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神積寺

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福崎駅から市川の堤防を北上し、月見橋を渡ります。
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市川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れ、今は川の流れは穏やかで、
水鳥が浮かんでいます。
柳田國男は回想記『故郷七十年』に、この川のどこかの淵に河童が住んでいた
との伝承が残されていると記しています。
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国道312号線を少し南下して、長門歯科医院を斜めに東南方向に進み、
播但道路の下をくぐった突き当りに神積寺があります。
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突き当りには放生池があり、島には弁天堂があります。
弁天堂内にあった棟札から天保7年(1836)に再建されたことが判明し、
堂内には像高48cmの弁財天坐像と、それを取り巻く十五童子像が祀られています。
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左へ曲がり、北へと進むと正面に石段があります。
石段は35段あり、石灯篭を寄進した北山田村(現在の姫路市)助左衛門の
寄進によって築かれました。
文久2年(1862)に助左衛門の子孫である助五郎が参道を付けました。
その後、現在の石段が復元されています。
石段下の左側には地蔵堂があります。
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長寿地蔵と呼ばれ、参拝者の長寿を祈願して造立されました。
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石段の手前の右側に妙徳山古墳の説明板が立っています。
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古墳時代後期の円墳で、直径35m、高さ6m以上あります。
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横穴式石室には全長12.4m、高さ6mの玄室がありますが、
現在は土が中に入り込み、高さが低くなっているようです。
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古墳から山手へと進んだ所に奥の院(開山堂)があり、
開山の慶芳上人が祀られています。
神積寺は寺伝によると、平安時代の正暦2年(991)、大納言・藤原範郷の子で
慈恵大師・良源の高弟であった慶芳内供が第66代・一条天皇の勅願寺として
創建されたと伝わります。
第67代・三条天皇の勅願所となり皇子である覚照が帰依したことで、
七堂伽藍と五十二院を数える大寺院として隆盛し、さらに第76代・近衛天皇の
宣示により播磨天台六山の1つに数えられました。
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奥の院から山上に西国三十三所観音霊場の各本尊の石仏が祀られています。
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奥の院から本堂の方へ戻ると、江戸時代の寛文3年(1663)に建立された
鐘楼堂があります。
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梵鐘
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本堂の建立年度は不明ですが、神積寺は鎌倉時代の延慶2年(1309)に全山焼失し、
天正15年(1588)に再建されています。
本堂には、室町時代作で重要文化財に指定され、60年に一度開帳の秘仏とされる
像高88.5cmの薬師如来坐像が安置されています。
脇侍には文殊菩薩と毘沙門天像、日光・月光の両菩薩像と
十二神将像などが安置されています。
明治3年(1870)までは、御朱印地として毎年文殊会式
勅使下向がなされていました。
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本堂前には賓頭盧尊者像が安置されています。
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本堂の左側に西国三十三所観音霊場の各本尊が祀られた入口があります。
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入口付近には行者堂があり、法導仙人が祀られています。
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境内の宝篋印塔と平和観音像
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石段上部の両側に建つ石灯籠は天和3年(1683)に両親の菩提を弔うため、
北山田村(現在の姫路市)助左衛門によって寄進されましたもので、
福崎町の文化財に指定されています。
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石段を下って塔頭の悟真院へ向かいます。
弁天堂の前を通り過ぎた西側に塔頭の悟真院があり、
唐門は福崎町の文化財に指定されています。
神積寺は、西国薬師四十九霊場・第24番札所で、納経は悟真院で行います。
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仁王門の手前から見た唐門
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悟真院から更に南へと進んだ所に仁王門がありますが、
現在は立ち入り禁止になっています。
仁王門手前の大門地区の町名の由来となっています。
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弁天堂の前まで戻り、元来た道を戻って播但道路をくぐって左に曲がり、
その先で右へ曲がって池沿いに進んだ所に石造りの五重塔があり、
兵庫県の文化財に指定されています。
鎌倉時代中期の作と推定され、神積寺の開祖・慶芳上人の墓と伝えられています。

柳田國男の生家へ向かいます。
続く

柳田國男生家と辻川山公園

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石造りの五重塔から徒歩約10分で柳田國男の生家に着きます。
柳田國男は明治8年(1875)7月31日に儒者で医者の松岡操、たけの男ばかりの
8人兄弟の六男として誕生しました。
生家は狭く「私の家は日本一小さい家だ」と言ったと伝わりますが、
明治17年(1884)に 一家では兵庫県加西郡北条町(現・加西市北条町)に
転居しています。
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翌明治18年、高等小学校を卒業した11歳の國男は、地元辻川の旧家三木家
預けられ、その膨大な蔵書を読破したと伝わります。
翌明治19年、医者を開業していた長男の(かなえ)に引き取られ茨城県と
千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に移り住みました。
16歳のときに東京に住んでいた松岡家三男の井上通泰
(帝国大学医科大学に在学中)と同居しています。
井上通泰は12歳の時、神東郡吉田村の医者・井上碩平の養子となっています。
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井上通泰の紹介で森鴎外と親交を持ち、また通泰の世話で桂園派の
歌人・松浦辰男に入門し、田山花袋(たやまかたい)・国木田独歩
島崎藤村・などの文学者と交流しました。
しかし、「なぜに農民は貧なりや」ということばに示されるように
当時の社会構造に対する鋭い疑問を持ち、農政学を志すことになります。
明治30年(1897)に東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)
に入学して農政学を学び、卒業後と同時に農商務省に入りました。
明治34年(1901)5月に柳田家の家督を継ぐため、柳田家に入りました。
農商務省に勤め、一方で各地を旅して、地方に残る習俗や伝承を研究し、
特に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになります。
明治41年(1908)頃から岩手県遠野で、当時新進作家だった
佐々木喜善(ささききぜん)と知り合います。
『遠野物語』は佐々木喜から聞いた、遠野地方に伝わる伝承を柳田國男が筆記、
編纂する形で出版されました。
またこの頃から「郷土研究会」を始め、大正2年(1913)3月に雑誌『郷土研究』を
刊行し、民俗学が独自の領域と主張を持つための基礎となりました。
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生家の隅には石臼が置かれていました。
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生家から少し下った所に辻川山公園があり、天狗が小屋に隠れてしまいました。
『遠野物語』では鶏頭山(けいとうざん)に天狗が住んでいると記されています。
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また、出番まで待てませんでしたが、池には河童の河太郎(がたろう)と
河次郎(がじろう)が15分毎に出没します。
河童に関する記述は『遠野物語』にも見られますが、昭和33年(1958)1月8日
から9月14日にかけて神戸新聞に掲載された柳田国男の
回想記『故郷七十年』で、この河童が登場します。
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また園内には様々な妖怪像が立っています。
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公園から西へ進んだ細い路地に有井堂があります。
神積寺を開基した慶芳上人がこの地を訪れ、有井堂で一宿された時、
「東の谷に一堂を建立せよ」との夢告を受け神積寺が創建されたと
伝えられています。
また、柳田国男が『故郷七十年』で、有井堂の床下に犬が子を産み、
数匹の子犬がいるのを子供の頃に兄弟と見つけ、床下に潜り込んで捕まえたと
記しています。
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堂内には阿弥陀如来像が安置されています。

朝の事故で電車が大幅に遅れたため、以後の予定はキャンセルせざるを
えなくなりました。
次回、冬の青春18きっぷ最終回は西宮駅から神呪寺(かんのうじ)などを巡ります。

神呪寺(かんのうじ)

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京都駅7:31発の快速・姫路行に乗車し、8:19に西宮駅に到着し、阪神バスの
鷲林寺(じゅうりんじ)甲山方面行に乗り換え、甲山大師まで乗車しました。
バス停から少し戻り、下った所に山門があります。
神呪寺の創建当初は250町歩の境内地を有していたそうですが、
現在は20町歩に縮小し、山門からの参道も車道が横切っています。
山門は文化元年(1804)に建立され、三間一戸の八脚門の中央に高屋根の
四脚門が組み合わさっており、西宮市の文化財に指定されています。
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六甲山を表す旧山号の「武庫山」の扁額が掲げられています。
近年、第80世・光玄大和尚により山号は「甲山」に改称されています。
また、寺号の「神呪」は、「神を呪う」という事ではなく、
本来は「しんじゅ」と読み仏の真の言葉という意味があります。
開山当時は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」と称していました。
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山門には仁王像でなく、増長天と広目天像が安置されています。
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車道手前に立つ石像
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門をくぐって正面に見える山が甲山で、神奈備山とされ、山頂では
弥生時代に祭りに使われていた銅戈(どうか)が出土しています。
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車道を渡り短い石段を上った左側に放生池があり、池の中には弁天堂があります。
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池の横には魚鳥塚や盲杖塚、花塚が建立されています。
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石段横には多くの五輪塔が祀られています。
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石段の右側に「淳和天皇勅願所」の石碑が建立されています。
淳和天皇の第四妃・真名井御前は、如意輪観音への信仰が厚く、
念願であった出家するために天長5年(828)にひそかに宮中を抜け、
頂法寺で修業を行いました。
その後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現西宮神社)から廣田神社、
その神奈備山・甲山へと入りました。
そして、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行いました。

天長7年(830)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに
刻んで、如意輪観音像を造りました。
この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831)10月18日に本堂は落慶し、
同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼としました。
この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、
如一と如円は和気清麻呂の孫娘であったと伝わります。
淳和天皇は、勅願所として150町歩を寄進しています。
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慈母観世音菩薩像の右側には、横一列に多くの石仏が祀られています。
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中央に「花山法皇」と刻まれた石碑が建立されています。
かって、甲山山麓に廣田神社があり、花山法皇は全国各地の瀬織津姫に
かかわる場所を花山院領とされました。
廣田神社は現在の祭神を「天照大神荒魂」としていますが、戦前の由緒書きには
「瀬織津姫」を主祭神とすることが明確に記されていました。
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更に右側には子安地蔵尊などが祀られています。
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その中に役行者の石像があります。
山門から約200メートルの磐座群(甲山八十八か所)に、
廣田神社祭神「瀬織津姫」と役行者が邂逅したとされる
「廣田明神影向岩」があり、役行者、前鬼・後鬼の像が岩の上に安置されています。
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石段を上って行くと右側に昭和33年10月21日に落慶された鐘楼があります。
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梵鐘は高松宮殿下によって撞初めが行われ「天下和順」と命名されています。
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鐘楼の横には休憩所の如意閣があり、展望が開けています。
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石段を上った所を左へ進むと本堂があります。
神呪寺は、鎌倉時代初期に源頼朝によって再興されますが、戦国時代には
兵火により荒廃し、現在の本堂は江戸時代に再建されています。

本尊は像高98.7cmの如意輪観音坐像で、国の重要文化財に指定されています。
寺伝では天長7年(830)に弘法大師により山頂の桜の大木で、
開祖・如意尼の姿をそのまま写して刻まれたと伝わっています。
しかし、近年、西宮教育委員会の調査で「10世紀末から11世紀初め頃の
造立になるものと考えられる」と報告されています。
如意輪観音は融通観音とも呼ばれ、毎年5月18日の「融通観音大祭」でのみ
開帳される秘仏とされています。
また、神呪寺・観心寺・室生寺の如意輪観音は共に六臂( ろっぴ )像で、
日本三如意輪と称されています。
如意輪観音像は、新西国三十三所観音霊場の第21番札所本尊でもあります。
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本堂の右側に大師堂があり、重要文化財に指定されている
弘法大師像が安置されています。
弘法大師像は像高81.2cm、鎌倉時代後期の作で大師58歳の姿とされています。
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大師堂の右側に不動堂があり、不動明王像が安置されています。
不動明王像は像高88.6cm、鎌倉時代の作で国の重要文化財に指定されています。
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不動堂の右側に納骨堂があり、聖観音菩薩像が安置されています。
聖観音菩薩像は像高206cm、11世紀頃・藤原初期の作とされ、
国の重要文化財に指定されています。
仏体左側に焼け跡があります。
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納骨堂の右側から少し登った所に多宝塔があり、
金剛薩埵(こんごうさった)菩薩像が安置され、
仏塔古寺十八尊霊場の第17番札所となっています。
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多宝塔から右側に進むと、鎮守社の甲山稲荷大明神が祀られた社があります。
その左右には白菊大明神と白瀧大明神が祀られています。
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白髭大明神社
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善女龍王社
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登山道は台風により土砂崩れ等が発生し、現在は山頂への通行が禁止されています。
神功皇后は国家安泰と外敵からの防止を祈願して山頂に
如意宝珠と兜を埋めたと伝わります。
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神呪寺から下り、バス道を西へと下って行くと、
甲山八十八所の二番札所があります。
「二丁」の丁石も立っています。
神呪寺本堂まであと二丁(約218m)と示されています。
帰宅して調べてみると、神呪寺が最終の88番札所札所となっていたようですが、
気が付きませんでした。
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更に下っていくと一番札所があります。
甲山八十八所は、寛政10年(1798)に四国八十八ヶ所の各札所の砂を持ち帰り、
それらを神呪寺境内の南部に敷いて建立されました。
廣田神社へ向かいます。
続く

