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安楽寿院

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北向不動院の東の入口から出て東へ進んだ所に「白河法皇・鳥羽法皇 院政之地」
の石碑が建立されています。
白河天皇は応徳3年(1086)11月に実子である8歳の善仁親王
(第73代・堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位しました。
白河上皇は幼帝を後見するために自ら政務を執り、
これが院政の始まりとされています。
その背景には、藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治を抑え、
皇権の確立と律令の復興を企図するものでした。
成人した堀河天皇は自ら政務を執ろうとし、上皇の政治介入に反発していた
関白・藤原師通(ふじわら の もろみち)は天皇に協力しました。
白河上皇は嘉保3年(1096)に出家して法皇となり、政治との距離を
取ろうとしますが、承徳3年6月28日(1099年7月18日)に藤原師通は
悪瘡(あくそう)を患い38歳で急死しました。
後ろ盾を失った堀河天皇に、再び法皇の政治介入が始まりますが、
天皇は嘉承2年7月19日(1107年8月9日)に29歳で崩御されました。
同日、堀河天皇の皇子で白河法皇の孫にあたる第74代・鳥羽天皇
5歳で即位し、白河院政が本格化しました。

鳥羽天皇は保安4年(1123)正月28日に第一王子である5歳の
第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位します。
白河法皇が大治4年7月7日(1129年7月24日)に77歳で崩御されると、
鳥羽上皇は院政を開始し、藤原得子(美福門院)を寵愛するようになります。
藤原得子に鳥羽上皇の第9皇子が誕生すると、上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、
第76代・近衛天皇が僅か3歳で即位しました。
政務は引き続き鳥羽上皇が執り、崇徳院は実権無き上皇となりました。
病弱であった近衛天皇は久寿2年(1155)7月23日に17歳で崩御され、
守仁王(後の二条天皇)への中継ぎとして、その父の雅仁親王
(後の白河天皇)が即位することになりました。
保元元年7月2日(1156年7月20日)、鳥羽上皇が崩御されると、皇位を巡って
朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こりました。
崇徳院は讃岐国に配流され、8年後の長寛2年(1164)8月26日に
46歳で崩御されました。
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付近に「冠石」があります。
鳥羽天皇は崇徳天皇に譲位した後、白河上皇が創建した鳥羽離宮に入り、
保延3年(1137)から殿舎や仏殿を増築しました。
その際この石の上に冠を置き、これを中心に造営したと伝わります。
仏殿が安楽寿院の起源で、文献上に初見されるのは康治2年(1143)です。
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北側には鳥羽上皇の安楽寿院陵があります。
鳥羽離宮に入った鳥羽上皇は、東殿を造営し、保延5年(1139)に
自らの墓所として後に「本御塔」と呼ばれた三重塔を建立しました。
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上皇が崩御されると、一層に埋葬されましたが、その後焼失と再建が
繰り返され、元治元年(1864)に修陵されています。
元禄以後幕末まで近衛天皇陵が鳥羽天皇陵と誤認されていましたが、
修陵の際に修正されました。
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安楽寿院陵から少し東へ進んだ所に近衛天皇の安楽寿院南陵があり、
多宝塔が建立されています。
多宝塔は美福門院の墓所として保元2年(1157)に、「新御塔」として
建立されましたが、美福門院は遺言により高野山に埋葬されました。
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現在の多宝塔は慶長11年(1606)に豊臣秀頼が片桐且元(かたぎり かつもと)を
普請奉行として再建されたものです。
長寛元年(1163)に平安京郊外の船岡山麓にあった知足院から、
近衛天皇の遺骨が改葬されました。
近衛天皇の死は左大臣・藤原頼長の呪詛によるものという噂が流れました。
何者かが天皇を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打ち、
このため天皇は眼病を患い、そして亡くなった...。
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南陵の北側に三宝荒神社があります。
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火難除けの神として勧請し、慶長11年(1606)に建立されました。
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参道には二対の三尊石仏が祀られています。
平安時代の作で、江戸時代の享保年間(1716~1736)に境内の西にあった
成菩提院跡から釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊の石仏が出土しました。
この内、状態の良かった阿弥陀三尊像は京都国立博物館に寄託され、
二対が現在地に遷されました。
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三宝荒神社の鳥居前を東へ進むと収蔵庫があり、「本御塔」の扁額が
掲げられています。
収蔵庫には国の重要文化財に指定されている安楽寿院本尊の
阿弥陀如来坐像が安置されています。
「本御塔」の三重塔には鳥羽上皇が自ら写経した『法華経』を塔下に納め、
本尊して阿弥陀如来坐像を安置しました。
この像は定朝様(じょうちょうよう)の穏やかな作風の仏像で、
胸の中央に卍を刻むことから卍阿弥陀の称があります。
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境内に入った正面に大師堂があります。
安土・桃山時代の慶長元年(1596)に発生した慶長伏見地震により
「新御塔」が倒壊したため、仮殿として建立されました。
その後、勤行堂となり、慶長11年(1606)に「新御塔」が再建されるに当り、
現在地に移築され大師堂となりました。
堂内には、本尊の弘法大師像の他に旧塔頭の仏像も含め、大日如来、薬師如来、
聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、
歓喜天等が安置されています。
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大師堂の右側に昭和33年(1958)に再建された薬師堂があります。
かっては、阿弥陀如来像が安置され、阿弥陀堂と呼ばれていましたが、
収蔵庫が完成した後、阿弥陀如来像は収蔵庫に遷されました。
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薬師堂の前にある鐘楼は、慶長11年(1606)に豊臣秀頼による修造の際に
再建されました。
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境内の西側に山門があります。
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山門内の正面には寛政7年(1795)に建立された右に書院と左奥に庫裏があります。
境内は国の史跡に指定され、「明治天皇御休所」の石碑が建立されています。

白河天皇の成菩提院陵へ向かう予定でしたが、急用のため後日となりました。
次回からは春の青春18きっぷを利用して伊勢市を巡ります。

皇大神宮(内宮)

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伊勢神宮へは昨年、バスツアーで二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)
→豊受大神宮(外宮)→皇大神宮と巡りました。
もう少し深く伊勢市を巡りたいとの思いで、春の青春18きっぷの1回目を使用し、
京都駅発5:49の米原行に乗車しました。
6:12に草津駅着き草津線に乗り換えますが、その時間は2分しかありません。
予め調べておいた階段近くに着く6号車に乗車しましたので、余裕で6:14発の
柘植行に乗車することができました。
草津駅を発車して間もなく朝日が昇ってきました。
太陽の力はまだ弱く、赤から白へと移りゆく光をぼんやりと眺めながら
柘植駅へと向かいました。
7:04に柘植駅に着き、7:09発の亀山行に乗り換え、亀山駅で7:40発の
伊勢市行に乗り換えます。
9:13に伊勢市駅に着き、9:21発の内宮前行のバスに乗り換え、9:40頃に
五十鈴川に架かる宇治橋前に到着しました。
皇大神宮の詳細についてはこちら(その1その2)をご覧ください。
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今年も神苑の梅の木がきれいな花を咲かせていますが、
三本の花の色が異なっています。
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参道を進みます。
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まず正宮へ参拝します。
これより先の撮影は禁止されています。
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正宮から北へ進み荒祭宮へ参拝します。
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荒祭宮から右手の参道を下ってきた所にある由貴御倉(ゆきのみくら)です。
古くはお供えものや果物などを納めていました。
由貴とは、清浄でけがれのないという意味を持っています。
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由貴御倉の左側にある御酒殿(みさかどの)です。
酒の神をお祀りし、古くはここで神酒を醸造していました。
現在は、三節祭(さんせつさい)の前に酒麹を奉納し、白酒、黒酒、醴酒、
清酒の四種類の神酒を一旦納めます。
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忌火屋殿(いみびやでん)の前にある祓所(はらえど)です。
忌火屋殿は神饌を調理する所で、祓所は祭典の前に神饌と神職を祓い清めます。
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祓所の東側にある別宮(荒祭宮)遥拝所です。
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伊勢神宮は神仏霊場・神仏同座の道・特別参拝所となっています。
バスツアーの時は混雑していた授与所も、今回は待ち時間無で朱印を頂けました。
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授与所から風日祈宮(かざひのみのみや)へ向かい、前回見逃していた橋の
南西端にある擬宝珠を注目して見ました。
「太神宮 風宮 五十鈴川御橋 明応七年(1498)戌午 本願観阿弥」と
刻字されています。
記録ではこの橋が初めて架けられたのが明応七年で、創建当初のものと思われます。
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覆鉢には「奉行 山口丹波守 源直信 嘉永六年(1853)」と記されています。
寛政年代(1789~1801)の式年遷宮から擬宝珠が新しく鋳造されたの記録があり、
この擬宝珠のみ創建時のものが残され、その下のの覆鉢は嘉永6年の
式年遷宮で交換されたと思われます。
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駐車場まで戻り、林崎文庫へ向かいましたが、門の手前からは
立ち入り禁止になっていました。
奈良時代の天平神護2年(766)に内宮に文殿(ふどの)が置かれ、
文書類の保管が行われるようになりました。
外宮には、鎌倉時代の弘長元年(1261)に神庫(しんこ)が創建されました。
江戸時代の慶安元年(1648)、外宮の東隣の豊宮崎(現在の伊勢市岡本3丁目)に
豊宮崎文庫が設立されると、貞享4年(1687)には五十鈴川西岸の丸山
(現在の宇治今在家町の内宮前駐車場)に内宮文庫(ないくうぶんこ)が
設立されました。
しかし、丸山は多湿で文書の保管に不適切と判断され、3年後の
元禄3年(1690)に丸山の北に隣接する林崎に移転、林崎文庫と改称されました。
明治40年(1907)に神宮文庫が設立されると林崎文庫の蔵書10,978冊は
神宮文庫に移されました。
旧林崎文庫は神宮司庁に管理され、昭和29年(1954)12月25日に
国の史跡に指定されました。
春と秋の神楽祭に合わせて年間数日一般に無償で公開されています。

猿田彦神社へ向かいます。
続く

猿田彦神社

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内宮からバス道(伊勢街道)を北へと進み、「宇治浦田町」の信号を左折した
先に猿田彦神社があります。
内宮から徒歩約15分の距離です。
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境内に入った右側に佐瑠女神社(さるめじんじゃ)があり、
天宇受賣命(あめのうづめのみこと)が祀られています。
天宇受賣命は、天児屋命(あめのこやねのみこと)、太玉命(ふとだまのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)、石凝姥命(いしこりどめのみこと)と
共に五伴緒の一人として邇邇芸命(ににぎのみこと)に随伴して天降りしました。
邇邇芸命の一行が天降りする際に、天の八衢(やちまた=道がいくつもに
分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいて、
天宇受賣命はその神の名を聞きました。
その神の先導により邇邇芸命達は無事に葦原中国に着き、邇邇芸命は
天宇受賣命にその神の故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ
送り届けるように告げました。
その神の名は猿田彦命で、天宇受賣命は猿田彦命に仕え、
「猿女君(さるめのきみ)」と呼ばれるようになりました。
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佐瑠女神社の斜め向かいに本殿があり、猿田彦命とその子孫の大田命が
祀られています。
猿田彦命はこの地に鎮まり、大田命は第11代・垂仁天皇の御代(BC29~70)、
伊勢に到着した倭姫命(やまとひめのみこと)に、
五十鈴川の川上の地を献上し、皇大神宮が創建されました。
大田命の子孫は「宇治土公(うじのつちぎみ)」と称し、神宮に
「玉串大内人(たまぐしおおうちんど)」として代々奉職しました。
宇治土公が邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦命を祀っていましたが、
明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、
屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社です。

社殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造で、欄干や鳥居には
八角形の柱が使用されています。
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社殿前に建つ八角柱の石柱は、昭和11年(1936)に現在の社殿が造営されるまで
永く御神座のあった最も神聖な場所です。
石柱には「十干十二支(じゅっかんじゅうにし)」の方位が刻まれ、猿田彦大神の
「みちひらき」の御神徳を表すものです。
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境内には「たから石」が祀られています。
宝船を連想させる舟形の石で、蛇が乗っているように見えるため、
特に縁起の良い石とされています。
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社殿の裏側へ廻ると本殿の一部が見えます。
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社殿の裏側を出た所に御神田があり、毎年5月5日に三重県無形文化財指定の
御神田祭が斎行されます。
桃山時代の風俗を残す装束を身にまとい、田楽に合わせて植方によって
苗が植えられます。

