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東大寺-その4(二月堂)

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二月堂は天平勝宝4年(752)に実忠(じっちゅう)によって創建された、
正面(間口)が7間、奥行きが10間の懸造の建物です。
二月堂は、治承4年(1180)の平重衡の兵火と永禄10年(1567)の
三好・松永の兵乱からの焼失を免れましたが、寛文7年(1667)に
修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失しました。
現在の建物は寛文9年(1669)に再建されたもので、国宝に指定されています。
寺伝では天平勝宝3年(751)に実忠が笠置(現在の京都府南部、笠置町)の
龍穴の奥へ入っていくと、そこは都卒天(とそつてん=兜率天)
内院に通じており、そこでは天人らが生身(しょうじん)の
十一面観音を中心に悔過(けか)の行法を行っていました。
悔過とは自らの過ちを観音に懺悔(さんげ)することであり、
実忠はこの行法を人間界に持ち帰りたいと願ったのですが、そのためには
生身の十一面観音を祀らねばならないと告げられました。
下界に戻った実忠は、難波津の海岸から、観音の住するという海のかなたの
補陀洛山へ向けて香花を捧げて供養しました。
すると、その甲斐あってか、100日ほどして
生身の十一面観音が海上から来迎しました。
実忠の感得した観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かかったと伝わります。
二月堂では旧暦の2月、二七日(にしちにち、14日間の意)にわたって
修二会が執り行われることから「二月堂」と呼ばれています。
修二会とは、二月堂本尊の十一面観音に対して自らの過ちを懺悔し、
国家の安定繁栄と万民の幸福を祈願する十一面悔過(けか)法要です。
現在では新暦の3月1日から14日まで、法要は練行衆と呼ばれる、
特に選ばれた11名の僧によって執り行われています。
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法華堂北門を出て、石段を上った正面に唐破風(からはふ)造りの
豪華な手水舎があります。
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手水舎の右側の石段の上に飯道神社(いいみちじんじゃ)があります。
実忠ゆかりの地である近江国甲賀郡の飯道神社が勧請されたものと
考えられています。
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二月堂の本尊は二躯の十一面観音菩薩像で、1躯は内陣中央に安置され、
「大観音」(おおがんのん)と称され、もう1躯は厨子に納められ、
通常は大観音の手前に安置されているもので、
「小観音」(こがんのん)と称されています。
大観音・小観音ともに絶対の秘仏で、修二会の法要を務める
練行衆さえもその姿を見ることは許されません。
修二会が行われる14日間のうち、上七日(じょうしちにち・前半の7日間)は
大観音が本尊とされ、下七日(げしちにち・後半の7日間)は代わって
小観音が本尊とされています。
小観音の厨子は2月21日に「御輿洗い」と称して、礼堂に運び出されて、
丁寧に拭き清められます。
その後、大観音の手前ではなく背後に安置され、修二会の前半の上七日の間は
大観音が法要の本尊となり、小観音は陰に隠されます。
3月7日の夕方から深夜にかけて「小観音出御(しゅつぎょ)」と
「小観音後入(ごにゅう)」という儀式が執り行われます。
「小観音出御」は3月7日午後6時頃から行われ、大観音の背面に安置されていた
小観音の厨子が礼堂に運び出され、香炉、灯明、花などで供養されます。
その後、深夜0時過ぎには「小観音後入」が行われ、礼堂に運び込まれた
厨子を再び内陣に戻す儀式で、下七日の本尊として大観音の正面に安置されます。
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二月堂の東側を進んだ所にも手水所があります。
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二月堂の北側からの眺望
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二月堂の北側に茶所があります。
茶所付近に遠敷明神(おにゅうみょうじん)を祀る遠敷神社が
あったようですが見落としました。
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茶所と二月堂の間に登廊があります。
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登廊を下った正面の右側に「練行衆」の入浴施設である湯屋があり、
左側は参籠所と接続されています。
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湯屋の間を通り抜け、下からの光景です。
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湯屋から下ってきた斜め前の建物の前に井戸らしきものが見えます。
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当初はこの井戸の後ろにある建物が湯屋だと思っていたのですが、
違っていたようで、この建物の詳細は不明です。
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参籠所は室町時代に再建されたもので国の重要文化財に指定されています。
参籠所は修二会で儀式を行う「練行衆」が期間中に寝泊りするための施設で、
北半分が参籠所、南半分が食堂となっています。
修二会の期間中、練行衆が参籠所から登廊を上り二月堂へ向かう際に、
練行衆一人ひとりを松明(たいまつ)が先導します。
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食堂の西面には鬼子母神が祀られています。
鬼子母神は多くの子を持ち、それらの子を育てる栄養を摂取するために
人間の子供を捕えて食べていました。
それを見かねた釈迦から五戒を守り、施食によって飢えを満たすことを
諭(さと)され、仏法の守護神となりました。
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参籠所の南側に閼伽井屋があり、現在の建物は鎌倉時代初期に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
閼伽井屋の中の井戸は「若狭井」と名付けられています。
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閼伽井屋の東に良弁杉が聳え、その傍らに
興成神社(こうじょうじんじゃ)があります。
二月堂の修二会行法(お水取り)を守護する三社の一つで、
鵜が祀られていました。
東大寺の僧・実忠は、天平勝宝4年(752)に二月堂を創建し、
修二会を始めました。
修二会にはすべての神々が参列されましたが、
ただ若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん=彦姫神)のみは
川で魚を採っていたため遅参されました。
そのお詫びとして、二月堂の本尊へお香水を送る約束をされました。
若狭の鵜の瀬から白と黒の二羽の鵜がもぐっていき、二月堂のほとり、
傍らに木が立つ岩の中から飛び立ち、その跡から湧水が満ちあふれたと伝わります。
それが二月堂の閼伽井で、「若狭井」と名付けられ、
その水を汲む行事「お水取り」が始まったと伝わります。
興成神社にはその白と黒の二羽の鵜が祀られています。
また、飯道神社、遠敷神社、興成神社の三社は、二月堂の鎮守社で、
「惣神所(そうのじんしょ)」とも呼ばれています。
練行衆は修二会の初日である3月1日の夕方と、法会終了後の3月14日深夜
(正確には15日未明)にこれら3社に参詣し、修二会のとどこおりない執行と、
法会の終了を感謝します。
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良弁杉には由来が記された石碑が建っています。
かって、この地には樹齢600年、高さ7丈(約21m)に及ぶ大木が
聳えていたと伝わり、良弁がまだ幼少だった頃に大鷲にさらわれ、
その木に飛来したと記されています。
昭和31年(1956)9月16日の台風によりその木は倒壊し、
現在の木はその枝から植樹されたものです。
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良弁杉と対面するように開山堂があります。
開山堂はかって、僧坊があった所に寛仁3年(1019)に創建され、
僧正堂と呼ばれていました。
その後、鎌倉時代の正治2年(1200)に重源上人によって大仏様の
四方一間の大きさの堂舎に改築され、建長2年(1250)に現在地に移築されました。

堂内、内陣の中央には八角造の厨子があり、
厨子内には良弁僧正坐像が安置されています。
良弁僧正坐像は像高92.4cm、平安時代の作で開山堂と共に
国宝に指定されています。
神亀5年(728)、第45代・聖武天皇の第一皇子・基親王(もといしんのう)が
一歳の誕生日を迎える前に亡くなり、菩提を弔むため、若草山麓に
金鍾山寺(こんしゅせんじ)を建立され、智行僧九人が住持しました。
その筆頭となったのが良弁で、後に金鍾山寺は大和国分寺と定められ、
東大寺となり、天平勝宝4年(751)には、東大寺大仏建立の功績により
東大寺の初代別当となりました。
天平勝宝8年(756)に鑑真と共に大僧都に任じられ、宝亀4年(773)には、
僧正に任命されましたが、その年の閏11月24日に亡くなりました。
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開山堂の南側に三昧堂(四月堂)があります。
三昧堂は平安時代の治安3年(1021)または治暦3年(1067)の創建と考えられ、
現在の建物は江戸時代の延宝9年(1681)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
毎年四月に法華三昧会(ほっけさんまいえ)が執り行われることから、
「四月堂」とも呼ばれています。
本尊は千手観音菩薩立像でしたが、東大寺ミュージアムに遷されたために、
二月堂から十一面観音菩薩立像が新たに本尊として遷されました。
また、堂内には阿弥陀如来坐像等が安置され、
共に国の重要文化財に指定されています。

手向山八幡宮へ向かいます。
続く

手向山八幡宮

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手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は天平勝宝元年(749)に聖武天皇が
大仏造立の際、その守護神として宇佐八幡宮より勧請されました。
当初は大仏殿前にある鏡池の東側に鎮座していましたが、治承4年(1180)の
平重衡による戦火で焼失し、建長2年(1250)に北条時頼により
現在地に再建されました。
明治の神仏分離令により東大寺から独立しました。
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鳥居をくぐって進んで行くと、建物の詳細は不明ですが、
内部に大国殿があります。
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拝殿
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本殿は南北に横長の大きな建物か、
その奥に本殿があるのか不明です。
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神門が何時頃建築されたのかは不明ですが、左右に回廊を持つ立派な楼門で、
春日大社に次ぐ規模とされています。
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法華堂経庫の南側にある校倉造りの宝庫は、経庫と同じように正倉院宝庫が
あるエリアから移されたもので、国の重要文化財に指定されています。

春日大社へ向かいます。
続く

春日大社

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春日大社は、時間短縮の都合で駐車場まで登り、
駐車場から上のみの参拝となりました。
駐車場付近には貴賓館(斎館)があり、付近は県の文化財に指定されています。
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貴賓館の北側には先祖の祈祷所があります。
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貴賓館と祈祷所の間を進むと左側に桂昌殿があります。
元禄12年(1699)、第5代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院の寄進により
建立されたもので、市の文化財に指定されています。
「天下泰平之御祈祷」として建立されたことから、
「祈祷殿」とも呼ばれています。
桂昌院は護持僧・隆光の意向を受け、南都寺社の復興のみならず、
京都の寺社にも多大な寄進をされています。
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桂昌院の西側に四脚門があり、市の文化財に指定されています。
明治時代に桂昌院の後方部分が増築され、
社務所として使われていた時の正門です。
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桂昌殿の向かいに貞観元年(859)に創建された竈殿(へっついどの)があり、
国の重要文化財に指定されています。
竈殿は春日際で神饌を調理する建物で、中には竈が設けられています。
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竈殿に隣接して酒殿(さかどの)があり、貞観元年(859)の創建と伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
春日際に供える御神酒を醸造する所で、内部には大甕が据えてあります。
天平勝宝2年(750)に記録が残されていることから、酒殿は貞観元年以前から
存在していたと考えられ、現存する酒殿は日本最古の醸造所でもあります。
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桂昌殿前の石段を上った所に本殿一帯などを取り巻く「回廊」があり、
正面の西回廊には北から内侍門、清浄門、慶賀門があります。
これらの三門はいずれもほぼ同じ規模を持って治承3年(1179)に
創建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
慶賀門は藤原一門の参入門として用いられて、天井には
格組天井(ごうぐみてんじょう)を張り、
他の二門より立派な構造となっています。
清浄門は「僧正門」とも呼ばれ僧侶の、内侍門は内侍の参入門として
用いられてきました。
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西回廊の長さは約57mあり、北側の27mある北回廊と21mある
南回廊の半分と接続されています。
回廊は重要文化財に指定され、北回廊のみ本殿後ろに廻り込む前で終ります。
また、回廊は斜めに建てられています。
武甕槌命(たけみかづち の みこと)が降臨されたのが
御蓋山(みかさやま)の山頂・浮雲峰(うきぐもみね)とされ、
神山である御蓋山に造られた春日大社は山の斜面を削ることが許されず
回廊は山の斜面に沿って斜めになっています。
回廊を含む境内には千の釣り灯籠があります。
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南回廊は南門を挟んで東西に各21mあります。
南門は藤原氏以外の参入門として治承3年(1179)に創建され、
国の重要文化財に指定されています。
門が建立される以前は、内侍門、清浄門、慶賀門を含め全て
鳥居が建てられていました。
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南門の前に「出現石」または「額塚」とも呼ばれる石が祀られています。
太古の昔、神様の憑代(よりしろ)として祀られた「磐座(いわくら)」、
或いは春日若宮の祭神である赤童子が現れたとの伝承から
「出現石」と呼ばれています。
また、宝亀3年(772)に落雷による火災で落下した社額を埋納したとの
伝承から「額塚」とも呼ばれれていますが、諸説あるそうです。
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今回は行くのを断念しましたが南門から南側への参道があり、
若宮神社へと結ばれています。
その参道にも石灯篭が連なり、春日大社には2千の石灯籠があるそうです。
石灯籠は室町時代以前からのものが、そのままの場所に建ち、
石工によって補修が行われています。
この石工達は、昭和35年(1960)に起きたチリ地震で倒れたイースター島
モアイ像の他、世界各地の遺跡の修復にも貢献しています。
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南門をくぐった先に幣殿・舞殿があり、国の重要文化財に指定されています。
東側2間が幣殿、西側3間が舞殿で、幣殿の天井板は格天井となり、
舞殿と区別されています。
舞殿は宮中伝来の御神楽を行うための建物で、神楽は神への舞とされ、
巫女は庶民の願いを神に伝える役割をしていました。
春日大社は巫女発祥の地とされ、春日大社では巫女は御巫(みかんこ)と
呼ばれています。

初穂料500円を納めると特別参拝を行うことができます。
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本殿の直前に中門があり、重要文化財に指定されている高さ10mの楼門です。
中門正面の唐破風は明治時代に取り付けられました。
中門左右の御廊(おろう)は長さがそれぞれ13mあり、
国の重要文化財に指定されています。
かって、祭典では興福寺の僧侶が読経を行っていましたが、
現在は神職の座る場所となっています。
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東回廊
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東回廊を出て、北へ進んだ所に御蓋山の山頂・浮雲峰の遥拝所があります。
平城京遷都の和銅3年(710)、藤原不比等鹿島の武甕槌命を勧請し、
御蓋山の麓に祀って春日神と称しました。
武甕槌命は白い鹿に乗り、山頂の浮雲峰に降り立ったとの伝承が残され、
御蓋山は禁足地とされています。
また、御蓋山は平城京の東にあり、日が昇る山であり、水源地でもあります。
浮雲峰から延びる尾根線上を進んだ所に平城京があり、
その線上に春日神社の本殿が建てられています。
浮雲峰遥拝所はその神山を拝する所となります。
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遥拝所の先にある回廊の東北角は板葺の築地塀になっています。
古代春日大社の大宮は四囲を築地塀で囲まれていましたが、
平安時代の治承3年(1179)に現在のような回廊に改築されました。
しかし、本殿から見て丑寅(東北)の方向に当たるこの部分は鬼門のため、
改築が避けられたようです。
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東の御廊の東端に手力雄神社(たぢからおじんじゃ)・飛来天神社の
遥拝所があります。
手力雄神社と飛来天神社は本殿・第一殿の右側に鎮座され、
南側の手力雄神社には手力雄命が祀られています。
手力雄命は岩戸隠れの際に岩戸の脇に控え、天照大御神が岩戸から
顔をのぞかせた時、岩戸を引き開けて、放り投げた岩戸の扉が
信濃国の戸隠山に落ちたという伝説が残され、勇気と力の神とされています。
北側の飛来天神社は、空の旅の安全を守る神とされています。

