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神足神社

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JR長岡京市駅西側から地下通路を経て、東口に着きました。
正面に0系新幹線の車輪とD-51蒸気機関車の第四動輪が展示されています。
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右側には、国鉄時代の緩急車「ヨ8000」が展示されています。
「緩急車」とは、貨物を搭載する車両に車掌など人が乗るスペースがあり、
ブレーキを掛ける装置が取り付けられている車両のことで、
貨物列車の最後尾に連結されています。
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駅前のロータリーに、「江戸時代の勝龍寺城本丸跡」の石碑が建っています。
天正17年(1589)、豊臣秀吉は淀城(淀古城)の築城にあたり、
勝龍寺城を資材として移築したため勝龍寺城は廃城となりました。
江戸時代になって、二代将軍・徳川秀忠の寛永10年(1633)、
永井直清が長岡藩主となりました。
幕府から、勝龍寺古城北に屋敷を取ること、堀を触らないことと命じられたため、
JR長岡京駅周辺に新たに城を築きました。
慶安2年(1649)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となりました。
駅前のアゼリア通りに出て、神足神社へ向かいます。
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アゼリア通りの左側に神足(こうたり)神社の入口があり、
入口を入った右側に勝龍寺城の土嚢と空堀跡があります。
画像右側奥の高くなった所が、横矢掛かりの虎口(こぐち)と呼ばれます。
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空堀には土橋が設けられています。
土橋の幅は約1mと狭く、敵が大勢で攻め込むのを防いでいます。
横矢掛かりの虎口からは、前方の土橋を渡る敵を狙い撃ちにできます。
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一帯の発掘調査では、土塁の下から神足城の堀とみられる箇所や、
六世紀後半の方墳である神足古墳が確認されました。
また、空堀からは、菊一稲荷社で使われたとみられる灯明皿と狐の土人形
が出土しました。
勝龍寺城の土嚢跡向かいの神足家の端に稲荷社が祀られています。
これが、菊一稲荷社でしょうか?
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神足神社の拝殿です。
神足神社は、旧神足村の産土神で、延喜式には乙訓十九座の一つで
「神足神社(こうだにのじんじゃ)」と比定されています。
祭神は、長岡京市観光協会によると舎人(とねり)親王とされていますが、
天神立命(あめのかみたちのみこと)との説もあり詳細は不明です。
天神立命は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の随行者の一人で
天磐船(あめのいわふね)の船長を務めたとされています。
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本殿です。
神足神社には「桓武天皇の夢」として次のような伝説が残っています。
「田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。
天皇は目覚められ、神足村にこの神を祭る社を建てさせ太刀と絹を秘蔵させた。」
以後、この社は「神足神社」と田村は「神足村」と呼ばれるようになった
と言われます。
また、延暦3年(784)の長岡京遷都に際して、桓武天皇の行幸に、
神足家の初祖である神足光丸が随行してこの地に移り住み、
宮廷の裏鬼門を守護するために、金の太刀と絹をご神体として祀った、
とする説もあります。
延暦15年(796)には、桓武天皇の勅により初祖が祀られ、
桓武帝勅祭が執り行われました。
齋衡(さいこう)元年(854)に、官社に列せられ、
文献で初めて存在が確認されています。
鎌倉時代、この地の付近は、摂家九条家の荘園となり、神足氏が管理しました。
室町時代、土塁が築かれ神足城と呼ばれるようになります。
戦国時代の永正元年(1504)、細川氏の内紛に巻き込まれた神足氏は
神足城を失うこととなりました。
元亀2年(1571)、細川藤孝が勝龍寺城に入り、城の補強、改修をした際に、
神足城は勝龍寺城に組み込まれ、いつしか消滅してしまいました。
明治5年(1872)に、東海道本線建設に伴い、神足神社は神足城跡の
現在地に遷されました。
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野上天神社






神木
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順序が逆になってしまいましたが、鳥居の方から出て
アゼリア通りに戻り、勝龍寺城公園へ向かいます。

続く

勝龍寺城公園

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勝龍寺城公園の手前に観音寺があります。
観音寺は、室町時代の元亀1年(1570)、雪山によって開創され、
江戸時代の宝暦年間(1751〜1763)に再建されたと伝わります。
本尊は、十一面観音座像で、京都洛西観音霊場の第13番札所です。
十一面観音座像は、後村上天皇が、後醍醐天皇の菩提を弔うために
造物されたと伝わります。
像内部に残された胎内銘によると「文和4年(1355)に常光寺(滋賀県甲賀市、
臨済宗永源寺派)に奉安されてたとあり、
その後、当寺に還されたといわれています。
この十一面観音座像は京都府の重要文化財に指定されています。
(画像は浄土宗公式サイトに掲載されています)
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勝龍寺城公園は、平成4年に勝龍寺城の本丸跡に造られ、
三方を堀で囲まれています。
発掘調査では、堀の深さ3m、幅15m以上あり、石垣が組まれ、
その上に高さ4~5mの土塁が築かれていたそうです。
東辺の土塁上では、多聞櫓の土台であった石垣なども発見されています。
勝龍寺城公園は、都市公園で、勝龍寺城を再現したものではありません。
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堀には鯉がたくさん泳いでいて、餌やりをする方もいて、人を見ると寄ってきます。
おこぼれに預かっている、鳩や雀も人を見ると、
餌をくれる人だと勘違いしているようです。
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勝龍寺城は、南北朝時代の暦応2年(1339)、足利尊氏の命により細川頼春
師氏(もろうじ)兄弟が築城したとされています。
男山、山崎方面に進出してきた南朝方と対抗するため、
北朝・足利尊氏方の前線基地となりました。
また、「東寺百合文章」では、室町時代の長禄1年(1457)、
山城守護であった畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)が
乙訓郡代役所として築いたとの記述も見られます。
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元亀2年(1571)、細川藤孝が勝龍寺城に入り、織田信長の命を受け、
大規模な城の改修を行いました。
天正6年(1578)、明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が、
藤孝の長男である細川忠興に嫁ぎ、2年間、この城で新婚時代を過ごしました。
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公園内には、四箇所の井戸跡が発掘調査で見つかり、その内三箇所が、
細川藤孝の改修時に造られたものでした。
直径0.9m、深さ2mで、太い木を井桁に組み、その上に石を積み上げたもので、
発掘調査の時も水が湧き出していたそうです。
今は、コンクリートで固められていますので、
当時の姿は説明板の写真で偲ぶことができます。
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横には、地下水100%の水道水という水飲み場が設置され、
「ガラシャ おもかげの水」と命名されています。
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「ガラシャ おもかげの水」の先に、細川忠興・ガラシャ夫人像が
建てられています。
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本丸の北東隅から、石垣で築かれた高さ4mの土塁が見つかりました。
土塁の上は一辺が10m四方の平坦な面があり、多聞櫓が築かれていたと推定され、
説明板では当時の図面が描かれています。
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現在は、隅櫓が建築され休憩所になっていますが、窓は塞がれ、
敵の接近を見張ることは出来ません。
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管理棟の1階は休憩所になっていて、ガラス越しに池に泳ぐ錦鯉などを見て
くつろげますが、飲食禁止になっていて、喫茶スペースがほしいと思いました。
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細川忠興・ガラシャ夫人の肖像画が掛けられています。
2階には資料展示室がありますが、撮影禁止になっています。
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細川忠興・ガラシャ夫人の肖像画が掛けられています。
2階には資料展示室がありますが、撮影禁止になっています。
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西側土塁の中央部には、斜面が階段状に削られ、多量の石が詰められていました。
南西の角が、北東隅と同じように平らになっていることから、
ここにも隅櫓が築かれていたのだろうと推定されています。
西側全体の土塁は本来、この高さで続いていたのですが、中央部にくぼみを付けて、橋が架けられ、沼田丸への通路とされたと考えられています。
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土塁の上に植えられているムクノキは、長岡京市の保存樹木に指定されています。
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本丸の西側、今は公園として利用されている東西約50m、
南北約65mの少し盛り上がった台地には沼田丸が築かれていました。
沼田は、細川藤孝の妻の旧姓であり、
沼田丸奥の沼田屋敷には、一族が住んでいたと思われます。
ベンチで休憩していると、やはり鳩と雀が寄ってきます。
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沼田丸にも、本丸と同じような井戸跡が駐車場との境に設置されています。
横には、地下水100%の水道が設置されていて、近所の方々が汲みに来ていました。
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南門から公園内に戻ります。
この門は、沼田丸へ行くのに便利なように、土塁を削って造られたように思います。
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突き当たりに、石仏や五輪塔が多数安置されています。
発掘調査により石垣跡や井戸跡から出土したものです。
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北西には、北門跡があります。
山崎の合戦では、光秀は本陣からこの城に逃げ帰り、夜陰にまぎれて
5~6人の家臣と共に北門から脱出しました。
光秀は、坂本城へ向かう途中、竹槍によって命を落とし、
勝龍寺城は、秀吉に攻め込まれて落城しました。

勝龍寺城公園は、毎週火曜日及び12月28日から1月4日までは休園日です
毎年11月の第2日曜日には、玉の輿入れ行列の再現などによる
「長岡京ガラシャ祭」が行われています。

