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少し時間に余裕が出てきましたので、京都や近郊を歩いてみたいと思います。

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  • 09/04/17--19:20: 金戒光明寺-その2
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    清和殿から下ってきた所に蓮池があります。
    蓮の季節は終わったらしく、名残を惜しむように一輪だけが
    白い花を付けていました。
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    池には極楽橋が架かり、春日局が徳川二代将軍・秀忠の正室・お江与の供養塔を
    建立した際に寄進されました。
    寛永18年(1641)、豊永堅斎(伊丹重好=伊丹康勝?)により石橋に変えられ、
    平成16年(2004)に改修されました。
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    橋を渡った右側に塔頭の蓮池院(れんちいん)があり、熊谷直実が出家し、
    法力房蓮生となり、庵を結んだ場所です。
    熊谷直実は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、
    武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地としました。
    平家に仕えていましたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し
    御家人となりました。
    『平家物語』によれば、寿永3年(1184)に一ノ谷の戦いに参陣し、
    平敦盛と一騎討ちをしてその首を取りましたが、以後直実には
    深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが
    いっそう強くなったと伝えています。
    建永2年9月4日(1207年9月27日)、蓮生は極楽浄土に生まれると
    予告して亡くなり、自らが開基となった粟生(あお)の
    西山浄土宗総本山光明寺に遺骨が安置されました。
    その後、春日局は、池に蓮を植え、堂を改修して名を
    蓮池院熊谷堂と改称しました。
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    熊谷堂の右側に阿弥陀如来坐像が建立されています。
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    蓮池院前の石段を上った所に御廟があり、法然上人の遺骨が祀られています。
    法然上人は、現在の知恩院勢至堂付近で80歳で亡くなられ、
    知恩院の法然廟に葬られました。
    法然の遺骸は、石棺の中で護られていましたが、念仏の教えを快く思わない
    比叡山の僧たちにより、上人の墳墓をあばいて辱めようとしている、
    という企みがあることが発覚しました。
    嘉禄3年(1227)、弟子たちにより遺骸を嵐山の二尊院に移し、
    さらに、太秦の西光院へ隠し、そして光明寺に移されました。
    安貞2年(1228)正月25日、法然の17回忌に、遺骸は光明寺で荼毘に付されました。
    光明寺には、火葬跡と石棺が今も残されています。
    法然上人の遺骨は分骨され、一部が光明寺と知恩院に埋葬され、
    一部は信空上人が生涯離さず身に着けていました。
    信空上人没後、法然上人の遺骨はこの地に埋葬されましたが、
    応仁の乱で廟は荒廃しました。
    天正元年(1573)、五輪塔が建立され、延宝4年(1676)に堂宇が再建されました。
    堂内・中央厨子の下層に五輪塔を包み、上層には勢至菩薩像が安置されています。
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    御廟の前、左側に平敦盛、右側に熊谷直実を供養する五輪塔が建立されています。
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    御廟から三重塔へ石段の下まで下り、石段下を横切って少し北に進んだ所に
    お江与(江=ごう)の供養塔があります。
    お江与の父は、近江小谷城主・浅井長政、母は織田信長の妹・お市の方で、
    豊臣秀吉の側室・淀殿は姉に当たります。
    文禄4年(1595)に徳川二代将軍・秀忠と再婚し、慶長2年(1597)の千姫を頭に
    家光忠長和子など2男5女を儲けました。
    寛永3年(1626)、江戸城西の丸で54歳で亡くなり、長男である
    三大将軍・家光により増上寺に埋葬されました。
    この供養塔は、家光の乳母であった春日局が、追善菩提のために建立し、
    遺髪が納められています。
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    三重塔へ石段の下まで戻り、石段を数段上った左側に
    五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来仏の石像があります。
    江戸時代中頃に制作されたと思われ、全国でも16体ほどしか見られない
    珍しい石仏で、落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」はここからきています。
    「無量寿経」によと、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと
    五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏と
    なられたとあり、気の遠くなるような長い時間、修行をされた結果、
    髪の毛が伸びて渦高く螺髪(らはつ)を積み重ねた頭となられたとされています。
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    石段を上り三重塔へと向かいます。
    三重塔は、応仁の乱で焼失した後、寛永10年(1633)に豊永堅斎
    (伊丹重好=伊丹康勝?)により以前仕えていた徳川二代将軍・秀忠の
    菩提を弔うために再建されました。
    日本三文殊の塔の一つで、高さ22m、国の重要文化財に指定されています。
    以前安置されていた本尊の文殊菩薩と脇士は、現在は本堂内に安置され、
    公開されています。
    塔の周囲は落下物による危険防止のためか、フェンスで囲われています。
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    三重塔の裏側に当たる所に、清和天皇火葬塚があり、火葬後、遺骨は
    生前の希望から水尾山陵(みずのおやまのみささぎ:京都市右京区)に
    埋葬されました。
    清和天皇は、平安時代前期の第56代天皇で、天安2年11月7日
    (858年12月15日)~貞観18年11月29日(876年12月18日)まで在位しました。
    清和天皇は、文徳天皇の第四皇子でしたが、外祖父・藤原良房の後見の元、
    3人の兄を退けて生後8か月で皇太子となりました。
    天安2年(858)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位しますが、
    良房が外戚として政治の実権を握りました。
    貞観8年(866)には伴善男(とも の よしお)らによるものとされる
    応天門炎上事件(応天門の変)が発生し、事件を解決した
    良房を正式に摂政に任命しました。
    貞観18年(876)、第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、
    2年半後の元慶3年(879)5月に出家しました。
    その年の10月より畿内巡幸の旅に入り、翌年3月丹波国水尾の地に入り、
    絶食を伴う激しい苦行を行いました。
    水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融(みなもと の とおる)
    の別邸棲霞観(せいかかん)にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち
    崩御されました。
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    清和天皇火葬塚の東側に八橋検校の墓所があります。
    八橋検校は、江戸時代前期の近世筝曲の祖とされ、墓参に来る弟子たちのために、
    沿道にある茶店が琴の形に似せた焼き菓子を供しました。
    これが八つ橋の発祥となりました。
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    三重塔の前まで戻り、石段を半分ほど下った所を右に入ります。
    突き当たりに塔頭の西雲院があります。
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    西雲院の山門の手前右側に「傀儡(くぐつ)塚」があります。
    傀儡師は、人形を操って全国を巡業しました。
    また、西宮神社の傀儡師たちが淡路島に移り、浄瑠璃と結び付き
    人形浄瑠璃を生み出しました。
    昭和63年、水田外史(がいし)と彼が創立したガイ氏即興人形劇場が
    施主となってこの塚が建立されました。
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    西雲院の山門をくぐった右側に「紫雲石」が置かれています。
    承安5年(1175)、法然上人が43歳の時、比叡山を下り当地に立ち寄られました。
    大石に腰を掛け、念仏を称えていたところ、西方より紫雲が湧きあがったと伝わり、法然上人がこの地が念仏有縁の地と定め、浄土宗を開きました。
    法然没後、弟子の二世・信空(しんくう)は、比叡山・黒谷別所の坊を移したので、この地は「新黒谷」とも、また地名から「白河禅坊」とも呼ばれました。
    五世・恵(えぎ)のとき堂舎が整い紫雲山・光明寺と称しました。
    八世・運空は、後光厳天皇円頓戒を授け、天皇から「金戒」の2字を賜り、
    金戒光明寺と改めました。
    応仁元年(1467)に起こった応仁の乱でほとんどの堂舎が焼失し、
    その後衰微しましたが、永正年間(1504~1520)に十七世・極譽理聖によって
    復興が始まりました。
    豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役で、高麗の人であった宗厳が捕らえられて、
    日本に連れてこられました。
    宗厳は、羽柴下総守(瀧川雄利)の息女の召し使いとなりましたが、
    宗厳30歳のとき、息女は17歳で亡くなりました。
    人生の無常を感じた宗厳は出家して、11年間修行の後、黒谷に戻り、
    紫雲石を金戒光明寺・第二十七世の了的(りょうてき)により授けられ、
    寛永5年(1628に)西雲院を開山しました。
    一心不乱に念仏を唱える宗厳の下には多くの僧侶が集まり、
    また多くの寄進を集めたといわれています。
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    西雲院を出て、その先で左に曲がった所に会津藩殉職者墓地があります。
    幕末の文久2年(1862)から、京都を守護するため、遠く会津から赴き、
    命を落とした364の霊が祀られています。

    真如堂へ向かいます。
    続く

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    金戒光明寺の北門を出たすぐ先に真如堂があるのですが、バイクで移動
    しているため、金戒光明寺を周り込むように真如堂の駐車場まで来ました。
    駐車場から一旦外に出て、向かいの山手の方へ進んだ右側に陽成天皇の
    神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)があります。
    陽成天皇は、生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876)11月に
    9歳で父・清和天皇から譲位されました。
    母方の伯父・藤原基経が摂政に就きましたが、確執があり、また宮中で
    殺人事件が発生したことから、基経に迫られ、元慶8年(884)2月4日、
    17歳で退位しました。
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    陵の先に宗忠神社の鳥居が見えますが、雷注意報が発令されていますので、
    真如堂へ戻り先を急ぎたいと思います。
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    参道に入り、総門の手前左側に法伝寺があり、
    荼枳尼天(だきにてん)が祀られています。
    お寺というより神社のように見えます。
    順徳天皇が、縣井(あがたい)の中から現れた黄金の如意輪観音を
    祀るために一条東洞院に法伝寺を建立しました。
    その後。現在地に移転しました。
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    参道へ戻ります。
    総門は江戸時代の(1695)に建立され、赤く塗られていることから
    「赤門」とも呼ばれています。
    総門には敷居が無く、総門をくぐった所に駐車場があります。
    真如堂が位置する所は、神代の時代に八百万の神が神楽を舞った聖地で
    あったことから神楽岡と呼ばれています。
    総門に敷居が無いのは、神楽岡の神々が毎夜の参詣につまずかないように
    配慮されているためと伝わります。
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    総門を入って右側に三重塔が目に入ります。
    三重塔は法華塔とも呼ばれ、高さ30mあり、
    江戸時代の(1817)に再建されました。
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    三重塔の右側に地蔵堂があり、殺生石(せっしょうせき)で刻まれた
    鎌倉地蔵が祀られています。
    今から1300年前の中国に、白面金毛九尾(金色の毛に覆われ九の尾を持つ)
    狐がいて、美女に変身して皇帝を虜にし、国を傾かせました。
    やがて、正体を見破られ、逃れて日本へと渡ってきました。
    狐は、日本でも「玉藻前(たまものまえ)」という美女に変身して
    鳥羽上皇の寵愛を得ましたが、陰陽師・安倍泰親(晴明の子孫)に見破られ、
    下野国(しもつけのくに=現在の栃木県)那須野原に逃れました。
    その後、狐の仕業と思われる出来事を幾度も耳にした上皇は、
    上総介(かずさのすけ)と三浦介に妖狐の退治を命じました。
    二人は神前で百日の行を行うと、狐退治のお告げを受け、上総介の弓から
    放たれた矢は見事に狐を射ぬき、三浦介がとどめを刺しました。
    この妖狐の魂は石と化しましたが、尚も悪霊となり近寄る生き物を
    殺してしまうので、「殺生石」と呼ばれ恐れられていました。
    これを知った室町時代の僧・玄翁禅師は杖で殺生石を叩き割り、
    悪霊を成仏させました。
    禅師は三つに割れた石片の一つで地蔵菩薩を刻み、
    鎌倉に小さなお堂を建てて祀りました。
    江戸時代の初期、日光東照宮などを造営した甲良豊後守は、この像を篤く
    信仰していましたが、ある夜、夢中にこの地蔵尊が現れて
    「自分を衆生済度の霊場である真如堂に移しなさい」と告げました。
    豊後守はそれに従い、地蔵尊を真如堂に遷座し、以前鎌倉に安置されていた
    ことから、鎌倉地蔵と呼ばれるようになりました。
    また、伝承によれば、玄翁が殺生石を退治したのは至徳2年(1385)8月のこと
    であり、大きな金槌の玄能・玄翁(げんのう)の由来となりました。
    この功績により翌年、後小松天皇より法王能昭禅師の号を賜りました。
    甲良豊後守の墓は真如堂にあります。
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    三重塔の向かいには茶所があり、紅葉シーズンなどには床机が並び、
    抹茶や甘酒の接待が行われます。
    茶所内には善光寺如来の御分身が祀られています。
    現在、善光寺では7年に1度、御前立本尊の御開帳が行われますが、
    江戸時代は建物の維持修繕や再建のための資金を確保するため、江戸、京都、
    大阪はもとより、全国で出開帳を行ってたようです。
    善光寺如来像は、鎌倉時代から室町時代初期にかけて模鋳像がたくさん造られ、
    出開帳のための「善光寺如来」も何体かあったそうですから、
    その一体がそのまま真如堂に奉安されたのか、あるいは新たな
    模鋳像が作られて安置されたものと考えられています。
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    三重塔の左側に手水舎があります。
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    手水舎の奥に「谷口 藹山(たにぐち あいざん)自叙碑」があります。
    幕末から明治期の山水画、花鳥画を得意とした文人画家で、
    文化13年(1816)に越中国新川郡鉾ノ木村(現在の富山県立山町)で生まれました。
    幼少より絵を好み、郷里の文人画家から画を学び、18歳で江戸に出て
    谷文晁に就いた後、天保8年(1837)に高久靄(たかく あいがい)の門下に
    なって藹山と号しました。
    天保12年(1841)、京都の貫名菘翁(ぬきな すうおう)を訪ね、
    文人画を志すなら詩・書・画を学び、経学を中心に漢学を修めなければ
    ならないことを知りました。
    浪華の篠崎小竹(しのざき しょうちく)から儒学を学んだ後、九州を遊学し
    弘化2年(1844)に京都に戻り貫名菘翁に入門し、京都に留まりました。
    明治2年(1869)には西園寺公望(きんもち)が開校した私塾立命館に
    富岡鉄斎らとともに講師として招かれ、明治13年(1880)64歳の時、
    京都府画学校(後の京都市立芸術大学)の南画担当教授となりました。
    この碑は、明治33年(1900)に門弟たちにより、
    藹山がよく散策した縁で真如堂に建立されました。
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    三重塔の裏側辺りに縣井(あがたい)観音堂がありますが、
    近接しての画像を撮り忘れました。
    「縣井」とは井戸の名前で、今も京都御苑の宮内庁京都事務所の西側にあり、
    染井、祐井と共に、御所三名水の一つに数えられています。
    昔、この井戸のそばには「縣宮」という社があって、地方官吏に任命されたい
    と願う人々がこの井戸で身を清めてから社に祈願し、
    宮中に参内したといわれています。
    順徳天皇の御代、承久年中(1219~1222)、洛中洛外に悪疫が流行した際、
    この病にかかった橘公平が「縣井」の水を飲んで観音さまを念じたところ、
    10日程して疫病が治ったといいます。
    10日目の夜、井戸の水を汲みに行くと、井戸の中から黄金の如意輪観音が現れ、
    「この井戸の水を汲む者、必ず病が癒えるであろう」とお告げになりました。
    この話を聞いた天皇はこの像を宮中に祀られましたが、
    一条東洞院にお堂を建て、「法伝寺」と名付けられました。
    お堂はその後度々兵火に罹って灰燼と帰してしまいましたが、
    元禄6年(1693)に当時、寺町今出川下るにあった真如堂の境内に移されました。
    堂内には県井観音(如意輪観音)が祀られ、法伝寺は最初三重塔近くに
    ありましたが、現在は総門前に移転しています。
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    参道の正面に本堂が見えますが、手前を右側に入ると享保13年(1728)に
    建立された宝篋印塔があります。
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    宝篋印塔の先に鐘楼があり、その石段には堀川に架橋されていた
    三哲橋の遺構が使われています。
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    鐘楼は、元禄年間(1688~1704)に建立され、その当時は極彩色だったそうです。
    梵鐘は宝暦9年(1759)に鋳造された物で、直径約171cm、高さ約285cm、
    重さ約3.1tあり、一旦は戦時供出されました。
    しかし、錫の含有率が少ない鐘は割りにくく、後回しにされたため、
    潰されずに戻ってきました。
    画像は失敗し掲載できませんが、材質を調べるため開けられた
    直径約15.6mmの穴が4箇所残されています。
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    鐘楼の東側に三千仏堂があります。
    過去、現在、未来の三千仏を礼拝し、懺悔するお堂と説明されています。
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    三千仏堂の右側に大日如来を祀る祠があります。
    本堂の右側へと進みます。
    続く

