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南法華寺~キトラ古墳

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平成30年(2018)10月9日、西国観音霊場・第6番の南法華寺(壺坂寺)から
キトラ古墳まで巡りましたが、南法華寺についてはこちらをご覧ください。

南法華寺の次に向かったのが西国薬師霊場・第9番札所である金剛寺です。
奈良県五條市野原西3丁目にあり、通称はボタン寺として
関西花の寺・第22番札所にもなっています。
高野山真言宗の寺院で、山号を小松山と号し、正式には福寿院 金剛寺と称します。
承安3年(1173)に平清盛の長男である平重盛により創建されました。
江戸時代初期から野原城主の畠山義春の菩提寺として復興し、奈良朝の末期、
 光仁天皇の皇后、井上内親王(いがみないしんのう)と その子の
他戸親王(おさべしんのう)の怨霊を祀る宮寺として さらには
仁和寺直末の中本寺として栄えました。
また、「雨乞いの寺」として江戸時代の享保年間(1716~1736)から
昭和になっても雨乞いの祈祷が奉修されています。
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参道には金属製パイプ足の燈籠が多数建ち並び、
その背後に修行大師像が祀られています。
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山門には宝暦12年(1762)に造られた梵鐘が吊るされています。
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この梵鐘は近畿一円より10万人の寄進により造られ、
「山門に鐘楼あり牡丹寺」とうたわれています。
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山門を入った右側に薬師井戸があり、本尊の薬師如来に供えられる水として、
「除病延寿」の霊水と伝えられています。
江戸時代から一度も枯れたことが無いとされ、
現在も水が湛えられているそうです。
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本堂や庫裡の拝観は有料で300円を納めます。
庫裡は元禄4年(1691)に建立され、大正時代まで
唐招提寺長老の隠居の間でした。
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庫裡からは元禄時代初期に築造された枯山水の庭が望めます。
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裏側はボタン園になっているそうで、文政5年(1822)に当時の本常和尚が
薬の原料としてボタンを植えたのがきっかけとなっているそうで、
現在では毎年4月下旬から5月上旬にかけてボタン祭りが開催されています。

画像はありませんが本堂は元禄年間(1688年~1704)に再建され、
昭和時代後期に大修理が行われています。
本尊は藤原時代作の薬師如来で、西国薬師霊場・第9番の
札所本尊にもなっています。
白檀の香木による一木造りで、日光・月光両菩薩を脇侍とし、
十二神将が配されています。
また、堂内には鎌倉時代作の阿弥陀如来坐像も安置されています。
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観音堂は明治30年(1897)に当時の唐招提寺長老、大森覚明大僧正によって
再建されました。
鴟尾(しび)には「唐招提寺金堂之模造」と印されています。
堂内には十一面観音像及び准胝観音像が安置されています。
江戸時代には金剛寺は宮寺でしたが、明治の神仏分離令により
天満宮と御霊宮から遷されました。

丹生川上神社・下社へ向かいます。
続く

丹生川上神社・下社

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金剛寺から吉野川沿いの国道370号線を上流方向に進み、
その先で国道309号線に入り、秋野川沿いにすすみます。
川ではカヌーを楽しむ人の姿も見えました。
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やがて国道は山へ分け入るように進み、その先に日本遺産に指定された
丹生川上神社・下社があります。
社殿の前に丹生川が流れ、その流域には丹生神社が点在していました。
かって、その丹生社の鳥居が洪水で流れてきたので、それを拾って神体として
祀ったのが丹生川上神社・下社の創祀とされています。
また神社背後の丹生山の山頂には祭祀遺跡と思しき四角形の石群が
残されているそうです。
創建の詳細については丹生川上神社・中社をご覧ください。
江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、
「式内大社 丹生川上神社」については当時「丹生大明神」と称していた
当神社に比定する説が有力となりました。
その後、朝廷や幕府においてもこれを認めるようになり、宝永7年(1710)に
第114代・中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、
時には祈雨の奉幣がなされるようになりました。
また嘉永6年(1853)に黒船が来航すると、翌7年に第121代・孝明天皇が
当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年(1862)には攘夷を
祈願するなど、二十二社の1社として遇されました。
文久3年(1863)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という
当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により
本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失しました。
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鳥居をくぐった右側に白馬と黒馬が飼育されています。
天平宝字7年(763)、幣帛の他黒毛の馬が奉献されたとの記録が残され、
古くから朝廷より雨を祈り黒馬を、晴れを祈り白馬が献上されました。
平安京へ都が遷ると貴船神社に受け継がれ、絵馬へと発展し、
丹生川上神社が「絵馬発祥の地」とされています。
平成23年(2011)8月25日に発生した台風12号は、紀伊半島に
甚大な被害をもたらし、「紀伊半島豪雨」とも呼ばれました。
翌年、その災害復興を祈り「白馬献上」の祭事が室町時代に途絶えて以来、
約600年ぶりに復興されました。
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「祓いの人形(ひとがた)」人形をした紙を、
日々の罪と穢れと共に流すためのものです。
側面には「発祥致福(しょうをはっし、ふくをいたす)」と記され、
「めでたい事が生じて、幸福を招きよせる」との意味が込められています。
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境内の左側に社務所があります。
社殿前、右側の深い緑の木は「多羅葉」で、葉の裏に固い物で文字を書くと、
文字が黒く浮かび上がります。
上手に乾燥すると20年経っても文字が読めるとされ、
葉書の語源ともなっています。
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社務所の左前方に「牛石」と「蛙石」があり、牛は伏せているように、
蛙は飛び跳ねているように見えます。
牛はじっくりと物事を見極め、粘り強く歩み、
一方蛙は瞬時に獲物を捕らえる瞬発力を持っています。
「静」と「動」の対照的な性格を持つ二つの石が並び置かれています。
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社殿は現在修復中ですが、台風などの被災によるものではなく、
以前から計画されていた「平成の修復」が行われており、
新元号の5月に完成予定です。
現在の拝殿は文久3年(1863)の兵火で焼失後、明治34年(1901)に再建されました。
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残念ながら拝殿から本殿への屋根を架した70段余りの階(かい)や
本殿は幕で覆われていました。
現在の本殿は文久3年(1863)に被災後、明治18年(1885)に修築された
三間社流造で、棟には千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が置かれています。
以前は高龗神(たかおかみのかみ)が祀られていましたが、
大正11年(1922)10月12日に内務省告示で丹生川上神社上社・下社は
中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされ、
下社の祭神は闇龗神(くらおかみのかみ)に改められました。
龗(おかみ)は龍の古語であり、「水の湧き出るところ」という意味もあります。
上社の祭神、高龗神は日光の降り注ぐ山の高い所の神で、「闇(くら)」は
日の光が届きにくい山の谷間を意味し、下社の祭神となりました。
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拝殿の左側奥に御神木である欅の大樹が聳えています。
幹回り4~5m、樹高30mで推定の樹齢は500年とされています。
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拝殿の左側に井戸があり、「名水いのちの水、丹生の御食(みけ)水」と
記されています。
大昔から枯れることなく、森を育むために必要な水を祀った神社として、
御神木と共にこの井戸が神社を象徴しているように思われます。
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拝殿の右側に「産霊石(むすびいし)」が祀られ、男根と女陰が
重なり合っているように見え、高皇産霊尊(たかみむすびのかみ)と
神皇産霊尊(かみむすびのかみ)の御神体とされています。
天地開闢(かいびゃく)の時、天之御中主神(あめのみなかぬし)の次に
高皇産霊尊、その次に神皇産霊尊が高天原に出現し、
造化の三神と呼ばれています。
神皇産霊尊は女性とされ「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、
高皇産霊神とともに「創造」を神格化した神とされています。

キトラ古墳へ向かいます。
続く

キトラ古墳

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模型

キトラ古墳は明日香村の南西部、阿部山の南斜面にあり、
亀虎古墳とも表記されます。
壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、
遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に
作られた古墳であると見られています。
二段築成の円墳で、上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、
高さ90cmあり、墳丘の中央には、凝灰岩の切石を組み上げた石室があります。
被葬者は不明ですが、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が
高いと見られています。
古墳周辺の一帯が「阿部山」という地名から阿倍御主人(あべのみうし)を
被葬者とする説があります。
阿倍御主人は天武天皇元年(672)の壬申の乱で大海人皇子
(後の天武天皇)に仕えて功を挙げて政治に携わり、持統・文武朝の代に
高い地位にあり、晩年には右大臣として太政官の頂点の座にあった人物です。

昭和58年(1983)に石室南壁にあった鎌倉時代の盗掘穴
(高さ65cm、幅25~40cm、奥行49cm)からのファイバースコープ撮影で
壁画が発見され石室調査が開始されました。
発掘後、石室内にカビが発生し、平成16年(2004)8月から壁画を
はぎ取り保存する作業が行われました。
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古墳は平成12年(2000)に国の特別史跡に指定され、
周囲は国営飛鳥歴史公園として整備されています。
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平成28年(2016)9月にキトラ古墳壁画保存管理施設が建設され、
一般に公開されています。
四神の館の入口は一階にあり、画像の建物の手前から階段を下ります。
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館内では、石室が復元されています。
石室には18個の直方体の切石が使われており、石材は古墳から
北西に約14km離れた二上山から運ばれてきました。
石室内部の広さは奥行2.4m、幅1.0m、高さ1.2mで、天井・側壁・床面の
全面に漆喰が塗られています。
その白い漆喰面に、四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が
描かれていましたが、現在ではその鮮やかさは失われています。
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館内の天井には、石室の天井に描かれていた天文図の通りに配された
照明が点灯されています。
古代中国では天球を天の赤道帯に沿って東方・北方・西方・南方の四大区画に分け、その区画内の星座を組み合わせた形を龍・鳥・虎・亀(正確には
蛇が亀に絡まっている姿)の4つの動物の姿に見立てました。
その結果生まれたのが東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武で、
四方を司る神獣とされています。
石室の天井に描かれていた天文図は、現存する世界最古のもので、
当時の中国の星座が描かれています。
天文図の中心には北極星が描かれ、古代中国では北極星を中心に
星が周回することから宇宙の中心と考えていました。
古代中国では北極星を北辰や太一などと呼ばれ、北極の五星は天帝とその家族、
北極星の周囲にある12星を紫宮(紫微宮)と呼ばれていました。
古代の中国に於いては、天帝を祀るのは天子の義務であり、天子にしか許されず、
歴代の王朝により天子が引き継がれていました。
推古天皇15年(607)、天皇の摂政である聖徳太子の任命を受け、
小野妹子が遣隋使として派遣されました。
妹子が携えてきた国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」
と記され、それを見た隋の皇帝「煬帝(ようだい)」は激怒します。
天子を名乗れるのはこの世に一人しかおらず、「日出ずる処の天子」を
認めることはできなかったのです。

更に中国では北極星が神格化されて天皇大帝と呼ばれるようになり、
唐の高宗(こうそう)は 「天皇」 と称し、死後は皇后の則天武后
(そくてんぶこう)によって 「天皇大帝」 の諡(おくりな)が付けられました。
日本の天武天皇による「天皇」の号の使用開始とほぼ同時期とされ、
どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていません。

