖観音菩薩像が祀られていましたが、
明治の神仏分離令後に浜の宮神社の本地仏であった、
現本尊の聖観音菩薩像が安置されています。
白鳳時代の聖観音菩薩像は、現在は宝物館で保存され、現本尊は秘仏であり、
厨子前に御前立の聖観音菩薩像、須弥壇の右側に善光寺如来像が安置されています。
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観音堂の右側に護摩堂があり、室町時代の永禄6年(1563)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
本尊は不動明王で、堂内の中央には護摩壇があります。
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宝物館の前に小さな池があり、池の中に弁財天が祀られています。
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境内には仏足石があります。
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境内を出て鶴林寺の裏側に回ると、C-11型蒸気機関車が保存されています。
ただ、屋根も無く、錆も目立ち、保存状態が良好とは言えません。
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鶴林寺の裏側は、鶴林寺公園として整備されています。
加古川駅まで歩きましたが、鶴林寺のHPでは25分と記載されていましたが、
30分余り費やしました。
次回は墓参りを兼ねて、金戒光明寺とその周辺を巡ります。

大蓮寺

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我が家の墓は金戒光明寺にありますので、墓参を兼ねて周辺を巡りました。
バイクで東山二条まで行き、二条通を西方向に左折して、
一筋目を南下した右側に、洛陽三十三所観音霊場・第8番札所の大蓮寺があります。
山号を引接山、院号を極楽院と号す浄土宗の寺院です。
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山門には、足腰健常の御守「走り坊さん」のポスターが貼られています。
「走り坊さん」とは、明治・大正時代の京都市中を一日中走るという奇行で
知られた僧で、法名を旗 玄教(はた げんきょう)と称しました。
小柄で病弱であった玄教は、寺の本堂や観音堂の再建のための勧進に市中を
走るようになり、健康を取り戻したとされています。
寺を訪れるのが困難な妊婦に、走ってお札を届け、また、富裕な檀信徒から
布施を受けても、帰りに貧しい人々に施したため、いつとなく
「今一休」と呼ばれ、大正7年の新聞紙面で紹介されました。
大飯食らいで大酒飲みの生活を送り、大正7年(1918)11月20日、
日本中を席捲したスペインかぜにより、45歳で逝去されました。
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山門には獅子の彫刻が貼り付けられています。
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山門をくぐった正面に本堂があり、明治初年の神仏分離に伴い廃寺となった
祇園社(現在の八坂神社)観慶寺から遷された薬師如来像などの
仏像が安置されています。
本堂への参道の両脇には、寺名に因んで蓮の鉢植えが並べられています。
花は6月下旬から8月中旬頃まで咲き、7月が見頃になるそうです。

大蓮寺の創建は、慶長5年(1600)に安土・桃山時代~江戸時代の僧・深誉が
京都市下京区西洞院五条の交差点付近に、阿弥陀如来像を安置する仏堂を
建立したのが始まりとされ、伝承が残されています。
「慈覚大師は晩年、比叡山の念仏堂にこもり、念仏三昧に修行し、
最後に阿弥陀如来を彫りました。
仕上げに掛かっていると、夢の中で阿弥陀如来が「比叡山から京都へ下りて、
女人の厄難(お産の苦しみ)を救いたい」とお告げになりました。
お告げに従い、女人禁制だった比叡山を下りて、真如堂(真正極楽寺)に
安置され、多くの女性たちの出産の苦しみを救われました。
時代が流れ、応仁の乱で真如堂は荒廃し、阿弥陀如来は行方知れずに
なってしまいました。
慶長5年のある日、深誉は伏見の地で金色に輝く阿弥陀如来を見出し、
誰も供養する者がいないことをもったいなく思い、
持ち帰って五条に仏堂を建て安置しました。
 後に、この阿弥陀如来は真如堂の阿弥陀如来であることがわかり
返還することになりました。
残念に思った深誉が二十一日間の念仏を修したところ、最後の夜に
旅の僧があらわれ共に念仏するが、次の朝には旅の僧の姿はなく、
本尊阿弥陀如来が二体になっていました。
そのうちの一体を本尊として安置したのが大蓮寺である」と伝わります。