月讀宮へ向かいます。
続く

月讀宮

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猿田彦神社から南勢バイパスを北東方向に20分弱歩いた所に
月讀宮(つきよみのみや)があります。
皇大神宮の別宮で、別宮としては荒祭宮(あらまつりのみや)に次ぐ順位で、
内宮宮域外の別宮としては最高位の別宮です。
古くは天皇の勅書により、後には官符をもって宮号を宣下された神社のみが
宮号を称しました。
月讀宮の創始についての詳細は不明ですが、奈良時代には月讀社と称され、
平安以前に月讀宮の宮号を有していたと考えられています。
延暦23年(804)に選述された『大神宮儀式帳』に「月讀宮一院、正殿四区」と
記され、一囲の瑞垣内に四社が祀られていたと推定されています。
仁寿3年(853)に洪水により社殿が流失し、斉衡2年(855)に現在地に
遷座されました。
貞観9年(867)に伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮の宮号が与えられました。
延長5年(927)の延喜式によれば、この時代には伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮に
瑞垣をめぐらして一院とし、月讀宮と月讀荒御魂宮が同様に
一院となっていたとされています。
明治6年(1873)より、4社とも個別の瑞垣を持つ現在の形になりました。
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宮域には右側に月讀荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)があり、
月讀尊の荒御魂が祀られています。
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月讀荒御魂宮の右側に月讀宮があり、月讀尊が祀られています。
月讀尊は月を神格化した神であり、天照大御神の弟神で須佐之男命の
兄神とされています。
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月讀宮の左側に伊佐奈岐宮、その左側に伊佐奈弥宮があり、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が
祀られています。
伊弉諾尊は、天地開闢において神世七代(かみのよななよ)の最後に
伊弉冉尊と共に生まれた神です。
天照大御神、月讀尊、須佐之男命の父神とされ、
神武天皇の7代先祖とされています。
伊弉諾尊は高天原の神々に命ぜられ、海に漂っていた脂のような国土を
固めるべく、天の浮き橋から矛で海をかき回し、出来上がった
オノコロ島にて伊弉冉尊と結婚しました。
国産み・神産みにおいて伊弉冉尊とで日本列島を形づくり、石・木・海
(大綿津見神)、水・風・山(大山津見神)や野・火など森羅万象の
神を生み出しました。

倭姫宮(やまとひめのみや)へ向かいます。
続く

倭姫宮

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月讀宮から西北方向に進むと、御幸道路の先に大鳥居が聳えています。
平成5年(1993)に鋼鉄製で建立されたもので、高さ22.7m・幅19mあります。
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大鳥居をくぐった先の右側に神宮文庫があります。
神宮文庫は伊勢神宮が運営する図書館で、明治40年(1907)に設立されました。
明治42年(1909)5月、伊勢神宮周辺の整備を目的として倉田山に
神宮徴古館(じんぐうちょうこかん)が建設されました。
神宮文庫は大正14年(1925)に、内宮前の宇治舘町から神宮徴古館に
隣接する現在地に移転しました。
日本の文化や伝統の調査、研究に欠くことのできない貴重な神道、文学、
歴史などの和書を永久に保存することを目的とし、20万冊の和書を含む
約31万冊を収蔵しています。
木曜日・金曜日・土曜日の午前9時~午後4時には一般の閲覧も可能です。
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道路を渡った左側に倭姫宮(やまとひめのみや)への参道入り口があります。
倭姫は尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝わり、大正11年(1922)に
隣接する倉田山に内宮の別宮として倭姫宮が創建されました。
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参道を5分弱歩くと石段があります。
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石段を上った所に倭姫宮があります。
第10代・崇神天皇(すじんてんのう)の治世6年(BC24)、百姓の流離や背叛など
国内情勢が不安になったのは、宮中に天照大神と倭大国魂神
(やまとのおおくにたまのかみ)の2神を祀ったのが原因と考えました。
そこで、天皇は皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に天照大神を託し、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀らせました。
また、倭大国魂神は渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと)に託して、
後に大和神社に祀ったとされています。
倭姫命は第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)の第4皇女で、
豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神のご神体である八咫鏡(やたのかがみ)を
大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、
神託により皇大神宮を創建したとされています。
伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて
後の斎宮となりました。
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県道37号線まで戻り、県道を少し北へ進んだ左側に常盤町にあった
御師・葉山大夫家の薬医門が移築されています。
鬼瓦には嘉永6年(1853)11月の銘が残されています。
門へは立ち入ることはできませんが、その先は神宮徴古館へと
続いているようです。
御師とは、「御祈祷師(おいのりし)」を略したもので、平安時代のころから
神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社の参詣の世話をする
神職も指すようになりました。
御師は伊勢神宮への参宮者を檀家と呼び、檀家は御師の家に宿泊して
神楽を奏上し、外宮・内宮と参拝しました。
年末になると御師は、神宮のお祓い大麻(神札)を檀家に届けました。
明治4年(1871)7月には御師職そのものが廃止され、現在、広大な御師邸は
ほとんど残っておらず、多くの資料も失われています。

豊受大神宮(外宮)へ向かいます。
続く

豊受大神宮~月夜見宮

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県道37号線を北上し、突き当りを左折して県道22号線を西へと進みます。
左側に日蓮上人の誓願霊場があります。
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かって、この地に「常明寺」があり、日蓮上人は寺に百日間籠もり、
井戸の水をかぶって身を浄め、伊勢神宮に百日参りされたと伝わります。
明治の廃仏毀釈で「常明寺」は廃寺となりましたが、境内は整備され
「誓願の井戸」が残されています。
日蓮上人は「我、日本の柱とならん」「我、日本の眼目とならん」
「我、日本の大船とならん」と三つの誓いを立て、それを皇大神宮に
誓願したとされ、この年、日蓮宗は立教開宗されました。
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境内の奥にはそれを記念する宝塔が建立されています。
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13:00になる少し前に豊受大神宮に到着しました。
豊受大神宮の詳細はこちらをご覧ください。
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豊受大神宮の入口に架かる「火除け橋」を渡った右側に「清盛楠」があり、
前回画像を撮り忘れました。
平清盛が勅使として参向した時、冠にふれた枝を切らせたという
伝承が残されています。
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正宮へ参拝します。
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正宮へ参拝した後に前回行き忘れた下柳井神社(しものみいのじんじゃ)へ
向かいました。
下御井神社は、井戸を護る覆屋が社殿の代わりとなっています。
多賀宮には、近世まで毎月6度の御饌(みけ)を調製する
忌火屋殿(いみびやでん)がありましたが、明治時代に外宮の御饌殿で
御饌を供えることになったため、忌火屋殿は廃止されました。
下御井神社は、多賀宮の忌火屋殿廃止まで使われていた井戸で、
現在は上御井神社の予備の井戸とされています。
但し、上御井神社は立ち入ることができません。

豊受大神宮は、皇大神宮と共に神仏霊場・神仏同座の道・特別参拝所と
なっています。
授与所で朱印を頂き、月夜見宮へ向かいました。
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豊受大神宮からJR伊勢駅へ向かい、駅の手前で左折して西へ進んだ先に
月夜見宮があります。
月夜見宮は豊受大神宮の別宮で唯一、宮域外にある神社で、
内宮宮域外の別宮は「月讀宮」と表記されています。
月夜見宮は古くは高河原(たかがわら)と呼ばれ、農耕の神を祀る神社で
あったと伝わります。
奈良時代には豊受大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られ、第一別宮である
高宮(多賀宮)に次ぐ格式を有していたことが記録に残されています。
承元4年(1210)に別宮に昇格しました。
明治時代に外宮別宮の「つきよみのみや」は「月夜見宮」、内宮別宮は
「月讀宮」と表記するようになりました。
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社殿には月夜見尊(つきよみのみこと)と、その荒ぶる神霊である
月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)の2柱の神が祀られています。
月の満ち欠けに基づく暦(太陰暦)を用いて農作業の計画を立ててきた
農業にゆかりのある神とされています。
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社殿の右側後方に外宮摂社の高河原神社があり、
月夜見尊の御魂が祀られています。
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社殿の左側には楠の大樹があり、その根には稲荷神が祀られています。
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JR伊勢市駅へ向かいます。
ホームで弁当を食べていると、小鳥がおねだりに来ました。
14:06発の快速・鳥羽行に乗車し、二見浦駅へ向かいます。
続く

太江寺

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14:12に二見浦駅に着きましたが、
今回は二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)へは向かいません。
国道42号線を歩いたのですが、レストランが気になります。
伊勢市駅のホームで弁当を食べたのですが、空腹が満たされず、
二度目の昼食をとりました。
ついでにビールも...
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元気を取り戻して国道を進み、正覚寺の角を右折して南へ進んで行くと、
コミュニティセンターの建物前に猿田彦石があります。
二見興玉神社の祭神は猿田彦大神で、猿田彦石は猿田彦大神に見立てて、
古来崇拝されてきました。
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猿田彦石の先に十王堂があります。
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堂内の上段中央に阿弥陀如来像が安置され、その左右に閻魔大王像他六躯、
下段に五官王像他四躯の十王像に五道冥官(ごどうみょうかん)、
倶生神(くしょうじん)、奪衣婆(だつえば)の像が安置されています。
倶生神は人の善悪を記録し、死後に閻魔大王に報告する神で、
奪衣婆(だつえば)は、三途川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼です。
五道冥官は地獄・餓鬼・畜生・人間・天人の五世界(五道)の衆生が
冥土へ行ったとき、閻魔大王の裁判を手伝います。
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十王堂の先から登り坂になります。
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坂を登った所に仁王門があります。
享保6年(1721)に建立され、平成19年(2007)に修復されました。
山号「潮音山(ちょうおんざん)」の扁額は空海の直筆と伝わります。
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仁王像は享保13年(1728)に安置され開眼供養が行われました。
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門の内側には修復の際に取り換えられた鯱(しゃちほこ)が展示されています。
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参道を進んだ先に石段があり、その上に庚申堂(こうしんどう)があります。
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青面金剛の石仏が本尊として祀られ、干支の「申」が庚申の「申」と
同じことから猿が庚申の神使いとされています。
また、猿田彦神とも結びついています。
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庚申堂への石段の右側に本堂への石段があります。
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石段を上った正面に本堂があります。
天平年間(729~749)、僧・行基は奈良の大仏勧進のため、諸国を行脚し、
この地に立ち寄りました。
行基は天照大神のお告げを受けて、二見浦で興玉神を参拝したところ、
金色の千手観音を感得しました。
その姿を刻んで祀るため開創したのが太江寺で、鎮守社として
興玉社も境内に祀ったと伝わります。

天長2年(825)、空海は伊勢市朝熊町岳にある金剛證寺を中興しました。
その際、太江寺にも再三訪れて教義を伝えたことにより
真言宗寺院として発展しました。
第60代・醍醐天皇(在位:897~930年)は病気平癒の願いが叶ったとして、
本堂である七間四面の観音堂を建立し、勅願寺としたため大いに栄えました。

しかし、平安時代末期には衰退し、それを見かねた伊勢神宮の神主である
荒木田成長が、文治年間(1185~1190)に現本尊の千手観音坐像を寄進し、
諸堂を再建しました。

天文6年(1537)に再建された観音堂は、江戸時代の寛永11年(1634)に
強風で倒壊し、その後再建されましたが貞享3年(1686)6月25日に
落雷により堂宇は全焼しました。
幸いにも本尊は運びだされて難を逃れたましが、古い仏像や寺物が
この時に焼失したようです。
現在の本堂(観音堂)は文化10年(1814)に再建されたものです。

本尊は像高176cmで鎌倉時代作の木造千手観世音菩薩坐像で、
国の重要文化財に指定され、秘仏とされています。
頭部に興玉神のご神体の観音像が納められていると伝えられています。
本尊の脇侍として向かって右側には、江戸時代作で像高80cmの
木造不動明王立像が安置されています。
本尊の脇侍として向かって左側には、江戸時代作で像高87cmの
木造毘沙門天立像が安置されています。

木造聖観音坐像は像高40cmで室町時代の作、銅造歓喜天立像は
元禄16年(1703)に、山田奉行の長谷川重章より寄進されたもので、
厨子内に納められ、秘仏とされています。
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本堂の左側には興玉社が祀られています。
太江寺が開創された際に行基によって創建されましたが、
明治30年(1897)に二見浦へ遷座されました。
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しかし、二見蛙の御神体の蛙石や御神鏡は現在も祀られ、
元興玉社と称されています。
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興玉社の前には、猿田彦大神の神使いとされるカエル像が祀られています。
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境内の西側には石仏が墓石が並び、その上段には行基像が祀られています。
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石仏の右側には薬師堂があります。
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行基像の奥には弘法大師ゆかりの伏見稲荷社が祀られています。

皇大神宮の摂社である江神社(えじんじゃ)へ向かいます。
続く

江神社~栄野神社

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太江寺の十王堂まで戻り、南西方向に進んだ木立の中に皇大神宮の
摂社・江神社(えじんじゃ)があります。
神社の左側にはJR参宮線が通っています。
内宮の摂社27社のうち第17位になります。
かっては五十鈴川がこの辺りを流れ、その入り江から「江」という
地名になったようです。
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江神社は倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神のご神体である
八咫鏡(やたのかがみ)を大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て
伊勢の国へ入った際に定められたとされています。
御塩浜から船で五十鈴川の入り江に到着した倭姫命は、
第11代・垂仁天皇25年(656)に堅田神社を定めた後、五十鈴川の入り江で
佐見津日子命に会い、地名を尋ね、「江社」を定めたとされています。
その後衰退し、寛文3年10月11日(1663年11月10日)に再興されました。
大正2年(1913)12月に建て替えられ、昭和52年(1977)9月21日にも
造り替えられています。
祭神として、長口女命(ながくちめのみこと)、
大歳御祖命(おおとしのみおやのみこと)、
宇加乃御玉命(うかのみたまのみこと)が祀られています。
長口女命は元伊勢の祭神にもなっている女神であり、
別名を「江之姫」と言い、弁才天と同じ神です。