勝龍寺へ向かいます
続く

勝龍寺

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勝龍寺城公園に直ぐ近くに勝龍寺があります。
勝龍寺は、平安時代の大同元年(806)、空海によって開基されたと伝わります。
寺号は恵解山青龍寺で、当初の「青龍寺」という寺名は、
空海が学んだ唐の青龍寺に由来しているとされています。
観音堂を始め九十九坊が建てられていた大寺院であったことが、
勝龍寺城や地名で残されていることから窺うことができます。
応和2年(962)、大干ばつ・大飢饉が発生し、第62代・村上天皇の命により、
当時の住職であった千観(せんかん)上人の祈とうで雨が降り、
龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名されました。
室町時代になると、境内が勝龍寺城に隣接していたため、たびたび焼失し、
その後の山崎の合戦でも焼失しました。
現在の勝龍寺は、専勝坊の法灯を継いでいます。
本尊は鎌倉時代につくられた十一面観音で、国の重要文化財に指定されています。
京都国立博物館に寄託されており、8月18日とガラシャ祭り(11月第2日曜)には
勝龍寺で御開帳されます。
他に鎌倉時代の十一面観音像や聖観音立像、二天王立像(持国天像・多聞天像)が
安置されていて、いずれも長岡京指定文化財になっています。
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正面の右には、びんずる尊者の像が安置されています。
「諸病悉除衆苦代受(しょびょう・しつじょ・しゅうく・だいじゅ)」
なでぼとけの別名を持つこの仏様は、心身の病んでいるところと、
同じところを撫でて、一心にお参りすると病が治るというご利益があります。
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平成18年12月には、「ぼけ封じ観音」が安置され、西日本ぼけ封じ三十三ヶ所霊場の第三番霊場で、同じくぼけ封じ近畿十楽観音霊場の第三霊場となっています。
また京都洛西観音霊場第十四番札所です。
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梵鐘には、「三代目です」との説明文があります。
初代の梵鐘は、大阪の陣で持ち去られ、現在、大阪府能勢町の真如寺に存在が
確認され、大阪府指定文化財になっています。
二代目は、昭和3年に鋳造されたのですが、第二次世界大戦時に
戦時供出されました。
三代目になる現在の梵鐘は、昭和52年に鋳造されたものです。
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修行大師像
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境内に安置されている石仏群
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隣接というか同じ敷地に春日神社があります。
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春日神社は、平安時代末期の承安4年(1174)、九条兼実による建立と伝わります。
天正10年(1582)に焼失しましたが、慶兆9年(1604)に再建されました。
弘化2年(1845)に破損・造営したと伝わります。
江戸時代には勝竜寺村(久貝を除く)の氏神となりました。
石鳥居には元禄13年(1700)、石灯篭には正徳4年(1714)、
狛犬には慶応元年(1865)の銘があり、
江戸時代の境内整備の記録が残されています。
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ガラシャ通りに出て、小畑川に架かる橋の手前に、「勝龍寺城大門橋」の石碑と
シンボルとしての結界門が建っています。
南北朝時代、勝龍寺城を築城の際、細川師氏(もろうじ)は、
宇波多川(うばたがわ・現-小畑川)の流れを西南の方に移動して、
勝龍寺城の外堀としました。
元亀2年(1571)、細川藤孝が勝龍寺城を改修した際、ここに大手門を構築しました。
以来、この大手門に架かる橋は「大門橋」と呼ばれるようになりました。
橋を渡らずに右折し、川沿いに恵解山通りに出て、恵解山古墳に向かいます。
続く

恵解山古墳~サントリービール工場見学

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恵解山古墳(いげのやまこふん)は、古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)に
築造された乙訓地方最大の前方後円墳です。
全長は、約128mでその周囲には幅約30mの浅い周濠(しゅうごう)が
掘られていました。
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古墳は3段に築かれ、斜面には河原石が積まれて、各段と頂上平坦部には
埴輪が並べられていました。
後円部には、死者を埋葬した竪穴式石室があったとみられていますが、
今は墓地になっています。
前方部の中央からは、刀剣などの鉄製武器が約700点発掘されました。
恵解山古墳は、その規模や構造から5世紀前半頃の桂川右岸の乙訓地方全域を
治めた支配者の墓と考えられています。
墳形は大王(天皇)墓に倣っていることから、被葬者は王権と強いつながりを持ち、大王墓の設計図を使用できたと推察されています。
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後円部の少し前方にある、東西約8.5m・南北約12mの造り出しの取り付き部分は、島に見立てて入り江状に表されていました。
造り出しは、東西で形や大きさが異なるようですが、西側のみが再現されています。
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造り出し上面は、埴輪で囲われ、東辺の埴輪列は、北寄りで食い違いがあり、そこから中へ入る仕組みになっていました。
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斜面は、河原石による葺石(ふきいし)で築かれ、平坦面には約650点の
埴輪が並べられていました。
埴輪は、円筒埴輪と呼ばれる土管状のもので、約40cm間隔で並べられていた
ことから、恵解山古墳全体では約1800本以上の埴輪が使われたと推察されます。
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前方部の中央付近からは、多量の鉄製武器類が、長さ6.5m以上、幅約80cmの
木製の箱状の入れ物に納められていました。
箱の底には刀が、その上に剣と槍、さらにその上に短刀と大量の矢が束ねられて
整然と置かれていました。
多量の鉄製武器が出土した例は全国的にも珍しく、京都府内初となり、
出土品は平成11年に府指定文化財に指定されました。
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昭和55年、墓地拡張工事の際に、前方部の中央付近からで鉄器が出土した事から、
調査が開始されました。
ただし、古墳の保存状態は悪く、後円部にあった竪穴式石室が失われるなど
改変され、容姿はひどく損なわれていました。
明智光秀が、山崎の合戦の際、ここに本陣を置いた痕跡との見方が出ています。
後円部には、平坦地を造成して曲輪(くるわ)が設けられ、前方部は堀で切られ、
周濠の外にも堀の跡が見つかりました。
明智光秀が本陣をおいたとされる「御坊塚」は境野1号墳ではなく、
恵解山古墳とする説が最新の学説となっています。
江戸時代になると、墳丘は墓地となりました。
恵解山古墳は、調査翌年の1981年に国の史跡に指定され、埴輪列や葺石などの
復元整備工事が完了した平成26年秋、恵解山古墳公園として開園しました。
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東側の造り出し部分です。
僅かの竹薮が残され、以前は竹薮に覆われていたことを想像させます。
恵解山古墳の大きさ
後円部径=約78.6m
後円部高=推定10.4m
前方部幅=約78.6m
前方部先端高=推定7.6m
中山修一記念館へ向かいます。
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中山修一記念館は、氏の生家で、書斎として使われていた部屋を、
展示場として開放されています。
案内される方が常駐し、中山修一氏の功績について説明を受けることができます。
中山修一氏は、文献上だけの「幻の都」といわれていた長岡京を、
平安京と同様に碁盤の目のように区画されていたことを明らかにし、
長岡京の全体の復元図を作成しました。
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母屋です。
昭和28年、氏が37歳の時、「乙訓郡誌」の執筆依頼がきっかけで、
長岡京の研究に没頭するようになりました。
昭和29年に長岡京の発掘調査に初めて着手し、
翌年に朝堂院南門(ちょうどういん・なんもん)跡を発見。
以後、小安殿(しょうあんでん)、大極殿(だいこくでん)跡など
重要な遺構を次々と発掘し、長岡京中枢部の全容を明らかにしました。
昭和51年、氏が60歳の時、 長岡宮跡発掘調査団(のちに長岡京跡発掘調査研究所と改称)が再結成されましたが、それまでの発掘調査費の殆どは、
私財で賄われていました。
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邸内には中山修一氏の像が建てられていました。
背後の松は、樹齢400年とか...

このコースの締めくくりは、お決まりのサントリービール工場見学です。
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工場にはホップが植えられています。
初めて目にしました。
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有料(1,000円)のマスタードリーム講座を申し込みました。
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テーブルには、ダイヤモンド麦芽が置かれていて、数粒試食しました。
ダイヤモンド麦芽とは、チェコで伝統的に使われる、上質で深いコクのある
希少な麦芽とのことですが、ほんのりとした甘みを感じました。
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最初約30分間、醸造家のマスタードリームに対する“こだわり”の講座を
受講しました。
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工場に行き、“こだわり”の製法を見学しました。
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“銅炊き仕込み”の模型です。
パイプ全体が蒸気で熱せられ、その中の銅管を麦汁が流れる仕組みだそうです。
そして、待望の試飲タイムです。
おつまみ付きで3杯飲むことができます。
試飲で使ったのと同じグラスをお土産に貰って久貝のバス停から帰途に着きました。

次回は、阪急京都線「西向日駅」から長岡京跡や向日神社を訪ねます。






史跡 長岡宮跡

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阪急京都線「西向日駅」から北50mの所に「史跡長岡宮朝堂院公園」があり、
公園内には案内所があります。
案内所内には、向日市内の遺跡を紹介したパンフレットが置かれていますので、
向日市を探索するには、必要なアイテムです。
開所時間は、午前10時から午後5時までですが、
午後0時から午後1時までは昼休みです。
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長岡宮
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公園の向かい、民家の生垣の間に「長岡宮朝堂院会昌(かいしょう)門跡」の
石碑が建っています。
1955年、長岡京跡の発掘調査はここから始まりました。
会昌門は、平安京での名称で、長岡宮では朝堂院南門と称されています。
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公園内に戻ると、道路際に南門の柱跡が円筒状のコンクリートで示されています。
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南門から廻廊がL字型に曲がって、翔鸞楼(しょうらんろう)へと続いているのが、砂地によって示されています。
砂地の部分にも、丸い柱の跡が見られます。
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翔鸞楼跡です。
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公園内には、朝堂院第四堂跡も残されています。
といっても、ただ平らな草地だけですけど...
朝堂院は、今の国会議事堂のような施設で、東西に四堂ずつ、
計八堂からなっていました。
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公園前の通りを北へ進むと「大極殿」という地名が残され、
直ぐ近くに大極殿跡があります。
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公園の入口には、宝幢(ほうどう)を建てた柱が再現されています。
宝幢とは、辞書で調べてみると「宝珠で飾った幢(はた)」、
幢とは「儀式などに用いた旗の一種」の意味だそうです。
現地説明文によると、「元旦に朝賀の儀式が行われ、
その際大極殿に7本の宝幢が建てられた」とあります。
宝幢とは、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、長さ9mの大柱の上に、
青龍、朱雀、白虎、玄武の四神の絵と、鳥、月、日の飾り物が
掲げられたとのことです。
宝幢は、大極殿の前約百尺(29.6m)の位置に、東西方向に3mごとに並んでいて、1997年の発掘調査では東側3本の柱の掘跡が見つかり、
その内の2基が再現されています。
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公園内には、「史跡・長岡宮跡」の石碑と説明板が数基設置されているだけで、
少し寂しく感じました。
平城宮のようなものが建設されると、観光名所になるように思います。
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奥の方では、まだ発掘調査が行われているのでしょうか?
フェンスで囲われ、立ち入りが禁じられていました。
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看板には、当時のイメージ図が描かれていますが、大極殿や朝堂院の建物は、
難波宮(なにわのみや)の物を解体して移築されたそうです。
昭和39年、長岡宮跡は国の史跡に指定されました。

