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智積院(ちしゃくいん)-その1

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智積院は山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)と
号する真言宗・智山派の総本山です。
京阪電車の七条駅から東へ進み、東大路通との交差点の東南角にあり、
駅から10分足らずの距離になります。
総門は江戸時代に御所・東福門院の旧殿に使われていたものが移築されましたが、
通常は出入りできません。
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東大路通を少し南へと進んだ所に入口があり、入った左側に納経所があります。
智積院は、神仏霊場・第120番/近畿不動尊・第20番/
京都十三仏・第1番(不動明王)の札所となります。
入口には冠木門が建立されています。
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参道を少し進み左へ折れ、本坊へと進みます。
参道の途中には大日如来の石仏が祀られています。
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石仏の先、右側に大玄関があります。
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大玄関の前には白砂の庭園が築かれています。
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大玄関の北側に本坊への門があります。
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門をくぐった東側に本坊があります。
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本坊の先には北門がありますが、参道を戻ります。
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参道を戻った北側に延命子育地蔵尊像が祀られています。
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地蔵像の先に拝観受付があり、500円を納めまず、収蔵庫から拝観します。
国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画などが展示されていますが、
撮影は禁止されています。
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収蔵庫から唐門を入り講堂へと向かいます。
この唐門は東福門院から移築されました。
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講堂はかって方丈と呼ばれ、旧祥雲寺の法堂が基になった建物でしたが、
天和2年(1682)に焼失し、平成4年(1992)に興教大師850年御遠忌記念事業として
計画され、平成7年(1995)10月に完成しました。
灌頂道場や各種研修の道場として使用され、
阿弥陀如来が本尊として安置されています。
この阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の作で元は金堂に安置されていました。
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講堂の前に高浜虚子の句碑が建立されています。
「ひらひらと つくもをぬひて 落花かな」
虚子が昭和5年(1930)4月に智積院を参拝された時に作られました。
つくもは「太藺(ふとい)」と呼ばれるイグサに近い姿の多年草のことで、
湿地や浅い池などに生育し高さは2m近くにもなるそうです。
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講堂前を東へと進むと名勝に指定されている庭園がありますが、残念ながら
工事中で池の水が抜かれ、底に僅かに残る程度でした。
豊臣秀吉が建立した祥雲寺の時代に原型が造られ、
「利休好みの庭」と伝えられてきました。
その後、第7世・運敞(うんしょう)僧正が修復し、
東山随一の庭と言われるようになりました。
築山は中国の廬山(ろざん)を、池は長江をモデルに作庭されています。
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手水鉢は池に浮かぶ船に見立てられています。
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池の中央に架かる二枚の青石の橋は祥雲寺の遺構です。
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庭園の北の方に滝の石組があり、石組前に架かる石橋は中国の
宋時代末~元時代初期の山水画の影響を受け、画僧の名に因み
玉澗流(ぎょくかんりゅう)」と称されています。
石橋の手前には合掌している姿を表した羅漢石が配置されています。
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大書院には長谷川等伯一派の障壁画が複製されています。
この障壁画は、祥雲寺の客殿に描かれていたもので、祥雲寺は
天正19年(1591)に豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児・鶴松の菩提を弔うために
建立した寺です。
上段の間には長谷川等伯による「松に黄蜀葵図」が描かれています。
松は鶴松に因むとされています。
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「桜図」は25歳の長谷川久蔵によって描かれました。
久蔵は「画の清雅さは父・等伯に勝り、長谷川派の中で及ぶ者なし」と
評価されていましたが、完成の翌年に急逝され、この作品が遺作となりました。
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楓図は等伯の作品です。
長男であり、画技の高さから、次代の長谷川派の棟梁として将来を嘱望されていた
久蔵の死後に完成しました。
絵には父親の悲哀さが表されているとも云われています。
実物は火災で持ち出された時に、一部に焼疵が残されています。
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廊下を進んでいくと石庭が築かれています。
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講堂の西側にある庭園。
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金堂への参道を進みます。
続く

智積院-その2

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金堂への参道の途中、右側に京都府の文化財に指定された鐘楼があります。
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かって、豊国神社にあったものが、江戸時代の寛文7年(1667)に移築され、
「智専之鐘」と称されています。
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元和2年(1616)に鋳造され、京都府の文化財に指定されている梵鐘でしたが、
現在は平成9年(1997)に鋳造されたものに変更されています。
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金堂は明治15年(1882)に焼失後、弘法大師生誕1200年記念事業として、
昭和50年(1975)に再建されました。
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本尊は大日如来で、金堂の建立に伴い造立されたようです。

智積院は元は、現在の和歌山県岩出市にある根来寺の塔頭でした。
平安時代の大治5年(1130)、覚鑁(かくばん)上人は高野山に大伝法院を
創建したのですが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、
保延6年(1140)に大伝法院を根来山に移して新義真言宗の宗祖となりました。
智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として創建され、
根来山内の学問所でした。

安土・桃山時代の天正13年(1585)、豊臣秀吉と対立し、
秀吉の根来攻めで全山焼失しました。
当時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)は、根来攻めが始まる前に
弟子たちを引きつれて寺を出て、高野山へと逃れました。

関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601)、家康は東山の
豊国神社の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院が復興されました。

元和元年(1615)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・
祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山
「五百佛山(いおぶさん)」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」としました。

祥雲寺は、天正19年(1591)に豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児・鶴松の菩提を
弔うために建立した寺で、現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている
長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものです。
この客殿は天和2年(1682)の火災で全焼し、平成4年(1992)の発掘調査で、
祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築で
あったことがあらためて裏付けられました。
障壁画は大部分が助け出され、現存しています。
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金堂の右側に明王殿があり、本尊の不動明王は紀州・根来寺から伝来したものと
伝わり、近畿不動尊・第20番及び京都十三仏・第1番の札所本尊でもあります。
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現在の建物は、昭和22年(1947)に旧本堂(方丈殿)が焼失した際に
江戸時代に建立された大雲院の本堂を移築したものです。
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明王殿の前方には庭園が築かれています。
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金堂から左(北)方向へ進んだ所に寛政元年(1789)に再建された大師堂があり、
京都府の文化財に指定されています。
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堂内には弘法大師像が安置され、参道の脇には修行大師像や
稚児大師像が祀られています。
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大師堂から東へと進んだ所に鐘楼があります。
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鐘楼の左側に運敞蔵(うんしょうぐら)があります。
運敞僧正は慶長19年(1614)に大坂で生まれ、16歳で出家して智積院の
日誉(にちよ)、元寿(げんじゅ)に師事しました。
江戸時代前期に智積院・第七世にして智山教学を大成しました。
運敞僧正の徳を慕い、全国から集まってきた学徒は、最盛期には1,300人を数え、
智積院は学山智山と呼ばれました。
この蔵は、延宝元年(1673)に僧正によって建立され、僧正が収集された
貴重な内外の書籍や文献が収蔵されています。
僧正が元禄6年(1693)に80歳で亡くなられた後、
僧正の坐像が造られ安置されています。
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運敞蔵の右側には、手前から愛宕権現社、天満宮、白山大権現社が祀られています。
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奥の方には藤森大王社が南向きに建立されています。
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中央の参道脇には興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)上人像が
建立されています。
覚鑁上人は嘉保2年(1095)に肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市)に生まれ、
10歳の時に父が亡くなり、13歳で仁和寺成就院へ入りました。
16歳で得度・出家し、20歳で東大寺戒壇院で受戒し、名を覚鑁と改め、
その後、高野山へ入りました。

36歳になった覚鑁は、真言宗がすっかり腐敗衰退してしまった現状を嘆き、
自ら宗派の建て直しに打って出ました。
長承元年(1132)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と
密厳院(みつごんいん)を建立し、大伝法院座主に就任し、2年後の
長承3年(1134)には金剛峯寺座主をも兼ねて、事実上同山の主導権を制し、
真言宗の建て直しを図りました。

しかし、この強硬策は反発を買い、保延6年(1140)には、覚鑁が住していた
金剛峯寺境内の密厳院が焼き払われました。
この時、密厳院不動堂にいた覚鑁の命を狙って僧徒が乱入してきたのですが、
そこに覚鑁の姿はなく、本来一体のはずの本尊の不動明王が二体並んでいました。
不動明王のどちらかは覚鑁が変化したものであろうと僧徒達は考え、
錐を刺してみて血が出た方が覚鑁であるとして試みたのですが、
どちらの不動明王からも血が流れ出ました。
覚鑁が不動明王に守られていることに気付いた僧徒達は、一目散に逃げ出しました。

覚鑁は高野山から逃れ、弟子一派と共に大伝法院の荘園の一つである
弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移し、
やがて根来寺が形成されました。
覚鑁の命を救ったとされる不動明王は、現在、根来寺の不動堂に
「錐鑽(きりもみ)不動」として安置されています。
康治2年(1143)に覚鑁は入滅し、根来寺奥之院の霊廟に埋葬されました。
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参道の正面には寛文12年(1672)に建立され、京都府の文化財に指定されている
密厳堂があり、覚鑁上人像が安置されています。
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境内には井戸が残されています。
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密厳堂の東側に嘉永4年(1844)に建立された求聞持堂があります。
文殊堂または護摩堂とも呼ばれ、本尊は虚空蔵菩薩で、
お前立に不動明王が安置されています。
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求聞持堂の北側に三部権現社の拝殿があります。
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拝殿を回り込んだ所に三部権現社があり、寛文7年(1667)に勧請されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
三部権現社は根来寺・大伝法院以来、相承(そうじょう)の守護神であり、
智積院の総鎮守社として祀られています。
「中央の仏部は、聖無動尊・本部の十天等であり、左の金剛部は丹生・
高野両大明神等である。
右の蓮華部は天照大神・八幡・賀茂等の日本大小の神祇(じんぎ)1千余社の
総社である」と記されています。

聖無動尊(しょうむどうそん)とは、サンスクリット名アチャラナータAcalanāthaを漢訳したもので、不動金剛明王とも訳されます。
十天(じってん)とは、八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)と
天・地を護る諸尊と思われます。
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境内の南側には、かっての学寮の遺構とみられる第三行堂があります。
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第三行堂から南側の石段を下った所にありますが、詳細は不明です。
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東側にあるのは先師塔だと思われますが、定かではありません。
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南側に光明殿がありますが、詳細は不明です。
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光明殿から南へ進んだ所に、学侶墓地があり、江戸時代に智積院内で修行し、
志半ばで亡くなられた方々の墓石が並んでいます。
元禄・宝永年間(1688~1711)に智積院で学んだ学侶は、
千六百人余りと伝わります。
平成3年(1991)に、境内の南東にある地蔵山墓地から墓石群が移され、
聖域として整備されています。

豊国廟へ向かいます。
続く

豊国廟

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智積院の墓地を東へと抜け、京都女子大の学舎に沿って北へと進み、
その先の四つ角で東へ進んだ石段の上に鳥居が建っています。
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鳥居の先には遥拝所があります。
秀吉の廟所は、阿弥陀ヶ峰の麓に高野山の木食応其(もくじきおうご)によって、
死後間もなく「大仏の鎮守社」と称して着工されました。

秀吉は、東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」と
して祀るように遺言したといわれ、北野神社に倣った八棟造りだったと伝わります。
しかし、慶長4年(1599)に秀吉の望みに反し後陽成天皇からは「豊国乃大明神
(とよくにのだいみょうじん)」の神号と正一位の神階が与えられました。

廟所は、豊国神社(とよくにじんじゃ)と命名され、境内域30万坪、
社領一万石を誇る壮大・壮麗なものでした。
祥雲寺(現在の智積院)と大仏殿御殿(現在の妙法院)の間に参道を設け、
鳥居と二層の楼門(豊国極楽門)が建立され、参道の両側には石田光成
前田玄以(まえだ げんい)など、豊臣家家臣の屋敷が並んでいました。
毎年4月と8月の18日には、勅使や北政所(きたのまんどころ)を迎え、
盛大な豊国祭が執り行われました。
豊臣秀頼は、豊国神社を大坂城内に分祀し、秀頼自身は本社創建の際には参列せず、慶長16年(1611)の二条城訪問の際に最初で最後となる参拝を行っています。

慶長20年(1615)、豊臣家が滅ぶと徳川家康の意向により豊国乃大明神の神号は
剥奪され、豊国神社の廃祀を命じました。
北政所の嘆願により社殿は残されたものの、以後朽ち果てるままに放置され、
旧参道内には新日吉神宮(いまひえじんぐう)が移設され、
旧社殿に参拝するための通路も閉鎖されました。

遥拝所の手前に受付があり、100円を納め先へ進みます。
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正面には489段の石段が一直線に続いています。
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石段を上って行くと唐門があります。
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唐門から先の石段はより急傾斜となります。
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標高196mの阿弥陀ヶ峰山頂には伊東忠太氏の設計による、
壇上に高さ約10mの巨大な五輪塔が建立されています。

豊臣秀吉は慶長3年8月18日(1598年9月18日)に伏見城で生涯を閉じたのですが、
その死は伏せられ1年間城内に安置されていました。
翌年、秀吉の遺命により方広寺東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました。