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    大日如来の祠から戻り、東へ曲がった所、本堂の右側に阿弥陀如来露仏があります。
    台座の蓮弁の石には、「木食正禅造立」と刻まれています。
    この像は、享保5年(1720)に木食正禅上人によって建立されました。
    正禅上人は七条大宮で生まれ、8歳の時に父を亡くし、
    泉涌寺雲龍院で出家・得度しました。
    後に高野山で五穀を断ち木の実を生のままで食べる修行をする木食行を修め、
    高野山を降りて加行をし、再び高野山で木食大戒を修めて大阿闍梨となります。
    四宗(天台、真言、禅宗、浄土)兼学した上人は、大衆の教化をするには
    念仏がふさわしいと考え、京都に戻り七条大宮に庵を設けて、
    街を念仏行脚するなど念仏聖の行を実践していきます。
    また、日ノ岡峠道の改修や渋谷街道の補修、
    井戸を掘るなどの社会事業に取り組みました。

    平安時代に乙訓郡大藪村に創建された仁王護国院は、長い間に退廃していました。
    享保10年(1725)、正禅上人は仁王護国院を移築・再建し、
    安祥院と改め、上人自作の阿弥陀如来像を安置しました。
    そして、阿弥陀仏の霊感を受け、洛陽六阿弥陀巡拝を始めました。
    定められた功徳日参りを3年3ヶ月怠らずに続ければ、無病息災、家運隆盛、
    祈願成就がかなうと教えられ、有縁無縁の精霊の追善回向を行ずれば、
    わが身の往生安楽がかなえられると説かれています。
    1月15日の初六阿弥陀巡りで、「南無阿弥陀仏」を念ずれば極楽浄土
    するといわれています。
    真如堂は、1番札所になっています。
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    阿弥陀如来露仏の左側にある石仏群
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    本堂の右側に縦皮桜が植えられています。
    徳川家光の乳母、春日局が父 斉藤利三の菩提を弔うために植えたもので、
    他の桜と違い、樹皮が松の皮に似て縦に走ることからその名があります。
    春日局が手植えされてから300年以上を経て、直径1mの巨木に
    なっていましたが昭和33年(1958)の伊勢湾台風で折れてしまいました。
    数年後、折れた幹から芽を吹き、小振りで清楚な花を咲かせるようになりました。

    斉藤利三は、明智光秀と縁戚関係があり、筆頭家老として仕えていました。
    本能寺の変では首謀者の一人として加わり、中国から引き返してきた
    羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍するも捕らえられ、
    六条河原で斬首されました。
    首は光秀とともに本能寺に晒されましたが、親交の深かった絵師の海北友松が、
    槍を振って侵入し、利三の首を奪い取り、真如堂に葬りました。
    また、海北友松も真如堂に葬られています。
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    本堂の裏側へと曲がった所に宝蔵があります。
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    宝蔵の左側に萬霊堂があります。
    三井家によって建立され、地蔵菩薩を中心に有縁無縁の精霊を祀っています。
    真如堂は三井家の菩提寺で、墓所があります。
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    萬霊堂から東に進んだ所に、三井二木会物故社員追悼の慰霊塔が建立されています。
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    萬霊堂の先に書院への門があります。
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    慰霊塔の左側に石薬師堂があります。
    平安遷都の頃、大地より光沢のある蓮華のつぼみに似た大きな石が見つかり、
    桓武天皇はその石に薬師如来を刻むことを命じ、お堂を建立して安置しました。
    正親町天皇は当時、寺町今出川にあった真如堂の僧・全海にこの像を祀らせました。
    元禄6年(1693)に真如堂は現在地に移転し、
    石薬師像は元三大師堂に安置されていました。
    大師堂では、護摩が焚かれますので、像はその油煙や煤で、
    真っ黒な姿となってしまいました。
    現在の建物は、昭和41年(1966)、東山五条の金光院より
    寄進・移転されたものです。
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    本堂へ戻ります。
    本堂の前には菩提樹が植えられています。
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    真如堂は、永観2年(984)、比叡山の戒算上人(かいさんしょうにん)が、
    延暦寺・常行堂の本尊であった阿弥陀如来像を東三條女院の離宮があった
    現在の地に移して安置したのが、始まりとされています。
    山号を鈴聲山(れいしょうざん)、寺号を真正極楽寺と称する天台宗の寺院です。
    長徳元年(992)、一条天皇の勅命により本堂が建立され、勅願寺となりました。
    本堂は真如堂と名付けられ、通称となりました。
    不断念仏の道場として、念仏行者や庶民、特に女性の篤い信仰を集めました。
    しかし、応仁の乱では細川勝元らの東軍の陣地となり、
    堂塔は打ち壊しに遭うなど荒廃し、各地を転々としました。
    元禄6年(1693)から現在地での再建が開始され、
    現在の本堂は享保2年(1717)に上棟されました。
    京都市内の天台宗寺院の本堂では最大規模を誇り、
    国の重要文化財に指定されています。

    本尊は、慈覚大師作の阿弥陀如来立像で、国の重要文化財に指定されていますが、
    秘仏とされ11月15日のみ開帳されます。
    慈覚大師が30歳の時、延暦寺の如法堂で毎夜、根元が光っている霊木を見つけ、
    二つに割った一方で阿弥陀如来坐像を彫り、
    その後、日吉大社念仏堂の本尊とされました。
    片方はそのままにしていました。
    慈覚大師は遣唐使となり、五台山で文殊菩薩から引声阿弥陀経を授かりました。
    帰路、船上で引声念仏の一節が思い出せないでいると、虚空より小身の
    阿弥陀如来が現れ、その一節を授けました。
    大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、残しておいた霊木で
    阿弥陀如来を彫り、その胎内にこの3cmほど如来を納めました。
    仕上げに掛かっていると、夢の中で阿弥陀如来が「比叡山から京都へ下りて、
    女人の厄難(お産の苦しみ)を救いたい」とお告げになりました。
    大師は、「お告げに従います」と答えたので、如来がうなづかれたことから、
    「うなづきの弥陀」とも呼ばれています。
    お告げに従い、女人禁制だった比叡山を下りて、真如堂(真正極楽寺)に
    安置され、多くの女性たちの出産の苦しみを救われました。
    時代が流れ、応仁の乱で真如堂は荒廃し、阿弥陀如来立像は大蓮寺へと渡りました。

    その後、阿弥陀如来立像は真如堂へ戻されましたが、大蓮寺にはその分身と
    される如来像が本尊として安置されています。
    本堂内正面の宮殿は、徳川五代将軍・綱吉と桂昌院から寄進されました。
    宮殿内には、本尊の阿弥陀如来立像、千手観音増、
    不動明王坐像が安置されています。
    千手観音像は伝教大師大師作と伝わり、不動明王坐像は安倍晴明の念持仏でした。

    真正極楽寺は、神仏霊場巡拝の道・第111番、洛陽六阿弥陀巡拝・第一番、
    京の通称寺霊場・第二十二番、新長谷寺は洛陽三十三観音霊場・第五番、
    鎌倉地蔵は洛陽四十八願所地蔵巡り・第二十三番の札所となり、
    いずれの宝印も本堂で授けられます。
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    本堂で500円を納め、涅槃の庭と隋縁の庭を拝観します。
    涅槃の庭は、昭和63年(1988)に曽根三郎氏によって作庭されました。
    左側(北側)を頭にしたお釈迦様が入滅され、右脇を下にして横たわり、
    その回りを弟子や生類たちが囲んで嘆き悲しんでいる様子が
    石によって表現されています。
    東山連峰を借景とし、特に大文字山には、大の字の中心に人が立っているのが
    見えるほど近くみえます。
    生垣が二段になっているのは、作庭された当時は低く、それから借景の
    邪魔となる建築物を隠すために、背後に高い生垣が作られ、
    大文字山が半分隠されてしまいました。
    右手前のやや白っぽい岩は、母であるマーヤーを象徴しています。
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    隋縁の庭は平成22年(2010)に重森千春氏によって作庭されました。
    背後のにある仏殿の蟇股(かえるまた)に付けられた四つ目の家紋に因んで
    デザインされました。
    「隋縁」とは「隋縁真如」の略で、「真理が縁に従って様々な相を生じること」、
    つまり「真理は絶対不変でも、それが条件によって様々な姿を見せる」
    という仏教の言葉です。
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    室内の撮影は禁止されていますが、M.ジャクソンはこの掛け軸の図から
    スリラーのポーズを考えたのではないかと思いましたが、
    M.ジャクソンがこの図を見たかは不明です。
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    本堂を出て、書院の玄関に廻りました。
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    書院の玄関前から少し西に進んだ所に本坊があります。
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    本坊の左側に真如山荘があります。
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    真如山荘の左側、北参道を横切った所に元三(がんざん)大師堂があります。
    元三大師の詳細については、こちらをご覧ください。
    堂内には、元三大師の画像を本尊とし、地蔵菩薩と不動明王像が安置されています。
    画像の裏書きは、永正7年(1510)2月3日のもので、この像が大師の自筆に
    よるものであること、実乗院門跡伝来のものであって、永正4年の争乱の時、
    兵卒によって奪われたのを買い戻し補修をしたということが記されています。

    大師堂前の石灯籠は、琵琶湖疏水の工事の総責任者である田邉朔郎氏
    感謝の意を込めて、地元北白川の人たちが贈ったものです。
    疎水の開通により、干ばつの悩みから解消されたとして、白川石で造られた
    石灯籠を田邉氏の邸宅用に寄贈を申し出ましたが、固辞されたため、
    田邉氏の邸宅に近い真如堂に奉納されました。
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    元三大師堂の左側に新薬師寺があり、本尊の十一面観音立像は総持寺
    本尊と同じ香木で彫られたと伝わります。
    当時、藤原山蔭は、家領であった左京区吉田の地に春日神社の四祭神を勧請し、
    山蔭一門の氏神として吉田神社を創建しました。
    吉田神社の北に当たる左京区田中の地に新薬師寺を建立し、
    この像を安置しました。
    吉田神社は、東三條女院が一条天皇の外祖母となるに至って藤原氏全体の社となり、東三條女院によって田中の地にあった新薬師寺を、
    吉田神社の境内に再建されたと考えられています。
    明治の神仏分離令により新薬師寺は、現在地に移されました。
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    新薬師寺の左側に千体地蔵堂があります。
    安永9年(1780)に建立されたもので、堂内には本尊の彩色された地蔵菩薩の
    背面に高さ10cmほどの同じく彩色された小身の地蔵千体が安置されています。

    吉田神社へ向かう予定でしたが、雷が鳴り出しましたので帰宅します。
    結局、雨は降らなかったのですが、連日のように雷注意報が発令され、
    しかも平年以上の暑い日が続く今年の京都の夏です。