先ほどの「大極殿」の交差点まで戻り、北真教寺へ向かいます。
続く

北真経寺

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「大極殿」の交差点から東へ進み、阪急京都線の踏み切りを渡って直ぐの所に、
「向日社芝斎場」があります。
斎場とは、葬儀が行われる所と思っていましたが、辞書で調べてみると
「神仏を祭るために、特別に設けられた清浄な場所。」の意味もありました。
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ここは、5月の第二日曜日に行われる、向日神社の例大祭で神輿巡幸の際に、
鶏冠井(かいで)地区の宮座の方が奉献をする所だそうです。
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奥のほうに「いろは呑龍(どんりゅう)トンネル記念碑」の石碑が建っています。
長岡京が造営された昔から、桂川右岸地域は、小畑川、小泉川、桂川の
氾濫に苦しめられてきました。
京都府は、京都市、向日市、長岡京市にまたがる1,838haの区域の浸水対策として、雨水が流入して増水した川から水を取り込んで貯留するための延長8.8km、
容量約250,000立方メートルの地下トンネル(いろは呑龍トンネル)を作る計画を
策定しました。
計画の若干の変更はありましたが、平成13年6月1日供用開始が行われ、
この記念碑が建てられたと思われます。
北真教寺へ向かいます。
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北真経寺は、鎌倉時代の徳治2年(1307)、真言宗であった真言寺の住職、
実賢(じっけん)が、日蓮の孫弟子である日像(にちぞう)に帰依し、
日蓮宗に改宗しました。
寺号の真経寺は、真言宗の「真」と日像の幼名である経一丸の「経」から
採られました。
江戸時代の承応3年(1654)、真経寺を南北に分けて、
北真経寺に鶏冠井檀林(だんりん)を開いて僧侶の学問所とし、
南真経寺は村民の信仰の場となりました。
鶏冠井檀林には、講堂を囲むように、9棟の寮が建設され、
数十人~百人以上もの学僧が集い、多くの指導者も育ちました。
経典の収集や出版事業なども行われ、方丈には、三千冊を超える書物が
保管されていました。
しかし、明治8年(1875)檀林は廃止され、寮などの建物は破却されました。
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南門です。
境内の北半分は、長岡宮の内裏後宮にあたり、
南門付近に内裏正殿が置かれていました。
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北門は、近年復興されました。
北真経寺には、釈迦が出家する因縁となった「苦・集・滅・道」の四諦(したい)を
示す東西南北に四門が建設されていました。
現在、東門は失われています。
四諦(したい)とは、「仏教の根本教理を示す語。「苦」は生・老・病・死の苦しみ、「集」は苦の原因である迷いの心の集積、「滅」は苦集を取り去った悟りの境地、「道」は悟りの境地に達する修行。」と解説されています。
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現在の本堂は、江戸時代当時の講堂で、山号の「鶏冠山(けいかんざん)」の
扁額が掛かっています。
江戸時代の姿をとどめていることから、京都府の登録文化財に指定されています。
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本堂奥の方丈には、「深玄窟」の扁額が掛かっています。
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経堂
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鐘楼
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妙見大菩薩
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春日神社
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北真経寺の表門から西へ直ぐの所に、内裏内郭築地回廊跡があります。
築地回廊(ついじかいろう)とは、中央に土塀を設けて両側に廊下を通したもので、昭和41年に宅地開発の際に発掘されました。
かがり火を焚いた跡や、詰め所のような施設も発見され、重要な施設を厳重に
警護するために造られた廊下と考えられました。
そして、昭和44年には、天皇の住居であった内裏正殿の遺構が確認されました。
この地は、大極殿から東へ200m離れた所にあり、これまでの発掘調査から、
長岡京の内裏は、北真経寺の少し南側を中心に160m四方の広さから
なっていたことが推察されています。
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少し足を伸ばして、かしの木公園に向かいます。
この公園は、春宮坊(とうぐうぼう)の跡に造られました。
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春宮坊とは、皇太子の生活を支えた役所で、役所で使用した食器や皇太子の
身の回り品、大量の木簡が出土しました。
この公園は、説明板以外に展示物等はありませんが、
JRの向日町操車場に隣接しています。
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グリーン色の見たことが無い電車がありました。

南真経寺へ向かいます。
続く

南真経寺~石塔寺

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南真経寺は、正門の正面に建っているのは本堂ではありません。
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正門の正面、境内の中央には、開山堂が建っています。
棟札から、寛永19年(1642)に完成したことがわかり、
京都府の文化財に指定されました。
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開山堂には、「真経寺」の扁額が掛かっています。
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開山堂に向かって右側に本堂があります。
本堂は、宝形造の建物で、正徳4年(1714)に建てられ、
京都府の文化財に指定されました。
天明7年(1787)に出版された「拾遺都名所絵図」によると、
南真経寺は、興隆寺と隣接していて、南真経寺には本堂が無く、
現在の本堂は境智堂と呼ばれていました。
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本堂には、「境智堂」の扁額が掛かっています。
明治9年、興隆寺は石塔寺に吸収合併されました。
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日蓮上人像
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鐘楼
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庫裏への門
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西門を出て、石塔寺へ向かいます。
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石塔寺は、鎌倉時代末の延慶3年(1310)に、日像が現在地に題目石塔を建立し、
室町時代の文明年中(1469~87)に、石塔の傍らに本堂を建立したのが
始まりと伝わります。
山門の前に題目石塔が建っています。
江戸時代の寛文年間(1661~72)には独立本山に成長し、
末寺は近畿一円に総数33ヶ寺に達しました。
明治9年、興隆寺を吸収合併し、翌年に本堂など伽藍の整備が行われました。
付近には石塔寺にちなんだ地名が残されていることから、
伽藍の壮大さをうかがうことができます。
また、この付近は、長岡京の時代に藤原種継が暗殺された場所や、
平安時代に紀貫之が京に入る前に休息した「島坂」など
歴史が偲ばれる場所でもあります。

石塔寺では、毎年5月3日に「鶏冠井(かいで)題目踊り」が奉納されます。
「鶏冠井題目踊り」は、鎌倉時代の末期に鶏冠井地区で布教活動を行っていた
日像が、村人の家を訪れた際、炊事場の湯気に
「南無妙法蓮華経」の題目が浮かびました。
それを見た村人は歓喜のあまり、野良着のまま踊り出したとされ、
それが「鶏冠井題目踊り」の始まりと伝わります。
当初は、北真経寺と南真経寺で交互に奉納されていたのですが、
廃絶の危機に陥り、「鶏冠井題目踊り保存会」が結成され、
石塔寺で奉納されるようになりました。
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山門をくぐると、正面に松の木が目に入り、庭園が綺麗に整備されています。
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本堂はコンクリート造りです。
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山号「法性山」の扁額が掛かっています。
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庫裏
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何が祀られているのか社があります。
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七面堂
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迹殿(じゃくでん)
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鐘楼
五辻まで戻ります。
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平成24年、五辻に常夜灯が復活されました。
五辻の常夜灯は慶応元年(1865)に楊谷寺(柳谷観音)へ参拝する講の一つである
京都の千眼講によって建てられた石灯籠です。
江戸時代の終わり頃からは、眼病によく効く水があることで
楊谷寺へ参詣する人が増えていきました。
京都から向かう「柳谷道」の起点となるこの地に
一対の大きな石灯籠が建てられました。
当時、この地は、向日神社の境内地でしたので、
その過程が神社の古文書に残されていました。
昭和初期の新道建設時に、南側に有った1基は移設され現在は長岡京市梅が丘に、
北側の1基も昭和44年頃の歩道工事の時に楊谷寺の表参道にある
大阪府島本町と長岡京市の境付近に移設されました。
向日神社へ向かいます。
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向日神社の前に「説法石」があります。
京都で布教活動を行っていた日像が、天台宗の僧侶らによって都を追われ、
西へと向かう道中で、向日神社に立ち寄りました。
そこに二羽の白いハトが飛んできて、日像の衣のすそをくわえて離さなかった。
そうするうちに、日像は鶏冠井村のお年寄りに教えを請われ、
木陰の石に腰を下ろして説教しました。
日像が説法に使ったとされる石は当初、参道の中間にありましたが
廃仏棄釈の際に神社から出され、「説法石」として現在地に安置されました。

向日神社-その1

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向日神社が鎮座する向日山は、大歳神(おおとしのかみ)の子、
御歳神(みとしのかみ)が峰に登り、向日山と名付けました。
神は永く鎮座し、田作りを推奨し、やがて、
御歳神は向日神と呼ばれるようになりました。
向神社(むこうじんじゃ)の創建は、この伝承によるものです。
後になって、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住んだ時、
神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて
火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)を祀られ、火雷神社が創建されました。
この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、
火雷神社は下ノ社と呼ばれていました。
上ノ社は、五穀豊穣の神として、
下ノ社は、祈雨・鎮火の神として信仰を集めました。
長岡京よりも古い奈良時代の養老2年(718)、六人部氏(むとべし)が当地を賜り、
上ノ社の社殿が改築され、新殿遷座の際、玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、
神武天皇が合祀されました。
鎌倉時代の建治元年(1275)、下ノ社が荒廃したことにより火雷大神は、
上ノ社に合祀され、以降四神を祀る、向日神社として今日に至っています。
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向日神社の鳥居には、「正一位向日大明神」の神額が掛かっています。
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鳥居をくぐった所に、岐阜県揖斐川町春日の山中から掘り出された、
さざれ石が置かれています。
春日のさざれ石には、君が代の由来となったものがあります。
さざれ石とは、もともと小さな石の意味でしが、石灰岩が雨水で溶解して生じた、
粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、
石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできたものです。
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参道には、御影石が敷きつめられ、緩やかな上り坂が約200m続いています。
向日神社は、南北に延びる丘陵の南端にあります。
この丘陵は、古来より「長岡」と呼ばれ、
長岡京は、この丘陵に由来して名付けられたと推察されます。
参道の両側は、春は桜、秋は紅葉を楽しむことができますが、
自動車も通るのが残念です。
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参道を8割ほど進んだ右側に勝山稲荷社があります。
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勝山稲荷社-拝殿
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勝山稲荷社-本殿
勝山稲荷社は、江戸時代の正徳元年(1711)に創建され、
拝殿と本殿は国の重要文化財に指定されています。
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勝山稲荷社の奥には元稲荷社があります。
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元稲荷社には、小さな狐像が数え切れないほど奉納されています。
勝山とは、豊臣秀吉が鳥居の前で休憩した時、
「あの森は何というのか」と鎮守の森の名を問うた。
「勝山でございます」と答えると、縁起の良い名だといって褒美を与え、
以後勝山になったという逸話が残っています。

