北向不動院の東の入口から出て東へ進んだ所に「白河法皇・鳥羽法皇 院政之地」
の石碑が建立されています。
白河天皇は応徳3年(1086)11月に実子である8歳の善仁親王
白河天皇は応徳3年(1086)11月に実子である8歳の善仁親王
(第73代・堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位しました。
白河上皇は幼帝を後見するために自ら政務を執り、
白河上皇は幼帝を後見するために自ら政務を執り、
これが院政の始まりとされています。
その背景には、藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治を抑え、
その背景には、藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治を抑え、
皇権の確立と律令の復興を企図するものでした。
成人した堀河天皇は自ら政務を執ろうとし、上皇の政治介入に反発していた
成人した堀河天皇は自ら政務を執ろうとし、上皇の政治介入に反発していた
関白・藤原師通(ふじわら の もろみち)は天皇に協力しました。
白河上皇は嘉保3年(1096)に出家して法皇となり、政治との距離を
白河上皇は嘉保3年(1096)に出家して法皇となり、政治との距離を
取ろうとしますが、承徳3年6月28日(1099年7月18日)に藤原師通は
悪瘡(あくそう)を患い38歳で急死しました。
後ろ盾を失った堀河天皇に、再び法皇の政治介入が始まりますが、
後ろ盾を失った堀河天皇に、再び法皇の政治介入が始まりますが、
天皇は嘉承2年7月19日(1107年8月9日)に29歳で崩御されました。
同日、堀河天皇の皇子で白河法皇の孫にあたる第74代・鳥羽天皇が
同日、堀河天皇の皇子で白河法皇の孫にあたる第74代・鳥羽天皇が
5歳で即位し、白河院政が本格化しました。
鳥羽天皇は保安4年(1123)正月28日に第一王子である5歳の
第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位します。
白河法皇が大治4年7月7日(1129年7月24日)に77歳で崩御されると、
白河法皇が大治4年7月7日(1129年7月24日)に77歳で崩御されると、
鳥羽上皇は院政を開始し、藤原得子(美福門院)を寵愛するようになります。
藤原得子に鳥羽上皇の第9皇子が誕生すると、上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、
藤原得子に鳥羽上皇の第9皇子が誕生すると、上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、
守仁王(後の二条天皇)への中継ぎとして、その父の雅仁親王
(後の白河天皇)が即位することになりました。
保元元年7月2日(1156年7月20日)、鳥羽上皇が崩御されると、皇位を巡って
保元元年7月2日(1156年7月20日)、鳥羽上皇が崩御されると、皇位を巡って
朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こりました。
崇徳院は讃岐国に配流され、8年後の長寛2年(1164)8月26日に
崇徳院は讃岐国に配流され、8年後の長寛2年(1164)8月26日に
46歳で崩御されました。
付近に「冠石」があります。
鳥羽天皇は崇徳天皇に譲位した後、白河上皇が創建した鳥羽離宮に入り、
鳥羽天皇は崇徳天皇に譲位した後、白河上皇が創建した鳥羽離宮に入り、
保延3年(1137)から殿舎や仏殿を増築しました。
その際この石の上に冠を置き、これを中心に造営したと伝わります。
仏殿が安楽寿院の起源で、文献上に初見されるのは康治2年(1143)です。
その際この石の上に冠を置き、これを中心に造営したと伝わります。
仏殿が安楽寿院の起源で、文献上に初見されるのは康治2年(1143)です。
北側には鳥羽上皇の安楽寿院陵があります。
鳥羽離宮に入った鳥羽上皇は、東殿を造営し、保延5年(1139)に
