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少し時間に余裕が出てきましたので、京都や近郊を歩いてみたいと思います。

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  • 10/16/17--02:10: 醍醐寺-その1
  • イメージ 1
    外環状線の「醍醐・高畑」の信号を東側に曲がり、突き当たりのT字路を
    左折した先に醍醐寺の駐車場があり、駐車場の中にバス停もあります。
    醍醐寺は、旧奈良街道に面した下醍醐と山上の上醍醐からなり
    「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
    上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は西国三十三所霊場の第11番、
    五大堂は近畿三十六不動尊霊場の第23番、下醍醐・金堂本尊の薬師如来は
    西国四十九薬師霊場の第39番、神仏霊場・第126番他の札所になっています。
    駐車場を出て街道を北に進むと総門があります。
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    総門から入った左側に三宝院があります。
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    大玄関
    大玄関は国の重要文化財に指定されています。

    三宝院・霊宝館・伽藍の拝観料800円を納め三宝院から巡ります。
    三宝院は、正式には醍醐寺三宝院と称する醍醐寺の塔頭の一つです。
    平安時代の永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚(しょうかく)によって
    創建され、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改称されました。
    創建当初は金堂の西側にあり灌頂院と呼ばれ、室町時代初めまで醍醐寺の座主を
    交代で出した三宝院・金剛王院・理性院・無量寿院・報恩院の醍醐の
    五門跡の一院でした。
    鎌倉から南北朝時代にかけて、足利尊氏から厚く保護され、
    応安7年/文中3年(1374)になって足利義満が三宝院座主を室町幕府の
    祈祷を行う武家護持僧の管領役に任じられるようになりました。
    室町時代の正長元年(1428)、25世・満済(まんさい/まんぜい)が
    准三后(じゅさんごう)となり、以後歴代三宝院門跡が醍醐寺の
    座主を独占するようになりました。
    満済は、室町幕府3代将軍・足利義満の猶子(ゆうし)となり、応永2年(1395)から永享6年(1434)までは醍醐寺第74代座主も務め、醍醐寺中興の祖と伝わります。
    しかし、応仁の乱で三宝院が焼失し、廃寺同然となりましたが、安土桃山時代に
    醍醐寺金剛輪院の院主であった義演は豊臣秀吉の信頼が厚かったため、
    同院を中心に有名な「醍醐の花見」が開かれました。
    義演は准三后となり、秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、
    金剛輪院を三宝院と改称しました。
    義演は徳川家康からも信任を受け、慶長11年(1606)に醍醐寺の座主に就任し、
    荒廃していた寺を復興し、満済とともに醍醐寺中興の祖と
    称せられるようになりました。

    三宝院の建物は葵の間、秋草の間、勅使の間及び表書院が拝観できますが
    建物内の撮影は禁止されています。
    葵の間の襖絵には、下鴨神社から上賀茂神社へ向かって行列している
    葵祭の様子が描かれています。
    秋草の間の襖絵には、秋の七草が点在する広々とした風景が描かれています。
    勅使の間の襖絵には、桃山時代の作品で、長谷川等伯一派の作といわれている
    竹林花鳥図が描かれ、国の重要文化財に指定されています。
    表書院は下段・中段・上段の間があり、下段の間は別名「揚舞台の間」とも
    呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。
    中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から
    見下ろせるようになっています。
    庭に面し、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れて建てられ、
    国宝に指定されています。
    上段及び中段の間の襖絵は、長谷川等伯一派の作といわれ、上段の間は
    四季の柳を主題とし、中段の間は山野の風景が描かれています。
    下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれ、
    表書院の襖絵は国の重要文化財に指定されています。
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    庭園は特別名勝・特別史跡に指定されています。
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    庭園の奥に三段の滝があります。
    対岸の右端に見えるのが聚楽第から運ばれた藤戸石で、阿弥陀三尊を表しています。
    歴代の武将に引き継がれたことから「天下の名石」といわれています。
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    左側の島が亀島で、樹齢六百年以上といわれる幹の太い立派な五葉松が
    島全体を覆い、亀の甲羅のように見せています。
    右側の島は鶴島で、五葉松が鶴が飛び立とうとしている「躍動感」を表しています。
    白砂の中に見える三石は、賀茂の三石と呼ばれ、奥の石は、賀茂川の
    「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、
    手前の石は「川の水が割れて砕け散る様子」を表しています。
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    国宝・唐門の内側です。
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    庭園から見える山頂が上醍醐になります。

    三宝院から霊宝館へ向かいます。
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    霊宝館は昭和10年(1935)に開館し、国宝の薬師三尊像や重文の五大明王像など
    が安置されていますが館内の撮影は禁止されています。
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    霊宝館から参道に戻り、少し進んだ左側に国宝・唐門を外から見る事ができます。
    唐門は北政所の寄進により建立され、平成23年(2011)に解体修理が行われ、
    黒漆塗が施されて建立当時の豪華さがよみがえっています。
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    唐門から参道を進んだ先に仁王門(西大門)があり、慶長10年(1605)、
    豊臣秀頼により再建されました。
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    安置されている仁王像は、元は南大門に祀られていた尊像で、
    平安後期の長承3年(1134)に仏師・勢増、仁増によって造立されました。
    体内の墨書、納札等に南大門から移された経緯などが書かれています。
    仁王像は国の重要文化財に指定されています。
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    仁王門をくぐり、その先で右に曲がった先に鐘楼があります。
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    鐘楼の先で左に曲がり、その先の左側に金堂があり、国宝に指定されています。
    金堂は醍醐天皇の御願により延長4年(926)に建立され、
    当初は釈迦堂と呼ばれていました。
    その後、応仁・文明の乱など戦乱で金堂は焼失し、下醍醐は荒廃しましたが、
    豊臣秀吉が慶長3年(1598)に催した「醍醐の花見」をきっかけに、
    金堂の再建が行われました。
    同年、紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の満願寺(12世紀後半に建立された
    後白河法皇の御願寺)本堂の移築工事が始まりました。
    部材には平安時代のものが残り、鎌倉時代に改修を受けており、
    移築時の桃山時代の手法も混在しています。
    秀吉没後の慶長5年(1600)に落慶しました。
    本尊は薬師如来坐像(像高128.8cm)で、鎌倉時代前期の作とされています。
    脇時には像高190.9cmの日光菩薩像と像高185.1cmの月光菩薩像が
    安置されています。
    薬師三尊像は満願寺から遷されたもので、国の重要文化財に指定されています。
    堂内は内陣と外陣(礼堂)の境に結界や間仕切りがなく、
    一体の空間とする点に特色があります。
    イメージ 18
    金堂の向かいに五重塔があり、国宝に指定されています。
    総高は38mで、うち相輪部が12.8mあり全体の3割以上を占めています。
    承平元年(931)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために
    第三皇子の代明親王(よしあきらしんのう)が発願し、
    穏子(やすこ)皇太后の令旨で建立が計画されました。
    しかし、承平7年(937)に代明親王が亡くなり、その影響を受け工事は停滞し、
    20年後の天暦5年(951)にようやく完成しました。
    天正13年(1585)の大地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を
    受けたため、豊臣秀吉の援助で慶長3年(1597)に修理が行われました。
    昭和25年(1950)のジェーン台風でも被害を受け、
    同35年(1960)に修理が行われました。
    五重塔は焼失を免れ、京都府最古とされ、現在に残された数少ない
    平安時代の建物です。
    初重内部には、平安時代に描かれた両界曼荼羅と真言八祖を表した
    壁画が残され、塔とは別に国宝に指定されています。
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    五重塔の西側に清瀧宮本殿があり、国の重要文化財に指定されています。
    醍醐寺の総鎮守・清瀧権現(せいりゅうごんげん)を祀る鎮守社で、
    永長2年(1097)に、最初に建立された上醍醐より分身を遷し、祀られました。
    応仁・文明の乱で社殿が焼失し、現在の社殿は永正14年(1517)に
    再建されたものです。
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    清瀧宮拝殿は慶長4年(1599)、座主・義演(ぎえん)僧正により整備されました。
    毎年4月1日から21日まで『清瀧権現桜会(さくらえ)』として
    様々な法要が行われています。

    不動堂の方へ向かいます。
    続く












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  • 10/17/17--01:33: 醍醐寺-その2
  • イメージ 1
    五重塔から坂道を少し登った左側に不動堂があります。
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    不動堂の前には護摩道場があり、不動明王の石像が祀られています。
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    不動堂は昭和5年に(1930)建立されたもので、堂内には不動明王を中心に
    降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、
    大威徳明王(だいいとくみょうおう)、金剛夜叉明王の五体の
    明王像が安置されています。
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    不動堂の右上方に真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう)があります。
    元は朱雀天皇の御願により法華三昧堂として天暦3年(949)に創建されましたが、
    文明2年(1470)に焼失し、その跡地に平成9年(1997)、
    真如三昧耶堂として建立されました。
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    堂内には釈迦涅槃像が安置されています。
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    真如三昧耶堂から参道へ戻る途中に神変大菩薩(役行者)が祀られています。
    醍醐寺を開創した理源大師・聖宝(しょうぼう)は、役行者によって創始された
    という山岳修行に、霊異相承・実修実証の祈りの原点を求めたとされ、
    醍醐寺は「役行者霊蹟札所」になっています。
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    参道に戻り、少し登った所に祖師堂があり、
    慶長10年(1605)に第46世座主・義演によって創建されました。
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    堂内には右側に弘法大師像、左側に弘法大師の孫弟子である
    理源大師・聖宝像が安置されています。
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    祖師堂の先に旧・伝法学院があります。
    伝法学院は、仏道修行を志す者の修練道場として、
    醍醐天皇一千年御忌を記念して、昭和5年(1930)に建立されました。
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    現在は五重塔の南側に移転されたそうで、残された建物にはブルーシートが
    掛けられ、周囲の景観の中で悲哀を感じさせます。
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    参道に戻ると、先に東の中門があり、かっては上醍醐口門と呼ばれ、
    上醍醐への入口となる門でした。
    最初の中門は、金堂などが整備された承平元年(931)に建立されました。
    現在は、参道の先にある女人堂が上醍醐への入口になっています。
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    門をくぐった左側に鐘楼堂があり、昭和5年(1930)に建立されました。
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    鐘楼堂の右側に観音堂があります。
    観音堂を中心に広がる、林泉及び弁天堂、地蔵堂、鐘楼、伝法学院等を総称して
    大伝法院と呼ばれています。
    昭和5年(1930)、醍醐天皇一千年御忌を記念し、山口玄洞(やまぐちげんどう)氏
    の寄進により造築されました。
    平成20年(2008)、上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)が落雷により焼失したため、西国三十三所など各種納経はここで行われています。
    観音堂前の石段は角度が急なためか、裏側にスロープが設けられ、
    そこから出入りします。
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    観音堂前の東側に放生池があり、縁側から望めます。
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    観音堂を出て放生池の畔を東側に巡ります。
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    お休み処「寿庵」があります。
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    「寿庵」の前を通り過ぎて進んだ先に弁天堂があります。
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    弁天堂へと架かる橋からは二筋の滝が望めます。
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    滝の上には中央に小川を配した「無量寿苑」と名付けられた庭園が築かれています。
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    小川の先には小さな滝があります。
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    庭園から東へ進み橋を渡った先にゲートがあります。
    上醍醐へ向かいます。
    続く


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  • 10/19/17--00:35: 醍醐寺-その3
  • イメージ 1
    准胝堂(じゅんていどう)が焼失する前までは、
    西国霊場で最も難所と言われた上醍醐まで登ります。
    道標では約2.6km、60分と表示されています。
    イメージ 2
    ゲートを越えてすこし進んだ所に鳥居が建っています。
    イメージ 3
    鳥居の先に女人堂があります。
    正式には「成身院(じょうしんいん)」で、かって女性はここから先に
    進む事が許されず、ここより山上の諸仏を拝んだことから、
    「女人堂」と呼ばれるようになりました。
    本堂は江戸時代初期に再建されたもので、山上の准胝観音の分身が祀られています。
    イメージ 4
    本堂の前には江戸時代作の不動明王、理源大師、弥勒菩薩、役行者、
    地蔵菩薩の水掛露仏が祀られています。
    上醍醐へはここより入山料600円が必要で、三宝院・霊宝館・伽藍の拝観券を
    見せると500円に割引されます。
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    最初は谷川のせせらぎや小鳥のさえずりを聞きながら、
    緩やかな坂道を登る快適なハイキングコースのようです。
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    約10分ほど登った所に、慶長3年(1598)に催した醍醐の花見で
    「花見御殿」が建てられた跡が残されています。
    女人堂からの参道にも、両側に桜の木が植えられ、
    茶屋8棟が設けられたと説明されています。
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    現在は杉などの大樹が繁り、下界の桜などは望めない状況で、
    立ち入ることもできません。
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    先に進むと参道は谷から離れ、急な石段の連続になり、
    石段は山頂付近まで途絶えることなく続きます。
    難所と言われる所以がだんだん判ってきます。
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    花見御殿跡から20分余り登った所に不動の滝があります。
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    不動の滝からもやはり石段が続きます。
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    石段を登って行くと、音羽大王が祀られた社殿があります。
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    更に登って行くと石碑がありましたが、文字が読めず詳細は不明です。
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    女人堂から登り始めて40分余り、ようやく峠のような所にたどり着きました。
    石仏が祀られています。
    ここから緩やかに下っていきます。
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    少し下って行くと、上醍醐寺務所の門があります。
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    門の横を通り過ぎると、懸造りとなっている清瀧宮拝殿を見上げるように進みます。
    清瀧宮拝殿へ向かいます。
    続く