四神の館の2階で壁画が公開されていますが、天文図と四方の壁画の内一枚で、
3カ月ごとに壁画が交換され、全て見るには一年を通じて通う必要があります。

第3代・安寧天皇(あんねいてんのう)陵へ向かいます。
続く

高松塚古墳~欽明天皇陵

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高松塚古墳は藤原京の時代(694~710年)に築造された円墳で、
下段の直径が23m、上段の直径が18mの二段式で5mの高さがあります。
古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)の終末期の築造で、被葬者は天武天皇の
皇子説や臣下説、朝鮮半島系王族説など諸説あります。
高松塚古墳は、昭和45年(1970)に村人によって発見され、
昭和47年(1972)3月1日から発掘調査が行われ、
同年3月21日に石室から極彩色の壁画が発見されました。
昭和48年(1973)4月23日に古墳は特別史跡に、極彩色壁画は、
昭和49年(1974)4月17日に国宝に指定されました。
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古墳の西側に壁画館があり、壁画館・石舞台古墳・亀形石造物の
共通入場券が600円で販売されています。
壁画館の館内は撮影が禁止されています。
高松塚古墳の壁画にはキトラ古墳では描かれていなかった男子群像と
女子群像が描かれ、特に西壁の女子群像はその色鮮やかさから
「飛鳥美人」と親しまれています。
石室の東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、
女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、
四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれています。
男子群像及び女子群像は、それぞれ4人一組でで描かれ、
総計で16名の人物が描かれています。
ただ、南壁は盗掘時に破壊され、朱雀が描かれていたのだろうと
考えられています。
天井には天文図が描かれています。
キトラ古墳の天文図が、内規(周極星)、外規(その土地で見える天の範囲)、
天の赤道、黄道、全天の星座(66星座、350星)まで描かれた
かなり本格的なものであったことに対し高松塚古墳は、4方向に7つの星座があり
計28個の星座(星宿)が描かれています。
これは28宿と呼ばれ、星座は4つの方角の7宿ごとにまとめられ、
その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられました。
東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四象(四神あるいは四陸ともいう)
に分けられました。
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高松塚古墳の南側に文武天皇陵があります。
文武天皇は天武天皇12年(683)に天武天皇の第二皇子である
草壁皇子の長男として誕生しました。
文武天皇は文武天皇元年(697)に、祖母の持統天皇から譲位され、
第42代天皇として即位しましたが、当時まだ15歳で持統天皇が初めて
太上天皇を称し後見役に就きました。
これが後の院政形式の始まりとされています。
天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、持統天皇3年(689)に
飛鳥浄御原令が頒布・制定されましたが、
不十分で日本の国情に適合しない部分も多くありました。
文武天皇5年(701)に大宝律令として完成し、元号が大宝元年と定められ、
大宝律令において初めて日本の国号が定められたとする説もあります。
30年間に及ぶ国交断絶状態であった唐に遣唐使を再開し、
日本の国号変更を通告しました。
また、混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けました。
慶雲4年(707)、25歳で文武天皇は崩御されました。
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天武天皇陵からバイクで10分弱北方向に進んだ所に欽明天皇陵があります。
欽明天皇は継体天皇3年(509)に継体天皇の皇子として誕生し、
宣化天皇4年(539)に第29代天皇として即位し、応神天皇の男系血統と、
仁徳天皇以来の王朝の血統を継承したとされ、現皇統へと続く祖となりました。
大伴金村物部尾輿(もののべ の おこし)を大連とし、蘇我稲目宿禰
大臣としましたが、直後の欽明天皇元年(540)に大伴金村は失脚しました。
これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがりますが、
欽明天皇13年(552)に百済から仏像と経文が伝来しました
廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、
仏像を投げ捨てる事までした。
その対立は第31代・用明天皇の時代まで続き、用明天皇2年(587)に
用明天皇が流行していた疫病で崩御されると、次期天皇を巡って
物部守屋と蘇我馬子が戦って蘇我氏が勝利し、物部氏は没落しました。
欽明天皇32年(571)に天皇は崩御されました。
陵は宮内庁により檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)と
治定されています。
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遺跡名を「梅山古墳」と呼ばれ、墳丘長約140mの明日香村唯一の前方後円墳で、
周濠を持っています。
『日本書紀』によれば、推古天皇20年に欽明天皇の妃で
用明天皇や推古天皇の母である
堅塩媛(きたしひめ)を合葬したと記されています。
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欽明天皇陵の西側に欽明天皇の皇子・桜井皇子(さくらい の みこ)の
王女である吉備姫王(きびひめのおおきみ)の墓があります。
吉備姫王は茅渟王(ちぬのおおきみ)の妃となり、宝皇女
(皇極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を儲けました。
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墓内には「猿石」と呼ばれる4体の石像が置かれています。
元禄2年(1702)に欽明天皇の梅山古墳の付近にあった平田村池田という場所の
田んぼから掘り出され、古墳の南側に置かれていましたが、
明治初年頃に現在の場所に移されたと伝わります。
柵内にあるため全面からしか見ることができませんが、
奈良文化財研究所飛鳥資料館の庭には、レプリカが置かれ、
背面の様子なども観察できます。
それによると、像の背面にも顔が彫られているそうです。
高さ1mほどの石像で猿に似ていることから「猿石」と呼ばれていますが、
渡来人をかたどったとの説もあります。
特徴から僧、男性、女性、山王権現の愛称があります。

文武天皇・持統天皇陵へ向かいます。
続く

天武天皇・持統天皇陵~石舞台古墳

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欽明天皇陵から東方向へ進んだ高台に天武天皇・持統天皇陵があり、
石段の参道が陵へと続いています。
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天武天皇の生誕日は『日本書紀』にも記載がなく不明ですが、
第34代・舒明天皇(じょめいてんのう)と皇后・寶皇女
(たからのおおきみ=後の皇極天皇・斉明天皇)の子で大海人皇子と称しました。
中大兄皇子(後の天智天皇)は両親を同じくする兄で、天智天皇が
近江大津宮で即位した際は、次期皇位継承者である皇太弟とされました。
しかし、天智天皇の第1皇子の大友皇子(後の弘文天皇)を史上初の
太政大臣としたため、大海人皇子は皇太弟を辞退しました。
天智天皇10年(671)に天智天皇が病に倒れると、大友皇子が皇太子となり、
大海人皇子は自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下りました。
翌年、天智天皇が崩御されると大友皇子が24歳で皇位を継承しますが、
大海人皇子は吉野で挙兵し、吉野を出立しました(壬申の乱)。
天武天皇元年(672)、大友皇子が敗れて自害すると、翌年に大海人皇子は
都を飛鳥浄御原宮へ遷し、第40代・天武天皇として即位しました。
天皇は一人の大臣も置かず、直接に政務を執り、皇族の諸王が要職を分掌する
皇親政治を行い、「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇です。
『日本書紀』と『古事記』の編纂を始め、神道を整備し、
仏教を保護して国家仏教を推進しました。
伊勢神宮は壬申の乱での加護に対する報恩の念があり、
皇女の大来皇女(おおくのひめみこ)を斎王として仕えさせています。
天武天皇8年(679)、天武天皇は妃の鸕野讚良(うののさらら)皇女と
異母皇子4人及び天智天皇の皇子2人を伴い、吉野へ行幸されました。
吉野では草壁皇子を次期天皇であると事実上宣言した盟約が結ばれました。
大津皇子は草壁皇子の1歳年下で、有能で母親の身分も草壁皇子と同等でしたが、
母親が早くして亡くなり、草壁皇子の母親が鸕野讚良に対し、
大津皇子の後ろ盾は乏しいものでした。
朱鳥(あかみとり)元年(686)に天武天皇が崩御されると大津皇子に
謀反の疑いが持たれ、大津皇子は24歳で自害して果てました。
草壁皇子は持統天皇3年(689)に病気で亡くなり、軽皇子(かるのみこ=
後の文武天皇)は7歳とまだ幼く、皇后が持統天皇として即位しました。
持統天皇は天武天皇の政策を引き継ぎ、藤原京を造営して
飛鳥浄御原令を制定しました。
伊勢神宮の第一回式年遷宮も行っています。
持統天皇の統治期間の大部分に第一皇子である高市皇子が太政大臣に就き、
皇太子の有力候補となっていましたが、持統天皇10年(696)7月10日に
薨去されました。
同年8月1日に15歳の軽皇子(かるのみこ=文武天皇)に譲位すると、
自らは太上天皇として文武天皇を後見し、政務を執りました。
大宝2年(702)に崩御され、天皇として初めて火葬に付されて
天武天皇陵に合葬されました。
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天武天皇・持統天皇陵から北東方向に進んだ所に「亀石」があります。
高さ1.8m、幅2.1m、奥行き3.6mの巨大な花崗岩に亀に似た
彫刻が彫られていることから「亀石」と呼ばれています。
何時頃、何の目的で造られたのか?、川原寺(もしくは橘寺)の所領の隅を示す
石標とする説や仏教伝来以前の土着信仰の対象物(神像)とする説など
諸説ありますが、詳細は不明です。
昔、大和が湖であった頃、ここ川原と対岸の当麻(たいま)の間に争いが生じ、
当麻に湖の水を取られてしまいました。
川原の辺りは干上がってしまい、たくさんの亀が死んだため、哀れに思った
村人が亀の形を石を刻んで供養したと伝わり、今は南西を向いている石が、
西の当麻を睨み付けるように向きを変えると、大和盆地は泥沼になるとの
伝承が残されています。
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「亀石」から南東方向に進んだ所に石舞台古墳があります。
狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられたとの
伝説が残されています。
古墳時代後期(6世紀初めから7世紀の半ば頃)の古墳で、
国の特別史跡に指定されています。
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていましたが、その土が失われ、
巨大な石を用いた横穴式石室が露出しています。
埋葬者としては蘇我馬子が有力視されていますが、大阪府の太子町にも
蘇我馬子の墓所とされている所があります。
昭和8年(1933)と昭和10年(1935)に発掘調査が行われ、貼石列、空堀、
外堤の跡が見つかり、方形であることが判明しました。
一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提
(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳と考えられています。
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花崗岩の石組みで造られた石室は西南方向に開口部があり、
羨道(えんどう)は長さ約11m、幅2.5mになります。
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玄室(げんしつ)は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7mの規模を有し、
約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されています。
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玄室内に残されていた石棺の破片や飛鳥時代の古墳の資料から復元された
石棺が置かれています。

神仏霊場・第37番札所である談山神社(たんざん じんじゃ)へ向かいます。
続く

談山神社

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石舞台古墳から県道155号線を進み、多武峰(とうのみね)の山中へと
分け入った所に談山神社(たんざん じんじゃ)があります。
参道には後醍醐天皇から寄進されたと伝わる石灯籠があり、
国の重要文化財に指定されています。
竿には元徳3年(1331)の刻銘があり、この年、後醍醐天皇は元号を元弘に
改めましたが、光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、
元徳4年(1332)に正慶に改元しました。
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談山神社は、神仏分離以前は寺院であり、
多武峯妙楽寺(とうのみね みょうらくじ)と称し、明治の近代社格制度では
別格官幣社に列せられました。
別格官幣社は国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなった
武将・志士・兵士などを祭神として祀る神社のために創設された社格になります。
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談山神社の入口はもう少し坂を登って神幸橋を渡った先にあります。
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橋を渡った右側に池があり、池の中に祓戸社があります。
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社殿の横には蛙の像が置かれています。
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入口の受付で入山料600円を納め、正面にある石段を上った所に
末社の総社本殿があります。
天神地祇、八百万の神が祀られ、平安時代の延長4年(926)に
勧請された日本最古の総社です。
現在の建物は江戸時代の寛文8年(1668)に造り替えられた談山神社の
本殿を寛保2年(1742)に移築したもので、国の重要文化財に指定されています。
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総社本殿の右側に江戸時代の元和5年(1619)に造営された閼伽井屋があり、
国の重要文化財に指定されています。
閼伽井は「摩尼法井」とも呼ばれ、往古、定慧和尚(じょうえおしょう)が
法華経を講じた時、龍王の出現があったと伝わります。
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閼伽井屋の奥には滝があります。
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総社拝殿-本殿側
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総社本殿の向かい側に寛文8年(1668)に造営された総社拝殿があり、
国の重要文化財に指定されています。
拝殿の内側壁画は狩野永納(かのう えいのう)によるもので、
松、竹、梅、蘭などが極彩色で描かれています。
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拝殿には像高3mの福禄寿像が安置されています。
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総社拝殿から参道を挟んだ向かい側に寛文8年(1668)に再建された
神廟拝所(旧・講堂)があり、国の重要文化財に指定されています。
天智天皇8年10月16日(669年11月14日)に中臣鎌足が亡くなりましたが、
死の前日に天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられて
「藤原」の姓を賜りました。
鎌足の長男である中臣真人(なかとみのまひと)は出家して定慧と称し、
遣唐使として唐に渡りました。
天武天皇7年(678)に帰国した定慧は、摂津安威(あい=現在の茨木市安威)に
あった父の墓をこの地へ移し、十三重塔を建立しました。
天武天皇9年(680)に講堂を建立し、妙楽寺と号したのが
談山神社の始まりとされています。
かっては室町時代作の釈迦三尊像が安置されていましたが、
神仏分離令により阿部文殊院へ遷されました。
尚、茨木市安威に阿武山古墳(あぶやまこふん)があり、
被葬者を藤原鎌足とする説もあります。
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総社拝殿と神廟拝所の間の広場では毎年4月29日11月3日に蹴鞠が行われ、
「蹴鞠の庭」と呼ばれています。
中臣鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)が飛鳥法興寺(現在の飛鳥寺)の
「蹴鞠会」で初めて出会い、「大化の改新」の発端となった
故事に因んで行われています。
「蹴鞠の庭」の先に石段があります。
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石段を上った所に永正3年(1506)の火災後に再建された権殿
(旧・常行堂)があり、国の重要文化財に指定されています。
社殿には儀式殿と記されています。
創建されたのは天禄元年(970)で、摂政・太政大臣の藤原伊尹
(ふじわら の これただ)の立願によるもので、
摩多羅神(またらじん)が祀られていました。
円仁(慈覚大師)が唐に渡り、五台山の引声念仏を相伝し、
帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に
常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたとされています。
常行堂は神仏分離以降は「権殿」と称されています。
平成23年(2011)5月16日に権殿が修復され、観世宗家の「翁」が奉納され、
翌年に談山神社の本殿が修復されてからは権殿が
演能の場として開放されているそうです。
妙楽寺が能楽を大成した観阿弥・世阿弥親子の本拠地となっていた
由縁があります。
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権殿の左側に寛文4年(1627)に造営された末社の比叡(ひえ)神社本殿があり、
社殿は国の重要文化財に指定されています。
元は飛鳥の大原にあった大原宮で、この地に遷され明治維新までは
山王宮と呼ばれていました。
右側の山神神社には、大山津見神が祀られ、
左側の稲荷神社には宇迦之御魂神が祀られています。
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境内の北側には、手前に末社の神明神社があり、天照皇大御神が祀られ、
その左横の杉山神社には久々能智神(くくのちのかみ)が祀られています。
久々能智神は木の神とされています。
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神明神社の横から御破裂山(ごはれつやま=標高607m)への登山道があり、
登山道を約20分登った所に藤原鎌足の墓所があるそうです。
御破裂山には、古来から天下に異変が生じると山が鳴動し、
談山神社の神像が破裂(亀裂)すると言い伝えられています。
慶長12年(1607)の破裂の際、第107代・後陽成天皇の要望により
御破裂記録の編纂が行われています。
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登山道の右側に龍ヶ谷の古代「磐座」と「龍神社」があります。
古代信仰で天上から神を迎え、祭祀を行った神聖な場所です。
この滝は大和川の源流の一つで、飛鳥時代に龍神信仰が伝わり、
日本神話の水神である高龗神(たかおかみのかみ)と習合し、
「龍神社」として祀られるようになりました。
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権殿の右側に建つ十三重塔は室町時代の享禄5年((1532)に再建され、
17mの高さがあり、木造十三重塔としては世界唯一のもので、
国の重要文化財に指定されています。
天武天皇7年(678)に父・藤原鎌足の追福のために、長男・定慧と
次男・不比等によって創建されました。
唐の清涼山宝池院の塔婆を模して建てられたと伝わります。
清涼山は五台山(ごだいさん)の別名で、文殊菩薩の聖地とされ、
古くから信仰を集めてきました。
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十三重塔から東へ進み石段を上った所に元和5年(1619)に造営された
校倉造りの西宝庫があり、国の重要文化財に指定されています。
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石段を上った正面に建つ楼門は寛文8年(1668)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
楼門の左側に授与所があり、談山神社は神仏霊場・第37番札所となっています。
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楼門に接して右側斜面には元和5年(1619)に再建された懸造りの拝殿があり、
国の重要文化財に指定されています。
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拝殿へ上がり、本殿を拝します。
大宝元年(701)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する
祠堂(しどう)が建立され、聖霊院と号しました。
また、大織冠社、多武峰社とも称され、現在の建物は嘉永3年(1850)に
建て替えられたもので、日光東照宮のモデルにもなり、
国の重要文化財に指定されています。
神仏分離令により明治2年(1869)に談山神社に改められ、
現在は本殿となっています。
皇極天皇4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)にて中臣鎌足と
中大兄皇子らによって蘇我入鹿が暗殺され、翌日には蘇我蝦夷
(そが の えみし)が自らの邸宅に火を放ち自害しました。
乙巳の変=いっしのへん/おっしのへん)
これにより、蘇我氏の専横に終止符が打たれました。
乙巳の変の前の5月に中臣鎌足と中大兄皇子が本殿背後の山中で
「大化の改新」について語り合ったことから「談い山(かたらいやま)」と
呼ばれ、社名はその山名に因みます。