廣田神社

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神呪寺からスマホの地図アプリを頼りに下ってくると、
広田山公園の遊歩道へ出てきました。
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更に進むと「御神水」と記された霊泉があります。
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「御神水」から少し進むと参道が拝殿へ一直線に伸びています。
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拝殿への石段を上った所に「由緒碑」が建っています。
廣田神社の創建当初の仔細は『日本書紀』に記されています。
神功皇后が住吉大神の神託により三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、
和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと告げました。
皇后が出発して留守になると、忍熊王(おしくまのおう)は神功皇后と
お腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと
明石で待ち伏せていました。
三韓征伐を終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して
難波の港を目指しました。
しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って
進めなくなってしまいました。
そこで務古水門(むこのみなと=兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)
に向かい、神意をうかがいました。
天照大神から「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。
広田国(芦屋・西宮から尼崎西部)に置くのが良い」との託宣がありました。
皇后は葉山媛を斎宮として、この地に天照大神の荒魂を祀られ、
それが廣田神社の創建と伝わります。
また、生田神社・長田神社・住吉大社に祀られることになる神からも
託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われました。
すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を撃破しました。

神功皇后摂政元年(201)廣田神社は甲山山麓の高隈原に創建され、
神功皇后は甲山山頂に如意宝珠と兜を埋めたと伝えられています。
朝廷より篤い崇敬を受け、『延喜式神名帳』では名神大社に列し、
二十二社の一社とされ、たびたび奉幣勅使が派遣されています。
六甲山全山は、元は廣田神社の社領で、六甲山大権現を古くからの祭神とする
六甲山神社(むこやまじんじゃ石の宝殿=現廣田神社の摂社)と
六甲比命神社(むこひめじんじゃ)がかつての奥宮と考えられています。
平安時代には西宮神社も廣田神社の境外摂社であり、
京都より西にある宮から西宮という地名になったと伝わります。
その後、南北朝の頃だとも言われますが、山を下りて御手洗川の畔に
遷座したのですが、水害のため享保9年(1724)に廣田山の西側に遷座されました。
昭和20年(1945)の神戸大空襲で社殿は全焼し、
戦後廣田山の東側の現在地に再建されました。

画像はありませんが、現在の本殿は伊勢神宮・荒祭宮の旧社殿を譲り受けて
昭和31年(1956)に再建されました。
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本殿の右側にある第一脇殿には住吉大神、第二脇殿には八幡大神が祀られています。
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本殿の左側にある第三脇殿には諏訪大社の祭神である健御名方大神
(たけみなかたのかみ)、第四脇殿には高皇産霊大神(たかみむすびのかみ)が
祀られています。

『古事記』では健御名方大神は、大国主の御子神で、
事代主神の弟神とされています。
建御雷神(たけみかづちのかみ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、
大国主神は御子神である事代主神(ことしろぬしのかみ)が答えると言った。
事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。
建御名方神は巨大な岩を手先で差し上げながら現れ、建御雷神に力競べを申し出た。
そして建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化した。
建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方神の手を
握りつぶして放り投げた。
建御名方神は逃げ出したが、建御雷神がこれを追い、ついに
科野国(信濃国)の州羽海(すわのうみ=諏訪湖)まで追いつめて
建御名方神を殺そうとした。
その時に、建御名方神はその地から出ない旨と、大国主神・事代主神に
背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束した」と記されています。

『古事記』によれば、天地開闢(かいびゃく)の時、最初に天之御中主神
(あめのみなかぬし)が現れ、その次に神産巣日神(かみむすび)と共に
高天原に出現したのが高皇産霊大神とされています。
この三神は造化の三神で、いずれも性別のない神、かつ人間界から姿を
隠している「独神(ひとりがみ)」とされています。
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境内の左側に摂社の伊和志豆神社(いわしずじんじゃ)があります。
創建されたのは不詳ですが、かっては廣田神社から約東南約1.5kmの所に
在りましたが、大正6年(1917)7月16日に廣田神社の境内に遷座されました。
戦後は廣田神社本社に合祀されていましたが、平成2年(1990)の御大典にあたり、
廣田神社の境内に社殿を再建して奉斎されました。
祭神は伊和志豆之大神で、彦坐命(ひこいますのみこと=日子坐王)とする
説があります。
神功皇后は、彦坐命の四世孫にあたり、神功皇后が自らの祖を奉斎した
可能性もあります。
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伊和志豆神社の手前に五末社殿と松尾神社があります。
五末社殿には八坂神社・子安神社・春日神社・地神社・稲荷神社が祀られています。
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拝殿から左側の幅の狭い石段を下った左側に齋殿神社
(ときどのじんじゃ)があります。
古くから御手洗川の畔に鎮座されていましたが、廣田神社の享保9年(1724)の
遷座に伴い、廣田山の西側に遷座されました。
その後、明治44年(1911)に末社の松尾神社に合祀され、昭和31年(1956)の
廣田神社の本殿再建の際に、齋殿神社が再建されました。

神功皇后の命を受けて、天照大神御魂を広田の地に祀った葉山媛命
(はやまひめのみこと)が祀られています。
葉山媛は京都南部(山背・山城)を拠点とする豪族・山背根子
(やましろのねこ)の娘です。
山背根子は神功皇后凱旋にあたっては、皇后とともに忍熊王と戦って勝利し、
自分の娘の葉山媛には天照大神の荒魂を廣田神社に、
その妹の長媛には事代主を長田神社を祀らせました。
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齋殿神社から下ると参道は直角に曲がっています。
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参道を進んだ先に鳥居が建立されています。
西国薬師霊場・第20番札所の東光寺へ向かいます。
続く

東光寺

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廣田神社から旧西国街道を進みます。
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しばらく進むと江戸時代の文久2年(1862)に再建され
「日本三躰 厄神明神」と刻字された道標があります。
三大厄神とは、門戸厄神東光寺、石清水八幡宮、和歌山の
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)を指します。

第52代・嵯峨天皇が41歳の厄年に当たる天長6年(829)に、愛染明王と
不動明王が一体となって厄神明王となり、あらゆる厄を
打ち払うという霊感を得ました。
空海は厄神明王を三躰刻み、嵯峨天皇の厄除け祈願を行いました。
三躰は門戸厄神東光寺、石清水八幡宮、丹生都比売神社に遷座されましたが、
現在残されているのは東光寺のみです。
門戸厄神は、あらゆる災厄を打ち払うされています。
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道標が示す方向に進むと明治8年(1875)に創立された神戸女学院があり、
門の前を通っただけですが緑に囲まれた閑静な学び舎を思わせます。
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東光寺・南門付近に「東宮殿下御野立所」の石碑が建立されています。
明治44年(1911)11月20日未明から始まる陸軍対抗演習を観戦するために、
東宮殿下(大正天皇)はこの地に御座所を設けられました。
本来の御座所は東光寺より坂道を下った門戸小学校の一角でしたが、
宅地開発等により石碑が現在地に移されました。
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南門は道路と同じ高さですが、道路を下って表門の方へ向かいます。
僅かに道路を進むと、42段の石段が待ち構えています。
この石段は「男坂」と呼ばれ、一段一段登ることで厄を落とす
という意味があります。
石段上の山門は阪神淡路大地震
(平成7年(1995)1月17日5時46分、M7.3)で全壊した後、再建されました。
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門には不動明王の眷属である右に制多迦(せいたか)、
左に矜羯羅(こんがら)の両童子像が安置されています。
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表門をくぐると正面に中楼門が眼前に迫ってきます。
中楼門への石段は33段の石段あり、「女坂」と呼ばれています。
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中楼門をくぐった正面に厄神堂があります。
東光寺は山号を「松泰山」と号する高野山真言宗の別格本山です。
天長6年(829)に空海が刻んだとされる厄神明王像の一躯を安置したのが、
東光寺の始まりとされています。
戦国時代には兵火を受け、伽藍は焼失しましたが、
厄神明王像は唯一焼失を免れました。
厄神明王像は秘仏とされています。
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境内の右側に薬師堂があり、本尊の薬師如来像が安置されています。
東光寺の本尊であり、西国薬師霊場・第20番札所の本尊でもあります。
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厄神堂の左側に愛染堂があり、愛染明王像が安置されています。
西国愛染十七霊場・第2番札所の本尊でもあります。
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愛染堂の右側は大国堂で、大黒天が祀られています。
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愛染堂の右側に「延命魂(根)」と称される樹齢800年を経た
老木の杉の根が安置されています。
高野山の奥の院、弘法大師廟への参道近くに聳えたっていました。
寿命を全うした杉の根を金剛峰寺から下賜されて安置されました。
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「延命魂」の左側に三匹のカエルが祀られ、「祈願かえる」と称されています。
「元にかえる」、「無事にかえる」、「栄える」などの
祈願成就を願って祀られています。
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「祈願かえる」の左側に「延命魂」の杉の木を輪切りにしたものが祀られ
「宝輪杉」と称されています。
800年の年輪の前に年表が立てられ、平安時代からの歴史が記されています。
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境内の左側に大師堂があり、弘法大師が祀られています。

東光寺を後にすると雨が降り出し、コンビニで傘を買い、
雨の中JR西宮駅まで歩き、JR兵庫駅へ向かいます。
続く

JR兵庫駅の周辺

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14:12にJR兵庫駅に着くと、駅前の通りは柳原蛭子神社の十日えびす大祭で、
神社までの道路は歩行者専用になり、露店が軒を連ねています。
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幸いにも雨は上がり、人の流れに添ってゆっくりと進み、
蛭子神社前に到着しました。
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西側に福海寺が隣接していて、蛭子神社との間の通りは旧西国街道の
兵庫津の西の出入り口でした。
かって柳原惣門があった場所とされています。
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福海寺の裏側辺りに福厳寺(ふくごんじ)があり、門前に
「史跡 後醍醐天皇駐蹕(ちゅうひつ)之處」と刻まれた石碑が建立されています。
元弘2年 / 正慶元年(1332)に隠岐島に配流された後醍醐天皇は、
翌年に名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山
(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵しました。
天皇は元弘3年(1333)5月晦日に京へ戻る途中に福厳寺に入り、
大般若経を転読させたと『摂津名所図会』に記されています。
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福厳寺から北東方向に進むと湊八幡神社があります。
三韓征伐の帰途、神功皇后は摂津国岡野村に立ち寄ったのですが、
応神天皇が生まれそうになったため、霊石を探し出産の延期を祈願しました。
皇后は住吉大神からの神託を受け、三韓征伐へ出発しますが、
この時、既に妊娠しており、渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を
当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされています。

霊石への祈りが通じ、その後その霊石を岡野村より福原街東溝下旧長谷川楼の
辺りに迎えて祀られるようになりました。
その後、現在の地に遷座され、湊玉生八幡宮と称されていました。
明治6年(1873)に村社に列せられ、大正4年(1915)には神饌幣帛
(しんせんはくへい)共進社に指定されました。
神饌幣帛料供社とは、郷社、村社を対象に明治から終戦に至るまで勅令に基づき
県令をもって県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を
供進された神社のことです。
昭和13年(1938)には境内地が314坪に拡張されましたが、
昭和20年(1945)3月の神戸大空襲で全て焼失しました。
現在の社殿は昭和32年(1957)~昭和37年(1962)かけて再建されたものです。
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湊八幡神社の横は旧西国街道の兵庫津の東の出入り口で、
かって湊口惣門がありました。
往事は人の往来があって賑わっていたと思われます。
かっては、湊八幡神社の前に「迷い子のしるべ石」が建てられていました。
警察活動の行き届かない時代に、迷子さがしの方法として考えられた
建て石ですが、神戸大空襲で破損しました。
昭和46年(1971)4月に修復されて、境内に移され、その左側に同一のものを
併せて建立されました。
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湊八幡神社から東へ進み、阪神高速の手前を北へと進んだ所に
西出鎮守稲荷神社があります。
西出鎮守稲荷神社の創建や変遷は定かでないものの、江戸時代の
寛政年間(1789~1801)には既に鎮座しており、商売繁盛・交通安全・
防火守護の御利益のある「ちぢみさん」として、西出町の住民に
親しまれてきたとされています。
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境内に入ると右側に五輪塔がありますが、平清盛の弟・経盛の第二子である
平経俊(たいらのつねとし)の墓とされています。
社前に立つ説明板では、「寿永3年(1184)2月8日18歳にてこの地で戦死した」と
記されていますが、Wikipediaでは生田の森で源氏軍と対戦したとありますので、
長い距離を逃げてきたのでしょうか?