本殿の第一殿は武甕槌命(たけみかづち の みこと)、
第二殿に経津主命(ふつぬし の みこと)、
第三殿に天児屋根命(あめのこやね の みこと)、
第四殿に比売神(ひめのかみ)が祀られています。
武甕槌命と経津主命は葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)の際に、
天下って大己貴命(おおあなむち の みこと=大国主)を説得し、
国譲りを平和裡に成功させた神です。
天児屋根命は天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ の みこと)に随伴し、
後に中臣連(なかとみうじ)の祖となりました。
比売神は天児屋根命の妻です。
社伝では神護景雲2年(768)に称徳天皇の勅命により
左大臣・藤原永手(ふじわら の ながて)が現在地に社殿を造営し、
千葉県香取から経津主命、大阪の枚岡神社から天児屋根命と
比売神を勧請して祀ったのが春日大社の始まりとされています。
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御廊の西端前に地上1.3mの幹回りが7.94mで樹齢千年とも
言われる杉の御神木が聳えています。
平安時代に描かれた絵巻物にもまだ若い杉の木が描かれ、建物の配置なども
平安時代から変わりなく引き継がれています。
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大杉の下に岩本神社があり、住吉三神が祀られ、受験合格祈願等に
御利益があるそうです。
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御廊が北へと曲がった所に平安時代の治承3年(1179)に建立された
「捻廊(ねじろう)」と呼ばれる階段があり、
国の重要文化財に指定されています。
春日祭に奉仕する斎女(いつきめ)や内侍(ないし)が昇殿する登り廊で、
江戸時代に飛騨の名工・左甚五郎が現在のように斜めに
捻じれたものに改造したと伝わります。
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本殿の真西に風宮神社があり、級長津彦命(しなつひこ の みこと)と
級長津姫命が祀られています。
風を司る神であり、春日祭巳之祓式(みのはらえしき)には御神木を
こちらの御垣の隅へ納める故実があり、 春日大社ではお祓いは
風の神様の御力を頂いて吹き祓うものであると伝えられています。
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風宮神社の傍らには七種寄木(なないろのやどりぎ)があります。
カゴノキを母樹として、ツバキ、ナンテン、ニワトコ、フジ、カエデ、
サクラが着生した珍し木で、風神がそれぞれの種を
運んできたとの伝承があります。
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本殿の背後には後殿(うしろどの)遥拝所があります。
後殿には手前から左軍神社、杉本神社、海本神社、
栗柄神社(くりからじんじゃ)と並び、奥に八雷神社が鎮座していますが、
手前の左軍神社は建物の隠れて見えません。
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また、遥拝所からは本殿の背後の屋根が見えます。
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後殿から西へ進んだ北側に藤浪之屋があり、その前に椿本神社があります。
祭神は角振神(つのふりのかみ)で、春日神の眷属神で隼の明神とも呼ばれ、
災難を祓う神とされています。
椿の木がこの付近にあったことから、椿本神社と呼ばれています。
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藤浪之屋は江戸時代までは神職の詰め所で、
国の重要文化財に指定されています。
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藤浪之屋の扉を開けると中は暗く、吊り燈籠が灯されています。
春日大社では毎年2月3日の節分万燈籠と8月14・15日に境内の全ての
燈籠が灯されます。
その縮小版がこの建物内で体験することができます。
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藤浪之屋の西側に多賀神社があり、伊弉諾命が祀られています。
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多賀神社の南側に、大同2年(807)の創建と伝わる厚板で組み上げられた
校倉造りの宝庫があり、国の重要文化財に指定されています。
3月の春日祭で、本殿を飾る鏡、太刀、鉾、弓矢などの神宝が納められています。
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西回廊の内側です。
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大杉の根から直会殿(なおらいでん)の屋根を突き抜けて
イブキ(ビヤクシン)が聳えています。

春日大社の回廊内以外は日を改めて参拝したいと考えています。

新薬師寺へ向かいます。
続く

新薬師寺

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春日大社から南へ歩いて約15分の距離に新薬師寺があり、
西国四十九薬師霊場の第6番札所となっています。
新薬師寺は山号を日輪山と号していますが、古代の寺院に山号は無く、
後世に付されたものです。
東門は鎌倉時代に建立され、重要文化財に指定されていますが、
ここからの出入りはできません。
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南門も鎌倉時代の建立で、国の重要文化財に指定されています。
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拝観料600円を納め、門をくぐった正面に本堂があります。
寺伝では新薬師寺は盧舎那仏建立中の聖武天皇が病を患われ、
天平19年(747)に光明皇后がその病気平癒を願って創建されました。
天皇の病気平癒のため、都とその近郊の山、清らかな場所で
薬師悔過(けか)が行われ、都と諸国に薬師七仏を造立し、
薬師経七巻を写経するように命じられました。
この詔により創建されたのが香山薬師寺(こうぜんやくしじ)で、
後に新薬師寺と改められました。
新薬師寺の「新」は新しい古いの「新」ではなく、霊験あらた(新)かな
お薬師様をお祀りしたとして、名付けられました。
当初は100人の僧が住み、七堂伽藍と二基の塔が建ち並ぶ官立の大寺院でした。
金堂は現在の本堂の西方150m、現在の奈良教育大学内にあったことが
発掘調査で判明しました。
当時の金堂は東西約60mの桁行の長い建物であったことが確認されました。
堂内には、善名称吉祥王如来(ぜんみょうしょうきっしょうおうにょらい)、
宝月智厳光音自在王如来(ほうがつちごんこうおんじざいおうにょらい)、
金色宝光妙行成就王如来(こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅおう
にょらい)、無憂最勝吉祥王如来(むうさいしょうきっしょうおうにょらい)、
法海雲雷音如来(ほうかいうんらいおんにょらい)、法海勝慧遊戯神通如来
(ほうかいしょうえゆげじんつうにょらい)、薬師瑠璃光如来
(やくしるりこうにょらい)の七仏薬師像が安置されていました。
それぞれの如来像には脇侍の菩薩像が各二躯づつ安置され、
更に十二神将像が安置されていました。
しかし、宝亀11年(780)に西塔に落雷し、いくつかの堂宇に
延焼して焼失しました。
更に応和2年(962)の台風により、金堂以下の主要堂塔が倒壊し、
東の高台にあった現在の本堂のみが残されました。
現在の本堂は創建当初の建物で、国宝に指定されています。
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本堂の出入り口は西側にあり、堂内には高さ約90cm、直径約9mの円形状の
土壇が築かれ、壇上中央に薬師如来坐像、周囲に十二神将像が安置されています。
薬師如来坐像は、昭和50年(1975)に調査が行われた際に、
胎内から平安時代初期と見られる法華経8巻が発見されたことから、
像は平安時代初期の作と推定されています。
像高は191.5cmあり、彩色や金箔を施さない素木仕上げで、眉、瞳、髭などに
墨、唇に朱を差しています。
一般の仏像に比べ眼が大きいのが特徴で、「聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を
祈願して新薬師寺を創建した」との伝承も生じています。
薬師如来坐像は国宝に、法華経8巻は国宝の「附(つけたり)」として
指定されています。
光背には6躯の化仏が配されていて、像本体と合わせた7躯は、
『七仏薬師経』に説く七仏薬師を表現しているとみられています。
また、光背の装飾にはシルクロード由来のアカンサスという植物の葉と
考えられている装飾があります。

十二神将像は塑像で像高は152~166cm、国内最古で最大の十二神将像とされ、
国宝に指定されています。
但し、像高160cmの波夷羅(はいら)大将像は、江戸時代末期の地震で倒壊し、
昭和6年(1931)に補作されたもので、国宝の指定からは外されています。
十二神将像は奈良時代の作で、元は高円山麓にあった岩淵寺
安置されていました。
本尊の右側に安置されている伐折羅(ばさら)大将像は、
500円切手の図柄に使用されていました。
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南門を入った東側に鎌倉時代に再建された鐘楼があり、
国の重要文化財に指定されています。
画像はありませんが、梵鐘は奈良時代のもので
国の重要文化財に指定されています。
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鐘楼の北側に池があり、その奥には竜王社があります。
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南門の西側の塀沿いには石仏が祀られ、奥には稲荷社があります。
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石仏群の前に建つ五重石塔は東大寺二月堂を創建した実忠和尚の歯塚です。
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歯塚の背後にも多数の石仏が祀られています。
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歯塚の北側に鎌倉時代に建立された地蔵堂があり、
国の重要文化財に指定されています。
堂内には鎌倉時代作の十一面観音菩薩立像(小西町自治会所有)、
室町時代作の薬師如来立像、南北朝時代作の地蔵菩薩立像が安置されています。
この地蔵菩薩像は「おたま地蔵」と呼ばれ、興福寺別当を務めた
実尊の追善のために弟子が造らせたもので、廃寺となった
勝願院に安置されていました。
また、平景清の老母が勝願院の近くに住んでいて、持仏の地蔵尊を
勝願院に祀っていたとの伝承が残されています。
東大寺大仏殿供養の日に源頼朝を暗殺するため奈良を訪れ、老母の家に
隠れていた平景清が、自分の持つ弓の鉾をこの地蔵の錫杖の柄としたことから
「景清地蔵」と呼ばれていたとも伝わります。
しかし、昭和58年(1983)にこの像の解体修理が行われ、像内から造像に
かかわる文書や像の旧部材などの納入品が発見されました。
この文書により実尊の追善のために造られてことが判明し、
国の重要文化財に指定されています。
また、像内から裸形像の体部が発見されました。
鎌倉時代には、裸形の仏像に布製の衣を着せて安置する例が散見され、
本像は裸形像の上に木造の衣を貼り付けた稀有な作例であることが判明しました。
裸形像に新しく造った頭部をつないで別の像として独立させ、
「おたま地蔵」として香薬師堂に安置されています。
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地蔵堂から北へ進むと西側に門があり、門を入ると香薬師堂があり、
「おたま地蔵」が安置されています。
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隣の建物では、金堂の発掘調査時のビデオが放映され、縁側に
座り前の庭園を眺めながらくつろぐこともできます。
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新薬師寺の南門を出た西側に南都鏡神社があります。
社標の横には埴輪が祀られています。
画像はありませんが、南都鏡神社の東側に境外摂社の
比賣神社(ひめじんじゃ)があり、「比賣塚」と呼ばれる古墳の上に
昭和56年(1981)に創建されました。
古墳は天武天皇の第一皇女・十市皇女(とおちのひめみこ)と藤原鎌足の
娘・氷上娘(ひかみのいらつめ)が埋葬されていると考えられています。
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拝殿の背後にある本殿は、江戸時代の享保13年(1728)に春日大社
第三殿の本殿として建立されたものを、延享3年(1746)に春日大社の
第47次式年造替の際に、鏡神社へ移築されたもので、
市の文化財に指定されています。
南都鏡神社は平安時代の大同6年(806)に、佐賀県唐津市にある鏡神社から
勧請され、新薬師寺の鎮守社として創建されました。
唐津にある鏡神社は、神功皇后が三韓征伐の際、鏡山山頂に戦勝を祈願して
鏡を奉納し、後にその鏡が霊光を発したことから、それを聞いた神功皇后が
自らの生霊を鏡に込めて祀ったのが始まりとされ、一ノ宮には
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が祀られています。
また、藤原広嗣の乱により藤原広嗣が当地で処刑された10年後の
天平勝宝2年(750)、肥前国司に左遷された吉備真備(きび の まきび)により、
広嗣を祀る二ノ宮が創建されました。
藤原不比等(ふじわら の ふひと)の息子の四兄弟は朝廷での実権を
握っていましたが、天平9年(737)に天然痘の流行により、
相次いで亡くなりました。
代って政治を担った橘諸兄は、唐から帰国した吉備真備と興福寺の
僧・玄(げんぼう)を重用するようになり、
政策の方向転換が図られるようになりました。
藤原四兄弟の三男・藤原宇合(ふじわら の うまかい)の長男・広嗣(ひろつぐ)は、天平10年(738)に大宰府に左遷されました。
広嗣は天平12年(740)に政治を批判し、吉備真備と玄の更迭を求める
上奏文を送ると同時に、筑前国遠賀郡に本営を築き、
太宰府管内諸国の兵を徴集して反乱を起こしました。
しかし、追討軍に敗走して捕えられ、肥前松浦郡にて処刑されました。
天平14年(742)、玄は筑紫に配せられ、観世音寺落成式に臨んだ時、急死し、
遺体は広嗣の祟りで奈良の地に飛散したとの伝承が生まれました。
吉備真備もまた、孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750)に筑前守、
次いで肥前守に左遷されました。
南都鏡神社は広嗣の霊を鎮めるため、邸宅跡と伝わるこの地に創建されました。

西国四十九薬師霊場の第5番札所である元興寺へ向かいます。
続く

元興寺

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新薬師寺から西へ進んだ所に元興寺があり、西国四十九薬師霊場の
第5番札所となっています。
画像がありませんが東門は応永年間(1394~1428)に、鎌倉時代に
造られた東大寺西南院四脚門が移築されました。

元興寺の前身は、推古天皇4年(596)に蘇我馬子によって創建された
日本初の寺院である法興寺で、「仏法が興隆する寺」という意味を
込めて名付けられました。
和銅3年(710)に都が平城京へ遷されると、法興寺も養老2年(718)に
奈良に移され、「元仏法が興隆した寺」として元興寺と称されました。
法興寺は明日香村に残され、現在は「飛鳥寺」と呼ばれています。
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奈良で創建された元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、
東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇り、寺域は南北4町(約440m)、
東西2町(約220m)もありました。
南大門、中門、金堂、講堂、鐘堂、食堂が南北に一直線に並び、中門左右から
伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していました。
回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があり、
小塔院には、小型の塔が屋内に安置されていたものと推定されています。
しかし、都が平安京に遷り、律令制度が崩壊していくと国の財政援助も途絶え、
次第に衰退していきました。
 長元8年(1035)の『堂舎損色検録帳』という史料では、金堂をはじめとする
元興寺の伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったと記されています。
金堂や講堂の天井が朽ちて雨漏りし、回廊の瓦は落ち、僧坊の一部などは
建物がなくなり大木が映えている有様だったことが書かれています。
寛元4年(1246)の記録では、この頃までに五重塔の四、五重目と相輪が失われ、
南大門、鐘楼が大破していた記録が残されています。
また、永承7年(1052)は末法元年として、人々に恐れられていました。
貴族の摂関政治が衰え、治安が乱れてくると現世の利益を諦め、
極楽浄土を願うようになってきました。
奈良時代の学僧・智光は、学友の頼光が没した後、頼光が智光の夢に現れ、
阿弥陀浄土に往生を遂げているのを見て、画工に描かせました。
「智光曼荼羅」と呼ばれ、当時の僧坊に祀られていて、
「極楽坊」と呼ばれていました。
平安時代末期に極楽往生を願い阿弥陀信仰が盛んになってくると、
「智光曼荼羅」が信仰を集めるようになり、極楽坊は発展していきました。
鎌倉時代になると極楽坊が改築されるだけでなく、
小塔院や中門堂などにも僧が往持するようになりました。
中門堂に安置されていた二天像(持国天・増長天)とその眷属である
夜叉像八体、同じく中門堂に安置され、中門観音と呼ばれていた
十一面観音像が多くの信仰を集めました。
一方で元興寺は食堂以北や南大門以南、西僧坊などを失っていきます。
更に室町時代の正長元年(1428)に凶作や流行病、将軍の代替わりなどによる
社会不安が高まる中、近江坂本や大津の馬借が徳政を求めました。
その一揆が畿内一帯に波及し、宝徳3年(1451)には奈良の農民が興福寺に
徳政を求めて元興寺周辺になだれ込んで民家に放火し、その火が金堂、
小塔院に延焼して焼失しました。
この時、「智光曼荼羅」の原本も焼失しました。
後に金堂は再建されましたが文明4年(1472)の大風で倒壊し、
それ以降は再建されることはありませんでした。
応仁元年(1467)には中門堂に落雷により二天像が失われましたが、
十一面観音像は既に観音堂に遷されており、難を逃れました。
天正年間(1573~92)になると元興寺伽藍内に「新屋」と呼ばれる町が
形成されるようになり、江戸時代になると急速に都市化が進んで
「奈良町」が完成されました。
現在の元興寺は奈良市中院町に極楽坊を本堂とするものと、奈良市芝新屋町に
観音堂と五重塔を引き継ぐものが残されています。
芝新屋町の元興寺は、江戸時代末期の安政6年(1859)に近隣火災の類焼で
観音堂と五重塔を焼失し、昭和10年(1935)頃にその傍らに
小堂の観音堂が再建され、中門堂から遷された十一面観音像が安置されています。
境内には東寺の五重塔(54.8m)より高い57mだったと
推定されている五重塔の礎石が残されています。