一方で藤原氏の氏寺である興福寺が勢力を拡大すると宗派で対立するようになり、
天仁2年(1108)には興福寺の焼き討ちに遭い、多くの伽藍が焼失しました。
十三重塔も承安3年(1173)に興福寺衆徒勢の焼き討ちで消失しました。
また、南北朝時代にも南朝に仕えていた旧臣に占領されて反幕府の拠点にされ、
永享10年(1438)8月には幕府軍に焼かれて全山全焼しました。
その他にも度々戦乱に巻き込まれて焼失し、天正13年(1585)には
豊臣秀吉により郡山城下に寺を移すことを厳命されて破却されました。
天正18年(1590)に帰山を許された後、徳川家康により復興され、
江戸幕府に3,000石余の朱印領を認められました。
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拝殿を出て東へ進んだ所に「龍珠(りゅうじゅ)の岩座」と呼ばれる
岩が祀られています。
『多武峰縁起』によると「東の大樹の辺りより異光を放つ」と記され、
この岩がその光を放つ霊石と伝わります。
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本殿を挟んで東側に元和5年(1619)に造営された校倉造りの東宝庫があり、
国の重要文化財に指定されています。
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拝殿下の石段を下ってくると注連柱が建ち、「恋の道」と記されています。
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「恋の道」を進んで行くと古来から神の鎮まる岩座として信仰されてきた
「結びの岩座」があり、「岩を撫でて心に思うことを祈願してください」と
記されています。
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「結びの岩座」から更に東へ進んだ所に摂社の東殿(とうでん)があり、
鏡女王(かがみのおおきみ)、定慧和尚、藤原不比等が祀られ、
「若宮」とも称されています。
鏡女王は藤原鎌足の正妻で、藤原不比等の母親とされています。
社殿は元和5年(1619)に造り替えられた談山神社の本殿を、
寛文8年(1668)に移築されたもので、国の重要文化財に指定されています。
「恋神社」とも称され、本殿正面から参拝し、時計回りに廻って
裏側で参拝し、正面に戻って参拝することを3回行うと成就される...
かもしれません。
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社殿には鏡女王の像が祀られています。
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東殿から北東方向に進んだ所に如意輪観音堂があり、
「縁切り祈願所」とされています。
談山神社に残る唯一の仏像である「譚峰(だんぽう)如意輪観世音菩薩像」は
現在、神廟拝所に安置され、観音講まつりの期間中(6~7月)のみ
一般公開されます。
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如意輪観音堂から約250m先に末社の三天稲荷神社がありますが、
時間の都合で行くのは断念しました。
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石段まで戻り、下った所に鳥居が建っていて、
こちらの入口は桜や紅葉の見頃以外は閉門されています。

県道155号線を下り、西国観音霊場の第7番札所である岡寺へ向かいます。
続く

岡寺

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談山神社から県道155号線を下り、石舞台古墳を通り過ぎて県道15号線を
北上するとスマホの地図ナビは南側の駐車場へ案内してくれました。
北側の駐車場より歩く距離は短いです。
岡寺の詳細はこちらをご覧ください。
慶長17年(1612)に再建された仁王門は国の重要文化財に指定されています。
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門には彫刻が施されています。
四神獣でしょうか?
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奈良県の文化財に指定されている
慶長年間(1596~1615)頃に建立された楼門です。
楼門の奥に表書院、その右側に国の重要文化財に指定されている古書院、
左側に白書院がありますが、普段は非公開です。
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隙間から覗いて見ると、古書院とその前には庭園が築かれています。
古書院は寛永21年(1644)かそれ以前に建立されたと見られています。
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境内には秋の花が咲き誇っています。
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本堂前にある龍蓋池
岡寺は正式には東光山・真珠院・龍蓋寺(りゅうがいじ)と称し、
「岡寺」は岡山の中腹に位置することから地名に因む通称でした。
しかし、「岡寺」の方が一般的に知られるようになり、
現在は宗教法人としての登録も「岡寺」で行われています。
龍蓋寺は約1300年前、義淵(ぎえん)僧正により、
天武天皇から岡宮の地を賜って創建されました。
飛鳥の地を荒らし農民を苦しめていた悪『龍』を、義淵僧正が
その法力をもって池の中に封じ込め、大きな石で『蓋』をし
改心をさせたことから『龍蓋寺』と称したと伝わります。
悪龍の『厄難』を取り除いた事から『やくよけ信仰』が始まり、
本尊の如意輪観音は日本最初の厄除け観音とされています。
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池の中に祀られている要石を触ると雨が降るという言い伝えが残され、
かっては池の前で雨乞いの法要も行われていたそうです。
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本堂前の「もちの木」は「願いをもちかなえる木」とされ、
「龍玉願い珠(りゅうぎょくねがいだま)」が掛けられています。
願い珠の下から白い紙を取出し、それに願い事を記して
願い珠に戻したものが多数吊るされています。
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岡寺は西国観音霊場・第7番札所で、本堂で納経を済ませ、
新西国観音霊場・第10番札所及び聖徳太子霊跡・第8番の橘寺へ向かいます。
続く

橘寺

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岡寺から西へ進んだ所に橘寺があり、駐車場へと続く道路の脇に
「聖徳太子御誕生所」の石碑が建立されています。
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駐車場横の石段を上った所に東門があります。
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狛犬は仏教とともに朝鮮半島を経て伝わったとされ、最初は仏像や
仏塔入口の両脇に置かれ、左右共通の姿をしていました。
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拝観料350円を納め門をくぐると、右側に本坊があります。
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左側に中門跡があります。
発掘調査では、創建当初の橘寺は東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が
東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置
だったことが判明しました。
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中門跡の先に鐘楼があります。
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鐘楼の先に五重塔跡があります。
飛鳥時代には高さ約40mの五重塔が建っていたと考えられています。
塔跡の背後に見えるのは経蔵でしょうか?
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正面から撮影しました。
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本坊の先に聖徳太子が梵字を形どって造られたと伝わる阿字池があります。
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阿字池の前に「三光石」があります。
寺伝では推古天皇14年(606)に天皇の命により、聖徳太子が
勝鬘経(しょうまんぎょう)を三日間に渡り講讃された際に、
大きな蓮の華が1mも降り積もり、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち、
太子の冠が日、月、星の光に輝いたと伝わります。
日、月、星の光を放ったのが「三光石」とされ、この不思議な出来事に
驚かれた天皇は、太子に寺を造るように命ぜられました。
当時、この地には欽明天皇の「橘の宮」と呼ばれる別宮がありました。
太子はその御殿を改造して寺としたのが橘寺の始まりと伝わります。
『日本書紀』によれば、第11代・垂仁天皇の御代、田道間守(たじまもり)が
勅命を受け、不老長寿の薬を求め常世の国(中国雲南省?)へ渡り、
10年間捜し求めて持ち帰った実を当地に蒔いて育ったのが橘で、
以後この地は「橘」と呼ばれるようになりました。
また、田道間守は黒砂糖も持ち帰り、橘と共に薬として用いられ、
後にミカン・薬・菓子の祖神として崇められ、祀られるようになりました。
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「三光石」の北側に観音堂があり、重要文化財に指定されている
六臂如意輪観音像が安置されています。
安永6年(1777)に本堂として再建されましたが、元治元年(1854)に
現在の本堂が新築され、旧本堂が現在地に移築されて観音堂となりました。
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また、賓頭盧尊者像も安置されています。
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観音堂の西側に護摩堂があり、不動明王、文殊菩薩。大黒天が祀られています。
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「三光石」の南側に経堂があり、中央須弥壇に阿弥陀如来坐像が安置されています。
左側に弘法大師像、右側に傅大師(ふだいし)像が安置されています。
傅大師は中国の南北朝時代の在俗仏教者で、大蔵経の閲覧に不便を覚え、
輪蔵を作ったと伝えられています。
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参道を進んだ左側に「蓮華塚」があります。
聖徳太子が勝鬘経を講讃された際に降り積もった蓮の華を埋めた
所とされています。
大化の改新ではこの塚を一畝(せ=当時36坪、現在では30坪)と定め、
面積の基準として田畑が整備されたので
畝割塚(うねわりづか)とも呼ばれています。
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参道の正面に本堂があり、その前に黒駒の像があります。
聖徳太子の愛馬で空を駆け、達磨大師の化身であったと伝わります。
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本堂前の石灯籠
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現在の本堂は、かって講堂があった辺りに建立され、
「太子殿」の扁額が掲げられています。
橘寺は正式には仏頭山 上宮皇院 菩提寺と称します。
寺伝では推古天皇の命により聖徳太子が建立したと伝わり、
太子建立七大寺の1つとされています。
しかし発掘調査では天智天皇の時代(662~671)に北側に位置する
川原寺と対を成すように尼寺として建立されたとする説が有力になっています。
『日本書紀』天武天皇9年(680)4月条に、「橘寺尼房失火」との記載があり、
尼寺説を有力なものにしています。
第45代・聖武天皇の光明皇后から丈六の釈迦三尊像が寄進され、
第53代・淳和天皇からは薬師三尊像の寄進もあり、
法相宗の寺院として栄えていたことが伺えます。
久安4年(1148)に五重塔が落雷により焼失し、その後塔は鎌倉時代まで
再建されず、衰微していたと考えられています。
鎌倉時代に親鸞により太子信仰が盛んになると、橘寺も復興し、
文治年間(1185~1189)には三重とはなりましたが塔が再建され、
元興寺から四方仏が遷されたとの記録も残されています。
しかし、室町時代後期の永正3年(1506)、室町幕府管領・細川政元の
武将・赤沢朝経(あかざわともつね)の多武峰(とうのみね)攻めに
橘寺の僧が与したために、多武峰の衆徒によって焼き討ちに遭いました。
伽藍の殆どを焼失して衰退し、更に江戸時代には正堂、念仏堂が大破して
僧舎一棟を残すのみとなりました。
江戸時代中期から延暦寺の直末となり、
法相宗から天台宗に改宗され再建されました。
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本堂の左側に二面石があります。
飛鳥時代の高さ約1mの石造物の一つで、高さ約1mの石に
人の心の善悪二相を表したものとされています。
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境内の南側に放生池があります。
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池には橋が架けられ、水神が祀られています。
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橘寺から川原寺へ向かい、川原寺の前から橘寺を見ました。
背後に見えるのが仏頭山で、聖徳太子が勝鬘経を講讃された際に
千の仏頭が現れ、光明を放った山とされ、山号にもなっています。

川原寺へ向かいます。
続く

川原寺跡

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川原寺は「謎の大寺」とも呼ばれ、正史『日本書紀』には創建に関する
記載が全くありません。
飛鳥寺(法興寺)・薬師寺・大官大寺(大安寺)と並び「飛鳥の四大寺」の
1つに数えられた大寺院でしたが、中世以降衰微し廃寺となり、
跡地は国の史跡に指定されています。
昭和32年~34年(1957~1959)に実施された発掘調査で、川原寺の伽藍配置は
一塔二金堂式の特異なものであったことが判明し、
「川原寺式伽藍配置」と称されています。
現在の弘福寺(ぐふくじ)は、川原寺の中金堂の跡地に建てられています。
手前の礎石が南大門で、次に中門があり、左右の回廊は弘福寺の更に奥にあった
講堂まで取り囲んでいました。
東の高台が塔跡で、西の盛り上がった所が西金堂跡になります。
講堂の左右と背後には僧坊がありました。
これほどの大寺院でしたが、平城京に都が遷された際、
四大寺の中で川原寺のみが取り残され、これも謎となっています。
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中門は現在の四天王寺と同じくらいの規模だったのでしょうか?
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左右の回廊跡です。
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川原寺は法名を弘福寺と称し、塔の基壇には「弘福寺塔跡」の
石碑が建立されています。
創建当時には五重塔が建立されていたとされ、対面する西金堂は塔を向いて
建てられていたそうです。
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現在の弘福寺前には「弘法大師ゆかりの寺」と記された石碑が建立されています。
『日本書紀』斉明元年(655)の条に「その年の冬に飛鳥板蓋宮に火災があり、
飛鳥川原宮に遷った」と記され、この地には天智天皇が母の
斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮がありました。
その跡地に建立されたのが川原寺ですが、平安時代になると弘法大師が
朝廷より賜り、京都と高野山の中継地となりました。
しかし、建久2年(1191)に焼失し、鎌倉時代に復興されましたが、
室町時代末期に落雷によって焼失してからは再興されることがなく、
廃寺となりました。
現在の弘福寺は江戸時代中期に建立されました。
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弘福寺は中金堂の跡地に建てられ、境内には28個のメノウの
礎石が残されています。
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本堂には弘法大師作と伝わる持国天と多聞天像が安置され、
いずれも国の重要文化財に指定されています。
本尊は十一面観音菩薩で、他に十二神将像が安置されています。
また、天武天皇元年(673)に日本で初めて写経が行われ、
「写経誕生の地」とされています。
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境内の東側には大師堂があり、弘法大師が祀られています。
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庫裡の前には庭園が築かれています。