    次回、西国三十三観音霊場・第二十七番札所の書写山・圓教寺を巡ります。

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    京都駅発5:43の快速・網干行に乗車、8:06に姫路駅に着き、陸橋を渡って
    向かいにある神姫バス姫路駅前案内所でバス往復とロープウェイが
    セットになった切符1,300円を購入しました。
    次回、法華山・一乗寺で調べて気付いたのですが、姫路観光周遊ワイド
    フリーキップ一日券1,200円があり、それを利用して
    圓教寺と一乗寺を巡った方が割安になります。
    コンビニで弁当を購入し、姫路駅北口発8:40のバスと書写ロープウェイを
    乗り継いで、9:19山上駅に到着しました。
    全長781m、高低差211mを4分足らずで運び上げてくれます。
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    山上駅には展望台もあり、遠く姫路の海まで見渡せます。
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    山上駅近くの広場には、書写山の麓に生まれた小説家・椎名鱗三の文学碑
    「言葉のいのちは愛である」が建立されています。
    昭和55年(1980)、椎名鱗三文学碑建立委員会が
    岡本太郎に依頼して制作されました。
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    入山料500円を納め、参道入口には鐘楼があり、
    慈悲(こころ)の鐘と名付けられています。
    平成4年(1992)10月に、世界平和祈願、浄佛国土建設を目指して建立されました。
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    また、参道入口には「西国巡礼の道」と刻まれた石碑があり、
    書写山・開創千年、西国三十三所観音霊場・中興千年、比叡山・開創1200年の
    記念事業として建立されました。
    参道には、西国三十三所観音霊場の各本尊の銅像が設置されています。
    書写山・圓教寺は、康保3年(966)、性空の創建と伝わりますから、
    昭和41(1966)前後に建立されたのでしょうか?
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    最初に建っているのは、圓教寺の六臂(ろっぴ)如意輪観世音菩薩です。
    それから参道の左右に第一番の青岸渡寺から最終の華厳寺まで順番に
    建っていますので、拝みながら参道を進むと
    仁王門までの時間が有意義に感じます。
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    仁王門は、三間一戸の八脚門で、江戸時代初期の元和3年(1617)に
    再建されたもので、兵庫県の文化財に指定されています。
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    仁王像は室町時代の作で、姫路市の文化財に指定されています。
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    仁王門をくぐった先、右側に壽量院があり、参道に面して門がありますが、
    ここからは入れないようです。
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    参道沿いの門から少し進んだ先にも門がありましたが、閉じられています。
    壽量院の客殿と庫裏及び棟門(むなもん)は国の重要文化財に指定されています。
    参道沿いの門が棟門でしょうか?
    書寫塗りの器で料理を頂けるそうですが、5名以上で予約が必要とのこと、
    コンビニ弁当を持参していますので、精進料理なんか気にならないと
    やせ我慢を張りつつも、重文の建物は気になります。
    壽量院は、圓教寺の塔頭の一つで、承安4年(1174)に後白河法皇が参籠した
    との記録が残る格式の高い塔頭寺院です。
    現在の建物は江戸時代に再建されたもので、唐破風の玄関を構え、
    仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、
    台所を設けた庫裏の部分から成ります。
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    壽量院の門の左側に東の五重塔と思われる礎石が残されています。
    元徳3年(1331)に大講堂の横にあった西の五重塔に落雷し、
    塔をはじめ大講堂・食堂・常行堂を焼失しました。
    その後、永正10年(1513)に、この地に五重塔の再建が計画され、
    土台の造営まで行われました。
    播磨国書写山伽藍之図には、五重塔もしくは多宝塔が描かれていますが、
    記録では壽量院横の五重塔は建設されなかったようです。
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    参道を進んだ左側に旧・金輪院の円教寺会館があり、5人から宿泊ができ、
    坐禅、写経、法話などの設定もできるそうです。
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    円教寺会館の先、右側に塔頭の十妙院があり、客殿と庫裏及び唐門は
    国の重要文化財に指定されています。
    赤松満祐(みつすけ)が僅か16歳で亡くなった女の冥福を祈るために
    建てたものとされ、天正7年(1579)に正親町天皇(おおぎまちてんのう)より
    「岡松院(こうしょういん)」の勅号を賜りました。
    第106世・長吏実祐(ちょうりじつゆう)により中興され、実祐は住房とし、
    実祐を中興第一世とされています。
    永禄元年(1558)に正親町天皇より「十妙院」の勅号を改めて賜りました。
    本尊は、千手観音で、脇侍は毘沙門天、将軍地蔵が安置されています。
    塔頭寿量院と左右逆ですが、ほとんど同じ平面構成であり、
    寿量院とともに、圓教寺独特の塔頭形式を持っています。
    方丈・部の室には、狩野永納筆の襖絵があり、上段の間(一の間)に
    四季山水図、中段の間(二の間)に唐人物図、下段の間(三の間)に
    着彩花鳥図が措かれていて、兵庫県の文化財に指定されています。
    普段は閉門されていますが、特別公開の日には襖絵などの拝観もできるそうです。
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    更に参道を進んだ先に、鎌倉時代の延慶4年(1311)の記念銘のある
    石造り傘塔婆があり、兵庫県の文化財に指定されています。
    総高153cmあり、石柱の中に阿弥陀如来像が浮き彫りされ、
    笠のような石が載せられています。
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    傘塔婆の先に護法石が有ります。
    直径約1mの2つの石で、不動明王の化身である乙天(おつてん)と
    毘沙門天の化身である若天(わかてん)の2童子が降り立ったと伝わります。
    また、弁慶がお手玉にしたとも伝わり、弁慶のお手玉石とも呼ばれています。
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    護法石の先で、湯屋橋と呼ばれる石橋を渡ります。
    湯屋橋と呼ばれる由縁は、かってこの付近に湯屋があったことによるものです。
    元和3年(1617)に姫路城主となった本多忠政は、元和6年(1620)に書写山に
    参詣して、その荒廃ぶりに驚き、寄進を募り復興に尽力されました。
    湯屋橋もこの時再興されました。
    荒廃の原因となったのは、天正6年(1578)に三木城の別所長治離反に対し、
    羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによるものです。
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    橋を渡った右側にはづき茶屋があります。
    はづき(端月)の名は、性空作「冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき
    遙かに照らせ山の端の月」からとられました。
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    はづき茶屋の向かいに、三十三所堂があり、西国三十三所観音霊場の
    各本尊が安置されています。

    湯屋橋の正面にある石段を上り、摩尼殿へ向かいます。
    続く

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    湯屋橋を渡ると摩尼殿が見えてきて、正面にある石段を上ります。
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    石段の途中、懸崖造りの摩尼殿が間近に迫ってきます。
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    コの字形に曲がり、摩尼殿を縦に見る方向へ向きを変え、
    唐破風の玄関を正面に石段を上ります。
    書写山・圓教寺は、西国三十三所のうち最大規模の寺院で、
    「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山と
    ともに天台宗の三大道場と称された巨刹です。

    書写山にはかって、素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、
    「素盞ノ杣(そま)」といわれ、性空入山以前より
    この地に祠が祀られていたと伝わります。
    また、インドに有り、釈迦が『無量寿経』や『法華経』を説いた山である霊鷲山(りょうじゅせん)の一握りの土で造り、「書き写した」ように似ていることから、「書寫山」と呼ばれるようになったとも伝わります。
    性空は、貴族の橘氏の出身でしたが、36歳の時に出家し、それから約20年間、
    九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966)の57歳の時、
    書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりとされています。
    入山して4年目の天禄元年(970)、天人が書写山内の桜の霊木を賛嘆礼拝する
    のを見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木の桜に六臂如意輪観音の像を刻み、
    その崖に3間四方の如意輪堂(現・摩尼殿)を創建しました。

    寛和2年(986)には花山法皇が来山して、圓教寺の勅号を与え、「圓教」には、
    輪円具足を教えるという意味があり、円の形は欠けたところがなく、
    徳において最も成就した状態を象徴していることから、
    自己を完成する道を教える寺の意となります。
    また、花山法皇は米100石を寄進し、性空はこの寄進をもとに
    講堂(現・大講堂)を建立したとされています。
    承安4年(1174)に後白河法皇が参詣し、摩尼殿の号を賜りました。
    その後も後醍醐天皇や多くの皇族が行幸、
    また勅願により建物の改築・改修、建立が行われました。
    延徳4年(1492)、真言堂からの火災により、蓮鏡院、摩尼殿が焼失し、
    性空が造らせた如意輪観音像も失われました。

    天正6年(1578)、織田信長より中国地方征伐を命じられた羽柴秀吉が、
    播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを
    近江の長浜に持ち帰りました。
    また、秀吉は、26,000石の全てを没収し、後に500石だけを施入し、
    江戸時代になって833石になりましたが、圓教寺は荒廃しました。
    その後、観音像は戻されたのですが、厨子内から発見され、
    平成18年(2006)に開山性空一千年忌に初めて公開された
    如意輪観音像がこの像だったのかもしれません。
    像高は19.8cm(台座含30.9cm)、桜のの一木造で、像底の銘により
    延応元年(1239)、当時の住僧・妙覚によって供養されたものと判明し、
    兵庫県の文化財に指定されています。
    この如意輪観音像は、性空が造らせたのと同木同作かもしれません。

    摩尼殿は、大正10年(1921)12月にも焼失し、その後再建に着手され、
    昭和8年(1933)に落慶したもので、国の登録有形文化財に登録され、
    姫路市の文化財にも指定されています。
    内陣に造り付けの大厨子は5間に分かれ、向かって左側の間から広目天、
    増長天、六臂如意輪観音(本尊)、多聞天、持国天の各像を安置されていますが、
    いずれも秘仏で、1月18日の修正会(しゅしょうえ)に開扉されます。
    四天王立像は、寛和2年(986)の作とみられ、国の重要文化財に指定されています。
    六臂如意輪観音像は、西国三十三所観音霊場・第二十七番札所の本尊でもあり、
    宝印は摩尼殿で授けられます。
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    摩尼殿から西に進むと瑞光院があり、現存する圓教寺塔頭の六院の一つで、
    信者の組織である網干(あぼし)観音講の宿院でもあるようですが、
    門の外からは寂れているように見えます。
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    瑞光院の北側に大黒堂があり、大黒天が祀られています。
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    大黒堂から北側に坂を上り、上手の参道に合流して西に進んだ所に
    青銅製の大仏像が建立されています。
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    大仏像の先に、樹齢700~800年とされる杉の木が聳えていて、
    姫路市の保存樹に指定されています。
    樹高約35m、幹周り約7.5mの大木です。
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    三つの堂の手前に本多家廟所があり、土塀で囲まれた中に廟屋(びょうおく)
    5棟と11基の墓碑が並んでいます。
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    廟の門を入った正面の右側の廟屋は、本多忠国、左側の半分写っているのが
    政長の墓です。
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    左に曲がった突き当りの右側から政朝忠政、画像にはありませんが、
    忠勝と並び、廟屋は兵庫県の文化財に指定されています。
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    左側の廟屋のない大きな五輪塔2基は、31歳で病死した忠刻(ただとき)と
    孫・幸千代の墓で、背後には忠刻の供をして23歳で殉死した、
    宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓碑もあります。

    三つの堂は、常行堂、食堂、大講堂がコの字形に配列され、
    かって本多家廟所には五重塔があり、中世の寺院景観を呈していました。
    南北時代の元徳3年/元弘元年(1331)の落雷、永享8年(1436)の火災で焼失し、
    現存する各堂は室町時代に再建されましたが、
    五重塔はこの地には再建されませんでした。
    五重塔に安置されていた平安時代後期の大日如来坐像(木造、像高102.0 cm)は、食堂の宝物館に遷されています。
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    大講堂は、北側に位置し、寛和2年(986)に参詣した花山法皇の勅願により、
    3間四方の講堂として建立されましたが、焼失後永享12年(1440)に
    下層部分が再建され、寛正3年(1462)に上層部分が上乗せされ、
    文明年間(1469~1487)に全体が整備されたと考えられています。
    元和8年(1622)、本多忠政により修復され、昭和26年~昭和31年(1951~1956)に
    解体修理されました。
    大講堂は、国の重要文化財に指定されています。
    堂内には、釈迦如来像と両脇侍に文殊菩薩像及び普賢菩薩像が安置されています。
    この釈迦三尊像は、圓教寺創建時の永延元年(987)の造立とされ、
    国の重要文化財に指定されています。
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    大講堂と向かい合う南側には常行堂があり、国の重要文化財に指定されています。
    切妻造の部分は東半部を「中門」(寝殿造の中門廊に似ることによる)、
    西半部を「楽屋」と称し、中央部に唐破風造、1間四方の
    「舞台」が突出しています。
    舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものです。
    寺伝によれば元弘年間(1331~1334)に建立され、永享8年(1436)に焼失後、
    享徳2年(1453)に再建され、昭和38年(1963)より解体修理が行われました。
    常行堂の本尊は、像高254.0cmの木造阿弥陀如来坐像で、記録によると
    寛弘2年(1005)頃に性空の弟子・安鎮によりに造立されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
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    右の大講堂とともに写した画像しかないのですが、食堂は、長堂とも呼ばれ、
    古くは三宝院と称され、長さ40mかつ総2階で他に類を見ない
    日本の近世以前の仏堂建築物です。
    承安4年(1174)に参詣した後白河法皇の勅願により建立され、
    教興坊と称されました。
    暦応元年(1338)に再建、貞和4年(1348)落慶との記録が残されていますが、
    永享8年(1436)に焼失し、その後未完成のまま、数百年放置されたものを
    昭和38年(1963)の解体修理で完成の形にされました。
    食堂は国の重要文化財に指定されています。
    食堂の1階は、神仏霊場巡拝の道・第75番札所と写経道場、2階は宝物館で
    寺内の諸堂にあった仏像などがここに移されています。
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    2階からは食堂と常行堂の屋根が重なり合っているのが見えます。
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    食堂の前に燈籠の礎石と見られる六角形の石があります。
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    大講堂の左側に灌頂(かんちょう)水と呼ばれる井戸があります。
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    井戸の左側に弁慶の鏡井戸があります。
    昼寝をしていた弁慶の顔にいたずら書きをされました。
    寝覚めた弁慶の顔を見て、皆が笑うのが分からずに、この池に顔を映してみると、
    いたずら書きをされているのに気付き、大喧嘩になりました。
    この喧嘩が元で大講堂をはじめ、山内の建物を焼き尽くしたと伝わります。
    残念ながら今ではそんなに鮮明には映らないようで、
    当時も今のようだったら、火災は起こらなかったと思えます。
    奥之院へ向かいます。
    続く