 その後、後光明天皇の夫人である典侍・庭田秀子が難産に苦しんでいたため、
大蓮寺に安産祈願の勅命が下りました。
祈願の甲斐あって第一皇女の孝子内親王は無事出生し、
安産の寺として信仰を集めました。
後光明天皇崩御の後は有栖川職仁親王(ありすがわのみやよりひとしんのう)が
その信仰を受け継ぎ、その縁で寺紋は有栖川宮紋が使われています。
昭和19年(1944)の太平洋戦争中、五条坂の強制疎開により現在地に移り、
この地にあった常念寺に統合されました。
女人救済、安産に利益のある阿弥陀像として信仰されています。
また、本堂には祇園社(現在の八坂神社)観慶寺から遷された仏像が
安置されています。
祇園社の本尊であった薬師如来像は、伝教大師の作とされ、日光・月光菩薩を
両脇侍とし、共に国の重要文化財に指定されていますが、秘仏とされています。
札所本尊の十一面観音立像は平安時代の作とされています。
夜叉神明王立像は江戸時代の作とされています。
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本堂には山号「引接山」の扁額が掲げられています。
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本堂前の石標
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本堂前には、岡崎・法勝時の礎石が置かれています。
法勝寺(ほっしょうじ)は、平安時代から室町時代まで平安京の東郊、
白河(現在の岡崎公園、京都市動物園周辺)にあった、六勝寺のひとつです。
白河天皇によって平安時代の承保3年(1076)に創建されましたが、
応仁の乱以後に衰微し、その後廃絶しました。
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礎石の向かいには布袋像が祀られています。
境内には、かって大王松(だいおうしょう)と呼ばれた、樹齢約100年の
松の木が植えられていましたが、現在は枯れてしまい、伐採されました。
洛陽十二支妙見の第5番札所である満願寺へ向かいます。
続く

満願寺

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大蓮寺から二条通に戻り、二条通を東に向かい、岡崎通の信号で左折して北上し、
次の信号を右折して東に進み、一筋目の路地を右折した先、
左側に満願寺があります。
山門は江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
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山門には、山号「示現山(じげんざん)」の扁額が掲げられています。
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山門の左側に建つ石標
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山門を入った左側に文子(あやこ)天満宮があり、
拝殿及び本殿は京都市の文化財に指定されています。
平安時代の天慶3年(940)、菅原道真の乳母だった多治比文子(たじひのあやこ)は、西の京に道真を追悼する堂宇を建立しました。
北野朝日寺の僧・最珍を開基とし、道真の自作と伝わる天満自在天像を
安置する真言宗の寺院が満願寺の始まりとされています。
道真の霊が示現して願いが成就したことから、
山号を「示現山」と称したと伝わります。
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本殿に掲げられている扁額
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文子天満宮の左側に建つ石塔
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文子天満宮の右側に小さな祠がありますが、詳細は不明です。
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祠の前にとぐろを巻く蛇の石像、覆屋にも蛇の彫刻が施されています。
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本堂は、江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて造営され、
京都市の文化財に指定されています。
満願寺は、元禄10年(1697)に住持の宗遍(そうへん)僧正が、
妙伝寺の遠沾院日享(おんでんいんにっこう)上人に帰依して日蓮宗に改宗し、
元禄14年(元禄15年とも...)に現在の地に移りました。
元禄13年には東山天皇の勅願寺となっています。
本堂には、本尊である釈迦如来像及び多宝如来像が安置されています。
また、妙見菩薩像は当初、法勝寺塔頭の本光寺に安置されていたのですが、
安永3年(1774)に本光寺が焼失したために、満願寺に遷されました。
洛陽十二支妙見の5番の札所で、京都御所から辰(東南東)の方角に当たります。