飛鳥板蓋宮跡から亀形石造物へ向かいます。
続く

伝・飛鳥板蓋宮跡~酒船石

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第33代・推古天皇(在位:593~628年)から第41代・持統天皇
(在位:690~697年)まで、明日香の地には歴代天皇の宮が次々と
造営されましたが、その遺跡はまだ確認されていません。
第35代・皇極天皇(在位:642~645年/第37代・斉明天皇としての
在位:655~661年)が営まれた板蓋宮がこの付近とする伝承があり、
昭和34年(1959)から発掘調査が行われ、遺構が発見されましたが
板蓋宮跡と確定はされてはいません。
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皇極天皇元年(642)、夫であった舒明天皇が崩御されたのに伴い即位され、
大臣の蘇我蝦夷(そが の えみし)に命じて造らせたのが板蓋宮で、
宮殿の屋根を板で葺いたことから板蓋宮(いたぶきのみや)と
呼ばれるようになりました。
皇極天皇4年(645)の乙巳の変(いっしのへん/おっしのへん)では、
板蓋宮がその舞台となり、皇極天皇は退位し、同母弟の孝徳天皇に譲位しました。
第36代・孝徳天皇(在位:645~654年)は都を難波長柄豊碕
(なにわのながらのとよさき)に遷し、
史上初めて元号を立てて大化元年としました。
大化6年(650)に白雉に改元し、白雉5年(654)に
孝徳天皇は病を患い崩御されました。
皇祖母尊(すめみおやのみこと)と称されていた前・皇極天皇は、
斉明天皇として板蓋宮において再度即位しましたがその年の冬、板蓋宮は焼失し、
その後再建されず、川原宮を仮宮とした後、後岡本宮が造営されました。
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飛鳥板蓋宮跡からバイクで5分ほど移動した所に亀型石造物があります。
長さ2.3m、幅約2mの亀の姿をした石造物で、斉明天皇の時代に
造られたとされていますが、誰が何の目的で造ったのかは定かではありません。
この場所で何らかの祭祀が行われたものと考えられています。
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亀型石造物の裏に酒船石への山道があります。
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丘は竹林に囲まれています。
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酒船石は東西に向いて置かれ、現存は長さ約5.5m、幅(南北)約2.3m、
厚さ約1mですが、北と南の一部が欠けています。
石割り用の石ノミの跡が残され、江戸時代に高取城を築城するため
石垣用の石材として利用しようとしたと考えられています。
平成4年(1992)に酒船石の北の斜面で石垣が発見され、『日本書紀』の
斉明天皇の時代に記述される工事に該当する遺跡と推測されています。
「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」「石の山丘を造る」との記事に
該当する遺跡と考えられています。
「宮」が酒船石の南西にある伝・飛鳥板蓋宮跡であり
「東の山」が酒船石のある丘と考えられています。
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石の上面には円や楕円のくぼみが造られ、これを細い溝で結ばれています。
酒を絞る槽とも、油や薬を作る道具とも考えられていましたが、
この石の東40mのやや高い所でここへ水を引き込むための土管や
石樋(せきひ)が見つかったことから庭園の施設とする説もあります。

次回は三重県名張市にある弥勒寺から室生寺、長谷寺、飛鳥寺そして
橿原神宮を巡ります。

弥勒寺

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弥勒寺は三重県名張市にあり、山号を日朝山と号する真言宗豊山派の寺院です。
自宅からバイクで約2時間の距離でしたが、出発時に急遽ルートを変更して、
本日最後に巡る予定だったのを最初にしたため、早く着き過ぎました。
弥勒寺正面へと道路を右折すると、「春日社」の石標が建っています。
正面奥に弥勒寺が見えます。
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弥勒寺と境内を接して北側に春日神社があります。
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狛犬は「出雲式」と呼ばれ、頭を低く構え、お尻を持ち上げて
今にも飛びかかろうとしている姿をしています。
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拝殿
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本殿
西田原村の氏神として往古から現在地に鎮座しているそうで、
天兒屋根命(あめのこやねのみこと)・建速須佐之男命
(たけはやすさのおのみこと)・大山祇命(おおやまづみのみこと)の
三柱と明治になって近隣の神社から合祀された菅原道真公・誉田別命
(ほんだわけのみこと)・大物主命・宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)・
闇淤迦美命(くらおかみのみこと)・大日女貴命(おおひるめのむちのみこと)・
五男三女命(ごなんさんじょのみこと)が祀られています。
戦国時代の文明6年(1474)及び天文24年(1555)の棟札が残され、
天正伊賀の乱の兵火から免れました。
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弥勒寺の裏側に「ふるさと公園入口」の立札がありましたので、登ってみました。
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10分足らず歩いた標高255mの山頂には右に秋葉大権現が祀られていますが、
左側は判読できません。
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山頂からは名張市内が一望でき、眺望図が描かれていましたので、
それに合わせて撮影しました。
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下山してようやく開門時間となり、本堂へ参拝しました。
弥勒寺は天平8年(736)に円了(えんりょう)上人により、弥勒菩薩を
本尊として創建され、当初は寺社領も百石を賜っていたと伝わります。
名張は東大寺との関係が深く、東大寺を開山した良弁上人の時代には、
現在の弥勒寺の前に大伽藍が建立され、今も伽藍堂、横田、寺屋敷などの
地名が残り往時を偲ばせています。
しかし、鎌倉時代になると荘園を拡大する東大寺と国司の間で対立が起こり、
天喜元年(1053)から3年間戦いが続きました。
その後、東大寺支配から脱却して在地領主が台頭するようになり、
黒田悪党」と呼ばれました。
東大寺と黒田悪党の争いは、弘安元年(1278)から90年近くにわたって
断続的に続き、室町時代になると黒田悪党は南朝方に組したため、
貞和2年(1346)に伊賀守護職・仁木義長(にっき よしなが)により
制圧されました。
天正4年(1576)には織田信長の次男・織田信雄が伊賀国の領国化を
狙っていたのですが、伊賀郷士(ごうし)である忍者衆による
襲撃を受け敗退しました。
これに怒った織田信長は天正9年(1581)に5万の大軍を率いて伊賀国に
総攻撃を行い、村や寺院は焼き払われ、住民は殺害され、
伊賀国は制圧されました。
幾多の戦乱で弥勒寺の伽藍も失われ、弥勒寺のみが残されました。
また、戦乱時に仏像などは裏山に避難させ、未だに避難させたまま
行方が分らなくなった仏像もあるようです。
現在の本堂は昭和(1979)に鉄筋コンクリート造りで再建され、
堂内には往時の伽藍に安置されていた多くの仏像が安置され、
撮影も許可されています。
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須弥壇中央には平安時代作で像高143cmの薬師如来坐像が安置され、
三重県の文化財に指定されています。
西国四十九薬師霊場の第36番札所本尊でもあります。
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薬壺に菊花紋が入っています。
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平安時代作で像高170.5cmの聖観音菩薩立像は、
国の重要文化財に指定されています。
右側には増長天像が安置されています。
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平安時代作で像高174.6cmの十一面観音菩薩立像は、
国の重要文化財に指定されています。
左側には持国天像が安置されています。
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役行者倚像(えんのぎょうじゃいぞう)は室町時代の作で、
名張市の文化財に指定されています。
倚像とは台座や椅子に腰を掛けている像のことです。
右側に不動明王像が安置され、背後には金剛界曼荼羅図が掛けられています。
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弥勒菩薩坐像は平安時代の作で像高127cm、三重県の文化財に指定されています。
左側に弘法大師像が安置され、背後には胎蔵界曼荼羅図が掛けられています。
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聖観音菩薩立像
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醍醐寺の開祖で当山派修験道の祖である理源大師・聖宝(しょうぼう)の
図が掛けられ、鎌倉時代作とされていますが、それにしては鮮やかです。
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その下には矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を
脇侍とした倶利伽羅龍王像が厨子内に安置されています。
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江戸時代作の釈迦涅槃図が掛けられています。
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その下には釈迦誕生仏が祀られています。
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また、十一面観音菩薩の化仏のみが残されています。

西国四十九薬師霊場・第8番、仏塔古寺十八尊霊場・第18番、
役行者霊蹟札所及び神仏霊場・第36番札所である室生寺へ向かいます。
続く

室生寺

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室生寺は奈良県宇陀市にあり、山号を宀一山(べんいちさん)と号する
真言宗室生寺派の大本山で、西国四十九薬師霊場・第8番、
仏塔古寺十八尊霊場・第18番、役行者霊蹟札所及び神仏霊場・第36番の
各札所となっています。
宇陀川支流の室生川に架かる太鼓橋を渡った室生山の
山麓から中腹に堂塔が散在しています。
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橋は昭和34年(1959)の伊勢湾台風によって流された後に再建されました。
橋の手前に「女人高野 室生山」の石碑が建ち、女人禁制だった高野山に対し、
女性の参詣が許されていました。
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当日は金堂の特別拝観が行われていて、入山料との共通券1,000円を
納めて境内へ入りました。
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表門を入った左奥に慶雲殿があり、春には高野山開創1200年を記念して
特別秘宝展が催されていましたが、当日は催し物はありませんでした。
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慶雲殿の右側に本坊があり、表書院、裏書院が隣接していますが、
公開はされていないようです。
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参道を東へ進むと護摩堂があります。
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護摩堂の東側には経蔵と思われる建物があります。
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仁王門は昭和40年(1965)11月に再建され、仁王像も新しく造立されました。
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門の手前は現在工事中ですが、完成予想図です。
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仁王門をくぐった先に「バン字池」があります。
梵字の「バン」の形をしていて、大日如来を意味しています。
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参道は池から左に折れて石段になり、この坂は「鎧坂」と呼ばれています。
自然石を積み上げた石段が、編み上げた鎧の様に見えることから
このように呼ばれるようになりました。
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石段の途中、左側に弁財天社があります。
江戸時代の頃までバン字池の場所には二つの池があり、
かってはその一つの池の中に祀られていました。
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鎧坂の両側は春はシャクナゲ、秋は紅葉の名所となりますが、現在の景色です。
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石段を上った右側に天神社の拝殿があります。
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拝殿の奥に天神社があります。
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拝殿の左側の岩に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)が彫られています。
軍荼利明王は五大明王の一尊で、宝生如来(ほうしょうにょらい)の
教令輪身(きょうりょうりんしん)とされる尊格です。
宝生如来は「全ての存在には絶対の価値がある」ということを示し、
教令輪身は如来が導き難い相手に対して忿怒尊(ふんぬそん)の姿を
とったものとされています。
一般的に軍荼利明王は一面八臂の姿で表されていますが、
この明王には10本の腕があります。
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拝殿の右側にある杉の木には藁が吊るされていますが、この意味は不明です。
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拝殿の向かいにある弥勒堂は現在工事中で、
平成31年3月に完成が予定されています。
弥勒堂は鎌倉時代に興福寺の伝法院を受け継いだと伝える三間四方の建物です。
元は南向きでしたが、室町時代に東向きとし、江戸初期にも改造されています。
屋根裏からは籾塔(もみとう)という木製の小塔が多数発見されました。
堂内には「弥勒菩薩立像」や「釈迦如来坐像」などが安置されています。
弥勒菩薩立像は奈良時代から平安時代初期の作で、室生寺の中で最も古い仏像です。
釈迦如来坐像は平安時代前期の作で、国宝に指定されています。
また、神変大菩薩(役小角)像も安置されており、伝承では室生寺は
役行者によって創建され、空海によって再興されたと伝えられています。
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石段を上った正面に金堂があります。
承平7年(937)に作成された『宀一山年分度者奏状』
(べんいちさん ねんぶんどしゃ そうじょう)という文書の前文に
室生寺の歴史について記されています。
年分度者とは、毎年人数を限って得度を許された、国家公認の僧のことです。
この文書によると、宝亀年間(770~781)に山部親王(後の桓武天皇)が病を患い、
浄行僧(行いの正しい僧)5名を室生山に派遣して延寿法を
修させたところ親王の病気が回復しました。
浄行僧の一人であった興福寺の僧・賢(けんきょう/けんけい)は、
山部親王(または即位後の桓武天皇)の命で室生山に寺を建立したのが
室生寺の始まりと記されています。
賢の後継者である修円(771~835年)によって
寺観が整えられていったと考えられています。
現在の金堂は平安時代前期に建立されたもので、国宝に指定されています。
修円は興福寺別当を務め、室生寺は創建時から江戸時代まで興福寺の末寺でした。
興福寺別院として、俗世を離れた山林修行の場、また、諸宗の学問道場でした。

