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伊勢神宮-二見興玉神社

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伊勢神宮参拝の日帰りバスツアーに参加しました。
京都駅八条口を8:20に出発、名神高速から新名神に入り、
土山サービスエリアで20分の休憩をはさみ、11時前に二見ショッピングプラザの
駐車場に到着しました。
ショッピングプラザの中を通って徒歩で二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)
に向かいます。
まず、目に入ったのが、伊勢志摩国立公園 縁結びの歌碑です。
「お伊勢まいりに みそめたあなた むすぶ緑の夫婦岩」舘まさお 作
 四條八十 補作とあります。
当日は、バスの移動中に小雨がパラつきましたが到着後、
雨の心配は無くなりましたが、冷たい強い風で海は荒れていました。
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ショッピングプラザからの参道は、東参道と呼ばれているそうで、
朱の鳥居が建っています。

古来、伊勢神宮に参拝する前、また、祭典に奉仕する前には、
清き渚と称される二見浦で禊(沐浴)を行うのが慣わしでした。
現代ではそれに代わるものとして、二見興玉神社で無垢塩草(むくしおくさ)での
祓い清めを受けることができます。
但し、玉串料5,000円と20分ほどかかるようですから、
略式で200円で「無垢塩草」を購入して胸元に入れ、
神宮を参拝する方法をとります。

無垢塩草は、夫婦岩の沖合700メートル先に鎮まる興玉神石(おきたましんせき)
より採取した藻草を天日に干して「祓いの具」としたものです。
興玉神石は、宝暦年間に発生した東海・南海地震で沈んでしまいました。
石の大きさは東西216m、南北108mとされ、「興玉」とは、
海中の神霊を意味する「澳魂」(おきたま)の意味があります。
興玉神石は、猿田彦大神の化身とも、天孫降臨の際に猿田彦大神が立たれた
とも伝わる猿田彦大神縁りの霊石です。

倭姫命(やまとひめのみこと)は天照大神を祭祀する地を求め、
伊勢志摩地域では最も四神相応(清浄な海、川、山、大道が揃った)の地に近い
二見ヶ浦で、船を泊め興玉神石を敬拝して夫婦岩に注連縄を張り、
興玉神石の遙拝所としました。
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夫婦岩は、日の大神(天照大神)と興玉神石を拝むための鳥居の役目を
果たしています。
男岩(おいわ)と女岩(めいわ)を結ぶ大注連縄は、「結界の縄」と称され、
大注連縄の向こうを常世神(とこよのかみ)が太平洋の彼方から寄りつく
聖なる場所、手前を俗世という隔たりを持ち張られています。
夫婦岩の大きさは、男岩が高さ9m、女岩が高さ4mで、大注連縄の長さは
35mあり、男岩に16m、女岩に10m巻かれ、9mが間に張られています。
大注連縄は、5月5日、9月5日、12月中旬の土・日曜日に張替神事が行われます。
夫婦岩(めおといわ)は、夏至の前後に夫婦岩の間からの
御来光を拝むことができます。
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夫婦岩の横の岩には、屏風岩、烏帽子岩、獅子岩と名付けられています。
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烏帽子岩は近年、波に削られカエルの姿に似てきたことからカエル岩と
改めたいようです。
この角度からは、頷けるような気もします。
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東参道を進むと龍宮社があります。
龍宮社は、二見興玉神社の境内社で、海の守り神・綿津見大神
(わたつみのおおかみ)を祭神としています。
寛政4年(1792)に発生した大津波により、付近の集落が壊滅的な打撃を受けたため、犠牲者の追善供養と海の安全を願い、五十鈴川の河口に龍神を勧請したのが
始まりとされています。
その後、五十鈴川河口の埋め立てや護岸工事のため、昭和13年(1938)に現在地に
遷座し、龍宮社と称されました。
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現在の社殿は、昭和46年(1971)に造営されました。
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手水舎や参道には沢山のカエルの像が置かれています。
カエルは、猿田彦大神の神使いとされ、「無事帰る」や「貸した物が返る」などの
御利益を受けられた方々が献納されたものです。
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契りの松
江戸末期の伊勢詣でが最も賑わった頃、阿波国(徳島県)から訪れた若い男女が、
二見ヶ浦で禊をし、着物を松の木に掛けて結び、夫婦の契りと子孫繁栄を
祈願したことから「契りの松」と呼ばれています。
昭和28年の台風で松の木は流失しましたが、平成3年に復活されました。
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二見興玉神社は、明治43年(1910)に猿田彦大神を祀る興玉社(おきたましゃ)と
宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を祀る三宮神社(さんぐうじんじゃ)を
合祀したもので、その際に二見興玉神社に改称されました。
天平年間(729~748)、僧・行基が興玉神の本地垂迹として太江寺(たいこうじ)を創建し、境内に興玉社を建てて鎮守社とし、後に現在の二見浦へと遷座しました。
太江寺には、元興玉社が現在でも祀られています。

三宮神社は、元は現社境内の天の岩屋の中に祀られていましたが、
文禄年間(1593~1596)に岩屋の外に移され、明治43年(1910)に
興玉社本殿に合祀されました。
古い参詣記には三狐(さんぐ)神社などとも記されています。

祭神の猿田彦大神は天孫降臨の際に高天原と豊葦原中津国の間の道案内を
務めたことから、「道開き(導き)の神」といわれています。

宇迦御魂大神は、伏見稲荷大社の主祭神であり、名前の「ウカ」は
穀物・食物の意味で、穀物の神であります。
二見興玉神社は、旧社格は村社でしたが、現在は神社本庁の別表神社に
列せられています。
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三宮神社の遺跡と伝わり「天の岩屋」と称される岩窟。
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JR二見浦駅からの参道まで出て、ショッピングプラザまで戻ります。
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ショッピングプラザ内には、食堂はあったものの弁当になりそうなものは
見当たりませんでした。
仕方がないので、ショッピングプラザの駐車場に設けられた水族館のトドを
見て過ごしました。
11時40分、バスで外宮へ向かいます。
続く


外宮

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12時に外宮に到着しました。
外宮は、正式には豊受大神宮(とようけだいじんぐう)といいます。
神宮の祭事は、「外宮先祭(げくうせんさい)」といって、
まず外宮から行われます。
外宮の豊受大御神(とようけのおおみかみ)は、内宮の主祭神である天照大御神
食事を司る神で、内宮に先だって神饌(しんせん)を供えます。
祭事の順序にならい、お伊勢参りは外宮から内宮の順にお参りするのが
習わしとなっています。
まず火除橋を渡ります。
神域の入口には防火のためにつくられた掘川が流れ、火除橋が架けられています。
橋を渡った所に清盛楠が立っていますが、画像は撮り忘れました。
平清盛が勅使として参向した時、冠にふれた枝を切らせたという伝承が
残されています。
清盛楠の向かいに手水舎があり、身を清めます。
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手水舎の奥にせんぐう館があり、外宮正殿の原寸大模型などが
展示されていますが、時間の都合で内部の拝観は割愛しました。
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せんぐう館の前には、勾玉の形をした「まがたま池」があり、
池には奉納舞台が設置されています。
6月頃には花菖蒲が美しく咲き誇るそうです。
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参道に戻り、一の鳥居をくぐります。
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一の鳥居のすぐ先に二の鳥居が建っています。
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二の鳥居をくぐった先に神楽殿があります。
お神札(ふだ)やお守りの授与やご祈祷の受付が行われています。
また、雅楽の音が聞こえてきますので、
建物内で神楽が奉納されているのかもしれません。
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神楽殿から通りを挟んで四至神(みやのめぐりのかみ)があります。
四至神は、外宮神域の守り神です。
四至とは神域の四方を意味します。
社殿や御垣はなく、榊が立つ石畳の上に祀られます。
四至神の背後には、五丈殿・九丈殿があり、お祭りが雨天の場合、
神饌(しんせん)などを祓い清める場所です。
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古殿地は、正宮(しょうぐう)と同じ広さの敷地を持ち、
前回の遷宮まで御殿が立っていた場所で、中央には「心御柱(しんのみはしら)」
を納めるための覆屋があります。
「心御柱」は正宮中央の床下の柱で、古くから神聖なものとされ
大切にされています。
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古殿地の前には、三ツ石があります。
三個の石を重ねた石積みで、この前では御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)や
奉仕員を祓い清める式年遷宮の川原大祓(かわらおおはらい)が行われます。
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正宮の鳥居から先は撮影が禁止されています。
延暦23年(804)に編纂された伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』では、
雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、
丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、
等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、
丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたと伝わります。
外宮の鎮座は、内宮の鎮座から484年後との記述がありますが、
正確かどうかは不明です。
主祭神の豊受大御神は、天照大神の御饌都神(みけつかみ・食物を司る神)であり、お米をはじめ衣食住の恵みを与えてくださる産業の守護神とされています。
外宮の社殿は、千木(ちぎ)が外削ぎ、鰹木(かつおぎ)が奇数(9本)で、
内宮と異なっています。
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正宮から戻ると、参道の真ん中に白い玉砂利が敷かれた場所があります。
ここは、山手に上った所にある、多賀宮(たかのみや)、風宮(かぜのみや)、
土宮(つちのみや)という別宮(べつぐう・正宮に次ぐ高位の宮)の
遥拝所になっています。
足の不自由な方や、急いでいる方のために設けられています。
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別宮をお参りするには亀石を渡ります。
亀石は高倉山にある天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられています。
高倉山は、外宮の敷地にある山域の総称で、最高峰(標高117m)の
日鷲山の山頂には高倉山古墳があります。
現在は入山禁止となっていますが、室町時代末期から江戸時代末期までは
天岩戸として参拝の対象となりました。
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正面から見ると、亀のようには見えませんが、
池側から見ると納得できるような気がします。
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98段の石段を上った、外宮で最も高く奥まった所に多賀宮が鎮座しています。
多賀宮は、外宮に所属する四別宮で、最も格式が高く、
社殿は正宮に次ぐ大きさです。
豊受大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られ、正宮では個人的な願いを
してはならないとされるのに対し、ここでは聞き届けてくださるそうです。
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多賀宮から少し下った左手に土宮があります。
土宮は多賀宮に次ぎ古く、多賀宮・月夜見宮に次ぎ3位にあり、
多賀宮・土宮・風宮の順に参拝するのが古来からの習わしとされています。
月夜見宮は、外宮北御門口から徒歩約5分の境外にあります。
土宮の祭神は、大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)で、
古くから外宮の所在地・山田原(やまだのはら)の鎮守の神でした。
外宮の鎮座以後は宮域の地主神、宮川堤防の守護神とされ、
平安時代末期に別宮に昇格しました。

土宮から左手、奥に入った所に下御井神社(しものみいのじんじゃ)がありますが、うっかりして飛ばしてしまいました。
下御井神社は、井戸を護る覆屋が社殿の代わりとなっています。
多賀宮には、近世まで毎月6度の御饌(みけ)を調製する忌火屋殿(いみびやでん)がありましたが、明治時代に外宮の御饌殿で御饌を供えることになったため、
忌火屋殿は廃止されました。
下御井神社は、多賀宮の忌火屋殿廃止まで使われていた井戸で、
現在は上御井神社の予備の井戸とされています。
但し、上御井神社は立ち入ることができません。
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土宮から下り、亀石の手前・右側に風宮があります。
風宮の祭神は、風雨を司る神とされる級長津彦命(しなつひこのみこと)と
級長戸辺命(しなとべのみこと)で、農耕に適した風雨をもたらす神と
されています。
古くは現在の末社格の風社(かぜのやしろ、風神社とも)でしたが、
弘安4年(1281)の元寇の時に神風を起こし日本を守ったとして別宮に昇格しました。
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北御門口へ向かう途中に忌火屋殿(いみびやでん)・祓所(はらえど)が
ありますが、立ち入ることはできません。
日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)と呼ばれる毎日朝夕二度の
大御饌を供える神事をはじめ、諸祭典の神饌(しんせん)を調理する所で、
忌火とは清浄な火という意味です。
木と木をすり合わせて発火させ、神事をはじめ全ての火は、
この忌火を使用しています。
前庭は祓所で、諸祭典の神饌と神職を祓い清めます。
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忌火屋殿の先に北御門口鳥居が建っています。
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鳥居をくぐった所に御厩(みうまや)があります。
外宮では皇室から奉納された2頭の神馬を飼育していますが、
必ずしも御厩にいるとは限らないようです。
神馬は、毎月1日、11日、21日の8時頃に正宮に参拝する
「神馬牽参」(しんめけんざん)が行われます。
雨天時や神馬の体調によっては見送られる場合もあるそうです。
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御厩の先に北御門口の火除橋があります。
駐車場まで戻り、バスで内宮に向かいます。
続く。