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    食堂の右側を通って進んで行くと不動堂があります。
    延宝年間(1673~1681)に建立され、明王院の乙天護法童子の
    本地仏・不動明王が祀られています。
    一方、若天童子のお堂が無いのは、一説には、若天童子の姿があまりに
    怪異なため人々が恐れたので、性空上人が若天童子に
    暇を出したとも言われています。
    元禄10年(1697)、姫路城主・松平直矩により修理され、
    荒廃していた大経所を合わせて不動堂としました。
    昭和42年(1967)の暴風雨による土石流で全壊し、
    昭和51年(1976)に再建されました。
    堂は山内唯一の丹塗りで、俗に赤堂と呼ばれています。
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    不動堂の先に護法堂拝殿があり、兵庫県の文化財に指定されています。
    天正17年(1589)に建立され、昭和37年(1962)に解体修理が行われました。
    護法堂拝殿は、弁慶の学問所とも呼ばれています。
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    拝殿の向かいに二つの護法堂があり、右側に乙天社があります。
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    左側に若天社があり、同寸同形の春日造りが二棟並んでいます。
    性空上人が修行中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子を祀り、
    上人没後はこの山の守護神として祀られています。
    乙天童子は不動明王、若天童子は毘沙門天の化身とされています。
    護法堂は、室町時代のものとされ、国の重要文化財に指定されています。
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    開山堂は、護法堂と護法堂拝殿がコの字形に配された奥に位置しています。
    圓教寺の開祖、性空上人が祀られ、上人の御真骨を蔵した
    等身大の木像が堂内の厨子に安置されています。
    寛弘4年(1007)上人の没年に高弟延照によって創建され、
    弘安9年(1286)に消失しました。
    現在の建物は、江戸時代の寛文11年(1671)に再建されました。
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    軒下の4隅に左甚五郎の作とされる力士の彫刻がありますが、
    そのうち北西隅の力士は、あまりの重さに耐えかねて逃げ出した
    という伝説が残されています。
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    山手の方に、和泉式部の歌塚と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
    高さ203cm、天福元年(1233)の銘があり、県下最古の石造り品です。
    書写山・圓教寺-その1で、性空作「冥きより 冥き道にぞ 入りぬべき 
    遙かに照らせ 山の端の月」と記したのは誤りで、和泉式部が詠まれたものでした。
    長保4年(1002)~寛弘2年(1005)の間に詠まれたこの歌は、
    「法華経」の「化城喩品( けじょうゆほん )」をもとに悟りへの導きを願い
    性空上人に結縁を求めた釈教歌と呼ばれるもので、
    拾遺和歌集」に収録されています。
    性空上人は「日入りて 月はまだ出ぬ たそがれに 掲げて照らす 
    法(のり)の燈(ともしび)」と返歌されたと伝わります。
    建久7年(1196)~建仁2年(1202)に成立した「無名草子」には、
    和泉式部が性空上人からこの歌の返しに贈られた袈裟を
    身にまとい往生を遂げたとの説話を載せています。
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    奥之院から展望公園へと向かう途中に金剛堂があり、
    国の重要文化財に指定されています。
    金剛堂は、永観2年(984)に創建され、性空上人の居所であったと
    伝わる塔頭の普賢院の持仏堂でした。
    普賢院は、明治40年(1907)に山内の伽藍修理費捻出のため明石の長林寺に
    売却されましたが戦災で焼失しました。
    本尊は、金剛薩埵(こんごうさった)坐像で、兵庫県の文化財に指定され、
    現在は食堂の宝物館に安置されています。

    普賢院の跡地は、展望公園として整備され、少し早めの昼食をとりました。
    展望公園からは家島群島が遠くに望めるのですが、撮影に失敗しました。
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    付近に普賢院の名残でしょうか?土塀に囲まれた中に地蔵像が佇んでいました。
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    高台に五輪塔が見え、気になって登ってみると榊原家の墓所がありました。
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    榊原家は江戸時代の初期と中期の2回に渡って姫路城主となりました。
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    初期は忠次政房で、政房は父・忠次の後を継いで寛文5年(1665)に
    城主となりましたが、2年後に27歳で亡くなりここに葬られています。
    中期は政邦政祐(すけ)、政岑(みね)、政永と継がれましたが、
    政祐のみがここに葬られています。
    政祐は、父・政邦の後を継ぎ享保11年に城主となりましたが、
    5年余り28歳で亡くなりました。
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    墓所から下ってくと鐘楼があり、国の重要文化財に指定されています。
    寺伝によると鐘楼は元弘2年(1332)に再建、梵鐘は
    元亨(げんこう、げんきょう)4年(1324)の再鋳とされ、
    梵鐘は姫路市最古のもので、兵庫県の文化財に指定されています。
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    鐘楼の南側に法華堂があります。
    正しくは法華三昧堂といわれ、寛和3年(985)、播磨国司・藤原季孝
    (ふじわらのすえたか)によって建立されました。
    現在の建物及び本尊の普賢菩薩も江戸時代のものです。
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    法華堂から南へ進んだ所に松平直基(なおもと)の墓所があります。
    直基は、徳川家康の孫で山形藩から慶安元年(1648)に姫路藩に国替えを命じられ、そのわずか2ヶ月後、封地に赴く途上、江戸で発病し45歳で亡くなりました。
    遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
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    後になって、直基の子・直矩(なおのり)が姫路城主となってから、
    寛文10年(1170)に分骨し、この地に墓所が設けられました。
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    墓所から北方向に進むと薬師堂があり、
    兵庫県の重要有形文化財に指定されています。
    この薬師堂は根本堂とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の建物です。
    元々有った簡素な草堂を、性空上人が三間四面の堂に
    造り替えたのが始まりとされています。
    寺伝によると、延慶元年(1308)に焼失し、現在の建物は
    元応元年(1319)に再建されました。
    昭和53年(1978)に解体修理が行われた際、奈良時代の遺物が出土し、
    圓教寺創建以前から宗教施設があったと推察されています。
    薬師堂に安置されていた本尊の薬師如来像や諸仏は、
    食堂2階の宝物館に安置されています。
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    薬師堂の先に石段がありますが、それを上ると展望公園へと出られます。
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    大講堂まで戻り、その横から白山権現へ向かいます。
    十地坊跡地との案内板も出ていましたが、跡地への立ち寄りはしませんでした。
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    白山権現は、大講堂、摩尼殿に次いで性空上人が第三の吉所とし、
    六根清浄の行を積んで心眼を開いたとされています。
    それに因み、1月18日の修正会(鬼追い会式)では、主役の赤鬼、青鬼が
    先ずこの白山権現に来て、神域を廻りながら四隅で松明を振りかざします。
    かって、この地には素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したとの故事から、
    「素盞ノ杣(そま)」といわれ、性空入山以前よりこの地に素盞嗚命を
    祀る祠があったと伝わります。
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    白山権現の横に石碑があり、文字は読めませんでしたが、歴史を感じさせます。
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    白山権現から摩尼殿の方へ下山していくと、摩尼殿に出る手前に
    稲荷社でしょうか?たくさんの狐の像が置かれた祠があります。
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    稲荷社と思われる横にも祠がありますが、詳細は不明です。
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    祠から少し下ると石橋がありそれを渡ると摩尼殿に出ます。
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    ロープウェイで下山し、JR姫路駅へと向かいますが、途中下車して
    姫路城を見ました。
    城内へ入る時間的な余裕は無いので外から見るだけです。

    南北朝時代の正平元年/貞和2年(1346)、赤松貞範による築城
    (『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。)
    一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する
    規模の構築物としては戦国時代後期に黒田重隆・職隆(もとたか)父子による
    築城を最初とする説もある。
    江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために
    西国探題が設置される。
    慶長5年(1600)、池田輝政が初代藩主となる。
    元和3年(1617)、本多忠政が入城。
    寛永8年(1631)、本多忠政が姫路城にて死去。享年57。
    本多忠刻(ただとき)の弟・本多政朝が藩主となる。
    寛永15年(1638)、本多政朝が死去。享年40。政勝が養子となり家督を継ぐ。
    寛永16年(1639)、本多政勝は大和郡山藩に移封され、松平忠明が藩主となる。
    寛永21年(1644)、松平忠明が江戸藩邸で死去。享年62。後を長男の忠弘が継いだ。
    慶安元年(1648)、松平忠弘は幼いことを理由に出羽山形藩に転封され、
    代って松平直基が姫路藩に国替えを命じられる。
    そのわずか2ヶ月後、封地に赴く途上で死去。享年45。
    直基の子・直矩(なおのり)が5歳で家督を相続。
    慶安2年(1649)、松平直矩は幼いことを理由に越後村上藩に移封され、
    榊原(松平)忠次が藩主となる。
    忠次の母が徳川家康の姪であるため、忠次1代に限り終身松平姓を許される。
    寛文5年(1665)、榊原(松平)忠次が死去。享年61。
    忠次の子・榊原政房が家督を相続。
    寛文7年(1667)、榊原政房が死去。享年27。政房の子・榊原政倫が3歳で
    家督を継いだが、幼少のため不適と判断され、越後村上藩に転封を命じられる。
    代って松平直矩が再び藩主となる。
    天和2年(1682)、松平直矩は、御家騒動(越後騒動)の解決に不手際を指摘され、
    豊後日田藩に国替を命じられる。
    代って本多忠国が藩主となる。
    宝永元年(1704)、本多忠国が死去。享年52。忠国の三男・本多忠孝が
    家督を継ぐが、幼少を理由に越後村上藩に転封された。
    しかし、村上城に一度も入城しないまま、宝永6年(1709)に12歳で死去した。
    代って榊原政邦が藩主となる。
    享保11年(1726)、榊原政邦が死去。享年52。政邦の次男・榊原政祐が家督を継ぐ。
    享保17年(1732)、榊原政祐が死去。享年28。
    養子の榊原政岑(まさみね)が家督を継ぐ。
    政岑は、将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して吉宗の怒りを買い、
    寛保元年(1741)に強制隠居の上で蟄居を命じられる。
    家督は嫡男の政純が継ぐことを許されたものの、
    越後高田に懲罰的な転封を命じられた。
    代って松平明矩(あきのり)が藩主となる。
    寛延元年(1748)、松平明矩が死去。享年36。明矩の長男・松平朝矩が
    11歳で家督を継ぐが幼少を理由に上野前橋藩に転封。
    寛延2年(1749)、酒井忠恭(ただずみ)が藩主となり、
    以後酒井家が代々家督を継ぐ。

    姫路駅まで歩き、JRで三ノ宮駅まで乗車して、神仏霊場巡拝の道66番
    (兵庫1番)札所の生田神社へ向かいます。
    続く

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  • 09/17/17--02:30: 生田神社
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    JR三ノ宮駅から北方向へ約10分歩いた所に生田神社があり、
    神仏霊場巡拝の道66番(兵庫1番)の札所です。
    神社の前に建つ鳥居は、二の鳥居で一の鳥居は三宮駅の南西、
    生田ロードの先端にあります。
    二の鳥居は、平成7年に発生した阪神淡路大震災の復興を願い、
    伊勢神宮の内宮・旧御正宮の鳥居を下賜されました。
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    二の鳥居をくぐった左側に大海神社があり、
    猿田彦命(さるたひこのみこと)が祀られています。
    天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を
    道案内した国津神です。
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    右側には松尾神社があり、大山咋命(おおやまくいのみこと)が祀られています。
    名前の「くい」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者
    の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされています。

    生田神社は、当初は、現在の新神戸駅の奥にある
    布引山(砂山=いさごやま)に祀られていました。
    延暦18年(799)、布引の渓流が氾濫し、砂山西端が崩壊して社殿が傾いたため、
    村人が御神体を背負い7~8日間鎮座地を探し巡りました。
    生田の森に差し掛かると、突然背負った御神体が重くなって
    これ以上歩けなくなりました。
    村人はここ、現在地を鎮座地と定め、御神体を安置しました。

    また、大山咋命は醸造祖神とされ、「酒の神」として信仰されています。
    神功皇后三韓外征以来、三韓より毎年使節が来訪し、
    その使者が入朝及び帰国する際、朝廷が敏馬(みぬめ)浦(脇浜の沖)で
    生田神社で醸造した神酒を振舞ったとの記述が残されています。
    これが灘五郷酒造の始めと伝わります。
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    三の鳥居
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    御神門(楼門)
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    日本書紀には生田神社の由緒が記されています。
    『神功皇后元年(201)、神功皇后が三韓外征の帰途、武庫の港(今の神戸港)
    にて船が進まなくなったために神占を行ったところ、
    稚日女尊(わかひるめのみこと)が現れ、
    「私は活田長峡国(いくた・の・ながさのくに)に居りたい」と申されたので、
    海上五十狭茅(うながみのいさち)という者を神主として祀られた。』

    平安時代初期の大同元年(806)、古書に「生田の神封四十四戸」と記され、
    朝廷より当社の為にお供えする家、世話をする家、守る家である
    神戸(かんべ)44戸を頂いたとあり、現在の神戸市中央区の一帯が
    社領であったとされています。
    この、神地・神戸(かんべ)がこの地の呼称となり中世には紺戸(こんべ)、
    近年に神戸(こうべ)と呼ばれるようになりました。

    祭神は稚日女尊で、「稚(いわ)く瑞々しい日の女神」を意味し、
    天照大神の幼名とも妹とも和魂(にぎたま)であるともいわれています。
    日本書紀には『高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、
    それを見た素盞嗚命が馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。
    稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた
    梭(ひ=製織の際に横糸を通すのに使う器具)で身体を傷つけて亡くなった。
    それを知った天照大神は天岩戸に隠れてしまった。』と記されています。
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    本殿の右側に、塞(さい)神社・雷大臣(いかつおみ)神社・
    人丸(ひとまろ)神社の三社殿があります。
    塞神社は、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)を祭神とし、
    街々に起きる災いを防ぐ神とされています。
    また、食生活に関して、食中毒防止の神としての信仰があります。

    雷大臣神社は、雷大臣命を祭神とし、雷大臣命とは神功皇后の
    審神者(さにわ)を勤めた中臣烏賊津連(なかとみいかつおみのむらじ)ことで、
    食文化の発展、料理上達の神とされています。

    人丸神社は、柿本人丸(かきのもとひとまろ)を祀り、学問の神とされています。
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    三社殿の先に包丁塚があります。
    平成5年10月に、皇太子殿下御成婚・第61回神宮式年遷宮の記念事業として、
    神戸市内の料理食品関係者によって建立されました。
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    包丁塚の先に根から約2mの高さを残した楠の神木があります。
    横には、約500年の年輪を示す輪切りが置かれています。
    この楠は、昭和20年(1945)の神戸大空襲で焼けただれてしまったそうです。
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    神木の先に稲荷神社があり、稲倉魂命(うがのみたまのみこと)が祀られています。
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    稲荷神社から左に曲がった先に生田森坐社(いくたのもりにいますやしろ)があり、神宮皇后が祀られています。

    神宮皇后が三韓へ遠征の時に、生田の杜ですりつぶした魚肉を鉾の先に
    塗り付けて焼いて食べたのが「かまぼこ」の始まりと伝わります。
    形が蒲(ガマ)の穂に似ていたことから、「蒲穂子」が訛って、
    『かまぼこ』になったとされています。
    また、矛先で焼いたため、「蒲鉾」になったとも伝えられ、
    その原形は現在の『ちくわ』に似ています。
    文献に初めて登場したのは平安時代中期の永久3年(1115)で、
    類聚雑要抄(るいじゅうざつようしょう)』の中に、
    宴会に出されているのが記録されています。
    1115年をとり、「11月15日」を『かまぼこの日』とされています。