金堂は鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられました。
江戸時代の寛文12年(1672)には前方に懸造(かけづくり)の
礼堂(らいどう)が増築されました。
元禄7年(1694)に室生寺は、第5代将軍・徳川綱吉と生母・桂昌院の
寵愛を受けた隆光(りゅうこう)が拝領するところとなり、
護国寺末の真言宗豊山派の寺院となりました。
桂昌院からは2千両の寄進を受けています。
表門前に建つ「女人高野 室生寺」の石標の上部に
九目結紋(ここのつめゆいもん)の家紋が彫られていますが、
桂昌院の実家「本庄家」の家紋です。
また、「女人高野」と称されるようになったのは江戸時代以降のことです。
室生寺は元禄11年(1698)に護国寺から独立し、
昭和39年(1964)には真言宗室生寺派の大本山となりました。

堂内須弥壇上には向かって左から十一面観音立像、文殊菩薩立像、
釈迦如来立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像が横一列に並び、
手前には十二神将立像が安置されていますが、堂内の撮影は禁止されています。
中尊の釈迦如来立像は像高237.7cm、平安時代前期の作で、
国宝に指定されています。
本来は薬師如来として造立されたもので、光背には七仏薬師や
宝相華・唐草文が華やかに描かれています。

十一面観音立像は像高195.1cm、平安時代前期の作で、国宝に指定されています。
本来は中尊・釈迦如来立像の脇侍として造立されたと考えられています。

地蔵菩薩立像は平安時代前期の作で、国の重要文化財に指定されています。
本来は中尊・釈迦如来立像の脇侍として造立され、
上記三尊が金堂に安置されていたと考えられています。
5躯の仏像ははいずれも板光背(平らな板に彩色で文様を表した光背)を
負っていますが、地蔵菩薩像の光背は、像本体に比べて不釣り合いに大きく、
本来この地蔵像に付属していたものではないと考えられています。
室生村中村区にある安産寺に安置されている地蔵菩薩立像(重文)に変えると
違和感が無く、また釈迦如来立像と作風が近いことから
安産寺の像が金堂に安置されていたと考えられています。

文殊菩薩立像及び薬師如来立像は共に平安時代の作で、
国の重要文化財に指定されています。
この2躯は江戸時代中期に他の堂から移されたと考えられています。

釈迦如来立像が安置されている背後の壁(来迎壁)に描かれている壁画は、
「板絵著色伝帝釈天曼荼羅図(金堂来迎壁)」の名称で国宝に指定されています。
壁画は縦長のヒノキ材の板を横方向に5枚繋げた縦351.0x横192.5cm上に描かれ、画面の中央やや下寄りに主尊の三尊像が描かれれています。
その周囲は横に8列、縦に15段に整然と並ぶ諸仏が描かれていますが、
下方は絵具の剥落が著しく、縦の段はもとは16段あったとみられています。
この壁画の主題は諸説ありますが、主尊の右手の持物が帝釈天の持物の
一つである払子(ほっす)とみなされ、伝・帝釈天曼荼羅図とされています。
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金堂前の石灯籠
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金堂前を西に進み、その先にある北へ向かう石段を上った所に
本堂である潅頂堂(かんじょうどう)があります。
潅頂堂は鎌倉時代後期の延慶元年(1308)に建立された五間四方入母屋造りで、
和様と大仏様の折衷様式の大きな建物です。
室生寺は法相宗である興福寺の末寺ですが、密教色が強まり、
密教で最も重要な法儀である灌頂を行う道場として建立されました。
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潅頂堂に掲げられている「悉地院(しっちいん)」の扁額は、
かってこの建物が支院の悉地院だったことによるもので、
堂内に安置されている如意輪観音像も悉地院に祀られていたものです。
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潅頂堂の右側にある石段を上った所に高さ16.22mと、
日本で一番低い五重塔があり、国宝に指定されています。
奈良時代後期に建立され、屋外にある木造五重塔としては
法隆寺五重塔に次ぐ古い塔になります。
1重目と5重目の屋根の大きさの変化が小さく、屋根には厚みがあり、
屋根の出は深く、屋根勾配が緩いことから独特の佇まいを見せています。
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塔の最上部を飾る相輪の最上部には「水煙(すいえん)」という飾りが
付きますが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状の
ものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが
乗っている珍しい形式となっています。
寺伝では、創建にかかわった修円がこの宝瓶に室生の竜神を
封じ込めたとされています。
五重塔は、平成10年(1998)9月22日の台風7号で屋根に倒木の直撃を受け、
西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けました。
心柱を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事が平成11年から
12年(1999~2000)にかけて行われました。
以前の修理で、部材には当初材のほか、鎌倉時代、江戸時代(明和)、
明治時代のものが含まれ、各重の側柱には明和と明治の修理で取り換えられたり、
当初位置から移動しているものが多いことが判明し、屋根は建立当初は板葺きで、
明和の修理で檜皮葺きに変更したものとみられています。
今回の修理に際し、当初材を年輪年代測定法で調査したところ、
794年頃に伐採されたものであることが判明し、塔の建立年代を800年頃と
する従来の定説が裏付けられました。
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付近には修円僧都の廟があります。
修円は興福寺の賢(けんきょう/けんけい)に法相を学び、
延暦13年(794)に比叡山根本中堂の落慶供養の際その堂達をつとめ、
延暦24年(805)には最澄から灌頂を受けました。
空海とも親しく、弘仁3年(812)に興福寺別当となると、
興福寺に伝法院を設けて深密会を始めました。
室生寺の実質的な創建者とされています。
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潅頂堂の左奥に北畠親房(きたばたけ ちかふさ)の墓があります。
北畠親房は南朝の中心人物でしたが、正平3年/貞和4年(1348)に
四條畷の戦いで楠木正行ら南朝方が高師直(こう の もろなお)に敗れると、
吉野からさらに山奥深い賀名生行宮に落ち延びることになりました。
正平9年/文和3年(1354)4月に賀名生にて62歳で亡くなり、
賀名生にも親房の墓があります。
親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は衰退していきました。
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親房の墓の前から北へと参道が続きます。
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しばらく歩くと「奥之院」への立札があります。
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立札からしばらく歩くと「無明橋」と呼ばれる太鼓橋が架かり、
傾斜が急になって石段が続きます。
この付近は暖地性シダの分布の北限に当り「室生山暖地性シダ群落」として
天然記念物に指定されています。
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谷には野生の鹿も生息しています。
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途中には賽の河原のように小石が積まれている所もあります。
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「奥之院」への立札から5分位、370段余りの石段を上った上に
懸造(かけづくり)の常燈堂(位牌堂)が見えてきます。
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石段を上った左側に鎌倉時代後期に建立された御影堂(大師堂)があり、
国の重要文化財に指定されています。
堂内には弘法大師の42歳像が安置されています。
御影堂の背後の岩は「諸仏出現岩」と呼ばれ、
その上に七重石塔が建立されています。
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御影堂の右側に御供所があり、奥之院の納経所となっています。
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常燈堂には「地獄極楽」の扁額が掲げられています。
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常燈堂の縁側は上がることができ、上ってきた石段を見下ろしました。
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西側にある山を望みます。
山裾に室生川が流れ、川沿いに県道28号線が見えます。
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「諸仏出現岩」と七重石塔

西国三十三所観音霊場・第8番及び神仏霊場・第35番札所の長谷寺へ向かいます。
続く

長谷寺

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長谷寺は奈良県桜井市初瀬にあり、山号を豊山(ぶざん)、
院号を神楽院と号する真言宗豊山派の総本山です。
西国三十三所観音霊場・第8番及び神仏霊場・第35番の札所になります。
長谷寺及び西国三十三所観音霊場の番外札所である
法起院(ほうきいん)の詳細はこちらをご覧ください。
当日は本堂の特別拝観が行われ、入山受付で
入山料と含めて1,300円を納めました。
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参道を少し進んだ右側に宗宝館があり、
長谷寺に伝わる寺宝や仏像などが収蔵されています。
長谷寺六坊の一つで清浄院跡地に建てられた鉄筋コンクリート造りの建物で、
春と秋に公開されていますが、館内の撮影は禁止されています。
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登廊の途中にある蔵王堂の蔵王権現像は、現在も修復中でしたが、
宗宝館には3躯の蔵王権現像が安置されていました。
蔵王権現は釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊が導き難い相手に対して
激しい忿怒の姿に変え、右手に天魔を粉砕する三鈷杵(さんこしょ)を
振り上げ、左手には一切の情欲や煩悩を断ち切る利剣を握り、
天地間の悪魔を払うように右足を蹴り上げています。
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登廊を上ぼり、鐘楼門の手前、左側に三百余社があり、
慶安3年(1650)に建立された社殿は、国の重要文化財に指定されています。
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前回見落とした登廊の右側にある馬頭夫人(めずぶにん)社ですが、
三つの社殿が並んでいましたが、馬頭夫人社であるのか、
定かではありません。
馬頭夫人は唐の僖宗(きそう)皇帝の第四后で、情が深く、
奥ゆかしい様子でしたが、顔が長く、鼻の形は馬に似ていました。
馬頭夫人はその容貌を改善しようと試み、仙人から長谷寺の観音様が
極意の菩薩であると教えられました。
馬頭夫人は教えに従い日本に向いて道場を設け、七日七夜祈願すると、
香染(こうぞめ)の袈裟を纏(まとい)い、紫雲に乗った僧が現れ、
良い香りのする瓶水(びょうすい)を持って来て顔に注いでくれた夢を見ました。
翌朝、鏡で顔を見てみると端正で威厳のある、
女性らしい顔立ちに変わっていました。
これに感謝した馬頭夫人は、種々の宝物を入れた小舟を海に浮かべ、
いつか伽藍を守護する護法善神となり観音様に奉仕し、
衆生に恵みを施すとの誓いを立てました。
その小舟は播磨国明石の浦に着いて、長谷寺へもたらされ、
その中には牡丹の種が入っていました。
今の境内を飾る牡丹はこの故事によると伝えられています。
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本堂では特別拝観が行われていて、二丈六尺(約8.8m)ある
本尊の十一面観音菩薩像の御足を直接触れて参拝することができます。
現在の像は天正7年(1538)に再興された8代目で、
国の重要文化財に指定されています。
総高が10m以上あり、国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものです。
ほぼ等身大の難陀龍王像と赤精童子(雨宝童子)が脇侍として安置されています。

難陀龍王は鎌倉末期の正和5年(1316)に舜慶によって造立されたことが、
頭部内に残された銘より判明しました。
八大龍王の第一位に数えられる龍王で、弟の跋難陀龍王
(ばつなんだりゅうおう)と共に、密教の請雨(しょうう)の
善き龍神とされています。

赤精童子(雨宝童子)は天文6年(1537)に仏師・運宗らによって
本尊と共にほぼ同時期に造立されたことが、納入されていた
木札の銘から判明しました。
正しくは「金剛赤精善神雨宝童子」といい、神仏習合の尊で、天照大神が
日向国に降り立ったときの姿を示すとされ、
また大日如来の化身ともいわれます。
天長2年(825)に空海が伊勢の朝熊山で虚空蔵求聞持法を修した際に、
天照大神の託宣があり、制作したものとされており、
「雨宝童子啓白」には三界諸仏の根本であると説かれています。

本尊の脇の棚には、近世の作ですが二十八部衆が並んで安置されています。
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本堂から五重塔を望みました。
現在の五重塔は、昭和29年(1954)に戦後初めて建立された塔で、
戦争殉職者の慰霊と世界平和を祈願して建立されました。

大原神社から飛鳥坐神社へ向かいます。
続く

大原神社~飛鳥坐神社

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長谷寺からバイクで30分ほど走った小原の里に大原神社があり、
その先に大伴夫人(おおともぶにん)の墓があります。
大伴夫人は中臣鎌足(後の藤原鎌足)の母で、
この辺りが鎌足の生誕地と伝えられています。
墓は東西11m、南北12m、高さ2.4mの円墳です。
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鎌足は推古天皇22年(614)に誕生したのですが、その時、どこからか
鎌をくわえた白い狐が現れ、生まれた子の足元に置いたため、
その子を「鎌子」と名づけたと伝わります。
その後中臣鎌足に改名し、臨終に際して天智天皇より最高位の大織冠とともに
藤原姓を賜りました。
大原神社の前には「大織冠誕生○跡(丸印は判読できなかった文字)」と
刻字された石碑が建立されています。
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左側には天智天皇の「わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 
落(ふ)らまくは後(のち)」に答えた、藤原夫人(ぶじん)の
「わが岡の 龗(おかみ)に言いて 落らしめし 雪のくだけし 
其処に散りけむ」の歌碑が建立されています。
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大原神社には鳥居が無く、正面に割拝殿があります。
明治元年(1868)まで右側の田んぼに「藤原寺(とうげんじ)」があり、
その鎮守社でした。
藤原寺の前の道路は多武峯へと続き、多武峯妙楽寺
(とうのみね みょうらくじ)の参道となっていました。
藤原寺は多武峯最高道場と伝わり、江戸時代後期には国学者の
本居宣長も訪れましたが、神仏分離令で廃寺となりました。
藤原寺や大原神社の什物等全ては妙楽寺によって回収され、
多武峯妙楽寺もまた神仏分離令により、談山神社と改められました。
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現在の本殿は覆屋の中に納められています。
創建当初は藤原寺の鎮守社でしたが、いつのころからか八幡大菩薩が祀られ、
神仏分離令以降は当時の氏子等により天照大神・品陀別命・
天児屋根命が奉祀されましたが、現在は品陀別命のみが祀られています。
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本殿の右側を下って行った竹田川の畔に「鎌足 産湯の井戸」と
伝わる跡がありますが、現在は野草に埋もれ、僅かに石積みが見られます。
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大原神社から西へ進んだ所に飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)があります。
飛鳥坐神社の祭神は、大国主命の第一子・八重事代主神
(やえことしろぬしのかみ)で、国譲りの際は大国主命から判断を託されました。
その後、首渠神(ひとごのかみ)として八十万の神々統率して高市に集め、
この天高市(飛鳥)に鎮まったとされています。
また、神奈備飛鳥社(かんなびあすかのやしろ)に鎮座されているとの
記述も残されています。
高市とは「うてなの斎場(いつにわ)」と呼ばれ、
「小高い所にある祀りの庭」を意味しています。