続く


向日神社-その2

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手水舎
江戸時代中期に建立され、国の有形文化財に登録されています。
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天満宮社
江戸時代の天保4年(1833)に建立され、国の有形文化財に登録されています。
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舞楽殿
舞楽殿は、江戸時代の寛永2年(1625)に建立されましたが、2002年に焼失し、
翌年再建されました。
4月の桜まつり、7月の星空コンサート、9月の観月の夕べなどで催し物が
開催されます。
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本殿
本殿は、室町時代の応永29年(1422)に村の鎮守社として村人によって
建立されました。
中世、向日神社周辺は西岡(にしのおか)と呼ばれていました。
西岡の村々には、地域の指導者である武士「国衆」がおり、西岡の国衆は
「西岡衆(にしのおかしゅう)」と呼ばれていました。
室町時代に入ると、債務の破棄などを要求する一揆が起こるようになり、
向日神社は西岡衆の集結場となりました。
文明17年(1485)、「山城国一揆」が起こると、それに呼応するように
西岡衆も文明19年(1487)、「乙訓一揆」を起こしました。
しかし、天正3年(1575)、西岡衆は、織田信長軍に敗れ、
西岡衆が治めていた一帯は、信長の家臣、細川藤孝の支配地となりました。
安土桃山時代の天正19年(1591)、豊臣秀吉は、朝鮮出兵に向けて
西国街道を拡幅し、大軍勢が通った西国街道は江戸時代を通じて
「唐街道」と呼ばれ、参勤交代の大名行列をはじめ、
旅や商いをする人々で賑わいました。
享保20年(1735)に描かれた境内の絵図では、本殿は南を正面に建ち、
本殿覆屋はありませんでした。
江戸時代の天保4年(1833)、 美濃西部で発生した地震で本殿も損傷を受けました。
天保13年(1842)、本殿は現在地に遷されて西国街道に向けて建ち、
本殿覆屋と幣拝殿が建立され、現在の姿になりました。
明治神宮の本殿は、向日神社の本殿を基に1.5倍して設計されたそうですが、
現在、本殿は覆屋の中に納められているため、外からは見ることができません。
本殿は、重要文化財に指定され、本殿覆屋と幣拝殿は、
国の有形文化財に登録されています。
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祖霊社は拝殿と、約10mの渡廊でつながっています。
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祖霊社は、江戸時代の元禄元年(1688)に、元は祈祷所として建立されました。
渡廊は、幣拝殿が建立されてから架けられたと思われますが、
祖霊社本殿と共に国の有形文化財に登録されています。
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五社神社は、祖霊社の東側に南に面して建っています。
江戸時代末期に建立されたもので、国の有形文化財に登録されています。
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渡廊をくぐった先に春日社があります。
近村にあった社を明治期に合祀したもので、国の有形文化財に登録されています。
続く

向日神社-その3

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訂正:向日神社-1で「勝山稲荷社は、江戸時代の正徳元年(1711)に創建され、
拝殿と本殿は国の重要文化財に指定されています。」と記載しましたが、正しくは、「登録文化財に指定されています。」でした。
向日神社-その2で「江戸時代の天保4年(1833)、 美濃西部で発生した地震で本殿も損傷を受けました。」と記載しましたが、正しくは「文政13年(1830)に発生した京都大地震」に訂正します。

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春日神社の奥、小高い盛り上がりに岩で囲われた窟の中に
役行者(えんのぎょうじゃ)尊像が安置されています。
この像は、安永6年(1777)に物集女(もづめ)村で造られ、
鎮座されていたものを昭和25年にこの地に遷され、
勝山神変大菩薩と改称され祀られるようになりました。
神変大菩薩とは、寛政11年(1799)に、朝廷から役行者に対して贈られた
諡号(しごう)です。
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窟に積まれた石組みの上に、勝山身代不動明王が祀られています。
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背後には御神木が聳え、不動明王の横のには注連縄が巻かれた岩が鎮座しています。
向日神社の原点ともいえる、向日神が影向(ようごう)されたと伝わる
神域の中心地です。
影向とは、「神仏が仮の姿をとって現れること。神仏の来臨。」を意味します。
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以前、向日神社の本殿はここにありました。
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勝山神変大菩薩の前、四角に区切られ、四隅に短い石柱が建っている所は、
修験者が護摩を焚いた祈祷所です。
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勝山神変大菩薩の横には、白雲龍神・白玉弁財天女が祀られた小さな祠があります。
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現在の本殿の裏側は、「鶏冠木(かえるで)の苑(その)」と名付けられています。
「鶏冠木」とは、楓の古名で、楓の葉がカエルの手に似ていることから、
また葉の形がニワトリの鶏冠(とさか)に似ていることから付けられたそうです。
戦前まで土俵がありましたが、以後は樹木が鬱蒼と茂っていました。
平成17年に樹木を切り払い、石舞台が設置され、
「鶏冠木の苑」として神苑に戻されました。
石舞台では、狂言が演じられていたそうです。
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石舞台から奥に進むと鳥居が建っています。
鳥居には、「奉寄進 増井神社・天保4年 浪速北浜 加嶋屋藤十郎 大西茂興」と刻まれているそうですが、現在では判読が難しくなっています。
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鳥居からは石段の下り道が続きます。
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下りきった所に増井神社があります。
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増井神社の御神体は、社殿の奥にある井戸で、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)の荒魂が祀られています。
火雷大神は、下ノ社と呼ばれた火雷神社の祭神でした。
下ノ社が荒廃したことにより、上ノ社である現在の向日神社に
合祀されていたのですが、文明16年(1484)に角宮神社(すみのみやじんじゃ)が
再建されました。
角宮神社が下ノ社だったのか?諸説がありますが、明治16年(1883)に
火雷大神の御神体は、向日神社から角宮神社へと遷されました。
増井神社の社殿は、平成の御大典の際に再興され、向日八大龍王が合祀されました。
井戸の覆屋も併せて建立されました。
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井戸から湧き出る水は神水とされ、
この井戸には、150年前に浪速の国で起こった火事にまつわる伝承があります。
火は強風にあおられ、どんどん拡がりました。
古老が夢まくらに神のお告げを聞きました。
「西の岡、向日神社に霊験あらたかな井戸がある。
その水をかけると火事はたちまちにして消える」
井戸へ向かい、急いで水を持ち帰り、燃えさかる火に振りかけたところ、
たちまち、火は衰え、ついに消えたそうです。
先の鳥居は、このご利益をもって寄進されたのでしょうか?
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増井神社の向かいには、六角形の覆屋の中に井戸のようなものがあります。
ここは、行者が清めを行う場所でした。