中院町の元興寺は、講堂の背後左右にあった僧坊の、東側手前にあったものを
鎌倉時代に改築し、室町時代の火災以降は西大寺の末寺となって
「極楽院」と称しました。
極楽院は明治以降は荒れ果て、現在国宝に指定されている本堂も
昭和25年(1950)頃までは床は落ち、屋根は破れて
「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方でした。
昭和18年(1943)に極楽院の住職となった辻村泰圓は、戦災孤児のための
社会福祉事業に尽力すると共に、境内の整備や建物の修理を進め、
昭和30年(1955)に「元興寺極楽坊」と改称し、昭和52年(1977)に
「元興寺」に改められました。
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本堂の閼伽棚も鎌倉時代のもので、国宝に指定されています。
閼伽棚は仏に供える水や花などを置く棚です。
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本堂の西側に禅室があり、国宝に指定されています。
本堂と同様に創建当時の僧坊を鎌倉時代に大仏様に改築されたもので、
部材や屋根瓦の一部には奈良時代のものが残されています。
禅室の部材が年輪年代測定法で調査され、西暦582年伐採の
樹木が使用されているそうです。
本堂と同様に「行基葺(ぎょうきぶき)」と呼ばれる上部が細くすぼまり、
下部が幅広い独特の形をした瓦を重ねる葺き方が一部に残されています。
禅室には四つの扉があり、内部は四つの間に区切られています。
西南の部屋は影向間(ようごうのま)と呼ばれ、
宝庫のように使われてきました。
かって、智光曼荼羅が禅室の経蔵にあった時、
空海は毎日経蔵で勉強をしていました。
ある日、空海が智光曼荼羅を拝んでいると、
春日大明神が影向されたことに気づき、春日曼荼羅を描いて、
勧請しました。
そして、空海自らの影(姿)を彫りその像も、その部屋にとどめ、
以来影向間と呼ばれるようになりました。
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境内の南側にコンクリート造りの法輪館があり、収蔵庫となっています。
館内には国宝に指定されている奈良時代作で高さ5.5mの五重小塔や
平安時代作で重要文化財に指定されている智光曼荼羅(板絵)などが
収蔵されています。
また、平安時代作の阿弥陀如来坐像、鎌倉時代作の聖徳太子立像(孝養像)、
鎌倉時代作の弘法大師坐像が安置され、いずれも国の重要文化財に
指定されています。
その他、国の重要有形民俗文化財に指定されている鎌倉時代~室町時代の
元興寺庶民信仰資料などが納められています。
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法輪館の前に多数の五輪塔が並んでいます。
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石塔の手前に仏足石があります。
日本・スリランカ友好親善の記念として平成24年(2012)10月8日に
造立されたもので、約2千年前にスリランカで創られた図を
基に復元されています。
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禅室の南前は浮図田(ふとでん)と呼ばれ、二千五百余基の石塔、
石仏類(総称して浮図)が田圃の稲のごとく整備されています。
鎌倉時代末期から江戸時代中期にかけて、元興寺や興福寺に関係する人々、
また近在の人達が極楽往生を願って造立したものです。
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浮図田の西側には弁財天社があります。
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浮図田の南側に小子坊があり、現在は参拝者の休憩所として使われています。
創建時は東室南階大坊の北側に梁間の狭い小子坊が附属していました。
中世になって僧坊が書院化すると、小子房の一部を改築して、
北厨房あるいは台所と称されました。
江戸時代の寛永3年(1663)に現在の形に改修され、
極楽院庫裏として台所と呼ばれました。
昭和24年(1949)に本堂の南側に移転増築して極楽院保育所建物とし、
昭和35年(1960)に現位置に移築して復旧されました。
平成6年(1994)には西側に茶室「泰楽軒」が増築されました。
小子坊内部には北向土間不動尊が安置され、護摩供養が行われるそうです。
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裏側には庭園が築かれています。

西国三十三所観音霊場・第9番、西国四十九薬師霊場・第4番及び
神仏霊場・第16番札所である興福寺へ向かいます。
続く

興福寺(中金堂)

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興福寺の詳細についてはこちらをご覧ください。
昨年訪れた時はまだ中金堂は工事中でしたが、平成30年(2018)10月に完成し、
落慶法要が執り行われました。
創建1300年となる平成22年(2010)に着工され、江戸時代の
享保2年(1717)に焼失してから301年ぶりに、60億円の巨費を投じて
再建されました。
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中金堂は南向きに建ち、高さ21m、東西37m、南北23mで、
平城宮跡に復元された第一次大極殿とほぼ同じ規模を持っています。
享保2年(1717)の焼失後も文政2年(1819)に奈良町の人々の寄進により、
本来の建物より周囲1間を縮小した仮堂が建てられましたが、
明治4年(1871)に上知令により国に没収されました。
明治14年(1881)に興福寺の再興が許可され、仮堂は明治16年(1883)に
返還されましたが、安価な松材が多く使われたため、
荒廃が進み、平成12年(2000)に解体されました。
昭和50年(1975)に旧講堂跡に室町時代の薬師寺の旧金堂が移築され、
金堂の役割を果たしていましたが、今後は講堂として整備されるそうです。
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本尊の釈迦如来坐像は江戸時代末期の文化8年(1811)に造立されました。
左右には脇侍として薬王・薬上菩薩像が安置されています。
薬王菩薩立像は像高362cm、薬上菩薩立像の像高は360cmで、
像内墨書きから鎌倉時代の建仁2年(1202)に造立されたことが判明し、
国の重要文化財に指定されています。
享保2年(1717)の火災の際は、運び出されて難を逃れました。
釈迦如来の脇侍は文殊・普賢の両菩薩像を置くことが多いのですが、
薬王・薬上菩薩像を置くのは古い形とされています。
薬王・薬上菩薩は兄弟の菩薩で、共に人々に良薬を与え、
心身の病を平癒する菩薩です。
尚、本堂内の撮影は禁止されていますので、中金堂の階段下からの
撮影となります。
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須弥壇の四隅には四天王立像が安置されています。
像高は持国天206.6cm、増長天197.5cm、広目天200.0cm、
多聞天197.2cm、共に鎌倉時代の作で国宝に指定されています。
平成29年(2017)まで南円堂に安置され、同年東京国立博物館で開催された
「運慶展」後に、それまで仮講堂(旧中金堂)にあった
重文の四天王像と入れ替わる形で南円堂から中金堂に遷されました。
しかし、現在中金堂に安置されている四天王像も、
元は東円堂に安置されていた説があります。

神仏霊場・第19番札所である石上神宮(いそのかみじんぐう)へ
向かいます。
続く

石上神宮(いそのかみじんぐう)

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石上神宮は奈良県天理市にあり、旧社格は官幣大社で、
現在は神社本庁の別表神社となっています。
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鳥居には主祭神である「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」の
扁額が掲げられています。
布都御魂大神は御神体である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に
宿る神霊とされています。
建御雷神(たけみかずちのかみ)が、布都御魂剣を用いて
葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定したとされています。
神武東征の際、長髄彦(ながすねびこ)誅伐に失敗し、熊野山中で
危機に陥った時、高倉下(たかくらじ)が
神武天皇へ布都御魂剣を持参しました。
その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、
活力を得て後の戦争に勝利しました。
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参道を進むと社務所があります。
石上神宮は神仏霊場の第19番札所となっています。
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参道の右側に鏡池があります。
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鏡池を通り越した所に臥牛(がぎゅう)が祀られていますが、
境内に天満宮はありません。
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臥牛の右側に鳥小屋があり、鶏が飼育されています。
『古事記』の「天の岩戸開き」には高天原にある天の岩戸に天照大御神が
隠れてしまったために、世の中が暗闇に包まれたことが記されています。
天の岩戸から天照大御神を連れ出す対策が練られ、その一つに太陽の使いである
長鳴鳥を集めて、いっせいに鳴かして、夜明けを告げるという作戦がありました。
鶏は神道と関係の深い吉祥の鳥とされ、石上神宮では御神鶏として
境内に放たれています。
また、「天の岩戸開き」の際の長鳴鳥の止まり木が「鳥の居る木」として、
鳥居の語源になったとの説もあります。
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臥牛の先には西面に天神社、北面に七座社が祀られています。
天神社の祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と神皇産霊神
(かみむすびのかみ)で、「創造」を神格化した神とされています。
七座社の祭神は生産霊神(いくむすびのかみ)、足産霊神(たるむすびのかみ)、
魂留産霊神(たまつめむすびのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)、
御膳都神(みけつかみ=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、
辞代主神(ことしろぬしのかみ=事代主神)、
大直日神(おほなほひのかみ)が祀られています。
大直日神を除く七座社と天神社の祭神は、天皇を守護する八神で
現在でも皇居に祀られています。
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天神社から石段を上った所に摂社・出雲建雄神社の拝殿があり、
国宝に指定されています。
鎌倉時代の保延3年(1137)に、奈良県天理市にあった
内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守社である、
住吉神社の拝殿として建立されました。
内山永久寺は、東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺院でしたが、
明治の神仏分離令により廃寺となり、寺は破壊され貴重な寺宝も流出しました。
大正3年(1914)に破壊を免れた拝殿が、
出雲建雄神社の拝殿として移築されました。
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出雲建雄神社は草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である
 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)が祀られています。
飛鳥時代の朱鳥(あかみとり)元年(686)布留邑智(ふるのおち)という
神主が、ある夜、布留川の上に八重雲が立ちわき、
その雲の中で神剣が光り輝いている、という夢を見ました。
明朝その地に行ってみると、8つの霊石があって、神が
「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、
皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」 と託宣されたので、神宮の前の
岡の上に社殿を建てて祀られるようになったと伝わります。
草薙剣は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)とも呼ばれ、
三種の神器の一つで素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国で、
八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時に、大蛇の体内(尾)から
見つかった神剣です。
第12代・景行天皇(けいこうてんのう)の御代(在位:71~130年)に、
熊襲征討・東国征討に向かう日本武尊(やまとたけるのみこと)に託されました。
日本武尊の死後、草薙剣は妻の宮簀媛(みやずひめ)と尾張氏が尾張国で祀り続け、熱田神宮の起源となりました。
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出雲建雄神社の右側に猿田彦神社があります。
猿田彦神(さるたひこのかみ)を主祭神として、
底筒男神(そこつつのおのかみ)、中筒男神(なかつつのおのかみ)、
上筒男神(うわつつのおのかみ)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと
=神功皇后)、高靇神(たかおかみのかみ)が配祀されています。
江戸時代には、祭王御前・山上幸神・道祖神社などと呼ばれ、
現在地よりさらに東の山中に祀られていましたが、
明治10年(1877)に現在地に遷座されました。
その後、 明治43年(1910)に内山永久寺の鎮守社であった
住吉社の祭神が合祀されました。
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楼門は鎌倉時代末期の文保2年(1318)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
かっては鐘楼門でしたが、明治の神仏分離令により、梵鐘は売却されました。
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扁額「萬古猶新(ばんこゆうしん)」は山縣有朋(やまがたありとも)の
筆によるもので、「萬古のものでありながら、時を越えて新鮮さを失わない、
時の移ろいと共に消え行くものではなく、本当に大切なものは不変である」と
いう意味が込められています。
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楼門をくぐった正面にある拝殿は、国宝に指定されています。
永保元年(1081)に第72代・白河天皇が、石上神宮の鎮魂祭のために、
新嘗祭を行う宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたと伝わりますが、
現在の建物は鎌倉時代初期の建立と考えられ、日本最古の拝殿です。

拝殿の奥に本殿がありますが、「御本地」と呼ばれ、
禁足地のため立ち入ることはできません。
社伝によると、御神体である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)は、
物部氏の祖である宇摩志麻治命(うましまじのみこと)により宮中で
祀られていましたが、崇神天皇7年(BC91)に勅命により
物部氏の伊香色雄命(いかがしおこのみこと)が現在地の石上布留の高庭に遷し、「石上大神」として祀ったのが始まりとされています。
祭神として布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、布都斯魂大神
(ふつしみたまのおおかみ)が祀られています。
『日本書紀』や『古事記』にも記述が見られ、『日本書紀』に記された
「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば
日本最古に設立された神宮です。

かっては本殿が無く、「御本地」の中央に御神体の布都御魂剣と神宝が
埋斎されているとの伝承が残されていました。
明治7年(1874)に「御本地」の発掘が行われ、多くの曲玉や剣・矛などの
神宝と共に神剣「布都御魂剣」が出土しました。
その後、明治43年(1910)から大正2年(1913)にかけて本殿が建立され、
神剣「布都御魂剣」が奉安されました。

また、本殿の建設を行う前に明治8年(1878)に、その予定地の発掘調査が行われ、「天十握剣(あめのとつかのつるぎ)」と呼ばれる刀剣が出土しました。
天十握剣は素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国で、八岐大蛇
(やまたのおろち)を退治した時に使用した神剣で、八岐大蛇の尾を切った時、
天十拳剣の刃が欠けたので、尾を裂いて出てきたのが
天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)とされています。
天十拳剣は備前国赤坂郡にある石上布都魂神社
(いそのかみふつみたまじんじゃ)で祀られていましたが、
第10代・崇神天皇の御代(在位:BC97~BC30)に石上神宮に遷されました。
石上神宮では天十握剣に宿る神霊を布都斯魂大神
(ふつしみたまのおおかみ)として祀られています。

また、石上神宮では「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」
の起死回生の霊力を、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)として
祀られています。
饒速日命(にぎはやひのみこと)は天津神から「天璽十種瑞宝
あまつしるしとくさのみづのたから)」を授けられ、天磐船
(あめのいわふね)に乗って、河内の国の河上の哮(いかるが)峯に
天降ったとされています。
この天璽十種瑞宝は「十種神宝(とくさのかんだから)」とも称えられる、
十種類の神宝で、「亡くなられた人をも蘇らす」霊力を秘めています。
饒速日命の御子である宇摩志麻治命(うましまじのみこと)は、
初代・神武天皇と皇后の聖寿の長久を祈られる時、天璽十種瑞宝を用いて
鎮魂祭(みたまふりのみまつり)を斎行されました。
宇摩志麻治命は物部氏、穂積氏、采女氏(うねめうじ)の祖となりました。
物部氏の鎮魂は御魂を振動させる「御魂振り(みたまふり)」と
「玉の緒」を結ぶことが中心で、石上神宮では11月22日夜に
「鎮魂祭(ちんこんさい)」を、また節分前夜に
「玉の緒祭(たまのおさい)」が斎行されます。
「玉の緒」とは玉を貫きとめる緒(ひも)のことで、玉(たま)と
同音の「魂(たま)・命」を結び留めることを表しています。

石上神宮には古代、代々の天皇から奉納された兵仗(ひょうじょう)や
神宝が多数奉納されていました。
平安京に都を遷した第50代・桓武天皇は、それらを京都へ移しましたが、
天皇は病気になり、怪異が次々と起こったため、石上神宮に返還したと伝わります。
中世以降は興福寺と度々抗争を繰り返し、戦国時代には織田信長の勢力に負け、
社頭は破却され、神領も没収され、衰微していきました。
明治4年(1871)に官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許され、
現在は神社本庁の別表神社となっています。

神仏霊場・第20番札所の大和神社(おおやまとじんじゃ)へ向かいます。
続く

大和神社(おおやまとじんじゃ)

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大和神社(おおやまとじんじゃ)奈良県天理市にあり、旧社格は官幣大社で、
現在は神社本庁の別表神社となっています。
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社頭の由緒書きには日本最古の神社と記されています。
また、社標の台石は、かって神幸のときの神輿の台石として使われていたもので、
側面三方に各狭間が刻まれ、他の一面に陰刻銘があります。
中央に「大和大明神」、両側に「応永十四年(1407)三月廿日、
大施主桑門俊印」とあります。
石は、方形の花崗岩で高さ64cm、幅87cm。
寛政3年(1791)の
「大和名所図会」には一の鳥居中央下に描かれています。
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一の鳥居の先に二の鳥居が建っています。
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二の鳥居をくぐった左側に増御子神社(ますみこじんじゃ)があり、
猿田彦大神と天鈿女命(あまのうずめのみこと)が祀られています。
猿田彦大神は邇邇芸命(ににぎのみこと)が天降りする際に、
天の八衢(やちまた=道がいくつもに分かれている所)に立って
高天原から葦原中国まで道案内をしました。
邇邇芸命に随伴して天降った天鈿女命は、その後、猿田彦大神に
仕えるようになり、「猿女君(さるめのきみ)」と呼ばれるようになりました。
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参道を進んだ右側に「戦艦大和 ゆかりの神社」の石碑が建立されています。
戦艦大和には、大和神社の分霊が祀られていました。
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石碑に隣接して祖霊社があります。
明治7年(1874)1月9日に古代より代々に渡り、大和神社の祭祀を担ってきた
大和郷(朝和地区)氏子各家の祖霊を奉斎するために創建されました。
明治5年(1872)本殿三殿が造営され、大国魂神が祀られていた
本殿が現在地に移築され、祖霊社となりました。
昭和20年(1945)に沖縄沖で沈没した戦艦大和の亡くなった
乗員・2717名の英霊が合祀され、昭和47年(1972)には、
巡洋艦矢矧(やはぎ)並びに駆逐艦八隻の英霊985柱が合祀されました。
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祖霊社の向かいに戦艦大和展示館があります。
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館内には戦艦大和の模型が展示され、戦艦大和に関連する
資料が保存されています。
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参道の正面に拝殿があります。
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本殿は三殿からなり、中央に日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)、
向かって右側に八千戈大神(やちほこのおおかみ)、
左側に御年大神(みとしのおおかみ)が祀られています。