飛鳥坐神社の創建に関する詳細は不明ですが、『日本紀略』によれば
天長6年(829)に神託により、高市郡賀美郷にある神奈備山から
現在の鳥形山へ遷座したとの記録が残されています。

『日本書紀』朱鳥(あかみとり)元年(686)7月の条に、天武天皇の
病気平癒祈願のため幣帛が奉られたとの記載があり、延長5年(927)成立の
『延喜式』神名帳では名神大社に列せられていました。
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鳥居前の右側にある「飛鳥井」には石碑が建立され、
「飛鳥井に 宿りはすべし をけかけもよし 御水(みもひ)もよし 
御秣(みまくさ)もよし」の歌が刻まれています。
平安時代に隆盛した古代歌謡である『催馬楽(さいばら)』に
水の清らかさを讃えて歌われています。
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左側にある手水舎です。
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社務所前には願掛けの絵馬を結ぶ「むすびの木」があります。
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参道を進むと祓戸社があり、まず参拝して心身の穢れを祓い除きます。
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石段の途中、右側に国文学者である折口信夫の歌碑があります。
「ほすすきに 夕ぐもひくき 明日香のや わがふるさとは 灯をともしけり」
折口信夫は釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもありました。
飛鳥坐神社の宮司は、事代主神から7代目に当る太比古命が
第10代・崇神天皇(在位:BC97~BC30)より大神朝臣飛鳥直
(おおみわのあそんあすかのあたい)姓を賜って以来、
87代に亘って飛鳥家に引き継がれています。
国文学者である折口信夫の祖父・酒造ノ介は、岡寺前の岡本善右衛門の
8男でしたが、第81代宮司の飛鳥助信の養子となった上で折口家に入りました。
折口信夫は、祖父が大和飛鳥の由緒ある神社の出自であったことを
終生誇りにし、慶應義塾の教授時代にもよく学生を連れて
飛鳥を旅していました。
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石段を上った所に「力石」があり、男性は左手、
女性は右手で持ち上げられると幸福が掴めるとされています。
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「力石」の右側に四社殿がありますが詳細は不明です。
飛鳥坐神社の境内に江戸時代に式内大社・飛鳥山口坐神社
(あすかやまぐちにますじんじゃ)が遷座しています。
飛鳥山口坐神社には大山津見命、久久乃之知命(くぐのちのみこと)、
猿田彦命が祀られています。
神産みに於いて伊弉諾と伊弉冉との間に久久乃之知命が生まれ、
その次に大山津見命が生まれたとされています。
久久乃之知命は「木の神」、大山津見命は「山の神」で、
かって飛鳥山が皇室の御料林であり、その山神を祀ったものと
考えられていますが、旧鎮座地は不明です。
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拝殿
現在の本殿には八重事代主神、飛鳥神奈備三日女神(みひめのかみ)、
大物主神、高皇産靈神(たかみむすびのかみ)が祀られています。
大物主は、大国主命が国譲りを行ってからの別名で、八重事代主神と
飛鳥神奈備三日女神は共に大物主神の子とされています。
高皇産靈神は、天地開闢の時、最初に天之御中主神
(あめのみなかぬしのかみ)が現れ、その次に神産巣日神
(かみむすびのかみ)と共に高天原に出現した神とされています。
また、当社地が天照大神を初めて宮中の外で祀った地
倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であるとする伝承もあり、
近世には元伊勢とも称していました。

寛永17年(1640)に高取藩の初代藩主となった植村家政は、
飛鳥坐神社が高取城の鬼門に当たるとして信仰を深めました。
享保10年(1725)に里からの火災により社殿の大半を焼失したため、
天明元年(1781)に高取藩8代藩主・植村家利により再建されました。
現在の社殿は、平成13年(2001)に大滝ダム建設に伴って
移築することとなった吉野の丹生川上神社・上社から
旧社殿を譲り受けて再建されたものです。
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拝殿の向かいにある神楽殿は、毎年2月に奇祭として知られる
「おんだ祭」の舞台となります。

新西国三十三所観音霊場・第9番及び徳太子霊跡・第11番札所である
飛鳥寺へ向かいます。
続く

飛鳥寺

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飛鳥寺は山号を鳥形山(とりがたやま)と号する真言宗豊山派の寺院で、
新西国三十三所観音霊場・第9番及び徳太子霊跡・第11番札所となっています。
飛鳥寺は推古天皇4年(596)に蘇我馬子によって創建された日本初の寺院で、
「仏法が興隆する寺」として「法興寺」と号しました。
馬子は飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉
(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して
法興寺を造営しました。
平城京遷都の際に寺も遷され、現在の奈良市にある寺は「元興寺」と号します。
現在の飛鳥寺の公称は「安居院(あんごいん)」で、蘇我馬子が
建立した法興寺・中金堂跡に本堂が建立されています。
飛鳥寺は東西約200m、南北約300mの寺域を有していたと推定され、
跡地は国の史跡に指定されています。
西側からの参道は、花が寺まで導いてくれます。
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山門を入った右側に地蔵堂があります。
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堂内には地蔵尊の石仏が祀られています。
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また、石に掘られた地蔵菩薩像も祀られています。
法然上人は南都遊学に際し、建久2年(1191)の春に聖徳太子生誕の地である
橘寺を参詣し、その帰路に香久山の南端にある少林院(現在の法然寺)
立ち寄られ、その地で村人に念仏往生を説きました。
法然上人が飛鳥寺に立ち寄られたかは不明ですが、
この地蔵像は何か関係しているように思われます。
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地蔵像の背後には延享2年(1745)に建立された鐘楼があり、
昭和16年(1941)に本堂の横から現在に移されました。
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延享2年(1745)に鋳造された梵鐘は戦時供出され、
昭和33年(1958)に新しく鋳造されました。
「上は有頂天より、下は奈落の底まで、響きよかれと念じて静かに一度」と
記されています。
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境内からの真神原の眺めは538~660年の間、都が置かれた
百済の古都・扶余(ふよ)の風景と酷似しているそうです。
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創建当初の飛鳥寺は寺の中心に五重塔が建ち、現在の土壁辺りに
中門があったと思われます。
昭和32年(1957)に発掘調査が行われ、境内の地下3mに
塔の心礎が発見されました。
心礎は一辺2.4mで、その中央には一辺1.6mの方形部分を平らに浅く削り、
その中心に約30cm角の方孔が彫られていました。
更にその方孔の東壁下部に約13cm角の孔が彫られ、
仏舎利が納められていたと考えられています。
心礎の周辺からは管玉、金・銀の小粒、銀の延板、金環、金銅の鈴、
瓔珞(ようらく=装身具)馬鈴などが発掘されました。

五重塔は推古天皇元年(593)正月15日に心礎の中に舎利が納められ、
翌日には心柱が建てられました。
推古天皇4年(596)に塔は完成したのですが、建久7年(1196)に落雷により
伽藍の殆どが焼失しました。
塔の焼失後に舎利は取り出され、その一部を舎利容器と共に木箱に入れ、
心礎の上部に埋め戻されていました。
そのため、創建当初の仏舎利の埋納場所は明らかではありません。

塔の西側に西金堂、東側に東金堂、北側に中金堂が建立され、
それらを回廊が取り囲み、回廊の北側には講堂がありました。
当時の日本には僧や寺を建立する技術者もいなく、
百済から僧や技術者が招かれました。
大化の改新による蘇我家滅亡以後も飛鳥寺は、仏教教学の研究機関としての
機能を有した唯一の寺院で、天武天皇の時代には官が作った
寺院(官寺)と同等に扱うようにとする勅が出されました。
文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて
官寺並みに朝廷の保護を受けるようになりました。
それは唐で玄奘(げんじょう)に師事して帰国した道昭が、後に唐から
持ち帰った経典の数々や弟子の学僧と共に飛鳥寺に居住したことに
よるものとされています。

養老2年(718)に法興寺は奈良へ遷され、馬子が創建した寺院も
現在地に残されて、本元興寺と称されましたが、建久7年(1196)に
焼失してからは寺勢は衰え、文安4年(1447)の時点で、
「飛鳥寺の本尊は露坐だった」との記録が残されています。
寛永9年(1632)に仮堂が再建され、明和9年(1772)に飛鳥を訪れた本居宣長は、
「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置される
のみだったと記しています。
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現在の本堂は江戸末期の文政9年(1826)に大坂の篤志家の援助で再建されました。
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本堂の左側に思惟殿があります。
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堂内中央に観世音菩薩、右側に弘法大師像が安置されています。
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境内の東南角に万葉池があります。
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池の前には弘法大師、観世音菩薩、不動明王の石像が祀られています。
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万葉歌碑
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東門前に建立されている「飛鳥大仏」の石碑は寛政4年(1792)に建立されました。
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受付で350円を納めると本堂での参拝ができ、堂内の撮影も許可されています。
本堂中央には飛鳥大仏の通称で知られる像高は275.2cmの
「銅造釈迦如来坐像」が安置されています。
鞍作鳥(くらつくり の とり)によって推古天皇17年(609)に造立された
日本最古の仏像で、国の重要文化財に指定されています。
石造りの台座の上に安置され、この台座は創建当初から動かされず、
飛鳥大仏は飛鳥時代からこの場所に安置されていたことが判明しました。
台座には両脇侍像用とみられる枘穴(ほぞあな)が残ることから
本来は釈迦三尊像であったと推定されていますが、脇侍の二躯は失われ、
建久7年(1196)の火災でも大仏は甚大な被害を受けています。
昭和48年(1973)に奈良国立文化財研究所による調査が行われ、
当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、
右手の第2~第4指のみで、大部分が補修されていたことが判明しました。
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右側に安置されている阿弥陀如来坐像は藤原時代(894~1185)の作で、
この時代は名匠「定朝」の作風である「定朝様」が流行しました。
定朝様とは全体に穏やかさが漂う表現で、顔は丸顔で温和な表情が特徴となります。
またこの時代は貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、
また武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、
民衆の不安は増大しつつありました。
仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃し、
末法の時代と囁かれるようになってきました。
仏像の制作もそれまでの薬師如来から阿弥陀如来が多く造られるようになり、
現世での救済を諦め、阿弥陀如来による極楽往生を願うようになってきました。
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聖徳太子像は室町時代の作で、太子16歳の時に父・用明天皇の病気回復の
祈願をされている姿を表しています。
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庭園にある飛鳥型石灯籠は南北朝時代の作で、完全な状態で保存されています。
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西門を出た先に蘇我入鹿の首塚があり、正面に甘樫丘があります。
蘇我入鹿は皇極天皇2年(643)に父・蝦夷(えみし)から朝廷の許しも得ず
大臣を譲られると、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子
(ふるひとのおおえのみこ)を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと画策しました。
そのためには聖徳太子の子で有力な皇位継承権者である山背大兄王
(やましろのおおえのおう)の存在が邪魔となり、
入鹿は軍勢を差し向け、山背大兄王は自殺しました。
入鹿は皇室行事を独断で代行するなど、実質最高権力者としての地位を固め、
皇極天皇3年(644)11月には甘樫丘に邸宅を築きました。
皇極天皇4年(645)、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の
使者が来日し、皇居で三国の調の儀式が行われましたが、その場で入鹿は
中臣鎌足と中大兄皇子によって殺害され、遺体は雨が降る外に打ち捨てられました。