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  • 10/20/17--01:04: 醍醐寺-その4
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    突き当たりの左側の石段を上った所に、国宝の清瀧宮拝殿があります。
    平安時代の寛治2年(1088)に建立されましたが、
    現在の建物は室町時代の永享6年(1434)に再建されたものです。
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    拝殿の奥に本殿があるようですが、直接は見えないようで、
    空海が唐・長安の青龍寺から持ち帰ったと伝わる清瀧権現が祀られています。
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    拝殿から奥に進むと醍醐水の閼伽井(あかい)があります。
    理源大師・聖宝は貞観16年(874)に上醍醐山上で地主・横尾明神の示現により、
    醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を
    安置したのが醍醐寺の始まりとされています。
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    閼伽井横の石段を上ります。
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    今はただの空き地になっていますが、かってここに准胝堂がありました。
    跡地の奥の方に五輪塔が見え、その奥には鎮守社らしき小さな祠も見えます。
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    残された青銅製の燈籠がポツンと建っています。
    准胝堂の創建は貞観18年(876)と伝えられていますが、幾度かの火災により焼失、
    近代でも昭和14年(1939)に焼失しました。
    昭和43年(1968)に再建されましたが、平成20年(2008)に落雷により焼失し、
    現在再建の準備中とのことです。
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    跡地の左側には宝篋印塔が建っています。
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    宝篋印塔前方の山肌に子育地蔵尊とその周囲に石仏が祀られています。
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    山上へ向かいます。
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    国宝の薬師堂があります。
    延喜7年(907)、醍醐天皇の勅願により理源大師・聖宝によって創建されました。
    現存の堂は保安2年(1121)に再建されたもので、
    堂内には薬師三尊像(国宝)、閻魔天像、帝釈天像、
    千手観音像(以上重要文化財)などが安置されていましたが、
    現在は全て霊宝館に遷されました。
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    薬師堂から更に登っていくと崖造の如意輪堂が眼前に迫ってきます。
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    『醍醐寺縁起』によると貞観18年(876)に理源大師・聖宝が上醍醐を開いた際、
    准胝堂と共に最初に建てた建物とされています。
    慶長10年(1605)に焼失し、翌年豊臣秀頼により再建されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    本尊は如意輪観音で、脇の間に毘沙門天、吉祥天が祀られています。
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    如意輪堂の前は展望が開けていますが、当日は遠くの視界が雲に遮られました。
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    如意輪堂の奥にに五大堂があります。
    五大堂は延喜13年(913)に醍醐天皇の御願堂として創建されました。
    以後数度の災に遭い、近年では昭和7年(1932)に護摩の火が屋根に燃え移り
    国宝だった建物は焼失しました。
    現在の五大堂は昭和15年(1940)に再建されました。
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    本尊は五大明王とありますが、堂内を見ると壁画が描かれています。
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    五大堂の左奥に白山権現社があります。
    寛平9年(897)、理源大師・聖宝が山上の守護として勧請されました。
    現在の社殿は江戸時代に豊臣秀頼により再建されました。
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    東側にある開山堂は御影堂(みえどう)とも祖師堂とも呼ばれ、
    延喜11年(911)に理源大師・聖宝の高弟であり醍醐寺第一世の
    観賢(かんげん)座主により創建され、自作の聖宝像が安置されていました。
    文応元年(1260)に焼失し、弘長元年(1261)に再建され、
    新たに聖宝像も造立されました。
    現在の建物は慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再建されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
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    開山堂の右側に経堂があります。
    旧経堂が焼失したため新しくこの地に建立されたように思います。
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    開山堂の前から少し下った所に白川皇后の上醍醐陵があります。
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    開山堂からの下りは、薬師堂の南側のルートにしました。
    経堂跡と思われる整地された場所があります。
    昭和14年(1939)8月29日、山火事が飛び火して
    鎌倉時代の建久6年(1195)に建立され国宝だった経堂は焼失しました。
    堂内に保管されていた一切経などは持ち出されて焼失を免れました。
    ここから下ると清瀧宮拝殿の下へと続いています。

    下山して京都十三仏霊場5番、京の六地蔵1番札所の大善寺へ向かいます。
    続く

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  • 10/21/17--01:24: 大善寺
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    外環状線のJR奈良線の高架を南側へくぐった先に大善寺があります。
    大善寺は山号を法雲山、院号を浄妙院と称する浄土宗の寺院で、
    京都十三仏霊場5番、京都六地蔵1番の札所になっています。
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    外環状線に面した東側から入ると、左側に鐘楼があります。
    鐘楼は江戸時代中期の寛文5年(1665)に東福門院により寄進されました。
    東福門院は後水尾天皇の中宮で、明正天皇の生母となりますが、
    その安産祈願として鐘楼が寄進されました。
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    参道の右側に本堂があり、堂内には本尊の阿弥陀如来像が安置されています。
    本堂は江戸時代の宝永年間(1704~1711)に京都山科にある勧修寺
    寝殿が移築されました。
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    本堂前
    大善寺は、奈良時代の慶雲2年(705)に藤原鎌足の子・定慧(じょうえ)によって
    開山、創建され法雲寺と称したと伝わります。
    また、平安時代の仁寿2年(852)に小野篁(おののたかむら)が一本の桜樹から
    6体の地蔵菩薩像み「六地蔵」と称したのが起源とも
    いわれています。
    平安時代には園城寺(三井寺)の智証大師・円珍により伽藍の修造が行われ、
    天台宗に改宗しました。
    鎌倉時代~室町時代には度々の兵火により焼失し、応仁・文明の乱後には
    衰退しました。
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    本堂に掛かる扁額
    その後、戦国時代の永禄年間(1558~1570)に頓誉琳公(とんよりんこう)
    によって中興され、浄土宗に改宗されました。
    江戸時代の元禄16年(1703)にも焼失しましたが、翌宝永元年(1704)に勧修寺の
    伽藍が移築され再建されました。
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    参道に戻り、西側の正面に地蔵堂があります。
    保元年間(1156~1159)に都で疫病が発生したため、後白河上皇の勅命により
    平清盛が西光法師に命じて京都の街道の入り口、六ヶ所に六角堂を建て一体づつ、
    地蔵菩薩像を安置しました。
    大善寺は伏見街道から奈良街道口に当たり、大善寺の地蔵尊が根本像となりました。
    この地、六地蔵の地名のもとにもなっています。
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    地蔵堂の右側に観音堂があり、千手観世音菩薩が祀られています。
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    境内の南側に山門があります。

    神仏霊場巡拝の道82番(京都2番)札所の御香宮神社へ向かいます。
    続く

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  • 10/24/17--15:53: 萬福寺-その1
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    国道24号線を南下し、京滋バイパスとの高架の手前にある信号を左折して進むと
    宇治川に架かる隠元(いんげん)橋があります。
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    橋の東詰北側角に「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」の碑が建っています。
    隠元禅師は、中国福建省で生まれ、生地の黄檗山萬福寺で得度しました。
    江戸時代初期の承応3年(1654)、先に渡日していた興福寺住持の
    逸然性融(いつねん しょうゆう)に請われ渡日しました。
    万治2年(1659)、4代将軍・徳川家綱より寺領を賜ることになって、
    その候補地を探しに宇治川を遡り、東方の妙高峰に中国福建省の黄檗山と
    風景がよく似ていることから候補地と定めました。
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    また、この辺りには、かって岡屋の津という港があり、古くから
    交通の要衝として栄え、鎌倉時代には近衛兼経(かねつね)が別荘を営み、
    やがてこの地域は近衛家の所領となりました。
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    橋から東進し、京阪・宇治線とJRの踏切を越えて行くと萬福寺・塔頭の
    宝善院があり、予約が必要ですが中国風の精進料理・普茶料理がいただけます。

    元禄3年(1690)に創建され、明治8年(1875)に陸軍省の
    火薬貯蔵庫建設用地として政府に収接され、現在地に移転しました。
    境内には「廣化庭」が築かれ自由に拝観できるようです。
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    境内には干支の守本尊八佛が祀られています。
    その内の一体、虚空菩薩像は丑・寅年生まれの守護仏になります。
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    宝善院の先に同じく塔頭の宝蔵院があります。
    寛文9年(1669)、鉄眼(てつげん)禅師が一切経の開版を志し、 隠元禅師から
    黄檗山内に寺地を授かり、藏板・印刷所として建立されました。
    天和元年(1681)に完成した、全6,956巻の一切経には6万枚の版木が使われました。
    その版木が日本の原稿用紙形式の起源とされています。
    文字には明朝体が使われ、書体としての明朝体はこれから発したものです。
    鉄眼一切経は、国の重要文化財に指定されています。
    一切経経蔵庫は、300円で拝観することもできます。
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    宝蔵院の先に塔頭の萬松院(ばんしょういん)があります。
    寛文10年(1670)、東巌により師・龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)の
    塔所として創建されました。
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    表門を入った右側の金成不動尊は「宇治十三社寺まいり
    財運の十二番願所となっています。
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    不動堂の左奥には不動明王の石像が祀られています。
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    不動堂の奥、山の斜面に天光塔があり、京都府の文化財に指定されています。
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    本堂
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    萬松院の先に萬福寺の総門がありますが、総門の前に
    「龍目井(りゅうもくせい)」と呼ばれる左右二対の井戸があります。
    井戸の前に立つ駒札には以下のように説明されています。
    『この井戸は寛文元年(1661)冬、隠元禅師が掘らしめられたもので、
    萬福寺を龍に譬(たと)え、これを龍目となし、天下は龍衆、善知識が
    挙(こぞ)って比庵に集らんことを念願されたもの。
     禅師曰く、「山に宗あり、水に源あり、龍に目あり、古に耀(かがや)き
    今に騰(あが)る」』
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    井戸と井戸の間には明恵(みょうえ)上人の歌碑があります。
    『栂山の尾の上の茶の木分け植えて 跡ぞ生うべし駒の足影』
    明恵上人は師匠の栄西禅師が中国から持ち帰った茶の種子を、
    栂尾深瀬の地に播きました。
    上人はその後、茶の普及のため山城宇治の地を選び、茶の木を移植し、
    それが宇治茶の始まりです。
    上人が馬にのり、その馬の足影(足跡)に茶の種を植えることを
    宇治の里人に教えた様子が詠まれています。
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    萬福寺の総門は、元禄6年(1693)に建立されたもので、左右の屋根が
    低い牌楼(ぱいろう)式と呼ばれる中国風の門です。
    屋根上左右に乗る魚のようなものは鯱ではなく、摩伽羅という想像上の
    生物でヒレの代わりに足が生えています。
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    扁額『第一義』は五代・高泉の筆によるもので、総門とともに
    国の重要文化財に指定されています。
    萬福寺は創建当時の伽藍が残されていて、16棟が国の重要文化財に
    指定されています。
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    総門を入った右側に放生池があり、蓮で覆われています。
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    左側に塔頭の萬寿院があります。
    隠元禅師から招かれ、明暦元年(1655)に明より渡日した
    木庵性瑫(もくあん しょうとう)の塔所として創建されました。
    木庵性瑫は、寛文4年(1664)に隠元の法席を継ぎ、
    翌寛文5年(1665)に江戸に下り徳川家綱に謁見し、優遇されました。
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    表門は京都府の文化財に指定されています。
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    参道を進むと三門があり、延宝6年(1678)に建立されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
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    三門の上部には山号『黄檗山』の扁額が掲げられ、
    大屋根の中央には火焔付の宝珠が置かれています。
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    その下『萬福寺』の扁額は『黄檗山』とともに隠元の筆によるもので、
    国の重要文化財に指定されています。
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    三門の左右には窟門があります。

    三門をくぐり拝観料500円を納め境内に入ります。
    続く

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  • 10/29/17--15:23: 萬福寺-その2
  • イメージ 1
    参道を進み左に折れると通玄門があり、寛文5年(1665)に建立された四脚門で、
    国の重要文化財に指定されています。
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    扁額は隠元禅師の筆によるもので
    国の重要文化財に指定されています。
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    門をくぐった左側に松隠堂があり、寛文3年(1663)に建立されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    寛文13年(1673)、82歳になった隠元禅師は、住持を弟子の
    木庵性瑫(もくあん しょうとう)に移譲し、隠居所として松隠堂に居住しました。
    禅師没後は開山塔院となりました。
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    正面に開山堂があり、開山・隠元禅師が祀られています。
    寛文3年(1663)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
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    上層に掛る扁額「瞎驢眼(かつろげん)」は隠元禅師の師・
    費隠通容(ひいんつうよう)禅師の筆によるものです。
    「瞎驢」とは「目の開かない驢馬(ろば)」のことで、「瞎驢眼」は
    「未だ目の開かない驢馬の眼」ということになります。
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    その下の「開山堂」は隠元禅師の筆によるものです。
    「瞎驢眼」の扁額とともに国の重要文化財に指定されています。
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    堂内には72歳時の等身大とされる像高160cmの隠元禅師像が
    安置されていますが、よく見えません。
    隠元禅師は、明朝の禅である「明禅」を日本に伝えただけでなく、
    明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えました。
    日本における煎茶道の開祖ともされ、インゲン豆にその名を残し、西瓜や蓮根、
    孟宗竹(タケノコ)などを伝え食文化にも大きな影響を与えました。
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    開山堂から回廊を進みますが、回廊は国の重要文化財に指定されています。
    萬福寺の伽藍は、全て屋根つきの回廊で結ばれています。
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    左側に寿塔があり、寛文3年(1663)に建立されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    隠元禅師が、生前に自らの墳墓として築造しました。
    扁額「真空塔」は霊元天皇の筆によるものです。

