JR長岡京市駅西側から地下通路を経て、東口に着きました。
正面に0系新幹線の車輪とD-51蒸気機関車の第四動輪が展示されています。
正面に0系新幹線の車輪とD-51蒸気機関車の第四動輪が展示されています。
右側には、国鉄時代の緩急車「ヨ8000」が展示されています。
「緩急車」とは、貨物を搭載する車両に車掌など人が乗るスペースがあり、
「緩急車」とは、貨物を搭載する車両に車掌など人が乗るスペースがあり、
ブレーキを掛ける装置が取り付けられている車両のことで、
貨物列車の最後尾に連結されています。
駅前のロータリーに、「江戸時代の勝龍寺城本丸跡」の石碑が建っています。
天正17年(1589)、豊臣秀吉は淀城(淀古城)の築城にあたり、
天正17年(1589)、豊臣秀吉は淀城(淀古城)の築城にあたり、
勝龍寺城を資材として移築したため勝龍寺城は廃城となりました。
江戸時代になって、二代将軍・徳川秀忠の寛永10年(1633)、
江戸時代になって、二代将軍・徳川秀忠の寛永10年(1633)、
永井直清が長岡藩主となりました。
幕府から、勝龍寺古城北に屋敷を取ること、堀を触らないことと命じられたため、
幕府から、勝龍寺古城北に屋敷を取ること、堀を触らないことと命じられたため、
JR長岡京駅周辺に新たに城を築きました。
慶安2年(1649)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となりました。
駅前のアゼリア通りに出て、神足神社へ向かいます。
慶安2年(1649)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となりました。
駅前のアゼリア通りに出て、神足神社へ向かいます。
アゼリア通りの左側に神足(こうたり)神社の入口があり、
入口を入った右側に勝龍寺城の土嚢と空堀跡があります。
画像右側奥の高くなった所が、横矢掛かりの虎口(こぐち)と呼ばれます。
空堀には土橋が設けられています。
土橋の幅は約1mと狭く、敵が大勢で攻め込むのを防いでいます。
土橋の幅は約1mと狭く、敵が大勢で攻め込むのを防いでいます。
横矢掛かりの虎口からは、前方の土橋を渡る敵を狙い撃ちにできます。
一帯の発掘調査では、土塁の下から神足城の堀とみられる箇所や、
六世紀後半の方墳である神足古墳が確認されました。
また、空堀からは、菊一稲荷社で使われたとみられる灯明皿と狐の土人形
また、空堀からは、菊一稲荷社で使われたとみられる灯明皿と狐の土人形
が出土しました。
勝龍寺城の土嚢跡向かいの神足家の端に稲荷社が祀られています。
これが、菊一稲荷社でしょうか?
これが、菊一稲荷社でしょうか?
神足神社の拝殿です。
神足神社は、旧神足村の産土神で、延喜式には乙訓十九座の一つで
神足神社は、旧神足村の産土神で、延喜式には乙訓十九座の一つで
「神足神社(こうだにのじんじゃ)」と比定されています。
祭神は、長岡京市観光協会によると舎人(とねり)親王とされていますが、
祭神は、長岡京市観光協会によると舎人(とねり)親王とされていますが、
天神立命(あめのかみたちのみこと)との説もあり詳細は不明です。
天神立命は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の随行者の一人で
天磐船(あめのいわふね)の船長を務めたとされています。
本殿です。
神足神社には「桓武天皇の夢」として次のような伝説が残っています。
「田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。
天皇は目覚められ、神足村にこの神を祭る社を建てさせ太刀と絹を秘蔵させた。」
以後、この社は「神足神社」と田村は「神足村」と呼ばれるようになった
「田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。
天皇は目覚められ、神足村にこの神を祭る社を建てさせ太刀と絹を秘蔵させた。」
以後、この社は「神足神社」と田村は「神足村」と呼ばれるようになった
と言われます。
また、延暦3年(784)の長岡京遷都に際して、桓武天皇の行幸に、
神足家の初祖である神足光丸が随行してこの地に移り住み、
宮廷の裏鬼門を守護するために、金の太刀と絹をご神体として祀った、
とする説もあります。
延暦15年(796)には、桓武天皇の勅により初祖が祀られ、
桓武帝勅祭が執り行われました。
齋衡(さいこう)元年(854)に、官社に列せられ、
齋衡(さいこう)元年(854)に、官社に列せられ、
文献で初めて存在が確認されています。
鎌倉時代、この地の付近は、摂家九条家の荘園となり、神足氏が管理しました。
室町時代、土塁が築かれ神足城と呼ばれるようになります。
戦国時代の永正元年(1504)、細川氏の内紛に巻き込まれた神足氏は
室町時代、土塁が築かれ神足城と呼ばれるようになります。
戦国時代の永正元年(1504)、細川氏の内紛に巻き込まれた神足氏は
神足城を失うこととなりました。
元亀2年(1571)、細川藤孝が勝龍寺城に入り、城の補強、改修をした際に、
元亀2年(1571)、細川藤孝が勝龍寺城に入り、城の補強、改修をした際に、
神足城は勝龍寺城に組み込まれ、いつしか消滅してしまいました。
明治5年(1872)に、東海道本線建設に伴い、神足神社は神足城跡の
明治5年(1872)に、東海道本線建設に伴い、神足神社は神足城跡の
現在地に遷されました。
野上天神社
神木
順序が逆になってしまいましたが、鳥居の方から出て
アゼリア通りに戻り、勝龍寺城公園へ向かいます。
続く