下ってきた石段を戻ります。
続く

向日神社-その4

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古神札納所
増井神社から戻り、本殿の南側に古神札納所があります。
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向日大明神(右)と秀九大明神
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御霊社
もとは物集女村(現在の向日市物集女町)にあった御霊社を
明治10年(1977)に現在地に遷されました。
社殿は江戸時代中期に建立されたとみられていますが、
移築に際して部材の取替えがあったようです。
国の有形文化財に登録されています。
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客殿
昭和40年(1969)前後に大阪府島本町にあった青年研修施設を移築したものです。
昭和の戦前に建てられたと考えられ、国の有形文化財に登録されています。
文化財データーベースでは「国土の歴史的景観に寄与しているもの」
が登録された理由のようです。
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乙訓剣道場
向日神社の建物ではないようですが、境内の建物として溶け込んでいます。
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「乙訓剣道 発祥の地」と刻まれた石碑が建っています。
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平成5年7月に開館し、今月11日プラネタリウム入館者が20万人を突破しました。
年間8千人前後が来館しているそうです。
プラネタリウムは有料(200円)ですが、展示場は無料です。
開館時間は午前9時30分~午後5時30分で、月曜と火曜は休館日です。
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天文館の裏側に北山遺跡の案内板が建っています。
平成3年、天文館建設に伴う発掘調査で弥生時代中期の集落跡がみつかりました。
住居の柱穴や土器・石器、方形周溝墓、古墳時代の耳環などが発掘され、
標高54mの丘陵に集落が存在していたことが確認されました。
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案内板が建っていた先は、急傾斜地です。
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長岡京市内から天王山が眺望でき、改めてこの地の高さ知ることができます。
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向日神社の北側の参道の西側が勝山緑地になっています。
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参道の東側は勝山公園です。
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昭和42年頃、宅地の開発計画がもちあがり、
当時の向日町が買い上げて勝山公園を開園しました。
公園内には、元稲荷古墳があり、古墳と鎮守の森が維持されるようになりました。
元稲荷古墳は、3世紀後半に築造された前方後方墳で、乙訓地域で最古、
国内でも最古級の古墳です。
「向日社年表」の天保3年(1832)の項に「稲荷社新造立」とあり、
現在の元稲荷古墳の場所に建立されたと推定されています。
明治20年(1887)に稲荷社は参道北側の現在地に移転されたことから、
稲荷社があった元の場所は、元稲荷と呼ばれるようになり、
古墳は「元稲荷古墳」と名付けられました。
邪馬台国の女王卑弥呼の墓ともされる奈良県桜井市の箸墓古墳や、
奈良県天理市にある大和政権の大王墓とされる西殿塚古墳と
相似形で築造されています。
このことから、被葬者は力を持った人物で、大和の大王家と密接な関係があったと
推定されています。
前方部の長さは約42mで、前方部の形が、西殿塚古墳とそっくりだったことが
確認され、箸墓と西殿塚の双方をモデルとして造られたのだろうと
推定されています。
古墳の大きさは、全長94m、後方部は一辺52m・高さ7m、
前方部は幅46m・高さ3mで、二段築成になっています。
墳丘の斜面に貼られた葺石は、偏平なタイル状のもので、
弥生時代の終わりごろの墓の「貼り石」によく似たものでした。
後方部の中央には、竪穴式石室があり、大半が中世に盗掘されていましたが、
鉄製武器(銅鏃・刀・剣・鏃・鎗・矛・石突)や鉄製工具(斧・錐)、
土師器の壷が出土しました。
また、前方部の墳丘中央には、南北約2m、東西約4mの範囲で埴輪が
樹立していた部分があり、この埴輪は、円筒埴輪と壷型埴輪のセットで、
弥生時代の墓に供えた土器を模して作られた古い形の埴輪であることが
分かりました。
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古墳の最上部に向日市の水道設備が建設されています。
昭和34年、急増した住民の水道需要に対応するため、当時の向日町は、
元稲荷古墳の後方部に配水池を建設することを決定しました。
翌年、建設工事にさきがけ発掘調査が行われ、土地を買い上げた昭和45年にも
発掘調査が行われて貴重な遺跡であったことが判明しました。
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勝山公園には、ブランコなどの遊具の他、なつかしい
ぶら下がり健康器が設置されていました。
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勝山公園と勝山緑地の間は参道で、その先に鳥居が建っています。
鳥居をくぐった先、緩やかな坂道は「桜ミュージアム」と名付けられ、
様々な種類の桜が植えられています。
昭和9年から昭和36年までの26年間、この地に日本一といわれる桜の園が
ありました。
水上勉の小説「桜守」の舞台にもなったとのことですが、
残念ながらまだその小説は読んでいません。

向日市文化資料館へ向かいます。
帰ってから地図をよく見ると、この参道を下って行っても良かったのですが、
西国街道の方へ戻りました。
続く

五塚原古墳~宝菩提院跡

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向日神社から西国街道を北へ進んだ右側に「冨永屋」があります。
江戸時代の元和2年(1616)には、宿屋として開業していて、
全国を測量した伊能忠敬も宿泊したことが記録に残っています。
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冨永屋から更に北に進んだ西国街道と愛宕道の分岐点に須田家住宅があります。
屋号を「松葉屋」といい、明治30年代まで醤油の製造販売を営んでいました。
元和2年(1616)に作成された古文書にも記載されていて、
京都府の有形文化財に指定されています。
向日市文化資料館へ向かいます。
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向日市文化資料館の前には、元稲荷古墳の発掘調査で出土した石室の天井石が
展示されています。
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館内には、長岡宮大極殿・朝堂院の復元模型や、遺跡からの出土品が
展示されています。
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しかし、特に目を引かれたのが、如意輪観世音菩薩半跏像の大きな写真でした。
昭和39年に廃寺となった宝菩提院願徳寺に安置されていた、
向日市唯一の国宝でしたが、寺とともに京都市西京区大原野へ
移転しました。

館内には、歴史ウォークのパンフレットが数種類置かれていて、
向日市を巡る強力なツールになりました。
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向日市文化資料館から緩い坂道を上っていくと、はり湖池があります。
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池を廻り込む様に進むと案内板があります。
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はり湖池と大池との間から山の上へと道が続きます。
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山の頂上に五塚原古墳があり、といっても何も無い平坦な土地だけです。
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ただ、二等三角点がありました。
五塚原古墳は、古墳時代前期(4世紀)の全長約91.5mの前方後円墳です。
本格的な調査は実施されていないようですが、1977年に
京都大学考古学研究室が測量調査を行いました。
後円部は直径54m・高さ8.5mの3段築成で、前方部は幅36m・高さ4mの
2段築成で、ほぼ盛土からなっています。
くびれ部の幅は18mで、墳丘斜面には、こぶし大から人の頭大の河原石を
使用した葺石が施されているそうですが、確認はできませんでした。
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頂上部から少し下った所にも平坦な部分があります。
帝塚山大学の電気探査により後円部墳頂中央および前方部墳頂中央に墓あなの
存在が認められました。
前者は東西15m・南北11mで主軸に直交し、後者は東西5m・南北7mで
主軸に平行しています。
墳丘の裾部では埴輪の破片が見つかっています。
五塚原古墳は、後円部の北西裾の一部が宅地造成によって削平されていますが、
全体的には遺存状態の良い古墳と言えます。
しかし、地上からは低い山としか見えず、地図上でも前方後円墳の形は
確認できません。
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上ってきた反対側に下山すると芝山公園に出ます。
ここに、古墳の案内板があり、平面図が描かれていました。
公園を右折して、府道上久世・石見・上里線(大原野道)に出ます。
この道は、江戸~明治期には宝菩提院までの道でした。
明治時代の末頃から道幅を拡げ、宝菩提院の西側へも道を続ける工事が行われ、
昭和初期になって、大原野と結ばれるようになりました。
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この街道を右折して、坂道を下ると慶昌院があります。
ここに安置されているのが、いやし地蔵尊です。
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慶昌院は、安土桃山時代の天正年間(1573~1592)の創建され、
当初は「泰平山慶昌庵」と称されていました。
江戸時代の天保6年(1835)に、曹洞宗の僧・希運曇開(きうんどんかい)
によって再興され、山号を慈廣山と改めました。
慶昌院に残されている「絹本着色・曇開和尚像」は、
向日市指定文化財になっています。
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本堂
本尊の田植え地蔵尊には伝承があります。
「長谷川半兵衛という人が、眼病を患ったので、その治癒を寺に祈願しました。
その後、安土桃山時代の文禄3年(1594)には、都一帯に疫病が流行し、
近郊の人々が病気平癒を祈願しました。
病気で田植えができなかったその田には、早苗が植えられていました。
半兵衛は、地蔵尊の手足が泥で汚れていたことに気付き、
地蔵尊が代わりに田植えを行ったことが知られるようになりました。
以来地蔵尊は田植え地蔵尊と呼ばれるようになりました。」
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かなえ地蔵尊はドラえもんやピカチュウの石像が安置されています。
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南無地蔵菩薩
境内の内外にいろいろな地蔵尊が安置されています。
宝菩提院跡に向かいます。
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慶昌院から少し下った、例慶(れつけい)公園に、
宝菩提院跡の案内板が建っています。
宝菩提院は、飛鳥時代の670~680年頃に、女帝であった
第41代・持統天皇の夢告により薬師如来を本尊として創建されました。
薬師如来は、乙訓社の神木によって造仏されたと伝わります。
当地付近に本拠地を置いた豪族が、五重塔や金堂などの荘厳な
仏教建築を造営しました。
先の五塚原古墳や元稲荷古墳など、古来この地の豪族が偲ばれます。
約100年後、長岡京の時代に入ると、国家が管理する大寺院に整備され、
境内は南北800m、東西1300mに及びました。
平安時代、徳のある願いによって建てられた寺ということから、
寺号は「願徳寺」と称されました。
本尊であった薬師如来は、平安時代の貞観6年(864)に広隆寺に遷されました。
鎌倉時代には、天台宗の僧であった忠快が、それまで京都市東山区で住していた
小川殿の宝菩提院とともに、この地に移り、願徳寺を中興しました。
以降、天台密教の道場として発展しました。
鎌倉時代末期~南北朝時代、澄豪によって中興され、平敦盛の小川殿にあった
宝菩提院の本尊・地蔵菩薩を遷し、院号を「宝菩提院願徳寺」としました。
その後、応仁の乱、信長の元亀2年(1571)の兵火によって諸堂が焼失しましたが、
江戸時代になって徳川家康の加護により再興されました。
しかし、昭和39年に廃寺となりました。
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例慶公園の向かいには、向日神社の御旅所があります。
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江戸時代から、向日神社の神輿を寺戸地区の宮座の長老が
並んで出迎えたことから、「列見」と呼ばれ、
なぜか「例慶」の字が宛てられるようになりました。
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祠の横には、大黒天と恵比寿様の像が置かれていました。