方広寺は、秀吉によって発願された東大寺の大仏より大きい
6丈3尺(約19m)の大仏を安置する寺で、その敷地は現在の豊国神社、
京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含む広大なものでした。
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明治31年(1898)の豊太閣300年記念事業で、ようやく現在の廟が整備され、
この巨大な五輪塔が建立されました。
しかし、山全体を墓と見立てた秀吉の野望からすれば、
小さな塔にすぎないのかもしれません。

下って新日吉神社へ向かいます。
続く

新日吉神宮(いまひえじんぐう)

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東山七条から豊国廟への坂道は「女坂」と呼ばれています。
大正3年11月に京都高等女学校と京都裁縫女学校(現在の京都女子大学)が
移転し、この坂を通う女子学生に因んで名付けられました。
女坂を下ってきた南側に新日吉神宮(いまひえじんぐう)があります。
新日吉神宮は、後白河法皇が保元3年(1158)に、皇子である二条天皇に譲位して、
院政の政庁として創建された法住寺殿の鎮守社として、
永暦元年(1160)に現在地より南に創建されました。
日吉大社の山王権現が勧請され、広大な境内に平清盛の寄進により
社殿が建立されました。
しかし、平安時代の末頃から社殿は転々と遷され、室町時代の応仁・文明の乱で
焼失後は衰微しました。
寛永17年(1640)に後水尾天皇の実弟である妙法院の
尭然法親王(ぎょうねんほっしんのう)により現在地のやや北側、
旧豊国神社の参道上に再建されました。
明治の神仏分離令により、それまで妙法院の門主が別当を兼ねていましたが、
新日吉神社は独立しました。
明治30年(1897)、豊国廟が再興される際に、
参道から移動した現在の社地となりました。
昭和33年(1958)には後白河天皇を増祀し、翌昭和34年(1959)に社名を
現在の新日吉神宮と改めました。
女坂には一の鳥居が建立されています。
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境内へ入った所に江戸時代に勧請された山口稲荷神社があり、
五穀豊穣・商売繁盛の神として信仰を集めています。
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参道には二の鳥居、二層の楼門と建立され、かっての
豊国神社(とよくにじんじゃ)の参道に倣っているようです。
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楼門には随神像が安置され、神域を警護しているようです。
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門をくぐると正面に拝殿があります。
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境内の南側に社務所があります。
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境内の北側にあるのは神輿庫でしょうか?
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神輿庫と思われる建物の前に「午砲の台座」が残されています。
かって、この台座に大砲が据えられ、大砲の音で時刻を知らせたそうです。
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拝殿を廻りこむと正面に石段があります。
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石段を上ると両側に阿吽のご神猿像が祀られています。
かって、夜になると猿が動き回っていたと伝わり、金網で囲われています。
南側の阿形像は烏帽子姿で扇と鈴を持っています。
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北側の吽形像は御幣を持っています。
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本殿前には大黒天と真猿の像が祀られています。
真猿は「魔去る」に通じ、災難除けや開運にご利益があるとされています。
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主祭神は日吉七柱と後白河天皇で、相殿に素盞鳴尊と大年神が祀られています。
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本殿の蟇股にご神猿の彫刻が施されています。
望遠レンズを使って撮影したのですが、間違っていたのかも...?
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本殿の右側に右・愛宕社と秋葉社、左・豊国社(樹下社)が祀られています。
愛宕社と秋葉社は、新日吉神社創建と同時に後白河上皇により創建されました。
樹下社は明暦元年(1640)に勧請され、妙法院で密かに保管されていた
豊国神社のご神体も祀られ、現在は豊国神社と改称されています。
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本殿の裏側に、いかにも老木と見える、ご神木のスダジイの木
大きく枝を茂らせています。
幹回りは4m以上あり、樹齢500~800年と推定され、
京都府の保存樹に指定されています。
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本殿の左側に飛梅天満宮があり、新日吉神社創建と同時に後白河上皇により
創建されました。
菅原道真公と共に遺愛の梅の霊が祀られています。

妙法院へ向かいます。
続く

妙法院

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妙法院は東山七条の東北角にあり、山号を南叡山と号する天台宗の寺院で、
青蓮院、三千院とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院です。
延暦年間(782~805)に最澄によって延暦寺三千坊の一つとして
草創されたのが始まりと伝わります。
平安時代の末期、後白河上皇の時代に比叡山から
現在の八坂神社の南西付近に移転しました。
永暦元年(1160)に後白河上皇が創建した新日吉神社(いまひえじんじゃ)の
初代別当に妙法院の昌雲が任ぜられ、以後妙法院門主が別当を兼任しました。
また、長寛2年(1165)に完成した法住寺殿の仏殿である蓮華王院
(れんげおういん=三十三間堂)は、現在は妙法院が所有・管理しています。

東大路通に面して江戸時代に建立された唐門がありますが、
勅使門で通常は閉じられています。
桜町天皇から下賜されたと伝わり、唐門とされていますが四脚門です。
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唐門から東大路通を少し北に進むと大門があり、この門が入口となります。
画像はありませんが、門を入った左側にコンクリート造りの寺務所があり、
神仏霊場・第119番札所となっています。
秋に特別公開されていますが、その期間は終了し
建物の外から参拝することになりました。
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門を入った右前方に庫裏があり、国宝に指定されています。
文禄4年(1595)、豊臣秀吉は方広寺大仏殿の落慶法要と先祖を供養するため、
天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗の僧を千人集め、
千僧供養会を行いました。
庫裏は千人の僧に食事を供する厨房として建立され、桁行21.7m、梁間23.69m、
棟高17.89m、庫裏としては最大級の建物になります。
当時の方広寺境内は、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の
敷地をも含む広大なもので、もちろん妙法院もその中に含まれ、
大仏経堂とされました。
千僧供養会は豊臣家滅亡まで、毎月行われたと伝わります。
豊臣家滅亡後の元和元年(1615)からは妙法院門主が方広寺住職を兼務するように
なりましたが、近代になって方広寺は独立しました。
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庫裏の南側に大玄関があります。
京都御所に建立された東福門院の旧殿を、元和6年(1620)に移築されたと伝え、
三室二十面の襖には狩野派の「松之図」が描かれています。
建物と襖絵は国の重要文化財に指定されています。
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玄関前には「明治天皇妙法院行在所」の石碑が建立されています。
明治天皇は二度にわたり駐輦(ちゅうれん)があり、平成22年(2010)3月には
天皇・皇后両陛下の行幸啓(ぎょうこうけい)がありました。
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大玄関から南へと進んだ所に地蔵堂があり、多くの地蔵の石仏が祀られています。
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地蔵像から東に進んだ所に七卿碑(しちきょうひ)が建立されています。
幕末の文久3年(1863)の八月十八日の政変では、会津藩・薩摩藩を中心とした
公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放しました。
三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人らは、夕刻に妙法院の旧宸殿に集結し、
長州藩士2,600名に守られ合議の末、19日の早朝、雨の中長州へと都落ちしました。
当時の妙法院門主は有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)で、大正元年(1912)9月に建立されたこの碑は親王の篆額(てんがく)によるものです。
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この碑の向かいに宸殿があります。
七卿が合議した旧宸殿は明治5年(1872)に京都療病院
(現在の府立医科大学附属病院)に提供され、現在の宸殿は
明治31年(1898)に建立されました。
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本尊である阿弥陀如来像が安置され、中世からの歴代天皇・皇后の位牌が
祀られています。
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宸殿の向かいに本堂でもある普賢堂があります。
江戸時代の寛政年代(1789~1801)の建立とされ、堂内中央には本尊の普賢菩薩、
後壇には元三大師像、五大明王像が安置されています。
普賢菩薩騎象像は平安時代末期の作とされ、国の重要文化財に指定されています。
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白龍弁財天

蓮華王院へ向かいます。
続く

蓮華王院

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東山七条から七条通を西へと進み、国立博物館前の信号を南へ入った所に
蓮華王院(れんげおういん=三十三間堂)の入口があり、
拝観料600円を納めます。
境内の庭園には「法住寺殿跡」の石碑が建立されています。
保元3年(1158)、後白河法皇は皇子である二条天皇に譲位して、
院政の政庁として法住寺殿を造営します。
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長寛2年(1165)に法住寺殿の仏殿として完成したのが蓮華王院で、
平清盛に資材の協力を命じ、五重塔や法塔、宝蔵などが建てられた
本格的な寺院でした。
千体観音像が安置され、当初は千体観音堂と呼ばれていました。

その創建には伝承が残されています。
『後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、
熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。
そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊と
いう僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。
しかし、その蓮華坊の髑髏(どくろ)が岩田川の底に沈んでいて、
その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と
告げた。上皇が岩田川(現在の富田川=とんだがわ)を調べさせると
お告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、
柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。
「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。』
この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、
「頭痛山平癒寺」と俗称されました。

寿永2年(1183)、木曽義仲の夜襲により法住寺殿は焼失しますが、
蓮華王院は焼失を免れました。
しかし、建長元年(1249)の建長の大火で法華堂以外は焼失しました。
二十八部衆の全てと千体仏の内、124体がかろうじて持ち出されました。
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鎌倉時代の文永3年(1266)に現在の本堂(三十三間堂)が再建され、
千体仏の再造もなされました。
本堂の桁行35間、梁間5間とし、実長は桁行が118.2m、梁間が16.4mであります。
堂内の桁行が33間であることから「三十三間堂」と称されています。
洛中で鎌倉時代の建造物が残されているのは、蓮華王院と大報恩寺
(千本釈迦堂)の本堂のみです。
安土・桃山時代の文禄4年(1595)、蓮華王院は豊臣秀吉が創建した方広寺に
山内寺院の千手堂として取り込まれました。
慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉の没後、蓮華王院と方広寺は
妙法院の管理下に置かれました。
慶安2~4年(1649~1651)頃、正面に7間の向拝が増築されましたが、
後白河上皇による創建当初から現状のような形式の向拝が
取り付いていたとみられています。
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堂内の撮影は禁止されています。
本尊である丈六の十一面千手千眼観世音菩薩坐像(像高334.8cm)は、
八角七重の蓮華座に結跏趺坐し、光背を含むと6mの高さにもなり、
国宝に指定されています。
建長6年(1254)、運慶の長男である湛慶82歳の時の造像で、
鎌倉期の名作と評価されています。
洛陽三十三所観音霊場・第17番の札所本尊でもあり、本尊の前に納経所があります。
本尊の周囲には二十八部衆のうち、四天王像が配置されています。
本尊の左右、各桁行15間分は10段の階段状の長大な仏壇とし、
千体の千手観音立像が安置され、番号が付けられています。
堂内南端の最上段に1号像が安置されているのは、戦前までの拝観順路が
南側から入堂し、北側へ抜けていたためです。
現在、5体は京都、奈良、東京の各博物館に出張されています。
建長元年(1249)の火災後、奈良・慶派、京都・円派及び院派の主要仏師が
約16年かけて876体を完成させ、室町期(35号像)に1体追加されました。
本尊の裏側にも1体の千手観音立像が安置され、本尊と各博物館に
寄託中のものを含めると1002体が安置されます。
本尊を除く1001体は、現在は重要文化財ですが、
本年(2018年)度に国宝に指定される見込みです。
160号、280号、300号、440号、450号、570号、670号、800号、890号
などは平安期の作で、10号、20号、30号、40号、520号、530号、540号、
550号、560号は湛慶の作です。
最前列の左右端には、日本最古とされる風神・雷神像が安置され、
国宝にしていされています。
風神像の像高は111.5cm、雷神像は100.0cmで、俵屋宗達の
風神雷神図屏風』のモデルになったと伝わります。
最前列には二十八部衆が並び、国宝に指定されています。
火災から救出されたと伝えられていますが、
作風から鎌倉復興期の作と見られています。
二十八部衆は、千手観音の眷属であり、
千手観音を信仰する者を守護するとされています。
しかし、金大王(こんだいおう)や満仙王(まんせんおう)のように由来の
はっきりしないものもあり、各像の名称は必ずしも経典と一致していません。
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境内の東側は北門から中央に東大寺門を挟んで、総延長28mの回廊が続いています。
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回廊沿いに写経奉納塔が建立されています。
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元久元年(1204)、第83代・土御門天皇は後白河法皇の13回忌の法要を行った際、
法然上人は六時礼讃(ろくじらいさん)を修しました。
法然塔は、その遺構として残されています。
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手水舎には、地蔵像の石仏が祀られています。
寺伝では、三十三間堂が完成した翌年の永万元年(1166)に、一人の僧が
夢のお告げにより霊泉を発見したと伝わります。
古今著聞集』には、「いつも冷たくて美味しく、お腹を痛めることのない
極楽井で、汲んでも尽きず、汲まないときも余ることのない不思議な泉」と
記されています。
静まり返った夜には、その湧き出す音が「すすり泣き」のように聞こえたことから「夜泣泉」と呼ばれるようになりました。
※駒札には「泉」の字は「酉」偏に「泉」で表記されています。
いつの頃からか、地蔵尊が置かれ、その前掛けを持ち帰って子供の枕に敷けば
夜泣きが治るとされ、現在も信仰されているそうです。
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境内の南東方向に鐘楼があります。
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境内の南端の築地塀は「太閤塀」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
豊臣秀吉により方広寺大仏殿が創建された時、蓮華王院も方広寺の境内に
含まれたためその工事に伴って築造されました。
かつては西側にもめぐらされていましたが、現在は高さ5.3m、長さ92mの塀が
南側だけ残されています。
軒丸瓦には豊臣家の桐紋が見られ、修理の際に「天正十六年‥‥大ふつ殿瓦」と
刻んだ瓦が発見されました。
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境内の南西方向には久勢稲荷大明神が祀られています。
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江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下で矢を射る「通し矢」が
行われるようになりました。
弓術家は幅2.34mある広縁の南端に坐し、約120m先の大弊束を的として
矢を放ちました。
鎌倉時代の正月に行われた「射礼(じゃらい)」が起源とされ、
室町時代末期から始まったとの説もあります。
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堂を矢から守るために外壁、垂木、柱に鉄板が張られ、現在も柱や垂木などに
鉄板が残されており、多数の傷が見られます。
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また、垂木には刺さったままの矢が残されています。

