清和殿から下ってきた所に蓮池があります。
蓮の季節は終わったらしく、名残を惜しむように一輪だけが
白い花を付けていました。
池には極楽橋が架かり、春日局が徳川二代将軍・秀忠の正室・お江与の供養塔を
建立した際に寄進されました。
寛永18年(1641)、豊永堅斎(伊丹重好=伊丹康勝?)により石橋に変えられ、
寛永18年(1641)、豊永堅斎(伊丹重好=伊丹康勝?)により石橋に変えられ、
平成16年(2004)に改修されました。
橋を渡った右側に塔頭の蓮池院(れんちいん)があり、熊谷直実が出家し、
法力房蓮生となり、庵を結んだ場所です。
熊谷直実は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、
熊谷直実は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、
武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地としました。
平家に仕えていましたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し
平家に仕えていましたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し
御家人となりました。
『平家物語』によれば、寿永3年(1184)に一ノ谷の戦いに参陣し、
『平家物語』によれば、寿永3年(1184)に一ノ谷の戦いに参陣し、
平敦盛と一騎討ちをしてその首を取りましたが、以後直実には
深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが
いっそう強くなったと伝えています。
建永2年9月4日(1207年9月27日)、蓮生は極楽浄土に生まれると
建永2年9月4日(1207年9月27日)、蓮生は極楽浄土に生まれると
予告して亡くなり、自らが開基となった粟生(あお)の
西山浄土宗総本山光明寺に遺骨が安置されました。
その後、春日局は、池に蓮を植え、堂を改修して名を
その後、春日局は、池に蓮を植え、堂を改修して名を
蓮池院熊谷堂と改称しました。
熊谷堂の右側に阿弥陀如来坐像が建立されています。
蓮池院前の石段を上った所に御廟があり、法然上人の遺骨が祀られています。
法然上人は、現在の知恩院勢至堂付近で80歳で亡くなられ、
法然上人は、現在の知恩院勢至堂付近で80歳で亡くなられ、
知恩院の法然廟に葬られました。
法然の遺骸は、石棺の中で護られていましたが、念仏の教えを快く思わない
法然の遺骸は、石棺の中で護られていましたが、念仏の教えを快く思わない
比叡山の僧たちにより、上人の墳墓をあばいて辱めようとしている、
という企みがあることが発覚しました。
嘉禄3年(1227)、弟子たちにより遺骸を嵐山の二尊院に移し、
嘉禄3年(1227)、弟子たちにより遺骸を嵐山の二尊院に移し、
さらに、太秦の西光院へ隠し、そして光明寺に移されました。
安貞2年(1228)正月25日、法然の17回忌に、遺骸は光明寺で荼毘に付されました。
光明寺には、火葬跡と石棺が今も残されています。
法然上人の遺骨は分骨され、一部が光明寺と知恩院に埋葬され、
安貞2年(1228)正月25日、法然の17回忌に、遺骸は光明寺で荼毘に付されました。
光明寺には、火葬跡と石棺が今も残されています。
法然上人の遺骨は分骨され、一部が光明寺と知恩院に埋葬され、
一部は信空上人が生涯離さず身に着けていました。
信空上人没後、法然上人の遺骨はこの地に埋葬されましたが、
信空上人没後、法然上人の遺骨はこの地に埋葬されましたが、
応仁の乱で廟は荒廃しました。
天正元年(1573)、五輪塔が建立され、延宝4年(1676)に堂宇が再建されました。
堂内・中央厨子の下層に五輪塔を包み、上層には勢至菩薩像が安置されています。
天正元年(1573)、五輪塔が建立され、延宝4年(1676)に堂宇が再建されました。
堂内・中央厨子の下層に五輪塔を包み、上層には勢至菩薩像が安置されています。
御廟の前、左側に平敦盛、右側に熊谷直実を供養する五輪塔が建立されています。
御廟から三重塔へ石段の下まで下り、石段下を横切って少し北に進んだ所に
豊臣秀吉の側室・淀殿は姉に当たります。
文禄4年(1595)に徳川二代将軍・秀忠と再婚し、慶長2年(1597)の千姫を頭に
文禄4年(1595)に徳川二代将軍・秀忠と再婚し、慶長2年(1597)の千姫を頭に
三大将軍・家光により増上寺に埋葬されました。
この供養塔は、家光の乳母であった春日局が、追善菩提のために建立し、
この供養塔は、家光の乳母であった春日局が、追善菩提のために建立し、
遺髪が納められています。
三重塔へ石段の下まで戻り、石段を数段上った左側に
五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来仏の石像があります。
江戸時代中頃に制作されたと思われ、全国でも16体ほどしか見られない
江戸時代中頃に制作されたと思われ、全国でも16体ほどしか見られない
珍しい石仏で、落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」はここからきています。
「無量寿経」によと、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと
「無量寿経」によと、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと
五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏と
なられたとあり、気の遠くなるような長い時間、修行をされた結果、
髪の毛が伸びて渦高く螺髪(らはつ)を積み重ねた頭となられたとされています。
石段を上り三重塔へと向かいます。
三重塔は、応仁の乱で焼失した後、寛永10年(1633)に豊永堅斎
三重塔は、応仁の乱で焼失した後、寛永10年(1633)に豊永堅斎
(伊丹重好=伊丹康勝?)により以前仕えていた徳川二代将軍・秀忠の
菩提を弔うために再建されました。
日本三文殊の塔の一つで、高さ22m、国の重要文化財に指定されています。
以前安置されていた本尊の文殊菩薩と脇士は、現在は本堂内に安置され、
日本三文殊の塔の一つで、高さ22m、国の重要文化財に指定されています。
