智積院は山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)と
号する真言宗・智山派の総本山です。
京阪電車の七条駅から東へ進み、東大路通との交差点の東南角にあり、
京阪電車の七条駅から東へ進み、東大路通との交差点の東南角にあり、
駅から10分足らずの距離になります。
総門は江戸時代に御所・東福門院の旧殿に使われていたものが移築されましたが、
総門は江戸時代に御所・東福門院の旧殿に使われていたものが移築されましたが、
通常は出入りできません。
東大路通を少し南へと進んだ所に入口があり、入った左側に納経所があります。
智積院は、神仏霊場・第120番/近畿不動尊・第20番/
智積院は、神仏霊場・第120番/近畿不動尊・第20番/
京都十三仏・第1番(不動明王)の札所となります。
入口には冠木門が建立されています。
入口には冠木門が建立されています。
参道を少し進み左へ折れ、本坊へと進みます。
参道の途中には大日如来の石仏が祀られています。
参道の途中には大日如来の石仏が祀られています。
石仏の先、右側に大玄関があります。
大玄関の前には白砂の庭園が築かれています。
大玄関の北側に本坊への門があります。
門をくぐった東側に本坊があります。
本坊の先には北門がありますが、参道を戻ります。
参道を戻った北側に延命子育地蔵尊像が祀られています。
地蔵像の先に拝観受付があり、500円を納めまず、収蔵庫から拝観します。
国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画などが展示されていますが、
国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画などが展示されていますが、
撮影は禁止されています。
収蔵庫から唐門を入り講堂へと向かいます。
この唐門は東福門院から移築されました。
講堂はかって方丈と呼ばれ、旧祥雲寺の法堂が基になった建物でしたが、
天和2年(1682)に焼失し、平成4年(1992)に興教大師850年御遠忌記念事業として
計画され、平成7年(1995)10月に完成しました。
灌頂道場や各種研修の道場として使用され、
灌頂道場や各種研修の道場として使用され、
阿弥陀如来が本尊として安置されています。
この阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の作で元は金堂に安置されていました。
この阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の作で元は金堂に安置されていました。
講堂の前に高浜虚子の句碑が建立されています。
「ひらひらと つくもをぬひて 落花かな」
虚子が昭和5年(1930)4月に智積院を参拝された時に作られました。
つくもは「太藺(ふとい)」と呼ばれるイグサに近い姿の多年草のことで、
「ひらひらと つくもをぬひて 落花かな」
虚子が昭和5年(1930)4月に智積院を参拝された時に作られました。
つくもは「太藺(ふとい)」と呼ばれるイグサに近い姿の多年草のことで、
湿地や浅い池などに生育し高さは2m近くにもなるそうです。
講堂前を東へと進むと名勝に指定されている庭園がありますが、残念ながら
工事中で池の水が抜かれ、底に僅かに残る程度でした。
豊臣秀吉が建立した祥雲寺の時代に原型が造られ、
豊臣秀吉が建立した祥雲寺の時代に原型が造られ、
「利休好みの庭」と伝えられてきました。
その後、第7世・運敞(うんしょう)僧正が修復し、
その後、第7世・運敞(うんしょう)僧正が修復し、
東山随一の庭と言われるようになりました。
築山は中国の廬山(ろざん)を、池は長江をモデルに作庭されています。
築山は中国の廬山(ろざん)を、池は長江をモデルに作庭されています。
手水鉢は池に浮かぶ船に見立てられています。
池の中央に架かる二枚の青石の橋は祥雲寺の遺構です。
庭園の北の方に滝の石組があり、石組前に架かる石橋は中国の
宋時代末~元時代初期の山水画の影響を受け、画僧の名に因み
「玉澗流(ぎょくかんりゅう)」と称されています。
石橋の手前には合掌している姿を表した羅漢石が配置されています。
石橋の手前には合掌している姿を表した羅漢石が配置されています。
大書院には長谷川等伯一派の障壁画が複製されています。
この障壁画は、祥雲寺の客殿に描かれていたもので、祥雲寺は
この障壁画は、祥雲寺の客殿に描かれていたもので、祥雲寺は
天正19年(1591)に豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児・鶴松の菩提を弔うために
「桜図」は25歳の長谷川久蔵によって描かれました。
久蔵は「画の清雅さは父・等伯に勝り、長谷川派の中で及ぶ者なし」と
久蔵は「画の清雅さは父・等伯に勝り、長谷川派の中で及ぶ者なし」と
評価されていましたが、完成の翌年に急逝され、この作品が遺作となりました。
楓図は等伯の作品です。
長男であり、画技の高さから、次代の長谷川派の棟梁として将来を嘱望されていた
長男であり、画技の高さから、次代の長谷川派の棟梁として将来を嘱望されていた
久蔵の死後に完成しました。
絵には父親の悲哀さが表されているとも云われています。
実物は火災で持ち出された時に、一部に焼疵が残されています。
絵には父親の悲哀さが表されているとも云われています。
実物は火災で持ち出された時に、一部に焼疵が残されています。
廊下を進んでいくと石庭が築かれています。
講堂の西側にある庭園。
金堂への参道を進みます。
続く