また、説明版によれば「文政7年(1824)に海の豪商として活躍した
高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)から献上された石灯篭」があるとのことで、
五輪塔の背後に見える石灯籠がそれかと思われます。
説明板に画像が掲載されていないので確証はありません。

狛犬にはなぜか網がかぶせられています。
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本殿内の脇にはビリケン像(説明板にはピリケンと表記)が祀られています。
ビリケン像は、明治41年(1908)にアメリカの女性芸術家、
フローレンス・プリッツによって創作されました。
当時の大統領のウィリアム・ハワード・タフトのウィリアムの愛称「ビリー」に、
小さいを表す接尾語「-ken」を加えたのが名前の由来とされています。
また、アメリカの女性彫刻家が夢に見た神様をモデルに造ったなど諸説あります。
明治42年(1909)から翌年にかけて日本に輸入されました。
足の裏をくすぐって笑えば願いが叶うと伝わり、家内和合、商売繁盛の神として
日本中の花街を中心に流行したと伝わります。
戦前に国内では二躯造られ、その内の一躯とされています。
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西出鎮守稲荷神社から阪神高速沿いに南西方向に進むと
七宮神社(しちのみやじんじゃ)があります。
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ビルになった社務所の横に社殿があります。
七宮神社は神功皇后が三韓征伐の帰途、この地に立ち寄られ、大国主神を
山の尾の波打ち際に奉斎したのが始まりとされています。
また、会下山(えげやま)方面の山麓に衆落を作っていた時代に、
北風家が祀つた神が兵庫に移ったともいわれる。
北風家は、第8代・孝元天皇の曾孫(そうそん=ひ孫)である
彦也須命(ひこやすのみこと)を初代家祖とします。
6代彦連(7代彦麻呂あるいは彦丸)が神功皇后に従い、新鮮な魚介類を
献上すると共に、新羅に出兵、功あり、兵庫の浦一帯の管理を任されます。
その後、平家による福原京遷都計画の影響で浜方に移るまで、代々、
会下山に居を構えていました。
応保元年(1161)、平清盛に仕え、清盛による大輪田泊の築港奉行を務めていた、
田口 成良(たぐち の しげよし)は、その築造に難航し、
清盛に進言して社殿が造営されました。
平清盛は、日宋貿易の拠点である大輪田泊に交易の拡大と風雨による波浪を
避ける目的で、経ヶ崎という人工島を築造するため、
塩槌山を崩したと伝えられています。
経ヶ崎の築造が難航するのは、山に祀られていた神の怒りだとして、
社殿を造営して工事の進展を祈願したと伝わります。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、、大国主命、大物主神、
葦原醜男(あしはらのしこお)、八千矛神、大国玉神、顧国王神の
七つの御名を称えて七宮神社と称されています。
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七宮神社から阪神高速沿いに南西方向に進み、西宮内町の信号を左折して、
南へと進んだ所に金光寺があります。
平清盛が経ヶ崎築造に着手したとされる承安3年(1173)に、清盛が夢枕に立った
童子のお告げに従って大輪田の海に網を降ろさせました。
海中より金色の薬師如来像が引き揚げられ、これを本尊として創建されたのが
金光寺と伝えられています。

金光寺から南下して、新西国三十三所観音霊場・第23番札所である
能福寺へ向かいます。
続く

能福寺

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能福寺は山号を宝積山と号する天台宗の寺院で、薬師如来を本尊とし、
新西国三十三所観音霊場・第23番札所でもあります。
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門を入ると正面に兵庫大仏が坐しています。
この像は二代目で、初代は明治24年(1891)に豪商・南条荘兵衛の寄進により
建立されました。
戦前までは東大寺、鎌倉大仏と並び日本三大大仏と称されましたが、
戦中の金属回収令により解体され供出されました。
戦後、当時の住職が解体された大仏を発見して回収保管し、平成3年(1991)の
再建時にその金属片を混入したものが使用されました。
像高11m、蓮台と台座を含めると高さ18mになり、重量は約60tあります。
平成3年5月の開眼法要には、東大寺管長、高徳院貫主が臨席しました。

大仏像の台座は高さが4mあり、内部は「ビルシャナ殿」と称され、
永代諸精霊の供養が行われています。
本尊に平安時代の弘仁年間(810~824)に造立された
木造十一面観音菩薩立像が安置されています。
木造十一面観音菩薩立像は新西国三十三所観音霊場・第23番札所本尊でもあり、
国の重要文化財に指定されています。
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門を入った左側には滝善三郎正信の顕彰碑が建立されています。
慶応3年12月7日(1868年1月1日)に兵庫開港(現・神戸港)に際し、
幕府は大名行列と外国人の衝突を避けるために迂回路「徳川道」を開きました。
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦し、徳川方の尼崎藩を
牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警備を命じました。
家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる500人(800人説もある)は
大砲を伴って陸路を進みますが、「徳川道」ではなく西国街道を通りました。
1月11日(2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が行列を横切ろうとしました。
これは日本側から見ると「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、
第3砲兵隊長・滝善三郎正信が槍を持って制止に入り水兵に軽傷を負わせました。
水兵は拳銃を取出し、これを見た藩兵が発砲し銃撃戦に発展しました。
幸いにも弾はほとんどあたらず、この銃撃戦による負傷者は出ませんでしたが、
神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕しました。
1月15日(2月8日)、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への
政権移譲を表明、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)を代表として
交渉を開始しました。
交渉の結果、2月2日(2月24日)、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、
2月9日(3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させるのと
同時に備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで決着しました。

滝善三郎正信の顕彰碑は永福寺に建立され、昭和8年(1933)には木碑から
石碑に建て替えられましたが、神戸大空襲で永福寺は焼失しました。
石碑は焼け残り、境内跡地にできたカネテツデリカフーズの構内でも
供養が続けられてきましたが、昭和44年(1969)に能福寺に移されました。
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顕彰碑の右側に平清盛の墓所があります。
仁安3年(1168)、清盛は病に倒れ、能福寺で出家し、法名を平相国
(たいらのしょうこく)浄海と称しました。
以後、能福寺は平家一門の帰依を受け、清盛の弟で教盛の子である
忠快(ちゅうかい)法印により七堂伽藍が建立されました。
病から回復した清盛は福原に別荘・雪見御所を造営して、かねてからの念願だった
厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭します。
平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって
莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」と
いわしめました。
しかし、反平家勢力が台頭してくる中、清盛は治承5年(1181)に熱病で倒れ、
閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で64歳で亡くなりました。
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『平家物語』には、清盛の遺体は愛宕で火葬にふされ、遺骨は側近の
円実法眼(えんじつほうげん)が首にかけて摂津の国に下り、
経ヶ島に納めたと記されています。
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平相国廟の右側に當勝稲荷堂があり、當勝稲荷大明神が祀られています。
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稲荷堂の右側に「天真獨朗(てんしんどくろう)」と刻字された
石柱が建立されています。
天真獨朗とは、最澄が唐に留学した際、止観の奥義として道邃(どうすい)より
口伝(くでん)されたという『摩訶止観』中の語です。
「我々の心に起こる諸意識は本来は生ずることも滅することもなく、
また相互に相違のない平等なものであるということを会得することによって、
宇宙の真理が明らかになり、凡夫が生死を超えて仏となる」との意味になります。
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本堂の正面
桓武天皇より入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、
短期留学生)に選ばれた最澄は、延暦23年(804)7月に空海と
同じく九州を出発しました。
9月に唐に到着し、天台山に登り天台教学を学びました。
延暦23年(805)5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、
最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創しました。

その後、平家一門の祈願寺に定められたことで、大伽藍が建設され大いに
栄えたのですが、南北朝時代の興国2年/暦応4年(1341)に兵火で
七堂伽藍全てを焼失しました。
慶長3年(1599)に長盛法印によって再興されました。
長盛法印は兵庫の富豪、武臣大官・南條家の出身で幼年の頃より佛門に帰依し
比叡山で修学していましたが、元亀2年9月12日(1571年9月30日)の
織田信長による比叡山焼き討ちを避け、兵庫へ戻り能福寺の住職となりました。
長盛法印の時代に能福寺は現在地より西方の須佐野から移転しています。
現在地は南條家から寄進されたもので、かって平清盛の
花見の岡の御所がありました。

清盛は福原京を造営し、仮の皇居とされた里内裏(さとだいり)の周囲に
春の花見の岡の御所(宝積ヶ岡)、秋の月見の浜の御所、その他、泉殿・松陰殿・
馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、萱の御所、偉い方々の多くの館などが
建築されました。
また、明治24年(1891)に造立された初代の大仏も南條家の寄進によるものです。
豪商であった南條荘兵衛は、当時布教活動が盛んになりつつあった
キリスト教に対抗するため、大仏を造立しました。
しかし、その大仏も金属回収令により供出され、昭和20年(1945)3月の
神戸大空襲では鐘楼を除いて焼失しました。
平成7年(1995)1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、残されていた
鐘楼堂と本堂も倒壊しました。
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現在の本堂は泉涌寺にある月輪御陵にあった拝殿が下賜され、
昭和28年(1953)に移築され、平成9年(1997)には解体修理が行われました。
明治16年(1883)に建立された、大正天皇の妃・貞明皇后(ていめいこうごう)の
里方・九条公爵家の拝殿で、歴代天皇が参拝された由緒ある建物です。
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鐘楼は現在、再建工事が行われています。
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本殿前に「北風正造君碑」が建立されています。
北風正造は天保5年(1834)2月11日に長谷川織部景則の次男として、
現在の京都市伏見区竹田内畑町で生まれました。
第64代・北風荘右衛門貞常は大叔父にあたります。
嘉永3年(1850)、先に北風嫡家第65代当主・荘右衛門貞和の養子に
入っていた実兄・北風荘次郎貞寿が病死したため、翌年に兄の後釜として
婿養子となり、北風荘一郎貞知(後に第66代・荘右衛門 正造 貞忠)と
名乗りました。
慶応4年/明治元年(1868)の戊辰戦争では、姫路藩は朝敵の名を受け、
官軍の討伐対象とされましたが、北風正造は姫路藩と官軍との仲介を行い、
15万両と引換で姫路城を守りました。
明治28年(1895)に62歳で亡くなり能福寺に葬られました。
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「北風正造君碑」の前に「ジョセフ・ヒコ英文碑」が建立されています。
濱田彦藏は天保8年8月21日(1837年9月20日)に現在の兵庫県加古郡播磨町で
生まれ、幼いころに父を亡くしました。
嘉永4年(1851年)、13歳の時に母を亡くすと船で江戸へ向かったのですが、
船は難破しアメリカの商船に救助されてサンフランシスコに到着しました。
嘉永6年8月13日(1853年9月15日)には日本人として初めて
当時のアメリカ大統領・フランクリン・ピアースと会見しています。
その後、学校教育を受け、カトリックの洗礼を受けて、
「ジョセフ・ヒコ」の洗礼名を持ちます。
安政5年(1858)には日米修好通商条約で日本が開国した事を知ったのですが、
濱田彦藏はアメリカに帰化し、翌年の安政6年(1859)に駐日公使・ハリスにより
神奈川領事館通訳として9年ぶりに帰国しています。
文久元年9月17日(1861年10月20日)にアメリカに戻り、文久2年3月2日
(1862年3月31日)にリンカーン大統領と会見しました。
同年10月13日(12月4日)に再び日本に赴き、領事館通訳に職に就いた後、
元治元年6月28日(1864年7月31日)には英字新聞を日本語訳した
「海外新聞」を発刊しました。
これが日本で最初の日本語の新聞で、「新聞の父」と呼ばれたのですが、
赤字のため数ヵ月後に消滅しました。
その後は大蔵省に勤めていました。
能福寺へは明治25年(1892)頃に訪れ、当時の住職が濱田彦藏に依頼して、
寺の縁起を英文に訳してもらったのが、この碑に刻字されています。
明治30年(1897)12月12日、心臓病の為東京の自宅にて61歳で亡くなりますが、
アメリカ国籍であったことから青山の外国人墓地に葬られました。
明治32年(1899)に国籍法が制定されました。

大輪田泊の方へ向かいます。
続く

大輪田泊周辺

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能福寺から北側にある信号まで戻り、信号を右折して東へと進んだ所に
「札場の辻」跡があります。
この地はかって、兵庫の中心地であったことから幕府の布達等を掲示する
「高札場」が設けられていました。
俗に「札の辻」、「札場の辻」とも呼ばれていましたが、新政府になると
「太政官」と名を変え慶応4年(1868)まで設置されていました。
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「札場の辻」跡から東へ進んだ突き当りに巨石が置かれています。
「古代大輪田泊の石椋(いわくら)」と称され、昭和27年(1952)に新川運河の
拡張工事の際に松丸太の棒杭とともに二十数個の巨石が出土しました。
石椋とは石を積み上げた防波堤や突堤など、港湾施設の基礎のことをいいます。
平成15年(2003)、この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で
行われた調査では、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から平安時代中頃の
大溝と建物の一部が発見されました。
このことから石材が発見された場所は、当時海中であったと考えられ、
出土した石材は、古代大輪田の泊の石椋の石材であったと推定されています。
出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、松杭で補強し、
堤を構築していたものと推定されています。