大歳御祖命は神大市比売(かむおおいちひめ)の神名で、須佐之男命の
妻となり宇加乃御玉命を産みました。
宇加乃御玉命は稲荷神であり、農耕の神とされています。
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江神社から南東方向に進み、JR参宮線の踏切を超えた先に
栄野神社(えいのじんじゃ)があります。
二見興玉神社の飛び地境内社の摂社で、「江」の神社が栄野神社と
呼ばれるようになったと伝わります。
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道路から鳥居をくぐって進んだ先でUターンした所に拝殿があります。
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本殿には、倭姫命を五十鈴川の入り江で迎えた佐見津日子命と、
倭姫命が地名を訊ねた時、「二見」と答えた大若子命(おおわくごのみこと)の
二柱が祀られています。
佐見津日子命と堅田神社の祭神・佐見都日女命(さみつひめのみこと)は
夫婦神で、相参りて御塩浜御塩山を奉ったと記載が残されています。
佐見とは地名で、二見浦に「大夫の松」と云う大樹の生たる山が「佐見の山」、
山の麓を流れる川は「佐見川」と呼ばれていました。
倭姫命が二見を訪れた時に、佐見都日女命は倭姫命に堅塩(粗製の塩)を
奉じました。
倭姫命はこれを喜び、堅田神社を定め、これが二見浦で内宮・外宮へ納める
御塩を生産する起源となりました。

大若子命は南伊勢の豪族で、垂仁天皇の頃、朝廷より越の国(北陸)の
賊徒・阿彦を討伐することを命ぜられ、 大いに旗(幡)を挙げて
戦いに勝ったので、大幡主命の尊称を与えられました。
また、倭姫命が伊勢神宮を創建した際に協力したことにより、
神国造(かみのくにのみやつこ)と神宮の大神主に任じられました。
大若子命は当初は境内社の若宮社に祀られていましたが、
明治43年(1910)3月30日に合祀されました。
その後、昭和20年(1945)7月8日に二見興玉神社に合祀されましたが、
同26年(1951)1月、当地に再び遷座されました。

栄野神社では毎年1月14日に湯立神事が行われますが、かっては
伊勢参りの一切を取り仕切った御師(おんし)の邸で行なわれていた
儀式でもあります。

二見シーパラダイスの前にバス停はありますが、本数は少ないので
30分余り歩いてJR二見浦駅まで戻ります。

春の青春18きっぷの2回目は兵庫県小野市~神戸市を巡る予定です。

浄土寺

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春の青春18きっぷの2回目を使い兵庫県小野市にある浄土寺へ向かいました。
京都駅発6:08の快速・網干行に乗車し、大阪で6:51発の新快速・姫路行に
乗り換えます。
7:44に加古川駅に着き、加古川線に乗り換え、8:00発の西脇市行に乗車し、
8:26に粟生(あお)駅に到着しました。
粟生駅で同じホームにある神戸電鉄線に乗り換え、8:34発の新開地行に乗車し、
8:38に小野駅に到着しました。
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小野駅前から「らんらんバス」に乗り換えますが、月・水・金と火・木・土では
時間が異なります。
9:05小野駅発イオン行に乗車し、9:13にイオン着、9:55発の北回り循環に
乗り換えます。
ようやくの思いで10:08に浄土寺前に到着しました。

バス停の前から浄土堂が望めます。
浄土寺は山号を極楽山と号する高野山真言宗の寺院で、
新西国三十三所観音霊場の客番札所となっています。
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正面から右側へ進んだ、南側にある境内入口にある石段の脇に
「加東準四国六十一番霊場」と刻まれた石標が建立されています。
旧加東郡内(現在の小野市と加東市)の四国霊場八十八か所を写した
加東四国八十八霊場は、江戸時代の享和年代(1801~1804)以前に
行われていたことが文献に残されています。
大正7年(1918)から復興され、「準」とは四国霊場に準ずるという
意味があるようです。
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石段を上ったやや左前方に浄土堂(阿弥陀堂)があり、
堂内の拝観に500円を納めます。
浄土堂は鎌倉時代初期の建久5年(1194)に上棟し、同8年(1197)に
落慶供養を行ったとの記録があり、国宝に指定されています。
浄土寺の開山とされる僧・重源は、源平の争乱で焼け落ちた東大寺の
大仏及び大仏殿の大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となりました。
その拠点として日本の7か所に東大寺の「別所」を造り、
「播磨別所」が現在の浄土寺で、東大寺の領地でした。

重源の時代、日宋貿易が盛んに行われ、僧の渡海が活発になった時期に当たり、
重源は三度も入宋しています。
重源は宋で当時の最新式の建築様式を学び、大仏殿の再建に
この様式を採用しました。
現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、
鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えました。
文治元年8月28日(1185年9月23日)に大仏の開眼供養が行われ、
建久6年(1195)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203)に総供養が営まれました。
しかし、大仏殿は戦国時代の永禄10年(1567)に三好三人衆との戦闘で
松永久秀によって再び焼き払われました。
重源が手がけた大仏様建築で現存するものは東大寺南大門と開山堂、
そして浄土寺の浄土堂のみです。

浄土堂は正面・側面とも1辺に柱が4本立ち、柱間が3つあるという
方三間の造りで、一つの柱間が約6mもあり、内部空間が広く取られています。
堂内の中央須弥壇には仏師・快慶の代表作とされる阿弥陀三尊像が安置され、
国宝に指定されています。
中央に像高5m30cmの阿弥陀如来立像、右側に観音菩薩立像、左側に
勢至菩薩立像が安置され、脇侍の像高は共に3m70cmです。
阿弥陀如来像が人々に差し伸べられているのは右手で、
脇侍の配置も一般とは左右が逆になっています。
各像の立つ蓮華座の下には雲が表され、僅かに阿弥陀三尊が前に傾き、
西方極楽浄土から飛雲に乗って来迎する情景が表されています。
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浄土堂の西側には蔀戸(しとみど)が設けられ、晴れた日の夕方には
蔀戸から夕陽が差し込み、床に反射して屋根裏に当った陽光は
三尊像を赤く染めます。
阿弥陀如来が雲に乗り、西方浄土から迎えに来る「来迎図」の姿を
具現化しています。

この手法は安藤忠雄氏にも影響を与え、兵庫県淡路市にある本福寺の
本堂「水御堂(みずみどう)」などに踏襲されています。
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浄土堂の北側にある鐘楼は江戸時代の寛永9年(1632)に再建されたもので、
兵庫県の文化財に指定されています。
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鐘楼の右側に鎮守社の八幡神社があります。
東大寺に手向山八幡宮があるように、浄土寺にも鎌倉時代の
嘉禎(かてい)元年(1235)に創建されたとの記録が残されています。
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拝殿は桁行7間、梁間3間の割拝殿で、その遺構と考えられています。
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本殿は室町時代中期に再建されたもので、拝殿と共に
国の重要文化財に指定されています。
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八幡神社の鳥居が建つ両側には池があります。
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西側にある池の畔には古墳時代の石棺の石蓋を再利用した
「水向石(みずむけいし)」が置かれています。
長辺約170cm、短辺約80cm、高さ約20cmの石蓋の裏側を刳り抜き、
水が溜められるようになっています。
5月8日の花祭りの時に塔婆を置き、水が手向けられるそうです。
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境内の北東側には不動堂があります。

不動堂の左側から「浄土寺裏山四国八十八か所」の霊場が造られています。
江戸時代後期の文化・文政年間(1804~30)に一周約1,500m、
約30分のコースが造られ、1万本を超えるアジサイが植えられています。
アジサイの季節にはまだ早かったので割愛しました。
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不動堂の右側には本堂である薬師堂があり、国の重要文化財に指定されています。
薬師堂は建久8年(1197)に上棟したと伝わりますが、室町時代の
明応7年(1498)に焼失し、永正14年(1517)に再建されました。
本尊の薬師如来像は、浄土寺の西方2kmにあった広渡寺(こうどじ)から
遷されました。
広渡寺は7世紀後半頃には建立され、平安時代末頃にと絶えたとされ、
その跡地は国の史跡に指定され、歴史公園として整備されています。
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薬師堂の右側に開山堂があり、兵庫県の文化財に指定されています。
創建されたのは八幡神社の創建以降とされていますが、
明応7年(1498)に薬師堂と共に焼失しました。
現在の建物は永正17年(1520)に再建されたものです。
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堂内には、国の重要文化財に指定されている像高81.2cmの
重源坐像が安置されています。
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脇に安置されているのは重源立像でしょうか?
詳細は不明です。
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開山堂の手前に北向きに経蔵があります。
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経蔵の右側に文殊堂があります。

バス停まで戻り、12:02発のバスを待っていたのですが、午前の時と
反対方向からバスが来て、停車せずに通り過ぎて行きました。
仕方なく小野駅まで歩きましたが、粟生行は出たばかりで心が折れてしまい、
次の予定を諦め帰宅することにしました。

春の青春18きっぷの3回目も兵庫県を予定していましたが、三重県に変更します。

石薬師寺

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京都駅発5:49の長浜行に乗車し、草津発6:14の柘植行に乗り換えます。
7:04に柘植駅に到着し、7:09発の亀山行に乗り換え、亀山で7:37発の
名古屋行に乗り換えます。
7:45に加佐登駅に着き、徒歩で石薬師寺へ向かいます。
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かっての東海道だったようで、石薬師寺宿の一里塚があります。
『家忠日記』には慶長9年(1604)2月に、徳川家康が子の秀忠に命じ、
東海道に一里塚を築かせ、36町を一里としたとの記録が残されています。
1町は約109mで、石薬師宿の一里塚は江戸から数えて102里目になります。
参勤交代でこの街道を通った大名は石薬師寺で道中の安全を祈願したそうです。
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道路の傍らには「石薬師宿」の石標が建立されていますが、
周囲には宿場町の面影は残されていません。
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8:30の少し前に石薬師寺に着きました。
石薬師寺は西国四十九薬師霊場の第33番札所となっています。
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山門をくぐった正面に大師堂があります。
寺伝によると、神亀3年(726)に泰澄(たいちょう)が、当地の森の中から
巨石の出現に出会い、薬師如来の示現と悟って、
草庵を設け供養したことが始まりとされています。
その後、弘仁3年(812)に空海が、巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行いました。
人々の信仰が集まったことにより嵯峨天皇の勅願寺となり、
荘厳な伽藍が建立されました。
当初は高富山 西福寺 瑠璃光院と称したと伝わります。
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大師堂の堂内中央には「知恵弘法」と呼ばれる弘法大師像、右側に役行者像、
左側に不動明王像(?)が安置されています。
石薬師寺は真言宗東寺派の寺院です。
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大師堂の右側には桜が早くも花を咲かせていました。
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桜の下には水子地蔵菩薩像が祀られています。
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大師堂の北側には地蔵堂があります。
堂内には地蔵像と鈴鹿七福神の恵比須尊天などが祀られています。
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大師堂の前から参道は右に折れて北向きにとなり、その先に冠木門があります。
門の手前には不動明王像が祀られています。
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参道の花も心を和ませてくれます。
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参道の右側には鐘楼があります。
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鐘楼の手前には石庭が築かれています。
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鐘楼から先の参道に百度石が建てられ、その上には地蔵菩薩像が祀られています。
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参道の正面に本堂の薬師堂があり、三重県の有形文化財に指定されています。
石薬師寺は天正年間(1573~1592)の兵火により焼失しました。
寛永6年(1629)に当時の神戸城(かんべじょう)城主・
一柳直盛(ひとつやなぎ なおもり)によって諸堂宇が再建されました。
現在の本堂はこの再建時のもので、鈴鹿市の寺院建築としては最古のものです。
元和2年(1616)に、東海道五十三次の宿場である石薬師宿にちなみ、
高富山 瑠璃光院 石薬師寺と改称されました。

本尊は像高190cmの石造りの薬師如来像で、天正年間(1573~1592)の
火災からも難を逃れました。
鈴鹿市の文化財に指定され、秘仏ですが12月20日の「おすす払い」には、
洗い清められます。
また、堂内には脇侍として紀州徳川家から寄進された日光、月光の
両菩薩像が安置されています。
他にも十二神将、地蔵菩薩、大日如来、不動明王が安置されています。
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本堂の左側にある石段を上って行くと、その途中に天満宮があります。
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更に石段を上ると北門があり、すぐ近くに国道1号線が通っています。
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加佐登駅まで戻ってくると駅の手前に踏切があり、そこから駅を撮影しました。
9:56発の亀山行に乗車し、亀山駅で10:10発の快速・みえ鳥羽行に乗り換え、
津駅で下車し、西国四十九薬師霊場・第34番札所の四天王寺へ向かいます。
続く