    この付近に舎利殿があるはずなのですが、見つけることができませんでした。
    寛文7年(1667)、隠元禅師に帰依した後水尾法皇が、
    黄金の仏舎利多宝塔を奉安するため自ら寄進して建立されました。
    宝永6年(1709)に法皇の木造が安置されました。
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    回廊の突き当りに石碑亭があり、宝永6年(1709)に建立されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    亀趺(きふ)に載せられた石碑には、寛文13年(1673)に後水尾法皇から
    贈られた「特賜大光普照国師塔銘」の刻文があります。
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    回廊は南へと曲がり、曲がった所に「合山鐘(がっさんしょう)」と呼ばれる
    梵鐘が吊るされています。
    開山堂、寿塔、舎利殿で行われる儀式の出頭時にのみ鳴らされます。
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    南へ向かう回廊の西側には「中和園」と名付けられた庭園が築かれています。
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    かって、この地に後水尾天皇の母・中和院の大和田御殿がありました。
    中和園にある井戸は、中和井(ちゅうわせい)と呼ばれ、
    御殿で使われていたものを、昭和47年(1972)に整備されました。
    中和園に建立されている石碑は、多分「大和田御殿」跡を示すものと思われます。
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    中和井
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    庭園の東南隅には池があります。
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    回廊は池の横を東へと曲がっています。
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    進行方向の左側、回廊の北横には禅堂書院・潜修禅への通路があり、
    中間に丸い石が配置されています。
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    禅堂書院・潜修禅は非公開になっています。
    天王殿へ向かいます。
    続く

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  • 10/30/17--14:32: 萬福寺-その3
  • イメージ 1
    東へ曲がった回廊の先で二方向に分かれ、南へ進むと天王殿があります。
    寛文8年(1668)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
    天王殿の起源はチベット仏教寺院で、中国に伝わり中国寺院では一般的に
    玄関として見られますが、その後日本に伝わってからは
    黄檗宗の寺院しか見られないお堂です。
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    扁額「天王殿」は隠元禅師の筆によるもので、国の重要文化財に指定されています。
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    堂内中央には、弥勒菩薩の化身とされる布袋尊が祀られ、萬福寺では
    弥勒菩薩像とされていますが、美しい弥勒菩薩と同一とするには
    やや抵抗があります。
    像高110.3cmで、明から来日した仏師・范道生(はんどうせい)の作に
    よるものです。
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    布袋尊の背面には韋駄天像が安置されています。
    韋駄天は、増長天の八将の一神で、四天王下の三十二将中の首位を占める
    天部の仏神で、特に伽藍を守る護法神とされ、中国の禅寺では四天王、
    布袋尊ととも山門や本堂前によく祀られます。
    以前は范道生作の像が安置されていましたが、現在の像は
    像高112.9cmで中国・清で造立されたものです。
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    堂内の四方には四天王像が安置されています。
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    回廊を南へ進むと、西側にまだ若い黄檗樹が植えられています。
    黄檗樹はキハダとも呼ばれ、ミカン科キハダ属の落葉高木で、
    樹皮を乾燥させたものは、漢方薬の黄檗となります。
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    回廊の突き当りに聯燈堂(れいとうどう)があり、
    寛政元年(1789)に建立されました。
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    聯燈堂の手前で回廊を東に曲がった所に鐘楼堂があり、寛文8年(1668)に
    建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
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    鐘楼堂の左に巡照板が掛けてあり、朝夕これを打ち、
    一山の僧の戒めの句を声高らかに唱えるそうです。
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    鐘楼の先に伽藍堂があり、寛文9年(1669)に建立されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    本尊は関聖大帝菩薩で、中国・後漢末期に劉備に仕えた
    関羽が神格化されたものと思われます。
    菩薩像前の武将は関羽でしょうか?
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    伽藍堂の東側に斎堂(さいどう)があり、寛文8年(1668)に建立されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    斎堂は食堂のことで、斎堂から回廊を挟んだ前に生飯台(さばだい)があります。
    正式には出生台(チユセンタイ、「しゅっせいだい」、
    または「すいさんだい」とも読む)と呼ばれ、餓鬼や鬼神に食料を
    供養するための石製の台です。
    食事をとる僧たちは自分の口に入れる前に先ず一箸、この台に運び、
    餓鬼衆等に供養してから自分たちの食事に臨むことになっています。
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    回廊には青銅製の雲板(うんばん)が吊るされ、
    食事などの時を知らせるために叩かれると思われます。
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    東西と南北の回廊が交わる角に、開梆(かいぱん)が吊るされています。
    木魚の原型とされ、鯉に似た姿で玉をくわえていますが、
    これは玉ではなくあぶく(煩悩)です。
    眼を閉じることのない魚は、不眠不休を象徴し、
    あぶくを吐くことで煩悩から解放されるとのことです。

    回廊の東側に売店があり、奥には納経所があります。
    萬福寺は、「都七福神めぐり」布袋尊の札所になっています。
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    売店前から左側に進むと雙鶴亭(そうかくてい)があります。
    かって、西方丈の中にあったそうで、お茶会などで使われているようです。
    大雄寶殿(だうおうほうでん)へ向かいます。
    続く

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  • 11/01/17--14:23: 萬福寺-その4
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    回廊を南に進むと本堂に当たる大雄寶殿(だうおうほうでん)があります。
    寛文8年(1668)に建立され、正面・側面とも22mあり、境内最大の建物で、
    国の重要文化財に指定されています。
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    上層の扁額「大雄寶殿」は隠元禅師の筆、その下画像では切れてしまいましたが
    「萬徳尊」は二代・木庵性瑫(もくあん しょうとう)よるもので、
    ともに国の重要文化財に指定されています。
    また、堂外及び堂内の聯も国の重要文化財に指定されています。
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    小扉に桃の図柄が彫られているのは、魔除けの意味があります。
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    堂内には大きな木魚がありますが、木魚を本格的に使用したのが黄檗宗です。
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    堂内中央には釈迦牟尼仏、向かって右側に迦葉(かよう)尊者、
    左側に阿難尊者像が安置されています。
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    中央の背後には隠元禅師像が安置されています。
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    両側には十八羅漢像が安置されています。
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    観音霊場でよく見かける賓頭盧尊者像は、博識であり慈悲深く十善を尊重し、
    阿羅漢果を得て神通力を得ました。
    説法が鋭く、他の異論反論を許さずライオンのようであったため
    獅子吼第一といわれるようになりました。
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    羅怙羅(らごら)尊者は、釈迦の実子であり、
    また十大弟子の一人に数えられています。
    不言実行を以って密行を全うし、密行第一と称せられ、また釈迦仏より、
    多くの比丘衆でも学を好むことで、学習第一とも称せられました。
    両手で開いた胸の中に仏の顔が見えるのは、誰の心の中にも
    仏が宿ることを表しています。
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    天井に掛る扁額「真空」は明治天皇の筆によるものです。
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    回廊を北へ進むと東西と南北の回廊が交わり、右に折れて東に進んだ左側に
    宝篋印塔が建立されています。
    この塔は「怨親平等塔(おんしんびょうどうとう)」で、「怨親」とは
    自分を害する者と、自分に味方してくれる者の意味があります。
    昭和12年(1937)、日中戦争で犠牲になった両国の精霊を慰めるため、
    当時の山田玉田和尚により宝篋印塔内に妙法蓮華経69.643文字を
    一字一石に謹書して納められました。
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    宝篋印塔の先に慈光堂があり、延宝3年(1675)に建立された納骨堂で、
    国の重要文化財に指定されています。

    回廊の突き当りに西方丈がありますが、当日は工事をされていましたので、
    撮影及び立ち入りは遠慮しました。
    寛文元年(1661)、創建時に総門とともに建立されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    この奥に徳川歴代将軍を祀る威徳殿があります。
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    回廊を右に曲がると法堂(はっとう)があり、寛文2年(1662)に
    「円通殿」として建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
    寛文4年(1664)に法堂となり、仏像は安置されず説法を行う場所になっています。
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    扁額「獅子吼」は、隠元禅師の師・費隠通容(ひいんつうよう)禅師の
    筆によるものです。
    獅子吼とは、獅子がほえて百獣を恐れさせるように、悪魔・外道 (げどう) を
    恐れ従わせるような説法を意味します。
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    法堂前の回廊の天井は蛇腹天井(黄檗天井)と呼ばれています。
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    回廊を南に突き当たった左側に東方丈があり、寛文3年(1663)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
    東方丈の奥に住職が居住する甘露堂があります。
    方丈内は立ち入ることはできません。
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    方丈前には庭園が築かれています。
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    北側の回廊を下り、斎堂と対面する所に禅堂があり、寛文3年(1663)に
    建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
    斎堂と禅堂及び浴場は境内の三黙道場と云われ、内部は非公開となっています。
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    扁額「選仏場」は隠元禅師の筆によるものです。
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    禅堂の西側に祖師堂があり、寛文9年(1669)に建立されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
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    堂内中央には禅宗の初祖となる達磨大師像が安置され、
    左右に歴代住職の位牌が祀られています。
    達磨大師は、南インドの国王の第三王子として生まれ、釈迦から数えて
    28代目の菩提達磨(ボーディダルマ)になったと伝わります。
    南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に中国に渡り、
    洛陽郊外の嵩山少林寺(すうざん しょうりんじ)にて面壁を行い、
    中国禅の開祖とされています。
    中国禅の典籍には、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多く、見慣れた姿ですが、ここでは風貌が異なり、達磨大師と知らずに見れば、
    分からないかもしれません。
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    祖師堂の西側、鐘楼と対面する所に鼓楼があり、延宝7年(1679)に
    建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
    朝の4時半と夜の9時鐘楼の鐘と鼓楼の太鼓が交互に鳴らされます。
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    天王殿前の北側に鎮守社があり、延宝3年(1675)に建立されたもので
    国の重要文化財に指定されています。

    その他に昭和になって建立された文華殿(宝物館)や煎茶道会館などがありますが、本日は時間の制約があるため次回に譲り、三室戸寺へ向かいます。
    続く

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  • 11/03/17--15:29: 三室戸寺-その1
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    萬福寺から府道7号線に出て、7号線を西に進み、京阪三室戸駅前の通りを
    左折して東へ進んだ先に三室戸寺の駐車場があります。
    駐車場の東横に参道があり、橋の手前に寺号を刻んだ石標が建立されています。
    三室戸寺は山号を明星山と号する本山修験宗の別格本山です。

    地名の「三室戸」には、背後の明星山(標高200m)が神が宿る神籬(ひもろぎ)
    の山、森の御室(みむろ=貴人の住まい)とされ、
    その神聖な山の入口(戸)を意味していると考えられています。
    また、光仁天皇花山天皇白河天皇と三帝の離宮となったことから
    御室が三室になったと伝わります。
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    駐車場横の参道入口に架かる橋は「蛇体橋」と呼ばれ、伝承が残されています。
    『昔、山城の綺田(かばた)村に、三室戸の観音様を信仰している娘が
    住んでいました。
    ある日、村人がカニを殺そうとしているのを見て、 「魚の干物をあげるから、
    逃がしてやっておくれ」と頼んで、カニを助けました。
    またある日、その娘の父親が畑に行くと、蛇が蛙(かえる)を
    飲み込もうとしていました。
    そこで父親は、「蛙を放してやりなさい。放したら、わしの娘をやるから。」と、
    蛇に言うと、蛇はすぐに蛙を放し、やぶの中に消えて行きました。
    その夜、蛇はりりしい若者に姿を変え、父親のところへやって来て
    「約束通り、娘をもらいにきたぞ。」と言いました。
    父親は驚き「三日後に、来てくれ」と、言い逃れをして蛇を帰しました。
    三日後、若者に姿を変えた蛇が家に来ましたが、娘は戸をしっかり閉めて
    部屋に閉じこもり、三室戸の観音様を念じながら、一心に観音経を唱えました。
    若者は、ついにしびれを切らし、蛇の姿に戻り、尾で戸を打ち破りましたが、
    たくさんの蟹が現れ、蛇を退治しました。
    翌日、娘は三室戸寺へお礼参りに、出かけたのですが途中で雨が降りだし、
    三室戸寺に着いた頃には、本降りになっていました。
    娘が参道の橋を渡り、なにやら気配を感じて振りかえると、
    橋の上に蛇が横たわっていました。
    蛇は悲しげな目で娘をじっと見つめると、橋の裏側にまわると、ふっと姿を消し、
    以後、雨が降る日には蛇の影が現れるようになりました。
    いつしか人々は、この橋を「蛇体橋」と呼ぶようになりました。
    後日、娘は蛇を供養するため、蛇の姿をした『宇賀神』を
    奉納したと伝えられています。
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    橋を渡った所に受付があり、拝観料500円を納めます。
    受付を入った左側に新羅大明神が祀られた祠があります。
    新羅大明神とは、朝鮮半島の新羅(しらぎ)とは関係なく、
    素戔嗚尊のことのようです。
    平安時代の貞観年間(859~877)に園城寺(三井寺)を天台別院とした
    智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)が勧請し、本堂の
    東側に祀られていましたが、昭和30年(1955)に現在地に遷されました。
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    少し進んだ右側に広大な三室戸寺庭園がありますが、
    現在は季節外なので閉園になっています。
    ツツジ20,000本(見頃5月)、シャクナゲ1,000本(見頃4~5月)、
    アジサイ10,000株(見頃6月)が植栽されています。
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    緩い坂道を少し登って行くと昭和47年(1972)に建立された山門があります。
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    山門をくぐった先、参道の脇に薬師如来の石仏が祀られています。
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    参道の先は石段になっています。
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    石段を上った左側に手水舎があります。
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    霊泉・不動水が汲み上げられています。
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    参道の中央に宇賀神の石像が祀られています。
    神名の「宇賀」は、一般的には日本神話に登場し、伏見稲荷大社の主祭神である
    宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと考えられています。
    「耳を触れば福が来る、髭を撫でると健康長寿、しっぽをさすれば金運がつく」
    と記載されています。
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    宇賀神像の右側に石造りの摩尼(まに)車が奉納されていて、回転させると
    経を唱えるのと同じ功徳があるとされています。
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    摩尼車の先に花山荘があり、無料休憩所になっていますが、
    土足は禁止されています。
    花山荘の正面に本堂があります。
    続く