以前安置されていた本尊の文殊菩薩と脇士は、現在は本堂内に安置され、
公開されています。
塔の周囲は落下物による危険防止のためか、フェンスで囲われています。
塔の周囲は落下物による危険防止のためか、フェンスで囲われています。
三重塔の裏側に当たる所に、清和天皇火葬塚があり、火葬後、遺骨は
生前の希望から水尾山陵(みずのおやまのみささぎ:京都市右京区)に
埋葬されました。
清和天皇は、平安時代前期の第56代天皇で、天安2年11月7日
清和天皇は、平安時代前期の第56代天皇で、天安2年11月7日
(858年12月15日)~貞観18年11月29日(876年12月18日)まで在位しました。
清和天皇は、文徳天皇の第四皇子でしたが、外祖父・藤原良房の後見の元、
清和天皇は、文徳天皇の第四皇子でしたが、外祖父・藤原良房の後見の元、
3人の兄を退けて生後8か月で皇太子となりました。
天安2年(858)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位しますが、
天安2年(858)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位しますが、
良房が外戚として政治の実権を握りました。
貞観8年(866)には伴善男(とも の よしお)らによるものとされる
貞観8年(866)には伴善男(とも の よしお)らによるものとされる
応天門炎上事件(応天門の変)が発生し、事件を解決した
良房を正式に摂政に任命しました。
貞観18年(876)、第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、
貞観18年(876)、第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、
2年半後の元慶3年(879)5月に出家しました。
その年の10月より畿内巡幸の旅に入り、翌年3月丹波国水尾の地に入り、
その年の10月より畿内巡幸の旅に入り、翌年3月丹波国水尾の地に入り、
絶食を伴う激しい苦行を行いました。
水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融(みなもと の とおる)
水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融(みなもと の とおる)
の別邸棲霞観(せいかかん)にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち
崩御されました。
清和天皇火葬塚の東側に八橋検校の墓所があります。
八橋検校は、江戸時代前期の近世筝曲の祖とされ、墓参に来る弟子たちのために、
八橋検校は、江戸時代前期の近世筝曲の祖とされ、墓参に来る弟子たちのために、
沿道にある茶店が琴の形に似せた焼き菓子を供しました。
これが八つ橋の発祥となりました。
これが八つ橋の発祥となりました。
三重塔の前まで戻り、石段を半分ほど下った所を右に入ります。
突き当たりに塔頭の西雲院があります。
西雲院の山門の手前右側に「傀儡(くぐつ)塚」があります。
傀儡師は、人形を操って全国を巡業しました。
また、西宮神社の傀儡師たちが淡路島に移り、浄瑠璃と結び付き
また、西宮神社の傀儡師たちが淡路島に移り、浄瑠璃と結び付き
人形浄瑠璃を生み出しました。
昭和63年、水田外史(がいし)と彼が創立したガイ氏即興人形劇場が
施主となってこの塚が建立されました。
西雲院の山門をくぐった右側に「紫雲石」が置かれています。
承安5年(1175)、法然上人が43歳の時、比叡山を下り当地に立ち寄られました。
大石に腰を掛け、念仏を称えていたところ、西方より紫雲が湧きあがったと伝わり、法然上人がこの地が念仏有縁の地と定め、浄土宗を開きました。
法然没後、弟子の二世・信空(しんくう)は、比叡山・黒谷別所の坊を移したので、この地は「新黒谷」とも、また地名から「白河禅坊」とも呼ばれました。
五世・恵(えぎ)のとき堂舎が整い紫雲山・光明寺と称しました。
八世・運空は、後光厳天皇に円頓戒を授け、天皇から「金戒」の2字を賜り、
承安5年(1175)、法然上人が43歳の時、比叡山を下り当地に立ち寄られました。
大石に腰を掛け、念仏を称えていたところ、西方より紫雲が湧きあがったと伝わり、法然上人がこの地が念仏有縁の地と定め、浄土宗を開きました。
法然没後、弟子の二世・信空(しんくう)は、比叡山・黒谷別所の坊を移したので、この地は「新黒谷」とも、また地名から「白河禅坊」とも呼ばれました。
五世・恵(えぎ)のとき堂舎が整い紫雲山・光明寺と称しました。
八世・運空は、後光厳天皇に円頓戒を授け、天皇から「金戒」の2字を賜り、
金戒光明寺と改めました。
応仁元年(1467)に起こった応仁の乱でほとんどの堂舎が焼失し、
応仁元年(1467)に起こった応仁の乱でほとんどの堂舎が焼失し、
その後衰微しましたが、永正年間(1504~1520)に十七世・極譽理聖によって
復興が始まりました。
豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役で、高麗の人であった宗厳が捕らえられて、
豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役で、高麗の人であった宗厳が捕らえられて、
日本に連れてこられました。
宗厳は、羽柴下総守(瀧川雄利)の息女の召し使いとなりましたが、
宗厳は、羽柴下総守(瀧川雄利)の息女の召し使いとなりましたが、
宗厳30歳のとき、息女は17歳で亡くなりました。
人生の無常を感じた宗厳は出家して、11年間修行の後、黒谷に戻り、
人生の無常を感じた宗厳は出家して、11年間修行の後、黒谷に戻り、
紫雲石を金戒光明寺・第二十七世の了的(りょうてき)により授けられ、
寛永5年(1628に)西雲院を開山しました。
一心不乱に念仏を唱える宗厳の下には多くの僧侶が集まり、
また多くの寄進を集めたといわれています。
西雲院を出て、その先で左に曲がった所に会津藩殉職者墓地があります。
幕末の文久2年(1862)から、京都を守護するため、遠く会津から赴き、
幕末の文久2年(1862)から、京都を守護するため、遠く会津から赴き、
命を落とした364の霊が祀られています。
真如堂へ向かいます。
続く
続く