内宮-その1

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外宮を1時前に出発し、10分足らずで内宮の駐車場に到着しました。
内宮は、正式には皇大神宮(こうたいじんぐう)といい、
五十鈴川の川上に鎮座しています。
参拝はまず五十鈴川に架かる宇治橋を渡ります。
宇治橋は、御裳濯橋(みもすそばし)とも呼ばれ、
日本百名橋の一つに数えられています。
橋の長さは101.8m、幅8.42mの木造の和橋(わきょう、日本風の橋)で、
式年遷宮の4年前に架け替えられています。
これは戦後の第59回神宮式年遷宮が昭和天皇の指示で延期となり、
宇治橋だけが当初の予定通り昭和24年(1949)に架け替えられ、
その4年後に式年遷宮が行われたことから、4年のずれが生じるようになりました。
橋の両側に建つ鳥居は、高さ7.44m、直径は最も太い部分で約70cmあり、
旧正殿の棟持柱(むなもちばしら)が使われています。
やはり、式年遷宮に合わせて建て替えられ、外側の鳥居は外宮の、
内側の鳥居は内宮の旧正殿の棟持柱が使用されています。
冬至を中心とする約2か月の間は、宇治橋の鳥居の間からの日の出を
拝むことができます。
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橋の上流側には、川の増水などでの流木などが橋脚に衝突し損傷しないように
木除杭(きよけぐい)が設置されています。
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橋を渡って右側が順路になり、参道の右手に神苑があります。
満開の梅の花を愛でることができました。
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芝生の広場の神苑には、周囲に松の木が植えられています。
大正天皇御手植の松もあります。
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神苑の先、小川に架かる橋を渡った右側に手水舎があります。
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手水舎の先、鳥居をくぐった右側に御手洗場(みたらしば)があります。
五十鈴川は、神聖な川、清浄な川とされ、かってはこの水で心身ともに
清めていました。
敷き詰められている石畳は、桂昌院が寄進されたものです。
五十鈴川は、御裳濯川(みもすそがわ)とも呼ばれ、
倭姫命(やまとひめのみこと)が御裳のすそを濯いだことから
名付けられたと伝わります。
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御手洗場から上流側に瀧祭神(たきまつりのかみ)が祀られています。
社殿はありませんが、五十鈴川の守護神とされ、内宮の所管社ながら、
祭典は別宮に準じています。
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御手洗場から参道は左側に折れ、鳥居をくぐった先にからお神札(ふだ)授与所、
ご祈祷受付、御饌殿(みけでん)があります。
参集殿への参道の方から撮影しています。
神宮のお神札は、「大麻(たいま)」、「大麻(おおぬさ)」とも呼ばれます。
また、お守りの授与や朱印を受けることができます。
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お神札授与所に隣接して神楽殿があります。
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神楽殿を超えた所に五丈殿があり、お祭りが雨天の場合、
神饌(しんせん)などを祓い清める場所です。
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五丈殿の奥に御酒殿(みさかどの)と由貴御倉(ゆきのみくら)があります。
奥の大きい方の建物が御酒殿で、酒の神をお祀りし、
古くはここで神酒を醸造していました。
現在は、三節祭(さんせつさい)の前に酒麹を奉納し、白酒、黒酒、醴酒、
清酒の四種類の神酒を一旦納めます。
手前に見える由貴御倉は、古くはお供えものや果物などを納めていました。
由貴とは、清浄でけがれのないという意味を持っています。
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通りをはさんだ向かい側に忌火屋殿(いみびやでん)、祓所(はらえど)があり、
忌火屋殿は神饌を調理する所です。
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忌火屋殿の前庭は、祓所と呼ばれ、祭典の前に神饌と神職を祓い清めます。
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正宮の石段下にある御贄調舎(みにえちょうしゃ)は、内宮の祭典の際、
御饌都神(みけつかみ)である外宮の
豊受大御神(とようけのおおみかみ)を迎え、
神饌の代表として鰒(あわび)を調理する儀式が行われます。
この行事は古く五十鈴川の中州で行われていました。
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正宮内は撮影が禁止されています。
中央に見える鳥居を「板垣南御門」、鳥居の両側の玉垣を「板垣」、
鳥居の奥に見える建築物を「外玉垣南御門」、
手前にある石段を「石階」といいます。
皇大神宮(内宮)の主祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)で、
三種の神器の1つ、八咫鏡(やたのかがみ)を御神体としています。
天孫降臨の際、天照大御神は邇邇芸命(ににぎのみこと)に三種の神器を授け、
その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとく
すべし。」として天照大御神自身の神霊を込めたとされています。
この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれました。
八咫鏡は、第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑(かさぬいむら)に移され、
皇女豊鍬入姫(とよすきいりひめのみこと)がこれを祀ることとされました。
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶え、疫病を鎮めるべく、
従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の
二神を神威の強さを畏れ、皇居の外に移したとされています。
垂仁天皇25年、八咫鏡は豊鍬入姫から倭姫命(やまとひめのみこと)へと
引き継がれ、天照大御神を祀るための土地を求めて大和国から
伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、
神託により皇大神宮を創建したとされています。
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正宮から戻って右折すると、正宮の西の鳥居が望めますが、
勿論立ち入ることはできません。
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緩い坂道を上って行くと御稲御倉(みしねのみくら)があります。
祭神は御稲御倉を守護する御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)で、
神田から収穫した抜穂(ぬいぼ)の御稲が納められ、
祭典に際し大御饌(おおみけ)として神前に供えられます。
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御稲御倉の先に外幣殿があります。
古神宝類が納めてあり、外宮では御垣内にあります。
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外幣殿を越えて、石段を下ります。
この石段を約四十段下がった所には4つに割れ「天」の字のように見える石があり、「踏まぬ石」と呼ばれ避けて通らなければならないとされています。
「踏まぬ石は天から降って来た」という伝説があります。
石段を下った正宮の北方、やや小高い所に荒祭宮(あらまつりのみや)が
鎮座しています。
荒祭宮は、内宮に所属する十別宮のうち、最も格が高く、社殿の規模も
正宮に次ぐ大きさで、正宮と同時に創建されたと云われています。
天照大御神の荒御魂(あらみたま)を祭神としています。
祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、
皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行されます。
風日祈宮(かざひのみのみや)へ向かいます。
続く。


内宮-その2

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荒祭宮から戻り、五十鈴川支流の島路川に架かる
風日祈宮橋(かざひのみのみやばし)を渡ります。
風日祈宮橋は長さ45.6m、幅4.6mで、最初に架けられたのは室町時代の
明応7年(1498)で、南端の擬宝珠(ぎぼし)に「太神宮風宮
 五十鈴川御橋明応七年戌午本願観阿弥 敬白」と刻まれています。
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古くはこの川が五十鈴川本流とされていて、この橋は五十鈴川橋と
呼ばれていましたが、最も長い川が河川の本流と定義されてからは
島路川になり、橋は風日祈宮橋と呼ばれるようになりました。
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橋を渡った先に風日祈宮があります。
祭神は外宮別宮の風宮と同じ級長津彦命・級長戸辺命
(しなつひこのみこと・しなとべのみこと)で、古くは現在の末社格の
風神社でしたが、風宮と同じく元寇の後に別宮に昇格しました。
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風日祈宮から戻り、神楽殿を通り抜けた所に御厩(みうまや)があります。
内宮でも皇室から奉納された2頭の神馬を飼育していますが、
必ずしも御厩にいるとは限らないようです。
神馬は、毎月1日、11日、21日の8時頃に正宮に参拝する
「神馬牽参」(しんめけんざん)が行われます。
雨天時や神馬の体調によっては見送られる場合もあるそうです。
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御厩の先に参集殿があります。
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参集殿の前を通り過ぎ、宇治橋を左に見えてきた所、右手に衛士見張所があり、
その奥に鳥居が見えます。
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鳥居をくぐった先に大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)があります。
旧称を「山神社」と云い、神宮式年遷宮の最初の祭儀である
山口祭」はこの神社で催行されていたとされています。
山口祭とは、新宮(にいみや)の御用材を伐り出すに当たり、
御杣山(みそまやま)の山の口に坐す神に伐採と搬出の安全を祈る
神事でしたが、御杣山が移動されたのに伴い、この神社では
「山口祭」が行われなくなりました。
祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)で、伊弉諾命(いざなぎのみこと)・
伊弉冉命(いざなみのみこと)の子であり、山の守護神とされています。
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大山祇神社の横に子安神社があります。
祭神は木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)で、
元は宇治館町の産土神であったとされています。
大山祇神社の祭神・大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘であり、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻であります。
猛火の中で3柱の子を出産したとされ、この神話から、安産、子授け、縁結び、
厄除けの神とされています。
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大山祇神社から宇治橋を渡り、駐車場の奥に入った小高い所に饗土橋姫神社が
あります。
宇治橋の守護神であり、宇治橋と対面する位置に鎮座しています。
「饗土(あえど)」とは、神を祀る土地を意味し、饗土橋姫神社は宇治橋から
内宮の宮域四方に疫病神や悪霊などの悪しきものが
入るのを防ぐために守っています。
宇治橋の架け替えに先立って社殿が建て替えられるため、神宮式年遷宮において、
伊勢神宮の所管する125社の中では最も早く建て替えられる神社でもあります。
新しい宇治橋を建設する際に行われる「宇治橋修造起工式」や、
宇治橋が完成した際には「宇治橋渡始式」の祭事が行われます。
元は、宇治橋のすぐ近くに社地がありましたが、明治40年(1907)に
国道(御幸道路)建設に当たって、現在地に遷されました。
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饗土橋姫神社から右側に少し上った所に津長神社があります。
津長神社は、内宮の摂社27社のうち第14位で、水神とされる
栖長比賣命(すながひめのみこと)を祭神として、
垂仁天皇26年に創建されたと伝わります。
鎮座地の古い地名を「津長原」と云い、五十鈴川を遡上してきた船の船着き場が
あり、倭姫命もここで上陸したと伝わります。
かっては五十鈴川の岸辺近くに広い社地を有し、現今よりも重大な祭祀が
捧げられていたのですが、中世以降途絶えてしまいました。
江戸時代の寛文3年(1664)に遷御(せんぎょ)の儀が行われ再興されました。
明治時代になって、元来別の場所に鎮座していた新川神社・
石井神社(いわいじんじゃ)が同座されました。
新川神社の祭神は、新川比賣命(にいかわひめのみこと)で、
川の神として伝えられ、倭姫命が定められました。
石井神社の祭神は、高水上命(たかみなかみのみこと)で、
石清水の守り神と伝えられます。
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津長神社から戻り、饗土橋姫神社の左側に少し上って行くと、
幹回りが2m以上ある楠の古木が四方に幹を伸ばしています。
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石垣に沿って、楠木の裏側に廻りこんだ所に大水神社があります。
大水神社は、内宮の摂社27社のうち第16位で、創建は垂仁天皇の御代、
倭姫命が定めたとされています。
祭神は、大山祇御祖命(おおやまづみのみおやのみこと)で、大山祇神社と同じ
祭神が祀られています。
大水神社だと云うのに山の神が祀られています。
室町時代までは、社地も広く神事も行われていたそうですが、その後途絶え、
社殿は廃絶し、社地の一部が民家や寺院、林崎文庫
の敷地になるなどして縮小しました。
江戸時代の寛文3年(1664)に遷御(せんぎょ)の儀の際に再興され、
明治時代になって川相神社(かわあいじんじゃ)・熊淵神社が
同座されました。
川相神社・熊淵神社とも元来五十鈴川の上流に鎮座していました。
川相神社の祭神は、細川水神(ほそかわのみずのかみ)で、
川の神として伝えられ、倭姫命が定められました。
熊淵神社の祭神は、多支大刀自神(たきおおとじのかみ)で、
石清水の守護神とされています。
林崎文庫へも足を伸ばしたかったのですが、時間の関係で断念しました。
バスツアーだと参拝の時間帯が集中し、混雑しているように感じます。
バスツアーより少し割高になりますが、近鉄を利用し、早い時間帯に
参拝できれば順番待ちをしなくても...と考えます。
外宮の祭神、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、
等由気大神(とようけのおおかみ)を訪ねようと考えています。
比沼真奈井とは、天橋立にある籠神社(このじんじゃ)と奥宮・真名井神社です。
続く。