本堂の右前に見える石碑は、日蓮上人が一万部の法華経読誦の大誓願成就を
記念する「妙経万部之塔」です。
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本堂の軒下にはかごが吊るされています。
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本堂の屋根にはうさぎが...
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本堂を左側に進んだ所には「経塔」と刻まれた石碑が建っています。
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本堂の右側、庫裡への参道脇に手水舎があり、現在地に移転した直後に
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
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庫裡の手前には「俊寛僧都故居碑」が建立されています。
俊寛僧都(しゅんかん そうず)は、後白河上皇の側近で、
法勝寺執行の地位にありました。
安元3年(1177)、平家の横暴に抗し、自らの鹿ケ谷の山荘で
藤原成親西光らと平氏打倒の密議を行いました。
しかし、密告により陰謀は露見し薩摩国の鬼界島に流され、
その後、俊寛は死を決意して、食を断ち自害したと伝わります。
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「俊寛僧都故居碑」の向かいには鐘楼があり、元禄16年(1703)に
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
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鐘楼の右側に「閼伽井天」が祀られ、その脇に法勝寺で使われていたと
伝わる井戸が残されています。
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この井戸は、俊寛の荒行井戸とも呼ばれていました。
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庫裡の左側に祖師堂があり、本妙寺分身の日蓮像が安置されています。
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祖師堂前の参道脇に映画監督「溝口健二之碑」が建立されています。
当時の大映社長の永田雅一氏が満願寺を菩提寺としていた縁から、
境内に建てられたそうです。
溝口健二は、昭和9年(1934)、永田雅一が設立した第一映画社に参加し、
その後の変遷を経て、昭和30年(1955)に当時、永田雅一が社長だった
大映の取締役に就任、重役監督となりました。
同年11月3日には映画監督として初の紫綬褒章を受章しましたが、
翌年、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し亡くなりました。
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「溝口健二之碑」の横に「大阪物語」の碑が建てられています。