法住寺へ向かいます。
続く

法住寺~南大門

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蓮華王院前の参道を南へ進んだ東側に法住寺(ほうじゅうじ)があります。
法住寺は平安時代の永祚(えいそ)元年(989)に藤原為光によって創建されました。
寛和元年(985)の6月に夫人を、その翌月には娘の忯子(しし)を相次いで亡くし、その菩提を弔うために建立したと伝わります。
忯子は永観2年(984)に花山天皇の女御として入内、懐妊したのですが、
出産することなく亡くなりました。
寵愛した忯子の死に落胆していた天皇に、藤原兼家らは謀略を企て、
天皇は退位に追い込まれ、寛和2年(986)に19歳で宮中を出て、
剃髪し仏門に入りました。

創建当初の法住寺は、南は八条通りから北は七条通りより更に北方に延び、
東は法輪寺(今熊野観音)の旧域を除いて東山の山裾に及び、
西は現在の大和大路にまで及んでいました。
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応保元年(1161)、後白河上皇は衰退していた法住寺を中心に御所「法住寺殿」を
造営し、広大な敷地には南殿、西殿、北殿の三御所が造られました。
南側にある竜宮門の前には「法住寺殿跡」の石碑が建立されています。

北殿は、現在の国立博物館の地にあり、下御所・上御所及び新御所が
造営されました。
蓮華王院の南側に南殿が造営され、南殿の南側から
新熊野神社(いまくまのじんじゃ)の裏側にかけて池がありました。
永暦元年(1160)には、日吉大社と熊野本宮大社の神々が勧請され、
新日吉神社(いまひえじんじゃ)と新熊野神社が鎮守社として
境内に創建されています。
長寛2年(1164)に南殿の北側に蓮華王院が建立され、仁安2年(1167)には
法住寺殿内の上皇御所の新造も成り、更には新御堂・不動堂も竣工して
寺観はますます盛大を極めました。
安元2年(1176)、後白河上皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなると、
その御陵として法華堂が建てられました。
しかし、木曽義仲により南殿は焼き払われ(法住寺合戦)、上皇は北の門から
新日吉神社へ向け輿に乗って逃亡し、その後六条西洞院に在る六条殿に
長講堂を再建し移りました。
建久3年(1192)に上皇が崩御されると法住寺殿の跡地に法華堂が建立され、
葬られました。
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現在、法住寺の本尊とされている不動明王は、焼き討ちの際、
法皇が危うく命を落とされるところを、当時の天台座主の明雲大僧正
敵の矢に倒れ、法皇は難を逃れることができました。
この時法皇は、「お不動さまが明雲となって我が身代りとなってくれた」と、
涙をこぼされたと伝わり、「身代わり不動尊」と呼ばれています。
この不動明王像は平安時代に第三代・天台座主の慈覚大師円仁作と伝わります。
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本堂(不動堂)前には護摩壇でしょうか? 現在は白砂が敷かれています。
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その後法住寺は院家の待遇を受けて、法住寺陵と妙法院歴代問責法親王の
御墓を守る寺として存続してきました。
江戸時代の元禄年間(1688~1704)、山科に閑居していた赤穂浪士の大石内蔵助は、不動明王に大成成就を祈願しました。
また法住寺で宮方を通じて公儀の情勢をうかがい、同志との連絡・会合の
場所にもされました。
法住寺には永く義士の遺徳を伝える為に四十七士の木像が安置されています。

また、法住寺には親鸞聖人作の阿弥陀如来像が安置されています。
治承5年(1181)、9歳の親鸞は青蓮院に入り、後の天台座主・慈円
(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴(はんねん)」と称します。
建久2年(1191)、18歳になった範宴は、自ら阿弥陀如来立像を刻み、
これを本尊とする無量寿院を創建しました。
元応2年(1320)、了源(りょうげん)は、山科に建てた草庵を渋谷(しぶたに
=蓮華王院の北側)に移し仏光寺を創建しました。(但し、諸説あります)
阿弥陀如来立像は、女人禁足の地であった比叡山から一般信者の幅広い
参拝を願い、仏光寺へと遷されました。
仏光寺は天正14年(1586)に豊臣秀吉によって現在地に移転しましたが、
室町時代から住職は妙法院門跡の許で得度する慣習がありました。
その関係からか?明治の初めからこの像が法住寺に
安置されるようになりました。

また、親鸞聖人自作とされる「蕎麦喰い木像」が安置されています。
範宴と呼ばれていた28歳の頃、聖徳太子建立の六角堂へ百日参籠(さんろう)を
決意します。
毎夜山を下り、明け方になって戻るの繰り返しは、いつしか「範宴の朝帰り」と
噂されます。
和尚はその真相を確かめるべく、ある夜抜き打ちで皆を集め一人一人の名を
呼びましたが、範宴も返事したのに安心し、一同にそばが振舞われました。
翌朝、範宴が自作した自らの坐像の口にそばがついているのが発見され、
「蕎麦喰い木像」と呼ばれるようになりました。
寺伝では天保5年(1834)に渋谷に遷され、
明治の初めに法住寺に安置されたと伝えています。
但し、比叡山・無道寺谷の大乗院にも「蕎麦喰い木像」が安置されています。

明治維新以降、後白河天皇陵は宮内省の所管に移ったため、
法住寺は「大興徳院」という寺名で陵墓とは境域を別とするようになりましたが、
昭和30年(1955)に法住寺に復称されています。
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法住寺の裏側(東側)に後白河天皇法住寺陵があります。
参道の脇に「法住寺」と彫られた手水鉢が置かれています。
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参道の突き当りにも手水鉢らしきものがありますが、
屋根がされていて確認はできません。
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参道の東側に東山連峰を背にするように陵があります。
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法住寺から南へ進んだ所に蓮華王院の南大門があり、
国の重要文化財に指定されています。
豊臣秀吉の方広寺八脚門の遺構で、蟇股には花鳥禽獣があしらわれています。

豊国神社へ向かいます。
続く

豊国神社~方広寺

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蓮華王院から少し西へ進み、国立博物館沿いに北進した所に
豊国神社(とよくにじんじゃ)があります。
豊国神社は豊臣秀吉が祀られ、秀吉没後の翌年の慶長4年(1599)4月13日、
遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、
その麓に高野山の木食応其(もくじきおうご)によって廟所が
建立されたのが始まりです。
その後、豊臣家が滅亡し、徳川家康の意向によって「豊臣大明神」の神号は
剥奪され、神社自体も廃絶されました。
旧参道内には新日吉神社(いまひえじんじゃ)が移設され、旧社殿に
参拝するための通路も閉鎖され、北政所の嘆願で残された
社殿も朽ちてしまいました。
慶応4年(1868)、明治天皇が大阪へ行幸した時、秀吉の偉勲を賞賛し、
豊国神社の再興を布告する沙汰書を下し、新日吉神社の神楽殿を仮社殿として
再興されました。
明治8年(1875)、方広寺の境内を割いて社地が与えられ、仮社殿が建立され、
明治13年(1880)に方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が竣工し、
翌年遷座が行われました。
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大和大路通に面して巨大な石組が施され、国の史跡に指定されています。
旧大仏殿の石塁で「太閤石垣」とも呼ばれ、南北約260m、東西約210mの
伽藍を囲い、石塁上には回廊が建立されていました。
かってこの地には仏光寺がありましたが、秀吉の別荘があった
現在地へ移転させられました。
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石垣沿いに北へと進んだ所に鳥居が建立されています。
かっては仁王門があり、西への通りは大仏殿の正面に当たることから
「正面通」と呼ばれています。
大仏殿は、当初は東福寺南方にある遣迎院(けんこういん)付近に造立する予定で、遣迎院は移転を余儀なくされたのですが、途中で中止され、
遣迎院は南北に分断されることになりました。
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鳥居をくぐった左側に手水舎があります。
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右側に社務所があります。
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参道を進んだ先に唐門があり、国宝に指定されています。
元は伏見城で建立されたと伝わり、その後二条城に移築され、
寛永4年(1627)に江戸幕府から南禅寺塔頭の金地院が譲り受け、
その後廻り回って豊国神社に移築されました。
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唐門には「豊国大明神」の扁額が掲げられています。
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唐門の先は立ち入りはできず、唐門の先に拝殿があり、
その奥に拝所がありますが、本殿を見ることはできません。
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唐門から北側に進んだ所に槇本稲荷神社があります。
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慶応4年(1868)に左京区の熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)から
勧請されました。
熊野若王子神社は永暦元年(1160)に後白河法皇が禅林寺(永観堂)の
守護神として熊野権現を勧請され、創建されました。
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槇本稲荷神社から北へ進むと方広寺の鐘楼があります。
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梵鐘は慶長19年(1614)に豊臣秀頼により再鋳され、高さ4.2m、外形2.8m、
厚さ0.27m、重さ82.7tあり、国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は三条釜座で延べ3100人が従事して製作され、銅や錫と金も1t含まれ、
ほぼ同じ大きさの知恩院の鐘より10t重くなっています。
梵鐘の銘文「「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の「家」と「康」を
分断し、豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、
大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされています。
梵鐘は家康により破壊されることはありませんでしたが、長らく現在の
国立博物館付近に雨ざらしで放置されていましたが、明治になって
現在地に鐘楼が再建され、梵鐘が移されました。
鐘楼の天井には天女図が描かれています。
東大寺、知恩院とともに日本三大名鐘の一つに数えられています。
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現在の本堂は明治11年(1878)に再建されました。
豊臣秀吉は天正16年(1588)に高野山の木食応其(もくじきおうご)を
任に当たらせ、大仏殿の造営を開始しました。
小田原征伐を挟んで天正19年(1591)5月に立柱式が行われ、
文禄2年(1593)9月に上棟、文禄4年(1595)にようやく完成しました。
完成した大仏殿は、高さ約49m、南北約88m、東西約54mという
壮大なものでした。
東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の、木造金漆塗りの
大仏坐像が安置されましたが、翌年の文禄5年(1596)に発生した
慶長伏見地震により倒壊しました。
大仏殿は倒壊を免れ、慶長2年(1597)に善光寺如来(阿弥陀三尊)を安置し、
大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれるようになりました。
しかし、翌慶長3年(1598)、秀吉は病に倒れ、善光寺如来の祟りとされ、
像は善光寺へ戻されました。
同年秀吉は息を引き取り、豊臣秀頼が父の遺志を継ぎ慶長4年(1599)に
大仏の復興を開始します。
秀吉が当初計画していた銅造での復興を目指したのですが、慶長7年(1602)に
流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、大仏殿とともに焼失しました。

慶長13年(1608)より再建が開始され、慶長15年(1610)6月に地鎮祭、
同年8月に立柱式が行われ、慶長17年(1612)には大仏に金箔を
押すところまで完成しました。
慶長19年(1614)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を
待つばかりとなったのですが、家康からは中止の求めがありました。
「方広寺鐘銘事件」は徳川・豊臣の争いに発展し、
「大坂の陣」で豊臣家は滅亡しました。
残された大仏は寛文2年(1662)の地震で大破し、
木造で造り直されることになりました。
寛政10年(1798)、大仏殿に雷が落ち、大仏もろとも焼失し、
本堂まで延焼しました。