智恩寺(文殊堂)その1

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京都発6:37の普通列車で福知山に向かいます。
8:38に福知山に到着、8:53発の北近畿タンゴ鉄道の特急・たんごリレー1号に
乗り換えます。
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二両連結で、後ろ一両が自由席ですが、座席には余裕がありました。
車内は、床や窓枠に木材が使用され、後部にはラウンジがあり豪華です。
9:30に天橋立駅に着きました。
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駅前の車道を右に曲がり、次の信号を左折すると智恩寺の山門が見えてきます。
徒歩約5分で山門に着きます。
山門は、江戸時代に足掛け7年の工事期間を経て明和4年(1767)に上棟されました。
再建にあたって後桜町天皇から黄金を下賜されたことにより
「黄金閣」と称されています。
三間三戸の二重門で、上層には釈迦如来や十六羅漢が安置されているそうですが、
上層に立ち入ることはできません。
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山門をくぐった左側に多分、大正天皇が皇太子の時代に手植えされた
松の木が立っています。
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松ぼっくりがたいへん多いのが目に留まります。
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下に落ちている松葉は、高野山の三鈷の松(さんこのまつ)と同様に
三葉の松葉です。
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松の木の奥に多宝塔があります。
多宝塔は、室町時代の明応10年(1501)に、丹後国守護代で
府中城主延永修理進春信によって建立されました。
この多宝塔は、丹後地方唯一の室町時代の遺構で、重要文化財に指定されています。
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多宝塔の前には、初代と二代目の狛犬が置かれています。
本堂の狛犬は、三代目に当たり、昭和33年に再建されたもので、
台座には大正12年10月の刻文があります。
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多宝塔の先、池の中に妙音殿があり、弁財天が祀られています。
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池の横に建つ宝篋印塔は、近世初期における鉄砲の名手として名高い
稲富一夢斎(いなとみいちむさい)の墓で、
台座には慶弔16年(1611)の刻文があります。
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宝篋印塔の前方に、手水舎として使われている鉄湯船が置かれています。
鋳鉄製で、高さ63.5cm、直径が172.5cmです。
内側に銘が入っているらしいのですが、今は水が溜まり確認はできません。
それによると、鎌倉時代の正応3年(1290)に弥栄町にある興法寺が、
寺僧の施浴に用いる湯船として制作させたようです。
重要文化財に指定されているこの手水で身を清め、本堂の文殊堂を参拝します。
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智恩寺は、寺伝によると、平安時代の大同3年(808)に
平城天皇(へいぜいてんのう)の勅願寺として
創建されたと伝わります。
文殊堂は、宮津藩主京極高国が江戸時代の明暦元年(1655)から始められた
修理によって、現状に改められました。
雪舟が描いた「天橋立図」からは、ちょっと姿が異なってしまったようです。
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文殊堂に掛る扁額は、山号「五臺山」が記され、五台山は中国にあり、
文殊菩薩の聖地とされています。
文殊堂の本尊は文殊菩薩で、秘仏とされ、正月三が日、1月10日、7月24日の
年5日しか開帳されません。
鎌倉時代の作で、獅子に乗る文殊菩薩を中心に、獅子を曳く優でん王と、
文殊を象徴する経箱を捧げ持つ善財童子の、三尊形式で
重要文化財に指定されています。
文殊がインドから中国へ旅したという姿を表しているとされています。
奈良県桜井市の安倍文殊院(安倍文殊)、山形県高畠町の 大聖寺(亀岡文殊)
などとともに日本三文殊のひとつとされています。
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文殊堂の内部には、多くの絵馬が奉納されています。
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文殊堂の左側には方丈への門があります。
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門の横から方丈を望むことができます。
方丈は、天保12年(1841)に再建され、上間の床板は「一分七目の松」と
称された、天橋立の松が用いられています。
天橋立公園は、明治維新までは智恩寺の領地でした。
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方丈の斜め前に無相堂があり、寛永年中(1624~1645)に再建されました。
文殊堂の右側へ向かいます。
続く。

智恩寺(文殊堂)その2

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文殊堂の右側(東側)奥に寛政11年(1799)に再建された庫裏があります。
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庫裏の前に鐘楼門があります。
二人の子女を相次いで亡くした宮津の商家木村正英によって、
享保7年(1722)に建立されました。
その菩提を弔うべく、二人の法名「暁山彗察」「洞雲自照」から
「暁雲閣」と命名されました。
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上層には、再建の経緯を記した銘額「暁雲閣記」が揚げられています。
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暁雲閣には、室町時代の天文年間(1532~1555)に鋳造された梵鐘が
吊在してありましたが、嘉永年間(1848~1854)に大口径の梵鐘が
改鋳されたため、明治14年(1881)に鐘楼が建立されました。
現在の梵鐘は、昭和48年に再改鋳されました。
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鐘楼から山門方向に進んだ所に一躯、そして通路を挟んで二躯、
合わせて三躯の等身大の石地蔵像が祀られています。
左手に宝珠を捧げ、右手は錫杖を持つ形になっていますが、
錫杖は今は失われています。
北の一躯は、頭部が補修されているらしく、胴と不釣り合いに見えます。
三躯は、いずれも室町時代のもので、北の一躯には嘉吉元年(1441)の
刻銘があります。
南側二躯の内、右側の像は応永34(1427)年丹波郡三重郷大江越中守永松の
寄進になる千体地蔵の一躯ですが、残りの像は不明です。
左側の像は、永享4年(1432)沙弥祐長の寄進であり、
三躯はそれぞれ異なる出所ですが、「天橋立図」には描かれています。
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宝篋印塔は、丹後国司藤原保昌の妻としてこの地で過ごした和泉式部の供養塔と
伝わります。
鎌倉時代のもので、室町時代の明応年間(1492~1501)までの頃、
山門より600mほど南にある鶏塚から掘り出されたと伝わります。
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庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する
庚申信仰に基づいて建てられました。
その後、塞神(さえのかみ)として村の境目などの街道沿いに
置かれるようになりました。
明治時代になり、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に
置かれたものを中心にその撤去が進められ、
寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に
置かれていたため開発による破壊を免れたものが、今でも残されています。
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三個の力石は、重さが大130kg、中100kg、小70kgあります。
元は、当地区で力自慢を競うために使用されていましたが、智恩寺に奉納され、
触れると力と知恵が授かる御利益があるとされています。
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鎮守社の方まで戻ります。
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鎮守社の横には、霊木・文殊が茂っています。
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霊木から海の方へ出ると、石造りの「智恵の輪」が建っています。
智恵の輪は、もともと船の安全航行のための灯篭でしたが、
古くから智恩寺の海岸に建っていたことから、この灯籠の輪を3回くぐれば
文殊様の智恵が授かると伝わったそうです。
実際にくぐるには勇気が要りそうです。
10:25、天橋立に向かいます。
続く。

天橋立

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天橋立へはまず文珠水道(天橋立運河)と呼ばれる水路に架かる
長さ約36mの廻旋橋を渡ります。
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観光船で帰ってきた時、ちょうど橋が廻旋していました。
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続いて大天橋を渡ります。
天橋立は、『丹後風土記』によると、その昔、天への架け橋と云われ、
伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ) の神が天への上り下りに使われた
浮き橋でしたが、ある日伊弉諾が昼寝を している間に倒れて天橋立となった
という神話が残っています。
また、能の久世戸(くせのと)は、天皇の臣下が久世戸に参拝し、
美しい景色に見とれていると、老若二人の漁夫が現れる。
老人は久世戸の地名の由来や縁起などを説明し、「本尊の文殊菩薩に仕える者で、
今夜は神事が行われる」と教えて消える。
夜が更けると、月下に天女が天燈を持って降臨し、海上から龍神が龍燈を
持って現れ、松の木に捧げると、光は一つになって天地を照らす。
龍神は神通力で飛び回り、豪快に舞を舞う。という筋書きになっています。
久世戸とは、天橋立と智恩寺のある半島の海峡を言ったとあります。
小天橋と呼ばれる砂州には「久世戸の松」と名付けられた松の木が立っています。

国生みの神に請われた中国五台山の文殊菩薩が、地上で暴れる悪龍を千年かけて
説法し、善龍へと教化したという話に続いて、国生みの神が地上へと降りる
天浮橋は文殊菩薩の如意であり、それが海に落ちて一夜にして龍神が土を盛り、
天人が松を植えて天橋立となったと結ばれています。
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岸のすぐ近くで牡蠣の漁をされていました。
海岸には牡蠣の貝殻が散乱していました。
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与謝野寛・晶子夫妻の句碑です。
小雨はれ みどりとあけの虹ながる
    与謝の細江の 朝のさざ波    寛
  
人おして 回旋橋のひらく時
   くろ雲うごく 天の橋立     晶子

与謝野寛の父・礼厳は丹後与謝郡温江村(現与謝野町温江)の出身であることから、夫妻はたびたび天橋立に訪れたそうです。
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松の木には命名されているものが多くあります。
先ほどの「久世戸の松」は撮り忘れましたが、「智恵の松」は収めました。
一本の松が三叉になっていて、「三人寄れば文殊の智恵」から引用されました。
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岩見重太郎試切之石
父の仇を追って宮津まで来た剣豪・岩見重太郎が仇討の前に試し切りをしたと
伝わる石です。
石を切っては刃がこぼれて、仇討の時に役に立たなくなるように思うのですが...
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試切之石の先に仇討の場がありました。
父の仇として広瀬軍蔵、鳴尾権三、大川八左衛門の三人の仇討ちをしたと
伝えられている場所です。
三人は重太郎を恐れて領主京極家に隠れていましたが、京極家に乞うて
仇討ちを許され、寛永9年(1632)9月20日、天橋立の濃松において三人を討ち倒し、ついにその本望をとげたと伝えられています。
なお、岩見重太郎は薄田隼人と同一人とされ、豊臣家の家臣であったが、
大阪冬の陣では大いに戦って名をとどろかし、夏の陣で惜しくも戦死したと
伝わりますが、伝説上の人物とも...
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磯清水
周囲を海に囲まれていながら、少しも塩味を含まない清浄な淡水が湧出している
ところから、古来より不思議な名水とされています。
昭和60年(1985)には「日本の名水百選」の一つとして、
環境省の認定を受けました。
平安時代、和泉式部が「橋立の 松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし」
と詠ったと伝えられています。
但し、磯清水は飲まないようにとの注意書きがあります。
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磯清水は、横にある天橋立明神の手水として使われているようです。
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天橋立明神は、現在は天橋立神社と呼ばれ、正面に豊受大神、
向かって左は大川大明神、右に八大龍王が祀られています。
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境内にある石灯篭。
美しい形をしています。
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神社の前に、明治時代にイギリスで製造された大砲が置かれていますが、
何か違和感があります。
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ここにもありました。
明治40年(1907)、大正天皇が皇太子時代に手植えされた松。
普通の松でした。
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屋根で守られたお地蔵さん。
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千貫松
1貫文は現在の約25,000円に相当するそうですので相当高価な松になります。
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羽衣の松
羽衣伝説は日本各地に存在していますが、丹後にも峰山を舞台にしたものが
『丹後国風土記』に残されています。
それによると、
1.天に帰れなくなった天女は老夫婦の子として引き取られる。
2.天女は酒造りにたけ、老夫婦は裕福となる。
3.老夫婦は自分の子ではないと言って追い出す。
4.天女はさまよった末ある地に留まり鎮まった。
この天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。
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双龍の松
平成16年10月20日の台風で倒れてしまった松。
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この台風で247本の松が倒れたそうです。
倒れた松を補うべく植樹が行われています。
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傘松ケーブルが見えてきました。
天橋立を通過した時刻は11:50。
普通は約40分で通過できるのに約1時間半も費やしてしまいました。
先に進む前に船着き場に寄って、傘松ケーブルの往復券と観光船の片道切符が
セットになった割引チケットを1,100円で購入します。
そして通りに出て、左側にあるスーパーで弁当を購入し、飲み物の棚に移動して
お茶を買うつもりが、手に取ったのはビールでした。
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スーパーの裏で海を見ながら昼食をとりました。
籠神社(このじんじゃ)へ向かいます。
続く。