五辻まで戻り、善峰道から角宮神社へ向かいます。
続く

角宮神社

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角宮(すみのみや)神社は、乙訓坐火雷神社
(おとくにいますほのいかづちのかみやしろ)、
略して乙訓社とも呼ばれています。
「乙訓坐火雷神」は、『山城国風土記』の賀茂神社縁起で、
賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の子の
玉依姫命(たまよりひめのみこと)が、
火雷神(ほのいかづちのかみ)が化身した丹塗矢によって懐妊し、
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)が
生まれたと記されています。
賀茂建角身命と玉依姫命は、下賀茂神社の主祭神で、
賀茂別雷命は上賀茂神社の主祭神です。
文献では、8世紀以前から乙訓坐大雷神社が存在し、
平安時代を通じて雨乞いなどに霊験あらたかな神として
崇敬されていたことが知られていました。
ただ、いずれの記事も乙訓神あるいは乙訓社とあるだけで、
それが現角宮神社か向日神社下社のいずれを指すかは
未だに議論が分かれています。
飛鳥時代の大宝2年(702)、「続日本紀」では、
「祈雨神として山背国乙訓郡に在る火雷神(ほのいかづちのかみ)」との
記載があり、文献での初見となります。
長岡京遷都にともない、乙訓社は賀茂上下社、松尾社とともに
従五位下に叙せられました。
しかし、鎌倉時代の承久3年(1221)、承久の乱では朝廷側に味方したことから、
幕府軍によって焼き討ちにされ、長らく復興が
許されないでいました。
室町時代の文明16年(1484)になって、ようやく現在地に再興され、
井ノ内の産土神とされました。
旧社地は、現在地から西約500mに宮山の地名が残されていますので、
この辺りにあったと推定されますが、確認はできません。
鳥居は、江戸時代の宝永5年(1708)に建てられていたのですが、
不慮の事故で倒壊し、平成12年(2000)に再建されました。
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倒壊した旧鳥居は、境内にモニュメントとして保存されています。
笠木を船、桂石を島、栗石を水に見立てて組み立てられています。
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手水舎
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御神木のクスノキは、長岡京市の保存樹木に指定されています。
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神饌所(しんせんしょ)は、平成12年(2000)に再建されました。
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石燈籠には、「乙訓大明神社」と刻まれています。
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拝殿
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本殿前の狛犬と獅子
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本殿覆屋の内部左側に主祭神である火雷神(ほのいかづちのかみ)と、
玉依姫命(たまよりひめのみこと)・建角身命(たけつのみのみこと)・
活目入彦五十狹茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)が祀られています。
明治16年(1883)、御神体が向日神社より遷されました。
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右側には春日神が祀られています。
神社前の駒札では三神と説明されていますが、
春日神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・
天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の
四神だと思うのですが...
この疑問が写真のブレに現れています?
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八幡宮
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左から大神宮・稲荷社・向日神社
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納札所
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神社の横には公園が併設され、注連縄が架けられていました。
公園は、あまり利用されていないようです。

善峰道に戻り、西へ向かいます。
続く

大歳神社

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善峰道を西に向かい、文化センター通りとの交差を通り過ぎると、
社乃神神社(やしろのかみじんじゃ)があります。
文化センター通りが拡張されたのに伴い、現在地に移転しました。
鳥居は低く、小さいので見過ごしてしまうかもしれません。
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昔は善峰寺へ参詣する人々で賑わったかもしれない街道ですが、
今はひっそりとしていて、小さな社殿は緑の中に埋もれてしまいそうです。
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更に善峰道を西に向かい、竹薮の中を右折して、向日神社遥拝所へ向かいます。
向日神社遥拝所は、畑の中に在ります。
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真正面に向日神社の森を望むことができます。
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遥拝所を北に進むと、法泉寺が在ります。
法泉寺で、知恩院第69世順良上人が出家されました。
応仁の乱で焼失し、慶長1年(1596)に再建されたのですが、
その後も再度荒廃し、江戸中期に順良上人の遺言により再興されました。
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法泉寺から丹波道に出て、善峰川に架かる石見橋を渡ります。
橋を渡った角の民家の隅に、昭和4年に架橋された時の古い石柱が残されています。
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丹波道を左折して入野神社へ向かいます。
入野神社の創建は不明で、以前は大原野神社の地にあったと見られています。
どのような経緯で現在地に遷されたのかも不明です。
神宮寺としてあった藏王寺の跡は、今は公民館になっていて、
その横から境内に入りました。
斜め向かいに鳥居が見えますので、鳥居の方に向かいます。
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鳥居の裏側にはこのような注意書きが...
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鳥居からの参道にある大神宮
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道祖神社
裏側の広場には、遊具も置かれていました。
二つの社殿には「屋根にのぼるな」と注意書きがされています。
子供たちにとって、この社殿も遊具なのでしょうか?
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本殿は、覆屋の中に収められています。
神額には、春日大明神の文字が認められますので、
春日四神が祀られていると思われます。
春日神が勧請された時に、最初に鎮座された所ともいわれています。
かつては、春日四神の一柱である天児屋根命(あめのこやねのみこと)が
祀られていたいたとも...
大歳神社へ向かいます。
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大歳神社前に置かれた由緒が刻まれた石碑によると、
創建は奈良時代の養老2年(718)2月とされています。
延喜式神名帳に記載され、山城国鎮座社の内大社に列せられていたとあります。
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境内に入ります。
神楽殿でしょうか?まだ新しいようです。
大歳神社の例祭は10月21日、氏子祭りは10月の第3日曜日に行われ、
江戸時代の中期から金剛流家元による奉納舞が催されているようです。
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手水舎
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本殿は玉垣に囲まれています。
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本殿は、長岡天満宮の本殿を皇紀2600年事業で移築されました。
本殿の主祭神は大歳神で、向日神社の主祭神である御歳神(みとしのかみ)の
親に当たります。
相殿に、石作神、豊玉姫命が祀られています。
石作神は、代々石棺などを作る豪族の祖神であり、
火明命(ほあかりのみこと)の後裔です。
弥生時代の垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が
亡くなった際に、石棺を献上したことから
石作大連公(いしづくりおおむらじのきみ)の姓を贈られました。
石作氏の衰微によって、大歳神社に合祀されるようになりました。
石作神社の旧鎮座地は、早尾神社とも、八幡宮社ともいわれています。
早尾神社は、今回のルートから外れているため、後日訪れたいと思います。
豊玉姫命は、海の女神で、古事記では「海幸彦・山幸彦」の神話で
山幸彦と結ばれました。
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本殿の横には境内社が配置されています。
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奥にあるのが大神宮社です。
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四社相殿の手前にあるのが稲荷社で、まだ新しいようです。
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向日社
祭神は、向日神
大歳神(おおとしのかみ)の子、御歳神(みとしのかみ)が峰に登り、
向日山と名付けました。
神は永く鎮座し、田作りを推奨し、やがて、御歳神は向日神(むかひのかみ)
と呼ばれるようになりました。
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西ノ宮社
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春日社
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四社相殿の隣には、天満宮社があります。
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「遥拝石」と刻まれているのでしょうか?
境内は、「栢森(かやのもり)」と称され、栢(かしわ)の木が繁茂
していたらしく、栢の社とも呼ばれていたそうです。

府道733号線を金蔵寺へ向かいます。
続く


八幡宮~金蔵寺・御堂(不動堂)

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府道733号線を進み、京都縦貫道をくぐった先に、街道に面して
八幡宮社(やわたぐうしゃ)があります。
八幡宮社は、長峰八幡宮とも呼ばれています。
八幡宮社の所在地は、大原野石作町で大歳神社の相殿に祀られている、
石作神社の旧鎮座地とされている2社の内の1社です。
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二の鳥居の先に手水舎がありますが、水は出ていません。
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八幡宮社は、古墳の上に建てられています。
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本殿の下には、片袖式横穴式石室があり、石垣には入口らしき穴が見られますが、
人が入るには小さいような気がします。
古墳時代後期のもので、玄室の高さ1.2m、長さ2.95m、幅0.98m、
羨道部の高さ1.1m、長さ1.25m、幅1.47mだそうです。
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八幡宮社の祭神は、應神天皇と天照大神とされていますが、
なぜか八幡神の神使いである鳩の石像があります。
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拝殿にも、鳩が彫られています。
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瓦にも鳩が...
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社殿前に立つ御神木のクスノキは、幹周りの太さから歴史を感じさせます。
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反対側には、「区民誇りの木」であるかごの木が存在感を感じさせています。
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参道の横は「かごの木ひろば」で、遊具が設置されています。
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ひろばの道路側に稲荷社の小さな祠が二つありました。
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境内の上部、東側に長峰城の主郭跡の遺構があるらしいのですが、
ひろばからの階段を上がってみても、雑草が繁り、切り倒された樹木が
積まれていたりして、場所を確認することはできませんでした。
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バスの時間を確認したのですが、本数が少ないので15:56分桂駅東口行きに
間に合うように戻りたいと思います。
但し、平日用で、土・日は16:35になります。
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バス停の近くに長峯寺があります。
バス停の手前から長峯寺に入ると、手前に井戸があり、
その奥に小さな祠が祀られています。
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長峯寺は、石垣に護られ、堂々と佇んでいるように見受けられます。
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石段を上がった所に本堂があり、「一隅を照らす」と貼られていました。
長峯寺は天台宗の寺で金蔵寺の末寺です。
室町時代の永享元年(1429)の創建と伝わりますが、
その後の火災で詳細は不明だそうです。
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本堂の前を左に進むと、多くの地蔵像が祀られています。
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地蔵像の先にも山門があり、長峰のバス停を直角に曲がった
733号線に面しています。
こちらの方の門に寺号が掛かっています。
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長峰のバス停からかなり進んだ先に、「この先行き止まり」の看板が立つ
分かれ道があります。
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その道に入ると、急な上り坂で突き当りが階段になっています。
階段の手前に橋があって、その先に「石井神社(いわいじんじゃ)」
と書かれた道標らしきものが見えます。
車で来ても、道は狭く駐車するスペースもありませんのでご注意ください。
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石井神社へは、橋を渡り、手入れされていない山道を10分くらい登ります。
枯れた竹が倒れて道を塞いだりしていますので、跨いだり、
下をくぐったりして進みます。
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石井神社は、奈良時代~平安時代に金蔵寺護摩堂の奥にある「御香泉」と呼ばれる井戸の上に創建されました。
平安時代に編纂された「日本三代実録」には、元慶4年(880)に
「山城国正六位上石坐神」の名があり、従五位下の神格が授けられた、
との記載が残されています。
延長5年(927)に出版された延喜式神名帳には、
「石井(いはいの)神社」と記されています。
石井神社は、かって清水を神格化した水神の古社です。
昭和28年(1953)、石井神社は氏子の方々の要望で、現在地に遷されました。
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山王社
現在地には、山王社が祀られていましたが、合祀され石井神社と改称されました。

階段を上って733号線に出ます。
道は細く曲がりくねっていますので、自動車の離合は困難です。
もっとも、出会ったのは、地元の人だと思われる軽トラック1台と、
5台のオートバイと人が一人だけでした。
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しばらく進むと、金蔵寺の入亀山霊園があり、その中の石段を上ります。
最上部に、金蔵寺を開山された隆豊禅師の墓である五輪塔が建ち、
その周囲に歴代の住職が葬られています。
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霊園の上へ出ると、733号線を挟んで御堂(不動堂)が建っています。
御堂は昭和55年(1980)に、信者の方々によって再建されました。
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ここに安置されている不動明王像は、隆豊禅師が晩年、自ら彫られたもので、
1300年余り前の石仏です。
この不動明王像は、「一つの願いは叶う」とされ「一願不動明王」と
称されています。
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御堂前には、「不動坂石像開山作」と刻まれた石碑が建っています。
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御堂横には、美少年の墓として「梅若丸」と「律師桂海」のものが並んでいます。

金蔵寺まで、もうすぐです。
続く




金蔵寺-その1

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御堂(不動堂)の先にある三の滝は、不動明王滝とも産の滝とも称されています。
滝から吹き降りてくる風が涼しく、ここで昼食を取ることに決めました。
近くの岩は苔で覆われ、湿気を含んでいますので、
コンビ二弁当が入っていた袋を下に敷きました。
ベンチでも有ればとも思いますが、この雰囲気を壊したくないので、
このままで残していってほしいと思いました。
薮蚊に襲われることもなく、すっかり長居してしまいました。

産の滝の近くで、向日神社の祭神である向日神(むかひのかみ)が生まれた
との伝承が残されています。
産の滝と称されるのは、この由縁によるものでしょうか?