西国薬師四十九霊場・第7番、仏塔古寺十八尊・第9番及び
聖徳太子霊跡・第32番などの札所である久米寺へ向かいます。
続く

久米寺

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仁王門
久米寺は山号を霊禅山、院号を東塔院と号する真言宗御室派、仁和寺の別院で、
西国薬師四十九霊場・第7番、仏塔古寺十八尊・第9番及び
聖徳太子霊跡・第32番などの札所となっています。
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仁王門や仁王像の造立された年代は不明ですが、
仁王像の端整な姿は好感が持てます。
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門をくぐると大塔の礎石が残されています。
寺伝によると久米寺は、元はヤマト政権で軍事部門を担当していた
部民久米部(くめべ)の氏寺として創建されました。
用明天皇の皇子である来目皇子(くめのみこ)が7歳の時に眼病を患い、
兄の聖徳太子の勧めでこの地の薬師如来に祈願し、平癒しました。
その功があって推古天皇の勅願により来目皇子が金堂、講堂、鐘楼、経堂、
大門、五重塔を建立して伽藍となし、皇子自らは来目皇子と称し、
寺は「来目精舎(くめ の しょうじゃ)」と呼ばれるようになりました。
その後、養老2年(718)に天竺(インド)から善無畏三蔵が久米寺に寄留して、
日本最初の多宝大塔を建立し、三粒の仏舎利と『大日経』を塔柱に納めました。
大同2年(807)には空海が諸大弟子と宝塔内で経王を講讃(こうさん)し、
初めて真言密教を宣布しました。
「来目精舎」は後に「久米寺」と改められました。
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大師堂には弘法大師が祀られています。
空海が撰文した「益田池碑銘并序」(ますだいけひめいならびにじょ)には、
「来目精舎」として言及されています。
益田池は平安時代初期の弘仁13年(822)より、高取川に堤防を築いて
水の流れをせき止めて作られた巨大な灌漑用の貯水池であり、
天長2年(825)に完成しましたが、現在は堤の一部が残り、
跡地には橿原ニュータウンが建設されています。
旱魃(かんばつ)の備えと土地の開拓のために造られ、弘仁12年(821)に
空海が改修した讃岐国(香川県)の満濃池の技法が取り入れられました。
この工事には空海は直接携わってはいませんが、変わりに弟子の真円らが
取り組み、完成後の碑銘の揮毫(きごう)は空海が行いました。
また、橿原ニュータウン内の岩船山頂上付近にある
益田岩船(ますだのいわふね)は碑銘を載せた台との説があります。
東西約11m、南北約8m、高さ約4.7mの、亀石や酒船石などと並ぶ
飛鳥の石造物の1つで、その中でも最大のものであり、
奈良県の史跡に指定されています。
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修行大師像
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金刀比羅宮(ことひらぐう)
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不動三尊像と役行者像
誰かにいたずらされたのか、役行者像には塗装されているように見えます。
文化財にいたずらするヤカラのために、寺社が過度の文化財保護を行って、
我々の目から遠ざけることの無いように願っています。
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五重石塔か七重石塔の欠損したものか?
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石仏
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多宝塔は万治2年(1659)に仁和寺より移築されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
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不明なお堂
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水子地蔵でしょうか?
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久米仙人像
久米寺には「久米仙人伝説」が残されています。
久米仙人は、欽明天皇の御代(在位:539~571年)、金剛山麓葛城の里に
生まれたとされ、吉野山麓龍門ヶ獄(りゅうもんがたけ)で神通飛行術を取得し、
空中を自由に飛べるようになりました。
その後、百数十年もの間、久米寺に住んでいたと伝わり、聖武天皇が東大寺に
大仏殿を建立する際、勅命を受けた久米仙人は神変不思議の仙術を使い、
国々にある大木大石の数々を三日三夜の内に大仏殿境内まで
飛ばして集めて見せました。
その甲斐あって大仏殿の建立は速やかに成就し、久米仙人の働きに
深く感銘した聖武天皇は、免田30町歩を与えました。
しかし、空中を飛びまわっていた仙人は、ある日、川で美しい女性が
洗濯しているところに遭遇し、その女性のふくらはぎに目がくらみ
神通力を失い墜落したとされています。
この伝説は、『今昔物語』に収録され、『徒然草』にも言及されています。
仙人はまた、衆生の中風と下の病を除くため薬師に誓願をたて、
自ら孟宗竹の箸を作りました。
その竹箸を使うと中風や下の病にならず長寿が得られると言い伝えられています。
あじさいの花一枝をトイレに吊るすと中風封じになるとか、カボチャを
冬至に炊いて食べると中風にかからないといわれます。
あじさいの季節には鐘楼堂横のお休み処でカボチャの酢の物をいただけます。
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鐘楼、右側に久米仙人像、左側は薬壺を持っておられることから
薬師如来像と思われます。
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ここで重要なことに気付きました。
本堂の画像を撮り忘れました。
本堂の画像はこれしかありません。
現在の本堂は寛文3年(1663)に再建され、
本尊の薬師如来像が安置されています。
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観音堂
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金色に輝く大日如来像

神仏霊場・第33番札所の橿原神宮へ向かいます。
続く

橿原神宮

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この地にはかって、初代・神武天皇の畝傍橿原宮があったとされ、
明治天皇により、明治23年(1890)4月2日に官幣大社として
橿原神宮が創建されました。
神仏霊場の第33番札所となっています。
参道の周囲は深い木立に覆われています。
神威の尊厳を保ち、宮域の神聖を保持するために、明治44年(1911)から
開始された第1回事業は、創建当初の2万159坪から約1.8倍の3万6,600坪に
拡張整備をして、大正15年(1926)に一応の完結をみました。
社殿は京都御所の賢所と神嘉殿(しんかでん)が移築されました。
引き続き第2回の拡張が計画され、宮域に隣接して約4万坪の
畝傍公園が造営されました。
宮域の造成に約7万6,000本余の樹木が植樹され、かってこの地に
茂っていたと推測されるカシ類を主として、昔の姿に戻されました。

昭和15年(1940)は創建されて50周年にあたり、
また、神武天皇即位2600年にも重なり、社殿の修築、境域と
神武天皇陵の拡張整備など、国を挙げての奉祝記念事業が行われました。
明治神宮の外苑建設にならって、勤労奉仕の建国奉仕隊が組織され、
7,200団体、のべ121万4,000余人が境域の拡張と外苑の建設を行いました。
紀元2600年奉祝式典には昭和天皇も行幸され、この年の参拝者は
約1000万人に達したといわれています。
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参道を進むと右手に折れ、正面に八脚門である南神門があります。
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門をくぐった左側に参集所があり、神楽殿と接続されています。
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神楽殿
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外拝殿は昭和14年(1939)に完成し、畝傍山を背景に建てられています。
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外拝殿の先に内拝殿があり、外拝殿と内拝殿の間には
外院斎庭(ゆにわ)があります。
内拝殿の屋根越しに見える千木(ちぎ)は幣殿のもので、
本殿は更にその奥にあります。
本殿には神武天皇と皇后の媛蹈韛五十鈴媛命
(ひめたたらいすずひめのみこと)が祀られています。
神武天皇は天孫降臨の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の四代目で、
正式には「神日本磐余彦火火出見天皇
(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)」と称します。
父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)、
母は海神の娘の玉依姫(たまよりびめ)で、第四子として
日向国(ひゅうがのくに)で誕生しました。
45歳のときに兄や子を集め東征を開始、日向国から筑紫国、安芸国、吉備国、
難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、
畝傍山の東南橿原の地に都を開きました。
辛酉(かのととり)年1月1日(BC660)、橿原宮で初代天皇として即位し、
事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を
正妃としました。
この日付は現在の暦では2月11日であり、日本の建国記念日となっています。
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南廻廊
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北廻廊
外拝殿と内拝殿は南北の廻廊で結ばれています。
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背後の畝傍山ではカラスの帰宅時間なのか、
帰宅ラッシュとなっているようです。
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南神門も点灯されました。
神武天皇陵へ向かう予定でしたが、カラスと一緒に帰宅することにしました。

次回は東大寺、春日大社、新薬師寺、元興寺、興福寺、石上神宮を巡ります。

東大寺-その1

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国道24号線から「木津奈良道」の信号を左折して府道754号線へ入り、
国道369号線と合流して南進した左側に転害門(てがいもん)があります。
天平宝字6年(762)に建立された三間一戸の八脚門で、国宝に指定されています。
かつて東大寺境内の西側にあった3つの門のうちの現存する唯一の門で、
門を東へ進んだ先には正倉院があります。
東大寺の西大垣の北寄りに、佐保路に面して開けられた門で、
「佐保路門」とも呼ばれていました。
転害門は「手掻門」・「手貝門」・「碾磑門」と表記されたこともあります。
「手掻門」のいわれは、行基がこの門の場所で大仏開眼に携わった菩提僧正を
手招きしたとされ、その手で物を掻くような様子を「手掻」と
表記したとの伝えがあります。
行基は民衆からの支持を受けていましたが、朝廷から弾圧されていました。
朝廷は大仏建立の大事業を推進するには、幅広い民衆の支持が必要と考え、
行基を大僧正として迎え、協力を得ました。
「碾磑門」については、かって、美しい石臼があったので中国の石臼を意味する
「碾磑(てんがい)」という漢字があてられたとされています。
また、「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つ勇猛であった
藤原景清(平景清)が、この門に隠れて源頼朝を暗殺しようと
企んでいたことから「景清門」と呼ばれたとの伝えもあります。

天平勝宝元年(749)、東大寺及び大仏を建立するにあたって、
東大寺の守護神として宇佐八幡宮から勧請され、手向山八幡宮
(たむけやまはちまんぐう)が創建されましたが、その際、
八幡神が転害門を通った伝承に因み、毎年10月に転害門を御旅所として、
「転害会(てがいえ)」という祭事が行われます。
その祭事から「害を転ずる」、縁起の良い「転害門」と呼ばれるようになった
と伝わります。
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正倉院は現在は宮内庁が管理し、外からは校倉の一部しか見えません。
この日は正倉院展が催されていましたが、一般公開は10時からで、
見学は次回に譲ることにしました。

奈良や平安時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいました。
「正倉」とは、元来「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された
米穀や調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられていました。
また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを
収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称しました。
南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在していましたが、歳月の経過で廃絶して
東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に
所在する正倉院宝庫を指す固有名詞と化しました。
天平勝宝8年(756)6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を
東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献されました。
皇后の奉献は前後五回に及び、その品々は東大寺の正倉(現在の正倉院宝庫)に
収蔵して、永く保存されることとなりました。
これが正倉院宝物の起りで、大仏開眼会をはじめ東大寺の重要な法会に
用いられた仏具などの品々や、これより200年ばかり後の平安時代中頃の
天暦4年(950)に、東大寺羂索院(けんさくいん)の倉庫から正倉に移された
什器類などが加わり、光明皇后奉献の品々と併せて、
厳重に保管されることになりました。
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大仏殿(金堂)の北側には講堂の跡地があり、礎石が残されています。
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現在は木立が拡がり、鹿がのんびりと草を食んでいます。
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大仏殿を西側から見た姿です。
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大仏殿の前に中門があり、左右の回廊は大仏殿へと続いています。
中門は享保元年(1716)頃に再建された入母屋造の楼門で、
国の重要文化財に指定されています。
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現在の大仏殿は宝永6年(1709)に落慶された寄棟造の一重裳階(もこし)付きの
建物で、高さ46.8m、間口57m、奥行50.5mの大きさがあります。
高さと奥行は創建時とほぼ同じですが、東西の幅は約3分の2に縮小されています。
鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)を
基本とした建物で、近代的工法以外で建てられた世界最大の木造建築物です。
東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733)、
若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が
東大寺の起源であるとされています。
また、『続日本紀』によれば、神亀5年(728)に第45代・聖武天皇の
第一皇子・基親王(もといしんのう)が一歳の誕生日を迎える前に亡くなり、
菩提を弔むため、若草山麓に金鍾山寺を建立し、
良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させました。
天平13年(741)に国分寺建立の詔が発せられると翌天平14年(742)、
金鐘山寺は大和国の国分寺と定められ、金光明寺と改称されたのが
東大寺の始まりとされています。
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が
南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に
並ぶ僧房、僧房の東には食堂があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の
七重塔(高さ約70m以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていました。
天平17年(745)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには
40年近い歳月を要しました。
官大寺を造顕する場合には、造寺司・造仏殿司といった官庁が設けられて
造営にあたり、東大寺の場合も、当初は金光明寺造仏所が設けられ、
のちに造東大寺司になり、それまでの諸大寺に比べて遥かに規模が
大きかったために、多くの支所が設けられました。
そもそも東大寺は国分寺として建立されたので、国家の安寧と国民の幸福を
祈る道場でしたが、同時に仏教の教理を研究し、学僧を養成する役目もあって、
華厳をはじめ奈良時代の六宗(華厳・三論・倶舎・成実・法相・律)を
兼学する寺でもありました。
大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があり、平安時代になると
空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、
最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされました。
しかし、東大寺の勢力が強まり多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を
行うようになると、第50代・桓武天皇は都を京都に遷し、
南都仏教抑圧策をとり「造東大寺所」が廃止されました。
斉衡2年(855)に大地震により大仏の頭部が落下し、その後も講堂と
三面僧房が失火で焼失すると西塔が落雷によって焼失し、
南大門と鐘楼が暴風雨で倒壊するなど被災しました。
治承4年12月28日(1181年1月15日)には平清盛の命を受けた
清盛の子・重衡は南都を焼き討ちし、東大寺及び興福寺の
堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、大仏も焼け落ちました。
養和元年(1181)、当時61歳だった重源は被害状況を視察に来た
後白河法皇の使者である藤原行隆(ふじわら の ゆきたか)に
東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて
東大寺勧進職に就きました。
重源と彼が組織した人々は、幾多の困難を克服して、東大寺を再建しました。
文治元年8月28日(1185年9月23日)に大仏の開眼供養が行われ、
建久6年(1195)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203)に総供養が行われました。
戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火
により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失しました 。
大仏殿の仮堂が建てられたのですが、慶長15年(1610)の暴風で倒壊し、
大仏は露座のまま放置されました。
江戸時代の元禄4年(1691)になって、ようやく大仏の修理が完了し、
宝永6年(1709)に大仏殿が再建されました。
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大仏殿の前に建つ八角燈籠は高さ4m64cmで、創建時のものが残され、
国宝に指定されています。
火袋の羽目板4面には楽器を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)像が
鋳出されていますが、4面の羽目板のうち西北面と西南面が当初のもので、
東北面と東南面はレプリカです。
東南面の羽目板は早くに紛失し、東北面は昭和37年(1962)に盗難に遭い、
直後に発見されたのですが、オリジナルは別途保管されています。
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大仏は正式には「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」と称し、『華厳経』の説く
世界観・「蓮華蔵世界」の中心に位置し、大宇宙の存在そのものを
象徴する仏とされています。
像高14.7m、基壇の周囲70mで国宝に指定されています。
天平12年(740)、聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡
(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、
自らも盧舎那仏像を造ろうと決心されました。
天平15年10月15日(743年11月5日)に聖武天皇は
近江国・紫香楽宮(しがらきのみや)にて大仏造立の詔を発しますが、
周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、
都が平城京に戻されました。
天平17年8月23日(745年9月23日)、改めて現在の東大寺の地で
大仏造立が開始されました。
天平勝宝4年4月9日(752年5月26日)に大仏開眼供養会が盛大に
開催されましたが、この時点ではまだ大仏は完成していませんでした。
天平宝治元年(757)に仕上げ作業が完了し、光背はさらに後の
天平宝字7年(763)に着手して、宝亀2年(771)に完成しました。
大仏の坐す蓮華座は、仰蓮とその下の反花からなり、
ともに28弁(大小各14)の花弁を表しています。
仰蓮にはそれぞれにタガネで彫った線刻画があります。
蓮弁の上部には釈迦如来と諸菩薩、下部には7枚の蓮弁をもつ巨大な
蓮華が描かれ、『華厳経』の説く「蓮華蔵世界」のありさまを表しています。
2度の兵火にもかかわらず、台座蓮弁の線刻画にはかなり
当初の部分が残されています。
しかし、大仏は体部の大部分が鎌倉時代に、頭部は江戸時代に補修され、
天平時代の部分は大腿部など、一部しか残されていません。
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大仏の左側に脇侍として安置されている木造・虚空蔵菩薩坐像は、
江戸時代の宝暦2年(1752)に完成しました。
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右側の木造・如意輪観音坐像は元文3年(1738)頃に完成したもので、
虚空蔵菩薩坐像と共に国の重要文化財に指定されています。
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虚空蔵菩薩坐像の左側には木造・広目天立像が安置されています。
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如意輪観音坐像の右側には木造・多聞天立像が安置されています。
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本来は四天王像として安置される予定でしたが、持国天と増長天は
頭部のみが完成した状態で中断されました。
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創建当時の東大寺の模型
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鎌倉時代に再建された大仏殿の模型
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江戸時代に再建された現在の大仏殿の模型
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現在の南大門の模型
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大仏殿の柱
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鴟尾(しび)と鬼瓦
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中門の右前に鏡池があります。
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池内の島には祠があり、弁財天が祀られていると思われます。
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鏡池の南側に本坊があります。
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本坊の地にはかって、子院の東南院があり、白河上皇の御幸以来、
後白河法皇、後醍醐天皇の行在所となったり、源頼朝も滞在したことがあります。
明治10年(1877)2月8日に明治天皇が宿泊されたことにより、
この碑が建てられました。
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南大門は平安時代の応和2年(962)8月に台風で倒壊した後、鎌倉時代の
正治元年(1199)に重源上人により大仏様(天竺様)で再建されたもので、
国宝に指定されています。
25mの高さがあり、国内最大規模を誇ります。
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扁額「大華厳寺」は古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに
基づき、平成18年(2006)10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に
合わせて新調されました。
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南大門では鹿が門番をしていました。
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像高8.4mの木造金剛力士立像は建仁3年(1203)に造立されたもので、
国宝に指定されています。
昭和63年(1988)から平成5年(1993)にかけて解体修理が実施され、
像内に残された墨書きなどから、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の
4名が大仏師となり、小仏師多数を率いてわずか69日で造られたことが
裏付けされました。
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南大門の内側には、日本最古とされる狛犬が安置されています。
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南大門をくぐった左側に東大寺総合文化センターがあり、館内では
「東大寺の歴史と美術展」が催されていましたが、開館時間が9:30でしたので
次回に譲ることにしました。
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センター前には実物大の大仏の手のレプリカが展示されています。
右手は相手の畏れをなくすサインの施無畏印(せむいいん)で、
手の大きさは3m、中指の長さは約1.5mもあります。
左手は相手の願いを聞き届けようという姿勢を表す与願印で、
中指の先から手のひらを含めた長さが約3.3mあります。