籠神社

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観光船の乗り場から北上すると、国道178号線に面して籠神社(このじんじゃ)の
鳥居が建っています。
広い駐車場には、大型の観光バスが多数乗り入れています。
傘松公園へは神社の境内を通って行けますので、天橋立からも神社を参拝するのが
順路になっているようです。
宇治橋を渡り、一の鳥居をくぐり参道を進みます。
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参道には、舞鶴市で見つかった「大和さざれ石」が奉納されています。
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手水舎は大きくて、ゆったりと身を清めることができます。
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二の鳥居をくぐります。
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鳥居の先にある狛犬は、鎌倉時代の作とされ重要文化財に指定されています。
この狛犬には、以下のような伝説が残されています。
「その昔、作者の魂が狛犬にこもり、石の狛犬が天橋立に暴れ出て通行人を
驚かしたので、たまたま仇討ちに来ていた豪傑岩見重太郎が一夜待ち伏せ、
剛刀で狛犬の脚に一太刀浴びせたところ、それ以来社頭に還り事無きを得て、
爾来魔除けの狛犬と云われて霊験があらたかになったと伝えられています。」
確かに狛犬の前足には、補修の跡が見られます。
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神門をくぐった先に拝殿があるのですが、ここから先は撮影禁止になっています。
籠神社の主祭神は、邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄である
彦火明命(ひこほあかりのみこと)です。
邇邇芸命が天照大神の神霊を込めた鏡を携えて高千穂峰へ降臨したのに対し、
彦火明命は豊受大神の神霊を込めた鏡を携えて丹後の地に降臨されたと
されています。
彦火明命は、籠神社の社家、海部氏(あまのべし)の始祖となり豊受大神を
祀ったのが始まりとされています。
当初は、現在の奥宮・真名井神社(まないじんじゃ)の地にありました。
第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑(かさぬいむら)に移された、
天照大神の神霊を込めた八咫鏡(やたのかがみ)は、真名井神社に移され、
「吉佐宮(よさのみや)」という宮号で4年間祀られました。
その後、海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が
宮号を「籠宮」と改め、真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、
その後奈良時代の養老3年(719)に、二十七代目当主
海部直愛志(あまべのあたええし)が、現在の籠神社の地へと遷宮しました。
それを機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、
相殿に豊受大神・天照大神・海神(わたつみのかみ)・
天水分神(あめのみくまりのかみ)が合祀されました。
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拝殿から左側に進んだ左側に産霊岩(むすびいわ)と呼ばれる天然記念物の
さざれ石が置かれています。
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産霊岩の横に磐座を象徴したと思われる「御生(みあ)れの庭」が
造園されています。
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「御生れの庭」の向かいには、天照大神和魂社
(あまてらすおおかみにぎみたましゃ)があります。
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天照大神和魂社の横に春日大明神社
(かすがだいみょうじんのやしろ)があります。
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春日大明神社の横に猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)があります。
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猿田彦神社の横に真名井稲荷神社(まないいなりじんじゃ)があり、
古代から明治末迄奥宮真名井原に祀られていました。
平成3年になって、現在地に再建されました。
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真名井稲荷神社の先に亀に乗った倭宿禰命(やまとすくねのみこと)の
像があります。
倭宿禰命は、海部家四代目の祖先で、元々は「珍彦(うづひこ)」、
「椎根津彦(しいねづひこ)」、「神知津彦(かんしりつひこ)」、「槁根津日子(さおねづひこ)」と呼ばれていたとされています。
倭宿禰命は神武東征の際に、速吸門(明石海峡)に亀に乗って現れ、
神武天皇の先導役として浪速、河内、大和へと導いて東征の行軍に
貢献したとされています。
神武天皇が帝位に就いてから、天皇を無事に大和へと導いた功労者として
「倭宿禰」の称号を授かりました。
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裏参道の鳥居をくぐり、真名井神社へ向かいます。
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籠神社から東に進むと、道路脇に鳥居が建っていて
鳥居をくぐり、緩い坂道を登ります。
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籠神社は、平成31年に真名井原から現在地に遷座して1300年を迎えることから、
平成10年から整備事業が行われてきました。
本宮は、平成21年に完成したのですが、真名井神社ではまだ工事が行われ、
仮設の参道を進みます。
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仮設の参道を上った所に「波せき地蔵尊」が祀られています。
約1300年前の大宝年間(701~704)に起きた大地震で、ここまで津波が
押し寄せたのですが、この地蔵が津波を切り返したと伝えられています。
ここの標高は約40~50mとされ、もし現在このような地震が発生したとすると
小浜や敦賀の原発がどのような被害を受けるかと考えると、
背筋が寒くなる思いがしました。
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天の真名井の水(あめのまないのみず)
海部家三代目の天村雲命(あめのむらくものみこと)が天上に昇り、
高天原で神々が使用する天忍石(あめのおしいわ)の長井の水を琥珀の鉢に入れて
地上に持ち降りました。
天村雲命は、この水を日向の高千穂の御井に遷し、その後
丹波の魚井(まない)の石井に遷したと伝わります。
雄略天皇の御代、「天の真名井」は伊勢外宮(豊受大神宮)の御井に遷されたと
伝わります。
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真名井水神社には、蛇口が設置され、天の真名井の水(あめのまないのみず)
は、飲まないようにと注意書きされていますが、
こちらの水は飲用可能になっています。
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境内には達磨のように見える石がありました。
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鳥居をくぐり真名井原の神域へと入ります。
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神域を守護しているのは、狛犬ではなく龍です。
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現在は工事中のため社殿がありません。
真名井原のご神体は、東と西の磐座(いわくら)です。
東座には、豊受大神、西座には天照大神、伊弉諾(いざなぎ)、
伊弉冉(いざなみ)が宿っているとされています。
奥の方には、大綿津見神(おおわつみのかみ)、
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られ、その前方に「うぶだらい」
が境内図には記されていますが、幕が張られ行くことも
見ることもできませんでした。
西国三十三所の第二十八番札所の成相寺へ向かいます。
続く

成相寺

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真名井神社から戻り、傘松公園へはリフトに乗って向かいます。
12:45のケーブルカーに乗車する予定でしたが、少し早く着いたので
待ち時間無しのリフトで登ることにしました。
ケーブルカーとリフトは、往復660円で、どちらの乗車も可能です。
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傘松公園からの天橋立の眺めは、龍が天へと昇って行くかのように望まれ、
「昇龍観」と呼ばれています。
公園内には、展望テラスの「スカイテラス」や展望スペースの
「スカイデッキ」などが整備され、古くから景色を楽しむのに「股のぞき」が
有名でした。
股のぞきをして景色を見ると、天地が逆さまになり、直立した姿勢で見た時より
平らで奥行きが少ない印象を受け、小さく縮んで見えるそうです。
イグ・ノーベル賞を受賞した効果ですが、試すのは止めて
公園の西端にある冠島・沓島遥拝所へ向かいます。
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伝承では、冠島と沓島は元伊勢籠神社の奥宮で、籠神社のご祭神である
彦火明命(ひこほあかりのみこと)と
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が天降り夫婦となった神聖な島として
古代から特別視されてきました。
また、『丹後風土記』には、大宝元年(701)に三日続きの大地震が発生し、
凡海郷(おおしあまごう)と呼ばれた集落が海に沈み山頂だけが海上に残って
冠島と沓島になったとの記述が見られます。
そして、「冠島の磯に鳥居ありて 老人島神社(おいとじまじんじゃ)といふ」
との記述があり、この老人島神社が籠神社の奥宮で
あったとされています。
現在も社殿が残され、彦火明命(ひこほあかりのみこと)が祀られています。
冠島周囲の海底の一部から弥生時代の遺跡のようなものが見つかっているそうです。
現在、冠島は国の天然記念物に指定されていて、沓島とともに
京都府指定冠島沓島鳥獣保護区にも指定されていることから、
一般の人は島に立ち入ることが出来なくなっています。

傘松公園から登山バスで成相寺(なりあいじ)へ向かいます。
天橋立から一の宮までの観光船の片道料金530円とケーブルカーまたは
リフト往復乗車券660円がセットになった割引券は、
1,100円で90円の割引ですが、その割引券でを提示することで成相寺の入山料と
往復の登山バス代1,100円が800円に割り引かれます。
成相寺へのバス道は、急坂で道路に滑り止めが施されているのか結構
ガタガタと揺れます。
山門前を通り過ぎ、6分間で蓮池近くのバス停まで直行します。
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蓮池は、底無し池とも呼ばれ、大蛇が住んでいたと伝わります。
寺の小僧を次々と呑み込んでいったため、和尚が小僧に見せかけた藁人形を作り、
中に火薬を仕込みました。
藁人形を呑み込んだ大蛇の腹の中で火薬が爆発し、大蛇は苦しみながら山を下り、
阿蘇海に入り文殊の辺りで力尽きて沈んでしまったそうです。
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池には弁天堂があり、弁財天が祀られています。
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五重塔は、平成10年(1998)に鎌倉様式を再現して完成したそうです。
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五重塔から少し上ると、弁天山展望台があります。
天橋立が一直線に見え、傘松公園からの景色とはまた違った風情があります。
また、本当の股のぞきとは、この展望台で行われてきたのが
伝承されてきたそうです。
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ここからは、冠島は見えませんでした...残念!
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バス停まで戻ります。
バス停のすぐ先が石段になっています。
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石段を少し上った所に鐘楼があります。
梵鐘には慶長13年(1608)の銘が入っています。
この鐘を鋳造するため浄財の寄進を募ったのですが、府中で一軒だけ
「子供は沢山居るが寺に寄付する金はない」、と言って断った家がありました。
鋳造が始まると、二度続けて失敗し、三度目に取り掛かった時、
寄付をしなかった家の赤ん坊を誤って坩堝(るつぼ)の中に落としてしまいました。
出来上がった鐘をつくと、子供の泣き声、母を呼ぶ悲しい声が聞こえ、
聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、
以後、一切この鐘をつくのを止めたと伝わり、「撞かずの鐘」と呼ばれています。
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鐘楼から少し石段を上った所に、約650年前に造られた「一願一言地蔵」が
祀られています。
ただ一つの願いを一言でお願いすれば、どんなことでも必ず叶えてくれる地蔵
と伝わります。
宝くじが当たりますようにと願いましたが、まだ当たっていません。
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地蔵の後ろに観音堂があります。
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堂内には、三十三霊場の本尊が安置されています。
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本堂は、江戸時代の安永3年(1774)に再建されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
寺伝によれば飛鳥時代の慶雲元年(704)、文武天皇の勅願寺として
真応上人によって開基されました。
創建時は成相山(569m)の現在地よりさらに上方に位置し、
修験の道場となっていました。
応永7年(1400)に山崩れが発生し、現在地に移りました。
成相寺と名付けられた由来が公式ウェブサイトにありました。
「一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中、深雪の為、里人の来住もなく
食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となりました。
死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈りました。
すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に傷ついた鹿が倒れているのに
気付きました。
僧として肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、
決心して鹿の腿をそいで鍋に入れて煮て食べました。
やがて雪も消え、里人達が登って来て堂内を見ると、本尊の腿が切り取られ
鍋の中に木屑が散っていました。
 それを知らされた僧は観音様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、
木屑を拾って腿につけると元の通りになりました。
此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けました。」

成相寺の本尊は平安時代の聖観音菩薩ですが、
33年に一度開扉の秘仏とされています。
この観音菩薩は美人観音と呼ばれ、室町時代の御伽草子に登場する
梵天国王の姫君が姿を変えた観音様と伝わります。
小野小町も信仰したと伝わり、拝む人は美しい人になると言い伝えられています。
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高いところまで千社札が張られた堂内は撮影が禁止されていますが、
左甚五郎作の「真向きの龍」は撮影が許可されています。
雨乞いのため、龍の彫刻を成相寺に奉納することになり、折しも宮津に
滞在していた左甚五郎に製作の依頼を行いました。
しかし、龍の姿を見たことない甚五郎は、途方に暮れていたのですが、
ある夜夢の中で龍の住処を教えられます。
早速、教えられた場所、成相山のとある滝壺に降り立つと、
龍が姿を現したと伝わります。
そして、完成したのが「真向きの龍」で、右から見ても左から見ても自分の方を
向いていることから、「真向きの龍」と云われています。
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本堂の右側に鎮守社があり、熊野権現が祀られています。
延宝4年(1676)に上棟されたもので、成相寺に現存する最古の建物であり、
京都府の文化財に指定されています。
社殿は覆屋に収められています。
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鎮守社の前に西向きに十王堂があります。
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縁側に賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)が安置されています。
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堂内の左側にクジャク明王が安置されています。
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堂内の右側には閻魔大王を中心に十王尊が安置されています。
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本堂の左前に置かれている鉄湯船は、鎌倉時代の正応3年(1290)の銘があり、
重要文化財に指定されています。
現在は手水鉢に転用されています。
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鉄湯船の左側に、安楽と健康長寿の御利益があるとされる、
楽寿観音が祀られています。
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境内の地蔵像
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五輪塔
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バスの時間まで余裕がありましたので山門まで下りました。
参道の途中にひっそりと佇む石仏がありました。
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山門
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山門の仁王像