日本大国魂大神は、天照大神と共に宮中で祀られていましたが、
第10代・崇神天皇は二神の神威の強さを畏れ、国内情勢が不安になったのは、
二神を宮中で祀っているのが原因と考えました。
崇神天皇6年(BC24)、天皇は皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に
天照大神を託し、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀らせました。
天照大神は後に豊鍬入姫命から倭姫命(やまとひめのみこと)に引き継がれ、
伊勢の地に皇大神宮が創建されました。
日本大国魂大神は渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと)に託されましたが、
髪が落ち、体が痩せて祀ることができなくなりました。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)他二人は
共に同じ夢を見て、「日本大国魂大神を祀る祭主を
市磯長尾市(いちしのながおち)とすれば天下は平らぐ」と告げられました。
当初は現在の鎮座地の東方の山麓大市の長岡崎に創建されたと
記されていますが、その所在地は現在の桜井市や大和神社の神宮寺として
創建された長岳寺の辺りとするなど、諸説あります。
その後、現在地に遷座されましたが、その時期は明確ではありません。

八千戈大神とは大国主の別称で、国津神の代表的な神であり、
少彦名(すくなびこな)と協力して葦原中国の国作りを完成させました。

御年大神は大年神と香用比売(かよひめ)の間に生まれた神で、
穀物の神とされています。

奈良時代には遣唐使や使臣は、出発に際し、
大和神社へ参詣して航海の安全の祈願がされました。
市磯長尾市(いちしのながおち)の遠祖は、神武東征の際、
水先案内を務めた椎根津彦(しいねつひこ)で、大和神社は海人族が
祀る神として航海神としての神格を保持していたものと考えられています。
椎根津彦は神武東征の功により、神武天皇2年に倭国造
(やまとのくにのみやつこ)に任じられ、後世の大倭国(大和国)中央部に
あたる領域を支配しました。

寛平9年(897)には最高位である正一位の神階が授けられ、
『延喜式神名帳』では「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、
名神大社に列しました。
平安時代の初期までは伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて
隆盛しましたが、平安京へ都が遷されると衰微し、
中世には社領を全て失いました。
明治4年(1871)に官幣大社に列せられましたが、江戸時代に社殿が
寺院様のものに造り変えられていたので、官幣大社列格の際に
新たに社殿が造営されました。
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拝殿の右側に社務所があり、手前に授与所があります。
大和神社は神仏霊場の第20番札所となっています。
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本殿の右側に高靇神社(たかおかみじんじゃ)があります。
元は高靇神社の社地であった所に大和神社が遷ったという説があり、
『延喜式神名帳』には丹生川上神社下社は、この社の別宮と記されています。
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高靇神社の前、左側に右から朝日神社、事代主神社、厳島神社が並び、
朝日豊明姫命、事代主神、市杵島姫命が祀られています。
朝日神社はかって、佐保庄村観音寺境内にあり、「今妙見」と
呼ばれていましたが、明治8年(1875)に大和神社境内に遷されました。

次回は金閣寺から残っていた洛陽三十三所観音霊場の札所を巡ります。

金閣寺-その1

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金閣寺は山号を「北山(ほくざん)」寺号は正式には「鹿苑寺」と
号する相国寺の境外塔頭です。
室町幕府第三代将軍・足利義満の北山山荘を、義満の死後に寺としたもので、
義満の法号・鹿苑院殿にちなんで「鹿苑寺」と称されました。
義満の法号は釈迦が初めて説法をした所・「鹿野苑」によるものです。
平成6年(1994)にはユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の
構成資産に登録されています。
神仏霊場の第93番札所でもあります。
開門時間は午前9時ですが、既に数台の観光バスが駐車し、
門前には長い行列ができていました。
現在の駐車場にはかって、「北山大塔」と呼ばれる七重塔が建築されていました。
それに先立つ応永6年(1399)に義満は、相国寺に高さ109.1mの
七重塔を建立しました。
しかし、塔は応永10年(1403)に落雷により焼失し、
承応2年(1653)に後水尾上皇が大塔を再建されました。
その塔も天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地には
後水尾上皇の歯髪塚が残されています。
義満は相国寺七重塔の再建を目指し、応永11年(1404)にこの地で
七重塔の建立に着工したのですが、応永23年(1416)に
完成間近の塔に落雷があり、焼失しました。
平成27年(2015)の発掘調査で相輪の破片が見つかり、推定される直径から、
現存する東寺の五重塔(全高55m/相輪直径1.6m)の
相輪の高さは不明ですが、その1.5~2倍の高さがあったと推定されています。
総門は皇居から下賜されました。
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門をくぐって参道を進んだ北側に庫裏があり、
明応・文亀年間(1492~1504)の建物と考えられています。
昭和62年(1987)までは宿坊として使われていました。
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庫裡の先に方丈への唐門があります。
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庫裏の南側に鐘楼があり、梵鐘は鎌倉時代前期に鋳造されました。
西園寺家の家紋(巴紋)が入り、
その音色は「黄鐘調(おうじきちょう)」とされています。
鎌倉時代の元仁元年(1224)、この地には藤原公経(西園寺公経)が営む
広大な山荘「北山第(きたやまだい)」が造営されました。
境内に氏寺である西園寺が建立され、その寺名から
「西園寺」と称するようになりました。
南北朝時代の建武2年(1335)、七代目・公宗(きんむね)は、
後醍醐天皇を北山第に招き、暗殺を企てましたが発覚し、
処刑されました。
その後、北山第は衰微し、足利義満に譲られました。
足利義満は応永4年(1397)に荒廃していた北山第を、
改築や新築するなどして一新し、「北山殿」と称しました。
その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約され、
応永元年(1394)に子の義持に将軍職を譲った後も
北山殿で政務を執っていました。
義満のための北御所、夫人・日野康子のための南御所、後円融天皇の
母である崇賢門院のための御所、金閣と二層の廊下で繋がっていた
会所の天鏡閣、泉殿など数多くの建物が建ち並んでいました。
崇賢門院の姉妹の紀良子は義満の生母になります。
義満は応永11年(1404)から明との間で勘合貿易を開始し、
莫大な利益を得ました。
明の使者は度々北山殿に訪れています。
応永15年(1408)に義満が亡くなり、相国寺塔頭の鹿苑院に葬られましたが、
明治の廃仏毀釈で鹿苑院は廃寺となり、
現在では義満の墓所は定かではありません。
第4代将軍・足利義持は父・義満とは不仲で、北山殿に住んでいた
異母弟の義嗣を追放し、北山殿に入りました。
義嗣は義満から偏愛され、義満の後継者になると見られていましたが、
義満の急死により、後継者を遺言されることも無く、
将軍職は義持に引き継がれることになりました。
義嗣は応永23年(1416)に関東で起こった「上杉禅秀の乱」に乗じて
神護寺へ出奔しましたが、乱への関与を疑われ、
応永25年(1418)に義持により殺害されました。
義持は応永16年(1409)には北山殿の一部を破却し、
祖父の2代将軍・足利義詮(あしかが よしあきら)の住んでいた
三条坊門邸(京都市中京区)へ移り、北山殿は日野康子の居所となりました。
応永26年(1419)に日野康子が亡くなると、北山殿には舎利殿(金閣)、
護摩堂、法水院が残され、天鏡閣は南禅寺へ、寝殿は南禅院、
懺悔胴は等持寺、公卿の間は建仁寺へ移築されました。
応永27年(1420)に北山殿は義満の遺言により禅寺とされ、
夢窓疎石を開山とし、義満の法号「鹿苑院殿」から
「鹿苑寺」と称されました。

拝観受付で拝観料400円を納め、先へ進みます。
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庫裡の東側に本堂に相当する方丈があります。
方丈は安土・桃山時代の慶長7年(1602)に建立され、江戸時代の
延宝6年(1678)に後水尾天皇の寄進により建て替えられました。
平成17年(2005)から平成19年(2007)まで解体修理が行われました。
仏間には本尊の聖観音菩薩坐像が安置されています。
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南側に縁があり、その前に庭園が築かれています。
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方丈の西側の「陸舟(りくしゅう)の松」は、義満が盆栽として育てていた
松を移植し、帆掛け船の形に仕上げたと伝えられています。
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金閣は応永5年(1398)に舎利殿として建立されました。
創建当初は池の中にあり、北にあった天鏡閣と空中の廊下で繋がっていました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)では西軍の陣が敷かれ、
焼失は免れましたが、二層の観音像や、三層に安置されていた
阿弥陀如来と二十五菩薩像などが失われました。
また、庭園の樹木の大半が伐採され、池の水量も減っていました。
江戸時代の慶安2年(1649)に金閣の修復が行われ、
以後「金閣寺」と呼ばれるようになりました。
昭和25年(1950)7月2日未明、学僧の放火により金閣は全焼しました。
学僧は寺の裏山で自殺を図りましたが一命を取り留め、事情聴取のために
京都に呼ばれた母親は、その帰りに保津峡で投身自殺しました。
現在の金閣は、明治37年~39年(1904~6)の解体修理の際に作成された、
旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、
昭和27年(1952)3月22日から3年を掛けて復元再建されました。
焼失前と再建された金閣には細部に若干の違いがあり、現在は第二層にも
金箔が張られていますが、焼失前には見られず、
創建時に張られていたかも諸説あります。
焼失前に第二層の東面と西面の中央に窓がありましたが、
再建後は東面と西面は全て壁となりました。
昭和61年(1986)2月から1年8ヶ月かけて行われた「昭和大修復」では、
総工費約7億4千万円を投じて漆の塗り替えや金箔の貼り替え、
天井画の復元等が施されました。
金箔は通常の厚さの5倍ある「五倍箔」が約20万枚使用され、
その総量は約20kgにもなるそうです。
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屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで、屋頂には銅製鳳凰が置かれています。
鳳凰及び「究竟頂(くっきょうちょう)」の扁額は、火災以前に
取り外されていたため焼失を免れ、鳳凰は京都市の文化財に
指定されています。
現在の鳳凰は2代目で、焼失を免れた鳳凰は別に保存されています。
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初層は「法水院(ほっすいいん」と呼ばれ、寝殿造りで
遊芸や舟遊びができる釣殿でもありました。
金箔は張られず、素木仕上げで白壁造りとなっています。
正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、江戸時代に須弥壇が設けられ、
壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左側に義満坐像が
安置されています。
義満は応永元年(1394)に将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居し、
翌年には出家して道義と号しましたが、政治上の実権は
握り続けていました。
この坐像は法服をまとっています。
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第二層は仏堂で「潮音洞(ちょうおんどう)」と呼ばれ、武家造りの仏間風で、
初層と通し柱が使われ、平面は同じ大きさになり、
構造的にも一体化しています。
四方には縁と高欄が巡らされ、外面と高欄には全面に金箔が張られ、
内壁と床は黒漆塗が施されています。
西側に仏間があり、須弥壇上に観音菩薩坐像(岩屋観音)、
須弥壇周囲には四天王像が安置されています。
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第三層は後小松天皇の宸筆による「究竟頂」の扁額が掲げられ、
究極の極楽浄土を表しています。
初層、第二層よりも一回り小さく、禅宗様仏堂風の方3間・1室で、
天井や壁を含め内外ともに金箔が張られ、床は黒漆塗で、
内部には仏舎利が安置されています。
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西側には池に張り出して「漱清(そうせい)」が設置されています。
創建時、足利義満はここで手水を使い、金閣へ上がったと伝わります。
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鏡湖池(きょうこち)は、その名の通り、金閣を池に映し、
金閣を一段と際立たせています。
2,000坪の鏡湖池を中心とした庭園全体28,000坪は、
昭和31年(1956)7月19日に国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
かっては、現在の1.5倍の広さがあったのですが、明治の上地令により
縮小され、また、寺領の多くも失われ、経済的基盤が脆弱となったことから
明治27年(1894)から庭園及び金閣を一般に公開し、
拝観料を徴収して寺の収入源としました。
池にある最大の葦原島には北側と南側及び島の中に三尊石が組まれています。
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その他にも入亀島、出亀島、鶴島などの島々や、畠山石、赤松石、
細川石など、諸大名から寄進された奇岩名石が数多く配されています。

不動堂へ向かいます。
続く

金閣寺-その2

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金閣の北側から参道を進んだ所に「銀河泉」と呼ばれる清水が湧き出ています。
茶を好んでいた義満はこの湧水を茶の湯に使ったとされています。
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「銀河泉」の先にある「巌下水(がんかすい)」と呼ばれる湧水は
義満が手水に使ったとされています。
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「巌下水」の先にある石段は橋ではありませんが中国の故事
虎渓三笑」に因んで「虎渓橋」と呼ばれています。
中国・江西省北部の廬山にある東林寺に住した慧遠 (えおん) は、
客を見送る際も寺の前を流れる虎渓に架かる橋を渡りませんでした。
ある日、二人の客が訪れ、見送る時にも話に夢中になって、
気が付いた時には橋を渡っていました。
三人が大笑いしたことから「虎渓三笑」と呼ばれ、三人はそれぞれ、
仏教・儒教・道教を意味し、三教の一致を説いた逸話ともされています。
石段の左右の竹垣は「金閣寺垣」と呼ばれ、左右で組み方が異なっています。
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「虎渓橋」の先に西園寺家の遺構である高さ2.3mの龍門滝があります。
滝の下に直立するように配された石は「鯉魚石(りぎょくせき)」と
呼ばれ、滝を登る鯉の姿を表しています。
「鯉は滝を登ると龍になる」という中国の伝説になぞらえて、
中国の故事から「登龍門」のことわざが生まれ、
鯉のぼりの風習にもなりました。
「成功へといたる難しい関門を突破した」ことを意味しています。
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龍門滝の先に石仏が祀られていますが、かってこの辺りに天鏡閣がありました。
天鏡閣は二層の会所で、金閣と二層の空中廊下で繋がっていたと伝わります。
また、天鏡閣の北側に泉殿が建てられていました。
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石仏から東へ坂を登った所に西園寺家の遺構である
「安民澤(あんみんたく)」と呼ばれる池があります。
池中の島には西園寺家の鎮守とされている「白蛇の塚」と
呼ばれる石塔が建っています。
白蛇は弁財天の使いとされ、水の神でもあります。
日照りが続いても池の水は枯れることが無く、雨乞いの場ともされていました。
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かっては安民澤から水が引かれていたと思われる澤の跡が残されています。
西園寺家の時代には高さ45尺(13.6m)の滝が築かれていたと伝わります。
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安民澤の南側から金閣が望めます。
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安民澤から南へ進んだ所に茶室「夕佳亭(せっかてい)」があります。
江戸時代に金閣寺を復興した鳳林承章(ほうりんじょうしょう)が
後水尾上皇のために、茶道・宗和流の祖である金森宗和に造らせました。
数奇屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が殊(こと)に佳(よ)いという
ことからこの名が付けられました。
明治元年(1868)に焼失し、現在の建物は明治7年(1874)に再建されたものです。
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夕佳亭には「即休」の扁額が掲げられ、南天の床柱が使用されています。
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これは何か?...不明です。
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夕佳亭の前には、室町幕府第八代将軍・ 足利義政遺愛の
富士形手水鉢があります。
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「貴人榻(きじんとう)」は昔、高貴な人が座られた腰掛石で、
室町幕府から移されました。
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夕佳亭から下って行った所に不動堂があります。
鎌倉時代の嘉永元年(1225)に西園寺公経(さいおんじ きんつね)に
よって西園寺護摩堂として創建されたと伝わり、堂内に
石不動(いわふどう)尊をまつる石室があり、
建物はその礼堂として建立されました。
その後、足利義満の北山殿の時代からは不動堂と呼ばれるように
なりましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
天正年間(1573~1592)に宇喜多秀家により再建されました。
鹿苑寺に残る最古の建物でもあります。
本尊は弘法大師作と伝わる等身大の不動明王立像の石仏で、
秘仏とされ毎年2月の節分と8月16日に
開扉法要(かいひほうよう)が営まれます。
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不動堂の裏側には荼枳尼天を祀る祠があります。

