「撫でうさぎ」から下ってきた所に、摂社「船玉神社」があり、
祀られています。
天鳥船命は、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)とも呼ばれ、
天鳥船命は、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)とも呼ばれ、
「船玉神社」は主に海外への渡航の無事を祈る神として信仰されています。
古くは延喜式にも名前がみえ、住吉の荒魂ともいわれていました。
「船玉神社」の先に門があり、門の中に神館がありますが、
門は閉じられていて立ち入ることはできません。
石舞台の近くの池の畔の建物も神館の一部と思われます。
石舞台の近くの池の畔の建物も神館の一部と思われます。
門の南方に「市戎大黒社(いちえびすだいこくしゃ)」があります。
祭神は、事代主命 (ことしろぬしのみこと=えびす)と
祭神は、事代主命 (ことしろぬしのみこと=えびす)と
大国主命 (おおくにぬしのみこと=だいこく)で、大阪では最古の戎社になります。
「市戎大黒社の先に「御田」があります。
毎年6月14日に執り行われる「御田植神事」は
毎年6月14日に執り行われる「御田植神事」は
国の重要無形民俗文化財に指定されています。
社伝によれば、神宮皇后が五穀豊穣を祈るために、長門国から植女を召して
社伝によれば、神宮皇后が五穀豊穣を祈るために、長門国から植女を召して
御田を定められたことに始まると伝えられています。
御田の前にある建物は、当日、田舞や神田代舞(みとしろまい)、
風流武者行事、棒打合戦、田植踊、住吉踊などの伝統芸能が
奉納される会場となるのでしょうか?
「御田」から戻り、反橋が架かる池の端の方に神馬像があります。
駅から参道に入り、反橋を渡る手前を左に進んだ所に神馬舎がありますが、
神馬は1月7日の白馬神事(あおうましんじ)まで出張されているそうです。
住吉大社の神馬は代々白馬で、平安時代以降、
住吉大社の神馬は代々白馬で、平安時代以降、
白河天皇や源頼朝などによって奉納されてきました。
江戸時代より大阪炭屋仲間の「神馬講」が普段黒い炭を扱う為、
江戸時代より大阪炭屋仲間の「神馬講」が普段黒い炭を扱う為、
反対の白馬を奉納してきました。
この伝統は今も続いているそうです。
この伝統は今も続いているそうです。
神馬像の先に、末社「龍社(たつしゃ)」があり、
水波野女神 (みづはのめのかみ) が祀られています。
水波野女神は、代表的な水の神(水神)で、龍社はもとは
水波野女神は、代表的な水の神(水神)で、龍社はもとは
御井殿社 (みいどのしゃ) と呼ばれていました。
参道には多くの石灯籠が並んでいます。
殺害されるところを家臣の本田次郎親経(ほんだじろうちかつね)によって
難を逃れ、摂津住吉に至った。このあたりで日が暮れ、雷雨に遭い
前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、
局らを住吉の松原に導いてゆき、社頭に至った時には局が産気づいた。
本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍らの大石を抱いて男児を出産した。
これを知った源頼朝は本田次郎を賞し、若君に成長した男児は後に
薩摩・大隅二か国をあてられた。
これが島津氏初代・島津三郎忠久公である。
この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ「誕生石」の聖地に
垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が続いている。」
「誕生石」の先、右側に寺務所があります。
寺務所から路面電車が通る車道の方へ出ると時計塔があります。
住吉ライオンズクラブがチャーターナイト25周年記念として奉納し、
住吉ライオンズクラブがチャーターナイト25周年記念として奉納し、
昭和61年12月25日に建立されました。
時計塔から石灯籠が立ち並ぶ車道沿いに参道の方へ進みます。
阪堺電車「住吉鳥居前」の電停には、パンダ色の電車が止まっていました。
奥には南海電車の「住吉大社」駅も見え、その奥には住吉公園があります。
改めて表の参道からお参りします。
参道を進み、反橋を渡ります。
反橋を渡った先に建つ鳥居は、古い様式の四角柱の鳥居であるため、
角鳥居 (かくとりい) とも呼ばれています。
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)の筆による
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)の筆による
陶製の扁額が掲げられています。
鳥居と神門をくぐると、縦に「第三本宮」「第二本宮」「第一本宮」と並び、
「第三本宮」の左側に「第四本宮」があり、いずれも国宝に指定されています。
「第四本宮」の祭神は、神功皇后 (息長足姫命・
「第四本宮」の祭神は、神功皇后 (息長足姫命・
おきながたらしひめのみこと)です。