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  • 11/04/17--15:00: 三室戸寺-その2
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    花山荘の正面に本堂があり、江戸時代の文化11年(1814)に再建されたもので、
    京都府の文化財に指定されています。
    三室戸寺は奈良時代の宝亀元年(770年)に光仁天皇の勅願により
    南都大安寺の僧・行表によって創建されたと伝わります。
    創建と本尊に関して、伝承が残されています。
    『天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する金色の
    霊光の正体を知りたいと願い、右少弁(右少史とも)藤原犬養なる者に命じて、
    その光の元を尋ねさせた。
    犬養がその光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、
    滝壺に身の丈・二丈(6m)ばかりの千手観音像を見た。
    犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、
    それが一尺二寸(36.4cm)の二臂(ひ)の観音像に変じたという。』
    光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、
    当初は御室戸寺と称されました。

    平安時代、桓武天皇は自ら千手観音像を造り、
    胎内に二臂の観音像を納めて本尊としました。
    この観音像は二臂でありながら「千手観音」と称され、秘仏とされています。
    お前立の観音像には飛鳥時代の様式が見られます。
    脇侍には釈迦如来像と毘沙門天像が安置され、
    ともに国の重要文化財に指定されています。

    西国三十三観音霊場は、大和・長谷寺の徳道上人が養老2年(718)に開創し、
    西国三十三所巡礼に関する最古の史料によると、
    三室戸寺は最終の三十三番目の巡礼地でした。
    約270年後、途絶えていた観音霊場は花山法皇によって再興され、
    三室戸寺は十番札所と定められました。
    その後寛正年間(1460~1466)の火災で伽藍を失い、再興されたものの、
    天正元年(1573)には織田信長と争った
    足利義昭に加勢したため焼き討ちされました。
    現在の伽藍が再建されたのは江戸時代の後期になってからです。
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    本堂の左脇に見慣れた賓頭盧尊者像が安置されていますが、
    萬福寺の像から更に年齢を重ね、観音様に見守られています。
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    本堂の右横に阿弥陀堂があり、延享4年(1747)に建立されたもので、
    京都府の文化財に指定されています。
    元々ここには親鸞の父・日野有範の墓がありましたが、親鸞の娘・覚信尼が
    祖父・有範の墓を整備し、その上にお堂を建てて阿弥陀堂とし、
    阿弥陀三尊を安置し祖父の菩提を弔いました。
    阿弥陀三尊像は霊宝殿に遷されていますが、平安時代の定朝作とされ、
    国の重要文化財に指定されています。
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    霊宝殿は、毎月17日しか開館されません。
    別途、入館料300円が必要で、入館も時間制で、
    拝観時間は20分間と定められています。
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    阿弥陀堂の扁額「四十八願寺」は日野有範が隠棲していた寺号と伝わります。
    その下には蝉の抜け殻が...
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    阿弥陀堂の右側に鐘楼があり元禄2年(1689)に建立されたもので、
    京都府の文化財に指定されています。
    鐘楼にはかって、「朝鮮の鐘」と呼ばれた梵鐘が吊るされていました。
    天正元年(1573)、織田信長と争った足利義昭に加勢したため、伽藍は破壊され
    梵鐘は豊臣秀吉の五奉行の一人・増田長盛に持ち去られました。
    長盛は梵鐘を破壊し、龍頭だけが切り取られ、床の間の置物としました。
    しかし、長盛は病になり、梵鐘破壊の祟りと恐れ、病気平癒の祈願を依頼しました。
    そのおかげで病気は完治し、寺に龍頭が戻されました。
    鐘も寺に還ったことから、この鐘の龍頭をなでると金(鐘)がかえると
    古来より伝えられています。
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    鐘楼の奥に「浮舟古跡碑」があります。
    もとは浮舟社という社でしたが、江戸時代石碑に改められました。
    三室戸寺には、源氏物語に登場する宇治山の阿闍梨(あじゃり)の
    モデルになった僧がいたと考えられています。
    霊宝殿には、浮舟の念持仏であったとされる、浮舟観音が安置されています。
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    背後に宝篋印塔が見えますが、浮舟に関連したものでしょうか?
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    古跡碑の横に「お願い地蔵」と呼ばれる地蔵尊が祀られています。
    一瞬、地蔵?と思える石ですが、よく見ると下の方に6体の地蔵が彫られています。
    この地蔵は、一つだけ願いを叶える「お願い地蔵」で、
    木札に願い事を一つだけ記して奉納します。
    木札は500円です。
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    鐘楼から東側に進むと元禄17年(1704)に建立された全高16mの三重塔があります。
    もとは兵庫県佐用郡三日月村(現・佐用町)の高蔵寺にあったものを、
    明治43年(1910)に当寺が買い取り、参道西方の丘上に移設しましたが、
    その後現在地に移されました。
    堂内には大日如来像が安置されています。
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    三重塔の前には小さな庭が築かれています。
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    三重塔から本堂へ戻ります。
    本堂前、向かって右側に牛の石像が祀られていて伝承が残されています。
    『昔、宇治の里に富右衛門という百姓が住んでいました。
    やっとのことで手に入れた子牛が弱々しいので、毎月の三室戸寺の観音詣でに
    子牛を連れて行っては境内の草を食べさせていました。
    すると子牛は、口から丸い物を吐き出し、その後元気になって大きく育ちました。
    富右衛門はその玉を「牛玉(ごおう)」として大切に保管しました。
    大きく育った牛は闘牛に参加し、見事勝利して富右衛門は賞金100貫を手にし、
    それを元手に牛の仲買を始め里一番の金持ちになりました。
    富右衛門は年老いてから仏門に入り、京の仏師に牛の像を彫らせ、
    胎内に「牛玉」を納め、三室戸寺に奉納しました。』
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    牛の石像の口中には石の玉があり、これを撫でると勝運がつくといわれ、
    宝勝牛と名付けられています。
    牛の腹には小さな覗き窓があり、そこから胎内におさめられた牛の木像が見えます。
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    宝勝牛の脇に若乃花と貴乃花の手形が奉納されています。
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    本堂前の左側には福徳兎の石像がありますが、三室戸寺のある地域は、
    古来より、菟道(うじ)と称され、うさぎと由縁があり、
    かっては宇治の中心地でもありました。
    三室戸寺では狛犬の代わりにうさぎと牛が本堂を守護しています。
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    うさぎが抱いている玉の中に卵型の石があり、
    それが立てば願いが通じると云われています。
    本堂の左側の高台にある十八神社へ向かいます。
    続く

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  • 11/05/17--13:45: 三室戸寺-3
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    本堂の左側に石段があり、それを上った所に十八神社があります。
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    寺の創建以前から祀られていたとされ、現在は三室戸寺の鎮守社となっています。
    現在の社殿は長享元年(1487)に建立されました。

    以前は主祭神の大物主命他十八神が祀られていたことから十八神社と
    呼ばれましたが、明治元年(1868)に十五社が廃され、主祭神の他
    熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)、
    天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が祀られています。

    主祭神の大物主は、海を照らし現れた神で、蛇神であり、水神または
    雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの
    神とする一方で、祟りなす強力な神ともされています。

    熊野久須毘命は天照大神の子で、熊野那智大社の主祭神です。

    天手力雄命は、その名に「天の手の力の強い男神」という意味を持ち、
    岩戸隠れの際は岩戸の脇に控え、天照大神が岩戸から顔をのぞかせた時、
    天照大神を引きずり出して、それにより世界に明るさが戻ったとされています。
    放り投げた岩戸の扉は信濃国戸隠山に落ちたという伝説が残され、
    戸隠神社・奥社の祭神として祀られています。
    戸隠神社は平安時代末頃、修験道の道場として都にまで知られた霊場であり、
    天手力雄命は、山岳信仰と深く結びついた神と考えられています。
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    左側の境内社の詳細は不明です。
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    境内の西側に鳥居が建っていて、ここが本来の神社の入口です。
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    本堂まで戻り、石段を下った先、左側に曲がると「与楽苑」と呼ばれる
    枯山水と池泉回遊式の庭園が築かれています。
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    少し進むと東屋があり、山手の方に枯山水の庭園が築かれています。
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    下方には池泉回遊式庭園があり、池の周囲を巡ることができます。
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    三室戸寺から下り、京阪電車の三室戸駅横を通り過ぎ、宇治川堤防の手前で
    左折した突き当りに史跡「宇治川太閤堤跡」があります。
    平成19年の夏に発見され現在、仮称「宇治川太閤堤跡歴史公園」の工事中で
    フェンスで囲われ、立ち入ることができませんでしたが、許可を得て
    入口近くの堤防跡らしきものを撮影しました。
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    豊臣秀吉は、文禄3年(1594)に完成した伏見城築城を契機として、
    宇治川・淀川等の付け替えなど大規模な治水工事を行いました。
    宇治川はそれまで宇治橋下流から分流して北西方に流れて巨椋(おぐら)池に
    合流していましたが、北方に流れる流路にまとめられ、伏見城下へと導かれました。
    しかし、その後の氾濫のため埋没し、明治時代に新たに現在の堤防が築かれ、
    太閤堤とは流路も外れました。
    そのため遺構は極めて良好な状況に保存されていて、公園整備後は太閤堤の
    詳しい状態が見られると思います。
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    史跡「宇治川太閤堤跡」の斜め向かいに菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)の
    墓があり、考古学名は「丸山古墳」と名付けられています。
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    菟道雅郎子は、第15代・応神天皇の皇太子で、異母兄の大鷦鷯尊
    (おおさざきのみこと=仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したとされています。
    『日本書紀』によれば、菟道雅郎子は聡明で、百済から来朝した阿直岐(あちき)と王仁(わに)を師に典籍を学び、父・応神天皇から寵愛されました。
    王仁は『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字を日本に伝えた人物とされています。
    また、滋賀県豊郷町安食西には、阿直岐を神とした
    阿自岐神社(あじきじんじゃ)があります。

    応神天皇40年(309)に皇太子となりましたが、翌年天皇が崩御され、
    皇位は大鷦鷯尊と譲り合うこと3年に及び、永らくの空位が
    天下の煩いになると思い悩み自ら果てました。

    莵道雅郎子が河内の国からこの地に来た時、道に迷った際に一羽の兎が現れて、
    振り返りながら、後を追う莵道雅郎子を正しい道へと導いた「見返りの兎」の
    伝承から莵道という地名になり、平安時代に「宇治」に定着したとされています。

    菟道雅郎子は現在の宇治上神社に菟道宮を営み、
    宇治上神社の祭神として祀られています。   
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    墓の横に「浮舟宮跡」の石碑が建立されています。
    かって、この付近一帯は「浮舟の森」と呼ばれ、榎木の大木が茂り、
    その中に浮舟宮(浮舟社)がありました。
    『源氏物語・宇治十帖』の浮舟が祀られていましたが、
    江戸時代中期に社は廃絶しました。
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    今は工事中のフェンスで囲まれていますが、やがて「宇治川太閤堤跡歴史公園」の
    一角として、もう少し注目されるような気がします。
    次回から西国三十三所でまだ巡っていない奈良県を巡ります。

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  • 11/08/17--14:39: 西大寺
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    国道1号線を南下し、「八幡下奈良」の信号を左折して府道22号線に入り、
    約20分走ると近鉄「高の原」の前を通過します。
    通過した先の信号で右折しますが、中の車線はガードをくぐる直進用ですので
    予め左に寄らなければなりません。
    右折した先のT字路で左折し、「ならやま大通り」の信号を通り過ぎると
    奈良大学前の通りに合流します。
    大学前を左折し、その先で右折して大学構内に沿うように走ると
    その先で右側へとカーブしていきます。
    その先の四つ角を南下して行くと、右側にカーブし、その先のT字路を
    左折した先に神功皇后の狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)
    の入口があります。
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    街道からは少し登って行きます。
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    参道を登った高台に前方後円墳が築かれています。
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    燈籠が並んでいます。
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    周囲は濠で囲われています。

    神功皇后は、夫の仲哀天皇が熊襲の矢が当たり、香椎宮(かしいぐう)にて
    急死した後、熊襲を討伐し、仲哀天皇に代り神功元年(201)から
    神功69年(269)まで政事を執り行なったとされています。