神仏霊場・第96番札所の今宮神社へ向かいます。
続く

今宮神社

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金閣寺から北大路通を東へ進み、「今宮門前」の信号を左折した所に、
本来は大鳥居が建っていましたが、平成29年(2017)10月の台風で南に傾き、
棒で支える応急処置がとられていました。
平成30年(2018)夏の大阪北部地震や相次ぐ巨大台風の接近などで
危険を感じた神社は、計画を前倒しして鳥居を撤去しました。
いずれ再建されると思われますが、狛犬だけが残されています。
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北大路通からの参道の正面にある楼門は大正15年(1926)に建立されました。
古地図には北大路通からの参道は描かれていないので、
明治末年から大正初年に掛けての沿道整備計画により北大路通が完成し、
その後、参道が整備され、楼門が建立されたと思われます。
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手水舎は「お玉の井」と称され、元禄7年(1694)に
桂昌院の寄進により造られました。
手水盤は、京都西町奉行の小出淡路守 守里から寄進されました。
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東門の前にはかっての門前町の名残を留めています。
右側(北側)の「一和」は、長保3年(1002)に
一文字屋和輔 (いちもんじやわすけ)によって創業された日本最古の茶店で、
名物の「あぶり餅」が販売されています。
長保3年(1001)に疫病が流行したことから、朝廷は疫神を祀った社に
神殿・玉垣・神輿を造らせて今宮社と名付けました。
疫病退散の祈願には竹が使われ、餅が供えられました。
和輔がそれらを参拝者にふるまったのが「一和」の始まりで、
「あぶり餅」は疫病除けの餅とされています。
また、広隆寺の名物だった「勝餅(おかちん)」を、和輔が今宮神社に
奉納したのが始まりとの説もあります。
店内には井形を組まない直径3mの井戸があり、市内で最古とされ、
今も水が湧き出ています。
但し、現在はその井戸の水は使われていません。

左側(南側)の「かざりや」は江戸時代初期の創業と伝わります。
時間が早かったため、どちらの店も営業前でした。
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東門はかっての正門ですが、江戸時代の再建と思われます。
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門をくぐった先に「神橋」が架かっています。
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橋を渡った左側に神馬舎があります。
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神馬舎の西側にある宗像社には、宗像三女神の多紀理姫命(たきりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が
祀られています。
社殿は元禄7年(1694)に桂昌院の寄進により造営されましたが、
古い様式が残され、以前から祀られていたようです。
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市杵島姫命は弁財天と同一視され、台座には弁財天の神使いとして
約60cmのナマズが描かれています。
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神輿庫には「あぐい神輿」、「鷹神輿」、「大宮神輿」の
三基が納められています。
大宮神輿は文禄3年(1593)に豊臣秀吉の奇進によって造営されたと伝わり、
元禄7年(1694)に桂昌院の寄進により修復されました。
八角形八面の御屋根には菊の御紋四面と豊臣家の家紋、
五三の桐四面となっています。
神輿の大きさと重量及び芸の技を集め尽くした豪奢(ごうしゃ)さは
京都一とされています。
毎年5月5日の「今宮祭」で神輿の巡行が行われます。
「今宮祭」は平安時代の「紫野御霊会」を起源とし、官祭として営まれてきました。
4月に「今宮祭」に先んじて行われる「夜須礼(やすらい)祭」の行装が
華美に過ぎため、久寿元年(1154)に勅命によって禁止されました。
それに伴い「今宮祭」も衰え、鎌倉時代の末期に一時復興したものの、
応仁の乱、戦国の兵乱後は神社の荒廃とともに「今宮祭」も再び衰退しました。
江戸時代になって、桂昌院の寄進や経済的に発展した西陣の氏子衆により
「今宮祭」が復興され、現在に至っています。
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神輿庫の先に不明な建物があり、その奥に授与所があります。
今宮神社は神仏霊場の第96番札所です。
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不明な建物の前方に「力石」がありますが、持ち上げるのは無理だそうで、
試してはいません。
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「力石」から西へ進むと桂昌院のレリーフが建立されています。
今宮神社は鎌倉時代の弘安7年(1284)に正一位の神階が授けられ、
室町時代には第11代将軍・足利義高により社殿の造営がなされ、
第12代将軍・足利義春は神輿を新造するなど、朝廷・民衆・武家からの
厚い崇敬を受けていました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1478)の兵火により焼失し、
その後の戦乱で荒廃しました。
文禄2年(1593)に豊臣秀吉により今宮社の御旅所が再興され、
神輿一基が寄進されました。
元禄7年(1694)には桂昌院により社殿が造営され、神領が寄進されました。
また、途絶えていた「やすらい祭」を復活され、「今宮祭」には、
御牛車・鉾などを寄進され、御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、
中興の祖となりました。
桂昌院は寛永5年(1628)に西陣の八百屋の次女に生まれ、
「玉」と名付けられました。
その後、関白・二条光平の家政を掌る本庄宗利の養女となり、
関白家の鷹司孝子に仕えました。
やがて孝子が将軍家光に入嫁するのに伴われて江戸城に入り大奥で
仕えているうち、春日の局に認められて家光の側室となり、
後に5代将軍となる綱吉の生母となりました。
慶安4年(1651)に家光が亡くなると落飾して大奥を離れ、
筑波山知足院に入り、4代将軍・家綱が逝去され延宝8年(1680)に
綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入りました。
元禄15年(1702)2月には女性最高位の従一位の官位を賜っています。
宝永2年(1705)6月に79歳で逝去され、東京都港区の増上寺に埋葬されました。
また、善峰寺金蔵寺の復興にも尽力され、
善峰寺と金蔵寺には遺髪を納めた桂昌院廟があります。
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参道に戻ると、正面に拝殿があります。
元禄7年(1694)に造営され、弘化3年(1846)に改修されました。
毎年5月1日に今宮祭に出御する神輿3基が倉から拝殿に上げられる
「神輿出し」が行われます。
拝殿の上部には平成17年(2005)に奉納された、
西陣織の「三十六歌仙」が掲げられています。
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拝殿の正面に幣殿及び本殿があります。
現在の社殿は明治29年(1896)の火災で焼失した後、
明治35年(1902)に再建されました。
東御座に事代主命(ことしろぬしのみこと)、中御座に
大己貴命(おおなむちのみこと)、
西御座に奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)が祀られています。
高天原を追放され、出雲に降り立った素盞嗚尊は、
八岐大蛇(やまたのおろち)の生贄にされそうになっていた
奇稲田姫命と出会いました。
美しい奇稲田姫命が愛しくなった素盞嗚尊は、奇稲田姫命との結婚を条件に
八岐大蛇の退治することにしました。
素盞嗚尊の神通力によって奇稲田姫命は湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に
姿を変えられ、その櫛を髪に挿した素盞嗚尊は、
「天十握剣(あめのとつかのつるぎ)」を用いて八岐大蛇を退治しました。
その後、現在の須我神社(すがじんじゃ)の地に宮殿を建て、移り住みました。
二神は八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)を産み、その子孫が
大己貴命(大国主命)です。
事代主命は大国主命の御子神で、国譲りの際、
大国主命から託されて了承しました。
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本殿の左側に疫神を祀る摂社の疫(えやみ)神社があり、
素盞嗚尊が祀られています。
今宮神社が創建される以前からこの地で祀られていたとされています。
古来疫病除けの神として崇められ、諸国に悪疫が流行すると風流の装いを
凝らして詣で、鎮静安穏を祈願する習わしがあり、
「夜須礼(やすらい)」と呼ばれていました。
平安京に都が遷され、都市として栄える一方で、疫病や洪水が発生する
などの災厄に悩まされていました。
これを鎮めるため神泉苑御霊社祇園社、今宮社など各地で
盛んに御霊会が営まれました。
正暦5年(994)に都で起こった大規模な疫病のために朝廷は
神輿2基を造って船岡山に安置し、音楽奉納などを行った後、
疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流しました。
民衆の主導で営まれたこの御霊会は「紫野御霊会」と呼ばれ、
今宮祭の起源とされています。
長保3年(1001)に疫病が流行した際、朝廷は疫神を船岡山から遷し、
疫神を祀った社に神殿・玉垣・神輿を造らせて今宮社と名付けられました。
既に祇園社で疫神が祀られていたため、祇園今宮の意味で「今宮」と称しました。
社殿には大己貴命、事代主命)、奇稲田姫命の三柱の神が創祀されました。
疫病が流行する度に「紫野御霊会」が営まれ、やがて「今宮祭」として
定着するようになり、平安時代から鎌倉時代は官祭として執り行われていました。
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疫神社前の西側に織姫社があります。
江戸時代に氏子である西陣織の機織り家によって創建されました。
祭神は栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、七夕伝説の織女に
機織を教えたとされ、織物の祖神とされています。
高皇産霊神(たかみむすびのみこと)の御子神で、天照大神の御子神である
天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)の妃となり、天火明命
(あめのほあかりのみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の母となりました。
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疫神社の前方に古くから神占石として信仰されている「阿呆賢さん」と
呼ばれる奇石が祀られています。
「病弱な人はこの石に病気平癒を祈って石を撫で、その手で身体の悪い所を
摩れば健康の回復を早める」と記されています。
また、「重軽石」とも云われ、先ず掌で三度かるく石を打って持ち上げる、
次に願い事を込めて三度の掌で撫でて持ち上げます。
先より軽く感じれば願い事が成就すると伝えられています。
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境内の西側に大国社・蛭子社・八幡社・熱田社・住吉社・香取社・
鏡作社・諏訪社を祀る「八社」があります。
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八社の左側に八幡社があり、石清水八幡宮と同じ祭神の応神天皇、
比大神(ひめおおかみ)、神功皇后が祀られています。
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八幡社の左側に大将軍社があり、牛頭天王(ごずてんのう)と
八大王子が祀られています。
牛頭天王は素盞嗚尊と同一神とされ、素盞嗚尊の五男三女が
八大王子とされています。
都を鎮護するため、平安京の四方に大将軍社が建立され、
その一つの大徳寺門前に祀られた社が遷されました。
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大将軍社の左側に日吉社があり、日吉大社の祭神が祀られています。
明治元年に今宮神社の産土(うぶすな)の地「上野村」に祀られていた
上ノ御前、下ノ御前の両社が合祀されました。
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若宮社の拝殿
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日吉社の左にある若宮社は三社が祀られています。
中央はかって、鷹峯に鎮座していた愛宕社を現在の愛宕山に遷した際、
分霊として祀られたと伝えられています。
右の加茂斎院は、元々は賀茂大神に奉仕する歴代天皇の未婚の皇女
(斎王)の館のことで、かっては今宮神社の近くにあったと伝わります。
建暦2年(1212)に加茂斎院が廃止され、その後、総鎮守の今宮社に
歴代斎王の御霊を祀るため遷されました。
左の若宮社は「薬子の変」に処罰された御霊を鎮めるため祀ったと伝わります。
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若宮社の向かいに、島のように造成された所に紫野稲荷社が祀られています。
伏見稲荷大社と同じく素盞嗚尊の御子神である
宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)が祀られています。
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紫野稲荷社の右側に織田稲荷社があり、織田信長とその家臣が祀られています。
天正10年(1582)に本能寺の変で倒れた信長とその家臣は、
上京区元伊佐町にあった阿弥陀寺に葬られました。
その後、豊臣秀吉の都市改造により現在の上京区鶴山町に移され、
その跡地に織田稲荷社が創建されましたが、
昭和62年(1987)に現在地に遷されました。
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境内の西、石畳の坂道を登った中腹に地主稲荷社、その先の石段を上った
正面に月読社がありますが、台風により石鳥居が不安定となったため、
参拝は坂の下からとなります。
地主稲荷社には倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)・
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)が、月読社には
月読尊(つきよみのみこと)が祀られています。
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画像を撮り忘れましたが、絵馬舎は寛政12年(1800)に建立されました。
内部には奉納された絵馬が掲げられ、神馬の像が祀られています。

花山天皇陵へ向かいます。
続く

花山天皇陵

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今宮神社から北大路通まで南進し、北大路通を西へ進んで西大路通の
一つ手前を左折して南へ進み突き当りを右へ曲がった先に
花山天皇陵があります。
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「花山天皇 紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)」と
記されています。
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花山天皇は安和元年10月26日(968年11月29日)に冷泉天皇の
第一皇子として誕生しました。
母は摂政太政大臣・藤原伊尹(ふじわら の これただ)の娘で女御の
懐子(かいし/ちかこ)です。
安和2年(969)に冷泉天皇の同母弟である守平親王に譲位されて、
第64代・円融天皇として即位すると生後10ヶ月足らずで皇太子となりました。
永観2年8月27日(984年9月24日)、円融天皇から譲位され、
17歳で第65代・花山天皇として即位しました。
花山天皇に仕えていた藤原惟成(ふじわら の これなり)が従五位上に昇進し、
伊尹の五男・藤原義懐(ふじわら の よしちか)と共に天皇を補佐し、
荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など革新的な政治を行いました。
寛和元年(985)7月18日に女御の藤原忯子(ふじわら の しし)が、
懐妊していたのですが、17歳で亡くなりました。
翌寛和2年(986)6月22日、天皇は藤原忯子の死を悲しみ、
19歳で宮中を出て元慶寺で出家したとされています。
一方で、『大鏡』には藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひと)親王
(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたと記されています。
藤原兼家の娘・詮子(せんし/あきこ)は円融天皇の女御となり、
懐仁親王を産みました。
花山天皇が即位すると懐仁親王は東宮に立てられ、
花山天皇が退位すると次期天皇となる地位を得ました。
そこで兼家は三男の道兼に、藤原忯子の死を悲しんでいた花山天皇に、
出家を勧めるように命じました。
兼家は家来の武士に警護させ、花山天皇と共に宮中を出て元慶寺へ向かい、
まず天皇が剃髪し出家したのを見届けてから、道兼は
「出家する前の姿を最後に父に見せたい」と言い残して去ってしまいました。
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出家後の花山法皇は比叡山で修行した後、書写山性空上人
河内石川寺(叡福寺)の仏眼上人中山寺の弁光上人を伴って
那智山に入り、那智の滝壺で千日の滝籠りを行ったと伝わります。
また、中山寺で徳道上人が石棺に納めた三十三ヶ所の観音霊場の宝印を
探し出し、270年間途絶えていた観音霊場の巡礼を復興させました。
法皇が各霊場で詠まれた御製の和歌が御詠歌となっています。
晩年の十数年間を花山院で過ごした後、京都に戻り京都御苑の敷地内に
あった花山院で、寛弘5年(1008)2月に崩御されました。
京都の花山院は、花山院家の所有となり、東京奠都まで存続したそうですが
現在は廃され、その跡地には宗像神社が残されています。

神仏霊場・第94番札所である平野神社へ向かいます。
続く

謹賀新年

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謹賀新年
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午前7:26、京都では穏やかな初日の出を迎えました。
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うっすらと霜も降りていましたが、
寒さはそれほど厳しくはなく、
今年が穏やかな一年であるように祈りました。
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上空には三日月も見られました。