大輪田の泊(港)は、古くは務古水門(むこのみなと)とも称され、
奈良時代に行基が開いたとの記述が残されています。
平安時代のはじめに律令国家の菅理のもとに造営されるようになります。
当時の史料には泊の運営管理を行う官舎や石椋等の港湾設備が整備され、
中央政府から派遣された造大輪田船瀬(ぞうおおわだふなせ)(泊)使が
泊の造営や修築にあたり、修築後は国司(こくし)が運営管理を
行っていた様子が記されています。
当時は物資輸送や外交航路として重要視されていた瀬戸内海の航路と
泊の整備が進められていました。

平清盛は勢力基盤であった伊勢で産出する銀などを輸出し、
安芸の音戸瀬戸を開削するなど瀬戸内航路を確保し、
さらに大宰府の対外交渉権の接収を行いました。
また、大輪田泊は南東風で諸船がしばしば難破したため、泊の南東前面に
人工島を築いて安全な碇泊地を設けようと、私費を投じて修築工事に着手しました。
清盛は応保2年(1162)2月から着手したのですが、工事は難航し、
諸人に一切経の経文を書かせた石を沈めて基礎を築いたため
「経が島」と呼ばれるようになりました。
竣工したのは承安4年(1174)ですが、工事中の間にも清盛は日宋貿易を行い、
翌承安3年(1173)には後白河法皇を福原に招き、大輪田泊までの
商船通航許可を得て宋の商船に瀬戸内海を航行させました。
また、後白河法皇が宋の使者に答物を贈ったことによって、
宋とのあいだに正式に国交が開かれて日宋貿易が拡大しました。
清盛らが大量に輸入した宋銭は、貨幣経済の発展をうながすなど
中世の日本経済に大きな影響を与えました。
しかし、律令国家の衰えとともに修築は行われなくなります。

清盛の没後、鎌倉時代になると大輪田泊の修築事業は中絶され、
破壊されていきますが、東大寺の僧・重源(ちょうげん)によって復興され、
国内第一の港として「兵庫津(ひょうごのつ)」「兵庫島」あるいは
「兵庫経島(ひょうごきょうじま)」と呼ばれるようになりました。

明治時代になると貿易の拠点が兵庫港から神戸港へ移り、兵庫港周辺の
経済活動を活性化させる目的で、兵庫運河の建設が計画されました。
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築島水門
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明治8年(1875)5月、または明治9年(1876)に船舶の避難地である
新川運河が完成しました。
その後八尾善四郎が中心となって明治29年(1896)に再度工事に着手し、
明治32年(1899)12月に運河全体が完成しました。
この工事により和田岬を避けて須磨・駒ヶ林方面と兵庫港との間を
航行することが可能となりました。
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新川運河沿いを歩いて行くと、入江橋の傍らに「清盛くん」の像が
造立されています。
平安時代には権勢を振るっていた清盛ですが、漫画チックになった
「清盛くん」は、それほど注目されていないようです。
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更に進んで行くと、水の中では寒いのか、多くの鳥はテスリで休んでいますが、
雨が降り出し、やはり濡れて寒いかもしれません。
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新川運河沿いには「キャナルプロムナード」と呼ばれる約300mの
遊歩道が整備されています。
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新川運河の中間辺りに兵庫城跡の碑が建立されています。
織田信長に謀反を起こした荒木村重は、有岡城から追われ、花隈城へと
落ち延びましたが、花隈城の戦いで城を落した功により池田信輝は、
信長より兵庫の地を与えられました。
天正9年(1581)、信輝はこの碑辺りから北側の切戸町へかけて兵庫城を築きました。
しかし天正11年(1583)、僅か2年で信輝は美濃国大垣城に移封され、
兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり、片桐且元(かつもと)が代官として
入城しました。
呼称も兵庫城から片桐陣屋と改称されました。
慶長12年(1607)には朝鮮使節が招かれています。
江戸時代まで朝鮮使節は合計12回実施され、その内11回は兵庫津に寄港しました。

元和元年(1615)に大坂城が落城してからは尼崎藩に組み込まれ、
兵庫津奉行所の陣屋が置かれました。
明和6年(1769)、上知令により兵庫津一帯は天領となり、
兵庫城址の陣屋が勤番所に改築されました。
明治時代には勤番所が初代の兵庫県庁となり、
伊藤博文が初代知事として赴任しました。
明治7年(1874)に兵庫港が大幅に改修され、
兵庫新川運河が作られたため兵庫城跡は破壊されました。
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大輪田水門
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大輪田水門を超えると大正13年(1924)に架けられた
石造りの三連橋である大輪田橋があります。
昭和20年(1945)3月の神戸大空襲と平成7年(1995)1月17日の
阪神・淡路大震災にも耐えてきた橋です。
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大輪田橋を渡らず橋と反対方向に進むと住吉神社があります。
明治9年(1876/神社の由緒書きには明治10年と表記)に新川運河が完成した後、
地元の人々が約400坪を寄進して、明治11年(1878)6月3日に
海の主神とされる住吉大神を勧請して創建されました。
昭和20年(1945)3月の神戸大空襲で焼失しました後、
昭和39年(1964)に現在の社殿再建されました。
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神社の左前、石垣が積まれた小高い上に琵琶塚の石碑があります。
かって、現在地より南西の方向に平面が琵琶の形をした塚があり、
江戸時代から琵琶の名手であった平経正(たいらのつねまさ)の墓と
されていました。
明治35年(1902)に有志により琵琶塚の碑が建立されましたが、
大正12年(1923)に市電が通され道路拡張の際に、碑が現在地に移されました。
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琵琶塚石碑の左側に平清盛像が建立されています。
柳原義達の作で、神戸開港百年を記念して、昭和47年(1972)に
地元有志により建立されました。
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十三重石塔はかって、琵琶塚の小道を挟んだ南東に建立され、
平清盛の墓と伝えられてきました。
しかし、大正時代の道路拡張の際に調査が行われ、
墳墓でないことが確認されました。
この石塔は高さが8.5m、初層の一辺が145cm、最上層の一辺が88cmあり、
台座には「弘安九年(1286)二月」と刻まれています。
北条貞時が建立したとも伝わりが、西大寺の叡尊が弘安8年(1285)8月14日に
兵庫で「石塔供養」に臨んだという記録が残されています。
十三重石塔は琵琶塚の石碑と共に現在地に移されました。
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この高台は史跡 清盛塚と命名されています。
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清盛塚に隣接して八棟寺の無縁如来塔が集められた一角があります。
能福寺はかって、平清盛の菩提寺とされ、山号を「泰平山」と号し、
大伽藍が建設されて大いに栄え、福原京を代表する寺を表す「福原寺」
とも呼ばれていました。
また、八棟の巨大な伽藍を有する「八棟寺」とも呼ばれ、
かっては現在の真光寺の地にありました。
当時、天台の通例とされた中堂・法華堂・常行堂を中心に観音堂・護摩堂・
食堂・湯屋・僧房などの八棟の堂房配置から名付けられたとされています。
特に、平家滅没後は里人は源氏に遠慮して八棟寺と呼んだと伝わります。

正応2年(1289)8月23日、時宗・宗祖の一遍上人が念仏勧進の全国遊行の
旅の途中、この地に立ち寄り観音堂で病死しました。
一遍上人は第2世・他阿(たあ)真教上人によってこの地で荼毘に付され、
霊廟が建立されました。
他阿上人は伏見天皇の信任が厚く、八棟寺の観音堂や阿弥陀堂を含む
西半分を真光寺の寺領として賜り、「真光寺」の勅額を下賜されました。
その後、八棟寺は南北朝時代の興国2年/暦応4年(1341)に兵火で
八堂伽藍全てを焼失し、八棟寺は廃絶して寺地は来迎寺が
領有することになりました。
八棟寺の跡地は、明治時代に上地され、明治7~8年築島新堀開設用の
川敷とされました。
八棟寺は慶長3年(1599)に長盛法印によって南條家から寄進された現在地に、
「宝積山」を山号とし、最澄が創建した能福護国密寺から「能福寺」
として再建されました。

真光寺へ向かいます。
続く

真光寺

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清盛塚から少し北へと進んだ所に真光寺があり、門前には
「一遍上人示寂之地」と刻まれた石碑が建立されています。
真光寺は山号を西月山と号する時宗の寺院です。
時宗(じしゅう)は一遍上人を開祖とし、鎌倉時代末期に興った
浄土教の一宗派で、神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)を
総本山としています。
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門を入ると明治29(1896)9月に建てられた「大壇林」の石碑が目に留まります。
檀林(だんりん)は、仏教寺院における僧侶の養成機関、学問所のことです。
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鐘楼は平成7年(1995)1月17日の阪神・淡路大震災で倒壊した後、
平成10年(1998)5月に再建されました。
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鐘楼堂の奥に熊野権現社があります。
現在の社殿は昭和63年(1988)5月に建立されたものです。

一遍上人は遊行で出会った人々に「南無阿弥陀佛」と書かれた
念仏札を配っていました。
算(ふだ)を賦(くばり)結縁すること、これが「賦算(ふさん)」と
説かれています。
一遍上人が熊野山中で出会った一人の僧に念仏札を受けるように勧めたときに、
信心が起こらないので受け取れないと拒否されました。
無理にその僧に念仏札を与えたのですが、自らの布教方法に疑問を持ちます。
熊野本宮証誠殿(しょうじょうでん)に参籠した一遍上人は、
熊野権現より以下のような啓示を受けます。
「融通念仏を進める聖よ、どうして念仏を間違えて勧めているのか。
あなたの勧めによって、すべての人々がはじめて往生するのではない。
南無阿弥陀仏ととなえることによってすべての人々が極楽浄土に往生することは、
阿弥陀仏が十劫(じっこう=劫はインドの時間的単位のうち最も長いもので、
十劫とは非常に長い時間)という遠い昔、正しいさとりを得たときに
決定しているのである。
信心があろうとなかろうと、心が浄らかであろうとなかろうと、
人を選ぶことなくその札を配るべきである。」
この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/
六十万人」と追加しました。
これをのちに神勅相承として、時宗開宗の時と定められました。
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観音堂には正面中央に観音像、右横に弁財天像が安置されています。
承安2年(1172)に平清盛により安芸の厳島明神から勧請された
七弁財天の一つがかって、真光寺に祀られていました。
しかし、昭和20年(1945)3月の神戸大空襲で真光寺は全焼し、
弁財天も失われました。
堂内には福禄寿と毘沙門天が祀られています。
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観音像に隣接して光明殿があります。
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境内の奥に本堂があります。
現在の本堂は、昭和20年(1945)3月の神戸大空襲で焼失後、
昭和37年(1962)に再建されました。

真光寺は仁明天皇の御代(833~850年)、恵萼(えがく)が唐より観音菩薩像を
持ち帰り、和田岬で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが
始まりとされています。
かっては、和田の崎島にあり、「光明福寺」と称していました。
一遍上人が八棟寺(能福寺)の観音堂で亡くなると、第2世・
他阿(たあ)真教上人によってこの地で荼毘に付され、霊廟が建立されました。
他阿真教上人は第92代・伏見天皇の信任が厚く、八棟寺の観音堂や阿弥陀堂を
含む西半分を真光寺の寺領として賜り、天皇より
「真光寺」の勅額を下賜されました。
第96代・後醍醐天皇からは「西月山」の山号を勅賜され、亀山天皇の皇子・
常盤井宮(ときわいのみや)恒明親王を父とする尊観法親王が住持になると、
念仏の大道場として繁栄しました。
また、播州守護職・赤松円心より寺領が寄進され、寺地は東西三十七町、
南北三十八町に及び、荘厳な七堂伽藍が建立され、周囲には二十八の
塔頭が建ち並んでいました。
その後再三の兵禍や火災に遭遇し、その都度再建されてきましたが、
昭和20年(1945)3月の神戸大空襲で全山焼失し、その後再建されてきました。
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本堂の左前方に金仏地蔵尊と六地蔵尊が祀られています。
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六地蔵尊の前方には、戦前にあった阿弥陀堂跡に供養のために建立された
「無縁如来塔」があります。
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「無縁如来塔」の横を奥へと進んだ所に、一遍上人の御廟所があります。
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正面には石仏が祀られています。
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右側に向きを変えた正面に御廟所があります。
五輪塔のある玉垣内は文化財として県史跡に指定されています。
阪神・淡路大震災で倒壊しましたが、平成10年(1998)5月に再建復興されました。

一遍上人は、延応元年(1239)に伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、
河野通広(出家して如仏)の第2子として生まれました。
10歳のとき母が亡くなり、父の勧めで天台宗の継教寺で出家し、
法名を「随縁」と名乗りました。
建長3年(1251)の13歳の時、大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下を
訪れますが、最初の1年間は肥前国清水にいた華台のもとへ派遣されます。
華台の下で法名を「智真」と改められました。
その後、弘長3年(1263)まで聖達の下で浄土宗西山義を学びました。
弘長3年(1263)、25歳の時に父の死(5月24日)をきっかけに還俗して
伊予に戻りますが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271)、
32歳で再び出家しました。
その後、信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺で修行しますが、
窪寺で「十一不二の偈(さとり)」を会得します。
十一不二の偈とは難解な次の意味になります。
「念仏を唱える、その時その時が臨終であり、念仏は只今の一念である。
一念は機の上から言えば初一念であって、本質的には臨終もなければ平生もない。
臨終と平生は同一であるとしている。只今の一念のみで往生できるが、
一念でとどまることなく念仏を相続せよ。相続が多念であり時分である。
多念は一念のつみかさねである。十劫の昔、法蔵菩薩が阿弥陀仏になったのは、
只今の一瞬に衆生が念仏を唱えて往生するからである。
したがって十劫の昔と只今の一念とは不二である。」
http://www.kanze.com/yoshimasa/nonotayori/yugyoyanagi.htmから引用)