    神託を受け、新羅征討のため対馬の和珥津(わにつ)を出航しました。
    お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵し、
    新羅に上陸すると、新羅は戦わずして降服し、朝貢を誓い、
    高句麗・百済も朝貢を約したとされています。

    渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、
    冷やすことによって出産を遅らせました。
    月延石は3つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社
    福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されました。

    三韓征伐の後、大和への帰還中に自分の子(応神天皇)の異母兄にあたる
    麛坂皇子(かごさかのおうじ)・忍熊皇子(おしくまのおうじ)が反乱を起こし、
    神功皇后と皇子の命を狙い、明石で待ち伏せていました。
    帰途それを知った神功皇后は、船を迂回し、難波へ向かうも、
    船が進まなくなりました。
    そこで、務古水門(むこのみなと=兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)に
    向かいました。
    廣田神社生田神社長田神社住吉大社に祀られることになる神からの
    託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われました。
    すると、船は軽やかに動き出し、武内宿禰(たけしうちのすくね)や
    武振熊命(たけふるくまのみこと)の働きにより、麛坂皇子・忍熊皇子の反乱を
    平定したとされています。
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    神功皇后陵から南下し、県道52号線に合流した左方向に
    称徳天皇陵があったのですが見過ごしてしまいました。
    52号線を南下し「西大寺橋西詰」の信号を右折して近鉄「西大寺」駅を
    越えた踏切を左折した先に西大寺があります。
    西大寺は神仏霊場巡拝の道 第23番、西国愛染十七霊場13番、
    真言宗十八本山15番、大和十三仏霊場2番などの札所です。
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    東門をくぐった先の右側に四王金堂(四王堂)があり、
    西大寺創建の端緒となった四天王像が祀られています。
    また、堂内には平安時代の仏師・圓信作、十一面観音立像が
    安置されていることから観音堂とも称されています。

    天平宝字8年(764)、孝謙上皇藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱発覚に際し、
    平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願されました。
    翌、天平神護元年(765)、孝謙上皇は重祚(ちょうそ)して称徳天皇となり、
    金銅製の四天王像を鋳造され、西大寺が創建されました。

    父・聖武天皇が創建した東大寺に対するもので、薬師金堂、弥勒金堂、
    四王金堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、
    南都七大寺の1つに数えられる大寺院となりました。

    しかし、平安京へ遷都されてからは衰退し、
    火災や台風などで多くの堂塔が失われました。
    四天王像も現在は足下の邪鬼にのみ奈良時代の創建当初ものですが、
    銅造の持国天・増長天・広目天像は鎌倉時代の作で、木造の多聞天は
    室町時代の作と推定され、共に国の重要文化財に指定されています。

    十一面観音立像は、正安2年(1289)に亀山上皇の院宣で鳥羽上皇の御願寺から
    遷されたもので、国の重要文化財に指定されています。
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    四王堂から参道を進んだ先の右側に、寛永20年(1643)に建立された
    不動堂(護摩堂)があり、奈良市の文化財に指定されています。
    元は愛染堂の南辺りにあったのですが、
    昭和54年(1979)に現在地に移築されました。
    本尊は不動明王像で、江戸時代初期の律僧で仏像彫刻の名匠とされる
    宝山湛海(たんかい)律師の作です。
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    不動堂の先、斜め右前方に本堂があり、400円で拝観することができます。
    本堂・愛染堂・四王堂・聚宝館の四堂は1,000円で拝観できるのですが、
    時間の都合で本堂のみとしました。
    現在の本堂は江戸時代中期の寛政年間に再建されたものです。

    平安時代になって衰退した西大寺は鎌倉時代中期に
    叡尊上人によって中興されました。

    叡尊上人は文暦2年(1235)、35歳の時に初めて西大寺に住し、
    その後一時海龍王寺(奈良市法華寺町)に住しましたが、嘉禎4年(1238)に
    西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上、
    荒廃していた西大寺の復興に尽力されました。

    叡尊は東塔を中心とする宝塔院という区画を西大寺復興伽藍の中核としました。
    しかし、室町時代の文亀2年(1502)の兵火により大きな被害を受け、
    現在の伽藍は全て江戸時代以降に再建されたものです。
    東塔北方に中世に建てられた光明真言堂がその前身で、室町時代の火災後
    再建されたのですが、傷みがひどく、修復されずに新築されました。
    寛政10年(1798)頃造営に着手、文化5年(1808)頃完成したとされ、
    国の重要文化財に指定されています。

    本尊は建長元年(1249)、仏師・善慶の作である釈迦如来立像で、
    国の重要文化財に指定されています。
    堂内には重文に指定されている鎌倉時代作の文殊菩薩騎獅像と四侍者像
    県の文化財に指定されている鎌倉時代作の弥勒菩薩坐像
    江戸時代作の弘法大師坐像及び興正菩薩(叡尊上人)坐像が安置されています。
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    本堂の正面に東塔跡の基壇があります。
    西大寺東西両塔は当初、八角七重塔として設計されたのですが、
    奈良時代末期の緊縮財政の中で縮小され、実際には高さ約46mの
    四角五重塔として創建されました。
    西塔は、延長6年(928)に落雷により焼失し、残された東塔も
    文亀2年(1502)の兵火で失われ、その後再建されることも無く、
    創建当時の基壇だけが残されています。
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    本堂の左側に本坊があります。
    西大寺は明治28年(1895)に真言宗から独立し、真言律宗として独立認可を得、
    現在は全国九十数ケ寺の末寺を統括する総本山となっています。
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    本坊の左前方に大黒堂があります。
    元は塔頭であった三光院の本堂が、現在地に移築されたと伝わります。
    三光院は明治時代に廃されました。
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    本尊は室町時代作の大黒天半跏像です。
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    大黒堂の左後方に愛染堂があり、江戸時代の明和4年(1767)に
    京都近衛家邸宅の御殿の寄進を受けて移築建立されたもので、
    奈良県の文化財に指定されています。

    本尊は鎌倉時代作の愛染明王坐像ですが秘仏とされ、
    江戸時代作の愛染明王坐像が御前立されています。

    堂内向かって左の間には鎌倉時代作の興正菩薩叡尊上人坐像が安置されていて、
    国宝に指定されています。
    弘安3年(1280)、叡尊80歳の時の肖像で、仏師・善春の作とされ、
    像内には叡尊の父母の遺骨をはじめとするおびただしい資料が納入されていました。
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    愛染堂の左側に鐘楼があります。
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    鐘楼の左側に寺山・大師堂があります。
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    西大寺の大師信仰の信徒組織である寺山大師講により、
    大正12年(1923)に奉納された弘法大師石仏が祀られています。
    昭和35年(1960)に仮堂が建設され、
    昭和48年(1973)弘法大師御生誕1200年を記念して増改築して完成しました。
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    本堂・東塔跡の延長線上に南門があり、本来の入口と思われます。
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    南門から入った左側に観音像が建立されています。
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    観音像の先に池があります。
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    参道には地蔵尊の石像が並んでいます。

    平城宮跡へ向かいます。
    続く

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  • 11/09/17--13:08: 平城宮跡
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    西大寺から近鉄西大寺駅前の通りに戻り、東へ進んだ所に
    第一次大極殿が建立されています。
    平城京は、和銅元年(708)に元明天皇により遷都の詔が出され、
    和銅3年(710)に遷都されました。
    その際に建立されたのが第一次大極殿です。
    天平12年(740)、聖武天皇の勅命により、平城京から恭仁京
    (くにきょう、くにのみやこ)に遷都され、大極殿は平城京から移築されました。
    大極殿はその後、山城国の国分寺金堂になりましたが、
    現在ではその跡の石碑が建立されているのみです。
    都としては完成しないまま天平15年(743)の末にはこの京の造営は中止され、
    聖武天皇は近江・紫香楽宮(しがらきのみや)に移り、
    天平14年(742)秋には近江国で宮の建設を始めました。
    天平16年(744)に、穂積老(ほづみ の おゆ)を留守官に任じて難波京
    (なにわきょう、なにわのみやこ)に遷都、
    さらに天平17年(745)に都は平城京に戻され、
    第二次大極殿は旧位置の東側に再建されました。

    現在の第一次大極殿は、平成13年に着工され、平成22年に完成しました。
    東西の長さ44m(九間)、南北の長さ19.5m(四間)、基壇を含む高さ
    約27.1mあり、直径70cmの朱色の柱44本、約10万枚の屋根瓦が使われています。
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    展示されている瓦と柱の木材
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    大棟中央飾りは法隆寺・夢殿の宝珠を参考にして造られ、2mの高さがあります。
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    両端の鴟尾(しび)は、初唐様式の影響が強い形に復元され、
    2mの高さがあります。
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    高蘭には五種の色玉を配した宝珠付の金具が付けられています。
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    内部中央に、天皇が着座する玉座である「高御座」が設置されています。
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    周囲には十二支の図柄が描かれています。
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    大極殿から朱雀門まで約800mの距離があり、近鉄の線路が横切っています。
    平城宮跡は昭和27年(1952)に特別史跡に指定され、
    「国営平城宮跡歴史公園」として整備が進んでいます。
    線路や県道などは公園の外に移設されるそうです。
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    今は広い空地ですが、第二次大極殿や朝堂院、
    南門などが建設される予定になっています。
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    朱雀門は高さ約1.7mの基壇の上に建立され、東西約25m、南北約10mの長さ、
    基壇を含む高さ約21.9mの大きさがあります。
    薬師寺東塔を参考に平成5年に着工され、平成10年に完成しました。
    直径約70cmの柱18本と約4万枚の屋根瓦が使われています。
    ただ、門の前方、朱雀大路の両側に展示館や観光案内書などが工事されていて、
    限られたスペースからの撮影で屋根の端が切れたのが残念でした。
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    朱雀門のすぐ前方を近鉄電車が走って行きます。

    神仏霊場巡拝の道 第22番 札所の法華寺へ向かいます。
    続く


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  • 11/10/17--14:12: 法華寺
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    平城京跡・第一次大極殿背後の道路を東へ進み、「法華寺北」の信号を右折し、
    「法華寺」の信号を右折した突き当りを右折した突き当りに法華寺があり、
    神仏霊場巡拝の道・第22番札所になっています。
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    突き当りを左に曲がった道路沿いに南大門がありますが、
    ここからは入場することはできません。
    慶長6年(1601)、本堂と同時に再建されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    門の横に建つ石標には「総国分尼寺 法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と
    刻まれています。
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    入口の門まで戻り、門を入った右側に鳥居が建っています。
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    鳥居のの右側「横笛堂」があります。
    平家物語』や高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)の小説『滝口入道』で知られる
    悲恋物語のヒロイン・横笛が尼となった後に住んだとされる建物で、
    かつては南大門を出た左側の飛地境内にありました。
    鎌倉時代に建立され、法華寺に現存する建物としては最古のものです。
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    堂内には横笛が手紙の反故(ほご)で自らの姿を作ったという伝承のある
    張り子の横笛像(高さ約30cm)が安置されていましたが、本堂に移されています。
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    鳥居の正面には「正一位 喜市稲荷大明神」が祀られた社があります。
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    鳥居の左側に薬師堂があり、薬師如来像が安置されています。
    駒札には「この建物は当時の由緒ある文化財建築物です」と
    記載されているのみで、詳細は不明です。

    薬師堂の前を奥に進んだ所に浴室(からぶろ)があったのですが、
    見過ごしてしまいました。
    光明皇后が病気の人等の、千人の人に沐浴の功徳を積み
    困窮者を救ったとされています。
    蒸気導入方式の珍しい蒸風呂で、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
    現在の建物は、江戸時代の明和3年(1766)に再建されたものです。

    浴室の右側に華楽園があります。
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    薬師堂の先、左側に鐘楼堂があり、国の重要文化財に指定されています。
    鬼瓦に安土・桃山時代末期の慶長7年(1602)の刻銘があり、
    様式からその当時に再建されたものと見られています。
    二層建てとし、上層に鐘を吊る「袴腰付き鐘楼」ですが、
    上層に縁や高欄を設けない、珍しい形式とされています。
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    鐘楼堂の先に池があり、池の中に護摩堂があります。
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    平成17年に落慶され、毎月28日に護摩法要が行われています。
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    堂内には不動明王坐像が安置されています。
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    護摩堂の先、南大門の正面に当たる所に本堂があり、
    国の重要文化財に指定されています。

    法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、
    すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮としました。
    天平17年(745)、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりです。
    一方、聖武天皇が天平13年(741)に、国分寺・国分尼寺建立の詔を発し、
    法華寺はこの詔に基づいて建立整備された国分尼寺ともされています。
    東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、
    法華寺は総国分尼寺と位置づけられました。
    法華寺に山号は無く、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と称します。

    発掘調査によると、奈良時代の法華寺の境内は平城宮東宮の東に接し、
    北は一条条間路、南は二条条間路、東は東二坊大路、西は東一坊坊間路を境として、南北3町、東西2町に及んでいたことが判明しました。
    創建当初の金堂や講堂は、現・法華寺南大門のさらに南に位置し、
    金堂の南に中門、その南には東西両塔がありました。
    さらに、境内南西部には天平宝字3年(759)から翌年にかけて建立された
    阿弥陀浄土院があり、丈六の阿弥陀三尊像が本尊として祀られていました。