『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は
『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は
神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導きました。
皇后は大和への帰還中に麛坂皇子(かごさかのおうじ)・
皇后は大和への帰還中に麛坂皇子(かごさかのおうじ)・
忍熊皇子(おしくまのおうじ)の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも、
船が進まなくなりました。
務古水門(むこのみなと=兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと
務古水門(むこのみなと=兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと
住吉三神が三神の和魂を「大津の渟中倉の長峡(おおつのぬなくらのながお)」
で祀るように託宣を下しました。
皇后は、神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになりました。
大津の渟中倉の長峡が、現在の住吉大社の地であり、住吉大社の歴史年表に
皇后は、神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになりました。
大津の渟中倉の長峡が、現在の住吉大社の地であり、住吉大社の歴史年表に
よると、鎮祭されたのは、神功皇后摂政11年(211)とされています。
裏側から見た、手前「第三本宮」と奥に方が「第四本宮」です。
「第三本宮」は、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が祀られています。
「第三本宮」は、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が祀られています。
「第二本宮」には、中筒男命(なかつつのおのみこと) が祀られています。
「第一本宮」には、底筒男命 (そこつつのおのみこと) が祀られています。
現在の住吉公園は、かって海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされ、
『源氏物語』では明石の君に関連した重要な舞台として描かれています。
また、『一寸法師』では、子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に
また、『一寸法師』では、子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に
参拝して、一寸法師を授かったとされています。
源満仲は、摂津守であった天禄元年(970)に住吉大社に参籠し、
源満仲は、摂津守であった天禄元年(970)に住吉大社に参籠し、
住吉大神の神託により摂津国多田(兵庫県川西市多田)を源氏の本拠地としました。
源満仲の三男の源頼信は、河内国壺井(大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とし、
源満仲の三男の源頼信は、河内国壺井(大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とし、
河内源氏の祖となり、源為義の頃に住吉大社宮司の津守氏と婚族の関係にあり、
津守家43代神主は、源頼朝と祖父を同じとしています。
南北朝時代、宮司の津守氏の館の住之江殿(正印殿)に南朝の後村上天皇の
行宮が置かれ、約十年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つ
現在の境内地と馬場(現:住吉公園)の規模とされました。
明応2年(1493)に起きた明応の政変で、神主津守国則、遊佐氏と姻戚に
明応2年(1493)に起きた明応の政変で、神主津守国則、遊佐氏と姻戚に
社殿の大半を焼失しました。
慶長11年(1606)、豊臣秀頼により本格的な復興が行われるも、
慶長11年(1606)、豊臣秀頼により本格的な復興が行われるも、
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって再び灰燼に帰しました。
元和4年(1618)に江戸幕府将軍徳川秀忠の命により再興されました。
現在の本殿は、全て文化7年(1810)に再建されたもので、神社建築史上
元和4年(1618)に江戸幕府将軍徳川秀忠の命により再興されました。
現在の本殿は、全て文化7年(1810)に再建されたもので、神社建築史上
最古の特殊な様式である「住吉造」で造営されています
住吉大社をほとんど網羅したつもりでいましたが、まだ若干、摂社・末社や
住吉行宮跡など巡れていない所がありました。
次の機会に譲り、仁徳天皇陵へ向かいます。
続く
次の機会に譲り、仁徳天皇陵へ向かいます。
続く