文永11年(1274)2月8日に遊行を開始し、四天王寺、高野山など各地を
転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始めました。
そして、熊野に至り熊野本宮で熊野権現より啓示を受け、この時より
一遍と称するようになりました。
一は一如、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の
義であり、南無阿弥陀仏を一遍(一度、一回)唱えるだけで悟りが証される
という教義であり、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を
表すとされています。
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境内には「平清盛公 御膳水の井戸」と称される井戸が残されています。
清盛が弁財天を勧請した時、僧がこの井戸水でお茶をたてて献上したと伝わります。
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真光寺から少し北へと進んだ所に「和田の笠松」があります。
和田の笠松は往事、須佐の入江の浜に聳え、入港船の目標となり、
東西往還の目印の松ともなっていたと伝えられています。
笠松は次々と植え継がれていたのですが、おしくも戦災により焼失し、
途絶しました。
また、明治20年(1887)頃まではこの松の下に稲荷社が祀られていましたが、
後に住吉神社の境内に遷されました。
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「和田の笠松・笠松の歌碑」は昭和50年(1975)11月9日に建立されました。
JR兵庫駅まで歩いて戻ります。

次回は、泉涌寺の塔頭・雲龍院から八坂神社を巡ります。

即成院(そくじょういん)

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京阪東福寺駅から東大路通に出て泉涌寺道を上って行くと、
泉涌寺の総門の手前に即成院があります。
即成院は平安時代の正暦3年(992)恵心僧都源信によって建立された
光明院が始まりと伝わります。
橘俊綱は関白・太政大臣を務めた藤原頼通の次男として生まれたのですが、
讃岐守・橘俊遠の養子となりました。
藤原頼通は摂政・太政大臣・藤原道長の長男で、永承7年3月28日(1052)には
道長の別荘であった宇治殿を平等院鳳凰堂に改修しました。

光明院はその後、寛治年間(1087~1094)に橘俊綱
(たちばな の としつな)が営んだ伏見山荘に移されました。
伏見山荘は、巨椋池(おぐらいけ)を一望にする景勝地・指月の丘
(現在の桃山丘陵の南麓)に、俊綱自ら造園を行い
「風流勝他、水石幽奇也」と賞賛されていました。
伏見山荘に移された光明院は伏見寺とも即成就院(そくじょうじゅいん)
とも呼ばれ、屋根には平等院鳳凰堂の鳳凰に向き合う様に
鳳凰が飾られていました。
山門の鳳凰がその名残となっています。

堂内には阿弥陀如来が諸菩薩を引き連れて亡者を西方極楽浄土へ迎え入れる様を
表した、阿弥陀如来及び二十五菩薩像が
安置されていました。

平安時代後期には後白河天皇の第六皇女である宣陽門院(せんようもんいん)に
よって中興され、宣陽門院の墓が残されていたと伝わります。

鎌倉時代、那須与一は光明院に参詣し、武運を祈願したとの記録があり、
現在も即成院の本堂裏側には那須与一の墓とされる
石造りの宝塔が残されています。
史実として那須庄は宣陽門院領であったことが残され、
那須与一との結び付きが推定されます。

安土・桃山時代になると豊臣秀吉の伏見城築造のため、即成就院は
文禄3年(1594)に現在の伏見区深草大亀谷に強制的に
移転させられました。

明治初年、廃仏毀釈の影響を受け、明治5年(1872)に即成院は廃寺となり、
仏像は泉涌寺に遷されました。
明治20年(1887)に泉涌寺大門付近に仮堂が建設されてようやく復興し、
明治32年(1899)には泉涌寺塔頭の法安寺に吸収合併されました。
明治35年(1902)、大門付近から総門前の現在地に移され、
昭和16年(1941)になって寺号が法安寺から即成就院が短縮されて
「即成院」へ改称されました。
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現在の本堂には阿弥陀如来及び二十五菩薩像が安置され、
国の重要文化財に指定されています。
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阿弥陀如来の左右には亡者を乗せるための蓮台を捧げ持つ観音菩薩像と
合掌する勢至菩薩像が安置されています。
周りを取り巻く23体の菩薩像の多くは楽器を演奏する姿で表されています。
26躯のうち、阿弥陀如来像と観音菩薩像を含む11体のみが平安時代の作ですが、
大亀谷に移ってから戦禍により、残りの15躯は江戸時代に造立されました。
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「祈願の塔」は地球をイメージして造られ、ヤマノビュティーグループから
奉納されました。
美肌を祈願して直接球体に触れることができます。
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「祈願碑」は現代アートのデザイナー・杉本博司氏の作品で、
世界の恒久的な平和と繁栄が祈願されています。
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与一の手洗い場
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境内の画像ですが、詳細は不明です。
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泉涌寺道を進み、大門前を通り過ぎた左側に「解脱金剛宝塔」が建立されています。
解脱金剛宝塔には、岡野聖憲の遺骨が祀られています。
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解脱会は東京に本部を置く新宗教団体で、昭和4年(1929)に
岡野聖憲(おかのせいけん)によって創設され、
泉涌寺道には解脱会の関西道場があります。

岡野英蔵は昭和6年(1931)に醍醐寺三宝院にて出家得度し、
聖憲の法名を授かりました。
昭和23年(1948)に醍醐寺三宝院から諡号(しごう)「解脱金剛」と
権大僧正位が贈られ、昭和29年(1954)には大僧正位が追贈されました。

また、敗戦により維持・運営に困難をきたしていた泉涌寺に対して援助を行い、
昭和14年(1939)に泉涌寺と結縁を成しています。
解脱会は伊勢神宮、橿原神宮と並び泉涌寺を三聖地と定め、醍醐寺を加えて
集団参拝を行っています。
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解脱金剛宝塔から南へと進んだ西側に賀陽宮・久邇宮の墓地があります。
賀陽宮(かやのみや)は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子・邦憲王が、
父宮がかつて称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家です。
賀陽宮の宮号は、朝彦親王の宮邸の榧(かや)の老木に由来するとされています。
初代の邦憲王(くにのりおう)に続き、恒憲王(つねのりおう)が
継承しましたが、第二次大戦後は敗戦の責任を取って、皇籍を離脱しました。

久邇宮(くにのみや)は、明治時代前期に伏見宮邦家親王の第4王子・
朝彦親王が創立した宮家です。
朝彦親王は親王宣下の後、出家して京都青蓮院門跡となり、天台座主を兼ね
尊融入道親王と称しました。
文久3年(1863)に還俗して中川宮の宮号を賜り、名を朝彦と改め、
元治元年(1864)に宮号を賀陽宮と改めました。
明治維新後は、反政府陰謀の疑いで逮捕され、親王の身分を剥奪されて
安芸広島藩に預けられました。
明治3年(1870)に伏見宮に復帰し、明治8年(1875)に久邇宮の宮号を賜りました。
宮号の由来は、恭仁京にちなんだと云われています。

2代・邦彦王(くによしおう)の王子女・朝融王(あさあきらおう)は久邇宮を
継承しましたが、敗戦後にGHQの指令により皇籍を離脱しました。
また、良子女王は昭和天皇と結ばれ、
香淳皇后(こうじゅんこうごう)となりました。
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賀陽宮・久邇宮の墓地の向かい側(東側)には梨本宮守脩親王
(なしもとのみや もりおさしんのう)、桂宮淑子内親王
(かつらのみや すみこないしんのう)、久邇宮朝彦親王の墓があります。

梨本宮守脩親王は伏見宮貞敬親王(ふしみのみや さだゆきしんのう)の
第10王子で、天保4年(1833)に出家しました。
安政6年(1859)には円融院(三千院の旧称)に入り、天台座主にも就任しました。
明治維新後に還俗(げんぞく)し、梶井宮守脩親王を名乗りました。

桂宮淑子内親王は第120代・仁孝天皇(にんこうてんのう)の第三皇女として、
文政12年1月19日(1829年2月22日)に誕生しました。
天保11年(1840)1月28日に閑院宮愛仁親王(かんいんのみや なるひとしんのう)
と婚約し、天保13年(1842)9月15日には結婚を前に内親王宣下を被りましたが、
その2日後に愛仁親王が薨去(こうきょ)されました。
文久2年(1863)12月23日に異母弟・節仁親王(みさひとしんのう)が薨去すると、不在となった桂宮を第12代として継承しました。
これは女宮が当主として世襲親王家を継承した唯一の例となります。
淑子内親王は明治14年(1881)に53歳で薨去され、久邇宮朝彦親王は
不在となった桂宮家を、三男の久邇宮邦彦王に継がせようと政府要人に
働きかけたのですが失敗し、桂宮家は断絶しました。
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雲龍院への参道に戻り、少し進んだ左側に泉涌寺の経堂があります。
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境内には五輪塔が建立されていますが詳細は不明です。
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経堂の東側には鐘楼があります。
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雲龍院への参道に戻った右側に山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)
の墓があります。
晃親王は伏見宮邦家親王の第一王子で、邦家親王は第125代・
今上天皇の高祖父に当たります。
また、敗戦後の昭和22年(1947)に皇籍離脱した
旧皇族11宮家全ての源流となります。
晃親王は文化14年(1817)には山科の門跡寺院・勧修寺を相続し、
文政7年(1824)には出家して済範(さいはん)入道親王と称し、
勧修寺に入りました。
しかし、天保12年(1841)10月8日、二歳年下の叔母・
幾佐宮(きさのみや)隆子女王と共に出奔するという不祥事を起こし、
勧修寺門跡の地位が停止され、伏見宮より除籍されました。
元治元年(1864)に伏見宮に復され、勅許をもって復飾し改めて親王宣下と
共に、山階宮の宮号を賜りました。

西国薬師霊場の第40番札所である泉涌寺塔頭の雲龍院へ向かいます。
続く

雲龍院

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山門
雲龍院は泉涌寺本坊の南高所に位置し、山号を瑠璃山、
本尊を薬師如来とする真言宗泉涌寺派の寺院です。
本尊はまた、西国薬師霊場の第40番札所本尊でもあります。
泉涌寺の塔頭で、他の塔頭と同様に泉涌寺山内にありながら、勅願の寺院で
皇室との縁の深さから、別格本山という高い寺格が与えられています。

雲龍院は南北朝時代の応安5年(1372)に北朝第4代・後光厳天皇の勅願により、
竹巌聖皐(ちくがんしょうこう)を開山として創建されました。
皇子の北朝第5代・後光厳天皇は勅願として如法写経会を始められ、
寺領を寄進されて龍華院を創建されました。
この法会は現在でも続けられています。
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山門の奥に勅使門があります。
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山門を入った左側に鎮守社があります。
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参道の左側に建つ衆宝観音像
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参道の右側にある井戸
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参道の左側にある鐘楼
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右側の塀越しに本堂が見えます。
現在の本堂は江戸時代に再建されたこけら葺きの建物で、
国の重要文化財に指定されています。
雲龍院は、文明2年(1470)の応仁・文明の乱の兵火により全焼しましたが、
後光厳天皇、後円融天皇の尊像は焼失から免れました。
文亀元年(1501)、第104代・後柏原天皇の綸旨(りんじ=天皇の命令文書)
により、第103代・土御門天皇の御黒戸御殿を移築し、如法御殿と称し、
本堂として再建されました。
しかし、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に発生した慶長伏見大地震により、
御黒戸御殿などが倒壊しました。
江戸時代の寛永16年(1639)に如周正専(じょしゅうしょうせん)が
隣接する龍華院を併合し、御黒戸御殿や諸堂の復興を成し、
中興の祖と呼ばれています。
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参道の正面には庫裏があり、泉山七福神巡りの5番札所本尊の
大黒天が祀られています。
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庫裏の前を右側へ曲がった所に拝観入口があり、拝観料400円を納め、
書院→霊明殿→龍華殿→悟りの間→月窓の間→庫裏の走り大黒天を巡ります。
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書院・れんげの間からは「しきしの景色」が楽しめます。
雪見障子の四角い窓ガラスからは椿・灯篭・楓・松が印刷された
色紙のように見えます。
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大輪の間には討ち入り前の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)筆の「龍淵」と
記された扁額が展示されています。
内蔵助が山科に籠っていた頃、内蔵助の親戚が山内塔頭の来迎院
住職をされていて、度々訪れていたと伝わります。
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縁には「瞑想石」が置かれています。
両足の土踏まずを石の上に乗せ、「阿(あ)」と発音するつもりでゆっくりと
息を吐き、その声が広がっていくのを想像します。
「宇宙は大日如来の大生命体であり、すべての始まりを「阿」で表します。
「阿」の字を対象に観想し、宇宙の永遠の心理を体得してみましょう。」と
記されています。
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大輪の間から見る書院の庭園。
昇り龍に見えるとも云えれる高い枯れ木は、かって雷に打たれたそうです。
今は避雷針が取り付けられ、寺を雷から護っています。
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霊明殿は明治元年(1868)に建立され、後光厳天皇、後円融天皇の尊像が
安置されている他、歴代天皇の尊牌が祀られています。