    生田の森には、松の木が1本も植えられていません。
    かって、砂山(いさごやま)に祀られていた時には、社の周囲に松の木が
    植えられていたのですが、延暦18年(799)に洪水が発生した際に、
    松の木はそれを防ぐ役割を果たさなかったからだと伝わります。

    また、寿永3年(1184)には平清盛の子・知盛(とももり)を大将とする
    平家軍が生田の森に陣を構え、一の谷から生田の森へかけて
    一帯が戦場となりました。
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    森の中には小川が流れ、池へと注いでいます。
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    池の中には島があり、島には市杵島神社(いちきしまじんじゃ)があり、
    市杵島姫(弁財天)が祀られています。
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    池には鯉が泳ぎ、あひるが列をなして鯉を追いかけているようです。
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    本殿の裏側に蛭子神社があります。
    蛭子神の詳細は西宮神社をご覧ください。
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    本殿の横を歩くと、ちょっとだけ本殿の屋根が望めます。

    JR三ノ宮駅まで戻り、大阪駅まで乗車し、太融寺へ向かいます。
    太融寺は、新西国三十三箇所観音霊場・第2番、近畿三十六不動尊霊場・第6番、
    摂津国八十八箇所・第6番、おおさか十三仏霊場・第8番、
    神仏霊場巡拝の道・第51番(大阪第10番)、
    なにわ七幸めぐりの札所になっています。
    続く

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  • 09/19/17--02:17: 太融寺
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    JR大阪駅から15分位歩いた扇町通の南側に太融寺があります。
    山号を「佳木山」、院号を「宝樹院」、正式には「佳木山宝樹院太融寺」と
    称する高野山真言宗の準別格本山です。
    新西国三十三箇所観音霊場・第2番、近畿三十六不動尊霊場・第6番、
    摂津国八十八箇所・第6番、おおさか十三仏霊場・第8番、
    神仏霊場巡拝の道・第51番(大阪第10番)、ぼけ封じ観音霊場・第七番、
    なにわ七幸めぐりの札所になっています。
    北門から入りました。
    「一願不動明王」と記された案内板に従って左に曲がった所に納経所があります。
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    突き当たりに滝があり、滝の前に近畿三十六不動尊霊場の本尊である
    「一願不動明王」の石像が祀られています。
    不動明王像は昭和29年5月28日に再刻され、同時に脇侍の矜羯羅童子
    (こんがらどうじ)と制吒(多)迦童子(せいたかどうじ)も
    再刻されました。
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    滝の左側に榎木稲荷の小さな祠が祀られています。
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    本堂の横に弘法大師像が建立されています。
    太融寺は、平安時代の弘仁12年(821)、
    弘法大師が嵯峨天皇の勅願により創建しました。
    天皇崩御の後、嵯峨天皇の皇子で嵯峨源氏の祖である源融(みなもとのとおる)に
    より、この地に八町四面を画して、七堂伽藍が建立されました。
    源融は『源氏物語』光源氏の実在モデルの一人とされています。
    元和元年(1615)、大坂夏の陣の兵火で全焼後、
    元禄時代に本堂など25の諸堂が再建されました。
    昭和20年(1945)の大阪大空襲より再び全焼し、
    戦後になって20余棟が復興されました。
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    弘法大師像の前から振り返ると昭和61年10月に建立された宝塔が望めます。
    不動明王像を祀る一願堂の上に宝塔が建立され、大日如来像が安置されています。
    護摩堂、大師堂、客殿、そしてその奥の寺務所が一つの建物になっているようです。
    護摩堂の本尊は不動明王像で、矜迦羅・制迦の二童子が安置されています。
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    大師堂の本尊は、江戸時代初期作の弘法大師像で、
    摂津国八十八ヶ所霊場の本尊でもあります。
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    客殿の右側に建立されている宝篋印塔(ほうきょういんとう)
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    本堂は昭和35年10月23日に再建されました。
    本尊は、平安時代の作で嵯峨天皇の念持仏と伝わる千手観世音菩薩像で、
    新西国三十三箇所観音霊場の本尊でもあります。
    度重なる火災や災害から護られてきました。
    脇侍には地蔵菩薩像と毘沙門天像が安置されています。
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    本堂の左奥にぼけ封じ観音霊場の本尊である観音像が建立されています。
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    観音像から左に進んだ所に白龍明神社があり、白龍大神が祀られています。
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    白龍明神社の左側を奥に入った所に、向かって左から、豆八大明神・高繁大明神・
    繁高大明神が祀られた三社殿があります。
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    三社殿の左側に千成地蔵尊が祀られています。
    この地蔵尊に参拝・祈願すれば、一切の病気・災難を除き諸願を成就し、
    特に子供を守護するそうです。
    千成地蔵尊の左側は真砂厄除地蔵尊、その左側は黄金火除地蔵尊です。
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    三社殿の右奥に淀殿の墓があります。
    元和元年(1615)、大坂夏の陣で城は落城し、淀殿は秀頼と共に自害し果てました。
    大阪城公園には「淀殿・秀頼自害の地」の石碑が建立されています。
    その後、大阪城東側の弁天島に葬られ、淀姫神社が建立されました。
    明治10年11月、城東練兵場(現・大阪ビジネスパーク)造成に当り、
    淀姫神社は生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)に遷座され、
    墓所は太融寺に改葬され、九輪の塔が建立されました。
    塔は戦災ににより、現在は六輪の塔になっています。
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    墓所の裏側です。
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    墓所の裏側から出てきた所に五輪塔や地蔵像が祀られていますが、詳細は不明です。
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    南へ進むと昭和48年に再建された鐘楼があります。
    梵鐘は、延宝3年(1675)に鋳造されたもので、
    江戸中期の高僧・浄厳和上の撰文があります。
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    鐘楼の右奥に水子地蔵尊が祀られています。
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    西門を挟んだ先に本坊があります。
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    境内図です。
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    西門から出て、綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)へ向かいます。
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    綱敷天神社は、源融(みなもとのとおる)が太融寺に八町四面を画して、
    七堂伽藍を建立した際、父・嵯峨天皇を祀る社として
    「神野太神宮」を併せて創建したと伝わります。
    後に菅原道真が無実の罪で大宰府へ左遷の折、この地に着いたところ、
    一本の紅梅が今を盛りと咲き匂っており、しばしこの梅を眺めるため、
    船の艫綱(ともづな)をたぐりよせ、即席の座席としたことが「綱敷(つなしき)」の名の由来となったと伝わります。
     この時、地元の者より「ゆりわ」なる器に団子を盛りて道真にすすめたところ、
    道真は大いに喜び、今も大事な神事の折にはこの「ゆりわ」に
    団子を盛って供えています。
     また、追従の老臣、度会春彦の孫・春茂以下六名の者を集めさせ、
    この地に留まるように伝えました。
    道真と離れることはつらいことですが、道真直々の言葉であればその帰りを
    いつまでもこの地にて待つとして、道真より白江の姓を賜り、別れました。
    その後、道真は大宰府の地にて死去し、一族は、道真の愛でた紅梅の元に
    小祠を営み梅塚と称して道真を祀りました。
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    正暦4年(993)に道真の無実の罪が解かれ、朝廷より正一位太政大臣を
    追贈された折、この小祠と嵯峨天皇を祀る「神野太神宮」とを併せて
    祀るために社殿を建立し、綱敷天神社としました。
    今に至るまでその春茂の子孫、白江家は神職として綱敷天神社に奉仕しています。
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    狛犬は大正4年(1915)11月に、大正天皇の即位を記念して鋳造、奉納されました。
    昭和20年の大阪大空襲で社殿が焼失し、その熱で尾の部分が溶解しました。
    戦後直ぐにコンクリートで補修され、現在地に設置されましたが、
    当時のコンクリートの質の粗雑さを現しています。
    戦災の遺構として当時のまま、本殿を守護しています。
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    境内社の喜多埜稲荷神社。
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    境内社で、右「白龍大神」と左「猿田彦大神」が祀られています。
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    臥牛像
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    筆塚

    帰途は、歓楽街の誘惑に心が折れそうにもなりながら、
    大阪駅へと向かいました。

    次回は法華山・一乗寺を巡ります。

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  • 09/21/17--01:26: 酒見寺
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    京都発6:03の快速・姫路行きに乗車し、加古川で加古川線に乗り換え、
    8:41に粟生駅に到着。
    到着した同じホームの横、先の方に北条鉄道のディーゼルカーが一両で
    停車していて6分後に発車します。
    9:09に北条駅に到着し、駅で1日フリー切符を820円で購入しました。
    粟生~北条間の往復料金と同じです。
    駅前の県道をイオンモールの前まで歩き、左折してその先2筋目を右折して
    進んだ先に酒見寺があります。
    北条駅から歩いて約15分の距離です。

    酒見寺(さがみじ、さがみでら)は、山号を泉生山(せんしょうざん)と
    称する高野山真言宗の寺院で、新西国三十三箇所29番、
    播磨西国三十三箇所16番の札所になっています。

    楼門は江戸時代の文政8年(1825)に再建されたもので、
    加西市の文化財に指定されています。
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    門をくぐると、両側に二十一対の飾り燈籠が建ち並び、
    参道が一直線に本堂(根本堂)へと伸びています。
    この燈籠は、弘法大師入定千五百年を記念して建てられました。
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    門をくぐった左側に手水舎と宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っています。
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    手水舎の先に引聲(いんぜい)堂(常行堂)があります。
    本尊は阿弥陀如来で、毎年9月10日に本尊を開帳し、
    一週間引聲会式が行われます。
    この法要は寛弘8年(1011)に慈覚大師により伝えられました。
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    引聲堂の先にある観音像
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    引聲堂の参道を挟んだ斜め向かいに地蔵堂があり、地蔵菩薩を本尊としています。
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    地蔵堂の先に多宝塔があり、寛文2年(1662)に再建されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    この「多宝塔」の屋根は上重が桧皮葺き、下重が本瓦葺きで葺き方が異なり、
    このような屋根は他に類型がなく非常に珍しいとされています。
    堂内に入ることはできませんが、四天柱や来迎壁には
    両界諸仏が描かれているそうです。
    全面に装飾文様が極彩色で描かれていて、これらの彩色は
    享保13年(1728)の頃までかけて描かれたものと考えられています。
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    多宝塔の先には、新観音堂があります。
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    新観音堂の前に立つ地蔵像。
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    酒見寺は寺伝によると、奈良時代の天平17年(745)に行基
    酒見明神(住吉神社)の神託を受け、聖武天皇に奏上して開創したと伝わります。
    平安時代から毎年勅使の参詣が行われていましたが、
    平安時代末期の平治元年(1160)に起こった平治の乱で全山が焼失しました。
    その後、二條院の勅により再建されました。
    安土・桃山時代の天正年間(1573~92)にも兵火で全山が焼失しました。
    江戸時代に入り、姫路城主となった池田輝政が姫路城の守護寺に定めて援助を行い、池田家の転封後は本多忠政の援助を受け、寛永年間(1624~43)に幕府の
    命を受けた塔頭寺院の一つである実相院の隆恵(りゅうえ)が再興しました。
    3代将軍徳川家光が朱印寺と定め、代々将軍から朱印状を下附されて隆盛するなど、これまで天皇や幕府、藩により厚く保護されてきました。

    本堂(根本堂)は元禄2年(1689)に再建されました。
    本尊は行基作と伝わる十一面観音像で、持国天と多聞天を脇侍としていますが、
    ともに秘仏とされ厨子の中に安置されています。
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    堂内には賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像が安置されています。
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    本堂横の石仏
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    本堂の裏側に御影堂があり、弘法大師が祀られています。
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    御影堂前の石灯籠。
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    本堂の右側に鐘楼があります。
    寛文4年(1664)に再建され、平成17年6月18日に全解体修理が行われました。
    梵鐘には貞治3年(1364)の銘があり、
    鐘楼と共に兵庫県の文化財に指定されています。
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    鐘楼から右に進んだ所に本坊への門があります。
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    門の前には宝篋印塔が建立されています。
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    本坊横の庫裏に納経があります。
    しかし、呼び鈴を押しても応答がありません。

    酒見寺に隣接して住吉神社がありますので、神社を巡ります。
    続く

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    酒見寺から石橋を渡ると住吉神社の境内になります。
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    住吉神社は、古くは酒見大明神と呼ばれ、付近の黒駒村で創建され、
    養老元年(717)に現在地に遷座されました。
    天平3年(731)に記された、住吉大社らに伝わる『住吉大社神代記』に
    見られる住吉大神の宮九箇処の一社です。

    住吉神社も酒見寺と同様に幾度もの焼失と再建を経て荒廃していたところ、
    江戸時代初期に姫路城主の池田輝政により復興されました。
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    拝殿には唐破風(からはふ)の屋根があり、彫刻が施されています。
    拝殿は国の有形文化財に登録されています。
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    拝殿前の
    狛犬













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    拝殿の狛犬














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    拝殿の内部
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    現在の本社三殿は、嘉永4年(1851)に再建されたもので、
    国の登録有形文化財になっています。
    祭神は住吉大社と同じ底筒男命(そこつつのおのみこと) ・
    中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命 (うわつつのおのみこと)・
    神功皇后 (息長足姫命=おきながたらしひめのみこと)の四神と
    酒見神が祀られています。
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    神社の左側(西側)に出て、車道を少し北上した右側に
    羅漢寺(らかんじ)があり、受付で拝観料200円を納めます。
    羅漢寺はかつては酒見寺に属していたと伝わりますが、
    現在は天台宗の寺院で山号を「北榮山」と称します。
    通称で北条五百羅漢と呼ばれるように、
    境内には約450体の羅漢像が鎮座しています。
    順路に従って進むと、少し大きめの羅漢像が迎えてくれます。
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    その先、羅漢像が立ち並ぶ光景には圧倒されます。
    制作者や制作年代は不明ですが、慶長年間(1596~1615)ではないかと
    推定されています。
    慶長15~17年(1610~12)の刻銘が残された像が数体あり、
    当時に戦や飢餓で多くの死者が出て、追悼・供養するために
    像が刻まれたのではと考えられています。
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    技巧的には高度とは言えませんが、一体一体を惨死者の霊を弔うため
    心を込めて刻まれたのだと思われます。
    北条五百羅漢は、加西市の文化財に指定されています。
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    境内の奥の方には、釈迦如来を中心に、来迎二十五菩薩像が刻まれています。
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    本堂
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    本尊は薬師如来です。
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    本堂の左側に観音堂があります。
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    堂内にはふれ愛観音が祀られています。
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    観音堂の左側に聖天堂があります。
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    堂内には大聖歓喜天が祀られていますが、厨子の中に納められています。
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    これは石棺でしょうか?