四天王寺

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10:27に快速・みえ鳥羽行で津駅に到着しました。
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端は伊勢鉄道のホームになっています。
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駅から南へ20分弱歩いた所に四天王寺があり、山号を塔世山と号する
曹洞宗の寺院で、西国四十九薬師霊場・第34番札所となっています。
山門の北側に鐘楼門があります。
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鐘楼門へと入った所に松尾芭蕉の文塚があります。
文塚は句碑に先行する芭蕉の追善碑です。
元文2年(1737)に津の俳人・菊池二日坊が建てたもので、
塚の形態をとった県下で一番古いものです。
また、全国的にも文塚は希少であり、この文塚は全国で18番目に古いものです。
碑の裏側には芭蕉の略歴と由来が記されています。
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文塚の左側には菊池二日坊の杖塚が建立されています。
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門の手前には石仏が祀られています。
鐘楼門は閉じられていますので山門の方へ向かいます。
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山門は江戸時代の寛永18年(1646)に再建されたもので、
津市の文化財に指定されています。
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門をくぐった右側に稲荷社があります。
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稲荷社の北側には宝篋印塔が建ち、その奥に先ほどの鐘楼門が見えます。
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鐘楼門の梵鐘は総高154cm、外形90cmあり、江戸時代の延宝8年(1680)に
津の鋳物師・辻越後守陳種(つじ えちごのかみ のぶたね)によって
鋳造されました。
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参道へ戻るとその先にも楼門があります。
四天王寺の公式HPでは先の門が寛永18年(1646)に再建された山門と記載され、
参拝で頂いたパンフレットにはこの門が山門と記されています。
どちらが正しいかは未確認です。
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更に参道を進んだ正面にコンクリート造りの本堂があります。
寺伝では四天王寺は第31代・用明天皇の治世(585~587)に聖徳太子によって
創建されたと伝わります。
太子は強硬な廃仏派だった物部守屋(もののべ の もりや)の軍に3度も敗れ、
四天王尊像を刻み勝利を祈願しました。
守屋軍に勝利した太子は、戦前に誓願した四つの四天王寺を建立し、
その内の一つが本寺であるとされています。
一方で近年、境内から奈良時代の古瓦が出土され、建立されたのは7世紀頃の
国分寺説など、諸説あります。
その後、焼失と再建が繰り返され、詳細な歴史も失われたようです。

江戸時代の元和5年(1619)に津藩の初代藩主・藤堂高虎(とうどう たかとら)に
よって再建されています。
藤堂高虎は豊臣秀吉に仕えていたのですが、秀吉の死後は親交のあった
徳川家康に仕えるようになりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川軍として参戦し、戦後は徳川家の
重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げました。
高虎は築城技術に長け、黒田孝高(官兵衛)、加藤清正とともに
名人として知られていました。
高虎はこれらの功により慶長13年(1608)に伊賀国内10万石、並びに
伊勢安濃郡・一志郡内10万石で計22万石に加増移封され、津藩主となりました。
四天王寺は寛永14年(1637)に、高虎の後を継いだ二代藩主・高次から
寺領を寄進され、寺勢を取り戻しました。
寛政9年(1797)刊行の『伊勢参宮名所図会』には、今以上に広大な寺域を有し、
本堂の他にも多くの建物が見られ、境内の北側に南向きに建つ薬師堂は、
本堂に準じる大きさがありました。
しかし、昭和20年(1945)、戦災によりほぼ全ての建物が焼失しました。
この時、津市は数次にわたる空襲によって市街地の約7割が焼失するという
壊滅的な被災を受けました。
薬師堂に安置されていた旧国宝(現行法の重要文化財に相当)の
木造大日如来坐像、木造薬師如来坐像、木造阿弥陀如来坐像、
木造阿閦如来坐像、木造千手観音坐像が失われました。
大日如来像の像高は242.5cm、阿弥陀如来像は23.7cm、阿閦如来像は
238.2cmで、五躯はいずれも平安時代後期の作でした。
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唯一、本尊である平安時代後期作で像高65cmの薬師如来坐像は救出され、
国の重要文化財に指定され、現在は本堂に安置されています。
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本堂の左側には小さな不動堂があり、その前には椿の花が咲いています。
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堂内には不動明王像が祀られています。

墓所には織田信長の母の墓があります。
信長の母は土田御前(どたごぜん/つちだごぜん)と呼ばれ、本能寺の変で
信長と孫の信忠が自害した後は、孫の信雄( のぶかつ)の
庇護のもとにありました。
天正18年(1590)に信雄が豊臣秀吉の怒りを買って改易されてからは織田信包(おだ のぶかね)を頼るようになりました。
信長の弟・織田信包は永禄11年(1568)に安濃津城(津城)の城主となり、
城で暮らしていたと思われます。
文禄3年(1594)正月7日に亡くなり、四天王寺に埋葬されました。

津駅まで戻り、11:31発の快速・みえ5号鳥羽行に乗車して多気駅へ向かい、
駅から町営バスに乗り、西国四十九薬師霊場・第35番札所の神宮寺へ向かいます。
続く

丹生神社と神宮寺

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11:58に多気駅に着いたのですが、バスの発車は13:40です。
駅前の食堂で昼食を取ってもまだ時間が余っていましたので、
佐奈川桜堤公園まで往復することにしました。
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公園の手前にある民家ではベランダで「ガメラ」が飼われていました...?。
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公園の桜の木はまだ若木で、少々期待外れでしたが、
今年一番の花見を楽しみました。
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多気駅まで戻って町営バスに乗り、丹生大師前で下車した直ぐの所に
丹生神社があります。
創祀は第26代・継体天皇16年(523)と伝わります。
第45代・聖武天皇(在位:724年~749年)が東大寺大仏殿建立の際、
水銀の産出をこの地の神に祈ると忽ち水銀が湧出したので、
丹生明神と名付けたと伝わります。
また、第52代天皇・嵯峨天皇が降雨を祈ったら霧雨があり、晴れを祈ったら、
晴れたという故事により、丹生大明神は祈雨、祈晴の神とも云われています。

中世は伊勢の国司・北畠氏が毎年参拝し、造営等の奉仕をしました。

元和5年(1619)、初代紀州藩主・徳川頼宣(とくがわ よりのぶ)から
社領30石を認められ、以後の藩主は自ら参向して国家安穏・五穀豊穣を願い
金銀等を寄進しました。
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鳥居をくぐった所に「丹生津比売(にうつひめ)弘法大師 対面石」があります。
弘法大師は今から1200年ほど前にこの地を訪れ、大師が丹生神社の
鳥居をくぐった時、目の前に丹生津比売が現れ、神宮寺へと案内したと伝わります。
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石には大師の杖の痕跡が残されています。
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参道には男神や女神、山の神が祀られていますが、詳細は不明です。
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参道の突き当りに丹生中神社があり、金山彦命
金山比女命(かなやまびめのみこと)他十七柱が祀られています。
伊弉諾命と伊弉冉命は八百万の神を産み、その一番最後に
迦具土神(かぐづちのかみ)を産みました。
迦具土神は火の神であり、伊弉冉命の産道が焼けただれ、
その火傷がもとで亡くなります。
もがき苦しんだ伊弉冉命の吐しゃ物から産まれたのが金山彦命、
金山比女命であり、鉱業・金属業関係の神とされています。
神社前の由来書には「往古、この地の山々より多くの水銀を掘り出し、
伊勢の両宮へ貢いだ事は外宮旧事記等にも記載されており、
この神社には金山槌・金山樋等の神宝があります。」と記されています。
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明治41年(1908)2月18日から4月18日にかけて村内の八幡神社・八柱神社・
金毘羅神社・塩垣神社等三十余社が合祀されています。
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丹生中神社の前を左に曲がった正面に本殿があります。
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埴山姫命(はにやすひめのみこと)・水波賣命(みづはのめのみこと)ほか
16柱が祀られています。
明治41年(1908)1月21日に境内社十数社が合祀されています。
延宝5年(1677)より伊勢神宮の遷宮の翌年にその古殿材を拝領して
造営した時代もありました。
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拝殿の左横には伊勢椿の原木と伝わる木が植えられ、赤い花を咲かせていました。
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拝殿の右手前にはご神木の梛(なぎ)の木が植えられています。
「和(な)ぎに通じることから幸運、金運を招き、家内安全、縁結び等に
ご利益があるのでお守りにしています」と記されています。
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本殿の前から西のバス道方向に戻ると鳥居があります。
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鳥居を超えた所から神宮寺となり、北側に薬師堂があります。
本尊の薬師瑠璃光如来は、西国四十九薬師霊場の第35番札所本尊でもあります。
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薬師堂の左背後には「頑癬(がんせん)の神」が祀られています。
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背後には巨木が聳えています。
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薬師堂から左へ進んだ所に本堂(観音堂)があり、
多気町の文化財に指定されています。
神宮寺は正式には「女人高野丹生山神宮寺成就院」と称し、
「丹生大師」の通称で親しまれています。
「丹生大師」とは弘法大師のことで大師所縁の寺でもあります。
丹生神社の神宮寺であり、高野山が女人禁制だったのに対し、
女性も参詣ができたので「女人高野」とも呼ばれています。
寺伝によると奈良時代の宝亀5年(774)に第49代・光仁天皇の勅願により、
空海の師である勤操によって開創されたと伝わります。
弘仁4年(813)、唐から帰国した空海は、伊勢神宮へ参拝の途中この地を訪れ、
真言密教を広める聖地を丹生にすると決めました。
しかし、唐の国から投げた三鈷(さんこ)が高野山で発見されたため、
高野山が真言宗の拠点となりました。
空海が三鈷を力強く投げすぎたため、最初丹生に飛来した三鈷が、
跳ね返って高野山に届いたとの伝承もあります。
神宮寺が空海の師である勤操に開創された寺であることを知ると、
まずこの地に諸堂を建立しました。
弘仁6年(815)に至り、不動堂・鐘楼堂・閣魔堂・地蔵堂・観音堂・
薬師堂・大師堂の七堂伽藍を建立完備されました。

現在の本堂は延宝年間(1673~81)に建立されたと推定されています。
堂内には本尊の十一面観音菩薩立像が安置されています。
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本堂の左奥にある石段を上ります。
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石段を上った所に稲荷社があります。
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正面に大師堂(御影堂)があり、多気町の文化財に指定されています。
現在の建物は貞享年間(1684~88)に再建されたものです。
堂内には弘法大師が42歳の時、池に映した自身の姿を彫刻し安置したと伝わり、
二度の火災からも護られてきました。
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大師堂の背後に丹生都姫神社があります。
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空海がこの地を訪れた時、丹生都姫が現れ神宮寺へと案内し、三鈷が発見された
高野山が真言密教を広める聖地としてふさわしいと示されたと伝わります。
当時から高野山一帯は丹生都比売をはじめ、神々が宿る場所
(天野)と言われていたそうです。
また、丹生都姫は水銀の神ともされているようです。
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大師堂の右奥から愛宕権現への山道がありましたが、時間の都合で割愛しました。
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大師堂の前面、両側には四国八十八箇所霊場の各本尊が祀られています。
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本堂前の左側には昭和61年(1986)10月21日に再建された文殊堂があります。
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堂内には文殊菩薩と脇侍として普賢菩薩像が安置されています。
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大師堂の前から下る石段の左側には外敵防護のために設けられたとされる
回廊がありましたが、平成29年(2017)10月22~23日未明の台風21号による
大雨の影響で山から流れてきた大水によって基礎部分が流され完全に崩壊しました。
ブルーシートに覆われ、石段が今も通行禁止になり、その惨状が残されています。
右側の桜は被害を受けなかったので、きれいな花を咲かせています。
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正面の石段を迂回して下ってきた所に護摩堂があり、
多気町の文化財に指定されています。
宝暦13年(1763)に示寂した了泉によって建立されました。
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堂内には不動明王像が安置されています。
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護摩堂の右側に鐘楼があります。
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鐘楼の奥に閻魔堂があり、閻魔大王像が安置されています。
経堂としても使われているようです。
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客殿(書院)は江戸時代の寛永年間(1624~44)に建立されたと推定され、
多気町の文化財に指定されています。
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仁王門は現在解体修理中で客殿の左側にある小屋に鯱や鬼瓦が保管されています。
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鯱は寛政2年(1790)8月吉日の作で、仁王門の守り神とされ、
火事の際は水を噴出すとの意味が込められています。
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鬼瓦は宝永6年(1709)2月の作で、厄払いの意味が込められています。
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大棟鬼板は宝永6年(1709)の作で、屋根の棟の端を飾っていました。
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仁王門は平成31年(2019)10月完成予定です。
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右側に太子堂があり、聖徳太子が祀られているように思われますが詳細は不明です。
太子堂の横に「和歌山別街道」の立札があり、これを見て春の青春18きっぷ
第4回目は和歌山行に決めました。
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仁王門前の道路を西へ少し進んだ所に「弘法大師 加持の井戸」があります。
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かってはすぐ隣にある「大師湯」でこの鉱泉を沸かして入浴する事が
出来たそうですが、現在は閉鎖されています。