天保年間(1831~1845)に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より
上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進したのですが、
昭和48年(1973)3月28日の深夜の火災により焼失しました。
現在の本堂には本尊の盧舎那仏坐像が安置されています。
2回目に造られた大仏を模し、1/10サイズに縮小して木造で金箔が張られています。
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本堂の東側は大国堂になっています。
伝教大師最澄が、桓武天皇の勅命により延暦寺を建立するため比叡登山中、
大黒天を感得し、自ら像を刻んだとされている像が安置されています。
さらにその像を秀吉が気に入り、1/10サイズで造らせ手元に置いていたと
伝わる、その像も安置されています。
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豊国神社沿いの細い通路を東へ進んだ所に「大仏殿跡緑地」があります。
明治維新後、上地令により方広寺境内の多くが没収され、豊国神社の背後のみ
「大仏殿跡緑地」として宅地化されずに残されています。
遺構が板石によって示されていますが、今は巨大だった大仏殿を
想像することさえできません。
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緑地から豊国神社の本殿を背後から見ることができます。
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本殿の南側には大正14年(1925)に建立され、北政所が祀られている摂社の
「貞照神社(さだてるじんじゃ)」が見えます。
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豊国神社の鳥居まで戻り、正面通を西へと進んだ所に「耳塚(鼻塚)」があり、
方広寺石塁とともに石塔として史跡に指定されています。
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豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)のうち、
慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ
持ち帰ったものを葬った塚です。
慶長2年(1597)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われました。
寛永2年(1643)の古絵図には、既に石塔が描かれ、
塚の築造後間もなく建てられたとみられています。
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更に西へと進むと鴨川に正面橋が架けられています。
秀吉が大仏殿を創建した際に五條大橋を六条へと移しましたが、
当時はまだ正面通は鴨川の西に無く、架橋されませんでした。
江戸時代の天保2年(1831)頃に鴨川以西の正面通が開かれ、
これ以降に橋が開通したとみられています。
昭和10年(1935)の鴨川大洪水で橋が流され、現在の橋は昭和27年(1952)に
架けられましたが、正面通にはやや斜めに架けられています。

次回は冬の青春18きっぷを使用して日吉大社から
琵琶湖を周遊して長浜へ向かいます。

日吉大社-その1

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冬の青春18きっぷ・第2回目は琵琶湖周遊に決めました。
京都駅7:00発の近江今津行で比叡山坂本まで乗車、
7:17に朝日があたる駅に到着しました。
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駅から歩いていくと坂本3丁目の所に一の鳥居が建っています。
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6丁目の交差点の北東角に日吉御田神社(ひよしみたじんじゃ)があります。
巨大なクスの大樹が目に止まり、撮影したのですが、
手前にある井戸が信仰の対象とされていたそうです。
原始的な農耕祭祀が行われたのがこの社の起源と伝え、
水葉女神(みずはのめのかみ)を祭神としています。
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京阪坂本駅と通り過ぎると二の鳥居があります。
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背後の八王子山(標高381m)の山頂付近に摂社の牛尾神社と三宮神社が見えます。
古墳時代、八王子山(牛尾山)は神奈備とされ、巨大な磐座
(金大巌=こがねのおおいわ)が信仰されてきました。
麓の東本宮付近の山中には「日吉社東本宮古墳群」があります。
山の地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)が祀られ、
第10代・崇神天皇7年(BC91)に山頂から麓の東本宮に遷されたと伝わります。
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7:38に日吉大社に到着しました。
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鳥居の付近には六角地蔵堂があり、伝教大師最澄作と伝わる
早尾地蔵尊(子育て地蔵)が祀られています。
最澄は六体の地蔵を刻んだとされ、その後円仁が人々に徳を授けるために
坂本・下阪本・唐崎・雄琴の各地区六カ所に分けたと伝えられています。
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この石地蔵は最澄が童子養育に心を注がれながら刻まれたので
「子育て地蔵」とも呼ばれています。
また、この地蔵像には伝承が残されています。
戦国時代の天台宗の僧で西教寺を再興した真盛(しんせい)に生まれ変わり、
入寂の後に再び地蔵尊に復されたと伝えられています。
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六角地蔵堂の向かいに求法寺(ぐほうじ)走井堂(はしりいどう)があり、
滋賀県の文化財に指定されています。
元は第4世・天台座主・安慧(あんえ)の里坊として創建されました。
第18世・天台座主の慈恵大師(じえだいし)良源大僧正(元三大師)が
12歳の時、延暦寺への入山修行の決意を固めたことから求法寺と称されました。
また、古来より波止土濃(はしどの=橋殿)又は走井の地名に因んで
本堂を走井堂と称されています。
波止土濃とは「波止まりて土こまやかなり」と読み、大和三輪の
大神神社(おおみわじんじゃ)から大己貴神(おおなむちのかみ)が
勧請された際、大己貴神は湖上の五色の波を尋ね、
大宮川を遡り波が途絶えたこの地に辿り着いたと伝わります。
大宮川には屋形の橋(橋殿)が架けられていました。
本尊は元三大師(がんざんだいし)像で、重要文化財に指定され、
秘仏とされています。
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東本宮への参道には「二宮橋(にのみやばし)」と呼ばれる石橋が
架けられていますが渡ることはできません。
「日吉三橋」として国の重要文化財に指定されています。
天正年間(1573~92)に豊臣秀吉が寄進して木造の反橋として造られましたが、
寛文9年(1669)に現在の花崗岩製の石橋に架け替えられました。
幅5m、長さ13.9mあり、木造橋の造り方がそのまま踏襲された石橋です。
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参道を進むと、しゃがみこんだ猿の姿に似ていることから
「猿の霊石」と呼ばれている石が祀られています。
比叡山には昔から猿が多く生息していたことから、縁の深い動物とされ、
「魔がさる」から「まさる」と呼ばれるようになり、魔除けの象徴となりました。
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参道には末社の巌滝社があり、平安時代の後期、延暦寺第28世・教円座主の頃に
鎮座しました。
市杵島姫命・湍津島姫命(たぎつひめのみこと)を祭神とし、
この社と竹生島が繋がっていると伝えられています。
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東本宮の楼門は安土・桃山時代の天正~文禄2年(1573~93)頃に
再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
日吉大社は元亀2年(1571)の元亀の法難で織田信長により、
延暦寺諸共焼き討ちされ、現存する建物は全て安土・桃山時代以降のものです。
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門をくぐった正面の一段高いところに文禄5年(1596)頃に建立された
東本宮拝殿があり、国の重要文化財に指定されています。
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門をくぐった左側に摂社の樹下神社の本殿があり、
国の重要文化財に指定されています。
山頂の三宮神社の里宮で、文禄4年(1595)に再建されました。
祭神は鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)で、東本宮の祭神である
大山咋神とは夫婦であり、日吉大社の山王祭は、大山咋神と鴨玉依姫神の
結婚を再現しているともされています。
社殿奥の下には霊泉が湧き出ています。
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樹下神社の本殿前には文禄5年(1596)に再建された拝殿があり、
国の重要文化財に指定されています。
平安時代の寿永3年(1184)、後白河法皇が行幸の際、拝殿で「法華十講」を
講じたと伝わります。
後白河法皇は熊野大社とともに日吉大社の信仰も篤く、度々の行幸と
法住寺殿に新日吉神社(いまひえじんじゃ)を創建しています。
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樹下神社拝殿の左奥に内御子社があり、猿田彦命が祀られています。
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東本宮拝殿の右横に神饌所があります。
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東本宮は文禄4年(1595)に再建されたもので、国宝に指定されています。
日吉大社のみに現存している「日吉造(聖帝造=しょうたいづくり)」で
建てられています。
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牛尾神社の里宮であり、大山咋神(おおやまくいのかみ)の
和魂(にぎたま)が祀られています。
19歳で比叡山で山林修行を行った最澄は、3年後の延暦7年(788)に
薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立し、
当初は比叡山寺とも呼ばれていました。
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東本宮の背面
最澄は日吉社を比叡山寺の護法神とし、日吉大神を「山王権現」と称しました。
延暦13年(794)、平安京に遷都されると、比叡山寺は鬼門(北東)を護る
国家鎮護の道場となり、日吉社は鬼門除け・災難除けの社として
崇敬されるようになりました。
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東本宮の左手前には末社の樹下若宮社があります。
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樹下若宮社の右側に神輿庫があります。
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神輿庫の右側に「亀井霊水」の井戸があります。
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『日吉山王権現知新記』によると昔、ここには池があり、伝教大師最澄が
日吉大社に参拝の折、この池中より霊亀が現れたと伝わり、占いにより
ここを閼伽井(あかい)として「亀井」と名付けたとの伝承が残されています。
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東本宮の左側、「亀井霊水」の右側に摂社の新物忌神社
(しんものいみじんじゃ)があり、天知迦流水姫(あまちかるみずひめ)が
祀られています。
大物忌神社(おおものいみじんじゃ)の祭神・大年神とは夫婦の神になります。
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新物忌神社の北側には清らかな水の流れがあり、日吉大社の神紋が彫られた
石が置かれています。

画像はありませんが、東本宮の左背後に摂社の大物忌神社があります。
東本宮の祭神・大山咋神の父神である大年神が祀られています。
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大物忌神社の右側に摂社の早尾神社があります。
延暦寺の根本中堂建立時に須佐之男尊(すさのおのみこと)が現れ、
後を追って行くとこの地で消えたとの伝承があり、
社殿が建てられ祀られるようになりました。
日吉大社と延暦寺の門番の神でもあります。
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東本宮の右背後に稲荷社があり大年神の弟神である
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られています。
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東本宮の右横に末社の二宮竈殿神社があり、奥津彦神・奥津姫神が祀られています。
奥津彦神・奥津姫神は竈(かまど)の神とされ、大年神の子であり、
大山咋神とは兄弟神となります。

八王子山へ登ります。
続く

日吉大社-その2

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東本宮の西側に八王子山への登山口があります。
画像はありませんが石段の両側には牛尾神社と三宮神社の遥拝所があります。
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約30分の登山で手前に三宮神社、奥に牛尾神社が見えてきます。
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両社の奥に金大巌(こがねのおおいわ)が祀られ、「御鎮座古けれど社なし」と
の伝承が残されているように、古墳時代から八王子山を神奈備とし、
金大巌を磐座として信仰されてきました。
和銅5年(712)に編纂された『古事記』には「大山咋神、亦の名を山末之大主神。
此の神は近淡海国(ちかつあはうみのくに)の日枝の山に坐し」と記されています。
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金大巌前からは眼下に琵琶湖が拡がり、遥か対岸の左側に三上山が望めます。
日が昇るにつれ、湖面が銀色に輝いています。
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三宮神社の本殿及び拝殿は慶長4年(1599)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
崖上に建てられ、拝殿が後部にある本殿正面のひさしを取り込むような
形になっていて、拝殿入口には軒唐破風が付けられています。
三宮神社には鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)の荒魂が祀られています。

牛尾神社も同じような造りになっています。
牛尾神社の本殿及び拝殿は文禄4年(1595)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
大山咋神(おおやまくいのかみ)の荒魂が祀られています。
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山から下り、西へと進むと神輿収蔵庫がありますが、
現在は神輿に悪影響があるとのことで、公開されていませんでした。
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日吉山王金銅装神輿は東本宮の神輿で、桃山~江戸時代に造られ、
国の重要文化財に指定されています。
その他に西本宮神輿、宇佐宮神輿、白山姫神輿、樹下神輿、牛尾神輿、
三宮神輿が収蔵されています。
平安時代、比叡山の僧兵は「山法師」と呼ばれ、延暦寺の面目がつぶされたり、
何か不利なことが起こると日吉神社の神輿を担ぎ出し、
京へと繰り出し強訴しました。
これは「神輿振り」と呼ばれ、白河上皇は「三不如意」と称し、
賀茂川の水・双六の賽・山法師を挙げています。
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更に西へと進むと摂社の白山宮(しらやまぐう)があります。
拝殿は慶長3年(1598)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
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白山比神社(しらやまひめじんじゃ)も慶長3年(1598)に再建され、
国の重要文化財に指定されています。
11世紀後半、慶命により勧請されたとも、天安2年((858)に相応により
勧請されたとも、長暦3年(1039)までに宮龍法師広秀の神託による
創始との説があります。
祭祀の際にも開扉されず、「開かずの御殿」とも呼ばれています。
旧称は「客人(まろうど)」で客人神として「日吉三聖」に次ぐ
格式を持っています。
菊理媛神(くくりひめのかみ)が祀られ、伊奘諾尊と伊弉冉尊を
仲直りさせたとして、縁結びの神とされています。

本殿の左側に「雪丈岩」と呼ばれている石が祀られています。
平安時代末期頃、広長という人物が私的に白山の神を祀っていました。
第27世天台座主・慶命がそれを見つけ、取り壊すかどうか話し合おうとした夜に、
夏にもかかわらずこの石の高さまで雪が降り積もり、
その霊験により白山宮創建につながったと伝わります。
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白山宮から滝の脇にある石段を上った所に摂社の宇佐宮があります。
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宇佐宮の拝殿は慶長3年(1598)に再建され、国の重要文化財に指定されています。
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本殿も慶長3年(1598)に日吉造で再建され、国の重要文化財に指定されています。
最澄が遣唐使で唐に渡る際、宇佐八幡宮で航海の安全祈願を行ったとされ、
延暦寺の第5代座主・智証大師円珍が貞観期(859~77)に勧請したと伝わります。
西本宮・東本宮・宇佐宮は「日吉三聖」と呼ばれ、
宇佐宮は本宮に次ぐ高い格式を持っています。
本殿の両脇には宇佐宮の神紋である橘の木が植えられています。
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宇佐宮境内には竈殿社と気比社がありますが、気比社の画像はありません。
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宇佐宮から参道を進むと校倉がありますが、詳細は不明です。
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校倉の先で西本宮への参道に合流し、西本宮へと向かいます。
西本宮の楼門前に祇園石(ぎおんいわ)があります。
八坂神社は神仏分離令までは天台宗比叡山感神院祇園社で、祇園精舎の
守護神とされる「牛頭天王(ごずてんのう)」が祀られていました。
「祇園石」は祇園の神が降り立つ霊石と記されています。
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また、岩の窪みに溜まる水は目に良く効くとも記されていますが、
窪みには水はありませんでした。
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「大威徳石(だいいとくいわ)」は大威徳明王(だいいとくみょうおう)が
宿る霊石とされています。
大威徳明王は西方の守護者とされ、阿弥陀如来と文殊菩薩が人々を
教え導くために敢えて恐ろしげな姿をとったものとされています。
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石で造られた手水舎は大宮川から水が引かれています。
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日吉大社境内の中に延暦寺の飛地があり、鎌倉時代のものとされる
石造りの宝塔が残されています。
明治の神仏分離令により、日吉大社では全国に先駆け、
仏教施設の破却が行われましたが、唯一残されたものです。