洛陽三十三所観音霊場・第六番及び法然上人二十五霊跡・第二十四番札所の
金戒光明寺へ向かいます。
続く

金戒光明寺-その1

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満願寺から岡崎通に戻り、岡崎通を丸太町通を横切って北進した先で
突き当りになり、突き当りを右折して東に進んだ先に
金戒光明寺の高麗門があります。
高麗門は、安土・桃山時代後期から造られ始めた城門で、江戸時代以降には、
城郭に限らず神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などとして
多く築造されました。
金戒光明寺は、江戸時代の初期に城郭構造に改修され、文久2年(1862)に、
京都守護職・会津藩の本陣となりました。
境内は高台にあり、かっては洛中から天王山方面まで見渡せたそうです。
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門の左脇には「円光大師霊場」「会津藩殉職者墓所」の石碑が建立されています。
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高麗門をくぐり、参道を進んだ左側、石段の上に山門があります。
徳川幕府の命により、文政11年(1828)から再建に取り掛かり、
万延元年(1860)に落慶されました。
山門の楼内には、等身大の釈迦如来坐像と両脇侍に文殊菩薩と
普賢菩薩が安置され、十六羅漢像が随従しています。
但し、通常非公開です。
山門に掛る勅額「浄土真宗最初門」は、後小松天皇から賜ったもので、
法然が最初に浄土宗の布教を行った念仏発祥の地であることを意味し、
浄土真宗の宗派名を表すものではありません。
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門をくぐって進んだ左側に「勢至丸(せいしまる)さま」の像が建立されています。
勢至丸は、法然上人の幼名で、現在の岡山県久米郡久米南町で誕生し、
後その地に熊谷直実によって誕生寺が建立されました。
保延7年(1141)9歳の時、土地争論に関連し、父が殺害されましたが、
その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、
母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られることになりました。
その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、
また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めました。
天養2年(1145)、比叡山延暦寺に登って源光に師事し、久安3年(1147)に同じく
比叡山の皇円の下で得度し、天台座主・行玄を戒師として授戒を受けました。
久安6年(1150)、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行し、
18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という
諱(いみな=名前)も授かりました。
法然の僧としての正式な名は法然房源空です。
承安5年(1175)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって
回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗を開き、比叡山を下りました。
かって延暦寺の寺領であったこの地に庵を結び、念仏の教えを広めたのが
金戒光明寺の始まりとされ、この年が浄土宗の立教開宗の年とされています。
しかし、元久元年(1204)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起し、
承元元年(1207)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下されました。
法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として
土佐国(実際には讃岐国)に流罪となりました。
承元元年(1207)12月に赦免され、法然は讃岐国から戻ると
摂津国豊島郡(現箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210)3月21日まで
滞在していた記録が残されています。
翌年の建暦元年(1211)、京に入り、吉水に戻りましたが、
建暦2年(1212)1月25日、京都東山大谷で逝去されました。
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更に石段を上った左側に鐘楼があります。
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石段を上った右側の奥に経堂があります。
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経堂の左側に納骨堂があります。
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納骨堂の左側に阿弥陀堂があります。
慶長10年(1612)に豊臣秀頼によって再建されたもので、金戒光明寺に
現存する最も古い建物です。
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堂内には恵心僧都の最後の作とされる阿弥陀如来像が安置されています。
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正面に御影堂があり、大殿とも呼ばれています。
御影堂は昭和9年(1934)に焼失し、すぐさま再建に取り掛かり、
昭和19年(1944)に落慶法要が営まれました。
内陣正面に法然75歳の御影坐像が安置されています。
内陣の左側に安置されている文殊菩薩像は、獅子の背に乗り、
右手に智慧を象徴する利剣(宝剣)、左手に経典を乗せた青蓮華を持つています。
左側に獅子の手綱を握る優填王 (うでんのう)、右側に
仏陀波利(ぶっだはり)と最勝老人の脇侍を従え、共に運慶作と伝わります。
元は金戒光明寺の北西にあった中山法幢寺(ほうどうじ)の本尊でしたが、
応仁の乱の兵火を受け廃寺となり、その後、金戒光明寺の方丈へ遷されました。
寛永10年(1633)、豊永堅斎が徳川二代将軍・秀忠を菩提するために三重塔を
建立し、その本尊として安置されるようになりました。
以上の四躯が京都市の文化財に指定されたのを期に、5年をかけて修復が行われ、
善財童子が新調されて渡海文殊形式が整えられました。
御影堂の左脇に新たな須弥壇が設けられ、像高108.5cm・総高280cmの
文殊菩薩像と等身大の眷属四躯が安置され、平成20年4月22日に
御遷座開眼法要が営まれました。
内陣の右側には吉備観音と呼ばれる千手観音立像が安置されています。
吉備真備(きび の まきび)は、奈良時代の養老元年(717)に阿倍仲麻呂・
僧の玄らと共に遣唐使として入唐しました。
帰路、船が遭難しそうになり、吉備真備が「南無観世音菩薩」と唱えたところ、
その難から逃れ、種子島に漂着することができました。
吉備真備は、唐より持ち帰った栴檀(せんだん)の香木で、
僧・行基に頼み観音像を刻んだと伝わります。
これが吉備観音とされるもので、元は吉田山にあった吉田寺(きちでんじ)の
本尊でしたが、江戸時代の寛文8年(1668)に廃寺となり、徳川幕府の命により、
金戒光明寺へ遷されました。
吉備観音は洛陽三十三観音霊場の本尊でもあります。
本堂に下がる幢幡(どうばん)は、世界最大級の大きさで、製作日数
約3年をかけて平成22年9月に取り付けられました。
御影堂の天井高8mに対し、幢幡の総丈6mもあります。
幢幡とは、仏・菩薩の威徳を表す荘厳具で、幡を角状に集めて
周囲を瓔珞(ようらく)などで飾ったものを言います。
胴には、雲中菩薩40体が彫刻されています。
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御影堂に左前に手水舎があり、その右側に子育て地蔵尊が祀られています。
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御影堂の左側に阿弥陀如来の石仏が祀られています。
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その奥には、宝篋印塔や五輪塔が見られますが、詳細は不明です。
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御影堂の右手前には「熊谷直実 鎧掛けの松」が植えられています。
熊谷直実は、鎌倉時代初期の建久4年(1193)にここ黒谷に法然上人を訪ね、
方丈裏の池で鎧を洗い、この松の木に鎧を掛け、出家しました。
平成25年に二代目の松が枯れ、現在は三代目の松に引き継がれています。
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松の右側に大方丈への門がありますが、春と秋の特別公開以外は
大方丈は非公開です。
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境内の右端には清和殿(寺務所)があります。
三重塔へ向かいます。
続く
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