霊明殿の前に建つ灯篭は、最後の将軍・徳川慶喜から寄進されたもので、
かっては明治天皇の父である第121代・孝明天皇(こうめいてんのう)
ありました。
幕末の混乱期に薩摩藩によって放り投げられたものを、当時の住職が雲龍院へ
運び込ませ、現在地に据えられました。
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順路は霊明殿から本堂へと移ります。
本堂の前には勅使門があります。
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本堂には「龍華殿」の扁額が掲げられています。
堂内には、鎌倉時代作の薬師如来坐像を中尊、日光菩薩・月光菩薩立像を
脇侍とする薬師三尊像が安置されています。
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坪庭

東大路通まで下り、東大路通を高台寺への参道まで北上して参道を東へ進み、
洛陽三十三観音霊場・第九番札所の青龍寺へ向かいます。
続く

青龍寺

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東大路通から高台寺へ参道を東へ進むと、高台寺の山門があります。
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高台寺の山門の東南側に青龍寺があります。
青龍寺は山号を見性山(けんしょうざん)と号する浄土宗鎮西派の寺院です。
延暦8年(789)、第50代・桓武天皇の勅命により長岡京近郊の乙訓郡にある
小塩山に創建された大宝寺が始まりとされています。
平安京遷都により現在地に移転したのですが、その後荒廃しました。

鎌倉時代の建久3年に法然の弟子・見仏(けんぶつ)が再興して、
念仏道場とし、浄土宗に改宗して引導寺と改めました。
また、後白河天皇追善回願のため、法然上人を招いて六時礼讃を勤めました。
その際、住蓮(じゅうれん)が伏せ鉦の代わりに叩いたという「念仏石」が
本堂前に残されています。
その後、寛永年間(1624~1643)に知恩院32世・霊巌(れいがん)上人に
より青龍寺と改められました。
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本堂には聖観音像が安置され、洛陽三十三観音霊場・第九番の札所本尊
ともなっています。
唐の徳宗(とくそう)皇帝から献上された伽羅木を、桓武天皇が伝教大師最澄に
命じて彫刻されたと伝わります。
像高1mの細身の優雅な立ち姿で、昔から「伽羅(きゃら)観音」と呼ばれ、
信仰を集めてきました。
残念ながら非公開のようです。
門前には「法然上人御遺跡 六時礼讃根源之地」と刻字された石碑が
建立されています。
境内の撮影は禁止されています。

高台寺の廻りを巡り、雙林寺へと向かいます。
続く

高台寺周辺

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青龍寺から少し東へと進んだ所に高台寺の公衆トイレがあり、
その向かいに高台寺塔頭の春光院があります。
春光院は豊臣秀吉の正室である北の政所の甥で、木下家定の嫡男であった
木下勝俊によって創建されました。
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茅葺の山門前には「東山路傍の触れ仏」と称された
摩利支天の石仏が祀られています。
「東山路傍の触れ仏」とは、平成22年(2010)3月13日より始められたもので、
高台寺周辺の9種類の仏像・仏具を触れて回り、ご利益を受けようというものです。
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春光院から北へと進んだ右側(東側)に高台寺塔頭の月真院があります。
元和2(1616)年に北政所の従弟・久林玄昌(きゅうりんげんしょう)に
よって創建されました。
幕末の慶応3年(1867)6月~11月に新撰組から分離した
伊東甲子太郎(いとうかしたろ)以下15名が、孝明天皇御陵衛士を組織し、
月真院に屯所を構えました。
伊東甲子太郎は11月18日に近藤勇から酒席の接待を受け、その帰りに
油小路木津屋橋で待ち伏せをしていた新撰組に暗殺されました。享年33歳。
伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す囮として使われ、
引き取りに来た多くの同士も新撰組の手に掛かり、
御陵衛士の活動は終止符が打たれました。
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門前には「東山路傍の触れ仏」の布袋像が祀られています。
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通称「ねねの道」を北へと進み突き当りを右折して東へ進んだ南側に
西行庵があります。
西行庵の公式HPでは、西行が大原野の勝持寺に於いて、23歳で出家しその後
現在地に庵を結び、そして終焉の地とされています。
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一方、大阪の河南町にある弘川寺もまた終焉の地とされ、
こちらには西行の墓とされる「西行墳」が残されています。

西行法師の生涯についてはこちらをご覧ください。

この地には雙林寺(そうりんじ)の塔頭・蔡華園院(さいかおういん)があり、
西行が隠棲していました。
その後荒廃していましたが、江戸時代には松尾芭蕉が西行を慕い、
度々滞在しました。
また、江戸時代に西行庵は雙林寺から独立し、浄土宗知恩院派の
単独寺院となりました。
享保16年(1731)には花月庵が移され、明和7年(1770)には冷泉為村によって
修復がなされています。
しかし、明治時代中頃には荒廃を極め、明治26年(1893)に富岡鉄斎
勧進文を書き、庵主・小文法師が尽力して浄財を募り再建されました。
当時の京都市長・内貴甚三郎(ないきじんざぶろう)も再建に尽力されました。

現在は母屋の浄妙庵と茶室の皆如庵からなります。
画像はありませんが、茅葺の母屋は大徳寺塔頭の真珠庵の別院が移されました。
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花月庵の入口から入った右側に見えるのが皆如庵でしょうか?
北野の久我別邸から移された桃山時代の名席だそうです。
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横には井戸があります。
皆如庵では毎年3月中旬に西行忌茶会が行われています。
かっては、この井戸水が使われていたように思われます。
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奥にあるのが花月庵でしょうか?
現在は使われていないようです。

京都十二薬師霊場・第7番札所の雙林寺(そうりんじ)へ向かいます。
続く

雙林寺

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雙林寺(そうりんじ)は延暦24年(805)に桓武天皇の勅願により
最澄が創建したのが始まりと伝えられています。
最澄が唐から帰朝後、宮中で我が国初の護摩供を奉修し、
請来された天台密教経疏(きょうしょ)500巻及び護摩の器具を
桓武天皇に献上されました。
天皇の勅願によりこの地に伽藍が建立され、日本初の護摩祈祷道場とされました。
また、この地が唐の沙羅双樹林寺に似ていたことから、正式名称を
霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院と称されました。
霊鷲山(りょうじゅせん)はインドのビハール州のほぼ中央に位置する山で、
釈迦が『無量寿経』や『法華経』を説いたとされる山です。
弘仁14年(823)に延暦寺が建立されると、その別院となりました。
永治元年(1141)には、鳥羽天皇の皇女・綾雲女王(あやじょおう)が
住持となりました。
建久7年(1196)には、土御門天皇の皇子・静仁法親王(せいにんほうしんのう)が
この寺にて得度され、双林寺宮と称されるようになりました。
皇室とのかかわりも深く鎌倉時代までは、数万坪ともいわれる広大な寺領に
17の支院を有していましたが、建武2年(1335)に足利尊氏と新田義貞との
戦場となり荒廃しました。

至徳年間(1384~87)、国阿上人が入寺し、時宗国阿派の本山東山道場となり
中霊山とも号し、再興されました。
北朝第6代・後小松天皇が帰依され、至徳3年(1386)に
「金玉山」の宸額を賜りました。
室町時代になると、応仁・文明の乱(1467~1477)の兵火を受けて焼失し、
その後荒廃しました。

中世以降は、桜の名所で知られ、天正12年(1584)に羽柴秀吉が花見の宴を催し、
前田玄以に命じて、花樹保護の制札を立てさせました。
翌年には秀吉により朱印地が寄進され、本堂が再建されましたが、
慶長10年(1605)の高台寺建立に伴い、寺領が縮小されました。
更に承応2年(1653)には大谷祖廟の造営に伴い、寺領が縮小されています。
明治時代になると明治3年(1870)の上地令により境内が更に縮小されると
再び天台宗に改宗され、塔頭は独立するなどして廃されました。
上地された地は、明治19年(1886)に円山公園が造営されました。
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参道の右側には庭園が築かれています。
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庭園内には、薬師如来を抱いた伝教大師の童子像が祀られています。
昭和28年(1953)から二条城の北側にあった少年補導所の前庭に
安置されていましたが、平成22年(2010)に少年補導所が
ビルに入ることになり、雙林寺に遷されました。

本尊は薬師如来で、京都十二薬師霊場・第7番札所本尊ともなっています。
堂内には大聖歓喜天(かんぎてん)も祀られています。
歓喜天は十一面観世音菩薩によって善神に改宗し、
仏教を守護し財運と福運をもたらす天部の神とされています。
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本堂の左側には地蔵堂があります。
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持病平癒地蔵尊が祀られています。

親鸞聖人の墳墓である大谷祖廟へ向かいます。
続く

大谷祖廟

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雙林寺から東へ進んだ所に大谷祖廟の総門があります。
平成22年(2010)、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」の記念事業として、
本堂と総門の修復が行われ、総門の屋根内部より「文久二年壬戌歳
二月廿日上棟 四脚御門建立」と記された棟札が発見されました。
唐門(四脚御門)は安政4年以降に東本願寺から移築される予定でしたが、
安政5年(1857)の東本願寺焼失により移築予定の門も焼失したため、
現在の総門は当時に新築されています。
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総門を入り、その先で右に曲がって進んだ左側に鐘楼があります。
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鐘楼の手前、北側の正面に本堂があります。
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本堂前の右側に石段があります。
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石段を上った所に親鸞聖人の御廟があります。
親鸞聖人は弘長2年11月28日(1263年1月16日)に押小路南万里小路東にある
実弟の尋有(じんう)が院主である「善法院」にて、
90歳(満89歳)で入滅されました。
東山区今熊野にある延仁寺にて荼毘に付された後、大谷の地に埋葬され、
笠塔婆が立てられていました。
親鸞聖人が亡くなられて10年後、末娘の覚信尼が廟堂を建立して、
聖人の御影像を安置したのが本願寺のはじまりです。
当初は吉水の北の辺(現在の東山区林下町/知恩院塔頭の
崇泰院(そうたいいん)」付近)に建立されました。

元応3年(1321)、親鸞の曾孫で本願寺第三代・覚如により
「大谷廟堂」は寺院化され、寺号を「本願寺」としました。
寛正6年(1465)、延暦寺西塔の衆徒らによって「大谷本願寺」が
破却されましたが祖墳は護られ、「大谷道場」と称しました。
その後、浄土真宗の教団改革を巡る内紛や織田信長による「石山合戦」などで
「大谷道場」は破却や再建が繰り返されました。

慶長5年(1600)、知恩院の造営に伴い「大谷道場」は四条富小路に創建された
「徳勝寺」へ移されました。
旧地には知恩院塔頭「崇泰院」が建立されましが、祖墳遺跡は残されています。
慶長7年(1602)、本願寺の東西分派に際して、教如は東本願寺境内に親鸞、
及び本願寺歴代の仮墓を建立しました。
寛永16年(1639)、勝久寺は西本願寺に属するようになり、その後、
西本願寺の親鸞廟所として整備され、「大谷本廟」(西大谷)となりました。
寛文10年(1670)、第14代・琢如(たくにょ)は、東本願寺境内の親鸞、
および本願寺歴代の仮墓を教如・宣如の両墓と共に現在地に移し、
「大谷御坊」と称しました。

元禄14年(1701)、第17代・真如によって本堂が建立され、
延享2年(1745)には江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗より
一万坪の寄付を受けて寺基は拡充されました。

明治5年(1872)に「大谷管刹」(おおたにかんさつ)、明治9年(1876)には
「大谷別院」と改称されました。
更に昭和27年(1952)に「大谷本廟」、昭和56年(1981)に現名称である
「大谷祖廟」と改称されました。

洛陽三十三観音霊場・第7番札所で建礼門院が出家した寺と伝わる
長楽寺へ向かいます。
続く

長楽寺

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大谷祖廟から更に東へ進んだ所に長楽寺があります。
円山公園の南横を通り過ぎた所ですが、ここまで訪ねてくる人は少なく、
時は自分の歩みと共に流れていくようです。
灯篭が建ち並ぶ参道を進みます。
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三門をくぐります。
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三門の先に庫裡があり、受付で入山料を納めます。
庫裡の先に客殿があります。
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庭園は相阿弥の作と伝わります。
相阿弥は祖父・父に引き続いて足利将軍家に同朋衆として仕え、8代将軍・
義政の命により、慈照寺(銀閣寺)庭園の試作として造園されたと伝わります。
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池の奥に滝が組まれているのですが、水はほとんど流れておらず、
「八功徳水」と呼ばれる名水のはずが、薄氷が張ったように
どんよりと曇ったように見えます。
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池の右奥には茶室があります。
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客殿を出て石段を上った所に本堂があります。
現在の本堂は明治19年(1886)に焼失したため、西賀茂にある正伝寺
仏殿が移築されたもので、京都市の有形文化財に指定されています。
正伝寺の仏殿は、江戸時代の寛文6年(1666)に造営され、
明治23年(1890)に長楽寺に移築されました。

