円山公園の南西側に祇園祭の山鉾の収蔵庫があります。
収蔵庫から八坂神社の境内へと入った左側に末社の稲荷神社があり、
下方に玉光稲荷社、上部に命婦稲荷社があります。
命婦稲荷社は玉光稲荷社の権殿(=社殿を造営・修理する間、神体を仮に
奉安する場所)であり、二社で一体とされています。
伊勢神宮の内宮の祭神・天照大神と外宮の祭神・豊受大神が祀られています。
社殿は平成28年(2016)10月16日に、伊勢神宮の第62回式年遷宮による
撤去材を使用して修復されました。
大神神社の左側に「忠盛灯篭」があります。
『平家物語・巻六「
祇園女御」』を要約すると下記のような記述になります。
「平清盛は忠盛の子ではない。実は白河院の皇子である。
去る永久(1113~1117)の頃、祇園女御と呼ばれた、白河院が寵愛する女性が
祇園周辺に住んでいました。
5月20日のまだ宵の頃、白河院はいつものように女御の許へお忍びで出かけました。
その日は五月雨が辺り一面を暗くするほど降っており、女御の住む御堂の近くまで
辿り着いた時、前方に鬼のようなものが見えました。
その姿は、銀の針で頭が覆われ、片手には槌のような物を持ち、
片手には光る物を持った不気味なものでした。
白河院は供をしていた忠盛に討ち取るように命じましたが、
忠盛は正体を見定めようと生け捕りました。
捕えてみるとその正体は、松明を持ち、灯篭に燈明を灯そうとしていた
祇園の社僧でした。
雨を防ぐために被っていた蓑が、灯(ともしび)の光を受けて銀の針のように見え、槌のように見えたのは油壺でした。
無益な殺生を防いだ忠盛の思慮深さに人々は感嘆するところであった。」と
伝えています。
その後、法皇は祇園女御を忠盛に与え、その時既に女御は懐妊しており、
生まれた子が後の平清盛になったと物語には綴られています。
この灯篭は、その時社僧が灯そうとしていた灯篭と伝わります。
「忠盛灯篭」の左側に悪王子社があり、素戔嗚尊の荒魂(あらみたま)が
祀られています。
悪とは「強力」の意味で、荒魂は現実に姿を顕わす霊験あらたかな神の意です。
かっては東洞院四条下る元悪王子町に鎮座されていましたが、
天正年間(1573~92)に烏丸通万寿寺下る悪王子町へと遷され、
慶長元年(1596)には四条京極へ遷された後、明治10年(1877)に
現在地に遷座されました。
悪王子社の左側に美御前社(うつくしごぜんしゃ)があり、
宗像三女神が祀られています。
宗像三女神は天照大神が国造りの前に、素戔嗚尊との
誓約(うけい)の際に
生まれた神とされています。
美人三姉妹として名高く、古くから祇園の舞妓や芸妓からの信仰を集めてきました。
社殿前には「美容水」が流れ出て、肌に付けて身も心も美しくなれるように
祈願されています。
境内の東北角に日吉社があり、方除けの神として祀られています。
日吉社の左側に刃物神社があり、
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が
祀られています。
天目一箇神は
天津彦根命の御子神で、岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造ったとされ、
製鉄・鍛冶の神として信仰されています。
駒札には「苦難を断ち切り、未来を切り開く」と記されています。
画像はありませんが、刃物神社には「刃物発祥の地」の石碑が建立されています。
平安遷都以来、京都は王城の地として栄え、 刀剣を初め刃物の製作に
幾多の名工を輩出してきました。
京都で修業した人々が各地に転出させ、この技術を源流として、
それぞれ刃物産地の基礎を確立したとしてこの碑が建てられました。
刃物神社の左側に五社殿があり、右側から八幡社、竈社、風神社、天神社、
水神社が祀られています。
五社殿の左側に祖霊社があり、八坂神社の関係者が祀られています。
祖霊社の左側に厳島社があり、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が
祀られています。
現在は社殿が工事中のため、御神体は本殿に遷されています。
絵馬堂から参道は左側に折れ、南側に進んだ所に疫神社(みやみじんじゃ)があり、
蘇民将来(そみんしょうらい)が祀られています。
『祇園牛頭天王御縁起』を要約すると下記のような内容になります。
「
牛頭天王は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛の頭をもち、また、
3尺の赤い角もあった。
后を迎えようとするものの、その姿形の怖ろしさのために近寄ろうとする
女人さえいない。
3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、
そのとき一羽の鳩があらわれた。
山鳩は人間の言葉を話すことができ、大海に住む八大龍王の一、
沙掲羅龍王(しゃがらりゅうおう))の娘のもとへ案内すると言う。
牛頭天王は娘の許へと旅立ち、旅の途中で裕福な弟の巨旦将来
(こたんしょうらい)に宿を乞うたが断わられ、貧しい兄の蘇民将来は
粗末ながらも歓待した。
蘇民将来の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を授け、
のちに蘇民は富貴の人となった。
龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女(はりさいにょ)を娶り、
8年をそこで過ごす間に七男一女の王子(八王子)をもうけた。