楼門へ戻ります。
続く

日吉大社-その3

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西本宮の楼門は天正14年(1586)頃に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
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東本宮の楼門より規模が大きく、着色された蟇股も目に留まります。
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四隅の軒下は「神猿(まさる)」が棟を支えています。
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門をくぐると正面に天正14年(1586)に再建された拝殿があり、
国の重要文化財に指定されています。
日吉大社の同じ形の拝殿で最も手の込んだ構造となっているそうです。
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本殿は日吉造(ひえづくり)で天正14年(1586)に再建された後、
慶長2年(1597)に改造されたもので国宝に指定されています。
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日吉造は正面から見ると入母屋造ですが、背面はばっさりと切り落とされています。
内部には内陣とその全面及び両側に外陣が設けられ、床下には神仏分離令まで
本地仏を安置していた「下殿」と呼ばれる部屋が設けられています。

祭神は大和三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)から勧請された
大己貴神(おおなむちのかみ)です。
天智天皇6年(667)、飛鳥から近江大津京へと都を遷した天智天皇は、
翌年に大津京鎮護のために大己貴神を勧請したとされています。
大己貴神が勧請された際、坂本の人々が大榊を奉納したのが
「山王祭」の起源とされています。

延暦寺を開創した最澄は、唐の天台山国清寺に倣い、「山王」と称し、
地主神として大己貴神と大山咋神を祀りました。

延暦寺第2世座主・円澄(えんちょう)は天長2年(825)に延暦寺・西塔
開きました。
東塔での地主神に対し、八王子山の大山咋神が勧請され、小比叡峯にある
磐座に神が宿るして小比叡(おびえ)神と称しました。
対して、東塔での神は大比叡(おおびえ)神と呼ばれるようになります。

第5世座主・円珍は、「山王明神」が夢で円珍に入唐を勧めたとされ、
最澄が創建し、千手堂または千手院と呼ばれていた円珍の坊に
「山王明神」を祀り、山王院と呼ばれるようになりました。
大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・比叡山王(山王明神)の
「両所三聖」が成立しました。

第3世座主・円仁によって開かれた横川(よかわ)は、
第18世座主・良源により東塔・西塔に匹敵する地位を持つ
独立地区として認められました。
独立した横川は、地主神として「聖真子(しょうしんし)」を
信仰するようになり、大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・聖真子(横川)の
「地主三聖」が成立します。
「両所三聖」を信仰していた僧たちは、「地主三聖」に反発することとなり、
良源は「地主三聖」の信仰に反対する僧たちを
僧籍から除名するなどの処分を下しました。
これは後に山門・寺門分裂への流れを生み出していくこととなります。
良源により「地主三聖」の信仰が定着するにつれ、「地主三聖」は徐々に
「山王三聖」と呼ばれるようになります。
やがて、八王子(牛尾神社)、客人(白山比神社)、十禅師(樹下神社)、
三宮(三宮神社)を加えて「山王七社」が成立しました。
そして本地垂迹説によってさらに数を増し中七社、下七社を加えて
「山王二十一社」が成立しました。

明治の神仏分離令により延暦寺から独立し、「日吉山王大権現」から
「日吉大社」と改称されました。
東本宮と西本宮の祭神を入れ替え、西本宮の大山咋神を主祭神とし、
大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げされ、
明治4年(1871)、官幣大社となりました。
昭和3年(1928)、東本宮・西本宮ともに官幣大社となり、元の形に復されました。
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本殿の両側に狛犬が据えられています。
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本殿の両側に植えられている笹竹は、最澄が唐の天台山から持ち帰ったとされ、
「丸く真っ直ぐに節目正しく生きよ」との教えが込められています。
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御神木の桂の木は、大己貴神が携えてきた杖を挿し立てたものが
成長したと伝わります。

画像はありませんが、愛知県安城市にある不乗森神社(のらずのもりじんじゃ)から
双葉葵が奉納されています。
桂と葵は古来から縁起の良い組み合わせとして尊ばれ、比叡山東麓の日吉山王祭
(以前は旧暦4月2の申の日)は桂の祭とされ、翌日が比叡山西麓の葵祭
(同酉の日)となります。

日吉大社は神仏霊場巡拝の道・第149番(滋賀17番)札所で、
朱印は西本宮の授与所でいただけます。
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西本宮から参道を戻ると神使いとされている
「神猿(まさる)」が飼育されています。
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右横には神馬舎があります。
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神馬舎の向かいには社務所があります。
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社務所から下って行くと日吉大社独特とされる山王鳥居があり、
滋賀県の文化財に指定されています。
明神鳥居の笠木の上の中央に棟柱を立て、木材を合掌形に組み渡し、
その頂上に烏頭(からすがしら)という反りのある木を置いた形をしています。
仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされます。
三角形部分を上に開けると「山」の字になり、両端を上へと持ち上げると
「王」の字になります。
「東に向って伊勢の神宮を始め東日本の神々を西に向かっては西日本の神々を
それぞれ拝することができる。」と記されています。
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鳥居から下って行くと日吉三橋の一つ大宮橋があり、日吉三橋として
国の重要文化財に指定されています。
天正年間(1573~92)に豊臣秀吉が木造の反橋(そりばし)として寄進したと
伝わり、寛文9年(1669)に現在の花崗岩製の石橋に架け替えられました。
幅5m、長さ13.9mあり、木造橋の造り方がそのまま踏襲されたています。
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大宮川沿いに少し下った所に走井橋があり、日吉三橋の一つとして
国の重要文化財に指定されています。
天正年間(1573~92)に豊臣秀吉が木造の反橋(そりばし)として寄進したと
伝わり、寛文9年(1669)に現在の石橋に架け替えられました。
お祓いをするための橋とされ、画像はありませんが橋の傍らに
走井という清めの泉があり、橋の名の由来となっています。
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橋の付近に二本の杉のご神木があり、その一本の枝が橋の方まで伸びています。
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大鳥居から県道47号線を北上した所に大政所があります。
日吉山王祭で、山上から遷された牛尾宮・三ノ宮の神輿と東本宮・
樹下宮の神輿は東本宮に奉安され、翌日に大政所に遷されます。
大政所ではその日の晩に「宵宮落とし神事」が行われます。

県道を北に進み、西教寺へ向かいます。
続く

西教寺-その1

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大政所から県道47号線を北へ向かって20分弱歩いた
西側に西教寺の総門があります。
高さ6.4m、幅5.6mの門で、明智光秀によって築かれた坂本城の城門が
天正年間(1573~93)に移築されたと伝わります。
昭和59年(1984)に修理が施されましたが、形はそのままの姿で復元されています。

元亀2年(1571)9月の比叡山焼き討ち後、織田信長は明智光秀に延暦寺の監視と
琵琶湖の制海権の獲得を目的として、坂本城を築城させました。
宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ
名城と記しています。
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長を急襲し、信長を炎の中に
追い込んだのですが、同年6月13日山崎の戦いで敗れ、坂本城を目指して
逃走中に伏見区の小栗栖周辺で百姓らに襲われ命を落としました。

安土城の城主となっていた明智秀満は、山崎の戦いでの敗戦を知り、
安土城から移ったのですが、羽柴秀吉軍が城を囲む中、秀満自身が天守に
火を放ち光秀の妻子もろとも落城しました。

その後、羽柴秀吉が丹羽長秀に再建を命じ城主となり、浅野長政
城主となった頃に城下町が形成されましたが、天正14年(1586)に
秀吉は浅野長政に大津城の築城を命じ、坂本城は廃城となりました。
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門前には沢庵禅師の碑が建立されています。
沢庵禅師は天正元年12月1日(1573年12月24日)に但馬国出石に生まれました。
父・綱典は但馬国主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣でしたが、
禅師が8歳の時、但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に
攻められて滅亡し、父は浪人となりました。

禅師は天正10年(1582)に10歳で出家し、文禄3年(1594)に大徳寺に入っています。
慶長4年(1599)、石田三成が居城・佐和山城の城内に亡母の供養のために
瑞嶽寺という一寺を建立した際、師である薫甫宗忠(とうほそうちゅう)と
共に佐和山城へ入りました。
しかし、関ヶ原の戦いで佐和山城が陥落すると、薫甫と沢庵は共に城を脱出し、
大徳寺へと逃れました。
三成は六条川原で処刑され、禅師は春屋宗園(しゅんおくそうえん)と共に
遺体を引き取り、宗園の大徳寺塔頭・三玄院に葬りました。

禅師32歳の慶長9年(1604)8月4日に沢庵の法号を得、慶長14年(1609)には
37歳で大徳寺の第154世住持に出世したのですが、名利を求めない沢庵は
3日で大徳寺を去っています。

駒札によると禅師が42歳の慶長19年(1614)5月頃、石山寺、三井寺を参詣後、
船で坂本へ渡り西教寺へ訪れたことが『石山行記』に記されているとのことです。
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塔頭が並ぶ参道を進んだ突き当りに勅使門があります。
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勅使門から左側へ進むと宗祖大師殿があり、西教寺中興の祖とされる
真盛上人が祀られています。
上人は室町時代の嘉吉3年1月28日(1443年2月27日)に伊勢国一志郡仰木
(現在の三重県津市一志町)に生まれ、寛正2年(1461)19歳の時、
延暦寺・西塔の慶秀に師事し、天台宗の教学を学びました。
文明14年(1482)の母の死を契機に世の無常を感じ、黒谷青竜寺に隠棲しますが、
直前には決死の覚悟を表明するため、生前に寿塔と呼ばれる墓を建立しています。

黒谷青龍寺では『往生要集』に拠り称名念仏を勧め、
戒律と称名念仏の一致を唱えました。
朝廷より法談の聴聞を望まれるようになると、文明18年(1486)に西教寺に入り、
不断念仏の根本道場として一派を創始しました。
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「宝珠丸」像が建立されています。
真盛上人は幼名を宝珠丸といい、7歳の時伊勢の光明寺に入り、
14歳の時に出家して名を真盛と改めています。
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宗祖大師殿は塀で囲われ、北門と東門があります。
東門は唐門で大正6年(1917)に建立されました。
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唐門には天台真盛宗の紋章「三羽雀」が彫刻されています。
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透かし彫りが施されています。
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宗祖大師殿の北門から西へ進むと北側に本堂があります。
元亀2年(1571)、織田信長による比叡山焼き討ちでは西教寺も被災し、
焼失しました。
本堂はその3年後に復興し、現在の本堂は元文4年(1739)に改築し、
上棟・落成され、国の重要文化財に指定されています。
本尊は丈六の平安時代・定朝様式の阿弥陀如来像で、
国の重要文化財に指定されています。
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本堂の右側には茶所(休憩所)があります。
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茶所には聖観世音菩薩像が祀られています。
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茶所の左側に納骨堂があります。
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納骨堂の左側に天保2年(1831)に再建された鐘楼があり、
大津市の文化財に指定されています。
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鐘楼の右側に正教蔵があります。
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本堂の裏側に大本坊があります。
信長の焼き討ち後、坂本城主となった明智光秀は、
西教寺を菩提寺にしようとして復興に尽力しました。
大本坊は光秀が坂本城の陣屋を寄進して再建され、
昭和33年(1958)に改築されています。
西教寺は神仏霊場巡拝の道・第148番(滋賀16番)、聖徳太子霊跡・第31番、
びわ湖108霊場・第11番などの札所で、納経は本坊で行います。
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大本坊前の石灯籠は総高2.22mあり、鎌倉時代作で国の重要文化財に
指定されている灯篭の複製です。
本物は収蔵庫で保管されています。
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大本坊の斜め左前方に書院があり、国の登録有形文化財に指定されています。
大正6年(1917)の不断念仏十五万大法会に際し、
客殿北側に対面して建立されました。

西教寺は寺伝では推古天皇26年(618)に聖徳太子が高句麗から来た太子の
恩師である慧慈(えじ)、慧聡(えそう)のために創建したと伝わります。
また、一説では第18世天台座主・良源が建てた草庵に始まり、その弟子で
『往生要集』の著者として知られる源信が伽藍を整えたとも伝わります。
鎌倉時代の正中2年(1325)、後醍醐天皇の帰依を受けた円観は西教寺を再興し、
天台宗の戒律を授ける円戒道場としました。
後醍醐天皇は、円観に白河天皇の勅願寺・法勝寺の修造・大勧進を命じています。