バス停まで戻り、15:10発のバスで傘松公園まで下ります。
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下山はケーブルカーを利用しました。
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観光船にはカモメのエサが販売されています。
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カモメが餌をねだっているようです。
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船が動き出すとカモメが後を追っていきます。

16:28天橋立発の西舞鶴行に乗車し、西舞鶴で17:09発福知山行に乗換え、
綾部で18:17発の園部行に乗換え、更に園部で19:13発の
京都行に乗換え19:59に京都駅にたどり着きました。
次は、24番の中山寺へ向かいます。
続く

伊勢神宮-二見興玉神社

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伊勢神宮参拝の日帰りバスツアーに参加しました。
京都駅八条口を8:20に出発、名神高速から新名神に入り、
土山サービスエリアで20分の休憩をはさみ、11時前に二見ショッピングプラザの
駐車場に到着しました。
ショッピングプラザの中を通って徒歩で二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)
に向かいます。
まず、目に入ったのが、伊勢志摩国立公園 縁結びの歌碑です。
「お伊勢まいりに みそめたあなた むすぶ緑の夫婦岩」舘まさお 作
 四條八十 補作とあります。
当日は、バスの移動中に小雨がパラつきましたが到着後、
雨の心配は無くなりましたが、冷たい強い風で海は荒れていました。
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ショッピングプラザからの参道は、東参道と呼ばれているそうで、
朱の鳥居が建っています。

古来、伊勢神宮に参拝する前、また、祭典に奉仕する前には、
清き渚と称される二見浦で禊(沐浴)を行うのが慣わしでした。
現代ではそれに代わるものとして、二見興玉神社で無垢塩草(むくしおくさ)での
祓い清めを受けることができます。
但し、玉串料5,000円と20分ほどかかるようですから、
略式で200円で「無垢塩草」を購入して胸元に入れ、
神宮を参拝する方法をとります。

無垢塩草は、夫婦岩の沖合700メートル先に鎮まる興玉神石(おきたましんせき)
より採取した藻草を天日に干して「祓いの具」としたものです。
興玉神石は、宝暦年間に発生した東海・南海地震で沈んでしまいました。
石の大きさは東西216m、南北108mとされ、「興玉」とは、
海中の神霊を意味する「澳魂」(おきたま)の意味があります。
興玉神石は、猿田彦大神の化身とも、天孫降臨の際に猿田彦大神が立たれた
とも伝わる猿田彦大神縁りの霊石です。

倭姫命(やまとひめのみこと)は天照大神を祭祀する地を求め、
伊勢志摩地域では最も四神相応(清浄な海、川、山、大道が揃った)の地に近い
二見ヶ浦で、船を泊め興玉神石を敬拝して夫婦岩に注連縄を張り、
興玉神石の遙拝所としました。
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夫婦岩は、日の大神(天照大神)と興玉神石を拝むための鳥居の役目を
果たしています。
男岩(おいわ)と女岩(めいわ)を結ぶ大注連縄は、「結界の縄」と称され、
大注連縄の向こうを常世神(とこよのかみ)が太平洋の彼方から寄りつく
聖なる場所、手前を俗世という隔たりを持ち張られています。
夫婦岩の大きさは、男岩が高さ9m、女岩が高さ4mで、大注連縄の長さは
35mあり、男岩に16m、女岩に10m巻かれ、9mが間に張られています。
大注連縄は、5月5日、9月5日、12月中旬の土・日曜日に張替神事が行われます。
夫婦岩(めおといわ)は、夏至の前後に夫婦岩の間からの
御来光を拝むことができます。
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夫婦岩の横の岩には、屏風岩、烏帽子岩、獅子岩と名付けられています。
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烏帽子岩は近年、波に削られカエルの姿に似てきたことからカエル岩と
改めたいようです。
この角度からは、頷けるような気もします。
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東参道を進むと龍宮社があります。
龍宮社は、二見興玉神社の境内社で、海の守り神・綿津見大神
(わたつみのおおかみ)を祭神としています。
寛政4年(1792)に発生した大津波により、付近の集落が壊滅的な打撃を受けたため、犠牲者の追善供養と海の安全を願い、五十鈴川の河口に龍神を勧請したのが
始まりとされています。
その後、五十鈴川河口の埋め立てや護岸工事のため、昭和13年(1938)に現在地に
遷座し、龍宮社と称されました。
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現在の社殿は、昭和46年(1971)に造営されました。
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手水舎や参道には沢山のカエルの像が置かれています。
カエルは、猿田彦大神の神使いとされ、「無事帰る」や「貸した物が返る」などの
御利益を受けられた方々が献納されたものです。
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契りの松
江戸末期の伊勢詣でが最も賑わった頃、阿波国(徳島県)から訪れた若い男女が、
二見ヶ浦で禊をし、着物を松の木に掛けて結び、夫婦の契りと子孫繁栄を
祈願したことから「契りの松」と呼ばれています。
昭和28年の台風で松の木は流失しましたが、平成3年に復活されました。
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二見興玉神社は、明治43年(1910)に猿田彦大神を祀る興玉社(おきたましゃ)と
宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を祀る三宮神社(さんぐうじんじゃ)を
合祀したもので、その際に二見興玉神社に改称されました。
天平年間(729~748)、僧・行基が興玉神の本地垂迹として太江寺(たいこうじ)を創建し、境内に興玉社を建てて鎮守社とし、後に現在の二見浦へと遷座しました。
太江寺には、元興玉社が現在でも祀られています。

三宮神社は、元は現社境内の天の岩屋の中に祀られていましたが、
文禄年間(1593~1596)に岩屋の外に移され、明治43年(1910)に
興玉社本殿に合祀されました。
古い参詣記には三狐(さんぐ)神社などとも記されています。

祭神の猿田彦大神は天孫降臨の際に高天原と豊葦原中津国の間の道案内を
務めたことから、「道開き(導き)の神」といわれています。

宇迦御魂大神は、伏見稲荷大社の主祭神であり、名前の「ウカ」は
穀物・食物の意味で、穀物の神であります。
二見興玉神社は、旧社格は村社でしたが、現在は神社本庁の別表神社に
列せられています。
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三宮神社の遺跡と伝わり「天の岩屋」と称される岩窟。
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JR二見浦駅からの参道まで出て、ショッピングプラザまで戻ります。
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ショッピングプラザ内には、食堂はあったものの弁当になりそうなものは
見当たりませんでした。
仕方がないので、ショッピングプラザの駐車場に設けられた水族館のトドを
見て過ごしました。
11時40分、バスで外宮へ向かいます。
続く

外宮

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12時に外宮に到着しました。
外宮は、正式には豊受大神宮(とようけだいじんぐう)といいます。
神宮の祭事は、「外宮先祭(げくうせんさい)」といって、
まず外宮から行われます。
外宮の豊受大御神(とようけのおおみかみ)は、内宮の主祭神である天照大御神
食事を司る神で、内宮に先だって神饌(しんせん)を供えます。
祭事の順序にならい、お伊勢参りは外宮から内宮の順にお参りするのが
習わしとなっています。
まず火除橋を渡ります。
神域の入口には防火のためにつくられた掘川が流れ、火除橋が架けられています。
橋を渡った所に清盛楠が立っていますが、画像は撮り忘れました。
平清盛が勅使として参向した時、冠にふれた枝を切らせたという伝承が
残されています。
清盛楠の向かいに手水舎があり、身を清めます。
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手水舎の奥にせんぐう館があり、外宮正殿の原寸大模型などが
展示されていますが、時間の都合で内部の拝観は割愛しました。
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せんぐう館の前には、勾玉の形をした「まがたま池」があり、
池には奉納舞台が設置されています。
6月頃には花菖蒲が美しく咲き誇るそうです。
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参道に戻り、一の鳥居をくぐります。
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一の鳥居のすぐ先に二の鳥居が建っています。
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二の鳥居をくぐった先に神楽殿があります。
お神札(ふだ)やお守りの授与やご祈祷の受付が行われています。
また、雅楽の音が聞こえてきますので、
建物内で神楽が奉納されているのかもしれません。
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神楽殿から通りを挟んで四至神(みやのめぐりのかみ)があります。
四至神は、外宮神域の守り神です。
四至とは神域の四方を意味します。
社殿や御垣はなく、榊が立つ石畳の上に祀られます。
四至神の背後には、五丈殿・九丈殿があり、お祭りが雨天の場合、
神饌(しんせん)などを祓い清める場所です。
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古殿地は、正宮(しょうぐう)と同じ広さの敷地を持ち、
前回の遷宮まで御殿が立っていた場所で、中央には「心御柱(しんのみはしら)」
を納めるための覆屋があります。
「心御柱」は正宮中央の床下の柱で、古くから神聖なものとされ
大切にされています。
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古殿地の前には、三ツ石があります。
三個の石を重ねた石積みで、この前では御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)や
奉仕員を祓い清める式年遷宮の川原大祓(かわらおおはらい)が行われます。
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正宮の鳥居から先は撮影が禁止されています。
延暦23年(804)に編纂された伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』では、
雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、
丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、
等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、
丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたと伝わります。
外宮の鎮座は、内宮の鎮座から484年後との記述がありますが、
正確かどうかは不明です。
主祭神の豊受大御神は、天照大神の御饌都神(みけつかみ・食物を司る神)であり、お米をはじめ衣食住の恵みを与えてくださる産業の守護神とされています。
外宮の社殿は、千木(ちぎ)が外削ぎ、鰹木(かつおぎ)が奇数(9本)で、
内宮と異なっています。
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正宮から戻ると、参道の真ん中に白い玉砂利が敷かれた場所があります。
ここは、山手に上った所にある、多賀宮(たかのみや)、風宮(かぜのみや)、
土宮(つちのみや)という別宮(べつぐう・正宮に次ぐ高位の宮)の
遥拝所になっています。
足の不自由な方や、急いでいる方のために設けられています。
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別宮をお参りするには亀石を渡ります。
亀石は高倉山にある天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられています。
高倉山は、外宮の敷地にある山域の総称で、最高峰(標高117m)の
日鷲山の山頂には高倉山古墳があります。
現在は入山禁止となっていますが、室町時代末期から江戸時代末期までは
天岩戸として参拝の対象となりました。
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正面から見ると、亀のようには見えませんが、
池側から見ると納得できるような気がします。
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98段の石段を上った、外宮で最も高く奥まった所に多賀宮が鎮座しています。
多賀宮は、外宮に所属する四別宮で、最も格式が高く、
社殿は正宮に次ぐ大きさです。
豊受大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られ、正宮では個人的な願いを
してはならないとされるのに対し、ここでは聞き届けてくださるそうです。
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多賀宮から少し下った左手に土宮があります。
土宮は多賀宮に次ぎ古く、多賀宮・月夜見宮に次ぎ3位にあり、
多賀宮・土宮・風宮の順に参拝するのが古来からの習わしとされています。
月夜見宮は、外宮北御門口から徒歩約5分の境外にあります。
土宮の祭神は、大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)で、
古くから外宮の所在地・山田原(やまだのはら)の鎮守の神でした。
外宮の鎮座以後は宮域の地主神、宮川堤防の守護神とされ、
平安時代末期に別宮に昇格しました。

土宮から左手、奥に入った所に下御井神社(しものみいのじんじゃ)がありますが、うっかりして飛ばしてしまいました。
下御井神社は、井戸を護る覆屋が社殿の代わりとなっています。
多賀宮には、近世まで毎月6度の御饌(みけ)を調製する忌火屋殿(いみびやでん)がありましたが、明治時代に外宮の御饌殿で御饌を供えることになったため、
忌火屋殿は廃止されました。
下御井神社は、多賀宮の忌火屋殿廃止まで使われていた井戸で、
現在は上御井神社の予備の井戸とされています。
但し、上御井神社は立ち入ることができません。
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土宮から下り、亀石の手前・右側に風宮があります。
風宮の祭神は、風雨を司る神とされる級長津彦命(しなつひこのみこと)と
級長戸辺命(しなとべのみこと)で、農耕に適した風雨をもたらす神と
されています。
古くは現在の末社格の風社(かぜのやしろ、風神社とも)でしたが、
弘安4年(1281)の元寇の時に神風を起こし日本を守ったとして別宮に昇格しました。
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北御門口へ向かう途中に忌火屋殿(いみびやでん)・祓所(はらえど)が
ありますが、立ち入ることはできません。
日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)と呼ばれる毎日朝夕二度の
大御饌を供える神事をはじめ、諸祭典の神饌(しんせん)を調理する所で、
忌火とは清浄な火という意味です。
木と木をすり合わせて発火させ、神事をはじめ全ての火は、
この忌火を使用しています。
前庭は祓所で、諸祭典の神饌と神職を祓い清めます。
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忌火屋殿の先に北御門口鳥居が建っています。
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鳥居をくぐった所に御厩(みうまや)があります。
外宮では皇室から奉納された2頭の神馬を飼育していますが、
必ずしも御厩にいるとは限らないようです。
神馬は、毎月1日、11日、21日の8時頃に正宮に参拝する
「神馬牽参」(しんめけんざん)が行われます。
雨天時や神馬の体調によっては見送られる場合もあるそうです。
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御厩の先に北御門口の火除橋があります。
駐車場まで戻り、バスで内宮に向かいます。
続く。