また、「金蔵寺略縁起」には、金蔵寺開創にまつわる伝承が残されています。
福岡県・豊前(ぶぜん)国の求菩提山(くぼてさん)で修験の日々を送られていた
隆豊禅師の、夢枕に聖観世音が立ち、「小塩山
(おしおやま)山腹の浄地に一宇を建立せよ」とのお告げを受けました。
隆豊禅師が乙訓に訪れ、西山の山中に分け入った時、弓矢を手にした
一人の老翁(ろうおう)と出会いました。
老翁は、谷川を渡ろうとしていた金色の鹿をめがけて矢を放ったのですが、
矢は傍らの楠の大樹に当たりました。
矢を引き抜くと、光明がほとばしり霊木であることが感じ取られました。
隆豊禅師と老翁は、この木で十一面千手千眼観音像を合作し、
金蔵寺の本尊としました。
老翁は、山の上から東へ三本の矢を放ちました。
最初の矢が落ちた所が「栢森(かやのもり)」で大歳神社が、
二本目の矢が落ちた所が「角森(すみのもり)」で角宮神社が、
三本眼の矢が落ちた所が「向日宮」で向日神社が創建されたと伝わります。
この時の老翁は、向日明神の化身でした。
三の滝の上流には二の滝、一の滝があるはずですが、
滝巡りに来たわけでもないので、上流へは向かいません。
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滝の傍らには石仏らしきものが祀られています。
金蔵寺までもう少しです。
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金蔵寺には、無料駐車場が有りますが、駐車している車はありませんでした。
駐車場の隅に安らかな顔をされた小さな地蔵像が建っていて、
疲れを癒してくれました。
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駐車場から先に進み、苔むした石段を上った所に朱に塗られた仁王門が在ります。
金蔵寺は、奈良時代の養老2年(718)、女帝・元正(げんしょう)天皇の勅により、隆豊禅師によって開創されました。
天徳2年(958)、良源の弟子・賀登(がと)によって中興され、法相・三論宗より
天台宗に改宗されました。
平安時代以降、堂塔・伽藍などの整備が進み、一時は49院が建ち並ぶ
大寺院へと発展しました。
しかし、応仁・文明の乱で焼失。
その後、再興されたのですが、永禄の変で、またもや焼失しました。
織田信長による元亀の法難でも戦火にあい、古文書なども焼失しました。
江戸時代の元禄4年(1691)に桂昌院によって再建されましたが、
その後、本堂・庫裏・客殿・護摩堂が焼失し、文化5年(1808)に再建されました。
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阿形(あぎょう)像と吽形(うんぎょう)像
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仁王門で入山料の200円を納め、石段を上ります。
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石段を上った左側に護摩堂が在ります。
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護摩堂の左奥の方に、「御香泉」と呼ばれる井戸が在ります。
石井神社は、かってこの井戸の上に鎮座されていました。
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今も清水が湧き出しています。
この井戸も向日神社とつながりがあります。
この井戸の水が濁ると、増井神社の井戸も濁るといわれています。
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石段の右側には安産祈願の腹帯地蔵尊が、静かに境内を見渡しているようです。
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鐘楼と梵鐘
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庫裏
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庫裏の前に置かれていた石像。
蛙の背には数匹の子蛙が乗っていました。
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庫裏の玄関
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麗仙池(れいせんいけ)
この池は、桂昌院によって造成され、放生会が行われていたのですが中絶し、
平成元年、富士浅間大社が勧請されたのに伴い、復興されました。
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手水舎
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手水舎の前に置かれた亀の石像。
親亀の背中に小亀を乗せて~

手水舎から奥の石段を上ります。
続く

金蔵寺-その2

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石段を上った正面に本堂が在ります。
木立に包まれた境内に、お経が静寂の中に溶け込んでいくようです。
堂内は薄暗く、隆豊禅師と向日明神が合作された、十一面千手千眼観音像は、
中央の厨子に納められているのでしょうか?
その周囲には数体の仏像が安置されているのが、
ぼんやりと覗き見することができます。
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本堂から右側に進むと、下の川弁才天が在ります。
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背後に経塚碑が建っています。
天平1年(729)、聖武天皇は、金蔵寺の寺領内に「華厳経」・「法華経」・普門品
などの経典を書写して埋蔵されました。
各所の名山霊地に埋蔵されたのですが、金蔵寺はその内の一箇所に選ばれました。
この石碑は、桂昌院によって再興されました。
下の川弁才天は、その経塚を守られるように約30年前に建立されました。

また、平安遷都に当たって、桓武天皇は王城鎮護のためとして、
都の四方に経典を埋めました。
西方には金蔵寺が選ばれ、このことから「西岩倉山」の山号が贈られました。
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下の川弁才天を回り込むと展望台があり、
手が届きそうな高さに電線が走っています。
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標高360mからは、京都市内が一望できます。
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展望台の隣には、長嘯亭(ちょうしょうてい)と名付けられた茶室があります。
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狸が茶の湯を楽しんでいたのですが、背が低いので景色は楽しめないようです。
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展望台から戻って、開山堂へ向かいます。
開山堂は、寛永2年(1625)に桂昌院によって建立され、
開山・隆豊禅師や歴代の祖師が祀られています。
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開山堂と本堂の間にある、愛宕大権現への石段を上ります。
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愛宕大権現は、慶応4年(1868)の神仏分離令による廃仏毀釈によって、
それまで愛宕山白雲寺の本尊であった勝軍地蔵を、
白雲寺の廃寺に伴い、明治3年に金蔵寺に遷されました。
愛宕権現は勝軍地蔵が垂迹(すいじゃく)した軍神として
武士から篤く信仰されました。
明智光秀も本能寺の変の前に、愛宕大権現に戦勝を祈願しました。
また、愛宕大権現は、防火のご利益から庶民の信仰も集めました。
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愛宕大権現に向かって左側に進み、少し山に分け入った所に
桂昌院廟はひっそりと建っています。
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石塔下には、遺髪が納められています。
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来た道を道標が立っている所まで戻り、そこを下ると三社宮が在ります。
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いずれも祭神は不明で、手入れもされて無い様で荒れています。
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三社宮から少し下った所に葉山神社が在ります。
平成2年(1990)、富士浅間大社より勧請されて建立されました。
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葉山神社から下った所に建つ石燈籠。
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三社宮への石段。

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伝教大師像でしょうか?
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銅製の燈籠

帰り道を急ぎ、幸いにも予定のバスに間に合うことができました。
日を変えて早尾神社に向かいます。
原付バイクが借れそうなので、十輪寺まで足を伸ばすよていです。
続く

早尾神社

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早尾神社へは、733号線から八幡宮社の手前、「付近観光案内図」が
立っている分かれ道を左に進みます。
この案内図には、早尾神社は描かれていません。
分かれ道には、「この先通り抜けできません」との注意書きも見られます。
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集落から離れると、上り坂が急になり、その坂を登りきる手前の
山の手に小さな立て札があります。
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道路脇にバイクを止めて、登って来た集落の方を振り返ると、
一気に高度が上がったことが実感できます。
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直線に開かれた山道を5分くらい登ります。
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山頂に、まだ新しい「桓武天皇」の石碑が建っています。
この地は、大原野石作町灰谷で、古くは石作郷と呼ばれていました。
平安時代、小塩山山麓は、貴族の狩場とされ桓武天皇も訪れたようです。
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隣には役小角(えんのおづの)の石像が安置されています。
元は小塩山山麓に安置されていたのを、平成2年御神託により
桓武天皇の御霊代とともに、この山頂に遷されました。
役小角は、熊野や大峰山で修行を重ね、修験道の基礎を築いた人物で、
愛宕山を開基しました。
愛宕山への道中、この石作郷に立ち寄られたのでしょうか?
駒札には、「石作郷と縁が深く」と記載されています。
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山頂からは棚田が望まれ、のどかな景色を楽しむことができます。
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祠の奥から下って行くと、早尾神社へと出ます。
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早尾神社の鳥居は、平成元年に再建されました。
神社前の駒札では現在、大歳神社の相殿に祀られている石作神社と
菩提寺の石作寺が石作郷にあったと記載されています。
石作寺は、平安時代には存在していて、鎌倉時代~室町時代に廃絶した
とみられています。
詳細は不明なため、この地に創建されたのか、八幡宮社だったのか?
何か手掛かりでも見つかれば...と思います。
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鳥居をくぐった右側にあるこじんまりとした稲荷社。
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早尾神社の祭神は、国常立命(くにのとこたちのみこと)、
猿田彦命(さるたひこのみこと)、第15代・応神天皇が祀られています。
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社殿の背後には、遥拝所の石碑が建ち、
隣に「宗忠大神遥拝所」の石碑が建っています。

