国道24号線から「木津奈良道」の信号を左折して府道754号線へ入り、
国道369号線と合流して南進した左側に転害門(てがいもん)があります。
天平宝字6年(762)に建立された三間一戸の八脚門で、国宝に指定されています。
かつて東大寺境内の西側にあった3つの門のうちの現存する唯一の門で、
門を東へ進んだ先には正倉院があります。
東大寺の西大垣の北寄りに、佐保路に面して開けられた門で、
「佐保路門」とも呼ばれていました。
転害門は「手掻門」・「手貝門」・「碾磑門」と表記されたこともあります。
「手掻門」のいわれは、行基がこの門の場所で大仏開眼に携わった菩提僧正を
手招きしたとされ、その手で物を掻くような様子を「手掻」と
表記したとの伝えがあります。
行基は民衆からの支持を受けていましたが、朝廷から弾圧されていました。
朝廷は大仏建立の大事業を推進するには、幅広い民衆の支持が必要と考え、
行基を大僧正として迎え、協力を得ました。
「碾磑門」については、かって、美しい石臼があったので中国の石臼を意味する
「碾磑(てんがい)」という漢字があてられたとされています。
また、「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つ勇猛であった
藤原景清(平景清)が、この門に隠れて源頼朝を暗殺しようと
企んでいたことから「景清門」と呼ばれたとの伝えもあります。
天平勝宝元年(749)、東大寺及び大仏を建立するにあたって、
東大寺の守護神として
宇佐八幡宮から勧請され、手向山八幡宮
(たむけやまはちまんぐう)が創建されましたが、その際、
八幡神が転害門を通った伝承に因み、毎年10月に転害門を御旅所として、
「転害会(てがいえ)」という祭事が行われます。
その祭事から「害を転ずる」、縁起の良い「転害門」と呼ばれるようになった
と伝わります。
正倉院は現在は宮内庁が管理し、外からは校倉の一部しか見えません。
この日は正倉院展が催されていましたが、一般公開は10時からで、
見学は次回に譲ることにしました。
奈良や平安時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいました。
「正倉」とは、元来「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された
米穀や調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられていました。
また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを
収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称しました。
南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在していましたが、歳月の経過で廃絶して
東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に
所在する正倉院宝庫を指す固有名詞と化しました。
天平勝宝8年(756)6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を
東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献されました。
皇后の奉献は前後五回に及び、その品々は東大寺の正倉(現在の正倉院宝庫)に
収蔵して、永く保存されることとなりました。
これが正倉院宝物の起りで、大仏開眼会をはじめ東大寺の重要な法会に
用いられた仏具などの品々や、これより200年ばかり後の平安時代中頃の
天暦4年(950)に、東大寺羂索院(けんさくいん)の倉庫から正倉に移された
什器類などが加わり、光明皇后奉献の品々と併せて、
厳重に保管されることになりました。
大仏殿(金堂)の北側には講堂の跡地があり、礎石が残されています。
現在は木立が拡がり、鹿がのんびりと草を食んでいます。
大仏殿を西側から見た姿です。
大仏殿の前に中門があり、左右の回廊は大仏殿へと続いています。
中門は享保元年(1716)頃に再建された入母屋造の楼門で、
国の重要文化財に指定されています。
現在の大仏殿は宝永6年(1709)に落慶された寄棟造の一重裳階(もこし)付きの
建物で、高さ46.8m、間口57m、奥行50.5mの大きさがあります。
高さと奥行は創建時とほぼ同じですが、東西の幅は約3分の2に縮小されています。
鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)を
基本とした建物で、近代的工法以外で建てられた世界最大の木造建築物です。
東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733)、
若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が
東大寺の起源であるとされています。
また、『続日本紀』によれば、神亀5年(728)に第45代・聖武天皇の
第一皇子・基親王(もといしんのう)が一歳の誕生日を迎える前に亡くなり、
菩提を弔むため、若草山麓に金鍾山寺を建立し、
良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させました。
天平13年(741)に国分寺建立の詔が発せられると翌天平14年(742)、
金鐘山寺は大和国の国分寺と定められ、金光明寺と改称されたのが
東大寺の始まりとされています。
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が
南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に
並ぶ僧房、僧房の東には食堂があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の
七重塔(高さ約70m以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていました。
天平17年(745)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには
40年近い歳月を要しました。
官大寺を造顕する場合には、造寺司・造仏殿司といった官庁が設けられて
造営にあたり、東大寺の場合も、当初は金光明寺造仏所が設けられ、
のちに造東大寺司になり、それまでの諸大寺に比べて遥かに規模が
大きかったために、多くの支所が設けられました。
そもそも東大寺は国分寺として建立されたので、国家の安寧と国民の幸福を
祈る道場でしたが、同時に仏教の教理を研究し、学僧を養成する役目もあって、
華厳をはじめ奈良時代の六宗(華厳・三論・倶舎・成実・法相・律)を
兼学する寺でもありました。
大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があり、平安時代になると
空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、
最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされました。