帰途、牛頭天王は八万四千の眷属を差向け、巨旦将来への復讐を図った。
巨旦将来は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが、
法師のひとりが居眠りしたために失敗し、巨旦将来の眷属五千余は
ことごとく蹴り殺されたという。
この殺戮のなかで、牛頭天王は巨旦将来の妻だけを蘇民将来の娘であるために
助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』
との護符を付ければ、末代までも災難を逃れることができる」と
除災の法を教示した。」
7月31日、疫神社の「夏越祭」では鳥居に大茅輪が設けられ、
参拝者はこれをくぐって厄気を祓い、又「蘇民将来之子孫也」の護符を授かります。
これにより7月1日の吉符入(きっぷいり)から始まった祇園祭は終了します。
疫神社の右側に太田神社と白髭神社があります。
太田神社は祭神として、猿田彦神と天鈿女命(あまのうずめのみこと)が
祀られています。
天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降ろうとした際、
天鈿女命は高天原から葦原中国までを照らし、瓊瓊杵尊に随伴して天降りしました。
その後、国津神の猿田彦神が迎えに来て道案内をしました。
白髭神社には白髭大明神が祀られています。
舞殿までの参道の両側に大国主社、常盤神社、蛭子社及び西楼門と
南楼門は時間の都合で割愛し、後日早朝に訪れたいと思います。
舞殿(ぶでん)は奉納行事の他、結婚式も行われる舞台で、
平成11年~平成16年(1999~2004)にかけて本殿の修復工事が
行われた際は仮本殿が置かれました。
軒下に吊るされている提灯は祇園甲部から奉納されたもので、
夜になると灯がともります。
平成21年(2009)に提灯の電球281個がそれまでの白熱電球から
LEDに取り替えられ、消費電力が従来の10分の1に減少しました。
現在の本殿は承応3年(1654)に徳川4代将軍・家綱により再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
本殿と拝殿を一つ屋根で覆う「祇園造」と呼ばれる建築様式で造られ、
高さ約15m、広さは400坪に及び、檜皮葺の屋根で覆われています。
神仏分離令以前の八坂神社では牛頭天王が祀られていました。
飛鳥時代の齊明天皇(さいめいてんのう)2年(656)、高句麗の朝貢使・
伊利之使主(いしりのおみ)が、祇園社附近の八坂郷に新羅国の牛頭山の
素戔嗚尊を祀ったのが始まりとされています。
『日本書紀』には素戔嗚尊が御子の五十猛神(いそたけるのかみ)とともに
新羅国の
曽尸茂梨(そしもり)に降臨されたと記されています。
一方で、日本神話の素戔嗚尊が朝鮮半島よりもたらされたのは不自然として、
渡来人が牛頭天王を祀り、その後の神仏習合により、素戔嗚尊と習合した
との解釈もあります。
創建当初は感神院または祇園社と称していました。
貞観11年(869)、
卜部平麻呂(うらべ の ひらまろ)は、全国の国の数を表す
66本の矛を立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、
神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行いました。
これが祇園祭の起源とされ、疫病や恨みを抱いた死者の怨霊を
鎮めるための祭りでした。
元慶元年(877)に疫病が流行し、摂政・藤原基経は祇園社に祈願し、
平癒したことから自らの邸宅を寄進し、感神院の精舎としたと伝わります。
元慶3年(879)には第57代・陽成天皇より堀川の地十二町が神領地として寄進され、朝廷からも篤い崇敬を受けるようになりました。
第64代・円融天皇は、天延3年(975)6月15日に走馬・勅楽・御幣を奉られ、
これ以後、祇園臨時祭が6月15日に継続執行されるようになったと
考えられています。
真夏の祭となったのは、多くの感染症が流行する環境で、多くの人々が
脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと推定されます。
天延2年(974)には興福寺からの支配を脱して天台宗比叡山感神院祇園社と
なりました。
日吉大社には、祇園の神が降り立つ霊石「
祇園石」が残されています。
長徳元年(995)には、王城鎮護の社として尊崇された二十一社(後二十二社)
のうちの一社となり、延久4年(1072)3月24日には後三条天皇が行幸され、
以降は度々天皇や上皇の行幸がなされました。
応仁・文明の乱(1467~1477)では社殿が焼失し、祇園会が中絶しました。
明応元年(1492)に再興され、本遷宮が行われ、明応6年(1497)には
現在の西楼門が再建されました。
明応9年(1500)に祇園会が規模を縮小して再開され、くじ改めが始められました。
江戸時代になると、徳川幕府により正保2年(1645)から社殿の再興が
開始されましたが、翌正保3年(1646)に本殿が焼失し、
現在の本殿は承応3年(1654)に徳川4代将軍・家綱により再建されました。
明治の神仏分離令により神仏習合色は廃され、八坂神社と改称されました。
社地も1/3に狭められ、その一部は円山公園となりました。
明治4年(1872)に官幣中社に列格、大正4年(1915)には官幣大社に
昇格しましたが、昭和20年(1945)に社格制度は廃されました。
次回は城南宮とその周辺を巡ります。