道成寺

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春の青春18きっぷ第4回目は道成寺~禅林寺への巡礼に決定しました。
京阪電車で京橋まで行き、JR京橋5:56発海南行に乗車、
海南駅に7:55に到着しました。
海南で8:21発の紀伊田辺行に乗り換えます。
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9:13に道成寺駅に到着し、駅前の道路を西に進むと
突き当りに道成寺の石標が建立されています。
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向きを北に変え、10分足らず歩いた所に道成寺があります。
道成寺は山号を天音山と号する天台宗の寺院で、新西国三十三所観音霊場・
第5番及び神仏霊場・第6番札所となっています。
正面の石段は62段ありますが、左右の土手が逆ハの字形に
開いていることから「上りやすく、降りやすい」と云われています。
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石段の上にある仁王門は 江戸時代の元禄13年(1700)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
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石段の下から仁王門を通して本堂の千手観音像が一直線上に
配置されているそうです。
この位置からだと千手観音像は屋根に隠れているかもしれません。
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仁王像
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仁王門をくぐった右側に江戸時代の宝永4年(1707)に建立された十王堂があり、
「閻魔の廰(ちょう)」と記されています。
人間を初めとするすべての衆生は、よほどの善人やよほどの悪人でない限り、
没後に中陰と呼ばれる存在となります。
そして、初七日から三回忌まで、順次十王の裁きを受けることとなります。
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堂内には中央に閻魔大王、その周囲に亡者の審判を行う
10尊の像が安置されています。
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十王堂の左前に二代目の鐘楼跡があります。
初代は、道成寺に逃げ込み梵鐘の中に隠れた安珍を、蛇身に化けた清姫が
追いかけて鐘に巻き付き、火を吹いて安珍を焼き殺したと伝わります。
その後、正平14年(1359)3月11日に二代目の梵鐘と鐘楼が完成したのですが、
清姫の怨念か音が悪く、また近隣に悪病災厄などが相次いで起こったため
山林に捨て去られました。
その後、二百年余りを経た天正13年(1585)、羽柴秀吉の根来攻めで、
家来の仙石権兵衛がこの鐘を拾って陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)
として使い、そのまま京都に持ち帰りました。
現在は左京区岩倉にある妙満寺に安置されています。
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鐘楼跡の手前に「鐘巻之跡」という石碑があり、ここが初代の鐘楼の跡で、
安珍が焼け死んだ所と言い伝えられて来ました。
しかし、昭和60年代に行われた境内の発掘調査で、法隆寺を左右逆にした
伽藍配置であったことが判明しました。
そうすると、この場所に鐘楼があったことは不自然になりますが...
正解かも?と思われる場所は後半に...。
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楼跡の右前に江戸時代の宝暦14年(1764)に再建された三重塔があり、
和歌山県の文化財に指定されています。
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道成寺から約20km離れた妙見神社の御神木が切り倒され、
大黒柱に使用されて建築されました。
三重塔の初層と二層の屋根は平行垂木で三層は扇垂木で支えられています。
二層まで組み上げられた時に、一人の巡礼者から「扇垂木の方が美しい
仕上がりになる」と聞き、棟梁が三層目を変更したそうです。
下から仰ぎ見ると確かに扇垂木の方が美しく見えます。
扇垂木のことを知らなかった棟梁は後悔してノミを口にくわえて三階から
飛び降りて自殺したとの民話が残されていますが、確証はありません。
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堂内には大日如来像が安置されています。
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三重塔の横にに安珍塚があり、安珍と釣鐘を葬った場所とされています。
塚には榁(むろ)の木が植えられています。
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塚から参道を挟んだ反対側には地蔵菩薩像が祀られています。
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参道の正面には本堂があります。
道成寺は飛鳥時代後期の大宝元年(701)、第42代・文武天皇(在位:697~707) の
勅願により、義淵僧正を開山として創建されたと伝わります。
昭和53年(1978)以降、数次にわたって境内の発掘調査が行われ、奈良時代の
金堂、塔、中門、講堂、回廊の跡が検出されました。
中門の左右から伸びる回廊は敷地を長方形に囲み、講堂の左右に達し、
回廊で囲まれた伽藍中心部には、東に塔、西に金堂が位置していました。
記録には平安時代初期の延暦19年頃(800)に中門及び回廊が完成したと
残されています。
現在の本堂は室町時代の正平12年(1357)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
寺はその後衰微し、天正13年(1585)には羽柴秀吉による紀州征伐にあって
諸堂が焼失しましたが、本堂と鎮守社は消失を免れました。
江戸時代になって明暦元年(1655)に初代紀州藩主・徳川頼宣の援助により、
屋根葺き替えを中心とする修理が行われました。
その後、仁王門などの再建が順次行われ、本堂は文化9年(1812)から
同12年(1815)にかけて改築に近い大規模な修理が3年がかりで行われています。

現在の本堂には奈良時代後期作で像高236cmの千手観音立像が安置され、
国の重要文化財に指定され、秘仏とされています。
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かっては本堂に北向きと南向きの二躯の千手観音立像が安置されていました。
現在は閉じられている北側の扉も、かっては開けられていたのかもしれません。
本堂解体修理に際して北向きの千手観音立像を移動した際、像内に破損の
激しい木心乾漆千手観音像が納められているのが発見されました。
この木心乾漆像はその後、顔などの欠失部分を補って復元され、
現在は本堂に安置されています。

南向きにの千手観音立像は像高3.2m、脇侍として像高2.52mの日光菩薩、
像高2.42mの月光菩薩立像が安置されていました。
いずれも平安時代初期の作で国宝に指定され、現在は宝仏殿に安置されています。
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宝仏殿
本堂の左前方に縁起堂があり、納経所があります。
縁起堂で600円を納めると縁起堂で「絵とき説法」を聞くことができますが、
所要時間約20分とのことです。
隣接する宝仏殿の拝観もでき、前述の国宝の仏像の他、
多数の仏像が安置されています。
十一面観音菩薩像・毘沙門天王像・広目天王像・兜跋毘沙門天王像・
増長天王像はいずれも平安時代前期の作で、国の重要文化財に指定されています。
釈迦如来像は鎌倉時代の作で県の文化財に指定されています。
宝仏殿は昭和57年(1982)にコンクリートで造られ、
堂内の撮影は禁止されています。
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本堂の左後方に江戸時代の弘化4年(1847)に建立された護摩堂があります。
堂内には不動明王像が安置されています。
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護摩堂の南側に鎮守社があります。
本堂と共に焼失から免れたものだと思われますが覆屋の中に納められています。
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鎮守社の向かいに古井戸が残され、背後に桜が見えます。
「入相桜(いりあいざくら)」と呼ばれ、かって初代鐘楼があった場所
ではないかと考えられています。
江戸時代には三十三本の支柱で支えられ、約10m離れた本堂の縁側まで枝が
届く大木で、和歌山県の天然記念物に指定されていました。
しかし、大正年間(1912/7/30~1926/12/25)に台風で幹が折れ、
指定は解除されました。
折れた幹の根元から別の芽が出て、再び大木へと育っています。
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本堂の背後に平成17年(2005)にコンクリート造りで再建された念仏堂があります。
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堂内には江戸時代作で像高1.2mの五劫思惟阿弥陀如来坐像
( ごこうしゅいあみだにょらいざぞう)が安置されています。
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境内の東側には庫裏があります。
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帰り道、ようやく土産物屋が開店していました。
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道成寺駅には予定より少し早めに着きました。
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待合室には道成寺の宝仏殿内部のポスターが掲示されていました。
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道成寺駅発10:52の御坊行に乗車し、11:51に御坊駅に到着しました。
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紀州鉄道の「宮子姫」と記されたワンマンカーが停車していました。
「宮子姫」には以下のような物語が残されています。
『九海士(くあま)の里(現在の御坊市)に住む海女の夫婦は、子宝に
恵まれないことから氏神の八幡宮にお祈りしたところ、女の子を授かりました。
そこで名前を「宮」と名づけました。ところが大きくなっても
宮には髪の毛が生えてきません。
ある日、母親が海に潜っていると、海底に光輝くものがありました。
それは黄金色の小さな小さな観音様でした。
持ち帰った観音様をお祀りして、毎日お祈りを続けていると、
にわかに宮の髪が生えはじめました。
髪はどんどん伸び、里の人々は宮のことを「髪長姫」と噂するようになりました。
ある日、宮が黒くてつやつやした髪をすいていると、ツバメが飛んできて
その髪を一本くわえ、飛び去りました。
奈良の都で勢力を誇っていた藤原不比等の屋敷の軒にツバメが巣を造りました。
巣から垂れ下がる長い黒髪を見つけた不比等は髪の主を探しだし、
養女に迎え入れました。
当時、長い黒髪は美人のあかしでした。
不比等の養女となった宮は、「宮子」という名をいただき、やがて文武天皇
見初められ后となり、奈良の東大寺を建立した聖武天皇の母となりました。
宮子は黒い長い髪を授けてくれた観音様をお祀りしたいと文武天皇に
お願いしました。
天皇は紀道成に命じて立派なお寺をつくらせ、それが道成寺だと伝わります。

御坊で11:03発の和歌山行に乗り換え、11:56に海南駅に着きました。
徒歩で神仏霊場・第7番札所の藤白神社へ向かいます。
続く

藤白神社

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海南駅の西口前から県道135号線を南へ進み、紀勢線の下をくぐった先に
藤白神社があり、神仏霊場・第7番札所となっています。
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途中で弁当を食べたりして12:45に神社への石段下に到着しました。
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石段を上って行くと鳥居が建っています。
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鳥居をくぐった所に松尾芭蕉の藤塚があります。
「藤の実は 俳諧にせん 花の跡」と詠んだ前書きに「彼の藤白み坂と
いひけん花は宗祇のむかしに匂ひて」とあります。
もと祓戸王子社内にあり、菊池二日坊によって建てられたと刻まれています。
菊池二日坊は三重県の四天王寺にも芭蕉の文塚を建て、
その横には二日坊の杖塚が建立されています。
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左側に進むと「御歌塚」があり、後鳥羽上皇が行った建仁2年(1201)の
熊野御行(ごこう)の際に催された、藤白王子和歌会の熊野懐紙が
納められています。
和歌会に参加した人々が自分の詠んだ歌を書いて差し出した、自詠自筆の
和歌懐紙を熊野懐紙(くまのかいし)といいます。
碑には後鳥羽上皇が詠まれた二首が刻まれています。
深山紅葉
「うばたまの よるのにしきを たつたひめたれ みやま木と 一人そめけむ」
竜田姫は、秋の女神とされ、「誰がこんな深山の紅葉を見るだろうか。
見る者もなく紅葉を織りなす甲斐もないが、竜田姫は自分一人のために
深山の木を染めたのだろうか。
海辺冬月
「浦さむく やそしまかけて よる浪を ふきあげの月に まつ風ぞふく」
浦は寒く、多くの島々をめがけて打ち寄せる波を、さらに吹き上げる吹上の浜に、
月が照っているが、松風が吹く。

この時は歌人の藤原定家もお供をし、『熊野御行記』が残されています。
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「御歌塚」の右側に楠の大樹が茂り、その根に「聖皇三代重石」があります。
平安時代の宇多、花山、白河三上皇の熊野御幸を記念して建てられたもので
『文明記』等の古書にも掲載されています。
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その先にも鳥居が建ち、社標の石柱が建立されています。
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鳥居をくぐった正面の右側に社務所、左側に茶店がありますが、
現在は茶店は営業されていないようです。
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社務所の手前には「宮水 紫の水」が流れ落ちています。
かって、川の上流に日に映えて紫色に輝く石があり、
「紫の水」と呼ばれる起源になったそうです。
地元では酒の醸造などにも利用されているようです。
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社務所の前を通り抜けた所に本殿があり、饒速日命(にぎはやひのみこと)が
祀られています。
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の
神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、
その後大和国に移ったとされています。
大和の豪族・長髄彦(ながすねひこ)が奉じる神とされ、神武東征の際は
長髄彦が神武天皇に抵抗しました。
饒速日命と神武天皇は、共に天神の子であるしるしを長髄彦に示したのですが、
長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、
衆をひきいて神武天皇に帰順しました。
饒速日命は物部氏、穂積氏、熊野国造らの祖神と伝わり、穂積氏の流れを汲む
藤白鈴木氏が代々藤白神社の神職を務め、鈴木姓の発祥の地とされています。