    法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃しました。
    鎌倉時代に入った建仁3年(1203)、東大寺の再興を果たした
    僧・重源により、法華寺の堂宇や仏像が再興されました。
    現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の
    本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されています。
    さらに、西大寺を復興した叡尊上人によって本格的な復興がなされましたが、
    その後、明応8年(1499)と永正3年(1506)の兵火や慶長元年(1596)の地震で
    東塔以外の建物を失いました。

    現在の本堂、鐘楼堂、南大門は慶長6年(1601)頃、豊臣秀頼と母の淀殿により
    片桐且元(かたぎり かつもと)を奉行として復興されました。
    なお、兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔は
    宝永4年(1707)の地震で倒壊しました。

    本堂の高欄の擬宝珠(ぎぼし)に慶長6年(1601)の銘があり、
    当時は「講堂」と呼ばれていたことが判明しました。
    慶長元年(1596)の地震による復興事業として建てられたもので、
    再建にあたっては、地震で倒れた前身建物の2棟の部材が再利用されていました。
    部材に残る痕跡から1棟が鎌倉時代の旧金堂、もう1棟が室町時代の
    旧講堂にあたると推定されています。

    本尊は平安時代初期作、像高1mの十一面観世音菩薩立像で、
    国宝に指定されています。
    この観音像には「天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった」という伝承が残されています。
    『乾陀羅国(けんだらこく=今のパキスタン北部、ガンダーラ)の王は
    生身(しょうじん)の観音を拝みたいと熱望していた。
    王はある夜の夢で「生身の観音を拝みたければ日本の光明皇后を拝めばよい」と
    告げられたので、問答師という仏師を日本へ遣わした。
    問答師は光明皇后をモデルに3体の観音像を造り、
    そのうちの1体が法華寺の観音であるという。』

    国宝の観音像が開扉されるのは、春季が6月5日~10日、
    秋季は10月25日~11月10日で、秋季には国宝の阿弥陀三尊・童子像が
    同時に公開されます。
    本堂のみの拝観は500円で、華楽園との拝観は700円になります。
    但し、特別公開の期間は本堂の拝観料は700円になります。

    本堂の西側に国の名勝に指定されている江戸時代前期に作庭された
    法華寺庭園がありますが、4月1日~6月10日まで特別公開されています。

    法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗の門跡寺院でしたが、平成11年(1999)に
    創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、光明皇后にちなんで
    「光明宗」と名づけ離脱・独立しました。

    神仏霊場巡拝の道 第17番札所の大安寺へ向かいます。
    続く

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  • 11/12/17--00:23: 大安寺
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    法華寺から「法華寺」の信号まで戻り、右折、南下して国道24号線に
    右折して入るとその先でカーブして南下します。
    24号線の「柏木町」の信号を左折して東進した先、「大安寺」の看板を
    目印に左折した先に大安寺があります。
    大安寺の駐車場の北側に推古天皇社があり、豊御食炊屋姫尊
    (とよみけかしきやひめのみこと=推古天皇)が祭神として祀られています。

    推古天皇は父を欽明天皇、母を蘇我堅塩媛(そが の きたしひめ)とし、
    蘇我馬子は母方の叔父に当たります。
    『日本書紀』推古紀に「姿色(みかお)端麗(きらきらしく) 進止軌制
    (挙措動作は乱れなくととのっている)」との記載があり、
    容姿端麗であったとされています。
    18歳で第30代・敏達天皇(びだつてんのう)の皇后となりましたが、
    34歳の時、天皇は崩御されました。
    その後、第31代・用明天皇は皇位に就いて2年後に崩御され、その跡を継いだ
    第32代・崇峻天皇(すしゅんてんのう)は、5年後に蘇我馬子に暗殺されました。
    推古天皇は39歳の時、第33代天皇として即位し、
    甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政としました。

    推古天皇は聡明で、聖徳太子と蘇我馬子の勢力の均衡を保ち、
    豪族の反感を買わぬように、巧みに治政を行いました。
    推古天皇2年(594)に、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔を発布し、
    仏法興隆にも努めました。
    聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(推古天皇11年=603)・
    十七条憲法(同12年=604)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めました。
    推古天皇15年(607)には、初めて日本の独立を強調する目的で
    遣隋使を派遣しました。
    推古天皇30年(622)に太子が49歳で崩御されると、4年後の同34年(626)には
    蘇我馬子も亡くなり、同36年(628)、天皇は75歳で崩御されました。
    大安寺に戻ります。
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    訪れたのは9月末でしたが、10月1日から11月30日まで本尊の秘仏・
    十一面観音菩薩立像が特別開帳されます。
    大安寺は神仏霊場巡拝の道・第17番、大和十三仏霊場・第13番、
    聖徳太子霊跡・第11番、大和北部八十八ヶ所霊場・第1〜2番札所になっています。

    現在の南大門は、かっての基壇の上に建立されていて、平成になってから
    興福寺・旧一乗院の門を移築、復元したものです。
    かっての南大門は平城京の朱雀門と同じ規模を持つ重層の楼閣でした。
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    門を入ると「中門跡」の石碑が建っています。
    かっての伽藍図では、中門の先に金堂、講堂と続いていたようですが、
    現在はコンクリート造りの讃仰殿(さんぎょうでん=宝物殿)が建っています。
    堂内には、不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)、楊柳観音(ようりゅうかんのん)、聖観音、四天王像の諸仏をはじめとして、
    出土の古代瓦や創建当時の伽藍模型などが展示されています。
    仏像はいずれも奈良時代末期の制作と思われ、国の重要文化財に
    指定されていますが、いずれの像も破損が多く、
    各像の両腕などは大部分後補のものに変わっています。
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    復元図では中門を入った右側に「塔」と記されていますが、
    現在は十三重石塔があります。
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    現在の本堂は「中門跡」の石碑から左側に進んだ所に建立されています。
    大安寺は、聖徳太子が平群郡(へぐりぐん)額田部(現・大和郡山市)に
    熊凝(くまごり)道場を創建したことに始まります。
    病床の聖徳太子を田村皇子が見舞った際に、皇子に「熊凝精舎」を大寺として
    造営してほしいと告げたとされ、後に皇子が舒明天皇(じょめいてんのう)として
    即位した舒明天皇11年(639)、百済川のほとりに大宮と大寺を建て始めました。
    「大寺」とは私寺に対する官寺を意味し、これが百済大宮と百済大寺であり、
    日本最初の官寺とされています。

    その後、天武天皇2年(673)に百済大寺は高市の地に移され、
    天武天皇6年(677)、高市大寺を大官大寺(おおつかさのおおてら)と改めました。

    持統天皇4年(690)、藤原京の造営が着工されたのに伴い、
    大官大寺も場所を移して造立されました。
    昭和49年(1974)にその跡が発掘調査され、巨大な金堂、講堂、
    塔などの遺構が見つかり、国の史跡に指定されました。

    和銅3年(710)、都は藤原京から平城京に遷され、霊亀2年(716)に大官大寺は
    平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となりました。

    その後、都が平安京へ遷されると、仏教は東寺や延暦寺を中心とした
    密教に中心が移ったために宗風は振るわず、
    また境内や伽藍の焼失が相次ぎ次第に衰退しました。
    寛仁元年(1017)の火災では、本尊の釈迦如来像と東塔を残してことごとく焼失し、以後、かつての規模を取り戻すことはありませんでした。
    慶長元年(1596)の地震による損害の後、近世には小堂1つを残すのみでした。

    現在の大安寺が復興されたのは、明治15年に小堂と庫裡が建築され、
    その後に本堂が建立されてからです。

    本尊は奈良時代作、像高190.5cmの木造十一面観音立像で、
    国の重要文化財に指定されています。
    秘仏とされ、10月1日~11月30日の期間のみ特別開帳されます。
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    本堂の奥に小子坊と嘶堂(いななきどう)が並んでいます。
    小子坊は平成になってから建立されたもので、 写経道場として利用されています。

    嘶堂も平成になってから建立されたもので、堂内には国の重要文化財に
    指定されている、奈良時代作、像高173.5cmの馬頭観音立像が安置されています。
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    嘶堂の右側に護摩堂があり、大安寺の公式HPでは江戸時代の旧嘶堂と
    記載されていますが、新しく再建されたように見えます。
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    護摩堂から右奥に進むと地蔵像が祀られ、その前に「お竹地蔵参道」と刻まれた
    石碑が建っていますが、参道らしきものは見当たりません。
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    地蔵像の右側に五輪塔があり、大安寺歴代住侶の供養塔です。
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    五輪塔の右側に弘法大師7歳像の稚児大師像が建立されています。
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    門を出て南へ進んだ所に八幡神社があり、大安寺の旧境内に鎮座し、
    もと同寺の鎮守神として大安寺八幡宮と称されました。
    また、山城国男山の石清水八幡宮の元宮であるとの伝承を持つ事から
    元石清水八幡宮とも称されています。

    入唐した大安寺の僧・行教が帰朝の途次に豊前宇佐八幡宮に参籠して
    その神影を奉戴、大同2年(807)に大安寺・東室第7院の石清水房に
    鎮座したのが始まりと伝わります。
    その後、神殿を造営して遷座し、「石清水八幡宮」と号して
    大安寺の鎮守神としました。

    貞観元年(859)、神託により山城男山へ遷座したため、
    改めてその跡に祀ったのが創祀であるとされています。

    現在は室町時代に建立され、江戸時代の永正元年(1504)、火災により
    改築された中門が工事中でした。
    規模の大きな四脚門で奈良県の文化財に指定されています。
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    本殿の下には狛犬や奉納された多数の鳩の像がまとめて置かれていました。
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    本殿の左側に稲荷社があり、多数の狐像が奉納されていました。
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    八幡神社の先、大安寺・南大門から約150m離れた左右に東・西塔跡があり、
    国の史跡に指定されています。
    東塔跡には基壇が復元され、建っていた塔は七重塔と見られています。

    神仏霊場巡拝の道・第18番、大和北部八十八ヶ所霊・第68番札所の
    帯解寺へ向かいます。
    続く

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  • 11/12/17--15:15: 帯解寺
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    大安寺前の通りを東へ進み、「大安寺南」の信号を右折して県道754号線に入り、ワークマンの店舗がある先の信号を左折して51号線に入り、
    JR桜井線を越えた先を左折した先に帯解寺があります。
    神仏霊場巡拝の道・第18番、大和北部八十八ヶ所霊・第68番の
    札所になっていいます。

    帯解寺は山号を子安山と号し、東大寺を大本山とする華厳宗の寺院で、
    弘法大師の師・勤操(ごんそう/ごんぞう)によって開かれ、
    元は霊松庵と呼ばれていました。
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    山門を入った左側に手水舎があります。
    手水鉢には寛文2年(1662)の銘があり、徳川四代将軍・家綱により
    寄進されたものです。
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    右側には山門に隣接して鐘楼があります。
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    正面に本堂があります。
    長らく世継ぎに恵まれなかった文徳天皇后の染殿皇后(藤原明子)が当寺にて
    祈願をしたところ、惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、
    天安2年(858)、文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、
    勅命により帯解寺と名乗るようになりました。
    以来、安産・子授け祈願の寺として信仰を集めるようになりました。

    江戸時代になって、徳川第二代将軍・秀忠の正室・崇源院が安産祈願し、
    後の三代将軍・家光を安産されました。
    そして、第3代将軍・家光の側室・お楽の方(宝樹院)が安産祈願し、
    後の四代将軍・家綱を安産されました。
    家光からその折種々の瑞祥を記した「瑞祥記」が下賜され、
    誕生釋迦佛等が寄進されました。
    寛文3年(1663)には家綱より手水鉢が寄進されました。

    本尊は弘法大師作との伝承がある、像高182.6cmの子安地蔵菩薩像ですが、
    鎌倉時代作と判明し、国の重要文化財に指定されています。
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    境内

    西国三十三所・第9番、神仏霊場巡拝の道・第16番、西国薬師四十九霊場・第4番、南都七大寺・第2番、大和北部八十八ヶ所霊場・第62番の
    各札所である興福寺へ向かいます。
    続く

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  • 11/15/17--01:52: 興福寺
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    帯解寺から国道169号線へと出て、169号線を北上した所に興福寺があります。
    ようやく二輪も停められるコイン式駐車場を見つけ、猿沢池へと向かいました。
    猿沢池は、興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749)に造られた
    人工池ですが、七不思議があります。

    1.猿沢池の水は、決して澄むことない。
    2.またひどく濁ることもない。
    3.水が流入する川はない。
    4.また流出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。
    5.亀はたくさんいるが、なぜか蛙はいない。
    6.なぜか藻も生えない。
    7.毎年「放生会」で多くの魚が放たれているにもかかわらず、
    魚であふれる様子がない。

    昭和34年(1959)に池の水が赤くなった時には、「この世の終わりだ」と
    騒がれたそうです。
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    猿沢池から五重塔を目指して進んだのですが、入口が判らず戻りました。
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    西へ進むと南大門跡があり、現在高さ約1.5m、東西約30.8m、
    南北約16.6mの基壇が復元されています。
    かっての南大門は平城京の朱雀門と同じ規模を持つ重層の楼閣だったと
    推定され、その復元も計画されています。
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    南大門の正面に中門跡の基壇が復元されていて、その奥に平成30年の落慶を
    目指し中金堂が再建されています。
    中金堂の右側に東金堂、左側には現在はありませんが西金堂と三棟の
    本堂を有する大寺院であったことが窺い知れます。
    26件の国宝、44件の重要文化財を有し、現在の境内と合わせて奈良公園の
    一部にまたがる旧境内が国の史跡に指定されています。
    また、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。