本尊は准胝観音(じゅんていかんのん)で、最澄の作と伝わります。
最澄が入唐の際に暴風で船が難破しかけ、最澄が船中で除難を祈願したところ、
頭に准胝観音を載せた二頭の龍神が示現し、風波を治めたと伝わります。
延歴24年(805)に唐より帰国した最澄は、同年、桓武天皇の勅命により長楽寺を
創建し、最澄が示現した准胝観音を自ら刻み、本尊としました。
唐の長楽寺が建つ風景と似ていたことから、長楽寺の寺名となったと伝わります。
弘仁14年(823)に延暦寺が建立されると、その別院となり、
当初は天台宗の寺院でした。

鎌倉時代の建久5年(1194)に延暦寺で天台教学を学んでいた隆寛律師
比叡山から下って長楽寺に住し、長楽寺を浄土宗に改めました。

南北朝時代の元中2年/至徳2年(1385)、当時の住職だった栄尊は
寺を国阿上人に譲ってその弟子となりました。
長楽寺は時宗に改宗され、時宗霊山派になりました。

室町時代になると応仁・文明の乱(1467~1477)で長楽寺は焼失しました。
その後再建され、豊臣秀吉からは寺地の寄進も受けますが、江戸時代の
寛文10年(1670)に大谷祖廟の造営の際に、幕命により境内が割譲されました。
文化年中(1804~1818)に再び浄土宗に改宗され、明治時代になると
境内の大半が円山公園に編入されました。
明治3年(1870)に再び時宗に改宗され、七条道場金光寺の末寺となりましたが、
金光寺の衰退により、長楽寺に合併され、
山号を東山から黄台山へと改められました。
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本堂の右側に鐘楼があります。
記録では明和5年(1768)に楽阿によって鐘楼が建立され、
前住職・与阿の遺志により梵鐘が鋳造されたとあります。
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梵鐘は戦時供出され、昭和31年(1956)に再鋳されました。
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本堂の右奥に建礼門院の御塔が建立されています。
文治元年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に海に飛び込んだ
平徳子は、ただ一人源氏軍の武将・渡辺昵(わたなべむつる) に救助されました。
平徳子は京都へ護送され、侍女の阿波内侍と共に長楽寺で出家し、
「直如覚」と名乗りました。
平家物語には、以下のように記されています。
「かくて女院は文治元年五月一日 御ぐしおろさせた給ひけり。 
御戒の師には長楽寺の阿証房の上人印誓とぞきこえし。 
御布施には、先帝の御直衣なり。」 
この十三重石塔は建礼門院の御髪塔と伝わります。
かっては、背後の山腹にある八丁台の景勝地に建っていましたが、
明治初年この地が国有地になった為、現在地に移されました。
背後の長楽寺山もかっては長楽寺の境内でしたが、明治の上地令で
境内地8400坪の内、5400坪が失われました。
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十三重石塔の奥の方に平安の滝があります。
落飾した建礼門院や法然上人の高弟・隆寛律師等も
この滝で修行されたと伝わります。
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滝の石組には8躯の石仏の他周囲には無数の石仏が祀られています。
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滝から奥へと進んで行くと収蔵庫があります。
収蔵庫は平成20年(2008)5月に火災によりほぼ全焼しましたが、
全ての文化財は住職らによって運び出され、難を逃れました。
現在の収蔵庫は翌年9月に再建されました。
収蔵庫に安置されている時宗祖師像7躯は、七条道場金光寺から
遷されたもので、国の重要文化財に指定されています。
金光寺は正安3年(1301)に仏師・運慶の三男・康弁が自らの宅地を
真教上人に寄進した事に始まると伝わります。
金光寺に残されていた代々の祖師像は、いずれも七条仏所の仏師によって
制作されました。
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収蔵庫の前に正保3年(1646)に七条仏所の仏師・法眼康音から奉納された
金光寺の石灯籠が建っています。
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収蔵庫から更に山手へ登り、外史橋があります。
橋の手前を右へ登って行くと「尊攘苑」と名付けられた水戸藩氏の
墓地がありますが、時間の都合で割愛しました。
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渡った先に頼山陽の墓所があります。
頼山陽は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人で、
安永9年12月27日(1781年1月21日)に大坂で生まれました。
主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えました。
文化8年(1811)から京都、洛中に居を構え、
天保3年(1832)に53歳で亡くなりました。
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ビルが立ち並ぶ京都市内ですが、愛宕山は昔の姿を留めています。

円山公園へ向かいます。
続く

円山公園

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長楽寺から下ってくると、円山公園の南東方向に坂本竜馬
中岡慎太郎の像が建立されています。
昭和11年(1936)に京都高知県人会の有志によって2人の銅像が造られましたが、
第二次大戦中に撤去され、昭和37年(1962)に再建されました。
因みに2人の墓所は共に付近の京都霊山護国神社にあります。
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円山公園のシンボルともいえる枝垂桜は、一重白彼岸枝垂桜
(ひとえしろひがんしだれざくら)が正式名になります。
現在の桜は二代目で、昭和22年(1947)に枯死したため、初代の桜から
種子を取り植栽されていたものを昭和24年(1499)に植えられました。
現在の容姿は,樹高12m、幹回り2.8m、枝張り10mです。
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ラジオ塔は昭和7年(1932)にNHK京都放送局が開局された際に、
ラジオの普及を図る目的で建立されました。
第二次大戦中に資材が供出され、昭和57年(1982)に京都放送局開局
50周年を記念して再建されました。
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円山公園は京都市で最も古い公園で、明治19年(1886)12月に太政官布告に
基づき公園地に指定され円山公園として誕生しました。
明治22年(1889)、市制施行時に京都府から京都市に移管され、
明治45年(1912)までの間に拡張されてきました。
自然の丘陵を利用した渓谷と池や噴水が建設され、野外音楽堂もあります。

神仏霊場・第116番札所の八坂神社へ向かいます。
続く

八坂神社

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円山公園の南西側に祇園祭の山鉾の収蔵庫があります。
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収蔵庫から八坂神社の境内へと入った左側に末社の稲荷神社があり、
下方に玉光稲荷社、上部に命婦稲荷社があります。
命婦稲荷社は玉光稲荷社の権殿(=社殿を造営・修理する間、神体を仮に
奉安する場所)であり、二社で一体とされています。
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右側には御神水が湧き出ています。
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御神水の左側に大神神社があります。
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伊勢神宮の内宮の祭神・天照大神と外宮の祭神・豊受大神が祀られています。
社殿は平成28年(2016)10月16日に、伊勢神宮の第62回式年遷宮による
撤去材を使用して修復されました。
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大神神社の左側に「忠盛灯篭」があります。
『平家物語・巻六「祇園女御」』を要約すると下記のような記述になります。
「平清盛は忠盛の子ではない。実は白河院の皇子である。
去る永久(1113~1117)の頃、祇園女御と呼ばれた、白河院が寵愛する女性が
祇園周辺に住んでいました。
5月20日のまだ宵の頃、白河院はいつものように女御の許へお忍びで出かけました。
その日は五月雨が辺り一面を暗くするほど降っており、女御の住む御堂の近くまで
辿り着いた時、前方に鬼のようなものが見えました。
その姿は、銀の針で頭が覆われ、片手には槌のような物を持ち、
片手には光る物を持った不気味なものでした。
白河院は供をしていた忠盛に討ち取るように命じましたが、
忠盛は正体を見定めようと生け捕りました。
捕えてみるとその正体は、松明を持ち、灯篭に燈明を灯そうとしていた
祇園の社僧でした。
雨を防ぐために被っていた蓑が、灯(ともしび)の光を受けて銀の針のように見え、槌のように見えたのは油壺でした。
無益な殺生を防いだ忠盛の思慮深さに人々は感嘆するところであった。」と
伝えています。
その後、法皇は祇園女御を忠盛に与え、その時既に女御は懐妊しており、
生まれた子が後の平清盛になったと物語には綴られています。
この灯篭は、その時社僧が灯そうとしていた灯篭と伝わります。
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「忠盛灯篭」の左側に悪王子社があり、素戔嗚尊の荒魂(あらみたま)が
祀られています。
悪とは「強力」の意味で、荒魂は現実に姿を顕わす霊験あらたかな神の意です。
かっては東洞院四条下る元悪王子町に鎮座されていましたが、
天正年間(1573~92)に烏丸通万寿寺下る悪王子町へと遷され、
慶長元年(1596)には四条京極へ遷された後、明治10年(1877)に
現在地に遷座されました。
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悪王子社の左側に美御前社(うつくしごぜんしゃ)があり、
宗像三女神が祀られています。
宗像三女神は天照大神が国造りの前に、素戔嗚尊との誓約(うけい)の際に
生まれた神とされています。
美人三姉妹として名高く、古くから祇園の舞妓や芸妓からの信仰を集めてきました。
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社殿前には「美容水」が流れ出て、肌に付けて身も心も美しくなれるように
祈願されています。
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境内の東北角に日吉社があり、方除けの神として祀られています。
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日吉社の左側に刃物神社があり、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が
祀られています。
天目一箇神は天津彦根命の御子神で、岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造ったとされ、
製鉄・鍛冶の神として信仰されています。
駒札には「苦難を断ち切り、未来を切り開く」と記されています。
画像はありませんが、刃物神社には「刃物発祥の地」の石碑が建立されています。
平安遷都以来、京都は王城の地として栄え、 刀剣を初め刃物の製作に
幾多の名工を輩出してきました。
京都で修業した人々が各地に転出させ、この技術を源流として、
それぞれ刃物産地の基礎を確立したとしてこの碑が建てられました。
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刃物神社の左側に五社殿があり、右側から八幡社、竈社、風神社、天神社、
水神社が祀られています。
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五社殿の左側に祖霊社があり、八坂神社の関係者が祀られています。
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祖霊社の左側に厳島社があり、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が
祀られています。
現在は社殿が工事中のため、御神体は本殿に遷されています。
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厳島社の左側にあるのは神輿庫でしょうか?
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北門の左側に絵馬堂があります。
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絵馬堂から参道は左側に折れ、南側に進んだ所に疫神社(みやみじんじゃ)があり、蘇民将来(そみんしょうらい)が祀られています。
『祇園牛頭天王御縁起』を要約すると下記のような内容になります。
牛頭天王は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛の頭をもち、また、
3尺の赤い角もあった。
后を迎えようとするものの、その姿形の怖ろしさのために近寄ろうとする
女人さえいない。
3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、
そのとき一羽の鳩があらわれた。
山鳩は人間の言葉を話すことができ、大海に住む八大龍王の一、
沙掲羅龍王(しゃがらりゅうおう))の娘のもとへ案内すると言う。
牛頭天王は娘の許へと旅立ち、旅の途中で裕福な弟の巨旦将来
(こたんしょうらい)に宿を乞うたが断わられ、貧しい兄の蘇民将来は
粗末ながらも歓待した。
蘇民将来の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を授け、
のちに蘇民は富貴の人となった。
龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女(はりさいにょ)を娶り、
8年をそこで過ごす間に七男一女の王子(八王子)をもうけた。
帰途、牛頭天王は八万四千の眷属を差向け、巨旦将来への復讐を図った。
巨旦将来は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが、
法師のひとりが居眠りしたために失敗し、巨旦将来の眷属五千余は
ことごとく蹴り殺されたという。
この殺戮のなかで、牛頭天王は巨旦将来の妻だけを蘇民将来の娘であるために
助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』
との護符を付ければ、末代までも災難を逃れることができる」と
除災の法を教示した。」
7月31日、疫神社の「夏越祭」では鳥居に大茅輪が設けられ、
参拝者はこれをくぐって厄気を祓い、又「蘇民将来之子孫也」の護符を授かります。
これにより7月1日の吉符入(きっぷいり)から始まった祇園祭は終了します。
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疫神社の右側に太田神社と白髭神社があります。
太田神社は祭神として、猿田彦神と天鈿女命(あまのうずめのみこと)が
祀られています。
天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降ろうとした際、
天鈿女命は高天原から葦原中国までを照らし、瓊瓊杵尊に随伴して天降りしました。
その後、国津神の猿田彦神が迎えに来て道案内をしました。
白髭神社には白髭大明神が祀られています。