室町時代の文明18年(1486)に真盛上人が西教寺に入り、
晩年の10年を西教寺の復興と布教に努め、中興の祖とされています。

応仁2年(1468)、法勝寺は応仁の乱による兵火を受け、更に享禄4年(1531)には
管領の座を巡る細川高国と細川晴元の戦いに巻き込まれて
破壊的な被害を受けました。
天正18年(1590)、後陽成天皇は西教寺第9世・真智上人に法勝寺を西教寺に
兼併せよとの論旨を下賜されました。
正式な寺名は「兼法勝西教寺(けんほっしょうさいきょうじ)」と改められ、
法勝寺伝来の仏像、仏具等も西教寺に移されました。
客殿の仏間に安置されている薬師如来坐像は、法勝寺の遺物とされ、
重要文化財に指定されていますが、秘仏となっています。

書院の前には「兼法勝西教寺」の石標が建立されています。

本坊で500円を納めると本堂から客殿、書院を巡ることができます。
続く

西教寺-その2

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本堂には「身代わりの手白猿(てじろのましら)」像が安置されています。
真盛上人によって不断念仏の道場として中興された西教寺では、
今日まで五百有余年絶えることなく称名が続けられています。
明応2年(1493)、坂本で徳政一揆が起こった時、手白猿が上人の身代わり
となって念仏の鉦(かね)を叩いていたと伝わります。
それ以後、身代わりの猿は護猿(まもりざる)として
五猿のお守りともされています。
五猿とは、御座る・護猿(ござる)・福ござる・守(まもり)ざる・
御申(ござる)を指します。
「御座る」は、客ござるで商売繁盛、「護猿」は御縁・縁結び、
「福ござる」は幸せを呼び、「守ざる」は身や家財産を守り、
「御申」は良いことを申し上げ、良いことを行うとの意味が込められています。
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本堂の左側に客殿があり、国の重要文化財に指定されています。
元は伏見城にあった旧殿で、慶長3年(1598)に、豊臣秀吉の正室である
北政所(きたのまんどころ=ねね)の取次役であった東殿によって寄進されました。
二列に配置された室にはそれぞれ狩野派の襖絵が描かれ、賢人の間の
内仏は京都法勝寺伝来の秘仏・薬師如来座像が室内の撮影は禁止されています。
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本堂と客殿の間には庭園が築かれています。
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客殿の西側に江戸時代初期に小堀遠州によって作庭されたと伝わる、
中央に琵琶湖の姿を取り入れた池を配した約130坪の
池泉式庭園が築かれています。
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書院の庭園は明治初期に作庭された穴太(あのう)式庭園です。
石積みで有名な穴太衆によって築かれ、背後の客殿の白壁と
白砂がマッチしているように思われます。
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書院と客殿を結ぶ「欣浄廊」には「聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩」の
石像が祀られています。
天正12年(1584)に近江栗田郡の富田民部進(とみたみんぶのしん)が、
幼くして亡くした愛娘の極楽浄土への往生を願って造立しました。
かっては境内の屋外に安置されていましたが、平成16年(2004)に複製が完成し、
現在地に遷されました。
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こちらが複製された石仏です。
前列中央の阿弥陀如来が二十五菩薩を従え、はるか浄土の世界から
音楽を奏しながら来迎し、念仏者を極楽浄土へと導きます。
菩薩は鼓、琵琶、笛、笙などの楽器や幡、蓮華などの花を持っています。
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石仏の左側には明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓があります。
煕子の父は妻木広忠で、現在の岐阜県土岐市にあった妻木城の城主でした。
妻木城は元は明智氏の所領でしたが、後に明智氏一族である
妻木氏の居城となって、次第に整備されました。

天正10年(1582)6月2日の本能寺の変を受け、6月13日に摂津国と山城国の境に
位置する山崎で、明智軍と羽柴秀吉が事実上の盟主となった軍勢が激突しました。
光秀は坂本へ逃走中に伏見区の小栗栖周辺で百姓らに襲われ命を落としました。

先鋒となって本能寺を襲撃した明智秀満は、その後、安土城の守備に
就いていたのですが出陣し、打ち出浜で堀秀政軍と戦って多くの兵を失い、
坂本城へ敗走しました。
まもなく、堀秀政軍に坂本城は包囲され、秀満は光秀が所有する財宝を
堀秀政軍に贈呈した後、天守に火を放ち光秀の妻子もろとも落城しました。

高山右近中川清秀の軍勢は亀山城に向かい、光秀の息子・明智光慶
自刃させ城を占拠し、明智氏は僧籍にいた者などを除いて滅びました。
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妻木一族の供養塔も建立されています。
妻木広忠は、坂本城落城後、殉死した人々を西教寺に埋葬、供養した後、
天正10年(1582)6月18日に煕子の墓前で自刃したと伝わります。
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明智光秀一族の墓
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また、墓地には長谷川左衛門藤広の墓があります。
慶長17年(1612)、長崎奉行だった藤広は、大津の住人・片岡庄兵衛を随行させ、
明(みん)人からそろばんの見本と使用方法を学ばせ、日本最初のそろばんである
「大津そろばん」を完成させました。
三井寺には「大津そろばん記念碑」が建立されています。
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客殿の門の方へと進んで行きます。
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放生池があり、真盛上人六字の名号石が建立されています。
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池に架かる橋を渡り石段を上った上に、下からの画像しかありませんが、
天保13年(1843)に建立された真盛上人の御廟があります。
桁行・梁間とも2間に1間の向拝を付けた宝形造の建物で、堂内には
上人の五輪塔とその両側に西教寺歴代貫主の墓が安置されています。

JR比叡山坂本駅11:59発の敦賀行に間に合うように駅へ戻ります。
近江塩津駅で新快速・姫路行に乗り換え、長浜で下車、
神仏霊場・第137番札所の長浜八幡宮へ向かいます。
続く

6.18大阪北部地震

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平成30年(2018)6月18日午前7時58分、大阪府北部を震源とする
M6.1の地震が発生しました。
我が家でも震度5強の、下から突き上げるような強い揺れがあり、仏壇が倒れ、
食器棚の扉が開き、いくつかの食器が落下して破損しました。
ずぼらに棚に積み上げていた物も多くが落下しました。
阪神淡路大震災よりも揺れている時間が短かったように感じ、
以前横に動いた食器棚は今回は動きませんでした。
余震が相次いでいますが、午後6時現在体感的には震度3以下だと思われます。

緊急地震情報は、発生後だったので役には立ちませんでした。
近所でも屋根瓦がずれたり、外壁の落下などの被害が出ています。
京都では午前中に雨の予報が出ていましたが、幸いにも雨は降りませんでしたが、
明日からは土曜まで雨の予報が出ています。
今回の地震では大阪北区、高槻市、枚方市、茨木市、箕面市で震度6弱の
揺れがあり、特に高槻市では火事も発生し、ライフラインにも
大きな被害が出ています。
通学途中の女児が、通う小学校のブロック塀が倒れて犠牲となる
痛ましい事故が発生しました。
高槻市と隣接する茨木市と大阪市の東淀川区でもそれぞれ1名の死者がでています。
大阪、京都、兵庫、滋賀で200名以上の怪我人がでています。

JRや私鉄も全て止まり、バスやタクシーを待つ長い行列ができ、
交通は混乱しています。

石清水八幡では参道にある500基の石灯篭の内、47基に被害がでました。
大山崎の駅前にある妙喜庵(みょうきあん)では、茶室「待庵(たいあん)」の
土壁の外側に亀裂が入りました。
「待庵」は千利休によって造られ、現存する茶室で唯一の
国宝に指定されている茶室です。

震源の正式な発表は行われていませんが、
その付近には有馬-高槻断層帯があります。
慶長元年(1596)、この断層帯で発生した「慶長伏見地震(M7.5)」では
伏見城天守が大破し、石垣が崩れて約600名の圧死者が生じました。
慶長9年(1605)には 慶長地震(南海トラフ津波地震説、東海はるか沖地震説、
または房総沖と南海沖の二元地震説、伊豆・小笠原海溝地震説あり)が
発生しています。
M 7.9〜8と推定され、関東から九州までの太平洋岸に津波、紀伊・阿波・
土佐などで大きな被害がでました。
この時は津波以外の被害はほとんどなかったとされていますが、
今回の地震で南海トラフを震源とする大地震が発生するか?
危惧されます。

6.18大阪北部地震-続編

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本日、東京大学地震研究所の酒井慎一准教授の以下のような記事を目にしました。
「今度の地震は、有馬・高槻断層帯の付近が震源だと見られていますね。
仮にそうだとすると、近くを通る上町断層帯などに活動が伝わり、
その断層帯を震源とした本震が、これから発生する恐れがないとは言えません」

6.18の地震で「ひずみ」が発生し、小規模な地震が連続することによって、
地震のきっかけとなる「火種」が生まれ、火種の中にある断層が動き、
新たな大規模地震が発生するメカニズムが指摘されています。
ただ、残念なことに「火種」が生まれてから大規模地震が発生する期間の
予測はまだ困難のようで、「火種」が生まてもそのまま
消滅する場合もあるそうです。
上町断層帯に「火種」が発生しているのは事実のようで、約8千年に1回活動し、
最後に活動してから9千年が経過していると考えられていますので、
いつ活動してもおかしくはありません。
しかし、京都大学の尾池教授によると関西の地震は単発的に発生するのが特徴で、
熊本のように連続する危険性は少ないようです。
但し、尾池教授は南海トラフ地震は約20年後に発生し、それまでは内陸型地震が
継続するとも述べておられます。
本年1月28日の産経新聞に「南海トラフ地震を前に増加する内陸地震に警戒せよ」
との記事があります。
『西日本の内陸地震は阪神大震災以降、次の南海トラフ地震に向け活発化
しているとみたほうがよいでしょう。
メカニズムは解明されていませんが、経験上、南海トラフ地震が起きる
約40~50年前から内陸で大地震が増える傾向があります。
振り返れば、東日本大震災の前も岩手、新潟、能登と地震が起きていました。』
と記されています。

最近の研究で1枚の大きなプレートだと思われていたユーラシアプレートは、
西日本では細分化され、特に大阪周辺では細かいプレートがぶつかり合い、
ひずみが集中するそうです。
6.18の地震や1995年1月の阪神淡路大震災、2016年10月の鳥取中部地震、
2016年4月の熊本地震はそのプレート面の境界上で発生しているとの
報告があります。
上町断層帯もそのプレートの境界上にあるとみられ、M7.5程度の地震が
発生すると推定されています。
また、琵琶湖西岸断層帯もプレート面の境界上にあり、北部の平均活動間隔は
約1千~2千8百年であった可能性があり、最新活動時期は約2千8百年前以後、
約2千4百年前以前で、危険度が高まっているように思われます。
琵琶湖西岸断層帯北部で、全体が1つの区間として活動する場合、
M7.1程度の地震が発生すると推定され、南部では、M7.5程度の地震が
発生すると推定されています。
また、北部・南部全体が同時に1つの区間として活動する場合には、
M7.8程度の地震が発生すると推定されています。

南海トラフ地震までは、対策が必要で、今回も家具が倒れてその
下敷きとなった犠牲者が出ています。
家具の転倒防止と窓ガラスの飛散防止を考えています。
窓ガラスには飛散防止フィルムを張るか、厚手のカーテンを付けると良いそうです。

熊本地震後に日向灘でスロースリップの現象が確認されています。
東日本大地震ではスロースリップが地震の「火種」ではないかと注目されています。
スロースリップは、緩やかにひずみが解消しているように思えるのですが、
プレートの境界面全てで起こっている訳ではありません。
起こりにくい場所ではひずみとなって、いつか巨大地震を引き起こす
「火種」となります。

日向灘のスロースリップは、南海トラフに近づいているとの報告もあります。
現在、南海トラフでは「DONET」と呼ばれる総延長800kmに渡る
観測網が整備され、スロースリップを捉えようと研究されています。

南海トラフ地震のように周期的に繰り返される地震は統計学的に
予測ができるか研究されています。

アメリカではアンドレアス断層で発生する地震予報が毎日更新されています。
「地震は予知できない」と主張する東大教授もいるようですが、
近い将来、確率の高い予報が発信されると信じています。

長浜八幡宮

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JR長浜駅に13:28に到着し、長浜八幡宮へは徒歩約20分の距離でしたが、
道を間違え14:05に到着しました。
長浜八幡宮は平安時代後期の延久元年(1069)に、源義家が後三条天皇の
勅願を受け、石清水八幡宮を勧請して創建したと伝わります。

源義家は長暦3年(1039)に河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井
(現・大阪府羽曳野市壺井)に生まれたと伝わり、七歳の春に石清水八幡宮で
元服したことから八幡太郎義家と名乗りました。