内宮-その1

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外宮を1時前に出発し、10分足らずで内宮の駐車場に到着しました。
内宮は、正式には皇大神宮(こうたいじんぐう)といい、
五十鈴川の川上に鎮座しています。
参拝はまず五十鈴川に架かる宇治橋を渡ります。
宇治橋は、御裳濯橋(みもすそばし)とも呼ばれ、
日本百名橋の一つに数えられています。
橋の長さは101.8m、幅8.42mの木造の和橋(わきょう、日本風の橋)で、
式年遷宮の4年前に架け替えられています。
これは戦後の第59回神宮式年遷宮が昭和天皇の指示で延期となり、
宇治橋だけが当初の予定通り昭和24年(1949)に架け替えられ、
その4年後に式年遷宮が行われたことから、4年のずれが生じるようになりました。
橋の両側に建つ鳥居は、高さ7.44m、直径は最も太い部分で約70cmあり、
旧正殿の棟持柱(むなもちばしら)が使われています。
やはり、式年遷宮に合わせて建て替えられ、外側の鳥居は外宮の、
内側の鳥居は内宮の旧正殿の棟持柱が使用されています。
冬至を中心とする約2か月の間は、宇治橋の鳥居の間からの日の出を
拝むことができます。
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橋の上流側には、川の増水などでの流木などが橋脚に衝突し損傷しないように
木除杭(きよけぐい)が設置されています。
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橋を渡って右側が順路になり、参道の右手に神苑があります。
満開の梅の花を愛でることができました。
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芝生の広場の神苑には、周囲に松の木が植えられています。
大正天皇御手植の松もあります。
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神苑の先、小川に架かる橋を渡った右側に手水舎があります。
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手水舎の先、鳥居をくぐった右側に御手洗場(みたらしば)があります。
五十鈴川は、神聖な川、清浄な川とされ、かってはこの水で心身ともに
清めていました。
敷き詰められている石畳は、桂昌院が寄進されたものです。
五十鈴川は、御裳濯川(みもすそがわ)とも呼ばれ、
倭姫命(やまとひめのみこと)が御裳のすそを濯いだことから
名付けられたと伝わります。
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御手洗場から上流側に瀧祭神(たきまつりのかみ)が祀られています。
社殿はありませんが、五十鈴川の守護神とされ、内宮の所管社ながら、
祭典は別宮に準じています。
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御手洗場から参道は左側に折れ、鳥居をくぐった先にからお神札(ふだ)授与所、
ご祈祷受付、御饌殿(みけでん)があります。
参集殿への参道の方から撮影しています。
神宮のお神札は、「大麻(たいま)」、「大麻(おおぬさ)」とも呼ばれます。
また、お守りの授与や朱印を受けることができます。
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お神札授与所に隣接して神楽殿があります。
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神楽殿を超えた所に五丈殿があり、お祭りが雨天の場合、
神饌(しんせん)などを祓い清める場所です。
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五丈殿の奥に御酒殿(みさかどの)と由貴御倉(ゆきのみくら)があります。
奥の大きい方の建物が御酒殿で、酒の神をお祀りし、
古くはここで神酒を醸造していました。
現在は、三節祭(さんせつさい)の前に酒麹を奉納し、白酒、黒酒、醴酒、
清酒の四種類の神酒を一旦納めます。
手前に見える由貴御倉は、古くはお供えものや果物などを納めていました。
由貴とは、清浄でけがれのないという意味を持っています。
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通りをはさんだ向かい側に忌火屋殿(いみびやでん)、祓所(はらえど)があり、
忌火屋殿は神饌を調理する所です。
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忌火屋殿の前庭は、祓所と呼ばれ、祭典の前に神饌と神職を祓い清めます。
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正宮の石段下にある御贄調舎(みにえちょうしゃ)は、内宮の祭典の際、
御饌都神(みけつかみ)である外宮の
豊受大御神(とようけのおおみかみ)を迎え、
神饌の代表として鰒(あわび)を調理する儀式が行われます。
この行事は古く五十鈴川の中州で行われていました。
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正宮内は撮影が禁止されています。
中央に見える鳥居を「板垣南御門」、鳥居の両側の玉垣を「板垣」、
鳥居の奥に見える建築物を「外玉垣南御門」、
手前にある石段を「石階」といいます。
皇大神宮(内宮)の主祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)で、
三種の神器の1つ、八咫鏡(やたのかがみ)を御神体としています。
天孫降臨の際、天照大御神は邇邇芸命(ににぎのみこと)に三種の神器を授け、
その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとく
すべし。」として天照大御神自身の神霊を込めたとされています。
この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれました。
八咫鏡は、第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑(かさぬいむら)に移され、
皇女豊鍬入姫(とよすきいりひめのみこと)がこれを祀ることとされました。
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶え、疫病を鎮めるべく、
従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の
二神を神威の強さを畏れ、皇居の外に移したとされています。
垂仁天皇25年、八咫鏡は豊鍬入姫から倭姫命(やまとひめのみこと)へと
引き継がれ、天照大御神を祀るための土地を求めて大和国から
伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、
神託により皇大神宮を創建したとされています。
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正宮から戻って右折すると、正宮の西の鳥居が望めますが、
勿論立ち入ることはできません。
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緩い坂道を上って行くと御稲御倉(みしねのみくら)があります。
祭神は御稲御倉を守護する御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)で、
神田から収穫した抜穂(ぬいぼ)の御稲が納められ、
祭典に際し大御饌(おおみけ)として神前に供えられます。
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御稲御倉の先に外幣殿があります。
古神宝類が納めてあり、外宮では御垣内にあります。
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外幣殿を越えて、石段を下ります。
この石段を約四十段下がった所には4つに割れ「天」の字のように見える石があり、「踏まぬ石」と呼ばれ避けて通らなければならないとされています。
「踏まぬ石は天から降って来た」という伝説があります。
石段を下った正宮の北方、やや小高い所に荒祭宮(あらまつりのみや)が
鎮座しています。
荒祭宮は、内宮に所属する十別宮のうち、最も格が高く、社殿の規模も
正宮に次ぐ大きさで、正宮と同時に創建されたと云われています。
天照大御神の荒御魂(あらみたま)を祭神としています。
祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、
皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行されます。
風日祈宮(かざひのみのみや)へ向かいます。
続く。


内宮-その2

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荒祭宮から戻り、五十鈴川支流の島路川に架かる
風日祈宮橋(かざひのみのみやばし)を渡ります。
風日祈宮橋は長さ45.6m、幅4.6mで、最初に架けられたのは室町時代の
明応7年(1498)で、南端の擬宝珠(ぎぼし)に「太神宮風宮
 五十鈴川御橋明応七年戌午本願観阿弥 敬白」と刻まれています。
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古くはこの川が五十鈴川本流とされていて、この橋は五十鈴川橋と
呼ばれていましたが、最も長い川が河川の本流と定義されてからは
島路川になり、橋は風日祈宮橋と呼ばれるようになりました。
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橋を渡った先に風日祈宮があります。
祭神は外宮別宮の風宮と同じ級長津彦命・級長戸辺命
(しなつひこのみこと・しなとべのみこと)で、古くは現在の末社格の
風神社でしたが、風宮と同じく元寇の後に別宮に昇格しました。
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風日祈宮から戻り、神楽殿を通り抜けた所に御厩(みうまや)があります。
内宮でも皇室から奉納された2頭の神馬を飼育していますが、
必ずしも御厩にいるとは限らないようです。
神馬は、毎月1日、11日、21日の8時頃に正宮に参拝する
「神馬牽参」(しんめけんざん)が行われます。
雨天時や神馬の体調によっては見送られる場合もあるそうです。
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御厩の先に参集殿があります。
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参集殿の前を通り過ぎ、宇治橋を左に見えてきた所、右手に衛士見張所があり、
その奥に鳥居が見えます。
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鳥居をくぐった先に大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)があります。
旧称を「山神社」と云い、神宮式年遷宮の最初の祭儀である
山口祭」はこの神社で催行されていたとされています。
山口祭とは、新宮(にいみや)の御用材を伐り出すに当たり、
御杣山(みそまやま)の山の口に坐す神に伐採と搬出の安全を祈る
神事でしたが、御杣山が移動されたのに伴い、この神社では
「山口祭」が行われなくなりました。
祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)で、伊弉諾命(いざなぎのみこと)・
伊弉冉命(いざなみのみこと)の子であり、山の守護神とされています。
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大山祇神社の横に子安神社があります。
祭神は木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)で、
元は宇治館町の産土神であったとされています。
大山祇神社の祭神・大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘であり、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻であります。
猛火の中で3柱の子を出産したとされ、この神話から、安産、子授け、縁結び、
厄除けの神とされています。
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大山祇神社から宇治橋を渡り、駐車場の奥に入った小高い所に饗土橋姫神社が
あります。
宇治橋の守護神であり、宇治橋と対面する位置に鎮座しています。
「饗土(あえど)」とは、神を祀る土地を意味し、饗土橋姫神社は宇治橋から
内宮の宮域四方に疫病神や悪霊などの悪しきものが
入るのを防ぐために守っています。
宇治橋の架け替えに先立って社殿が建て替えられるため、神宮式年遷宮において、
伊勢神宮の所管する125社の中では最も早く建て替えられる神社でもあります。
新しい宇治橋を建設する際に行われる「宇治橋修造起工式」や、
宇治橋が完成した際には「宇治橋渡始式」の祭事が行われます。
元は、宇治橋のすぐ近くに社地がありましたが、明治40年(1907)に
国道(御幸道路)建設に当たって、現在地に遷されました。
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饗土橋姫神社から右側に少し上った所に津長神社があります。
津長神社は、内宮の摂社27社のうち第14位で、水神とされる
栖長比賣命(すながひめのみこと)を祭神として、
垂仁天皇26年に創建されたと伝わります。
鎮座地の古い地名を「津長原」と云い、五十鈴川を遡上してきた船の船着き場が
あり、倭姫命もここで上陸したと伝わります。
かっては五十鈴川の岸辺近くに広い社地を有し、現今よりも重大な祭祀が
捧げられていたのですが、中世以降途絶えてしまいました。
江戸時代の寛文3年(1664)に遷御(せんぎょ)の儀が行われ再興されました。
明治時代になって、元来別の場所に鎮座していた新川神社・
石井神社(いわいじんじゃ)が同座されました。
新川神社の祭神は、新川比賣命(にいかわひめのみこと)で、
川の神として伝えられ、倭姫命が定められました。
石井神社の祭神は、高水上命(たかみなかみのみこと)で、
石清水の守り神と伝えられます。
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津長神社から戻り、饗土橋姫神社の左側に少し上って行くと、
幹回りが2m以上ある楠の古木が四方に幹を伸ばしています。
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石垣に沿って、楠木の裏側に廻りこんだ所に大水神社があります。
大水神社は、内宮の摂社27社のうち第16位で、創建は垂仁天皇の御代、
倭姫命が定めたとされています。
祭神は、大山祇御祖命(おおやまづみのみおやのみこと)で、大山祇神社と同じ
祭神が祀られています。
大水神社だと云うのに山の神が祀られています。
室町時代までは、社地も広く神事も行われていたそうですが、その後途絶え、
社殿は廃絶し、社地の一部が民家や寺院、林崎文庫
の敷地になるなどして縮小しました。
江戸時代の寛文3年(1664)に遷御(せんぎょ)の儀の際に再興され、
明治時代になって川相神社(かわあいじんじゃ)・熊淵神社が
同座されました。
川相神社・熊淵神社とも元来五十鈴川の上流に鎮座していました。
川相神社の祭神は、細川水神(ほそかわのみずのかみ)で、
川の神として伝えられ、倭姫命が定められました。
熊淵神社の祭神は、多支大刀自神(たきおおとじのかみ)で、
石清水の守護神とされています。
林崎文庫へも足を伸ばしたかったのですが、時間の関係で断念しました。
バスツアーだと参拝の時間帯が集中し、混雑しているように感じます。
バスツアーより少し割高になりますが、近鉄を利用し、早い時間帯に
参拝できれば順番待ちをしなくても...と考えます。
外宮の祭神、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、
等由気大神(とようけのおおかみ)を訪ねようと考えています。
比沼真奈井とは、天橋立にある籠神社(このじんじゃ)と奥宮・真名井神社です。
続く。