鳥羽離宮に入った鳥羽上皇は、東殿を造営し、保延5年(1139)に
自らの墓所として後に「本御塔」と呼ばれた三重塔を建立しました。
上皇が崩御されると、一層に埋葬されましたが、その後焼失と再建が
繰り返され、元治元年(1864)に修陵されています。
元禄以後幕末まで近衛天皇陵が鳥羽天皇陵と誤認されていましたが、
元禄以後幕末まで近衛天皇陵が鳥羽天皇陵と誤認されていましたが、
修陵の際に修正されました。
安楽寿院陵から少し東へ進んだ所に近衛天皇の安楽寿院南陵があり、
多宝塔が建立されています。
多宝塔は美福門院の墓所として保元2年(1157)に、「新御塔」として
多宝塔は美福門院の墓所として保元2年(1157)に、「新御塔」として
建立されましたが、美福門院は遺言により高野山に埋葬されました。
現在の多宝塔は慶長11年(1606)に豊臣秀頼が片桐且元(かたぎり かつもと)を
普請奉行として再建されたものです。
長寛元年(1163)に平安京郊外の船岡山麓にあった知足院から、
長寛元年(1163)に平安京郊外の船岡山麓にあった知足院から、
このため天皇は眼病を患い、そして亡くなった...。
南陵の北側に三宝荒神社があります。
火難除けの神として勧請し、慶長11年(1606)に建立されました。
参道には二対の三尊石仏が祀られています。
平安時代の作で、江戸時代の享保年間(1716~1736)に境内の西にあった
平安時代の作で、江戸時代の享保年間(1716~1736)に境内の西にあった
成菩提院跡から釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊の石仏が出土しました。
この内、状態の良かった阿弥陀三尊像は京都国立博物館に寄託され、
この内、状態の良かった阿弥陀三尊像は京都国立博物館に寄託され、
二対が現在地に遷されました。
三宝荒神社の鳥居前を東へ進むと収蔵庫があり、「本御塔」の扁額が
掲げられています。
収蔵庫には国の重要文化財に指定されている安楽寿院本尊の
収蔵庫には国の重要文化財に指定されている安楽寿院本尊の
阿弥陀如来坐像が安置されています。
「本御塔」の三重塔には鳥羽上皇が自ら写経した『法華経』を塔下に納め、
「本御塔」の三重塔には鳥羽上皇が自ら写経した『法華経』を塔下に納め、
本尊して阿弥陀如来坐像を安置しました。
この像は定朝様(じょうちょうよう)の穏やかな作風の仏像で、
この像は定朝様(じょうちょうよう)の穏やかな作風の仏像で、
胸の中央に卍を刻むことから卍阿弥陀の称があります。
境内に入った正面に大師堂があります。
安土・桃山時代の慶長元年(1596)に発生した慶長伏見地震により
安土・桃山時代の慶長元年(1596)に発生した慶長伏見地震により
「新御塔」が倒壊したため、仮殿として建立されました。
その後、勤行堂となり、慶長11年(1606)に「新御塔」が再建されるに当り、
その後、勤行堂となり、慶長11年(1606)に「新御塔」が再建されるに当り、
現在地に移築され大師堂となりました。
堂内には、本尊の弘法大師像の他に旧塔頭の仏像も含め、大日如来、薬師如来、
堂内には、本尊の弘法大師像の他に旧塔頭の仏像も含め、大日如来、薬師如来、
聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、
歓喜天等が安置されています。
大師堂の右側に昭和33年(1958)に再建された薬師堂があります。
かっては、阿弥陀如来像が安置され、阿弥陀堂と呼ばれていましたが、
かっては、阿弥陀如来像が安置され、阿弥陀堂と呼ばれていましたが、
収蔵庫が完成した後、阿弥陀如来像は収蔵庫に遷されました。
薬師堂の前にある鐘楼は、慶長11年(1606)に豊臣秀頼による修造の際に
再建されました。
境内の西側に山門があります。
山門内の正面には寛政7年(1795)に建立された右に書院と左奥に庫裏があります。
境内は国の史跡に指定され、「明治天皇御休所」の石碑が建立されています。
白河天皇の成菩提院陵へ向かう予定でしたが、急用のため後日となりました。
次回からは春の青春18きっぷを利用して伊勢市を巡ります。