平野神社

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花山天皇陵から西へ進み、西大路通へ左折して南へ進んだ所に平野神社があり、
神仏霊場の第94番札所となっています。
平安京遷都に伴い、平城京からこの地へ遷され、平安時代中期には伊勢、
賀茂(上賀茂・下鴨)、石清水、松尾に次ぐ名社に数えられていました。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、
月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されています。
明治4年(1871)5月に官幣大社に列せられ、
現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
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鳥居をくぐると秋なのに桜が咲いていました。
寛和元年(985)4月10日に花山天皇が桜を手植えされたのをはじめ、
各公家伝来の桜が奉納されたことから、境内には約50種、約400本の
桜が植えられており、桜の名所となり、
毎年4月10日には桜花祭が行われています。
桜花祭では花山天皇陵へ参拝し、午後からは時代行列が氏子地域を巡行します。
また、江戸時代には「平野の夜桜」として知られるようになり、
現在も続いています。
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参道を進みます。
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石畳の参道の先は左へ曲がっていますが、右側の先に南門があります。
南門は慶安4年(1651)に御所の門が下賜され移築されました。
かっては東の表参道にありましたが、昭和17年(1942)に
南門として現在地に移されました。
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表参道の方へ進みます。
かって、南門があった所には、現在は鳥居が建立され、
「平野皇大神(ひらのすめらのおおかみ)」の扁額が掲げられています。
「平野皇大神」とは現在の平野神社の主祭神
「今木皇大神(いまきのすめおおかみ)」の古称です。
第50代・桓武天皇の生母である高野新笠(たかの の にいがさ)の
祖神として、今木神が平城京で祀られていましたが、
古くは平野神と呼ばれていました。
平安京遷都に伴い、平野社も現在地に遷されました。
扁額は西洞院文昭(にしのとういんよしあき)氏の
揮毫(きごう)によるもので、第26代当主・西洞院時慶
(にしのとういん ときよし)は親王家、摂家、寺社、武家などの奏請を
天皇に伝え奏する「伝奏」の職に就き、平野神社の本殿を建立しました。
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鳥居から神門、拝殿、本殿と一直線状に続いていますが、
平成30年(2018)9月4日神戸市に上陸し、近畿地方を横断した
台風21号により拝殿が倒壊しました。
拝殿は慶安3年(1650)に東福門院の寄進により建立され、
京都府の文化財に指定されていました。
「接木(つぎき)の拝殿」と呼ばれ、接木によって組み立てられ、
釘は使用されていません。
内部には公卿・平松時量(ひらまつ ときかず)により寄進された
「三十六歌仙絵」が掲げられていました。
この「三十六歌仙絵」は寛文年間(1661~1672)に
海北友雪(かいほう ゆうせつ)によって描かれ、
書は公卿・近衛基前(このえ もとひさき)によりしたためられました。
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拝殿があった左側に楠の大樹が聳えています。
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楠の大樹の下には「すえひろがね」と呼ばれる餅鉄(べいてつ)の
石が祀られています。
高さ約80cm、重量約200㎏の日本最大級の餅鉄で、成分は60%以上が
酸化鉄で、砂鉄より不純物が少なく鉄にしやすいとされています。
かつては、たたら製鉄などの古代製鉄で使用され、砂鉄と並ぶ重要な
原料として盛んに採集、利用され、日本刀の材料にもなります。
磁鉄鉱なので磁石につき、授与される「授かる守」の中には磁石が入っており、
「すえひろがね」の霊石に引っ付けて霊力を得るとされています。
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拝殿があった右方向に八幡社が祀られています。
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八幡社の左側には、右から鈿女(うずめ)社、蛭子(ひるこ)社、
住吉社、春日社が祀られています。
鈿女社は天鈿女命(あまのうずめのみこと)が祀られ、岩戸隠れで
天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になった時にストリップを
踊った神で、芸能の守護神とされています。
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拝殿があった正面には幣殿があり、
その奥に二殿一体となった南北二棟の本殿が並んでいます。
平安京に遷された際は、主祭神の今木皇大神(いまきのすめおおかみ)の他、
久度大神(くどのおおかみ)、古開大神(ふるあきのおおかみ)が
祀られていました。
承和3年(836)から承和10年(843)の間に比売大神(ひめのおおかみ)が
合祀され、4柱が祀られるようになりました。
久度神は、国史の延暦2年(783)に「平群郡久度神」との初見があり、
平群郡(へぐりぐん)の久度神社で祀られていた竈の神とするなど諸説あります。
古開神は古関神との記載も見られ、国史での初見は承和3年(836)で、
文献では「久度・古開」と一対として扱われています。
平野社関係記事にしか見えない神であり、渡来神であり久度神と共に久度神社に
祀られたとする説や、久度神と元は同一であったとする説などがあります。
比売神は高野新笠の母方の祖神を祀ったとする説や、
高野新笠を指すとする説があります。
これらの神々は「皇大御神」「皇御神」とも称され、天元4年(981)に
円融天皇の行幸があり、以後も天皇の行幸が度々行われ、
皇室の守護神として崇敬されるようになりました。
また、今木神は源氏、久度神は平家、古開神は高階氏(たかなしうじ)、
比売神は大江氏、縣社は中原・清原・菅原・秋篠氏の氏族から氏神として
崇敬されるようになりました。
室町時代になると応仁・文明の乱(1467~1478)の兵火により焼失し、
天文5年(1536)には延暦寺が京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山を焼き払い、
大火となって下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失し、
平野神社も焼失しました。
その後荒廃し、江戸時代の寛永年間(1624~1644)に第107代・後陽成天皇の
勅許により公卿・西洞院時慶(にしのとういん ときよし)が本殿を
造営するなど社殿の修造を行いました。
慶安2年(1649、またはその翌年とも...)に第108代・後水尾天皇の
中宮・東福門院により拝殿や玉垣などが建立されました。

本殿は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」、または社名から
「平野造(ひらのづくり)」と称され、国の重要文化財に指定されています。
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本殿の左側に縣神社があり、天穂日命(あめのほひのみこと)が
祀られています。
天穂日命は天照大御神の第二子とされ、葦原中国平定のために
出雲の大国主命の元に遣わされましたが、大国主命に心服して
地上に住み着き、3年間高天原に戻りませんでした。
現在の社殿は寛永8年(1631)に造営された後、昭和12年(1937)に
大修理が施され、京都府の文化財に指定されています。
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本殿前の右近の橘。
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左近桜は、「衣笠」と呼ばれる平野神社原木の桜です。
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八重紅枝垂桜
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神門を出た北側に桜池があります。
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桜池に架かる橋を渡った先に出世稲荷神社があります。
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出世稲荷神社の右方向に猿田彦神社があります。

神仏霊場・第95番札所の北野天満宮へ向かいます。
続く

北野天満宮-その1

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平野神社の東鳥居を出て東へ進んだ所に北野天満宮の北門があります。
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北門の前には織物の名工で明治25年(1892)に亡くなった
伊達弥助氏の顕彰碑が建立されています。
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北門を入った東側に「文子天満宮(あやこてんまんぐう)」 があります。
菅原道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、
延喜3年(903)に道真が左遷された大宰府で亡くなった後に、
「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けました。
しかし、貧しくて社殿を建立することができなかった文子は、
右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀り、
これが北野天満宮の始まりであり、天神信仰の発祥とされています。
文子の住居跡であった京都市下京区に道真と文子を祀る文子天満宮神社
創建され、文子天満宮神社は現在も残されています。
明治6年(1873)に文子天満宮は、右近の馬場があった現在地に遷されました。
また、文子天満宮は北野天満宮に遷される以前に西ノ京に遷され、
京都市上京区には文子天満宮舊址(きゅうせき)が残されています。
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東門は切妻造り、銅葺きの四脚門で国の重要文化財に指定されています。
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東門を入った南側に長五郎餅を売る茶店があります。
天正年間(1573~1593)に河内長五郎が、餡(あん)を
羽二重餅でくるんだ菓子を、北野天満宮の境内で参拝者に
振る舞ったのが始まりで、餡入り餅の祖とされています。
天正15年(1587)に豊臣秀吉が北野で催した北野大茶湯で、この餅が
茶菓子として使われ、秀吉から高く評価されて「長五郎餅」の名を賜りました。
その後は、明治維新まで皇室の御用達となり、小松宮家や山階宮家と
いった各宮家からも重宝されました。
明治維新の際、京都詰めとなった諸国の大名により全国にひろめられました。
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東門の北側にある茶室の「明月舎」では、北野大茶湯を祈念して、
毎月1日と15日に献茶会が催されています。
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「明月舎」の前に「竈社」があり、庭津彦神、庭津姫神、
火産霊神(ほむすびのかみ)が祀られています。
かっては、天満宮の御供所のかまどに祀られ、当時使われていた
大釜が社殿の床下に納められています。
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東門の先にある手水舎には「撫で牛」が祀られています。
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本殿
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拝殿
現在の社殿は慶長12年(1607)に建立されたもので、国宝に指定されています。
拝殿と本殿の間は「石の間」と呼ばれる石畳の廊下で接続され、
本殿の西には脇殿を、拝殿の左右には「楽の間」が連結された
日本最古の八棟造(権現造)の建物になっています。
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唐破風や黄金色に輝く装飾、数々の精緻な彫刻が施されています。
延喜3年(903)に菅原道真が左遷された大宰府で没すると、
都では落雷などの災害が相次いで起こりました。
これは道真の祟りだとする噂が広まり、朝廷は道真の没後20年後に
左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈りました。
天慶5年(942)に多治比文子が道真の託宣を受けると、その5年後に
近江国の比良宮の神主・神良種(みわのよしたね)の子・太郎丸も
同様の託宣を受けました。
天暦元年6月9日(947)、当時この地にあった朝日寺(現在の東向観音寺)の
僧・最鎮らは朝廷の命を受け、道真を祀る社殿を造営し、
朝日寺は神宮寺となりました。
天徳3年(959)頃、藤原師輔(ふじわら の もろすけ)は自分の屋敷の
建物を寄贈して、壮大な社殿に作り替えました。
永延元年(987)に第66代・一條天皇は勅使を遣わして国家の平安を祈願し、
「北野天満宮天神」の勅号を贈りました。
正暦4年(993)に正一位・右大臣・太政大臣が追贈され、
寛弘元年(1004)には一條天皇の行幸があり、
代々皇室の崇敬を受けるようになりました。
鎌倉時代から隆盛していた酒屋は麹造りにまで取り組み、
麹屋は北野社の神人(じにん)身分を得て「麹座」を結成しました。
北野麹座は応永26年(1419)には、京都全域における麹の製造販売の
権利一切を幕府から獲得しました。
酒屋の座の中には延暦寺を本所とするものがあり、延暦寺はこれに反発し、
延暦寺の訴えにより幕府は北野麹座の独占権の廃止を認めました。
北野麹座に属する神人らが北野社に立てこもった為、管領・畠山持国は
文安元年4月13日(1444年5月14日)に兵を北野社に差し向け、北野社を含む
一帯が炎上し、幕府側によって鎮圧されました。(文安の麹騒動
この麹騒動以降、北野社は一時衰退しましたが、豊臣秀吉は
天正15年(1587)10月1日に北野大茶湯を催し、天正19年(1591)には
境内の西側に「御土居」を築いて社領602石を安堵しました。
慶長12年(1607)、豊臣秀頼は片桐且元(かたぎり かつもと)を
造営奉行として現在の社殿を造営しました。
江戸時代では徳川家により社領が安堵され、また学問の神としての
信仰も集め、寺子屋などで天満宮の分霊が祀られるようになりました。
明治4年(1871)に官幣中社に列せられましたが、「宮」を名乗ることが
できなくなり、「北野神社」と改称されました。
戦後は神社本庁の別表神社に列せられ、「北野天満宮」に戻されました。
神仏霊場の第95番札所となっています。

本殿には主祭神として菅原道真が祀られています。
大宰府に左遷された道真が、福岡県筑紫野市にある
天拝山(てんぱいざん)に登り、無実を訴える祭文
(さいもん=祭りの際に神にささげる願文)を読上げると、
「天満大自在天神」と尊号が書かれた祭文が下りてきたとの
伝承が残されています。
延喜3年(903)2月25日に道真が亡くなると、京都には異変が相次ぎます。
延喜5年(905)頃に道真の霊を鎮めるために、醍醐天皇は
藤原仲平に命じて大宰府に廟を建立して安楽寺としました。
しかし、延喜9年(909)に道真と対立し、事実を曲げた告げ口で道真を左遷へと
追いやった藤原時平が39歳で病死すると、延喜13年(913)には
道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣・源光(みなもと の ひかる)が
狩りの最中に泥沼に沈んで溺死しました。
延喜23年(923)に醍醐天皇の第二皇子で皇太子の
保明親王(やすあきらしんのう)が21歳で薨去(こうきょ)され、
保明親王の第一王子・慶頼王(やすよりおう)が皇太子に立てられましたが、
2年後に僅か5歳で薨去されました。
醍醐天皇は自らが下して左遷に追いやった道真の祟りであるとして、
道真を右大臣に戻し正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄しました。
しかし、それでも台風・洪水・疫病と災厄は収まらず、
延長8年(930)6月には内裏の清涼殿に落雷が発生し、
公卿を含む複数の死者が出ました。
これを見た醍醐天皇は病に臥し、3ヶ月後に醍醐天皇の
第11皇子・寛明(ゆたあきら)親王(第61代・朱雀天皇)に譲位し、
その7日後に崩御されました。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられ、
朝廷は火雷神が祀られていた北野の地に北野天満宮を建立し、
道真を祀るようになりました。
また、安楽寺の廟は安楽寺天満宮(大宰府天満宮)に改修されました。

相殿には中将殿と吉祥女が祀られています。
中将殿は道真の長男・高視(たかみ)を指し、
昌泰の変(しょうたいのへん)では父に連座して
延喜元年(901)に土佐へ左遷されました。
5年後に帰京が許されましたが、延喜13年7月21日(913年8月25日)に
38歳で病死しました。
吉祥女は道真の正室・島田宣来子(しまだ の のぶきこ / せきこ)を
神格化した神で、吉祥天と習合したとされています。
道真が大宰府への左遷後も京都に留まったとされていますが、
その後の動向や死亡時期については定かではありません。
一説では娘たちと共に岩手県一関市へ落ち延びたとされ、墓が残されています。
宣来子は延喜6年(906)に道真の訃報を聞くと悲しみに暮れて病に伏し、
同年に亡くなったとされています。
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拝殿の前に向かって右に松が植えられています。
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左には梅が植えられています。
梅の木は樹齢400年以上とみられ、「飛梅伝説」の原木とされています。
菅原道真は屋敷内の庭木の内、日頃から梅の木・桜の木・松の木を
とりわけ愛でていました。
藤原時平との政争に敗れて大宰府へ左遷されることとなった道真は、
これらの木と別れを惜しみ、梅の木に
「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな)
 主なしとて 春を忘るな」と語りかけるように詠みました。
道真が去った後、桜は悲しみの余り枯れてしましたが、
梅と松は道真の後を追い空を飛びました。
松は途中で力尽き、摂津国八部郡板宿(現・兵庫県神戸市須磨区板宿町)
近くに降り立ち、この地に根を下ろしました。
飛松伝説」と呼ばれ、降り立った岡は「飛松岡」と呼ばれています。
梅は大宰府まで飛んで行き、大宰府天満宮の御神木として祀られています。
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松の前方にある石灯籠は、渡辺 綱(わたなべ の つな)が寄進した
ものとされています。
『平家物語』剣巻では、源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が、
夜中に一条戻橋の東詰を通りかかると、美しい女性から、
「夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしい」と頼まれました。
綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、
それを引き受け馬に乗せました。
すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで
愛宕山の方向へと飛び立ちました。
綱は鬼の腕を太刀で切り落とすと、北野社の回廊に落ち、
屋根は破れましたが命は救われました。
後日、渡辺綱は北野社の加護に感謝をこめて石灯籠を寄進したとされています。
また、切り落とした鬼の腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の
屋敷に置かれていたのですが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされています。
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本殿の西側に摂社・末社17社が祀られた社殿があります。
北端の福部社は、菅原道真の舎人(とねり)で、牛の世話役だった
十川能福(そごう の のうふく)が祀られています。
福部社の南側の高千穂社には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と
天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祀られています。
北から三番目の安麻神社(あまじんじゃ)には道真の息女が祀られ、
四番目の御霊社(みたましゃ)には天満大自在天神の
眷属神の御霊が祀られています。