しかし、東大寺の勢力が強まり多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を
行うようになると、第50代・桓武天皇は都を京都に遷し、
南都仏教抑圧策をとり「造東大寺所」が廃止されました。
斉衡2年(855)に大地震により大仏の頭部が落下し、その後も講堂と
三面僧房が失火で焼失すると西塔が落雷によって焼失し、
南大門と鐘楼が暴風雨で倒壊するなど被災しました。
治承4年12月28日(1181年1月15日)には平清盛の命を受けた
清盛の子・重衡は南都を焼き討ちし、東大寺及び興福寺の
堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、大仏も焼け落ちました。
養和元年(1181)、当時61歳だった
重源は被害状況を視察に来た
後白河法皇の使者である藤原行隆(ふじわら の ゆきたか)に
東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて
東大寺勧進職に就きました。
重源と彼が組織した人々は、幾多の困難を克服して、東大寺を再建しました。
文治元年8月28日(1185年9月23日)に大仏の開眼供養が行われ、
建久6年(1195)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203)に総供養が行われました。
戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、
三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失しました 。
大仏殿の仮堂が建てられたのですが、慶長15年(1610)の暴風で倒壊し、
大仏は露座のまま放置されました。
江戸時代の元禄4年(1691)になって、ようやく大仏の修理が完了し、
宝永6年(1709)に大仏殿が再建されました。
大仏殿の前に建つ八角燈籠は高さ4m64cmで、創建時のものが残され、
国宝に指定されています。
火袋の羽目板4面には楽器を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)像が
鋳出されていますが、4面の羽目板のうち西北面と西南面が当初のもので、
東北面と東南面はレプリカです。
東南面の羽目板は早くに紛失し、東北面は昭和37年(1962)に盗難に遭い、
直後に発見されたのですが、オリジナルは別途保管されています。
大仏は正式には「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」と称し、『華厳経』の説く
世界観・「蓮華蔵世界」の中心に位置し、大宇宙の存在そのものを
象徴する仏とされています。
像高14.7m、基壇の周囲70mで国宝に指定されています。
天平12年(740)、聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡
(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、
自らも盧舎那仏像を造ろうと決心されました。
天平15年10月15日(743年11月5日)に聖武天皇は
近江国・紫香楽宮(しがらきのみや)にて大仏造立の詔を発しますが、
周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、
都が平城京に戻されました。
天平17年8月23日(745年9月23日)、改めて現在の東大寺の地で
大仏造立が開始されました。
天平勝宝4年4月9日(752年5月26日)に大仏開眼供養会が盛大に
開催されましたが、この時点ではまだ大仏は完成していませんでした。
天平宝治元年(757)に仕上げ作業が完了し、光背はさらに後の
天平宝字7年(763)に着手して、宝亀2年(771)に完成しました。
大仏の坐す蓮華座は、仰蓮とその下の反花からなり、
ともに28弁(大小各14)の花弁を表しています。
仰蓮にはそれぞれにタガネで彫った線刻画があります。
蓮弁の上部には釈迦如来と諸菩薩、下部には7枚の蓮弁をもつ巨大な
蓮華が描かれ、『華厳経』の説く「蓮華蔵世界」のありさまを表しています。
2度の兵火にもかかわらず、台座蓮弁の線刻画にはかなり
当初の部分が残されています。
しかし、大仏は体部の大部分が鎌倉時代に、頭部は江戸時代に補修され、
天平時代の部分は大腿部など、一部しか残されていません。
大仏の左側に脇侍として安置されている木造・虚空蔵菩薩坐像は、
江戸時代の宝暦2年(1752)に完成しました。
右側の木造・如意輪観音坐像は元文3年(1738)頃に完成したもので、
虚空蔵菩薩坐像と共に国の重要文化財に指定されています。
虚空蔵菩薩坐像の左側には木造・広目天立像が安置されています。
如意輪観音坐像の右側には木造・多聞天立像が安置されています。
本来は四天王像として安置される予定でしたが、持国天と増長天は
頭部のみが完成した状態で中断されました。
創建当時の東大寺の模型
鎌倉時代に再建された大仏殿の模型
江戸時代に再建された現在の大仏殿の模型
現在の南大門の模型
大仏殿の柱
鴟尾(しび)と鬼瓦
中門の右前に鏡池があります。
池内の島には祠があり、弁財天が祀られていると思われます。
鏡池の南側に本坊があります。
本坊の地にはかって、子院の東南院があり、白河上皇の御幸以来、
後白河法皇、後醍醐天皇の行在所となったり、源頼朝も滞在したことがあります。
明治10年(1877)2月8日に明治天皇が宿泊されたことにより、
この碑が建てられました。
南大門は平安時代の応和2年(962)8月に台風で倒壊した後、鎌倉時代の
正治元年(1199)に重源上人により大仏様(天竺様)で再建されたもので、
国宝に指定されています。
25mの高さがあり、国内最大規模を誇ります。
扁額「大華厳寺」は古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに
基づき、平成18年(2006)10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に
合わせて新調されました。
南大門では鹿が門番をしていました。
像高8.4mの木造金剛力士立像は建仁3年(1203)に造立されたもので、
国宝に指定されています。
昭和63年(1988)から平成5年(1993)にかけて解体修理が実施され、
像内に残された墨書きなどから、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の
4名が大仏師となり、小仏師多数を率いてわずか69日で造られたことが
裏付けされました。
南大門の内側には、日本最古とされる狛犬が安置されています。
南大門をくぐった左側に東大寺総合文化センターがあり、館内では
「東大寺の歴史と美術展」が催されていましたが、開館時間が9:30でしたので
次回に譲ることにしました。
センター前には実物大の大仏の手のレプリカが展示されています。
右手は相手の畏れをなくすサインの施無畏印(せむいいん)で、
手の大きさは3m、中指の長さは約1.5mもあります。
左手は相手の願いを聞き届けようという姿勢を表す与願印で、
中指の先から手のひらを含めた長さが約3.3mあります。
二月堂などの諸堂を巡ります。
続く