また、天照大神、熊野坐神、熊野速玉神、熊野夫須美神が
配神として祀られています。
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本殿の右側に藤白権現本堂があります。
藤白神社は藤白王子の旧跡で、第12代・景行天皇5年(75)の創建とされています。
第45代・聖武天皇による玉津島行幸に際し、僧・行基を藤白神社に詣らせ、
熊野三山に皇子誕生を祈らせました。
養老2年(718)に高野皇女(後の孝謙天皇)が無事に誕生し、光明皇后は
神域を広めて整備し、熊野三山の祭神を勧請して、ここを末代まで
皇妃夫人の熊野遙拝所と定められました。
孝謙天皇の玉津島行幸の際に、天皇が藤白神社に詣で、
「日本霊験根本熊野山若一王子三所権現社」と号しました。
以来、「藤白王子」、或は「藤白若一王子権現社」と呼ばれ、
「藤代」とも表記されました。
平安時代になると熊野信仰が高まり、歴代上皇や法皇の熊野御幸は延べ
140回にも及びますが、藤白王子には必ず休泊され、
特別な催事が行われました。
記録では舞・白拍子・神楽・猿楽などが催されたと残され、
他とは格式を異にするとされる五体王子(ごたいおうじ)の魁となりました。
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堂内には藤代五体王子の神宮寺として栄えた中道寺の熊野三所権現と
藤代若一王子の本地仏が祀られています。
熊野本宮大社の阿弥陀如来坐像、熊野速玉大社の薬師如来坐像、熊野那智大社の
千手観音坐像、そして藤代若一王子の十一面観音立像、更に熊野の入口を
護る毘沙門天と不動三尊像が安置されています。
毘沙門天と不動三尊像を除く像は、熊野詣でが盛んであった平安時代後期の作と
され、和歌山県の文化財に指定されています。
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藤白権現本堂の右側には有間皇子(ありまのみこ)神社があります。
有間皇子は孝徳天皇の皇子で、白雉5年10月10日(654年11月24日)に
孝徳天皇が崩御されると、孝徳天皇の姉が斉明天皇として即位しました。
蘇我赤兄(そが の あかえ)は有間皇子に近付き、皇子を謀反に誘う一方で、
事の次第を中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し、皇子は捕えられました。
当時、斉明天皇と中大兄皇子は牟婁の温湯(むろのゆ=和歌山県白浜湯崎温泉)に
行幸していました。
有間皇子が牟婁の温湯へと護送の途次に磐代(いわしろ=岩代、
和歌山県日高郡みなべ町)の浜で詠んだのが万葉集中白眉
(最も優れているもの)といわれる短歌二首です。
「磐代の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還(かへ)り見む」
(岩代の浜松の枝を今、引き結んで幸を祈るのだが、もし命があった時には
再び帰ってこれを見よう)
「家(いへ)にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 
椎(しひ)の葉に盛る」
(家にいると器に盛って神に供えるご飯を、こうして心にまかせぬ旅にいるので
椎の葉に盛ってお供えすることだ)

斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に牟婁の温湯に到着すると、中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知って
いる。私は何も知らぬ」とだけ答えました。
翌々日に皇子は再び都へと送還されますが、19歳だった有間皇子は
藤白坂で絞首刑に処せられました。
途中、結ばれた岩代の浜松の枝を再び目にしたかもしれませんが、
幸は叶いませんでした。
ここより200m西の藤白坂の上り口に皇子の墓がありますが、
有間皇子神社では御魂が祀られています。
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また、境内には皇子が藤白坂で処刑されて43年後の大宝元年(701)、
持統上皇・文武天皇の牟婁の温湯行幸に従った大宮人が詠んだ
歌碑があります。
「藤白の み坂を越ゆと 白妙(しろたへ)の わが衣手(ころもで)は 
濡(ぬ)れにけるかも」
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本殿の左側に恵比須神社があります。
かっては海南市名高にありましたが、明治の神社合祀令により
境内社として祀られようになりました。
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恵比須神社の左側に「円座石(わらうざいし)」があります。
形が亀に似ているので「亀石」とも呼ばれています。
かっては藤白浜にあって藤白神社の御旅所と言われていました。
大酒家が酒を絶つために、この亀石に酒を飲ませて祈願し、
酒が嫌いになったと伝わります。
大酒家ではないのでそのような祈願は必要ないと思いました。
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円座石の左側に巳神社があり、家・水・医薬・呪術の神が祀られています。
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巳神社の左側に四社殿があり、右から祇園神社、秋葉神社、住吉神社、
塩釜神社が祀られています。
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秋葉神社には神馬が奉納されています。
また、初代紀州藩主・徳川頼宣が家臣に与えた馬から生じた角が藤白神社の
神宝として保管されています。
「馬角」は大漁を呼び込む霊力があるとされ、毎年3月に行われる
冷水浦漁業共同組合主催の「潮まつり」では、
この角が海上まで持ち出されます。
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四社殿の前方に小守楠神社があり、海南市の文化財に指定されている
三本の「千年楠」が祀られています。
古来より生まれた子に「楠」「藤」「熊」の名を付けると長命で
出世すると言われています。
南方熊楠がその代表的な人物でしょうか?
博物学者、生物学者、民俗学者として名を残し、74歳で亡くなりました。
当時としては長寿だったのかもしれません。
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小守楠神社の背後に鳥居があります。
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鳥居の脇にある石碑には「三熊野一の鳥居」「これより熊野路のはじめ」と
記されています。
「三熊野一の鳥居」はここより東の浄土寺付近に建っていたのですが、
天文18年(1549)には損失したとの記述が残されています。

鈴木屋敷跡~浄土寺へ向かいます。
続く

鈴木屋敷跡~浄土寺

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藤白神社から北へと進んだ所に鈴木屋敷跡があります。
屋敷跡は現在工事中でトタン板で覆われていました。
鈴木氏の先祖は神武東征の際、天皇に稲を献じたので「穂積」という姓を頂き、
この地では稲を積み重ねたものを「すずき」と言ったことから
「鈴木」になったと伝わります。
また、熊野権現の神木・ナギ枝に鈴を付けて、神武天皇一行を案内したことに
由来するという説もあります。
鈴木家は平安時代に熊野から藤代の地に移り住み、約122代続いたとされ、
代々藤白神社の神職を務めてきました。
ここを拠点に全国3,300あると言われる熊野神社を建立し、熊野信仰を広め、
鈴木姓のルーツとされています。
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屋敷跡には「義経の弓掛松」があり、義経がこの地を訪れた時に弓を掛けた
松とされています。
現在の松が何代目かは不明です。
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書院前にある庭園は室町時代の作と推定され、「曲水泉」と呼ばれ、
曲水の宴が行われていたようです。
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鈴木屋敷跡から更に北へ進んだ所に鳥居町があり、かってこの地に
「三熊野一の鳥居」が建ち、鳥居付近に祓戸王子(はらえどおうじ)が
あったとされています。
祓戸王子は鳥居王子とも呼ばれ明治6年(1873)付の記録によれば境内288坪、
小さいながらも社殿があったと記されていましたが、
明治42年(1909)に藤白神社に合祀されました。
祓戸王子で垢離(こり)をとって心身を清め、聖域へと入って行きました。
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鳥居町に浄土寺があります。
山号を仙臺山(せんだいさん)と号する時宗の寺院です。
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山門への石段の左側に地蔵堂があります。
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石段を上って山門をくぐると参道は右へと曲がり、進んだ先の山手側に
鈴木三郎重家亀井六郎重清兄弟の供養塔があります。
二人は鈴木家の出身で幼少の頃、牛若丸が熊野の往還に鈴木屋敷に滞在し、
兄弟と山野で遊んだと伝わります。
後に義経の家臣となり、亀井六郎は文治5年(1189)の衣川の戦いで
生涯を閉じましたが、鈴木三郎は秋田の山奥に難を逃れ、
落武者として土着、帰農しました。
現在の秋田県羽後町に鈴木家の分家として歴史が継承され、
その屋敷は国の重要文化財に指定されています。
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洞窟の前に祠が造られていますが詳細は不明です。
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高台には地蔵堂があり、日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)が祀られています。
「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩です。
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本堂
浄土寺は一遍上人の開基で、天正13年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めの兵火により、全山焼失しています。
江戸時代後期になり、鈴木家の屋敷へ赴く際に鈴木三郎・亀井六郎兄弟の
供養塔に先ず拝謁してからとなったことにより再興が進んだようです。
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浄土寺から先、道路はカーブして東へと進んだ所に菩提房王子
(ぼだいぼうおうじ)跡があります。
石仏らしきものが祀られていますが、江戸時代後期には廃跡との
記述が残されています。

菩提房王子跡から予定では北西に進んで禅林寺へ向かおうとしていたのですが、
国道370号線へ出て、国道を東へ進み、阪和自動車道の下をくぐった先で
南に曲がりその先で東へ進むことにしました。

西国薬師霊場・第12番札所の禅林寺へ向かいます。
続く

禅林寺

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少し登り坂になった桜が咲くのどかな里道を東へと進んだ所に禅林寺があり、
西国薬師霊場・第12番札所となっています。
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禅林寺は山号を幡川山(はたがわさん)と号する高野山真言宗の寺院です。
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門を入った右側に手水舎があり、背後に十三仏像が祀られています。
十三仏とは冥途の裁判官である十王とその後の審理(七回忌・十三回忌・
三十三回忌)を司る裁判官の本地仏です。
初七日の不動明王から32年後の三十三回忌の虚空蔵菩薩まで十三躯の
仏像が祀られています。
禅林寺は紀伊之国十三仏霊場・第七番(七七日=49日目・薬師如来)札所と
なっています。
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更にその右奥には宝暦4年(1754)に再建された鐘楼堂があります。
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本堂の左手前には聖観音菩薩立像が祀られています。
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参道の正面に本堂があり、現在の建物は天保3年(1831)に再建されたものです。
禅林寺は天平年間(729~49)に唐の青龍寺の僧・為光上人(いこうしょうにん)が
聖武天皇から領地を賜り、勅願寺として創建しのが始まりとされています。
本尊は為光上人が青龍寺より七仏の内一体を携えてきた薬師如来の塑像で、
塑像の薬師如来坐像は全国で現存する唯一のものです。
その後、為光上人は宝亀元年(770)に紀三井寺を開基しています。
また、青龍寺で学んだ空海が高野山を真言密教の根本道場と定めると、
禅林寺は高野山真言宗の道場として発展します。
中世の頃には「幡川寺(はたがわでら)」とも呼ばれ、谷あいに七堂伽藍を
はじめ、僧坊十二院・御社三社・承仕坊三院が立ち並ぶ精舎でした。
しかし、建武以前に金堂をはじめ寺庫までも火災で焼失しました。
南北朝時代の天授4年/永和4年(1378)に紀伊国守護に任ぜられた
山名義理(やまな よしただ/よしまさ)は至徳3年(1386)8月15日に禅林寺を
祈願所と定め、その後、大内氏、畠山氏、など歴代の守護によって
保護されてきました。
しかし、安土・桃山時代の天正13年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めの兵火により、
全山焼失し、寺領も没収されました。
慶長2年(1597)に塔頭・中之坊の秀慶法印によって再興されますが、
この時焼け残った薬師如来の頭部が発見されました。
京の仏師・高慶によって補作され、本堂に安置されていますが秘仏とされ、
33年に一度の開帳とされています。
現在、この薬師如来坐像は和歌山県の文化財に指定されています。
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本堂の前には賓頭盧尊者像が安置されています。
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本堂の右側には「お迎え大師」と称された修行姿の弘法大師像が立ち、
背後には大師堂があります。
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また「ぼけよけ地蔵尊」が祀られ、その左側には神経痛やリュウマチに
ご利益があるとされる「足神」が祀られています。
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境内には新四国八十八ヶ所霊場も造られていますが、割愛しました。
観光名所として記されていたコッテ瀧、メウシ瀧について問い合わせましたが、
途中の道が荒れているとのことで、それも諦めJR海南駅まで戻ることにしました。

紀三井寺駅を通過した時、春の青春18きっぷ第5回目も
和歌山にしようと決定しました。

粉河寺

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京阪電車で京橋まで行き、春の青春18きっぷ第5回目を使い
JR京橋5:56発海南行に乗車、7:38に和歌山駅に到着しました。
和歌山駅で7:41発の王子行に乗り換え、8:21に粉河駅に着きました。
徒歩で粉河寺へ向かいます。
粉河寺へは昨年の4月にも訪れていますので、詳細はこちらをご覧ください。
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8:32に山門前の橋に着きました。
橋は聖域への入口のような気がしますが...
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大門の手前、左側に天照皇神宮社があります。
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本殿
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幹回り15m、樹高25mの御神木に目が留まりました。
樹齢千年余りとされ、平安時代から粉河寺への多くの参拝者を
見守ってきたと思われます。
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宝永4年(1707)に建立され、国の重要文化財に指定されている大門をくぐります。
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参道の背後にある山はお椀を伏せたような形をし、神奈備を思わせます。
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茶店の先、左側に不動堂があり、堂内には弘法大師爪彫の
不動明王像像が安置されています。
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不動堂から参道は右側に曲がり、曲がった先の左側に童男堂(どうなんどう)
があり、棟札から延宝7年(1679)の建立と推定され、
県の文化財に指定されています。
堂内には童男大士が祀られていますが秘仏とされています。
例年12月18日に「終り観音」の童男会が営まれ、その際に開帳されるようです。
 『粉河寺縁起絵巻』(国宝)では粉河寺の草創を以下のように伝えています。
 「紀伊国の猟師・大伴孔子古(おおとものくじこ)は宝亀元年(770)のある日、
山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。
これが粉河寺の始まりという。
その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、
一晩泊めてくれと言う。
 童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。
8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、
金色の千手観音の像だけがあった。
 孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになった。」