南端の大判事社には秋篠安人が祀られています。
秋篠安人は菅原道真の祖祖父である菅原古人の兄弟で、
古人が菅原姓へ改めたのに対し、安人の一族はその居住地
(大和国添下郡秋篠)から「秋篠」姓を賜りました。
南から二番目の三位殿社には菅原在良、三番目の和泉殿社には
菅原定義、四番目の宰相殿社には菅原輔正が祀られています。
菅原在良は道真の曾孫で、菅原定義は道真から六代目、
菅原輔正は定義の子です。
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境内の北西角に昔、天狗が住んでいたとの伝承がある天狗山があり、
その麓に「牛舎」があります。
撫でると一つだけ願いが叶うという「一願成就のお牛さん」が祀られています。
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「牛舎」の奥に絵馬掛所があります。
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本殿の裏側には「裏の社」があり、「御后三柱(ごこうのみはしら)」と
して天穂日命(あめのほひのみこと)、
菅原清公(すがわら の きよきみ/きよとも)、
菅原是善(すがわら の これよし)が祀られています。
菅原氏の遠祖は、古代豪族の土師氏(はじし)で、天穂日命の末裔と伝わる
野見宿禰(のみのすくね)が殉死者の代用品である埴輪を発明しました。
野見宿禰は、第11代・垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を与えられ、
曾孫の身臣(みのおみ)は第16代・仁徳天皇より土師連姓を賜りました。
天応元年(781)、桓武天皇が第50代天皇として即位すると、
菅原古人や一族15名は、居住地である大和国添下郡菅原邑に因んで
菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、これが認められました。
菅原古人の四男が菅原清公で、道真の祖父に当り、清公の四男が
菅原是善で道真の父親となります。
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本殿の裏側には14社が並ぶ社殿があります。
西端の崇道天皇(すどうてんのう)社には、崇道天皇が祀られています。
早良親王(さわらしんのう)は桓武天皇の実弟で、皇太子でしたが、
長岡京遷都の翌延暦4年(785)、建都の長官・藤原種継が暗殺され、
それに関与したとみなされました。
暗殺団と見られた一味と交流のあった早良親王は乙訓寺
監禁されたのですが、流罪処分となり淡路島に護送途中、
現・大阪府守口市の高瀬神社付近で亡くなりました。
その後、桓武天皇の第一皇子・安殿親王(あてのみこ=
後の第51代・平城天皇(へいぜいてんのう))が皇太子に立てられましたが
発病し、更に桓武天皇の后も病死しました。
その後も桓武天皇と早良親王の生母・高野新笠(たかの の にいがさ)の
病死など疫病が流行し、洪水の発生などの災難が続きました。
これは早良親王の祟りだとして桓武天皇は、延暦13年(794)に平安京へ
都を遷し、延暦19年(800)には親王に崇道天皇の追称を贈り霊を
鎮めようとしました。

西から三番目の桜葉社は、右近の馬場の千本桜の女神とされる
桜葉大明神が祀られています。
また、伊予親王と同体とされ、親王は異母兄の平城天皇への謀反の疑いを
かけられて川原寺の一室に幽閉され、飲食を止められましたがその後、
自殺しました。

桜葉社の右側の白太夫社は、豊受大神宮(外宮)・神官家出身の
渡会春彦(わたらい の はるひこ)を神格化した白太夫大明神が祀られています。
道真の父・菅原是善が安産祈願を託した神官で、後に道真の守役となり、
大宰府までお供しました。
渡会春彦は若いころから白髪でお腹が太かったことから
「白太夫」とよばれていました。
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14社の社殿の右側の老松社は、天満大自在天神の眷属第一の神である
老松大明神が祀られています。
老松大明神は菅原道真の家臣(牛飼)だった島田忠興
(しまだ の ただおき)を神格化した神で、
生前に、天拝山に登る道真の笏(しゃく)を持ちお供したとされています。
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老松社の右側に地主神社があり、天神地祇(てんじんちぎ)が祀られています。
『続(しょく)日本後紀』に「承和3年(836)2月1日に遣唐使のために
天神地祇を祀る」と記され、北野天満宮の創建以前からこの地に祀られており、
社殿は新しいですが境内最古の社となります。
楼門からの参道は、正面に本殿は無く、地主神社を避けるように
建てられています。
相殿には敦実親王(あつみ しんのう)、斎世親王(ときよ しんのう)、
源英明朝臣(みなもと の ひであきら あそん)が祀られています。
斎世親王は宇多天皇の第三皇子で、菅原道真の娘を妃としていました。
醍醐天皇に譲位した宇多法皇は、醍醐天皇が藤原時平と相談して
その妹である藤原穏子(ふじわら の おんし/やすこ)の入内を
進めていたことに反発していました。
藤原氏との連携によって政権の安定を図ろうとしていた醍醐天皇の耳に、
宇多法皇が斉世親王を皇太弟に立てようとしているという噂が入りました。
醍醐天皇は、道真が斉世親王に譲位させようとしたとの嫌疑をかけ、
道真を大宰府に左遷し、その直後に斉世親王は出家しました。

源英明朝臣は斉世親王の子で、幼年時代は不遇でしたが、16歳で従四位、
翌年侍従に叙せられました。
醍醐天皇に仕え、右近衛中将・左近衛中将を経て、延長5年(927)には
蔵人頭に任ぜられました。

敦実親王は宇多天皇の第八皇子で、藤原時平の娘を妻としていましたが、
天暦4年(950)に出家して法名を覚真と称し、仁和寺に住しました。

一の鳥居へ向かいます。
続く

北野天満宮-その2

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拝殿の南側正面に三光門(中門)があります。
慶長12年(1607)に豊臣秀頼により現在の社殿が建立された際に
現在の三光門が建立され、国の重要文化財に指定されています。
梁間に三光となる日輪・月輪・三日月が彫刻されていますが、
星は彫刻されていません。
平安京では御所は現在の二条城付近に造営され、帝が天満宮に向かって
祈りを捧げられる際、三光門の真上に北極星が輝いていたことから
星の彫刻は省かれ、「星欠けの三光門」とも呼ばれています。
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扁額「天満宮」は第111代・後西天皇の筆によるものです。
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三光門の両側に重文に指定されている回廊があり拝殿へと結ばれていますが、
現在工事中です。
東の回廊前に織部灯篭があります。
茶人・古田織部が考案した石灯篭で、その原型は古田織部の墓
(京都市上京区の興聖寺)にあったと伝わります。
マリア像が彫られ、「マリア灯篭」とも「切支丹灯篭」とも呼ばれています。
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三光門の西側には庭園が築かれ、その奥に紅梅殿があります。
道真の邸宅・紅梅殿に因み、大正6年(1917)に調理所として本殿の西側に
建立されましたが、平成26年(2014)夏に現在地に移築されました。
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また、庭園は道真の邸宅・紅梅殿の庭を復元したものとされています。
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庭園には連歌所の井戸があります。
かって、北野天満宮には連歌所があり、室町時代から江戸時代にかけては
盛んに連歌会が行われ、毎月18日には月次会が行われました。
連歌を献じて神の御意を慰めることを法楽といい、北野天満宮では
「聖廟法楽」と称され毎月25日に催されていました。
「聖廟法楽」の連歌の席には天神像がかけられ、
朝廷をはじめ広く庶民にも親しまれていました。
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庭園の奥に豊国神社(とよくにじんじゃ)、一夜松神社、
野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ)の相殿があります。
野見宿祢神社はかっては一之保神社(いちのほ じんじゃ)で祀られていましたが、明治元年(1868)に遷座されました。
野見宿祢は菅原氏の遠祖であり、第11代・垂仁天皇に仕えていました。
天皇の命により当麻蹴速(たいまのけはや)と角力(相撲)をとり、
これに勝利して蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を
与えられました。
垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の時、
それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、
土師臣(はじのおみ)の姓を与えられました。
以後、土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなりました。
石材を加工する際に使われる道具の「ノミ」と野見は関連があると
考えられています。
第50代・桓武天皇は道真の祖父である菅原古人の一族15名に、
居住地である大和国添下郡菅原邑に因んで菅原姓(菅原宿祢)への
改姓を認めました。
桓武天皇の母方の祖母は土師氏の出身で、その娘で天皇の生母である
高野新笠(たかの の にいがさ)も土師氏の里で幼少期の桓武天皇を
養育したと見られています。

豊国神社には豊臣秀吉が祀られています。
秀吉は北野天満宮を厚く崇敬し、境内地で北野大茶湯を催され、
天満宮本殿の造営を遺命とされました。
現在の社殿は秀吉の遺志を継いだ秀頼により建立されました。

一夜松神社には一夜千松の霊が祀られています。
一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、「私の魂を祭るべき地には
一夜にして千本の松を生じさせる」という道真のお告げによって、
この一帯に生えた松に宿る神霊とされています。
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一之保神社(いちのほ じんじゃ)と奇御魂神社(くしみたま じんじゃ)には
菅原道真と道真の奇御魂が祀られています。
大宰府に残された道真手作りの木造を西ノ京神人(じにん)が持ち帰り、
西の京(京都市中京区南西部天満宮の氏子区域)北町に建てた
小さな社に納め、これを「安楽寺(あんらくじ)天満宮」と称して
祀られていました。
西ノ京神人とは俗体をもって北野に奉仕する団体です。
明治6年(1873)7月21日に現在地に遷されました。

「奇御魂」とは、駒札には「さまざまな不思議や奇跡をよびおこす
特別な力を持った神霊のことで、鎌倉時代の中頃、菅公のご神霊が、
東福寺の開祖・圓爾国師(えんにこくし)の前に現れ『私はこのたび宋に飛び、
一日にして禅の奥義(おうぎ)を修得した』と告げられました。
その時 菅公は唐衣(からころも)をまとい手に一輪の梅の花を
持たれていたため、以来このお姿を『渡唐(ととう)(宋)天神』と
称え祭るようになった。」と記されています。

画像はありませんが、境内の南西には稲荷神社と猿田彦神社があり、
絵馬所の西側に大杉社と宗像社があります。
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三光門の手前、参道の東側に火之御子社があり、火雷神が祀られています。
北野天満宮の創建以前の元慶4年(880)頃に藤原基経が、
この地に「北野雷公」と称して祀ったとされています。
藤原基経は元慶3年(879)から数年をかけて、
約50年ぶりに班田収授を実施しました。
班田収授とは戸籍・計帳に基づいて、政府から受田資格を得た貴族や
人民へ田が班給され、死亡者の田は政府へ収公されるというもので、
飛鳥時代の大宝元年(701)に大宝律令の制定により定められました。
雷神に雨を祈り五穀豊穣を祈願する一方で
落雷による災難除けの神として祀られました。
基経は元慶3年(879)には道真の父・菅原是善らと、文徳天皇の代である
嘉祥3年(850)から天安2年(858)までの8年間の歴史書『日本文徳天皇実録
(にほんもんとくてんのうじつろく)』の編纂を行い、
全10巻を完成させました。
また、元慶4年(880)に太政大臣に任ぜられています。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられ、朝廷は火雷神が
祀られていた北野の地に北野天満宮を創建したとされています。
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火之御子社の南側に白太夫社があり、
渡会春彦(わたらい の はるひこ)が祀られています。
道真の父・菅原是善が安産祈願を託した豊受大神宮(外宮)の神官で、
道真誕生後は道真の守役として仕え、大宰府までお供しました。
渡会春彦は若いころから白髪でお腹が太かったことから
「白太夫」とよばれていました。
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火之御子社の向かいに老松社があり、島田忠興(しまだ の ただおき)が
祀られています。
島田忠興は菅原道真の家臣(牛飼)とも、夫人の父であったとも伝わります。
大宰府に左遷された道真が、自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し、
天を拝した伝わる天拝山に、道真の笏(しゃく)を持って
お供したとされています。
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老松社の南側に福部社があり、十川能福(そごう の のうふく)が
祀られています。
十川能福は道真に仕えた舎人で牛車を引く牛の世話係でした。
名前から転じて、いつの頃からか「福の神」として
信仰されるようになりました。
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三光門から参道を南下した突き当りに絵馬所があります。
元禄12年(1699)に建立されたもので、規模、歴史は現存する
絵馬所のなかでも随一とされ、京都市の文化財に指定されています。
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絵馬所から東へ進んだ先にある手水舎は「梅香水」と称されています。
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手水舎の北側に宝物殿があります。
宝物殿には国宝「北野天神縁起絵巻」など、皇室をはじめ、
公家や武家より奉納された宝物が展示されています。
毎月25日とその他期間限定の開館となります。
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宝物殿の南側に校倉の収蔵庫があります。

画像はありませんが、宝物殿の北側に神楽殿があります。
神楽殿では毎月25日に神楽舞が奉納されます。
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宝物殿から南下した所に楼門があります。
建立された年代は不明ですが、本殿と同じ頃と思われます。
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楼門には随身が門番をしています。
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門には「文道大祖 風月本主(ぶんどうの たいそ ふうげつの ほんしゅ)」と
記された扁額が掲げられています。
大江匡衡(おおえの まさひら)の筆で、菅原道真を称えたものです。

楼門の付近に太閤井戸がありますが、見落としてしまいました。
天正15年10月1日(1587年11月1日)、この年の7月に九州平定を終えた
豊臣秀吉は、聚楽第の造営を行うと共に、北野大茶会(きたのだいさのえ)を
催し、その際使われた井戸です。
北野天満宮の拝殿を3つに区切り、その中央に黄金の茶室を持ち込み、
茶頭として千利休津田宗及今井宗久が招かれました。
当日は京都だけではなく大坂・堺・奈良からも身分の差無く大勢の
参加者が駆けつけ、総勢1,000人にも達したと伝わります。
しかし、当初10日間開催される予定が、初日のみで中止されました。
秀吉が大勢の人に茶をたてるのに疲れてしまったや、当日の夕方に
肥後国人一揆が発生したという知らせが入ったため中止されたなど
諸説あります。
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楼門から少し南下した所に伴氏社(ともうじ しゃ)があります。
神社前の石鳥居は鎌倉時代のもので、国の重要美術品に指定されています。
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伴氏社には菅原道真の母が祀られています。
大伴氏は天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、「大伴」は、
宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていたことに因んでいます。
平安時代の弘仁14年(823)に大伴親王が第53代・淳和天皇として即位すると、
その諱(いみな)を避けて、一族は「伴(とも)」と氏を改めました。
道真の母は伴真成(とものまさしげ)の娘とされ、貞観14年(872)正月14日に
亡くなりました。
伴氏社にはかって、石造りの五輪塔がありましたが、
明治の神仏分離令後に東向き観音寺に遷されました。
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伴氏社の南側に三の鳥居が建立されています。
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三の鳥居の南側の牛の像には子牛が寄り添っています。
境内には多数の臥牛の像が奉納されています。
菅原道真は承和12年(845)の乙丑(きのとうし)年の生まれで、
延喜3年(903)に大宰府で亡くなられた際には遺骸は「人にひかせず
牛の行くところにとどめよ」と遺言されました。
遺骸が載せられた牛車を引いていた牛は安楽寺の付近で動かなくなり、
道真は安楽寺に葬られました。
後に安楽寺の廟は朝廷により安楽寺天満宮(大宰府天満宮)に改修されました。
これらの故事から牛は天満宮の「神使い」とされています。
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二の鳥居の先で参道は右へカーブしています。
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一の鳥居の前の狛犬は高さが約5mあり、府内最大の大きさです。