以後、この地は八幡の庄と称され、庄内十一郷の産土神(うぶすなかみ)として
深く崇敬されるようになりました。
当時その社頭は三千石、一山七十三坊と伝わりますが、戦国時代にはたびたび
兵火にみまわれ、社殿はほとんど消失しました。
天正2年(1574)に長浜城主となった羽柴秀吉により復興され、秀吉の男子誕生を
町民が祝って曳山を造ったのが長浜曳山祭の起源とされています。
境内の南西隅に一の鳥居が建立されています。
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鳥居をくぐり、真っ直ぐに伸びる参道を東へと進むと中間辺りの北側に
二の鳥居があり、参道を直角に曲がって本殿へと向かいます。
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二の鳥居をくぐった左側に縁松(えにしまつ)があり、二本の松が
寄り添うように立っているのですが、片方の松はまだ若く、
親子のように見えます。
松と松の間に張られているしめ縄をくぐると「縁」がいただけるそうです。
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鳥居の正面に拝殿があります。
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拝殿の右側に神輿庫があり、背後にすっかり雪化粧した滋賀県の
最高峰・伊吹山(標高1,377m)が望めます。
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拝殿を回り込むと幣殿があります。
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本殿の中御前に誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)、
東御前に足伸彦尊(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇)、
西御前に息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が
祀られています。
仲哀天皇と神功皇后は夫婦であり、応神天皇の両親となります。
本殿は八幡宮には珍しい神明造となっています。
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本殿の右側に摂社の高良神社があり、武内宿禰(たけうちのすくね)が
祀られています。
武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の第12代から第16代まで、
5代の天皇に仕えた忠臣とされています。
八幡神とされる応神天皇にも仕えていたことから、多くの八幡社で祀られています。

長浜八幡宮では、武内宿禰が長寿で5代の天皇に仕えた故事により、
高良神社は「ボケ封じの宮」として崇敬されています。
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高良神社の社殿の右側には「ボケ封じ大石」が祀られています。
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幣殿の左前に「亀願石」と記され、その背後には穴が空けられた岩が立っています。
「願い通して矢」と称され、願い事を祈念し、岩の前方にある
矢を射って穴に通せば、成就するそうです。
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境内を西側へと進んだ所に放生池があり、池泉回遊式の庭園として
長浜市の名勝に指定されています。
羽柴秀吉が八幡宮を復興し、放生会を行うために造られました。
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池の島には摂社の都久夫須麻神社があり、市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
市杵島姫命は天照大神の子で、邇邇芸命(ににぎのみこと)が降臨した際に、
養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、
子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されています。
石清水八幡宮では比大神(ひめのおおかみ)として、左御前に祀られています。
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放生池から北へ進むと摂社の天満宮があり、菅原道真が祀られています。
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天満宮の左側に末社の地主神社があり、大地主神(おおとこぬしのかみ)が
祀られています。
土地ごとにそれぞれの地主神がいるとされ、その土地を守護する神とされています。
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地主神社の左側に末社の熊野神社があり、家津御子神(けつみみこのかみ)、
熊野速玉神、熊野夫須美神が祀られています。
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熊野神社の左側には摂社の金刀比羅宮(ことひらぐう)と末社の河濯神社
(かわそぎじんじゃ)が一つの社殿内に祀られています。
金刀比羅宮には三輪明神の別名を持つ、大物主命(おおものぬしのみこと)が
祀られています。
河濯神社には瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)で、人の穢れを早川の瀬で
浄めるとあり、祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神とされています。
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金刀比羅宮の左側に末社の末広稲荷神社があり、稲荷三神である
宇迦之御魂(うかのみたまのかみ)・佐田彦神(さだひこのかみ)・
大宮能売神(おおみやのめのかみ) が祀られています。
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長浜八幡宮の東側に隣接して舎那院があります。
舎那院は、山号を勝軍山、寺号を新放生寺と号する真言宗豊山派の寺院です。
平安時代初期の弘仁5年(814)に空海により開基されたと伝わります。
山号の勝軍山は学頭別当職に就いた源義家による中興の時代(11世紀後半)に
後三条天皇より賜ったものです。
その後、長濱八幡宮が創建されてからは神宮寺としての勝軍山新放生寺の
一院でした。

16世紀後半の度重なる兵火を受けて堂宇を焼失し、羽柴秀吉による
長浜八幡宮復興の際に、新放生寺も再興されました。
明治初年(1868)の神仏分離令により、新放生寺は廃され、神社境内の
仏堂は名称・用途を変更し、仏教に関するものは新放生寺の学頭であった
舎那院に移されました。
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山門を入った左側に宝暦5年(1755)に建立された鐘楼があります。
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美しい彫刻が施されています。
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右側には聖徳太子が祀られた太子堂があります。
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太子堂の左側に観音堂があります。
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観音堂の左側に地蔵堂があり、地蔵菩薩像が安置されています。
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観音堂の向かいには池があり、池の畔には地蔵菩薩像が祀られています。
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参道を進んだ奥に本堂があり、昭和14年(1939)からの長浜八幡宮社域の
整備に伴い、文化7年(1810)に建立された建物が八幡宮から移築されました。
本尊の愛染明王坐像は、鎌倉時代の作で国の重要文化財に指定されています。
元は新放生寺の本堂に安置されていました。
阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の作で国の重要文化財に指定されています。
元は新放生寺の本尊でした。

画像はありませんが本堂の左側に室町時代に建立された護摩堂があり、
滋賀県の文化財に指定されています。
本堂と同じく昭和14年(1939)に八幡宮の境内から移築され、
県内の護摩堂としては最も古い遺構です。

その他にも茶室、書院、庫裡、などの建物があります。

次回から冬の青春18きっぷ・第3回を利用して、廣峯神社~光明寺を巡礼します。

廣峯神社-その1

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冬の青春18きっぷ・3回目を利用して京都駅発5:52の各駅停車・西明石行に乗車、
大阪駅で6:51発新快速・姫路行に乗り換え7:55に姫路駅に到着しました。
姫路駅で8:20発の播但線・寺前行に乗り換え8:27に野里駅に着きました。
野里駅から北西方向に歩き自衛隊の駐屯地横を北上して行きます。
しかし、駅の南側に出て、逆方向に歩いたため、
1時間近く無駄な時間を費やしました。
9:25に車道を離れて山道に入ります。
「廣峯神社 新参道 十八丁」の石標が建っていますが、
この山道が新参道なのかは不明です。
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山道から再び車道に合流し、車道を進んだ先に駐車場があり、
その先に鳥居が建立されています。
鳥居からは二つの参道があり、舗装され楽そうに見える参道を選びました。
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10時過ぎに「憩いの広場」に到着しました。
「憩いの広場」は社家だった谷口家の跡地が姫路市に寄贈され、
整備されました。
谷口家は鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した
赤松一族の家臣団から流入して社家となったと考えられています。
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広場には黒田家が目薬の材料にしたと伝わる「目薬の木」が植えられています。
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広場から約5分で随身門の前に到着しました。
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門への石段の途中、右側に高さ224cmの宝篋印塔があり、
国の重要文化財に指定されています。
室町時代初期の作と推定され、廣峯神社の背後、俗称「吉備ッ様」と
呼ばれる地に埋没していたものが現在地に移されました。
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随身門は元禄10年(1697)に建立されたもので、
姫路市の重要文化財に指定されています。
三間一戸ですが八脚門の形式をとらず、親柱を省略して中央通路の間が
極端に広く取られた珍しい形式になっています。
門前や境内では初詣に備えて、着々と準備が行われています。
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狛犬
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随身像の胎内には、東側には明和8年(1771)、
西側には文政元年(1818)の木札が打たれています。
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門をくぐった正面に寛永3年(1626)に姫路城主・本田忠政によって
再建された拝殿があり、国の重要文化財に指定されています。
本殿の前面に軒を接して建立されています。
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拝殿には牛に曳かれた神輿が安置されています。
享保2年(1717)の作で、九月には摂社の天祖父社への御幸の神事がありましたが、
現在は途絶えています。
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拝殿は正面十間、側面四間の大建築で斜面に造られています。
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現在の本殿は室町時代の文安元年(1444)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
正面11間、側面4間あり、国内最大級とされています。
平成24年(2012)2月3日、この日に行われた火渡り神事で使われた火が、
本殿の屋根に燃え移り、屋根の一部が約30㎡に亘り焼ける火災があり、
補修が行われています。
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本殿の正殿には素戔嗚尊・五十猛命(いそたけるのみこと)が
主祭神として祀られています。
左殿には奇稲田姫尊(くしなだひめのみこと)・足摩乳命(あしまずちのみこと)・手摩乳命(てずなずちのみこと)が祀られています。
右殿には素戔嗚尊の御子神である八王子神と大年神及大年神の御子神・
孫神ほかが祀られています。

廣峯神社は古来から白幣山(はくへいざん=標高約260m)を
神奈備山として崇められていたようです。
広峰山麓には古墳も築かれています。
第10代・崇神天皇(すじんてんのう=在位:BC97~BC30)の御代、
白幣山の山頂に神籬(ひもろぎ)を立て、素戔嗚尊と五十猛命を祀ったのが
廣峯神社の始まりとされています。

神功皇后摂政元年(201)、神功皇后が三韓征伐に出兵する際、
白弊山にて素戔嗚尊に勝利を祈願し、無事平定すると、再び白弊山に登り、
感謝の大祭りを行い、小宮を建立したと社伝に残こされています。

奈良時代の天平5年(733)、遣唐使であった吉備真備(きびのまきび)が
唐からの帰朝途中に寄港した際、神託を受けられ、
その旨を聖武天皇に奏上しました。
翌年、天皇の勅命により白弊山に社殿を建立し廣峯神社と定めました。
勅願社として国家安泰と繁栄を祈願する勅願際は明治の初め頃まで
執り行われていました。

平安時代の天禄3年(972)に現在地に社殿を造営し、遷座したのが
今の廣峯神社で、白幣山には吉備公を祀る吉備神社が建立されました。
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拝殿の左側に、蘇民将来(そみんしょうらい)を祀る地養社があります。
現広島県福山市の素盞嗚神社の縁起には下記のように記されています。
『旅の途中で宿を乞うた武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)を
裕福な弟の巨旦将来(こたんしようらい)は断り、
貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。
後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、
(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。
武塔神はみずから速須佐雄能神(すさのおのかみ)と正体を名乗り、以後、
茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えた』
以上のような伝承から茅の輪が生まれ、当初は腰に付ける小さなものでしたが、
しだいに大きくなって江戸時代初期になり、大きな茅の輪をくぐって
罪や災いと取り除くという神事になりました。
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境内の西南隅に蛭子社があります。
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拝殿の右側に軍殿八幡社があります。
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境内の南東隅に「千年松」が茂っています。
イブキ」の木ですが、現在地に遷座される以前にはこの地に
この木が繁茂していたそうです。

本殿の裏側へ向かいます。
続く

廣峯神社-その2

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本殿の裏側には九つの穴があり、九星の守護神が鎮まっています。
廣峯神社の公式HPには九星の早見表があり、運命星の穴に向かって
願い事を三回ささやくと、願い事が叶うとされています。
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本殿の背後の右側には、右に稲荷社と左に天神社が並んでいます。
稲荷社は宝暦11年(1761)、天神社は享保9年(1724)に建立されたもので、
いずれも姫路市の文化財にしてされています。
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稲荷社の背後には西向きに慶応4年(1868)に建立された熊野権現社があり、
姫路市の文化財にしてされています。
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本殿の背後の左側には、右に庚申社(こうしんしゃ)と左に山王権現社が
並んでいます。
庚申社は寛延4年(1751)、山王権現社は安永6年(1777)に建立されたもので、
いずれも姫路市の文化財にしてされています。
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山王権現社の背後には東向きに享保20年(1735)に建立された大鬼社があり、
姫路市の文化財にしてされています。
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大鬼社の斜め右背後に南向きに19世紀に建立された冠者殿社があり、
姫路市の文化財にしてされています。
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吉備神社まで徒歩10分と記されていますの向かいます。
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参道には社家・内海家とみられる廃屋があります。
古くは七十五家あったと伝わる社家ですが、永禄年中(1558~1570)の戦乱で
社勢が衰え、江戸時代頃までに「広峯三十四坊」といわれる三十四家が残りました。
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山頂には祭神が最初に天降った神聖な場所とされる磐座が祀られています。
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磐座の左側に吉備神社があります。
新しく建て替えられたようです。
吉備真備(きびのまきび)は二度唐に渡り、天文学・音楽・兵学などを
幅広く学んだ他、多くの典籍を携えて帰朝しています。
その中には日時計や陰陽道の聖典『金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)』
などが含まれ、阿倍仲麻呂の子孫に伝えたとされています。
金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表し、阿倍仲麻呂の子孫とされる
安倍晴明は、『金烏玉兎集』を陰陽道の秘伝書として用いたと伝わります。
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磐座の右側に17世紀前半に建立された荒神社があり、
姫路市の文化財にしてされています。
素戔嗚尊の荒魂(あらたま、あらみたま)が祀られています。
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山頂から西側の参道を下ると社家の黒田家跡があり、黒田重隆と何らかの
関連性を持つ家であった可能性があります。
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黒田家跡から少し下ると神仏分離令以降に建立された薬師堂があり、
薬師如来像が安置されています。
素戔嗚尊は、仏教で祇園精舎の守護神である牛頭天王と習合され、
牛頭天王(ごずてんのう)の本地仏であった薬師如来像は、
かっては本殿に安置されていました。
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薬師堂から下ってくると、本殿が石垣が高く積まれた上に
建立されているのが分かります。
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野里駅まで戻り、姫路行ホームの正面から、広峰山に建ち、
その横を通り過ぎてきた宿泊施設・セトレハイランドヴィラ姫路が望めます。
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駅で待っていると特急が通過しました。
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12:35発姫路行に乗り、姫路で13:42発の快速・米原行に乗り換え、
更に加古川で13:42発の西脇市行に乗り換えて滝野まで行き、
そこから徒歩で新西国観音霊場・第28番札所である光明寺へ向かいます。
続く