そして、千手観音の霊験説話へと続きます。
 「河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。
そこへどこからともなく現れた童男行者が千手千眼陀羅尼を称えて
祈祷したところ、娘の病は全快した。
 喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童男行者は受け取らず、
娘の提鞘(さげざや=小太刀)と緋の袴だけを受け取り、
「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。
 長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、
観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。
 長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、
孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くした。」
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童男堂の右側に出現池がありますが、門は閉ざされていて隙間から
覗くことになります。
粉河寺の本尊・千手観音の化身、童男大士(童男行者)が柳の枝を手に
白馬に乗って出現したと伝わる池です。
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正面に童男大士の石像が祀られています。
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左側の窓の正面にある三角堂には千手観音像が安置されています。
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右側の窓下には馬蹄石があります。
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右側の窓の横には「馬蹄石」と刻字された石碑が建っています。
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出現池の右側に念仏堂があります。
江戸時代後期に総檜造りで建立されたもので、光明殿とも云われ、
阿弥陀如来像が安置されています。
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参道を進み、中門の手前左側には古い墓石がピラミッドのように積まれています。
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中門は、棟札によれば明和年間(1764~1772)頃から着工し、
天保3年(1832)に完成し、国の重要文化財に指定されています。
門には四天王像が安置されています。
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門をくぐった正面に地蔵堂があります。
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堂内には「水向地蔵」が祀られています。
堂の前に経木塔婆(きょうぎとうば)が立てられ、経木塔婆に水を手向け、
亡くなった人の冥福を祈るので水向地蔵と呼ばれています。
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本堂への石段の両側に、国の名勝に指定されている粉河寺庭園があります。
本堂への高さ3mの石垣を紀州の名石を含む、多数の巨大な岩石が
変化に富む手法で堅固に、美しく組まれています。
特に向かって左側には重点が置かれ、枯れ滝・石橋・鶴亀の島などが
象徴的に表現されています。
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本堂前から右側に進んだ所に前回見逃した薬師堂があります。
西国三十三所草創1300年記念事業で薬師堂の平安時代後期作の
薬師如来坐像が特別開帳されていました。
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薬師堂の左側に建つ像高210cmの地蔵菩薩立像には戦国時代の
永禄7年(1564)の銘があり、和歌山市の文化財に指定されています。
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地蔵菩薩立像の右側に法華塔があります。
「右 紀州8代藩主・徳川重倫(とくがわ しげのり)側室・於八百(おやほ)
中 水戸少将・治紀(はるとし)正室・方姫(みちひめ)
左 徳川重倫付老女・初島」
と記されています。
徳川重倫は明和2年(1765)、20歳のときに紀州第八代藩主となりました。
徳川御三家の当主とは到底思えない傍若無人ぶりで、安永4年(1775)2月3日、
あまりの素行の悪さから30歳の時に幕府より命ぜられて隠居しています。
晩年は剃髪して太真と号し、文政12年(1829)6月2日に84歳で死去しました。
於八百は有栖川宮職仁親王(ありすがわのみやよりひとしんのう)の娘で、
徳川重倫と婚約しましたが後に離縁しています。
有栖川宮職仁親王の父親は第112代・霊元天皇です。

徳川治紀(とくがわ はるとし)は天明7年(1787)12月21日に正四位下に昇叙し、
左近衛権少将を兼任し、文化3年(1805)12月10日に第7代水戸藩主となりました。
藩財政が苦しい中、文化4年(1807)6月に水戸藩の近海、鹿島灘に異国船が
姿を見せ、海岸防備を固めていく必要が生じました。
その後、文化13年(1816)閏8月19日、江戸藩邸にて満42歳で急死しました。
治紀の正室は徳川重倫の六女・方姫です。

三基の法華塔は徳川重倫所縁の女性のものになります。
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薬師堂の奥の方に十禅律院があります。
平安時代の正暦元年(990)に石崇上人によって創建された、
粉河寺の塔頭十禅院でした。
江戸時代後期の寛政12年(1800)、紀州藩10代藩主・徳川治宝
(とくがわ はるとみ)の寄進により十禅院を比叡山・横川(よかわ)にある
安楽律院に属する天台宗の寺院に改宗して、十禅律院として再建されました。
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龍宮造りの門は「築地門」と称され、和歌山県の文化財に指定されています。
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門に掛かる扁額の「宝鐸墜」は徳川治宝の直筆です。
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門を入った左側に紀の川市の保存樹に指定されている「イブキ」が
植栽されています。
「ビヤクシン」とも呼ばれ、推定樹齢300年以上、樹高12m、
幹回り5.4mあります。
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古い消化ポンプが置かれていますが、
火事では全く役に立たないように思われます。
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正面に本堂があります。
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本堂の手前左側に放生池があり、池中には無量寿如来塔が建立されています。
背後に見えるのは護摩堂です。
拝観は時間の都合で割愛しました。
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十禅律院を出た所に「粉河産土神社」への裏参道があります。
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参道を進むと粉河稲荷神社があります。
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このような札が掛けられていました。
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稲荷神社の左側に粉河白山神社があります。
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白山神社の左側に護国神社があります。
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護国神社の左側に五社神社があり、右から北野神社・日吉神社・多賀神社・
一言主神社・楠神社と祀られています。
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五社神社の左側に経塚への入口がありますが、行くのは割愛しました。
経塚は昭和34年(1959)4月16日皇太子殿下御成婚記念植樹の際発見され、
国有となりました。
出土した平安時代の法華経8巻とそれを納めた経筒などは
奈良国立博物館で展示されています。
経筒は銅鋳製、蓋は台付宝珠鈕をいただく被蓋式傘蓋(かぶせぶたしきかさぶた)で、側面に天治2年(1125)9月5日に明経博士の清原信俊(さねとし)が
勧進となり、6人の僧に依頼して京都の芹生別所で法華経を書写し、
弥勒菩薩との値遇を願い、粉河寺に埋納したことが記されています。
経筒を陶製外容器に入れ、蓋代わりに1枚の自然石が置かれていましたが、
陶器は愛知県の猿投(さなげ)古窯で焼かれたことが判明しています。
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経塚入口の左側に天福神社があります。
天福神社は旧粉河村から大正8年(1919)に合祀されましたが、詳細は不明です。
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粉河産土神社は和歌山県神社庁では、宝亀元年(770)に大伴孔子古
(おおとものくじこ)が粉河寺を創建した際に、鎌垣庄内各村の氏神を
勧請して祀ったのが始まりとされています。
また、『粉河寺縁起絵巻』によれば延暦2年(783)に大伴孔子古の子・
大伴船主が上丹生谷村(現在の紀の川市上丹生谷)の丹生明神を勧請したのが
始まりとされています。
船主は粉河寺一山の鎮守社として丹生明神を勧請し、
本山大明神と称して奥の院としたと伝わります。
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拝殿の奥に二つの本殿が並んでいます。
主祭神として丹生都比賣命(にうつひめのみこと)と天忍穂耳命
(あめのおしほみみのみこと)、配祀神として大伴孔子古命と
大伴船主命が祀られています。
丹生都比賣命は丹、即ち朱砂(辰砂(しんしゃ)=朱色の硫化水銀)採掘に
携わる人々によって祀られたとされています。
水銀の採掘に携わり一大勢力を築いた丹生一族ですが、水銀の枯渇により
帰農するようになってからは、丹生都比賣命は水神として
祀られるになったとの説があります。
天忍穂耳命は稲穂の神、農業神として信仰されています。
天忍穂耳命は『古事記』では、天照大神と建速須佐之男命
(たけはやすさのおのみこと)の誓約の際、建速須佐之男命が
天照大神の勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男で、
勾玉の持ち主である天照大神の子とされています。
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の娘・萬幡豊秋津師比売命
(よろづはたとよあきつしひめのみこと)との間に天火明命
(あめのほあかりのみこと)と邇邇芸命(ににぎのみこと)をもうけました。

天照大神から天下って葦原中国を治めるように命じられますが、
天忍穂耳命は途中で引き返し、邇邇芸命が天下るようになりました。
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境内には「おんどり石」があり、駒札には下記のように記されています。
『鎌倉時代、元寇のとき、元の大軍を前に日本の武士たちは勇敢に
戦ったが大苦戦で退去を余儀なくされた。
その際、当社の祭神丹生大明神が鶏に乗り現地に赴き、神力で大風吹き起こした。
元の軍船は殆ど難破し沈没して全滅した。所謂、「神風」で敵を退けたのである。
この鶏が石となって産土神社境内に坐り続けて神社を守護している。』
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境内には鶏舎がありますが、そこで飼われているのは、
おんどりではなく牡の孔雀です。
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石段を下ると石段の両脇とその外側にも狛犬が祀られています。
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その間から黒猫が出てきました。
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粉河産土神社から石段を下ってきた左側に行者堂への参道があります。
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約50mと記されていますが、行者堂の手前には石段があります。
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行者堂には變大菩薩が祀られています。
變大菩薩は役行者の尊称で、寺院に祀られている役行者の像の
名称として使われています。
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粉河産土神社への石段の左手前に宝暦10年(1760)に建立された千手堂があり、
国の重要文化財に指定されています。
堂内中央には千手観世音菩薩、両側の祭壇には歴代紀州藩主と
その所縁のある人々の位牌が安置されています。

本堂で納経を済ませ、JR粉河駅へ戻り、粉河駅10:01発の和歌山行で
岩出まで行き、10:23発の樽井駅前行の和歌山バスに乗り換え、
岩出図書館前で下車し、根来寺へ向かいます。
続く

根来寺

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JR岩出駅を10:23に発車したバスは10:29に岩出図書館前に到着しました。
名残の桜が咲く街道を根来寺へと向かいます。
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10:40に大門に到着しました。
根来一山の総門で嘉永3年(1850)に再建され、県の文化財に指定されています。
高さ16.88m、横幅17.63m、奥行6mあり、室町時代末期の最盛期には
坊舎450(一説には2,700とも)を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)
1万余の一大軍事集団を擁したとされる寺に相応しい、堂々たる門に見えます。
実際には羽柴秀吉により根来衆が滅ぼされた後に再建されたものですが...
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門の左右には仁王像が安置され、上がることはできませんが、
上層には釈迦三尊と十六羅漢像が安置されています。
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参道を進むと塔頭の蓮華院がありますが、門は閉じられています。
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蓮華院の先で北へ進むと「鳥羽上皇御駐輦(ごちゅうれん)所」があります。
駐輦とは鳥羽上皇が行幸の際、乗ってきた車を止めた場所になり、
この先に覚鑁(かくばん)上人が晩年を過ごした塔頭の円明寺があります。
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駐輦所から進んだ所に三部権現が祀られています。
根来寺の総鎮守社で、覚鑁上人が国難を払うことを
祈願して鎮守社を祀りました。
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更に先に進むと円明寺御影堂があります。
平安時代後期の大治5年(1130)、高野山の学僧・覚鑁は高野山内に一堂を建て、
伝法院と称したことが根来寺の始まりです。
鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護し、
長承元年(1132)には院宣により覚鑁は高野山に大伝法院と
密厳院(みつごんいん)を建立しました。
長承3年(1134)、金剛峯寺座主に就任した覚鑁は、当時堕落していた
高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努力します。
しかし、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は
対立しあうようになりました。
保延6年(1140)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が
高野山内の反対勢力により焼き討ちにされました。
覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった
豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移し、円明寺を建て伝法会道場としました。
これが当地に於ける根来寺の創始となります。
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10:50に根来寺の入山受付所に到着しました。
入山料500円を納め、緩い坂道を登ります。
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その先に竜宮造りの鐘楼門があります。
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鐘楼門をくぐった正面に江戸時代後期の文化元年(1804)に落慶した
光明殿(光明真言殿)があり、県の文化財に指定されています。
堂内には興教大師・覚鑁上人像が安置され、左右には歴代藩主・座主
及び信徒の位牌が祀られています。
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「密厳堂」の扁額が掲げられています。
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縁側には何故か達磨像が並べられています。
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光明真言殿から左側へ進んだ所に聖天池があります。
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池の対岸には聖天堂があります。
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聖天堂の右側に行者堂があり、宗門の僧侶はここで護摩を焚いて修行します。
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聖天池の左側の端から九社明神への参道がありますが、
行きそびれてしまいました。
九社明神は豊福寺の鎮守社です。
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境内を東へ進んだ所に水子堂があり、堂内には水子地蔵尊が祀られています。
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水子堂の前には多数の無縁墓が集められています。
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水子堂から北へ進んだ正面に南北朝時代末期の元中8年/明徳2年(1391)に
建立された大師堂があります。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは根来衆
雑賀衆(さいかしゅう)は徳川方に加担し、大坂周辺にまで出兵して
尾張に出陣した羽柴秀吉の背後を脅かしました。
しかし、天正13年(1585)、家康と和解した秀吉による紀州攻めで、
根来寺は大師堂、大塔など数棟を残して焼け落ちました。
因みに雑賀衆の頭目的存在であったのが雑賀党鈴木氏で、
当主は代々通称として鈴木孫一を名乗りました。
本姓は穂積氏で、藤白鈴木氏の流れを汲んでいます。