一の鳥居をくぐった先の左側あり、洛陽三十三所観音霊場・第31番札所の
東向観音寺へ向かいます。
続く

東向観音寺

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東向観音寺は山号を朝日山と号する真言宗泉涌寺派の準別格本山で、
洛陽三十三所観音霊場の第31番札所となっています。
寺伝では平安時代初期の延暦25年(806)に桓武天皇の勅願により、
大納言・藤原小黒麻呂(ふじわら の おぐろまろ)及び法相宗の
僧・賢憬(けんけい)が朝日寺として創建しました。
天暦元年6月9日(947)、朝日寺の僧・最鎮らは朝廷の命を受け、
菅原道真を祀る社殿(北野天満宮)を造営し、朝日寺は神宮寺となりました。
応和元年(961)に筑紫の観世音寺より菅原道真自作の
十一面観音を招来して新たに本尊として安置されました。
応長元年(1311)には無人如導宗師によって中興され、
寺名は観世音寺または観音寺と改められました。
本堂の観音堂は東向きと、一夜松の観世音菩薩を祀る西向観音堂も
建立されていましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
以後西向観音堂は再建されませんでした。
東向観音堂のみが再建され、「東向観音寺」と称されるようになりました。
慶長12年(1607) 、豊臣秀頼により北野天満宮の再建がなされた際に、
東向観音寺の本堂も再建されました。
江戸時代に入ると一条家の祈願所となり、一条家出身で明治天皇の
皇后となった昭憲皇太后は結婚する以前に当寺で勉学に
励まれたと言われています。
また、江戸時代の後期頃より寺名は、「観音寺」となりました。
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現在の本堂は、豊臣秀頼により再建された後、元禄7年(1694)に本堂の前に
礼堂と本堂と礼堂をつなぐ造合が増築され、権現造りのようになっています。
平成13年(2001)4月1日に京都市の有形文化財に指定されています。
本尊は道真自作の十一面観音像ですが、
秘仏とされ25年に一度しか開帳されません。
次回の予定は2027年になります。
本堂には他に大聖歓喜天、束帯天神、無人如導宗師像などが安置されています。
また、礼堂には不動明王、弘法大師、地蔵菩薩、愛染明王、毘沙門天、
吉祥天、妙見菩薩、韋駄天、伽藍神像などが安置されています。
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本堂前に安置されているのは賓頭盧尊者像でしょうか?
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岩雲弁財天は豊臣秀頼が本堂を再建された時に、
鎮守社として寄進されました。
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行者堂の詳細は不明です。
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土蜘蛛塚には土蜘蛛灯篭が祀られています。
この灯篭は元は七本松通一条あって、土蜘蛛が住んでいた所と伝わります。
明治になってこの塚の発掘調査が行われ、この灯篭が発見されました。
この灯篭はある人が貰い受け、庭に飾っていましたが、家運が傾き、
土蜘蛛の祟りだとして東向観音寺に奉納されました。
土蜘蛛とは、上古の日本で朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを指し、
背が低く、山野に石窟(いわむろ)・土窟・堡塁を築いて住んでいたことから、
妖怪のようにみなされ、「土蜘蛛」と呼ばれていました。
また、土蜘蛛には伝説が残されています。
大江山の酒呑童子を討ち取った源頼光は病にかかり高熱に苦しんでいました。
枕元に蜘蛛のように地を這い、口から糸を吐き出す妖怪が現れ、
頼光を襲いました。
頼光は「膝丸」と呼ばれる名刀で立ち向かうと妖怪は逃げ出しました。
妖怪が残した血痕をたどると北野の塚穴に辿り着き、
穴から大蜘蛛が這い出してきました。
頼光は大蜘蛛を鉄串で串刺しにして退治しました。

土蜘蛛塚の背後にある五輪塔は金売吉次(かねうりきちじ)の
墓とされています。
北野天満宮の東、馬喰町にあった高林寺が明治5年(1872)に廃寺となり、
高林寺にあった五輪塔が遷されました。
金売吉次は奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、
源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされています。
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伴氏廟(ともうじびょう)は菅原道真の母の墓とされていますが、
諸説あります。
明治の神仏分離令により北野天満宮の境内から遷され、
天満宮にはその跡地に伴氏社が建立されました。
また、高さ4.5mの五輪塔は「忌明塔(きあけのとう)」とも呼ばれ、
古来から忌明の日にこの塔に参拝する習わしがありました。
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百衣観音堂は元禄7年(1694)に建立され、堂内には明暦元年(1655)に
明国(中国)の陳元贇禅師(ちんけんびんぜんし)から寄進された
高王白衣観世音菩薩像が安置されています。
中国・漢の高王がこの観音像に祈願して子を授かったとされています。
また、堂内には一條家大政所殿が元禄年間(1688~1704)に寄進された
西国三十三所観音像三十三体を祀られています。
御厨子は徳川3代将軍・家光の長女の千代姫により寄進されました。

新西国三十三所観音霊場の第16番及び京都十三仏・第8番霊場の
千本釈迦堂(大報恩寺)へ向かいます。
続く

上七軒~北野経王堂願成就寺

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北野天満宮の東側にある御前通を北上した所に「上七軒歌舞練場」があります。
上七軒(かみひちけん)は、室町時代に北野天満宮の再建の際に残った
資材を使って7軒の茶店を建てたことが始まりで、
「上七軒」の由来にもなっています。
天正15年10月1日(1587年11月1日)に豊臣秀吉が
北野大茶会(きたのだいさのえ)を催した際に、
茶店側は団子を献上したとされています。
また、西陣の隆盛と共に花街としての上七軒も繁栄しました。
しかし、第二次大戦後はお茶屋の大半が転廃業し、西陣織産業の衰退もあり、
お茶屋や芸妓、舞妓が減少しました。
上七軒歌舞練場は明治30年代に建築、その後増築され
昭和26年(1951)に現在の形となりました。
上七軒歌舞練場では毎年3月25日から4月7日にかけて
「北野をどり」が上演され、
夏季にはビアガーデンの営業もあり、
本物の芸妓・舞妓が浴衣姿でもてなしているそうです。
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上七軒歌舞練場の北側に湯豆腐・湯葉料理の「桜井屋」があります。
江戸時代の後期より天満宮参道で営業していましたが、
明治時代に現在地に移転しました。
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北野天満宮の東門前の五辻通を東へ進んだ所に北野経王堂願成就寺があります。
南北朝時代の元中8年/明徳2年(1391)に山名氏清、山名満幸ら
山名氏が室町幕府に対して反乱を起こしました。(明徳の乱
その前年には山名氏の内紛の際に、第3代将軍・足利義満の命を受け、
氏清と満幸は山名時熙(やまな ときひろ)と山名氏之(やまな うじゆき)を
討伐しました。
その結果、氏清と満幸の勢力が強まり、それを恐れた義満の挑発に乗って
氏清と満幸は挙兵することになりました。
氏清と満幸は討ち取られ、幕府軍の勝利となりましたが、義満は
氏清と満幸やその一族のかっての功労や武勲を重んじて、
その供養のために大施餓鬼を修しました。
これには近畿、中国、四国、中部の僧や庶民が宋版一切経を手本として写経し、
その後に「万部経会」「北野経会」の起源となりました。
応永8年(1401)には北野社の境内に東山三十三間堂の倍半の大堂を建立し、
「北野経王堂願成就寺」と名付けました。
毎年10月には10日間に亘って万部経会や仏典書写などの仏事を行い、
供養しました。
この行事は「北野経会」と呼ばれ、京洛最大の行事となり、
代々の幕府に引き継がれていました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失したかは不明ですが、
慶長12年(1607) 、豊臣秀頼により北野天満宮の再建がなされた際に
北野経王堂願成就寺も再建されています。
正面57.57m、奥行き48.48mの大規模なものでしたが、その後衰退し、
寛文11年(1671)に解体縮小されて小堂となり、仏像及び
一切経五千余巻などが本寺である大報恩寺(千本釈迦堂)へ運ばれました。
明治の神仏分離令により、北野天満宮の仏教建築の破壊が行われ、
北野経王堂願成就寺は明治3年(1870)に大報恩寺境内に移築されました。
昭和27年(1952)に大報恩寺の本堂が解体修理され、
寛文11年(1671)に解体縮小された北野経王堂願成就寺の古材が
本堂の部材として一部使われていたことが判明しました。
現在の北野経王堂願成就寺は
昭和31年(1956)にその部材を使用して再建されたものです。
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堂前には山名氏清の武勲を讃え、山名矩豊(やまな のりとよ)により
「山名陸奥太守氏清之碑」が建立されています。
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不動明王堂には山名氏清と山名宗全の念持仏であった
不動明王像が安置されています。
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稲荷社は鎌倉時代の建長2年(1250)に大報恩寺二世・如輪上人により、
賀茂、春日、石清水、日吉、今宮の五社と共に勧請されました。

大報恩寺の本堂へ向かいます。
続く

大報恩寺(千本釈迦堂)

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大報恩寺は山号を瑞応山(ずいおうざん)と号する真言宗智山派の寺院で、
通称の千本釈迦堂として知られています。
特に毎年12月7~8日に催される「大根炊き」は、
京都の師走の風物詩として有名です。
また、新西国三十三所観音霊場の第16番及び
京都十三仏・第8番霊場の札所にもなっています。
大報恩寺は鎌倉時代初期の承久3年(1221)に義空上人によって開創されました。
義空上人は出羽の人で藤原秀衡の孫に当り、比叡山で澄憲(ちょうけん)から
天台宗を学びました。
当初は藤原光隆の従者であった岸高なる人物から寄進された領地に、
草堂を建てた簡素なものでした。
安貞元年(1227)に摂津国尼崎の材木商の寄進を受け、
現存する本堂の上棟が行われました。
義空上人は正式な寺院として四条天皇へ寺格の申請を行い、
嘉禎元年(1235)に俱舎(くしゃ)・天台・真言と三つの宗派の認可を受け、
その道場となりました。
文永年間(1264~1274)には二世・如輪により伽藍の整備が行われました。
また、『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人
これを始められけり」と記されています。
旧暦2月15日亥の刻(午後9時)~丑の刻(午前3時)まで
念仏が唱え続けられました。
現在では3月22日の14時から催され、この日は自由に参加することができます。
三世・慈禅上人(じぜんしょうにん)は、釈迦が悟りを開いた
12月8日を祝う成道会(じょうどうえ)を創始しました。
法要の後に4本の大根を縦半分に切って8本とし、切り口に釈迦の
種子(梵字)を書いて供え、参詣者への「悪魔除け」とされました。
その後「悪魔除けの大根」は、他の大根と一緒に炊き上げて、参詣者に
振る舞われたのが「大根炊き」のはじめと言われています。
現在では毎年12月7~8日の両日に法要が行われ、「大根炊き」は
信徒の尽力により継承されています。
室町時代、応仁・文明の乱(1467~1477)では西軍の中心地となり、
伽藍は焼失しましたが、本堂は奇跡的に焼失を免れました。
西軍を率いた山名宗全の計らいがあったとも伝わります。
しかし、応仁・文明の乱で寺領を失い、衰微しましたが天正19年(1591)に
豊臣秀吉から寺領の替地100石を与えられました。
江戸時代の初期から智積院の能化の隠居所として護持され、
真言宗智山派に改宗されました。
享保15年(1730)に発生した「西陣焼け」とも呼ばれる大火では、
本堂だけは類焼を免れました。
明治3年(1870)に北野経王堂願成就寺が北野天満宮の境内から、
当初は観音堂として移築されました。
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本堂は創建当初のもので、京都市内最古の木造建築物として
国宝に指定されています。
応仁・文明の乱でも焼失は免れましたが、堂内の柱には刀や槍などによる
傷跡が残されています。
寛文9年~10年(1669~1670)の大修理では、末寺であった
北野経王堂の部材と瓦が使われ、屋根が瓦葺に改められました。
昭和26年~29年(1951~1954)に行われた解体修理工事で、
旧北野経王堂願成就寺の古材が一部、本堂の部材として
使われていたことが判明しました。
昭和31年(1956)に本堂に使われた部材などで
北野経王堂願成就寺が再興されました。

本堂の須弥壇内にある高御座式(たかみくらしき)の厨子内には
像高89cmの釈迦如来坐像が安置されています。
快慶の弟子・行快による鎌倉時代の作とされ、国の重要文化財に
指定されていますが、秘仏とされています。
須弥壇にある奥の壁、表裏2面には鎌倉時代に図が描かれ、
国宝に指定されています。
残念なことに両面とも損傷が多く、相当な部分が剥がれ落ちているため、
図の全容を知ることは出来無い状態です。

画像はありませんが霊宝殿には十大弟子立像 10躯、六観音像 6躯、
銅造釈迦誕生仏、千手観音像などが安置され、
いずれも国の重要文化財に指定されています。
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境内の東側に「おかめ塚」があり、宝篋印塔が建立されています。
本堂造営の棟梁であった長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)は、
重要な柱の寸法を間違えて短く切り過ぎました。
柱の予備は無く、苦悩していた時に妻の阿亀(おかめ)が
「枡組(ますぐみ)で補えばどうか」と助言して、
夫の窮地を救いました。
しかし、阿亀は専門家でもない女の提案で棟梁が大仕事を成し得たことが
知れては夫の恥と考え、上棟式を待たずに自害しました。
高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔を建て、おかめの名にちなんだ
福面を付けた扇御幣を飾りました。
その後、大工の信仰を得るようになり、上棟式にはお多福の面を着けた
御幣を飾る起源になったとされています。
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塚には「おかめの像」も建立されています。
「おかめの像」の前では、毎年2月の節分の日に
「おかめ福節分会」が営まれています。
法要を終えると茂山狂言社中によるユニークなおかめ福節分の狂言があり、
そのあと厄除け鬼追いの儀として、豆まきが行われます。
また、法要の前には番匠保存会による木遣音頭・上七軒の舞妓により、
おどりの奉納もあります。
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本堂前の枝垂れ桜には「阿亀桜」と名付けられています。
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境内には「ぼけ封じ観音菩薩像」が祀られ、大報恩寺は
「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第2番札所でもあります。

洛陽三十三所観音霊場の第30番札所である椿寺地蔵院へ向かいます。
続く

椿寺地蔵院

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地蔵院は山号を昆陽山(こやさん)と号する浄土宗の寺院で、
洛陽三十三所観音霊場の第30番札所です。
山門には「お寺は、お詣りするところ、まず合掌」と記されています。
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門前には「義商 天野屋利兵衛之墓 豊公愛樹五色八重散椿 
此寺にあり」、「夜半亭巴人(やはんていはじん)墓所」、
「洛陽三十番地蔵院」の石標が建立されています。
天野屋利兵衛は大坂の商人で、元禄時代に熊本藩・細川家と
岡山藩・池田家の大坂屋敷に出入りしていました。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援をした義商として英雄視されています。

豊臣秀吉は北野大茶会の際に五色八重散椿を寄進したことから、
地蔵院は通称で椿寺と呼ばれるようになりました。
この椿は文禄・慶長の役で加藤清正が朝鮮の蔚山城(うるさんじょう)から
持ち帰ったとされ、花弁が一枚ずつ散ることから
「散椿(長寿椿)」と呼ばれています。
現在の椿は樹齢120年の二代目となります。

夜半亭巴人は与謝蕪村の師で、元禄2年(1689)に松尾芭蕉の
『奥の細道』の足跡を辿り、享保12年(1727)には京都に移りました。
元文2年(1737)に江戸へ戻り、夜半亭を日本橋本石町に構え、
号を宋阿(そうあ)としました。
この頃、江戸に出てきた与謝蕪村が門人となりました。
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本堂
寺伝では神亀3年(726)に行基が、第45代・聖武天皇の勅願により、
摂津国昆陽池畔(兵庫県伊丹市)に地蔵堂を創建したのが始まりとされています。
南北朝時代、元中8年/明徳2年(1391)に山名氏清、
山名満幸らが室町幕府に起こした明徳の乱により焼失しました。
第3代将軍・足利義満は金閣寺建立の際の余材で地蔵院を
衣笠山の麓で再建しました。
天正年間(1573~1592)に秀吉の命により現在地に遷されて中興されました。
江戸時代の寛文11年(1671)に浄土宗に改宗され、
本尊を五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来像としました。
五劫思惟の阿弥陀仏は、通常の阿弥陀仏と違い螺髪(らほつ)が
かぶさるような非常に大きな髪型が特徴となります。
五劫とは、気が遠くなるような長い時間のことで、阿弥陀仏が
法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら
思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏と
なられたとされています。
五劫思惟阿弥陀如来はその時の姿を表しているとされています。
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地蔵堂には行基作と伝わる鍬形(くわがた)地蔵尊が安置され、
また伝承が残されています。
地蔵院がある地はかって、「大将軍村」と呼ばれ、周囲を田圃で
囲まれたのどかな村だったそうです。
ある年、日照りが続いて田圃に引く水が不足した時、村人は水を分け合って
其々の田圃に水を引いていたのですが、庄兵衛はその少ない水を
強引に自分の田圃に引き入れました。
庄兵衛の自分勝手な行いに村人が困っていたところ、一人の僧が現れ、
庄兵衛に自分勝手な振る舞いを止めるように諭しました。
それに怒った庄兵衛は持っていた鍬で僧の顔を殴りつけました。
僧は額から血を流しながらも、怒りもせず無言でその場を立ち去りました。
庄兵衛は不思議に思い、僧の後をつけていくと、
僧は地蔵院の中にある地蔵堂へと入って行きました。
庄兵衛が地蔵堂を覗いて見ると、額から血を流した地蔵尊が立っていました。
庄兵衛は地蔵尊が僧に姿を変えて、自分を諭してくれたことに気付き、
改心したと伝わります。
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観音堂には平安時代に慈覚大師円仁により造られたと伝わる
十一面観音菩薩立像が厨子内に安置されています。
江戸時代に地蔵院に遷されたと伝わりますが、その詳細は不明です。
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厨子の前には18世紀作の御前立が安置されています。

洛陽三十三所観音霊場・第33番札所の清和院へ向かいます。
続く
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