光明寺

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加古川線のホームには13:16発の厄神行が停車していますが、
これでは滝野まで行けませんので、13:42発の西脇市行まで待っています。
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ようやく14:23に滝野駅に到着し、線路沿いに西へ進み、踏切を渡って
県道を西へ進むと道路脇に「光明寺」の石標が建っています。
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緩やかな登り坂を進んでいくと参道の両側に石標が建っています。
手前には光明寺の駐車場があります。
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石標から入った所に手水舎と隣接して地蔵堂があり、
地蔵菩薩の石像が祀られています。
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地蔵堂から傾斜が増した坂道を登って行くと塔頭の多聞院があり、
石段の上の方に山門が見えます。
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石段を上らなくても、参道を進めば同じ高さまで上がれます。
境内には修行大師像が建っています。
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子供用の自転車も見えますが、この坂道を子供が自転車で登るのは
困難だと思われます。
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参道の右側に塔頭の遍照院の白壁が続く所はより一層急斜面になります。
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遍照院の山門
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遍照院の本堂
遍照院には像高24.2cmの「銅造・如来坐像」が安置されています。
平安時代初期の作とされ、国の重要文化財に指定されていますが、
秘仏とされ通常は非公開です。
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遍照院の斜め向かいに塔頭の大慈院があり、新西国観音霊場・第28番札所の
納経所となっています。
光明寺の納経所は塔頭四ヶ院が分担し、年度毎に担当が変わります。
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山門
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大慈院には「日本一幅善導大師自画像」が奉安されています。
善導大師は中国浄土教(中国浄土宗)の僧で、三蔵法師の1人である
玄奘(げんじょう)と同時代の人物で、法然や親鸞は大きな影響を受けました。

延暦寺・第4世・慈覚大師・円仁が遣唐使で中国の五台山(ごだいさん)を巡礼した後、当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった
長安を訪れています。
長安の光明寺・大慈恩寺・実際寺などに住していた善導大師の没後に円仁は
訪れていますが、この自画像は円仁が持ち帰り、
承和14年(847)に光明寺に奉安されました。
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このお堂には「善導大師」の扁額が掲げられています。
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修行大師像
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梵鐘ではなく洋風の小さな鐘が吊るされています。
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更に参道を進んだ先に塔頭の花蔵院があります。
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花蔵院の先に仁王門があります。
かっては山麓に建立されていたのですが、元禄6年(1693)に
現在地に移されました。
昭和56年(1981)に解体修理され、仁王像も修復されました。
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門をくぐった右側に文殊堂があります。
江戸時代の天和2年(1682)に再建された、光明寺に現存する最古の建物です。
昭和57年(1982)に屋根の葺き替えと修理が行われ、
唐風の向拝が増築されました。
本尊として文殊菩薩像が安置されています。
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文殊堂に施された彫刻
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文殊堂の先、石垣が積まれた小高い所に鎮守社があり、熊野権現が祀られています。
創建年代は不明で、昭和56年(1981)に屋根の葺き替えと修理が行われました。
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仁王門から真っ直ぐに伸びた参道の突き当りに常行堂(阿弥陀堂)があります。
元禄14年(1701)~元禄14年(1702)にかけて再建された四間四方の
宝形造の建物で、本尊として阿弥陀如来、脇侍として観音、勢至の
二菩薩像が安置されています。
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常行堂の左側に江戸時代の寛保2年(1742)に再建された鐘楼があります。
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梵鐘は昭和33年(1958)に再鋳され、東大寺の灯篭の菩薩像が
写されているそうです。
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鐘楼の左側に元禄2年(1689)に建立された宝篋印塔があります。
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常行堂から左斜めへと伸びた参道の突き当りに本堂(金堂)があります。
光明寺は山号を五峯山(ごぶさん)と号する高野山真言宗の寺院で、
「播磨高野」とも呼ばれる真言宗七十五名刹の一つであります。
光明寺は標高約260mの五峯山の頂上にあり、推古天皇2年(594)に
法道(ほうどう)仙人による開基と伝わります。
法道はインドの仙人で、6~7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、
日本へと渡ってきたとされています。
日本へは牛頭天王(ごずてんのう)と共に渡って来たとされ、
牛頭天王は廣峯神社に祀られるようになった伝わります。
また、法道は播磨国一帯の山岳などに多くの寺院を開山・開基しています。

寺伝では、平安時代初期に慈覚大師・円仁がこの地に滞在し、
第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の勅願により常行堂が
創建されたと伝わります。
現在の建物は大正14年(1925)に鎌倉時代の建築様式で再建されたもので、
国の登録有形文化財に指定されています。

本尊は法道仙人作と伝わる十一面千手千眼観世音菩薩で、脇侍として
不動明王と毘沙門天像が安置されています。
また、脇壇には法道仙人像、聖徳太子像、弘法大師像が安置されています。
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本堂の裏側に「光明寺合戦本陣跡」の碑が建っています。
南北朝時代の正平4年/貞和5年(1349)から正平7年/文和元年(1352)にかけて
続いた足利政権の内紛である観応の擾乱(かんのうのじょうらん)で、
光明寺で起った足利尊氏とその弟・足利直義の武将・石塔頼房
(いしどう よりふさ)との間の戦いを指します。
播磨最大の戦いで、直義方の石塔頼房は光明寺に籠城、足利尊氏が引尾山に、
尊氏配下の高師直(こう の もろなお)が鳴尾山に布陣しました。
合戦となりましたが、寄手の尊氏方は、光明寺の守りが固く
攻め落とすことができずに退散しました。
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この合戦では「山鳩の霊夢」の伝承が残されています。
尊氏方の赤松則祐は五峯山の南の八幡山に陣を置いていました。
尊氏方の一万余りの軍勢が城の塀に火を放ったところ、八幡山(京都府)
と金峯山(吉野)から数千羽の山鳩が飛来して、翼に水を浸してその火を
消そうとする夢を見た息子の朝範は、父・則祐に話しました。
則祐は「これはこの城を攻め落とすことは難しいと思っていたが、
神の護りがあったのか」と言い、陣を捨てて本拠地の白旗城に
帰ってしまいました。
これが寄手敗退の糸口となったと伝わります。
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また、このような説明板も設置されていました。
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当時の陣が再現されていたのでしょうか?
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脇にある階段を上ると、地蔵像が二体並んで立っています。
いつごろ造立されたのかは不明ですが、
今は静かにたたずんでいます。
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本堂から下り、大慈院を通り過ぎると石像が立ち、その奥に道が続いています。
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道の奥にかわらかけを投げる所がありました。
少し展望が開けています。
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帰り道、マンホールに描かれた「アユッキー」って何だ?

冬の青春18きっぷ・4回目は新年に兵庫県福崎町を巡る予定です。

金剛城寺

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京都駅発6:08の快速・網干行に乗車し、姫路駅に向かっていたのですが...
1月7日の産経新聞の記事です。
「7日午前6時35分ごろ、大阪府摂津市千里丘のJR東海道線千里丘駅構内で、
40代くらいの男性がホームから線路に転落。
通過中の米原発網干行き快速電車(6両編成)にはねられ、間もなく死亡した。
乗客約300人にけがはなかった。
大阪府警摂津署によると、男性運転士が線路内にいた男性を見つけて
急ブレーキをかけたが間に合わなかった。同署は自殺の可能性もあるとみて、
男性の身元を調べている。
同線は上下計8本が運休、計40本が最大1時間20分遅れ、
約1万3千人に影響した。」
事故のあった先頭車に乗車していたので、大きな音が聞こえ、
電車はホームの先でゆっくりと停車しました。
電車は大幅に遅れて10:17に姫路駅に到着しました。
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姫路駅で播但線の10:22発福崎行に乗り換えると車窓からは姫路城が望めます。
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10:49に福崎駅に到着すると、駅では河童が歓迎してくれています。
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しかし、その横では誰と将棋を指しているのかは不明ですが、
その姿はちょっと怖そうです。
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駅から線路沿いに少し南西方向に進み、踏切を渡って北西方向に進路をとります。
踏切には「県下八景 七種の滝(なぐさのたき)」の石碑が建立されています。
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途中、神奈備山を思わせるきれいな三角錐の山があります。
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11:44に金剛城寺に到着しました。
七種の滝は更にこの先5kmの表示がありますが、金剛城寺は
推古天皇5年(597)に聖徳太子の命を受けた高麗僧・恵灌(えかん)により、
七種山の中腹、七種の滝の近くに滋岡寺(しげおかじ)という寺号で
創建されたと伝わります。
恵灌は飛鳥時代に高句麗から渡来して三論宗を伝え、
日本の三論宗の祖とされています。
七種山には修行僧の滋岡川人(しげおかせんにん)が住んでおり、
干魃の時に七つの種を人々に与え飢餓から救い、この種は尽きることがなかった
から七種山と名付けられたと伝わります。
恵灌が寺を建立しようと現地を訪れると、川人より十一面観音を刻んで
安置するように告げられたことから、川人の名を取って滋岡寺になった
とも伝わります。
恵灌により堂塔伽藍が完成すると、播磨ゆかりの
法道仙人(ほうどうせんにん)が開山式に招かれたの伝承も残されています。

その後、空海が訪れて護摩秘法を伝え、以後の宗旨は真言宗になりました。
度々の火災に見舞われ、寺運は盛衰を繰り返しましたが本尊は守られてきました。
しかし明治の廃仏毀釈で、寺領は国に没収されることになりました。
伽藍も破却されることになりましたが、檀信徒により現在地に移転、
再建されました。
寺号が金剛城寺と改称されたのは真言宗になってからでしょうか? 
江戸時代の慶長6年(1601)に作門寺(さくもんじ)と改められ、
昭和3年(1928)に現在の寺号に戻されています。
山号は七種山です。
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参道を進むと正面に石段があり、その上に鳥居が建立されています。
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石段の手前、左側に池があり、池の中には弁天堂があります。
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少し登った左側に四国八十八ヶ所霊場の石仏が祀られています。
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右側から境内に入った正面の石段上に阿弥陀堂があります。
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石段の脇にメガネをかけた地蔵像が祀られています。
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阿弥陀堂への石段の途中に宝篋印塔が建っています。
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阿弥陀堂は旧境内地のものが移築されたと伝わります。
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各お堂は渡り廊下で結ばれています。
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この像の台石には「智徳院・・・」と記されていますが詳細は不明です。
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右側に進むと本堂があります。
現在の本堂は明治45年(1912)に建立されました。
九間四面の広壮な本堂で、恵灌が刻んだとされる十一面観世音菩薩像が
本尊として安置されています。
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本堂の彫刻
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本堂には賓頭盧尊者像が安置されています。
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本堂横の石段を上って行くと、その先に歴代住職の墓地でしょうか?
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石段の手前を右に行くと墓石?が祀られた祠があります。
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突き当りには護摩堂があります。
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護摩堂の前から客殿?の横に庭園が作庭されているように見えます。
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護摩堂から下り、本堂前を阿弥陀堂の方へと進んだ所に地蔵菩薩が彫られた
石があり、福崎町の文化財に指定されています。
室町時代の応永6年(1399)の刻銘があり、町内で最も古い在銘石仏になります。
高さ121cm、幅96cm、厚さ15cmの三角形状の石英粗面岩に
菩薩像が刻まれています。
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本堂前へ戻ります。
本堂前には、生まれた干支の各護り本尊の石仏が祀られています。
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昔の消防用のポンプ車
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客殿でしょうか?
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仁王門の手前に鐘楼があります。
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梵鐘
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鐘楼脇に石碑が建っています。
金剛城寺は新西国三十三所観音霊場の第30番札所ですが、
納経所と庫裏が離れているため、鐘を撞いてから行かないと
納経所には誰もいません。
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納経を済ませ、仁王門へ向かいます。
仁王門は昭和7年(1932)に建立されました。
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仁王門にも彫刻が施されています。
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仁王像は旧山門から遷されました。
元禄14年(1701)に建立された旧山門は、
旧境内地に唯一の遺構として残されています。
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仁王門を出て、金剛城寺の横にある田賀神社へ向かいますが
資料が見つからず、画像のみの紹介となります。
拝殿
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拝殿前の狛犬
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拝殿に掲げられた絵馬
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拝殿の背後にある幣殿
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幣殿とその背後の本殿
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本殿に施された彫刻
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本殿の背後は急傾斜で、砂防の堰堤が築かれています。
かって、この地に住んでいた人々が、山の鎮魂と豪雨による災害の防止を
祈願して、この神社が創建されたのでしょうか?
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磐座でしょうか?
静寂に包まれています。
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神社から下ってきた所には火の見やぐらが建っています。

福崎駅まで戻り、駅から金剛城寺とは反対方向にある西国薬師四十九霊場・
第24番札所の神積寺へ向かいます。
続く
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