    興福寺は飛鳥時代の天智天皇8年(669)、藤原鎌足夫人の鏡王女
    (かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、山背国山階(現・京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が起源です。
    天武天皇元年(672)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって
    厩坂寺(うまやさかでら)と称しました。
    和銅3年(710)、平城遷都に際し、鎌足の子・不比等は厩坂寺を
    平城京左京の現在地に移し「興福寺」と改めました。
    不比等が没した養老4年(720)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、
    元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになりました。
    平安時代には春日大社の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して
    事実上の同国の国主となりました。
    寺領は拡大され、堂塔伽藍は百数十棟、僧侶4千名を擁する大寺院へと
    発展していきました。
    その勢力の強大さは、「南都北嶺(なんとほくれい)」と称され、春日大社の
    神木を擁した興福寺の僧兵と日吉(ひえ)神社の神輿(みこし)を奉じた延暦寺の
    僧兵とが、互いに確執を繰り返し、争いや朝廷への強訴(ごうそ)となりました。
    しかし、治承4年(1180)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に平重衡の
    南都焼討により、東大寺とともに大半の伽藍が焼失しました。
    現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のもので、仏像をはじめとする
    寺宝類も多数が焼失しました。
    興福寺は鎌倉時代に復興され、興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる
    仏像もこの時期に数多く作られました。
    しかし、江戸時代、享保2年(1717)の火災では、西金堂、講堂、南大門などは
    再建されませんでした。
    更に慶応4年(1868)に出された神仏分離令により、子院はすべて廃止、
    寺領は明治4年(1871)の上知令で没収され、境内は塀が取り払われ、
    樹木が植えられて、奈良公園の一部となりました。
    明治14年(1881)、ようやく興福寺の再興が許可され、明治30年(1897)、
    文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布され、
    興福寺の諸堂塔も修理や再建に着手され現在も進行中です。

    正面の中金堂は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するため、
    寺の中心的な堂として和銅3年(710)の平城京遷都直後に
    造営が始められたと考えられています。
    その後、東金堂、西金堂が建立されてからは中金堂と呼ばれるようになりました。
    創建以来たびたび焼失と再建を繰り返し、江戸時代の享保2年(1717)に
    焼失してからは約100年間再建されないままでした。
    文政2年(1819)、篤志家の寄付によってようやく再建されたのですが、
    周囲1間を縮小した仮堂でした。
    資金不足で安価な松材が多く使われたため、荒廃が進み、
    平成12年(2000)に解体され、本格的な中金堂が再建されつつあります。
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    南大門から西へ進んだ所に南円堂があり、日本最大の八角堂で、
    国の重要文化財に指定されています。
    南円堂は弘仁4年(813)、藤原北家の藤原冬嗣により
    父・内麻呂(うちまろ)追善のため創建されました。
    現在の建物は四代目で、寛政元年(1789)に再建されたもので、
    八角の一面は6.4m、対面径は15.5mあります。
    本尊は像高3.36mの不空羂索観音坐像で、国宝に指定されています。
    西国三十三観音霊場・九番札所の本尊でもありますが、堂の扉は常時閉ざされ、
    開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみです。
    この像は、天平18年(748)、その前年に没した
    藤原房前(ふじわら の ふささき)の追善のため、
    夫人の牟漏女王(むろ の おおきみ)、子息の藤原真楯(ふじわら の またて)ら
    が造立したもので、もと興福寺講堂に安置されていました。
    現在の像は、運慶の父である康慶(こうけい)一門の作で、
    文治5年(1189)に完成しました。
    堂内には四天王立像と法相六祖像が安置されてしましが、
    法相六祖像は国宝館に遷されました。
    四天王立像は、鎌倉時代の作で国宝に指定されています。
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    南円堂の左前に不動堂があり、中央に不動明王坐像が安置されています。
    右側には弘法大師像でしょうか?
    不動明王の図像は、空海が唐より密教を伝えた際に、
    日本に持ち込まれたとされています。
    両側に安置されているのは三十六童子でしょうか?
    興福寺の公式HPでは不動堂には触れられていません。

    不動堂や南円堂の納経所の前に藤棚があり「南円堂藤」として
    南都八景の一つになっています。
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    南円堂から東へ進んだ先に、高さ50.1mの五重塔があり、国宝に指定されています。
    天平2年(730)、藤原不比等の娘・光明皇后の発願で創建され、
    その後5回の被災・再建を経て現存の塔は応永33年(1426)頃に再建されました。
    東寺の五重塔に次ぐ日本第二位の高さがあり、初層の須弥壇には、
    いずれも室町時代作の東に薬師三尊像、西に阿弥陀三尊像、南に釈迦三尊像、
    北に弥勒三尊像が安置されています。
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    五重塔の前に、我が国に伝わる奈良時代唯一の燈篭の基台が残されています。
    かって丸い石の台に灯篭が載せられていました。
    その周囲に八弁の蓮の花びらが彫り出されています。
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    五重塔の北側に東金堂があり、国宝に指定されています。
    9月15日~11月19日の期間、「興福寺国宝特別公開」が開催されていて、
    東金堂との共通拝観券(900円)で拝観することができます。
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    現在、国宝館が耐震強化工事中のため、仮講堂がその会場となっています。
    仮講堂は、昭和50年(1975)に旧講堂跡に室町時代の薬師寺の旧金堂が
    移築されたもので、興福寺・金堂の役割を果たしていましたが、
    本年、仮講堂から、中金堂の本尊である釈迦如来坐像や諸仏が遷されたようです。
    来年、中金堂が再建された後は講堂として整備されるそうですが、
    逸早く講堂の本尊である阿弥陀如来像が安置されています。

    堂内には、中央に鎌倉時代初期作で国の重要文化財に指定されている、
    像高2.257mの阿弥陀如来像が安置されています。
    右側に梵天像、左側に帝釈天像が安置され、共に鎌倉時代初期の作とされ、
    国の重要文化財に指定されています。
    梵天像は像高171.5cm、帝釈天像は像高166.5cmで、
    元は西金堂に安置されていたものと考えられています。
    阿弥陀如来像の正面には、国宝の銅造華原磬(どうぞうかげんけい)が
    置かれています。
    天平6年(734)に創建された西金堂に阿修羅像などとともに置かれ、
    その意匠は獅子の背中に柱が立ち、そこに雌雄4体の龍が巻きつき、
    その上にに金鼓(こんく)と呼ばれる楽器を抱えています。

    左右には旧西金堂の天平彫刻である八部衆像と十大弟子像が安置されています。
    旧西金堂は、天平5年(733)に亡くなった藤原不比等夫人の橘三千代の
    一周忌供養のため、翌天平6年に娘の光明皇后によって発願・建立されました。
    創建当時の堂内には、釈迦三尊像と釈迦如来の眷属である十大弟子像、
    八部衆像、そして二大護法善神とされる梵天・帝釈天像、及び帝釈天の
    配下とされる四天王像などが安置されていました。
    度重なる火災で創建期の像は八部衆像8体と十大弟子像の内6体が救出され、
    仮講堂に安置されています。
    更にその左右の外側には鎌倉時代作で国宝に指定されている
    金剛力士像が安置されています。

    東金堂へ戻ります。
    東金堂は神亀3年(726)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇(げんしょうてんのう)の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建されました。
    治承4年(1180)の兵火による焼失後、文治3年(1187)、興福寺の僧兵は
    飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、
    東金堂本尊に据えたのですが、応永18年(1411)、東金堂は五重塔とともに焼け、
    薬師三尊像も失われました。
    現在の建物は応永22年(1415)に唐招提寺・金堂を参考にした天平様式で
    再建されたもので、平面規模は、創建時の堂に準じています。

    堂内には、重要文化財に指定されている銅造薬師三尊像が安置されています。
    像高255cmの薬師如来坐像は応永18年(1411)の火災後に再鋳造されたもので、
    像高300.3cmの日光・像高298cmの月光両菩薩立像は、
    共に白鳳時代のもので火災から救出されました。
    薬師三尊像の周囲には鎌倉時代作で国宝に指定されている
    十二神将立像が護衛しています。
    向かって左側には鎌倉時代の建久7年(1196)、定慶の作で国宝に指定されている
    像高88.1cmの木造維摩居士坐像(ゆいまこじぞう)が安置されています。
    右側に維摩居士像と対を成すように、定慶の作と推定され、国宝に指定されている
    像高94cmの木造文殊菩薩坐像が安置されています。
    堂内四隅には平安時代前期作で国宝に指定されている四天王像が安置されています。
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    南円堂の方へ戻ります。
    南円堂の北側に西金堂の跡地が残され、フェンスで囲われた横を北上すると
    北円堂があり、国宝にしてされています。
    北円堂(国宝)は養老5年(721)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇、
    元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建されました。
    現在の建物は承元2年(1208)頃の再建で、興福寺に現存している建物の中では
    最も古い建物になります。
    現在、回廊の復元計画中で周囲はフェンスで囲われ近寄ることはできません。
    堂内には建暦2年(1212)頃、晩年の運慶によって造られた国宝に指定されている
    像高141.9cmの木造弥勒仏坐像が安置されています。
    国宝の木造無著菩薩・世親菩薩立像は、本尊弥勒像と同じ頃、運慶一門の作で、
    鎌倉時代のリアリズム彫刻の頂点をなす作品、日本の肖像彫刻の
    最高傑作の1つとして高い評価を得ています。
    無著と世親(せしん)の兄弟は、釈迦入滅後約千年を経た5世紀ころ、
    北インドで活躍し、大乗仏教の根幹をなす思想の一つである
    唯識思想を大成させました。
    玄奘三蔵法師は、戒賢論師(かいげんろんじ)から唯識思想を学び、
    中国に持ち帰ります。
    中国では玄奘三蔵法師の弟子、慈恩大師がこの思想を受け継いで法相宗を開きます。
    法はものの本性、相はものの現象、をさしています。
    興福寺は法相宗の大本山です。
    八角須弥壇の四方には、延暦10年(791)に造立され、国宝に指定されている
    四天王像が安置されています。
    増長天と多聞天の台座裏面の墨書きから、元は大安寺の四天王像として
    造立され、弘安8年(1285)に興福寺の僧によって修理されたことが判明しました。
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    北円堂から南下した所に三重塔があり、国宝に指定されています。
    康治2年(1143)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建されました。
    治承4年(1180)の大火により被災してから間もなく再建されたとみられ、
    北円堂と共に興福寺最古の建物で高さは19.1mです。
    塔内、東の須弥壇に弁財天と十五童子像が安置されています。

    いったん帰宅し、次回は国道169号線から西国三十三所観音霊場・第8番、
    神仏霊場巡拝の道・第35番、真言宗十八本山・第16番札所である
    長谷寺へ向かいます。

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  • 11/17/17--00:42: 大神神社
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    国道24号線を南下し、「木津奈良道」の信号を左折して県道754号線に入って
    進んで行くと、国道369号線に合流し、その先で国道169号線に合流します。
    しばらく走った先「箸中」の信号を左折した先に「大市墓」があります。
    宮内庁では、第7代孝霊天皇・皇女の倭迹迹日百襲姫命
    (やまとととひももそひめのみこと)の墓に治定されている前方後円墳で、
    考古学では箸墓古墳(はしはかこふん)と呼ばれています。
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    纒向遺跡(まきむくいせき)の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、
    出現期古墳の中でも
    最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳で、
    邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓とする説もあります。
    墳丘の長さ278m、高さ30mあり、奈良県内で3番目、全国でも11番目に
    大きな古墳となります。

    「箸墓」と呼ばれる伝承が残されています。
    『倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻になった。
    しかしこの神はいつも夜にしか姫の処へやって来ず姿を見ることができなかった。
    百襲姫は夫にお姿を見たいので朝までいてほしいと頼んだ。
    神はついに断りきれず、「姫の櫛を入れた箱の中にいるが、
    箱を開けても決して驚いてはならぬ」と強く念を押して告げた。
    翌朝明るくなって見たものは夫の美しい蛇の姿であった。
    百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて三輪山に帰ってしまった。
    百襲姫はこれを後悔して泣き崩れた拍子に、箸が陰部を突き絶命してしまった。
    百襲姫は「大市墓」に葬られ、いつしか人々は箸の御墓(みはか)と
    呼ぶようになった。』
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    周濠は国の史跡に指定され、周濠の一部は「箸中大池」としてため池百選の
    1つに選定されています。
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    更に国道169号線を南下し、「三輪参道入り口」の信号を左折した所に
    大神神社(おおみわじんじゃ)の大鳥居が建っています。
    この大鳥居は昭和61年(1986)に建立されたもので、高さ32.2m、
    柱間23mあり、車道をまたぐ鳥居としては日本一の高さを誇ります。
    耐候性剛板が使われ、耐久年数1300年とされています。

    大神神社は、背後の三輪山(三諸山=みもろやま)そのものを
    御神体(神体山)としています。
    『古事記』によれば、『大国主神は少彦名神(すくなびこなのかみ)とともに
    国造りをしていたが、大国主が、「お前は小さな神だな」と愚弄したために
    国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。
    大国主神が「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、
    海原を照らして神が出現した。
    その神は大国主の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま=和魂)であり、
    大和国の三輪山の上に祀れば国作りに協力すると言った。』