舞殿までの参道の両側に大国主社、常盤神社、蛭子社及び西楼門と
南楼門は時間の都合で割愛し、後日早朝に訪れたいと思います。
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舞殿(ぶでん)は奉納行事の他、結婚式も行われる舞台で、
平成11年~平成16年(1999~2004)にかけて本殿の修復工事が
行われた際は仮本殿が置かれました。
軒下に吊るされている提灯は祇園甲部から奉納されたもので、
夜になると灯がともります。
平成21年(2009)に提灯の電球281個がそれまでの白熱電球から
LEDに取り替えられ、消費電力が従来の10分の1に減少しました。
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現在の本殿は承応3年(1654)に徳川4代将軍・家綱により再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
本殿と拝殿を一つ屋根で覆う「祇園造」と呼ばれる建築様式で造られ、
高さ約15m、広さは400坪に及び、檜皮葺の屋根で覆われています。

神仏分離令以前の八坂神社では牛頭天王が祀られていました。
飛鳥時代の齊明天皇(さいめいてんのう)2年(656)、高句麗の朝貢使・
伊利之使主(いしりのおみ)が、祇園社附近の八坂郷に新羅国の牛頭山の
素戔嗚尊を祀ったのが始まりとされています。
『日本書紀』には素戔嗚尊が御子の五十猛神(いそたけるのかみ)とともに
新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降臨されたと記されています。
一方で、日本神話の素戔嗚尊が朝鮮半島よりもたらされたのは不自然として、
渡来人が牛頭天王を祀り、その後の神仏習合により、素戔嗚尊と習合した
との解釈もあります。

創建当初は感神院または祇園社と称していました。
貞観11年(869)、卜部平麻呂(うらべ の ひらまろ)は、全国の国の数を表す
66本の矛を立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、
神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行いました。
これが祇園祭の起源とされ、疫病や恨みを抱いた死者の怨霊を
鎮めるための祭りでした。
元慶元年(877)に疫病が流行し、摂政・藤原基経は祇園社に祈願し、
平癒したことから自らの邸宅を寄進し、感神院の精舎としたと伝わります。
元慶3年(879)には第57代・陽成天皇より堀川の地十二町が神領地として寄進され、朝廷からも篤い崇敬を受けるようになりました。

第64代・円融天皇は、天延3年(975)6月15日に走馬・勅楽・御幣を奉られ、
これ以後、祇園臨時祭が6月15日に継続執行されるようになったと
考えられています。
真夏の祭となったのは、多くの感染症が流行する環境で、多くの人々が
脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと推定されます。
天延2年(974)には興福寺からの支配を脱して天台宗比叡山感神院祇園社と
なりました。
日吉大社には、祇園の神が降り立つ霊石「祇園石」が残されています。

長徳元年(995)には、王城鎮護の社として尊崇された二十一社(後二十二社)
のうちの一社となり、延久4年(1072)3月24日には後三条天皇が行幸され、
以降は度々天皇や上皇の行幸がなされました。

応仁・文明の乱(1467~1477)では社殿が焼失し、祇園会が中絶しました。
明応元年(1492)に再興され、本遷宮が行われ、明応6年(1497)には
現在の西楼門が再建されました。
明応9年(1500)に祇園会が規模を縮小して再開され、くじ改めが始められました。

江戸時代になると、徳川幕府により正保2年(1645)から社殿の再興が
開始されましたが、翌正保3年(1646)に本殿が焼失し、
現在の本殿は承応3年(1654)に徳川4代将軍・家綱により再建されました。

明治の神仏分離令により神仏習合色は廃され、八坂神社と改称されました。
社地も1/3に狭められ、その一部は円山公園となりました。
明治4年(1872)に官幣中社に列格、大正4年(1915)には官幣大社に
昇格しましたが、昭和20年(1945)に社格制度は廃されました。

次回は城南宮とその周辺を巡ります。

城南宮

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国道1号線と名神高速道路が交差する南側の四つ角の南東に城南宮があり、
神仏霊場・第83番札所となっています。

城南宮は延暦13年(794)の平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い
創建されたと伝わります。
王城の南に位置することから城南宮の名が付いたとされています。
かって、この地は鴨川に臨む水郷地であり、一方で深い森が拡がり、
貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地でした。
古くから貴族達はこぞってこの地に別邸を建て、平安時代の後期には
藤原季綱(ふじわら の すえつな)が自らの別邸を白河上皇に献上しました。
白河上皇は応永3年(1086)から大規模な拡張工事を行い、約2,000㎡の地に
南殿・泉殿・北殿・馬場殿・東殿・田中殿などを建立しました。
国道1号線から西にあるグラウンドの隅に「史跡 鳥羽殿跡」の碑が残され、
かってこの地には上皇が最初に造営した南殿がありました。
城南宮へ戻りますが、残念ながら現在は、激しい交通量と、けばけばしい
ホテル街の建物で、昔の面影はかき消されています。
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四つ角から国道1号線を少し南へ進んだ東側に城南宮の鳥居が建立されています。
文久元年(1861)に氏子の寄進によって建てられ、扁額の字は
関白・九条尚忠の書です。
慶応4年(1868)正月3日の鳥羽・伏見の戦いでは、この西の鳥居と鳥羽街道を結ぶ
参道に薩摩の軍勢が4門の大砲を据え、旧幕府軍を迎え撃ちました。
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参道を進んだ北側に朱塗りの鳥居が建立されています。
この鳥居は「城南宮鳥居」と呼ばれ、神明鳥居に属しますが柱下に饅頭があり、
棟の部分に島木・笠木を重ねて、さらに屋根が葺かれています。
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鳥居の手前右側に手水舎があり、「菊水若水」と呼ばれる霊水が湧き出ています。
江戸時代初期に、霊元法皇が「菊水若水」を飲むと痛みが治ったとの
記録が残されています。
また、東大寺のお水取りの香水は、若狭の遠敷川(おにゅうがわ)から
この「菊水若水」の下を通り、二月堂の若狭井に達すると伝えられています。
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鳥居をくぐった正面に拝殿があります。
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拝殿の手前、右側には神輿舎があります。
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拝殿の先、右側に平成8年(1996)に寝殿造りを模して
建立された神楽殿があります。
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本殿は現在工事中ですが、本殿前の前殿と左右の翼廊(よくろう)からなる
社殿は昭和53年(1978)に造営されました。
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かって、城南宮は熊野詣出発点であり、この地から淀川を下り、
八軒家船着場へと向かいました。
また、承久3年(1221)5月14日、後鳥羽上皇は城南流鏑馬の武者揃えを
口実に諸国の兵を集め、承久の乱が起こりました。
以後、流鏑馬は封じられました。
室町時代では応仁・文明の乱(1467~1477)などの戦乱で一時荒廃しました。
慶応4年1月3日~6日(1868年1月27日~30日)、戊辰戦争の初戦となった
鳥羽・伏見の戦いは城南宮の参道に置かれた薩摩藩の大砲が発射され始まりました。

本殿には祭神として国常立尊(くにのとこたちのみこと)と
八千矛神(やちほこのかみ)と
息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)が祀られています。
国常立尊は天地開闢(かいびょう)の際に最初に現れた神で『日本書紀』では、
「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」
の神であると記されています。

八千矛神は大国主の別名で、『日本書紀』では素戔嗚尊の息子、
また『古事記』などでは孫とされています。
国津神の代表的な神であり、素戔嗚尊の後を引き継ぎ少彦名尊
(すくなびこなのみこと)と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、
医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させた神とされています。

息長帯日売尊は神功皇后の別名で、神功皇后が三韓征伐へと出発の際に
船上に立てた旗に神功皇后・八千戈神(大国主神)の神霊を添えて
奉斎したのが城南宮の前身と伝わります。
また、城南宮の日・月・星の神紋は神功皇后の旗印だと云われています。
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本殿の東側には手前から春日社、大国主社、庚甲社(こうしんしゃ)、
金毘羅社、妙見社・天満宮社と並んでいます。
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本殿の西側には手前から稲荷社、兵主社(ひょうずしゃ)・住吉社・厳島社、
粟島社と並んでいます。
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東西の参道へと戻った南側に三照宮社があり、天照大御神が祀られています。
桧皮葺(ひわだぶき)の屋根の棟に「三光の紋」があり、
江戸時代の境内図には「三光社」と記されています。
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三照宮社の東側に離宮茶屋がありますが、本日は営業はされていないようです。
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離宮茶屋から東へ進んだ北側に絵馬殿があります。
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絵馬-その1
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絵馬-その2
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絵馬殿の東側に芹川天満宮(せりかわてんまんぐう)があり、
菅原道真が祀られています。
天永2年(1111)に城南宮の南の芹川の地に勧請されたと伝わり、
大正時代の初めに現在地に遷座されました。
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境内に建つ「唐渡(からわたり)天満宮」の石標は、東福寺を開いた
円爾(えんに)の助言により天神が中国に渡り、円爾が師事した
無準師範(ぶじゅん しはん)に参禅し、袈裟を授かったという
伝承によるものです。
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芹川天満宮の東側に真幡寸神社(まはたきじんじゃ)があり、
真幡寸大神と応神天皇が祀られています。
明治20年(1887)に城南宮は一時「真幡寸神社」と社名を改め、
戦後に「城南宮」に戻されています。
真幡寸神社の創建年代は不詳ですが、『日本紀略』弘仁7年(816)7月21日条に
「真幡寸神、官社の列に預る」との記載があります。
平安遷都以前から拓けたこの鳥羽郷一帯は、秦氏
勢力下にあり、秦氏の氏神としてかっては城南宮から東北の
伏見区竹田真幡木町にありました。
その後、鳥羽離宮が造営された頃に現在地に遷されたと考えられています。
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東の鳥居は文久元年(1861)9月に兵庫津の北風氏の寄進よって建立されました。
扁額は有栖川宮幟仁(たかひと)親王の染筆です。

近畿三十六不動尊・第22番霊場である北向不動院へ向かいます。
続く

北向不動院

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城南宮の東から出て、新城南宮通を東へ進み、阪神高速京都線を超えた
北側に北向不動院があります。
山号を「北向山」と号し、元は延暦寺の末寺でしたが、
現在は天台宗の単立寺院です。
大治5年(1130)、鳥羽上皇の勅願により興教大師を開山として、
鳥羽離宮内に創建されました。
大師自らが仏師・康助に不動尊像を刻ませ、王城鎮護のため北向きに
安置したことから、上皇から「北向不動院」の名を賜ったと伝わります。
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山門をくぐった右側に鐘楼があります。
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梵鐘は「一願不動梵鐘」と呼ばれ、元禄7年(1694)に三条釜座の
名越浄味(なごしじょうみ)によって鋳造されました。
名越浄味は織田信長の釜師で、茶釜の名工として「天下一」を号しました。
方広寺の大梵鐘を鋳造してからは梵鐘の方でも有名になりました。
梵鐘には第112代・霊元天皇の第一皇子・済深法親王(さいしんほっしんのう)の
銘が入っています。
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参道には手前から普賢菩薩、文殊菩薩、虚空蔵菩薩、
千手観音の石像が並んでいます。
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参道を進んだ左側に開山堂があります。
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開山堂の右側に「洗心井戸」があり、「洗心水」が湧き出ています。
嘉永2年(1849)から参詣者の心身を清める水として使われています。
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境内の奥には護摩壇が築かれ、背後には不動三尊像、更にその背後には
大日如来像が建立されています。
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護摩壇の東側に庫裏があります。
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大威徳明王と阿弥陀如来像
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降三世明王
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軍荼利明王
不動三尊像の周囲には軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王、
降三世明王、画像はありませんが金剛夜叉明王の五大明王像が建立されています。
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境内の西側には西門がありますが、石灯籠には火袋や笠がありません。
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西門内の塀沿いに地蔵堂があり、六体地蔵尊が祀られています。
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地蔵堂の先に灯篭の火袋や笠が置かれていて、その先に弁財天像が祀られています。
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本堂前の石灯籠には文政4年(1821)の刻字があります。
背後の建物が寺務所です。
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本堂前には「鳥羽天皇勅願所」の石碑が建立されています。
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現在の本堂は江戸時代の正徳2年(1712)に、第113代天皇・東山天皇の御殿が
移築されたものです。
大治5年(1130)、病にかかった鳥羽天皇は、病気平癒の祈祷を興教大師に
行わせた際に不動明王が出現し、天皇の病気が快復したと伝わります。
天皇の勅命を受けた大師は、仏師・康助に不動尊像を刻ませ、
本尊として北向きに安置しました。
不動尊像は、兵火や災難から護られ、国の重要文化財に指定されていますが、
秘仏とされ1月16日の採灯大護摩供のみ開扉されます。
堂内には大聖歓喜天や地蔵菩薩像などが安置されています。
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本堂の向かい側に護摩堂があります。
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護摩堂の右側に薬師堂があります。
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護摩堂と薬師堂の間を東へ進んだ先に不動滝があります。
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滝の正面には苔むした不動明王像が祀られています。
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滝の行者を見守るような位置に役行者像が祀られています。
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滝の右方向に大日如来の石像が祀られています。
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大日如来の右側には右に山王大権現社、左に稲荷大権現社が祀られています。
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大権現社から右方向に進むと多数の石仏が祀られています。
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石仏の前を東に進むと北向不動院の東の入口があります。

安楽寿院へ向かいます。
続く
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