    酒見寺へ戻り、納経所の呼び鈴を押してみましたが、やはり応答がありません。
    仕方がないので、北条駅まで戻り、法華口まで乗車し、
    バスに乗り換えて一乗寺へ向かいます。
    続く




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  • 09/25/17--02:04: 法華山一乗寺-その1
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    10:40に北条駅を出発します。
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    駅には、もう1両の車両が停車し、車庫に1両と計3両の車両で
    運行され、本日は同じ車両が粟生駅と北条駅を往復しているようです。
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    10:52、法華口駅に到着しました。
    駅舎は大正4年(1915)3月3日の開業当時のもので、
    国の登録有形文化財になっています。
    かって、付近に鶉野飛行場(うずらのひこうじょう)があり、
    特攻隊で出撃していく隊員を家族たちがこの駅舎で見送った
    悲しい歴史があるそうです。
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    現在の待合室は、新幹線が走り、明るく様変わりしています。
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    駅前には立派な三重塔が建立されています。
    法華山一乗寺の国宝・三重塔を参考にして1年がかりで制作されたそうです。
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    駅前からの風景
    駅からバス停まで少し離れていてます。
    次のバスまで1時間近くあり、予定では飛行場跡を訪ねてみたいと
    考えていたのですが、駅前付近で景色を楽しんでいました。

    11:44、ほぼ予定通りにバスが到着しましたが、乗客は誰もいません。
    10分少々で法華山一乗寺に到着し、料金は250円でした。
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    バス停から少々後戻りし、粟嶋堂へ向かいます。
    その途中、塔頭の歓喜院があります。
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    粟嶋堂は、元は法華山一乗寺の塔頭・隣聖院の境内にあったのですが、
    県道の工事により昭和30年に現在地に移転・新築されました。
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    境内には無数の水子供養の地蔵尊が奉納されています。
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    法華山一乗寺は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる
    伝説的人物である法道仙人によって開基されたと伝わります。
    紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に
    八葉蓮華(8枚の花弁をもつハスの花)の形をした霊山を見出したので、
    そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したとされています。
    しかし、創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあった
    と推定されています。
    笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏
    (重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と
    考えられています。
    現在は古法華自然公園として整備されています。

    仙人が孝徳天皇の病気を直したことから、天皇の勅によって本堂を建立され、
    白雉元年(650)に行幸があり、落慶法要を修せられ、
    一乗寺の勅額を賜って鎮護国家の道場となりました。
    平安時代末期の承安元年(1171)には、現存する三重塔が建立されていますので、
    その年までには現在地において伽藍が整備されていたと考えられています。
    正確な移転時期や何故移転したかは不明です。
    現在の法華山一乗寺には山門がありませんが、県道が開通する以前には
    現在の入口から東西にそれぞれ約550m離れた所に
    山門が2箇所残されているそうです。
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    現在の境内入口には正面に正和5年(1316)の年号が刻まれ石造笠塔婆が
    建立されていて、兵庫県の文化財に指定されています。
    総高は2.9mあり、塔婆の位置が本堂から一町の距離にあることが示されています。
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    受付で入山料500円を納めて境内に入ると、正面に石段が待ち構えています。
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    石段を上った所に常行堂(阿弥陀堂)があります。
    常行堂は聖武天皇の勅願による建立された後、天文22年(1553)に
    再建されましたが再び焼失し、現在の建物は明治元年(1868年)に再々建に
    着手され、同10年に上棟しました。
    平成4年に屋根の葺き替え工事と内外陣が荘厳され、
    不断念仏・止観道場として使用されています。
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    常行堂の正面に青銅製の燈籠が建ち、周囲には宝篋印塔(ほうきょういんとう)や
    石碑などが建立されています。
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    常行堂から石段を上った所に三重塔があり、
    承安元年(1171)に建立されたもので国宝に指定されています。
    初層から三層に向かって小さくなるように造られていて、
    三層の幅は初層の半分にまで減少しているそうです。
    塔の総高は約21.8mですが、相輪の高さが約7mあり、
    総高の3分の1を占めています。
    昭和16年から18年に行われた解体修理の際、この相輪の根元に据えられている
    伏鉢(ふくはち)から承安元年(1171年)の銘が発見され、
    建てられた年代が判明しました。
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    三重塔の向かいには法輪堂と呼ばれる経堂があります。
    堂内には輪蔵が設けられていて、誰でもこれを回せばこの輪蔵に納められた
    経典を読誦したのと同じ効果があるとされています。
    宝暦12年(1762)に建立され、転輪蔵を創始した傅大士(ふだいし)と
    その二子像が安置されています。
    平成10年に屋根の葺き替え工事が行われました。
    壁の白さから塗り替えも行われたように思えます。
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    法輪堂前の石段を上るとようやく本堂へと続き、
    伽藍が山の斜面に沿って縦に築かれています。
    続く

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  • 09/26/17--01:53: 法華山一乗寺-その2
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    本堂には「大悲閣」と記された扁額が掲げられています。
    平安時代の永延2年(988)、花山法皇が御幸された際に金堂を大悲閣と命名され、
    西国第26番札所と定められました。
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    石段を上った右側に鐘楼があり、江戸時代の寛永5年(1628)に本多忠政により
    再建されたもので、兵庫県の文化財に指定されています。
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    梵鐘には「諸行無常 是正滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」との鐘銘があり、
    鐘楼と同時期に鋳造されたと考えられています。
    本堂からその一部が見えます。
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    本堂前に手水舎があり、冷たい水で汗を拭う事ができます。
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    初代の本堂は、飛鳥時代の白雉元年(650)に孝徳天皇の勅願によって
    創建されました。
    二代目は、鎌倉時代から室町時代へ移行する建武の新政の建武2年(1335)、
    後醍醐天皇の勅願によって再建され、大講堂と呼ばれました。
    三代目は、戦国時代の大永3年(1523)、兵火による焼失後、
    永禄5年(1562)に赤松義裕により再建されました。
    四代目の現在の本堂は寛永年(1628)に姫路藩主・本多忠政により再建されました。
    本堂は平成10年(1998)の台風で大きな被害を受け、平成11年~20年に
    災害復旧工事に続いて本堂の半解体修理が行われました。
    本堂の内陣には三間の大厨子を置き、中央の間に本尊・聖観音立像(重要文化財)、
    左右の間には不動明王と毘沙門天像が安置されていますが、いずれも秘仏です。
    厨子外の左右には二十八部衆と風神・雷神像が安置されています。
    法華山一乗寺は、西国第26番札所の他に播磨西国三十三箇所33番、
    神仏霊場巡拝の道 第77番の札所になっています。
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    本堂には、不気味な面が掛かっています。
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    本堂から望む三重塔です。
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    本堂の向かいの高台に護法堂があり、鎌倉時代のもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    仏法守護の毘沙門天が祀られています。
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    護法堂から下り左側に進むと、手前に妙見堂、奥に弁天堂があり、
    共に室町時代のもので、国の重要文化財に指定されています。
    妙見堂は三社殿のように見えます。
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    弁天堂の左側、東向きに行者堂があり、平安時代に
    仁明天皇(にんみょうてんのう)の御願により創建されました。
    現在の建物は江戸時代の寛文年間(1661~1673)に再建され、
    平成11年に解体修理が行われました。
    堂内には役行者と前鬼後鬼の木像が安置されています。
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    護法堂の下を通り緩い坂道を登り奥之院へと向かいます。
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    本堂から約200m、数分歩けば開山堂の石段下に着きます。
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    石段を上った所に開山堂があり、法道仙人が祀られています。
    現在の建物は江戸時代の寛文7年(1667)に建立され、
    平成10年に解体修理が行われました。
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    開山堂の上部に「賽の河原」と呼ばれる谷があったのですが、
    開山堂はフェンスで囲まれこれ以上上部へは行けないようです。
    フェンス越しに上部を見ると、砂防堰堤が新しく築かれているようで、
    土砂災害があったのかもしれません。
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    石傘塔婆が賽の河原の名残なのでしょうか?
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    本堂の左方向へ下って行くと、途中に三重塔へと上る石段があります。
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    石段から下って行くと放生池があり、池の中に弁才天が祀られています。
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    池の周囲には石仏が祀られています。
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    鳥居が建ち並ぶ先に見子大明神の社がありますが、
    バスの時間が迫っているため参拝は次回に...
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    池の先には太子堂があります。
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    太子堂前の広場

    バスで法華口駅まで戻り、酒見寺へ電話しました。
    電話が通じ、酒見寺まで戻ることにし、
    予定していた光明寺への参拝は順延となりました。

    次回は夏の青春18きっぷの最後で播州赤穂を巡ります。

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  • 09/28/17--02:53: 花岳寺-その1
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    京都駅発5:43発の快速・網干行きに乗車し、
    7:56に姫路で8:08発・播州赤穂行きに乗り換え、8:40に赤穂駅に到着しました。
    ホーム2階にある観光案内所でレンタサイクルを借ります。
    営業は9時からだったのですが、無事電動付の自転車が借りられました。
    1日500円です。

    赤穂駅から直ぐの所に旧上水道のモニュメントがあります。
    時間が早かったせいか水は吹き出ていませんでしたが、江戸時代の遺構です。
    赤穂で最初に上水道を整備したのは池田家の代官・垂水半左衛門で、
    慶長19年から元和2年(1614~1616)の3年かけ、高雄の切山隧道を掘り抜いて
    千種川(ちくさがわ)の水を取水し、延長30kmの導水路を引いて
    城下に水をもたらしました。
    城下に入った上水道は、地下を網の目のように走り、
    城内や町家の家々に各戸給水されました。
    赤穂上水道は、江戸神田上水(天正18年=1590年完成)、
    備後(びんご=現・広島県)福山水道(元和8年=1622年)に並び
    日本三大上水道の一つに数えられています。
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    9:00、息継ぎ井戸に到着しました。
    息継ぎ井戸は、主君の刃傷(にんじょう)事件を大石内蔵助に知らせるべく
    早駕籠で赤穂に向った二人が、大石邸近くのこの井戸で喉を潤し、
    息を整えたと伝わる井戸です。
    元禄14年(1701)3月14日、赤穂藩主である主君・浅野内匠頭(たくみのかみ)が
    江戸城で吉良上野介を切りつける刃傷事件を起こしました。
    早水藤左衛門(当時37歳)と萱野三平(当時26歳)がこの事件を知らせるため
    早駕籠で赤穂に向いました。
    4日半という異例の速さで赤穂に到着し、大石邸のほど近くにある井戸で水を飲み、息を整えてから大石内蔵助に事件の第一報を伝えたといわれています。
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    井戸の横にあるからくり時計が動き出しました。
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    9:10に花岳寺(かがくじ)に到着。
    花岳寺は江戸時代初期の正保2年(1645)、常陸国(現・茨城県)笠間藩より
    転封となった浅野長直が浅野家菩提寺として創建されました。
    山号を台雲山(たいうんざん)と号する曹洞宗の寺院で、新西国三十三箇所31番、
    瀬戸内観音霊場7番札所になっています。
    山門は明治維新後に解体された赤穂城の塩屋惣門が移築されたもので、
    赤穂市文化財に指定されています。
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    門をくぐった左側に千手堂があり、休憩所として使用されています。
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    堂内に枯れてしまった松の木の幹が置かれています。
    元禄4年(1691)に大石内蔵助が母の冥福を祈り境内に移植された松ですが、
    昭和2年(1927)に樹齢310年で松食い虫により枯れてしまいました。
    元禄14年(1701年)に赤穂を離れるとき、この木の下で名残を惜しんだため、
    後に「大石なごりの松」と呼ばれるようになりました。
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    境内には二代目の松が大きく育っています。
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    松の木の右側に鐘楼があります。
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    梵鐘は赤穂二代目藩主・浅野長友によって鋳造されました。
    その後、三代目藩主・長矩(ながのり)の刃傷事件後、
    赤穂浅野家は三代で断絶しました。
    元禄15年(1702年)四十七士が吉良邸に討ち入りし、主君の無念をはらしたものの、翌年には切腹の命が下りました。
    悲報が赤穂に届くと、町民は寺に集まり、冥福を祈りこの鐘を打ち続け、
    あまりにも撞きすぎたため、以来、この鐘は鳴らなくなったと伝わります。
    寛政9年(1797年)に再鋳造されるまでの50年間、鐘の鳴ることは
    なかったといわれ、「鳴らずの鐘」と呼ばれていました。

    全国の梵鐘が戦時供出されましたが、この梵鐘は義士との由緒の深さ
    から、赤穂市内で唯一供出が免れました。
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    本堂
    本尊は釈迦如来です。
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    賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)
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    本堂の天井には虎が描かれています。
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    本堂の斜め前に「無怨塔(むおんとう)」が建立されています。
    「うらみなし 心の自由 世の平和 智慧あり 慈悲あり まよいなし」と
    記されています。
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    塔の先に報恩堂があります。
    かって報恩寺に属し、遠林寺が管理していましたが、
    明治の廃仏毀釈で遠林寺が廃寺となりました。
    それに伴い、管理を花岳寺が行うようになり、その後現在地に移設されました。
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    移設後、町村の有志の方々から千躰観音菩薩像が奉納され、
    千躰観音堂と呼ばれるようになりました。
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    堂内の奥にある棚には、元々安置されていた塩釜大明神(安産の神)を中心に、
    左側に稲荷大明神、右側に秋葉大明神(火難よけの神)が祀られています。
    両側に安置されている童子は青面金剛尊(病魔を払い除く金剛童子)でしょうか?
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    報恩堂の前に野口雨情の歌碑が建立されています。
    「春のあけぼの 花なら桜 武士の鑑じゃ 赤穂義士」
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    報恩堂の裏側へと進むと友愛観音尊が祀られた祠があります。