二月堂などの諸堂を巡ります。
続く

東大寺-その2(鐘楼ヶ丘)

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中門前を東へ進んだ所に「アショカピラー」と呼ばれる石像と相輪が建っています。
昭和63年(1988)4月26日に「花まつり千僧法要」が大仏殿で開催され、
苦悩する人々の心の救済と人類の福祉・世界の平和に
寄与することが誓願されました。
全日本仏教青年会によるこの精神を永く継承し、
後世に伝える目的で建立されました。
「アショカピラー」は、釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れた
という伝説があり、古代インドで仏教を守護した大王であるアショーカ王が、
碑文を刻んで建てたものです。
この「アショカピラー」は、釈迦が初めて説法したとされるインドの
仏教聖地・サルナートにある柱頭部を忠実に復元されたものです。
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相輪は昭和45年(1970)に開催された大阪万博で、ほぼ原寸大で再現されていた
七重塔が解体され、相輪のみが現在地に移されました。
相輪の高さだけで23mもあり、塔の総高は約70mだったと推定されています。
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回廊沿いに北へ進むと東側に石段があります。
この石段は「猫段」または「猫坂」と呼ばれ、「ここで転ぶと猫になる」との
言い伝えがあるようですが、かって山猫が住んでいたことに由来しているようです。
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「猫段」を上った所は「鐘楼ヶ丘」と呼ばれるエリアで、
左側に俊乗堂(しゅんじょうどう)があります。
元禄年間(1688~1704)に、江戸時代の東大寺再建に尽力した
公慶上人(こうけいしょうにん)が、鎌倉時代の中興の祖・俊乗房重源上人
遺徳を讃えて建立されました。
堂内中央に安置されている「重源上人坐像」は国宝に指定されていますが、
7月5日の俊乗忌と、12月16日の良弁忌以外は参拝することができません。
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俊乗堂の南側に鐘楼があります。
鐘楼は東大寺再建大勧進で重源上人の後を継いだ臨済宗の開祖・栄西により、
承元年間(1207~1210)に再建されました。
「大仏様」と「禅宗様」が折衷された建物で、音響を分散させるために
板壁等は用いず、屋根は音をこもらすために大きく構成されています。
建物の総高は13mあり、軒の反り返りなどに「禅宗様」が表れ、
国宝に指定されています。
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梵鐘は天平勝宝4年(752)に大仏と併せて鋳造され、梵鐘が完成した
約一か月後に大仏開眼供養が行われました。
総高3.86m、口径2.71m、重量26.3tあり、国宝に指定されています。
撞木はケヤキ造りで、長さ4.48m、直径30cm、重さ180kg、
金具を入れると約200kgもあります。
古来、東大寺では「大鐘(おおがね)」と呼ばれ、江戸時代の
慶長年間(1596~1615)までは国内最大の大きさであったことから
「奈良太郎」とも呼ばれていました。
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念仏堂には本尊の像高2mを超える地蔵菩薩坐像が安置されています。
地蔵菩薩像に残されていた墨書銘には、仏師・康清が鎌倉時代の
嘉禎(かてい)3年(1237)に雲慶(運慶)・康勝以下15人の
冥福を祈る旨が記されていました。
康清は康勝の子とも弟子ともいわれています。
念仏堂は地蔵菩薩像の造立と併せて建立されたと推定され、
地蔵菩薩像と共に国の重要文化財に指定されています。
創建当初は「地蔵堂」と呼ばれていたそうですが、
今の俊乗堂があった辺りに重源が建てた浄土堂がありました。
浄土堂は「念仏堂」とも呼ばれていたのですが、戦国時代の
永禄10年(1567)に三好・松永の戦いの兵火で焼失しました。
その際、浄土堂の仏舎利などが地蔵堂に移されたという記録が残され、
「念仏堂」の名称を引き継がれたと考えられています。
念仏堂の奥に英霊殿があり、短い廊下で繋がっています。
英霊殿には第二次世界大戦で戦死した奈良県民の英霊が祀られています。
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行基堂は江戸時代に再建されたもので、元は重源上人坐像が安置されていました。
公慶上人が俊乗堂を建立して重源上人坐像が行基堂から遷されたため、
行基像が安置されるようになりました。
行基像は公慶上人によって造立が開始されましたが、未完成のまま
中止されていたのを、弟子の公俊が遺志を引き継ぎ、
享保13年(1728)4月に完成させました。
行基は当時、朝廷により民衆への仏教の布教活動が禁じられていたのですが、
禁を破り畿内を中心に、知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の
宗教集団を形成しました。
貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動していたのですが、
寺の外での活動を禁じた「僧尼令」に違反するとして、
糾弾されて弾圧を受けました。
天平12年(740)、第45代・聖武天皇は大仏造立の大事業を推進するには
幅広い民衆の支持が必要と考え、行基に協力を依頼しました。
同15年(743)、行基は大仏像造営の勧進に起用されるとその効果は大きく、
天平17年(745)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を
日本で最初に贈られました。
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鐘楼ヶ丘から正面にある緩い坂を登り、「上院」と呼ばれるエリアに向かいます。
続く

東大寺-その3 法華堂(三月堂)

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「鐘楼ヶ丘」と呼ばれるエリアから緩い坂道を登った正面に
法華堂(三月堂)があります。
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この地は「上院(じょういん)」と称され、大仏開眼以前から存在した、
東大寺の前身寺院があった場所であり、法華堂はその主要堂宇の一つで、
唯一東大寺に残された奈良時代の仏堂です。
不空羂索観音立像(ふくうけさくかんのん )を本尊とすることから、
古くは「羂索堂」と称し、周囲の付属建物を含めて
「羂索院」と称されていました。
『東大寺要録』「諸院章」には、「羂索院」は天平5年(733)に
良弁が不空羂索観音を本尊として創建したと記されています。
法華堂は正面5間・奥行8間の建物で、奥行8間のうち、後方の4間分が
本尊をはじめとする諸仏を安置する正堂(しょうどう)、手前の2間分が
礼堂(らいどう)で、これらの中間の2間は両者をつなぐ
「造り合い」と呼ばれています。
正堂部分のみが奈良時代の建物で、礼堂は鎌倉時代に付加されたもので、
国宝に指定されています。
また、正堂の部材に残る痕跡から、奈良時代にもすでに礼堂が存在していた
ことがわかり、当初は正堂と、別棟の礼堂が前後に並び建つ
双堂(ならびどう)形式の仏堂であったと推定されています。
「鐘楼ヶ丘」から登ってきて見える法華堂は横向きで、
左の正堂に右の礼堂が付加されていることを示しています。

法華堂では旧暦の3月に法華会が営まれたことから3月堂とも呼ばれましたが、
法華会の行事は平安時代後期の11世紀には講堂で行われるように変更されました。
その後、元和4年(1618)から法華堂での法華会が再開されましたが、
その実施時期は11月で、現在は法華会は行われていません。
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南へ廻りこむと法華堂の南向きの正面に出ます。
正堂中央の八角二重の仏壇上には中央に
本尊の不空羂索観音像が安置されています。
三目八臂、像高は3m62cmで天平時代を代表する仏像彫刻の1つに数えられ、
国宝に指定されています。
頭上には高さ88cmの世界三大宝冠に数えられている銀製の宝冠を着けています。
額には縦に第三の眼があり、8本の腕のうち2本は胸前で合掌し、
両掌の間に水晶珠を挟んでいます。
下方に伸ばした2本には持物(じもつ)は無く、左第1手には蓮華、
左第2手には羂索、右第1手には錫杖、右第2手の持物は
失われていますが、払子(ほっす)を持っていたと思われます。
不空羂索の「不空」とは「空(むな)しからず」の意であり、
「羂索」は手に持つ縄(元来は狩猟用具)を指し、あらゆる衆生を
もれなく救う観音との意味が込められています。
また、八角二重の仏壇上の左側には、像高4m3cmの帝釈天と、
右側に像高4m2cmの梵天像が安置されています。
これらの像が立つ八角須弥壇は、「黒漆八角二重壇」の名称で、
国宝の附(つけたり)として指定されています。

八角須弥壇前の左側に像高3m26cmの金剛力士・阿形像、
右側に像高3m6cmの吽形像が安置されています。
法華堂の金剛力士像は甲と籠手(こて)を着けた武装姿をしています。

堂内の四方には四天王像が安置されています。
持国天が3m9cm、増長天が3m、広目天が3m4cm、
多聞天が3m10cmの大きさになります。

像高1m70cmの執金剛神立像(しゅこんごうしんりゅうぞう)は秘仏とされ、
毎年12月16日(開山忌)のみに公開されます。
法華堂に安置されているこれらの仏像は全て国宝に指定されています。
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法華堂の前に奈良時代の建立と考えられている校倉造りの経庫があり、
国の重要文化財に指定されています。
かっては正倉院宝庫の西北約150mの地にあったのですが、
江戸時代の元禄9年(1696)に手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
の宝庫として現在地に移されました。
鎌倉時代に大修理が施され、小屋組・軒回り材の大半が取り換えられ、
その後も江戸、明治、昭和の時代に修理が施されています。
明治の神仏分離令で東大寺の帰属となり、明治33年(1900)頃に庫内から、
寛文7年(1667)に二月堂が焼失した際に持ち出された
大観音の光背断片が発見されました。
発見された光背断片は東大寺ミュージアムで展示されているそうです。
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法華堂経庫の南側に遺髪塔がありますが詳細は不明です。
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法華堂から東へ進むと池があり、対岸に小さな祠が祀られていますが、
詳細は不明です。
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池の畔を東への坂道を登った所に不動堂があり、
五大明王が祀られているようです。
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法華堂まで戻り、北側から二月堂へ向かいます。
法華堂から二月堂へ通じる法華堂北門は、延応2年(1240)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
続く
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