智恩寺(文殊堂)その1

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京都発6:37の普通列車で福知山に向かいます。
8:38に福知山に到着、8:53発の北近畿タンゴ鉄道の特急・たんごリレー1号に
乗り換えます。
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二両連結で、後ろ一両が自由席ですが、座席には余裕がありました。
車内は、床や窓枠に木材が使用され、後部にはラウンジがあり豪華です。
9:30に天橋立駅に着きました。
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駅前の車道を右に曲がり、次の信号を左折すると智恩寺の山門が見えてきます。
徒歩約5分で山門に着きます。
山門は、江戸時代に足掛け7年の工事期間を経て明和4年(1767)に上棟されました。
再建にあたって後桜町天皇から黄金を下賜されたことにより
「黄金閣」と称されています。
三間三戸の二重門で、上層には釈迦如来や十六羅漢が安置されているそうですが、
上層に立ち入ることはできません。
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山門をくぐった左側に多分、大正天皇が皇太子の時代に手植えされた
松の木が立っています。
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松ぼっくりがたいへん多いのが目に留まります。
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下に落ちている松葉は、高野山の三鈷の松(さんこのまつ)と同様に
三葉の松葉です。
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松の木の奥に多宝塔があります。
多宝塔は、室町時代の明応10年(1501)に、丹後国守護代で
府中城主延永修理進春信によって建立されました。
この多宝塔は、丹後地方唯一の室町時代の遺構で、重要文化財に指定されています。
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多宝塔の前には、初代と二代目の狛犬が置かれています。
本堂の狛犬は、三代目に当たり、昭和33年に再建されたもので、
台座には大正12年10月の刻文があります。
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多宝塔の先、池の中に妙音殿があり、弁財天が祀られています。
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池の横に建つ宝篋印塔は、近世初期における鉄砲の名手として名高い
稲富一夢斎(いなとみいちむさい)の墓で、
台座には慶弔16年(1611)の刻文があります。
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宝篋印塔の前方に、手水舎として使われている鉄湯船が置かれています。
鋳鉄製で、高さ63.5cm、直径が172.5cmです。
内側に銘が入っているらしいのですが、今は水が溜まり確認はできません。
それによると、鎌倉時代の正応3年(1290)に弥栄町にある興法寺が、
寺僧の施浴に用いる湯船として制作させたようです。
重要文化財に指定されているこの手水で身を清め、本堂の文殊堂を参拝します。
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智恩寺は、寺伝によると、平安時代の大同3年(808)に
平城天皇(へいぜいてんのう)の勅願寺として
創建されたと伝わります。
文殊堂は、宮津藩主京極高国が江戸時代の明暦元年(1655)から始められた
修理によって、現状に改められました。
雪舟が描いた「天橋立図」からは、ちょっと姿が異なってしまったようです。
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文殊堂に掛る扁額は、山号「五臺山」が記され、五台山は中国にあり、
文殊菩薩の聖地とされています。
文殊堂の本尊は文殊菩薩で、秘仏とされ、正月三が日、1月10日、7月24日の
年5日しか開帳されません。
鎌倉時代の作で、獅子に乗る文殊菩薩を中心に、獅子を曳く優でん王と、
文殊を象徴する経箱を捧げ持つ善財童子の、三尊形式で
重要文化財に指定されています。
文殊がインドから中国へ旅したという姿を表しているとされています。
奈良県桜井市の安倍文殊院(安倍文殊)、山形県高畠町の 大聖寺(亀岡文殊)
などとともに日本三文殊のひとつとされています。
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文殊堂の内部には、多くの絵馬が奉納されています。
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文殊堂の左側には方丈への門があります。
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門の横から方丈を望むことができます。
方丈は、天保12年(1841)に再建され、上間の床板は「一分七目の松」と
称された、天橋立の松が用いられています。
天橋立公園は、明治維新までは智恩寺の領地でした。
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方丈の斜め前に無相堂があり、寛永年中(1624~1645)に再建されました。
文殊堂の右側へ向かいます。
続く。

智恩寺(文殊堂)その2

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文殊堂の右側(東側)奥に寛政11年(1799)に再建された庫裏があります。
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庫裏の前に鐘楼門があります。
二人の子女を相次いで亡くした宮津の商家木村正英によって、
享保7年(1722)に建立されました。
その菩提を弔うべく、二人の法名「暁山彗察」「洞雲自照」から
「暁雲閣」と命名されました。
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上層には、再建の経緯を記した銘額「暁雲閣記」が揚げられています。
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暁雲閣には、室町時代の天文年間(1532~1555)に鋳造された梵鐘が
吊在してありましたが、嘉永年間(1848~1854)に大口径の梵鐘が
改鋳されたため、明治14年(1881)に鐘楼が建立されました。
現在の梵鐘は、昭和48年に再改鋳されました。
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鐘楼から山門方向に進んだ所に一躯、そして通路を挟んで二躯、
合わせて三躯の等身大の石地蔵像が祀られています。
左手に宝珠を捧げ、右手は錫杖を持つ形になっていますが、
錫杖は今は失われています。
北の一躯は、頭部が補修されているらしく、胴と不釣り合いに見えます。
三躯は、いずれも室町時代のもので、北の一躯には嘉吉元年(1441)の
刻銘があります。
南側二躯の内、右側の像は応永34(1427)年丹波郡三重郷大江越中守永松の
寄進になる千体地蔵の一躯ですが、残りの像は不明です。
左側の像は、永享4年(1432)沙弥祐長の寄進であり、
三躯はそれぞれ異なる出所ですが、「天橋立図」には描かれています。
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宝篋印塔は、丹後国司藤原保昌の妻としてこの地で過ごした和泉式部の供養塔と
伝わります。
鎌倉時代のもので、室町時代の明応年間(1492~1501)までの頃、
山門より600mほど南にある鶏塚から掘り出されたと伝わります。
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庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する
庚申信仰に基づいて建てられました。
その後、塞神(さえのかみ)として村の境目などの街道沿いに
置かれるようになりました。
明治時代になり、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に
置かれたものを中心にその撤去が進められ、
寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に
置かれていたため開発による破壊を免れたものが、今でも残されています。
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三個の力石は、重さが大130kg、中100kg、小70kgあります。
元は、当地区で力自慢を競うために使用されていましたが、智恩寺に奉納され、
触れると力と知恵が授かる御利益があるとされています。
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鎮守社の方まで戻ります。
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鎮守社の横には、霊木・文殊が茂っています。
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霊木から海の方へ出ると、石造りの「智恵の輪」が建っています。
智恵の輪は、もともと船の安全航行のための灯篭でしたが、
古くから智恩寺の海岸に建っていたことから、この灯籠の輪を3回くぐれば
文殊様の智恵が授かると伝わったそうです。
実際にくぐるには勇気が要りそうです。
10:25、天橋立に向かいます。
続く。

天橋立

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天橋立へはまず文珠水道(天橋立運河)と呼ばれる水路に架かる
長さ約36mの廻旋橋を渡ります。
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観光船で帰ってきた時、ちょうど橋が廻旋していました。
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続いて大天橋を渡ります。
天橋立は、『丹後風土記』によると、その昔、天への架け橋と云われ、
伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ) の神が天への上り下りに使われた
浮き橋でしたが、ある日伊弉諾が昼寝を している間に倒れて天橋立となった
という神話が残っています。
また、能の久世戸(くせのと)は、天皇の臣下が久世戸に参拝し、
美しい景色に見とれていると、老若二人の漁夫が現れる。
老人は久世戸の地名の由来や縁起などを説明し、「本尊の文殊菩薩に仕える者で、
今夜は神事が行われる」と教えて消える。
夜が更けると、月下に天女が天燈を持って降臨し、海上から龍神が龍燈を
持って現れ、松の木に捧げると、光は一つになって天地を照らす。
龍神は神通力で飛び回り、豪快に舞を舞う。という筋書きになっています。
久世戸とは、天橋立と智恩寺のある半島の海峡を言ったとあります。
小天橋と呼ばれる砂州には「久世戸の松」と名付けられた松の木が立っています。

国生みの神に請われた中国五台山の文殊菩薩が、地上で暴れる悪龍を千年かけて
説法し、善龍へと教化したという話に続いて、国生みの神が地上へと降りる
天浮橋は文殊菩薩の如意であり、それが海に落ちて一夜にして龍神が土を盛り、
天人が松を植えて天橋立となったと結ばれています。
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岸のすぐ近くで牡蠣の漁をされていました。
海岸には牡蠣の貝殻が散乱していました。
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与謝野寛・晶子夫妻の句碑です。
小雨はれ みどりとあけの虹ながる
    与謝の細江の 朝のさざ波    寛
  
人おして 回旋橋のひらく時
   くろ雲うごく 天の橋立     晶子

与謝野寛の父・礼厳は丹後与謝郡温江村(現与謝野町温江)の出身であることから、夫妻はたびたび天橋立に訪れたそうです。
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松の木には命名されているものが多くあります。
先ほどの「久世戸の松」は撮り忘れましたが、「智恵の松」は収めました。
一本の松が三叉になっていて、「三人寄れば文殊の智恵」から引用されました。
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岩見重太郎試切之石
父の仇を追って宮津まで来た剣豪・岩見重太郎が仇討の前に試し切りをしたと
伝わる石です。
石を切っては刃がこぼれて、仇討の時に役に立たなくなるように思うのですが...
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試切之石の先に仇討の場がありました。
父の仇として広瀬軍蔵、鳴尾権三、大川八左衛門の三人の仇討ちをしたと
伝えられている場所です。
三人は重太郎を恐れて領主京極家に隠れていましたが、京極家に乞うて
仇討ちを許され、寛永9年(1632)9月20日、天橋立の濃松において三人を討ち倒し、ついにその本望をとげたと伝えられています。
なお、岩見重太郎は薄田隼人と同一人とされ、豊臣家の家臣であったが、
大阪冬の陣では大いに戦って名をとどろかし、夏の陣で惜しくも戦死したと
伝わりますが、伝説上の人物とも...
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磯清水
周囲を海に囲まれていながら、少しも塩味を含まない清浄な淡水が湧出している
ところから、古来より不思議な名水とされています。
昭和60年(1985)には「日本の名水百選」の一つとして、
環境省の認定を受けました。
平安時代、和泉式部が「橋立の 松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし」
と詠ったと伝えられています。
但し、磯清水は飲まないようにとの注意書きがあります。
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磯清水は、横にある天橋立明神の手水として使われているようです。
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天橋立明神は、現在は天橋立神社と呼ばれ、正面に豊受大神、
向かって左は大川大明神、右に八大龍王が祀られています。
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境内にある石灯篭。
美しい形をしています。
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神社の前に、明治時代にイギリスで製造された大砲が置かれていますが、
何か違和感があります。
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ここにもありました。
明治40年(1907)、大正天皇が皇太子時代に手植えされた松。
普通の松でした。
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屋根で守られたお地蔵さん。
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千貫松
1貫文は現在の約25,000円に相当するそうですので相当高価な松になります。
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羽衣の松
羽衣伝説は日本各地に存在していますが、丹後にも峰山を舞台にしたものが
『丹後国風土記』に残されています。
それによると、
1.天に帰れなくなった天女は老夫婦の子として引き取られる。
2.天女は酒造りにたけ、老夫婦は裕福となる。
3.老夫婦は自分の子ではないと言って追い出す。
4.天女はさまよった末ある地に留まり鎮まった。
この天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。
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双龍の松
平成16年10月20日の台風で倒れてしまった松。
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この台風で247本の松が倒れたそうです。
倒れた松を補うべく植樹が行われています。
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傘松ケーブルが見えてきました。
天橋立を通過した時刻は11:50。
普通は約40分で通過できるのに約1時間半も費やしてしまいました。
先に進む前に船着き場に寄って、傘松ケーブルの往復券と観光船の片道切符が
セットになった割引チケットを1,100円で購入します。
そして通りに出て、左側にあるスーパーで弁当を購入し、飲み物の棚に移動して
お茶を買うつもりが、手に取ったのはビールでした。
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スーパーの裏で海を見ながら昼食をとりました。
籠神社(このじんじゃ)へ向かいます。
続く。