また、当時、塔頭・智積院の住職であった玄宥(げんゆう)は、
根来攻めが始まる前に弟子たちを引き連れ、寺を出て高野山へと逃れました。
関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601)、家康は東山の
豊国神社の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院が復興されました。

大師堂は焼失を免れた建物の一つで、須弥壇と共に国の重要文化財に
指定されています。
堂内には明徳2年(1391)の造立銘がある弘法大師像が安置されています。
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大師堂の右奥に大塔があります。
正確には「大毘廬遮那法界体性塔(だいびるしゃなほっかいたいしょうとう)」
と称され、日本最大の木造多宝塔で国宝に指定されています。
創建は覚鑁の後を継いだ覚尋により、承安2年(1172)頃に建立されましたが、
仁治3年(1243)に焼失しました。
現在の塔は、高さ40m、幅15mあり、文明12年(1480)頃から建築が始まり、
半世紀以上経た天文16年(1547)に竣工しました。
大塔も焼失から免れましたが、基部には秀吉に攻められた際の火縄銃の
弾痕が残されています。
残念ながら確認するのを忘れました。

堂内の撮影は禁止されてますが、初層・中央の一段高い所に大日如来坐像が
安置され、それを取り囲むように胎蔵界の中台八葉院の諸尊像が安置され、
厳かな空気感に包まれています。
上層には金剛界三十七尊像を安置されていますが、下からは見えません。
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大塔の左側にある大伝法堂は根来寺の本堂で、江戸時代後期の
文政10年(1827)の再建で、県の文化財に指定されています。
大伝法堂も焼失から免れたのですが、秀吉が信長の廟所を建立する目的で
解体して持ち去りました。
秀吉は京都の船岡山に信長の廟所として天正寺を建立し、
その本堂とする予定でしたが、天正寺は建立されず、部材は大坂の
中津川沿いの現在の大阪市此花区伝法に放置されました。
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本尊は像高350cmの木造大日如来坐像で、向かって右側に像高343cmの
金剛薩埵(こんごうさった)坐像、 向かって左側に像高335cmの
尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)坐像が安置されています。

大日如来は密教の本尊で、無限宇宙に周遍し、万物と共に在るとされています。

金剛薩埵は大日如来の教えを受けた菩薩で、密教の第二祖とされています。
金剛(ダイヤモンド)のように堅固な菩提心を持つと称されています。

尊勝仏頂は如来の肉髻(にっけい=頭頂部の椀状の盛り上がり)を
神格化した仏とされ、仏頂尊の一尊です。
真理の体得者である如来にはさまざまな身体的特徴があり、
中でも頭頂部には特に神秘的な力が宿るとされました。
これが仏頂尊で、如来の優れた頭脳、人々を救済する知性を
神格化したものとも解釈されています。
仏頂尊勝陀羅尼』を唱える事によって滅罪、生善、息災延命などの
ご利益が得られるとされています。
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水子堂の前まで戻り、北へと進むと興教大師・覚鑁の御廟所である
奥の院があります。
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覚鑁上人は嘉保2年(1095)6月に京都仁和寺の荘園であった肥前国藤津庄
(現:佐賀県鹿島市)で生まれ、誕生地には
新義真言宗大本山・誕生院が創建されています。

10歳の時に父が亡くし、仁和寺の縁を頼り13歳で仁和寺成就院へ入りました。
16歳で得度・出家し、20歳で東大寺戒壇院で受戒、名を覚鑁と改めました。
その後、高野山へ入り、35歳で真言宗の伝法の悉くを灌頂し、
空海以来の才と称されました。
大治5年(1130)に高野山内に伝法院を建立しました。
同年、鳥羽上皇の勅願により京都市伏見区に北向不動院を開山しました。

保延6年(1140)に高野山を追われ、豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移しますが、
康治2年(1143)に入滅し、現在地に埋葬されました。
正応元年(1288)、高野山大伝法院の学頭・頼瑜(らいゆ)は大伝法院の
寺籍を根来寺に移し、覚鑁上人の教学・解釈を基礎とした
「新義真言宗」を展開し、発展させていきます。
覚鑁上人は法然上人等が唱えた念仏・浄土思想を、真言教学においていかに
捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成しました。
西方浄土教主の阿弥陀如来とは、真言教主・大日如来という普門総徳の尊
(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとしました。
後に根来山は羽柴秀吉の討伐を受け壊滅しますが、生き延びた一部の僧たちは
奈良や京都へ逃れ長谷寺(豊山)や智積院(智山)において新義真言宗の
教義を根付かせ、現在の新義真言宗(根来寺)、真言宗豊山派、
真言宗智山派の基礎となりました。
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奥の院から下ってきた所は「もみじ谷」と称されています。
新緑も美しいのですが、紅葉の頃は更に映えるのではないかと想像されます。
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寺務所まで戻ります。
根来寺は神仏霊場・第9番、近畿三十六不動尊霊場・第34番札所と
なっていますが、不動尊は不動堂で納経を行います。
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寺務所から光明殿へと進みます。
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閼伽井があります。
「金剛清水」と称され、河川が濁ってもこの水は濁らず、仏前に供えられる他、
水垢離としても使われますが、清水は非常に冷たいそうです。
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行者堂には變大菩薩坐像が安置されていますが堂内の撮影は禁止されています。

聖天堂は雨宝楼とも称され、七難即滅、七福即生の祈願道場で、
中央朱塗りの垣及び付属の塗物は根来塗で仕上げられています。
天部諸尊及び十一面観世音菩薩像が安置されていますが、
堂内の撮影は禁止されています。
聖天堂前の池庭は、浄土曼荼羅を形どって造られ、根来寺最古の池庭で
国の名勝に指定されています。
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根来型手水鉢は根来寺だけにあった手水鉢で、上の鉢に水を張ると、
下の枝の部分に自然に水が浸透してたまるという珍しい手水鉢です。
幾度かの火災で焼失してしまったものを文献に基づき原形通り復元されたものです。
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正面の建物は名草御殿です。
「本坊・表書院及び裏書院は共に紀州公の名草御殿、別院並びに湊御殿で、
天保年間(1831~1845)に建立され、和歌山市より移築したものです」との
記載がありましたが、判明したのは名草御殿のみです。
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光明殿から本坊・書院へかけての背後には庭園が築かれ、
国の名勝に指定されています。
江戸時代初期に作庭された池泉式の蓬莱庭園です。
手前の橋の先の島が鶴島で、次の島が亀島になり、
池の奥には滝組が設けられています。
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亀島の灯篭の下には洞窟があり、左側には岩島があります。

不動堂へ向かいます。
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参道を水子堂の方へ戻り、その先で南へ下り、入山受付所を出た左側に
不動堂への参道があります。
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現在の不動堂は江戸時代末期の嘉永3年(1850)に建立されました。
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背後にある平面が正八角形の本堂部分に「三国一のきりもみ不動」と
呼ばれる不動尊像が安置されていますが、秘仏とされています。
「三国一のきりもみ不動」とは保延6年(1140)に起こった「錐もみの乱」に
由来しています。
高野山内保守派の反発を受けた覚鑁上人は長承4年(1135)3月21日に
金剛峯寺座主を辞任し、密厳院に隠棲して無言三昧の行に入られました。
しかし、保延5年(1139)11月5日に金剛峯寺と大伝法院の所領境界の争いから
反対派により密厳院が焼き討ちされました。
この時、密厳院不動堂にいた覚鑁の命を狙い、僧徒が不動堂に乱入してきました。
堂内には本来、一躯しかないはずの不動明王像が須弥壇上に二躯も並んでいました。
僧徒は不動明王像の膝に錐を指し、血が出た方が覚鑁であると考えましたが、
両方の不動明王像の膝から血が流れ出てきました。
覚鑁が不動明王に護られていることを悟った僧徒達は恐れおののいて退散し、
覚鑁は辛くも一命を取り留めました。
覚鑁と共に高野山を下った不動明王像が現在の不動堂に安置され、
近畿三十六不動尊霊場・第34番札所本尊ともなっています。
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境内には春日堂があり、不動堂の鎮守として春日大明神が祀られています。
また、白山大神、稲荷大神を合祀し、根来寺を守護しています。
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お気に入りの場所でしょうか?

JR和歌山駅まで戻り、神仏霊場・第8番札所の竈山神社へ向かいます。
続く

竈山神社

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和歌山電鉄のホームに入ると、「うめ星」電車が停車していました。
貴志川線開業100周年と和歌山電鐵として運行を開始してから10周年を記念して、
2273Fを「うめ星電車」としてリニューアルし平成28年(2016)春から
運行されています。
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和歌山県の特産品である南高梅から作られる「梅干し」をモチーフに、
外観は深紅、内装は梅模様の座席、窓に障子をあしらうなど、
和風の装いとされいます。
JR九州の「ななつ星」のパロディともされているそうですが、
星六つの差があるようです...?
13:55に和歌山駅を出発し、14:04に竈山駅に着き、
徒歩で竈山神社へ向かいます。
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竈山駅から歩くと、竈山神社の手前に「神武天皇兄・彦五瀬命
(ひこいつせのみこと) 竈山墓」があります。
竈山墓及び竈山神社は昨年4月にも訪れていますので、
詳細はこちらをご覧ください。

神武東征の際、浪速国で長髄彦(ながすねひこ)と戦いとなり、
彦五瀬命は流矢に当って負傷しました。
その後、『古事記』では現在の和歌山市小野町にある水門吹上神社で亡くなり、
この地に葬られたとされています。
また、『日本書紀』では紀国竈山で亡くなり、竈山に墓が築かれたと
されています。
天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めで、古文書が焼失し、
詳細な記録は残されていませんが、墓が築かれた後
直ちにその御魂を祀る神社が創建されたと考えられています。
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神門
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拝殿
神門をくぐり、本殿に参拝した後に神仏霊場・第8番札所の朱印を頂き、
参道を南西方向に進みます。
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社標には「官幣大社 竈山神社」と記されています。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「竈山神社」と
記載され式内社に列している他、『紀伊国神名帳』では
「従四位上 竈山神」と記載されています。
天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めでは、社宝・古文書を焼失、
社領の神田8町8段も没収されました。
慶長5年(1600)に紀伊国に入った浅野幸長によって小祠が再建され、
寛文9年(1669)に初代紀州藩主・徳川頼宣によって社殿が再建されました。
江戸時代では寺社奉行の支配下に置かれたため、氏子や社領がなく
衰微しましたが、明治6年(1873)の近代社格制度では村社に列せられました。
明治18年(1885)4月22日には官幣中社、大正4年(1915)11月10日に
官幣大社に昇格し、村社から官幣大社まで昇格した唯一の例となりました。
昭和13年(1938)頃に現在の規模の社殿が整えられ、
戦後は神社本庁の別表神社に列しています。

竈山神社から徒歩で紀三井寺へ向かいます。
続く

紀三井寺

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竈山神社から約1時間歩いて15:30に紀三井寺に到着しました。
紀三井寺へは昨年の4月にも訪れていますので、詳細はこちらをご覧ください。
但し、記載に誤りがありましたので訂正します。
「紀三井寺-その1」で「吉祥水」と記載していたのは誤りでした。
そこで、「吉祥水」を探すことにしましたが、寺からは結構離れていました。
紀三井寺横の住宅街を北へ進んだ山手に「吉祥水」の立札が見えてきます。
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登り口には「吉祥(滝のぼり)地蔵」が祀られた地蔵堂があります。
「瀧のぼりの清水」として親しまれてきた「吉祥水」ですが、
昭和初期に附近に土砂崩壊が起り、その後も相次ぐ崩壊により水筋も変り、
水桶等施設も理没して荒廃し、境界も定かならぬ有様となりました。
地元の方々や有志によって復興工事が行われた際、旧吉祥水滝から
埋没した地蔵像が発掘され、昭和32年(1957)5月に地蔵堂が
建立され祀られるようになりました。
地蔵堂前の街道は、熊野詣での旧三葛(みかづら)街道で、
かっては巡礼宿や藩主の「お成り屋敷」がありました。
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吉祥水へは整備された石段を上ります。
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その先に昭和58年(1983)に復旧た吉祥水が流れ落ちています。
地元の方々や有志により、坂道・泉源・石垣などが整備され、
和歌山市の名勝に指定されています。
『紀三井寺縁起』によれば、「吉祥水」は吉祥天女が内心に悟りを
得たことから湧き出たものとされ、一切衆生の災難を除き、
五穀豊かに、全ての民をを安楽にすると伝わります。
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上部には吉祥天女像が祀られています。
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南へ約200m離れている楼門へ向かい、楼門前には15:50に到着しました。
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結縁坂(けちえんざか)の石段を上ります。
前回、殆ど写っていなかった「タブの木」を撮り直しました。
この木は開山・為光(いこう)上人が竜宮へ説法に行かれ、
龍神からお礼に戴いた七種の宝物の内の一つと伝わります。
病に応じて薬となると云われる霊木とされています。

時間に追われながら納経を済ませると、楊柳水への時間が取れませんでした。
次回は京都市内を巡ります。
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