    大国主神は三輪山に大物主神を祀ったとされ、大物主神とは大国主神の
    和魂(にぎみたま)であり、大神神社の由緒では、
    大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとあります。

    『古事記』には、三輪と呼ばれるに至った伝承が残されています。
    美しい乙女、活玉依姫(いくたまよりひめ)のもとに夜になるとたいそう麗しい
    若者が訪ねてきて、二人はたちまちに恋に落ち、
    どれほども経たないうちに姫は身ごもりました。
    姫の両親は若者の正体を突き止めたいと思い、姫に糸巻きにの麻糸を針に通し、
    針をその男の衣の裾に通すように教えました。
    翌朝になると糸は鍵穴を出て、後に残っていた
    糸巻きは三勾(みわ=三巻き)だけでした。
    糸を辿ってゆくと三輪山の社まで続き、若者の正体が
    大物主神であるとことが知れました。
    糸巻きが三勾残っていたことから、
    美和(三輪)と呼ばれるようになったとされています。
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    参道を進んだ先に駐車場があり、その先に二の鳥居が建っています。
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    参道を進み、橋を渡った左側に祓戸神社(はらえどじんじゃ)があり、
    祓を司る四神が祀られています。
    煩悩を捨てられずにいる身では、まず、祓戸神社に参拝して
    身も心も祓い清めなければなりません。
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    祓戸神社の先に夫婦岩が祀られています。
    古くは磐座として、夫婦円満や恋愛成就、さらに富貴栄達、除病除厄、
    除災加護などの祈願が定められた聖天(歓喜天)になぞらえ、
    聖天石としても描かれていました。
    また、大物主神と活玉依姫の恋の物語である三輪山説話の古蹟ともされています。
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    夫婦岩の先に、趣のある手水舎があり、さらに穢れを落とします。
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    手水舎から石段を上ると、縄鳥居の正面に拝殿があります。
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    現在の拝殿は寛文4年(1664)に徳川第四代将軍・家綱に再建されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    桁行21m、梁行7mで、正面に5.5m一面の唐波風造りの大向拝がついています。
    拝殿の内部正面の両側には神饌物を献じる御棚(みたな)が設けられています。
    拝殿の左右に渡り廊下を通じて二つの建物があり、向かって右手の御殿は
    勅使殿といい、昔、宮中からの勅使の休憩所でした。
    向かって左側は勤番所で、勅使殿と共に奈良県の文化財に指定されています。
    勤番所の東、拝殿の北側に、神前に供える神饌一切の調理を行う神饌所があります。

    大神神社には本殿がありません。
    拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという
    原初の神祀りの様が伝わる、我国最古の神社です。
    明神型の鳥居三つを一つに組み合わせたもので「三輪鳥居」とも呼ばれています。
    正面の鳥居の高さは3.6m、左右は2.6mで、鳥居の左右には木彫りの
    欄間がはめ込まれた、長さ16間の瑞垣が設けられています。
    主祭神を大物主神とし、大己貴神(おおなむちのかみ)と
    少彦名神(すくなひこなのかみ)が配祀されています。
    三ツ鳥居と瑞垣は国の重要文化財に指定され、参集殿で申し込みをすれば
    拝観できるそうですが、当日は「秋の講社崇敬会大祭」が行われていたため
    中止されていました。

    大神神社は、神仏霊場巡拝の道・第21番の札所です。
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    拝殿の右前方に「巳の大杉」と呼ばれる樹齢約500年とされる巨木が聳えています。
    大物主大神の化身とされる白蛇が棲むことから名付けられたご神木。

    三輪山登山もでき、境内が余りにも広いため、巡るのを次回に譲り、
    長谷寺へ向かうことにしました。
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    大神神社から国道169号線まで戻り、「総合庁舎前」の信号を左折して
    県道105号線へ入ります。
    県道105号線はその先で高架になっていて、JR桜井線をまたいだ
    先の信号で側道へ入り、その先に架かる橋、乗用車は通れませんが
    「うまいでばし」を渡った所に「仏教伝来之地」の石碑が建立されています。

    かって、桜井市金屋の河川敷の辺りは大陸からの船が大阪(難波津)から
    大和川を遡って来る船の船着場があり、諸国や外国から
    多くの遣いや物資が上陸したと伝えられています。
    欽明天皇は都を磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)に置き、
    欽明天皇13年(552)に百済からの使節が仏像と経文を伝えました。
    しかし、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立が起こり、
    物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てる事までし、
    物部氏と蘇我氏の間の確執が始まりました。
    この両者の争いは、用明天皇2年(587)に蘇我馬子らによって物部守屋が殺され、
    物部氏が滅ぼされて決着がつきます。
    蘇我氏が主導権を握ったことで、この後仏教は日本全国に広まっていきました。
    桜井の地は仏教が伝来した地であり、すぐ近くに最古の神社がある地でもあります。

    県道105号線まで戻り、長谷寺へ向かいます。
    続く

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  • 11/18/17--01:46: 長谷寺-その1
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    県道105号線の先で、「総本山 長谷寺」の大きな石標が建っています。
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    県道から左折した先に法起院(ほうきいん)があり、
    西国三十三所観音霊場の番外札所となっています。

    法起院は天平7年(735)に徳道上人によって開基されました。
    江戸時代前期の元禄8年(1695)、長谷寺化主(管長)の英岳僧正が寺院を再建し、
    長谷寺の開山堂とされました。
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    山門を入った正面に本堂があり、自ら刻まれた徳道上人像が安置されています。
    徳道上人は21歳で出家し、神亀4年(727)、に大和長谷寺や鎌倉長谷寺を
    開創した他、諸国に四十九ヶ寺を建立したと伝わります。
    養老2年(718)の春、上人は突然の病で仮死状態となり、
    夢の中で閻魔大王と出会いました。
    悩める人々を救うために三十三所の観音霊場を広めるように委嘱され、
    三十三の宝印を与えられて仮死状態から解放されました。
    上人は三十三所の霊場を設けましたが、人々からの信用を得られず、
    止む無くその印を中山寺に埋めたと伝わります。
    三十三の数字は、観音が三十三の姿に変化して、人々を救うと説く
    法華経普門品によるもので、観世音菩薩は慈悲と智慧により、
    すべての人々を救済する仏とされています。
    270年後の永延2年(988)、その宝印は花山法皇によって掘り出され、
    三十三所観音霊場が復興されました。

    晩年、上人が隠棲するため法起院を開基しました。
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    境内奥にある徳道上人廟の左前に松の木が植えられています。
    この松ではありませんが、上人は境内の松の木に登り法起菩薩となって
    遷化したことから法起院と称するようになったと伝わります。
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    松の木の手前に沓を脱いだとされる「沓脱石」があります。
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    境内の奥に徳道上人廟があります。
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    廟内の中央に十三重石塔が建立されています。
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    石塔の周囲を三十三の観音霊場の名称が彫られた石板で囲まれています。
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    天竺(インド)で製作された仏足石が祀られています。
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    境内-1
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    境内-2
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    境内-3
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    境内-4
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    境内-5
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    法起院を出ると参道は左へと曲がり、その突き当りに長谷寺があります。
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    参道の石段の途中、右側に普門院不動堂があります。
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    本尊は不動明王像で、平安時代後期に覚鑁(かくばん)上人によって
    造られたとされ、国の重要文化財に指定されています。
    この像は元は、大神神社の供僧寺である平等寺に祀られていましたが、
    明治時代初期の廃仏毀釈によって平等寺が廃寺となったため、
    明治8年(1875)に普門院・不動堂の本尊として迎えられました。

    覚鑁上人は、法然らの念仏・浄土思想を、真言教学においていかに捉えるかを
    理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成しました。
    長承3年(1134)には金剛峯寺座主をも兼ねて、真言宗の建て直しを図りましたが、
    この強硬策に反発した上下の僧派閥は覚鑁と激しく対立し、保延6年(1140)に、
    覚鑁の自所であった金剛峯寺境内の密厳院を急襲してこれを焼き払い、
    さらに金剛峯寺を追放しました。
    高野山を追われた覚鑁は、弟子一派と共に大伝法院の荘園の一つである
    弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移し、
    やがて根来寺を成立させていきました。
    康治2年(1143)、覚鑁は入滅し、根来寺奥之院の霊廟に埋葬されました。
    正応元年(1288)、高野山大伝法院の学頭・頼瑜(らいゆ)は大伝法院の寺籍を
    根来寺に移し、覚鑁の教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」を展開し、
    発展させていきます。
    その後、根来寺は豊臣秀吉による討伐を受け、生き延びた一部の僧たちは
    奈良や京都へ逃れ長谷寺(豊山)や智積院(智山)において新義真言宗の
    教義を根付かせ、現在の新義真言宗(根来寺)、真言宗豊山派、
    真言宗智山派の基礎となりました。
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    不動堂の先、仁王門の手前に受付があり、入山料500円を納めます。
    仁王門は平安時代、一条天皇[在位:寛和2年(986)~寛弘8年(1011)]の時代頃に
    創建され、その後度重なる火災により焼失しました。
    明治15年の火災では、仁王門、下登廊、中登廊を焼失しました。
    現在の仁王門は明治18年(1885)に再建されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    楼上には釈迦三尊、十六羅漢像が安置されています。
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    入母屋造、本瓦葺の三間一戸の楼門で、門に掛る扁額「長谷寺」は
    後陽成天皇の宸筆(直筆)によるものです。
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    仁王像の詳細は不明です。
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    仁王門をくぐると登廊(のぼりろう)が続いており、
    国の重要文化財に指定されています。
    平安時代の長歴3年(1039)に春日大社の宮司・中臣信清が子の病気平癒の
    御礼に造ったもので、百八間、399段、上中下の三廊に分かれています。
    現在の下、中廊は明治27年(1894)に再建されたもので、
    「長谷型」と呼ばれる灯籠が吊るされています。

    登廊が建立された伝承が残されています。
    『中臣信清の子の足に、できてしまうと7日で死ぬと言われた
    蛇目丁(じゃがんちょう)という瘡(かさ)ができてしまった。
    春日社の巫女(かんなぎ)に神霊が乗り移り、榊(さかき)の枝を与え、
    これを持って長谷寺に参るように告げた。
    信清は、長谷寺に参ると仏前に榊の枝を捧げて祈った。
    参籠(さんろう)して3日目の長元(ちょうげん)2年(1029)、
    観音堂の東の大戸から烏(からす)が一羽飛んで入って来て、
    例の榊の葉を取り、西の大戸から行方もわからず飛び去って行った。
    烏は病人の元へと飛んで行き、足をつついて五寸(約15cm)ほどの小蛇を、
    腫物(はれもの)の中から引き出し、小蛇を口にくわえ、南に向かって翔び去った。
    病者は半時(一時間)ほど寝入ってから目が覚め、ついに別事なく平癒した。
    信清は喜んで、長暦3年(1039)4月12日から22日に至るまでの十日間のうちに、
    長谷寺にはじめて九十九間の登廊を建てた。』
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    登廊の途中、左側に「道明上人御廟塔」が建立されています。
    長谷寺は、飛鳥時代の朱鳥(あかみどり)元年(686)、道明上人が
    天武天皇のために「銅板法華説相図」を初瀬山の西の岡に
    安置したことに始まります。
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    下の登廊を上り終えると、右側に中の登廊が少し急になって続きます。
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    上り終えた所に蔵王堂があり、修験道の本尊である蔵王権現が祀られていますが、
    現在は修復中です。

    その昔、金峯山寺を開いた役行者が世の乱れを憂いて、衆中を救済する
    仏の出現を祈ったところ、過去・現在・未来の三世を救済するために、
    本地仏である釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩が現れたそうです。
    しかし、ありとあらゆる悪行がはびこり、仏をも恐れぬ悪人が増えた時代にあって、本来の仏の姿で登場するのではなく、悪を調伏させるためにこのような
    憤怒の形相に姿を変えているそうです。
    蔵王権現は正式には金剛蔵王権現、または金剛蔵王菩薩と呼ばれ、
    「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王とされています。
    権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意味であり、仏、菩薩、諸尊、
    諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているとされています。
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    蔵王権現像の像容は、右手に三鈷杵を持ち、天魔を粉砕する相を示しています。
    左手は刀印を組み、一切の情欲や煩悩を断ち切る利剣を示し、
    左足は大地を踏みつけ、地下の悪魔を押さえつけています。
    右足は蹴り上げ、天地間の悪魔を払っている姿、
    背後の炎は大智慧をあらわしています。

    堂前には石造りの三鈷杵が置かれ、触れると七難即滅、
    七福即生の御利益があるとされています。

    蔵王堂は天正5年(1577)に創建され、現在の建物は慶安3年(1650)に
    徳川第3代将軍・家光の命により再建されたもので、
    明治15年の火災では焼失を免れました。
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    蔵王堂に向かって登廊を左側に出ると、詳細は不明ですが小さな祠が祀られ、
    その横に「紀貫之 故里の梅」と名付けられた梅の木が植えられています。
    紀氏(きうじ)は、かって大和国平群県紀里
    (現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠としたことから
    「故里の梅」とされているのでしょうか?
    横には「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の 香ににほいける」の
    歌碑が建立されています。

    その奥には小林一茶の句碑「我もけさ 清僧(せいそう)の部也(ぶなり) 
    梅の花」が建立されています。
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    更に石段が急になったように見える上登廊を上ります。
    明治15年の火災では上登廊は焼失を免れ、本堂と同じ
    慶安3年(1650)頃に建立されたと見られています。
    続く


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