    義士墓所や宝物館へ向かいます。
    続く

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  • 10/02/17--01:29: 花岳寺-その2
  • イメージ 1
    義士墓所や宝物館の拝観は有料です。
    受付で400円を納め中に入ると、左側に赤穂雲火焼(あこううんかやき)の
    作品が展示されています。
    赤穂雲火焼とは、江戸時代後期から明治時代初期にかけて、赤穂の地において
    大嶋黄谷(おおしまこうこく)が生み出した独特の焼き物のことです。
    無釉でありながら、炎と煙によって窯の中で描かれたその色彩と文様は、
    燃える夕焼空を連想させ、精巧な技術で磨かれた陶膚は、鈍い光沢を呈し、
    当時の人々に賞賛を得ていました。
    しかし、その陶法を伝える人もなく、文献もなく、
    幻の雲火焼と称せられてきました。
    昭和62年(1987)に赤穂瀬戸内窯(あこうせとうちがま)で試行錯誤を重ねられ、
    ようやく復活に成功しました。
    平成5年(1993)には、兵庫県伝統的工芸品に指定されました。
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    正面には浅野家霊廟があります。
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    霊廟の手前に忠義塚が建立されています。
    赤穂浪士50回忌にあたる宝暦2年(1752)に建立され、大石良金(主税)と
    関わった藤江熊陽(ふじえゆうよう)の撰による碑文が刻まれています。
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    忠義塚の奥に義士の墓所があります。
    赤穂浪士37回忌にあたる元文4年(1739)に有志により、
    遺髪を納め義士の墓が建立されました。
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    墓所から戻り、赤穂雲火焼が展示してある奥のほうへ進むと義士宝物館があります。
    義士宝物館には、浅野家や義士関連の資料が数多く展示されていますが、
    撮影は禁止されています。
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    義士宝物館を出て北へ進むと義士木像堂があり、250余年前に造られた
    四十七義士の木像及び札所本尊である大石家代々の持仏・千手観世音菩薩像が
    安置されています。
    こちらの堂内も撮影禁止になっています。
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    義士木像堂を出て東に進むと、中国より渡来の石仏が安置されています。
    舟御光観音で、背面に魏の景明2年(501)と刻まれているそうですが、
    とても1500年前の石仏とは思えないほど原型を留めています。
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    境内に置かれている宝珠は元、森家霊廟の屋根に載せれていたものだそうですが、
    説明文の文字が劣化してよく読めず詳細は不明です。
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    浅野家霊廟の奥に大石家先祖墓があります。
    大石家は、大坂・夏の陣、天王寺・岡山の戦いで大石良勝が活躍したことから、
    浅野家の永代家老家となりました。
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    大石家先祖墓から右に進み、北の奥に浅野長重の墓があります。
    長重の母の姉が豊臣秀吉の正室・ねねであり、浅野氏は優遇されました。
    慶長4年(1599)には徳川家康の命令で江戸へ移り、翌年1月から家康の三男
    秀忠の小姓(こしょう)として仕えるようになりました。
    慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは、東軍として参戦し、慶長7年(1602)には
    家康の養女となっていた松平家清の娘と結婚。
    慶長16年(1611)に父・長政の死去に伴い、常陸真壁(現在の茨城県)5万石を
    相続しました。
    元和8年(1622)、真壁を含む5万3500石とされて笠間藩主となりました。
    寛永9年(1632)に死去。享年45。
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    長重の墓の手前、左側に長直の墓があります。
    長直は、長重の長男で寛永9年(1632)に父の跡を継いで笠間藩主となりました。
    正保2年(1645)、赤穂藩主の池田輝興(てるおき)が正室の黒田長政の娘を
    殺害する事件が起こり、池田家は改易となりました。
    その後、浅野長直は国替えを命じられ、浅野家が赤穂藩主となりました。
    寛文11年(1671)に長男・長友に家督を譲り、翌年7月24日に死去しました。
    享年63。
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    長直の墓の手前に長友の墓があります。
    長友は、延宝3年(1675)、33歳で亡くなり、長男の長矩(ながのり)が9歳で
    後を継ぎました。
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    浅野家の墓所の右側には「松月園」と名付けられた庭園があります。
    鍵はかけられてはいませんでしたが、扉は閉じられていましたので、
    一般には開放されていないように思えます。
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    大石家先祖墓の左側に森家の墓所があります。
    森家は、浅野家が改易となった後、永井家に継いで宝永3年(1706)に
    赤穂藩主となり、花岳寺を菩提寺と定めました。
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    墓所から出た右側に座禅堂があります。

    神仏霊場巡拝の道76番(兵庫11番)の大石神社へ向かいます。
    続く

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  • 10/03/17--01:34: 大石神社
  • イメージ 11

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    花岳寺から南下すると赤穂城の掘りにぶつかり、左側に大手門隅櫓が望めます。
    昭和30年(1955)、赤穂義士の自刃250年祭の際に大手門、大手門隅櫓、
    城壁の一部が復元されました。
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    反対側には、多くの古い看板が掲げられた不思議な店があります。
    昔の三輪自動車「ミゼット」も見られます。
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    城の外側を廻ると塩屋門跡があります。
    塩屋門は赤穂城三之丸の西側に開かれた門で搦手(からめて)に当たります。
    江戸での刃傷事件を知らせるために、早使いの早水藤左衛門(当時37歳)と
    萱野三平(当時26歳)が入ったのがこの門です。
    明治の廃藩後、門は花岳寺の山門として移築されました。
    門を入った枡形に太鼓櫓があり、門外の侍屋敷に合図が発せられました。
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    塩屋門跡には昭和29年(1954)に建立された江戸時代後期の曹洞宗の僧侶で
    歌人の良寛の歌碑があります。
    良寛が諸国行脚の途中、赤穂天神の森に立ち寄り、
    野宿したときに詠ったとされています。
    碑文には次のように刻まれてるらしいのですが、実際に読むのは困難です。
    「あこうてふところにて天神の森に宿りぬ
     さよふけがたあらしのいとさむふふきたりければ
      やまあらしよ いたくなふきそ しろたへの
       ころもかたしき たひねせしよは」
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    塩屋門跡から北東に進んだ所に大石神社があります。
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    参道には四十七士の石像が建立されています。
    イメージ 8イメージ 9奥には
    大石父子の像が左右に並んでいます。




















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    中央に建つ鳥居は角柱です。
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     神門
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    神門には、大黒天と
    恵比寿像が祀られています。










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    神門をくぐった右側に浅野家・大坂蔵屋敷の庭にあった舟石が置かれています。
    長さ3m、幅1.2m、重さ約2tの自然石で、長さ1m、幅60cmの水穴があります。
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    本殿への石段の手前に義士資料館がありますが、
    こちらも有料なので拝観は見合わせました。
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    義士宝物館の拝観は、資料館の入館料400円に含まれているようです。
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    大石神社は、四十七士が切腹後、赤穂城内の大石邸内に小さな祠が
    設けられ密かに祀られていたのが始まりです。
    当時は江戸幕府にはばかって表立って顕彰することはできませんでした。
    明治元年(1868)、明治天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わし、
    これを弔って以降、赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建されました。
    赤穂の大石神社は、明治33年(1900)に創建することが政府から許可され、
    明治43年(1910)4月に起工、大正元年(1912)に社殿が竣工した新しい神社です。
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    本殿
    大石良雄ら赤穂浪士47人および中途で自害した萱野重実(かやの しげざね)を
    主祭神とし、第二次世界大戦後、城内の神社に祀られていた
    赤穂藩主・浅野氏の3代及び、城外の赤穂神社に祀られていた、
    森家の遠祖の七武将が合祀されました。
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    本殿の玉垣には刃傷事件から討ち入り、切腹までの絵馬が掲げられています。
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    本殿の左奥に境内社合祀殿があります。
    浅野家時代より藩民の崇敬をうけた古社が城の内外に点在していましたが、
    平成12年境内社合祀殿として一ヶ所に合祀されました。
    右から国助稲荷社、淡嶋社、恵比寿宮、天満宮、山鹿社、八田社、忠魂社です。
    淡嶋社は、和歌山加太に鎮座している淡嶋明神を勧請したもので、
    特に婦人の諸病に霊験あらたかと信仰されています。
    山鹿社は、赤穂築城の軍師であり義士に兵学を教授した
    山鹿素行命が祀られています。
    八田社は、赤穂塩田の大地主・八田四郎右衛門が安芸の宮島から厳島神社
    勧請し、塩田の守護神としたものです。
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    合祀殿の右側には十二支の石像が祀られていますが、実際には11体しかありません。
    大石内蔵助が亥年生まれだったことから亥年から始まり、
    来年の戌年で十二支が揃うそうです。
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    大石神社の東側の参道を出ます。
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    少し北上した所に大石邸長屋門があります。
    享保14年(1729)の火災により、建物の大半が焼失し、
    現在ではこの長屋門のみが残されています。
    門口約26.8m、奥行き約4.8mの建物で、国の史跡に指定されています。
    悲報を伝える早使いの二人が叩いたのもこの門で、
    安政3年(1856)に大修理が行われました。
    昭和52年(1977)11月から老朽のため全面解体修理が行われ、
    翌年の10月末に復元が完了しました。
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    通りの東側、大石邸長屋門の斜め向かいに近藤源八宅長屋門があります。
    大石邸長屋門とともに赤穂城跡内に残された数少ない江戸期の建物として、
    赤穂市の文化財に指定されています。
    「源八長屋」の愛称で親しまれていたのですが、現在残されているのは
    長屋部分の一部で、内部が公開されています。
    源八の妻は、大石内蔵助良雄の叔母にあたり、大石家とは親戚関係でしたが、
    最初から義盟には加わりませんでした。
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    大石邸長屋門の先は突き当たりで、左に折れると大石神社の社殿が望めます。
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    その先も突き当りで、右に折れた所に番所跡があり、
    現在は休憩所として使用されています。
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    更に右に曲がると大手門へ出られます。
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    昔なら門番が立って、侵入者を厳重に警備されていたのでしょうが、
    現在は鳩が門番をしていて、不審者には糞が落とされそうです。
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    右手方向には大手門隅櫓が望めます。

    赤穂城・本丸へ向かいます。
    続く

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  • 10/04/17--01:37: 赤穂城
  • イメージ 1
    大石神社の神門の追記
    大石神社の神門は、義芳門と名付けられ、昭和17年(1942)に湊川神社から
    移築されたものです。
    明治5年(1872)に湊川神社が創建された時に建立されました。
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    大石邸長屋門から南下したした所に赤穂城・本丸への高麗門があり、
    この区画は平成4~8年(1992~1996)にかけて復元されました。
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    門をくぐって右に曲がると本丸門があります。
    本丸門は「櫓門」であり、櫓上の内部は展示室として特定の日に
    一般公開されています。
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    櫓上からの風景です。
    外敵の侵入が一目瞭然で、本日は平穏な日になりそうです。
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    本丸内に建物は無く、コンクリートの土台が御殿跡を示しています。
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    御殿の南側に本丸庭園があり、「旧赤穂城庭園」として国名勝に指定されています。
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    庭園の左側に高さ屋9mの天守台が残されていて、上る事ができます。
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    天守台から望む本丸庭園
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    天守台から望む御殿跡
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    右手に厩口門があります。
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    本丸の東側に厩口門(うまやぐちもん)があり、
    森家時代には台所門と呼ばれていました。
    廃城後に失われた後、県立赤穂高等学校の通用門に改変されていました。 
    平成8年(1996)の発掘調査で、門礎石等が良好な状態で見つかり、
    高麗門であったことがわかりました。 
    高校は移転され、平成13年(2001)に門、橋、土塀や周辺の石垣が整備されました。
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    本丸の高麗門の方へ戻り、門の手前に大石頼母助(たのものすけ)屋敷門
    があります。
    大石頼母助は、大石内蔵助の大叔父に当たる人物で、家老職に就き
    二の丸に屋敷を構えていました。
    山鹿素行(やまがそこう)が赤穂に配流された際に、素行はこの屋敷の
    一角で8年余りを過ごしたと伝わります。
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    門をくぐっても屋敷は無く、二の丸庭園が整備されていて、
    国名勝に指定されています。
    庭園はまだ整備中らしく通り抜けはできないようです。
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    庭園から戻り、城の南側に移動すると米蔵が再現されていて
    休憩所として使用されています。
    かって、この地にこのような米蔵が2~3棟あったそうです。
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    米蔵から左側(東側)に進んだ所に水手門があります。
    かっての赤穂城の南側はヨシ原が広がる干潟に面していて、
    満潮時には海水が石垣まで迫っていました。
    水手門には物資を運んできた船を泊めるための「船着場の雁木(がんぎ)」や
    突堤が復元されています。

    赤穂岬へ向かいます。
    続く

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  • 10/05/17--01:48: 赤穂御崎
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    赤穂城跡の水手門から出て、東方向に進みます。
    千種川を越えて進んで行くと、右側にスーパー「ラー・ムー」があったので、
    中華弁当を税込み198円で購入しました。
    その先、川の手前で右折し、橋を渡って進んで行くと上り坂になりますが、
    電動アシスト自転車なら楽に登れます。
    峠の手前を右に入ると伊和都比売神社(いわつひめじんじゃ)があります。

    伊和都比売神社は、平安時代の延喜式神名帳で赤穂郡3座の筆頭に記される
    古社であり、元は大園と呼ばれる海上の岩礁「八丁岩」
    に祀られていました。
    江戸時代の天和3年(1683)に浅野長矩(ながのり)によって
    現在地に遷座されました。
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    手水鉢は、浅野長矩が刃傷事件を起こした元禄14年(1701)に氏子の
    方々から寄進されました。
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    社殿は海に面して建ち、海上からも航海安全や大漁の祈願などの
    参拝が行われています。
    明治時代には東郷平八郎が日露戦争開戦前に勝利祈願のため訪れ、
    その後も連合艦隊司令長官が艦隊を率いて海上より参拝を行いました。
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    本殿
    現在の祭神は伊和都比売大神ですが、元々は伊勢外宮の豊受比売であるとも、
    また播磨国一宮である伊和坐大名持御魂神社
    (いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ=現在の伊和神社)の神、
    即ち大穴牟遅神(おおなむちのかみ)の比売神ともいわれ、
    古くから「御崎明神」と称せられました。
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    金比羅宮・恵比須神社と二つの境内社並んでいます。
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    御崎には「大石名残の松」の石碑がありますが、松は枯れてしまったようです。
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    御崎からの眺望です。
    向かいに見えるのは小豆島でしょうか?
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    社殿前の石段を下ると遊歩道になっています。
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    引き潮の時に二人でたたみ岩に渡れば願いが叶うといわれ、
    赤穂御崎は「恋人の聖地」に選定されています。
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    岩場で弁当を食べていると、沖で小魚が飛び跳ね、
    何度か大きな魚の背が見えました。
    波頭が白く写り、岩の先で小魚が飛び跳ねているのが判らなくなってしまいました。
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    鳶が恨めしそうにこちらを見ています。
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    やがて諦めて沖の「えり」へと飛び去りました。
    弁当を取られなくてホッとしました。