石碑の先を進むと登って来た坂道に合流します。
下りは、よく滑るので注意を払って無事に下れました。
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直ぐ先に峠がありますので、歩いてみました。
標高642mの小塩山の山頂が望まれます。
山頂は淳和天皇の遺灰を散骨した場所とされ、
大原野西嶺上陵(淳和天皇陵)があります。
また、山頂には多くの無線中継塔が建っています。
断層の活動で尾根の先が途中で切れ、三角形をした小山が幾つも見えます。

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左側には山肌にへばり付くような、小さな集落も望まれます。
山側から吹き降ろしてくる風が涼しく、しばらく景色に見とれていました。
三鈷寺への急峻な参道があるらしいのですが、
三鈷寺へは改めて善峰寺へ行く時に一緒に周ろうと思います。

十輪寺へ向かいます。
続く

十輪寺

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十輪寺(じゅうりんじ)は、京都市西京区大原野小塩町にある天台宗の寺院。
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山号は小塩山(おしおざん)で京都洛西観音霊場第三番札所です。
平安時代の歌人で「伊勢物語」の主人公である在原業平が、
晩年に隠棲したことから通称「なりひら寺」とも呼ばれています。
また、業平が塩焼きの風流を楽しんだことから、
「小塩」の地名が付いたとされています。
平安時代の嘉祥3年(850)、第55代文徳天皇
染殿(そめどの)皇后(藤原明子(あきらけいこ))の安産祈願のために
(又は世継ぎ誕生を祝って)建立されました。
円仁(えんにん)の弟子である恵亮(えりょう)によって開山されました。
無事に惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)が誕生し、
文徳天皇の勅願所となり栄えました。
平安時代、花山法皇は、西国三十三所観音霊場を再興し、
十輪寺のそばを通りかかった時に、後光が差したと伝わります。
法皇は足を止め、ここを三十三所再興の仕上げとし、
背負っていた観音像を安置して、木版の手形を貼り付け、奉納されました。
その手形は、業平御殿の床の間がある部屋のガラスケース内に納められていて、
見学することができます。
現在の我々の手と比べると、ずいぶん小さな手だったことが伺い知れます。
その後、応仁・文明の乱で戦火に逢い、荒廃しました。
江戸時代の寛文年間(1661~1673)に、藤原北家のひとつである
公卿・藤原(花山院)定好によって再建され、
以後、花山院家の菩提寺となりました。
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受付で拝観料(400円)を納めて境内に入ると、
左手に大きなクスの木が目に入ります。
このクスの木は樹齢約800年で、本尊もクスの木で彫られていることから
分身とされています。
伝説によると、本尊である地蔵菩薩の神力で一夜にして
大樟樹(おおくすのき)に成長したとされ、
「願掛け樟」として祀られています。
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境内には小さな祠が、幾つも祀られています。
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境内奥にある石仏。
希望としては、トイレの立て札をもう少し離してほしい。
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奥には寛文6年(1666)に建立された鐘楼があり、
京都府の文化財に指定されています。
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梵鐘は「不迷梵鐘(まよわずのかね)」と称され、決心がつかずに迷っている時、
この鐘をつくと迷いが取れるご利益があります。
但し、まず本尊の前で、百円を供えて祈り、息を止めて一点鐘をつき、
音が鳴り止むまで息をしてはいけない。
再び息をした時、決心がつく...とされています。
結構長い間、余韻が続きますので、
息を止める練習をしておいた方が良いかもしれません。
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本堂は、寛延2年(1750)に藤原(花山院)常雅によって再建されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
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本堂の屋根は、神輿のような鳳輦(ほうれん)の形をしています。
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本堂の屋根ばかりに気を取られていましたが、帰宅してから調べると、
本堂は密教本堂、神社拝殿、禅宗仏堂を混交した珍しい建築物であること。
また、施されている彫刻も見るべき価値があったことが判り、
もっとよく見ておくべきだったと反省しきり...
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本尊は、伝教大師作という延命地蔵菩薩で、腹帯が巻かれていることから、
腹帯地蔵尊とも称されます。
但し、本尊は秘仏で、毎年8月23日のみ開帳されます。
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本堂には半鐘が吊るされていました。
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本堂から見た池
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高廊下
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高廊下を挟んで、池と反対側の庭は「三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)」
と名付けられ、寛延2年(1750)に藤原常雅により、
本堂再建の際に作庭されました。
「普感」とは仏の遍万している大宇宙を感じることだそうですが、
凡人には宇宙を感じるのは難しいように思います。
高廊下から見える景色は天上界を想像させる造りになっているとか...?
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茶室からの景色は現実世界を見立てているそうですが、
茶室に立ち入ることはできません。
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茶室横の屏風絵
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業平御殿からは極楽浄土の世界を眺めることができるとか...
本堂に向かって少しずつ高くなり、庭を大きく見せる工夫がされ、
しばし横になって庭に見とれることはできました。
ここは、横になって庭を見ることが許されています。
外は気温が上がって結構暑かったのですが、ここは暑さを感じさせません。
まあ、極楽だったといえば、そうだったとも...
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本堂から出て、お寺の裏山を登ります。
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本堂の屋根を目の高さで見ることができます。
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業平のお墓があります。
案外こじんまりとしたものでした。
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お墓から少し登った所に、塩竃跡があり、近年復元されました。
11月23日には、塩竃清祭が行われます。
約1時間の滞在で、この間拝観していたのはたった3人で、
贅沢な時間と空間を楽しむことができました。

大原野神社へ向かいます。
続く

大原野神社

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早尾神社から十輪寺へと周って、大原野神社へは後戻りするようですが、
バイクなので問題ありません。
止まらない限り、郊外の空気は涼しく、駐車にも困りません。
大原野神社の手前に、大原野神社の境外摂社である樫本神社があります。
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現在工事中で、ネット越しに中が空洞であることが確認できました。
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先に進むと、車道に面して大原野神社一の鳥居が建っています。
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扁額「大原野大神」が掛かっています。
大原野神社は、延暦3年(784)に長岡京遷都の際、奈良・春日明神の分霊を
勧請したのがはじまりとされています。
桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が、
藤原家の氏神である奈良・春日神社への参詣が不便になるとして、
長岡京に置かれました。
平安京に遷都後、嘉祥3年(850)になって左大臣・藤原冬嗣によって
現在地に遷され、社殿が造営されました。
寛平7年(895)、第55代文徳天皇は、外祖父・冬嗣が果たせなかった
壮大な社殿を建立しました。
平安京の守護神として、二十二社に列しました。
平安時代には、大原野祭は官祭となり春・秋の二度には、勅使が派遣されました。
寛弘2年(1005)の、紫式部が仕えた一条天皇の中宮・彰子(しょうし)の行啓は、父・藤原道長も加り絢爛(けんらん)たる行列であったと伝わります。
足利家からの崇敬も篤く、室町幕府の祈願所となりました。
しかし、応仁・文明の乱で荒廃し、祭儀も行われなくなりました。
江戸時代の慶安年間(1648~1652)に、後水尾天皇により再建され、
現在の本殿はこの時に再建されました。
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短い石段を上ると二の鳥居が建っています。
100m余りの参道は、樹木に覆われ強い日射を遮ってくれ、
心地良い風が吹き抜けていきます。
セミの鳴き声さえ涼しく感じます。
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参道を進むと左側の奥に土俵が在ります。
ここでは、毎年9月の第二日曜日に「御田刈祭(みたかりさい)」の神事で
神相撲が行われます。
神相撲は、享保2年(1717)から続いている神事で、
京都市の無形民俗文化財に指定されています。
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参道を少し進んだ左側に、湧き水が出て「瀬和井(せがい)」と呼ばれています。
清和天皇の産湯に使われた清水とも伝えられています。
万葉集の編者であった大伴家持が愛飲したと伝わり、
数々の和歌にも詠まれている古くからの湧き水です。
往時は、もっと水量が豊富だったように想像されますし、
そうであってほしいとも思いました。
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瀬和井の向かいには、鯉沢池があり、文徳天皇が奈良・猿沢池を模して
造営しました。
瀬和井と同じ水系の水が引かれています。
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池には 睡蓮の花が見られます。
時々、牛蛙の大きな泣き声に驚かされたりします。
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鯉沢池には島があって、橋を渡ると地主神社の小さな祠があります。
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池の対岸には、若宮社があります。
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千眼桜は、樹齢約70年になる枝垂桜で、数日間しか咲かず「幻の桜」とも言われ、
運良く満開の千眼桜を見ることができたら、千願(せんがん)の願いが
叶うともいわれています。
千眼桜は1本の枝にぼんぼりのように花が咲き、眼がたくさんあるように
見えるところから、「千眼桜」と呼ばれるようになりました。
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手水舎にも鹿がいます。
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手水舎の先に三の鳥居が建っています。
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三の鳥居をくぐると右手に社務所が在ります。
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社務所の奥に区民の誇りの木に指定されたモミの大木が聳えています。
樹齢約450年と書かれています。
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狛犬の代わりに置かれている神鹿(しんろく)。
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中門は、簡素な形式の薬医門で、両脇に建つ東廊と西廊と併せて、
京都市の文化財に指定されています。
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本殿は、春日大社と同様に一間社春日造の社殿が4棟並んでいます。
春日四神が、それぞれの社殿に祀られています。
擬宝珠に文政5年(1822)の銘があることから、この時期に再建されたか、
大改修を受けたと考えられています。
本殿も京都市の文化財に指定されていて、
中門も本殿と同時期に建立されたと考えられています。
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中門を出て右側に進むと、言われのありそうな井戸が...
立て札の文字が読めなかったので、後で聞こうと思って忘れてしまいました。
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木にカタツムリとトカゲが昼寝をしていたようですが、
近づいたのでトカゲを起こしてしまったようです。
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井戸の奥には、手前から八幡社・稲荷社・八坂社と並んでいます。
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本殿の屋根が見えます。
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奥には神輿庫が建っています。
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参道の方に戻る途中に祓戸社(はらえどしゃ)があります。
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参道に戻り、少し下った燈籠に「花の寺、近道」と書かれた
案内板がありましたので、花の寺に向かいます。
続く
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