    赤穂駅まで戻り、神仏霊場巡拝の道73番(兵庫8番)の
    海神社(わたつみじんじゃ)へ向かいます。
    続く

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    海神社(わたつみじんじゃ)は、神仏霊場巡拝の道73番(兵庫8番)札所で
    JR垂水駅前にあります。
    古くはアマ神社、又はタルミ神社と呼ばれ、現在では一般には
    カイ神社とも呼ばれます。
    延喜式神名帳』では名神大社に列せられ、旧社格は官幣中社、
    伊和神社粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)と
    ともに播磨三大社とされています。
    社殿の南側には垂水漁港があり、浜大鳥居が建立されています。
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    拝殿
    社伝によると、神功皇后が三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が
    起こって船が進めなくなったため、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、
    その縁でこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが始まりと伝わります。

    当地周辺には縄文・弥生時代の住居跡・土器などが発掘され、
    西方約550mの所には兵庫県下最大の前方後円墳である五色塚古墳があります。
    4世紀末~5世紀初頭(古墳時代前期末~中期初頭)頃の築造と推定され、
    墳丘を覆っていた茸石は、淡路島から運ばれたと判明しました。

    古来からこの地が陸上のみならず海上交通の要所であり、
    海事に関係する人々が多く存在していたことがうかがえます。
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    本殿
    主祭神は、上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)、
    中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、底津綿津見神
    (そこつわたつみのかみ)の海神三座が祀られています。
    上津綿津見神は海上で航海の神、中津綿津見神は海中で漁業の神、
    底津綿津見神は海底で海藻や塩の神とされています。
    綿津見三神は綿津見大神と総称されています。

    また、大日孁貴尊(おおひるめのむちのみこと)が配祀されています。
    大日孁貴尊とは天照皇大神の別称であり、綿津見大神や住吉三神、
    そして素戔嗚尊とともに伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊
    (いざなみのみこと)との二神の間に生まれた兄弟に当たる神でもあります。

    綿津見大神の娘・豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)は彦火々出見尊
    (ひこほほでみのみこと)に嫁がれて、鵜鶿草葺不合尊
    (うがやふきあえずのみこと)を産みました。
    そのとき大変安産であったところから、安産の神でもあり、彦火々出見尊は
    満珠干珠(みつたまひるたま)の霊力によって水をつかさどり、
    厄難を去る神であるところから、水産業・農業をはじめ水によって
    生計を立てる人の守護神であり、開運厄除の神とされています。
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    本殿の右側に天神社があります。
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    本殿の左側に稲荷大神・蛭子大神・猿田彦大神が祀られた社殿があります。
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    境内の西側には七福神の石像が祀られています。

    JRで須磨駅まで行き、須磨寺へ向かいます。
    続く

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  • 10/11/17--01:32: 須磨寺-その1
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    JR須磨駅から国道2号線を東へ進み、「千守」の信号を左折して北上した先、
    駅から徒歩約12分の距離に須磨寺があります。
    新西国三十三箇所・第24番、神仏霊場巡拝の道・第72番他
    多くの札所になっています。
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    「龍華橋」の手前に亜細亜万神殿があります。
    本年度に開設されたようで、正面にストゥーパ(インドの仏塔)が祀られ、
    その前に釈迦誕生時の像が安置されています。
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    釈迦は誕生した直後に七歩歩いて、右手で天を指し、左手で地をさして
    「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんがゆいがどくそん)と語ったと伝わります。
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    回廊にはアジア各地で収集された神仏の石像が祀られています。
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    輪宝は、車輪が転がっていくように仏教が世界に広がっていくことを
    象徴しています。
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    亜細亜万神殿の向かいには、塔頭の正覚院があります。
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    愛染明王を本尊として西国愛染十七霊場・第6番札所になっています。
    大正14年(1925)に焼失したため、昭和13年(1938)に現在地に再建されました。
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    本堂には彩色された彫刻が掲げられています。
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    朱塗りの「龍華橋」を渡った先に仁王門があります。
    仁王門は、平安時代末期の武将・源頼政によって再建されたと伝わります。
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    仁王像は運慶及び湛慶の作と伝えられています。
    吽形像がピンボケになり撮影技術の未熟さが痛感されます。
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    仁王門をくぐった右側に五鈷水と書かれた手水舎があり、
    「弘法岩」と名付けられた大きな岩が据えられています。
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    平成12年(2000)に建立されたもので、「弘法岩」は弘法大師が五鈷杵で
    岩を砕き、霊水が湧き出したのが象徴されているように思えます。
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    手水舎の奥に千手観世音菩薩像が祀られています。
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    この像には仕掛けがあります。
    法輪の手形に手を置くとチーンと音が鳴ります。
    須磨寺には楽しくお参りできる仕掛けが随所に設けられています。
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    十六羅漢石仏と釈迦如来石仏は、中国・明時代のもとされ、須磨一ノ谷の
    貞照寺に祀られていましたが、阪神・淡路大地震で貞照寺の本堂が倒壊したため、
    現在地に遷されました。
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    参道の左側に塔頭の桜寿院(おうじゅいん)があり、阿弥陀如来像を本尊とし、
    右の脇侍に大日如来像と浪切不動明王像、
    左に弘法大師像と秘鍵大師像が安置されています。
    秘鍵大師像とは、弘法大師が『般若心経』を解説した『般若心経秘鍵』の中で
    大師自身が文殊菩薩となって般若心経の教えを解き明かしている姿を現しています。
    文殊菩薩が持つ利剣は、仏の智慧により、
    無益な議論を正しい道に導くために一刀両断するものであります。
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    桜寿院の先に六体のわらべ地蔵が祀られています。
    各地蔵は、それぞれにポーズをとり、一緒になって悩みを考えてくれるようです。
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    わらべ地蔵の背後に源平の庭があり、平敦盛熊谷直実
    一騎討ちの場面が再現されています。
    寿永3年(1184)、一ノ谷合戦で、熊谷直実は海上に馬を乗り入れ
    沖へ逃がれようとする平敦盛を呼び返して、
    須磨の浜辺に組み討ちその首をはねました。
    平敦盛は17歳であり、我が子・直家ぐらいの齢でした。
    これ以後、直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが
    いっそう強くなり、建久4年(1193)頃、法然の弟子となり出家し、
    法名を法力房・蓮生(ほうりきぼう・れんせい)と称しました。
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    源平の庭の向かいに、塔頭の蓮生院があり法名・蓮生に由来しています。
    大正5年(1916)の花火大会の飛火のため出火焼失したため、
    昭和9年(1934)に不動明王を本尊として現在地に再建されました。
    しかし、平成7年(1995)に起こった阪神・淡路大地震で倒壊し、
    現在の建物は平成18年(2006)に再建されたものです。
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    蓮生院・本堂横には厄除大師堂があり、秘鍵大師像が安置されています。
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    厄除大師堂横の石段を上ると唐門があり、くぐった正面に本堂があります。
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    須磨寺は通称で、正式には上野山・福祥寺(じょうやさん・ふくしょうじ)と
    称する真言宗須磨寺派の大本山です。
    寺伝では平安時代の初め、漁師が和田岬の沖で引き上げた聖観音菩薩像を
    安置するために、淳和天皇の勅命により現在の兵庫区会下山町(えげやまちょう)
    に恵偈山北峰寺が建立されました。
    仁和2年(886)に聞鏡上人が光孝天皇の勅命により、現在の地に上野山福祥寺を
    建立し、北峰寺より聖観世音菩薩像を遷し、
    本尊として祀られたのが始まりとされています。
    在原業平の兄である在原行平は仁和3年(887)、文徳天皇のとき
    理由は明らかではありませんが、須磨に配流されました。
    在原行平は、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために、浜辺に流れ着いた木片から、
    後に須磨琴と呼ばれる一絃琴を製作したと伝えられ、
    須磨寺には須磨琴保存会が発足しています。
    在原行平は、須磨寺に参籠して勘当を許されたと伝わります。
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    本堂は、火災、洪水、地震などの災害によりたびたび建て直されました。
    現在の本堂は慶長7年(1602)に豊臣秀頼により再建されました。
    内陣の宮殿は、延文5年(1360)の大火で焼失後に貞治4年(1365)から再建が始まり、応安元年(1368)に再建された建造になるもので、重要文化財に指定されています。
    昭和47年(1972)に全面解体修理が行われ、阪神・淡路大地震後の
    平成17年にも復元のための修理が行われ現在の姿になっています。
    本尊は聖観世音菩薩、両脇侍に毘沙門天、不動明王が祀られています。
    続く

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  • 10/13/17--01:42: 須磨寺-その2
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    本堂の右側に護摩堂があります。
    明治36年(1903)に再建され、平成24年(2012)に改修されました。
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    護摩堂の右側に滝があり、池へと注がれています。
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    池の畔には十三重石塔が建立されています。
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    護摩堂の向かいに写経輪堂があり、お堂全体がくるくる回ると
    解説されていますが、回すのには結構力が要ります。
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    堂内には奉納された写経が納められています。
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    写経輪堂の左側に鐘楼があり、梵鐘は「弁慶の鐘」と呼ばれています。
    銘に「摂津矢田部郡丹生山田庄原野村安養寺之鐘」とあり、一ノ谷の合戦の際、
    弁慶が山田庄・安養寺からこの鐘を長刀の先に掛けて担いで来て
    陣鐘の代用にしたとの伝承が残されています。
    但し、この鐘は一ノ谷合戦八百年記念に複製されたもので、
    旧鐘は宝物館に納められています。
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    鐘楼から奥に進めば奥の院への参道となりますが、時間の関係で
    奥の院への参拝は次回に委ねます。
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    奥の院への参道入口には、近代管長が
    東南アジアで購入された狛犬のような
    魔除けが見張りをしています。





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    本堂の左側に大師堂があります。
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    堂内には弘法大師が祀られています。
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    大師堂の左前方に池があり、その上部に松の古木が横たえられています。
    池は熊谷直実が平敦盛の首を洗った「敦盛首洗池」で、松は源義経が
    腰をかけて敦盛の首を確かめたという「義経腰掛の松」とされています。
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    大師堂の左側にある八角堂は間もなく完成のようです。
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    八角堂から左側に進んだ所に出世稲荷社があります。
    平清盛が福原遷都を計画した際に、都の守護神として稲荷明神を
    湊川の畔に祀りました。
    出世稲荷と呼ばれ、神戸最大の稲荷社として栄えましたが、明治中期に
    湊川の改修工事に際し、平家とゆかりの深い須磨寺へ遷座されました。
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    祭神は荒熊大明神、尾玉大明神、末廣大明神が祀られています。
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    出世稲荷社の右側に五智如来の石像が祀られています。
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    出世稲荷社の左側に三重塔があります。
    室町時代の延徳2年(1490)に建立されましたが、安土桃山時代後期の
    文禄5年(1596)に発生した文禄大地震で本堂などとともに倒壊しました。
    現在の塔は昭和59年(1984)に再建され、
    平成26年(2014)に塗り替えが行われました。
    堂内には大日如来像が安置されています。
    また、塔敷地の周囲には四国八十八カ所お砂踏み霊場が設けられています。
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    三重塔の前に「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の三猿に
    「見てござる」と「怒らざる」の二猿を加えた五猿の像が祀られ、
    頭をなでるとかわいらしく動きます。
    五猿には仏の5つの教えが込められています。
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    三重塔の左側に親子地蔵が祀られています。
    堅固意地蔵と称され、神戸六地蔵霊場の客番札所となっています。
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    大正4年(1915)12月19日、家庭不和から神戸に向かう汽船「豊浦丸」から
    投身自殺した川上愛子、初音親子の霊を慰め、永く世の家庭不和に
    泣く人のないことを願って建立されました。
    この事件を題材に、羽様荷香氏が神戸新聞に「須磨の仇浪(あだなみ)」との
    タイトルで掲載し、後に小説となり、映画化もされました。
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    親子地蔵の手前に「きんぽとん童子」が祀られています。
    金太郎の「金」、浦島太郎の「浦(ぽ)」、敦盛の「敦(とん)」から
    名付けられた童子で、金太郎のように健康で、浦島太郎のように夢を持って、
    敦盛のように心優しく音楽を愛してほしいとの願いをこめて祀られています。
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    「きんぽとん童子」の左側に「一畑薬師如来」の石仏が祀られています。
    島根県にある一畑寺の本尊である「一畑薬師如来」が
    なぜここに祀られているかは不明です。
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    「一畑薬師如来」の左側に敦盛の首塚があります。
    敦盛は、首と胴体が別々に埋葬され、
    胴体は討死した一の谷の敦盛塚に葬られました。
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    参道を進んだ先に萬霊堂があり、納骨堂になっています。
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    境内には多くの石仏が祀られ、堂の周囲には西国三十三所の各本尊の
    石仏が祀られています。
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    萬霊堂の向かいには六地蔵が祀られています。
    地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道を、
    金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、
    預天賀地蔵が救いの手を差し伸べています。
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    本坊の方へ下ります。
    手前が書院です。
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    書院前の庭
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    本坊
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    本坊玄関
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    須磨寺を出て山陽電鉄須磨寺駅から須磨浦公園駅まで乗車し、
    敦盛塚へ向かいました。
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    敦盛塚には、室町時代末期~桃山時代に製作されたとされる、
    日本で2番目に高い397cmの五輪塔があります。
    塔の横に建つ説明書きでは、「鎌倉幕府の執権・北条貞時が平家一門の
    冥福を祈って、弘安年間(1278~1288)に造立したなど諸説ある」と
    記載されていて、どうもここには敦盛の胴体は埋葬されていないようです。
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    二ノ谷
    JR須磨駅へ向かいます。
    「一ノ谷・戦の濱碑」を探しながら歩いたのですが見つけられませんでした。

    西国三十三所巡りは、奈良、京都、滋賀、そして三十三番の華厳寺を残し、
    年内に巡り終えることを目指しています。


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