籠神社

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観光船の乗り場から北上すると、国道178号線に面して籠神社(このじんじゃ)の
鳥居が建っています。
広い駐車場には、大型の観光バスが多数乗り入れています。
傘松公園へは神社の境内を通って行けますので、天橋立からも神社を参拝するのが
順路になっているようです。
宇治橋を渡り、一の鳥居をくぐり参道を進みます。
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参道には、舞鶴市で見つかった「大和さざれ石」が奉納されています。
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手水舎は大きくて、ゆったりと身を清めることができます。
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二の鳥居をくぐります。
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鳥居の先にある狛犬は、鎌倉時代の作とされ重要文化財に指定されています。
この狛犬には、以下のような伝説が残されています。
「その昔、作者の魂が狛犬にこもり、石の狛犬が天橋立に暴れ出て通行人を
驚かしたので、たまたま仇討ちに来ていた豪傑岩見重太郎が一夜待ち伏せ、
剛刀で狛犬の脚に一太刀浴びせたところ、それ以来社頭に還り事無きを得て、
爾来魔除けの狛犬と云われて霊験があらたかになったと伝えられています。」
確かに狛犬の前足には、補修の跡が見られます。
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神門をくぐった先に拝殿があるのですが、ここから先は撮影禁止になっています。
籠神社の主祭神は、邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄である
彦火明命(ひこほあかりのみこと)です。
邇邇芸命が天照大神の神霊を込めた鏡を携えて高千穂峰へ降臨したのに対し、
彦火明命は豊受大神の神霊を込めた鏡を携えて丹後の地に降臨されたと
されています。
彦火明命は、籠神社の社家、海部氏(あまのべし)の始祖となり豊受大神を
祀ったのが始まりとされています。
当初は、現在の奥宮・真名井神社(まないじんじゃ)の地にありました。
第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑(かさぬいむら)に移された、
天照大神の神霊を込めた八咫鏡(やたのかがみ)は、真名井神社に移され、
「吉佐宮(よさのみや)」という宮号で4年間祀られました。
その後、海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が
宮号を「籠宮」と改め、真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、
その後奈良時代の養老3年(719)に、二十七代目当主
海部直愛志(あまべのあたええし)が、現在の籠神社の地へと遷宮しました。
それを機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、
相殿に豊受大神・天照大神・海神(わたつみのかみ)・
天水分神(あめのみくまりのかみ)が合祀されました。
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拝殿から左側に進んだ左側に産霊岩(むすびいわ)と呼ばれる天然記念物の
さざれ石が置かれています。
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産霊岩の横に磐座を象徴したと思われる「御生(みあ)れの庭」が
造園されています。
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「御生れの庭」の向かいには、天照大神和魂社
(あまてらすおおかみにぎみたましゃ)があります。
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天照大神和魂社の横に春日大明神社
(かすがだいみょうじんのやしろ)があります。
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春日大明神社の横に猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)があります。
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猿田彦神社の横に真名井稲荷神社(まないいなりじんじゃ)があり、
古代から明治末迄奥宮真名井原に祀られていました。
平成3年になって、現在地に再建されました。
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真名井稲荷神社の先に亀に乗った倭宿禰命(やまとすくねのみこと)の
像があります。
倭宿禰命は、海部家四代目の祖先で、元々は「珍彦(うづひこ)」、
「椎根津彦(しいねづひこ)」、「神知津彦(かんしりつひこ)」、「槁根津日子(さおねづひこ)」と呼ばれていたとされています。
倭宿禰命は神武東征の際に、速吸門(明石海峡)に亀に乗って現れ、
神武天皇の先導役として浪速、河内、大和へと導いて東征の行軍に
貢献したとされています。
神武天皇が帝位に就いてから、天皇を無事に大和へと導いた功労者として
「倭宿禰」の称号を授かりました。
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裏参道の鳥居をくぐり、真名井神社へ向かいます。
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籠神社から東に進むと、道路脇に鳥居が建っていて
鳥居をくぐり、緩い坂道を登ります。
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籠神社は、平成31年に真名井原から現在地に遷座して1300年を迎えることから、
平成10年から整備事業が行われてきました。
本宮は、平成21年に完成したのですが、真名井神社ではまだ工事が行われ、
仮設の参道を進みます。
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仮設の参道を上った所に「波せき地蔵尊」が祀られています。
約1300年前の大宝年間(701~704)に起きた大地震で、ここまで津波が
押し寄せたのですが、この地蔵が津波を切り返したと伝えられています。
ここの標高は約40~50mとされ、もし現在このような地震が発生したとすると
小浜や敦賀の原発がどのような被害を受けるかと考えると、
背筋が寒くなる思いがしました。
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天の真名井の水(あめのまないのみず)
海部家三代目の天村雲命(あめのむらくものみこと)が天上に昇り、
高天原で神々が使用する天忍石(あめのおしいわ)の長井の水を琥珀の鉢に入れて
地上に持ち降りました。
天村雲命は、この水を日向の高千穂の御井に遷し、その後
丹波の魚井(まない)の石井に遷したと伝わります。
雄略天皇の御代、「天の真名井」は伊勢外宮(豊受大神宮)の御井に遷されたと
伝わります。
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真名井水神社には、蛇口が設置され、天の真名井の水(あめのまないのみず)
は、飲まないようにと注意書きされていますが、
こちらの水は飲用可能になっています。
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境内には達磨のように見える石がありました。
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鳥居をくぐり真名井原の神域へと入ります。
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神域を守護しているのは、狛犬ではなく龍です。
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現在は工事中のため社殿がありません。
真名井原のご神体は、東と西の磐座(いわくら)です。
東座には、豊受大神、西座には天照大神、伊弉諾(いざなぎ)、
伊弉冉(いざなみ)が宿っているとされています。
奥の方には、大綿津見神(おおわつみのかみ)、
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られ、その前方に「うぶだらい」
が境内図には記されていますが、幕が張られ行くことも
見ることもできませんでした。
西国三十三所の第二十八番札所の成相寺へ向かいます。
続く

成相寺

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真名井神社から戻り、傘松公園へはリフトに乗って向かいます。
12:45のケーブルカーに乗車する予定でしたが、少し早く着いたので
待ち時間無しのリフトで登ることにしました。
ケーブルカーとリフトは、往復660円で、どちらの乗車も可能です。
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傘松公園からの天橋立の眺めは、龍が天へと昇って行くかのように望まれ、
「昇龍観」と呼ばれています。
公園内には、展望テラスの「スカイテラス」や展望スペースの
「スカイデッキ」などが整備され、古くから景色を楽しむのに「股のぞき」が
有名でした。
股のぞきをして景色を見ると、天地が逆さまになり、直立した姿勢で見た時より
平らで奥行きが少ない印象を受け、小さく縮んで見えるそうです。
イグ・ノーベル賞を受賞した効果ですが、試すのは止めて
公園の西端にある冠島・沓島遥拝所へ向かいます。
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伝承では、冠島と沓島は元伊勢籠神社の奥宮で、籠神社のご祭神である
彦火明命(ひこほあかりのみこと)と
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が天降り夫婦となった神聖な島として
古代から特別視されてきました。
また、『丹後風土記』には、大宝元年(701)に三日続きの大地震が発生し、
凡海郷(おおしあまごう)と呼ばれた集落が海に沈み山頂だけが海上に残って
冠島と沓島になったとの記述が見られます。
そして、「冠島の磯に鳥居ありて 老人島神社(おいとじまじんじゃ)といふ」
との記述があり、この老人島神社が籠神社の奥宮で
あったとされています。
現在も社殿が残され、彦火明命(ひこほあかりのみこと)が祀られています。
冠島周囲の海底の一部から弥生時代の遺跡のようなものが見つかっているそうです。
現在、冠島は国の天然記念物に指定されていて、沓島とともに
京都府指定冠島沓島鳥獣保護区にも指定されていることから、
一般の人は島に立ち入ることが出来なくなっています。

傘松公園から登山バスで成相寺(なりあいじ)へ向かいます。
天橋立から一の宮までの観光船の片道料金530円とケーブルカーまたは
リフト往復乗車券660円がセットになった割引券は、
1,100円で90円の割引ですが、その割引券でを提示することで成相寺の入山料と
往復の登山バス代1,100円が800円に割り引かれます。
成相寺へのバス道は、急坂で道路に滑り止めが施されているのか結構
ガタガタと揺れます。
山門前を通り過ぎ、6分間で蓮池近くのバス停まで直行します。
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蓮池は、底無し池とも呼ばれ、大蛇が住んでいたと伝わります。
寺の小僧を次々と呑み込んでいったため、和尚が小僧に見せかけた藁人形を作り、
中に火薬を仕込みました。
藁人形を呑み込んだ大蛇の腹の中で火薬が爆発し、大蛇は苦しみながら山を下り、
阿蘇海に入り文殊の辺りで力尽きて沈んでしまったそうです。
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池には弁天堂があり、弁財天が祀られています。
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五重塔は、平成10年(1998)に鎌倉様式を再現して完成したそうです。
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五重塔から少し上ると、弁天山展望台があります。
天橋立が一直線に見え、傘松公園からの景色とはまた違った風情があります。
また、本当の股のぞきとは、この展望台で行われてきたのが
伝承されてきたそうです。
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ここからは、冠島は見えませんでした...残念!
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バス停まで戻ります。
バス停のすぐ先が石段になっています。
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石段を少し上った所に鐘楼があります。
梵鐘には慶長13年(1608)の銘が入っています。
この鐘を鋳造するため浄財の寄進を募ったのですが、府中で一軒だけ
「子供は沢山居るが寺に寄付する金はない」、と言って断った家がありました。
鋳造が始まると、二度続けて失敗し、三度目に取り掛かった時、
寄付をしなかった家の赤ん坊を誤って坩堝(るつぼ)の中に落としてしまいました。
出来上がった鐘をつくと、子供の泣き声、母を呼ぶ悲しい声が聞こえ、
聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、
以後、一切この鐘をつくのを止めたと伝わり、「撞かずの鐘」と呼ばれています。
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鐘楼から少し石段を上った所に、約650年前に造られた「一願一言地蔵」が
祀られています。
ただ一つの願いを一言でお願いすれば、どんなことでも必ず叶えてくれる地蔵
と伝わります。
宝くじが当たりますようにと願いましたが、まだ当たっていません。
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地蔵の後ろに観音堂があります。
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堂内には、三十三霊場の本尊が安置されています。
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本堂は、江戸時代の安永3年(1774)に再建されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
寺伝によれば飛鳥時代の慶雲元年(704)、文武天皇の勅願寺として
真応上人によって開基されました。
創建時は成相山(569m)の現在地よりさらに上方に位置し、
修験の道場となっていました。
応永7年(1400)に山崩れが発生し、現在地に移りました。
成相寺と名付けられた由来が公式ウェブサイトにありました。
「一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中、深雪の為、里人の来住もなく
食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となりました。
死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈りました。
すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に傷ついた鹿が倒れているのに
気付きました。
僧として肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、
決心して鹿の腿をそいで鍋に入れて煮て食べました。
やがて雪も消え、里人達が登って来て堂内を見ると、本尊の腿が切り取られ
鍋の中に木屑が散っていました。
 それを知らされた僧は観音様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、
木屑を拾って腿につけると元の通りになりました。
此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けました。」

成相寺の本尊は平安時代の聖観音菩薩ですが、
33年に一度開扉の秘仏とされています。
この観音菩薩は美人観音と呼ばれ、室町時代の御伽草子に登場する
梵天国王の姫君が姿を変えた観音様と伝わります。
小野小町も信仰したと伝わり、拝む人は美しい人になると言い伝えられています。
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高いところまで千社札が張られた堂内は撮影が禁止されていますが、
左甚五郎作の「真向きの龍」は撮影が許可されています。
雨乞いのため、龍の彫刻を成相寺に奉納することになり、折しも宮津に
滞在していた左甚五郎に製作の依頼を行いました。
しかし、龍の姿を見たことない甚五郎は、途方に暮れていたのですが、
ある夜夢の中で龍の住処を教えられます。
早速、教えられた場所、成相山のとある滝壺に降り立つと、
龍が姿を現したと伝わります。
そして、完成したのが「真向きの龍」で、右から見ても左から見ても自分の方を
向いていることから、「真向きの龍」と云われています。
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本堂の右側に鎮守社があり、熊野権現が祀られています。
延宝4年(1676)に上棟されたもので、成相寺に現存する最古の建物であり、
京都府の文化財に指定されています。
社殿は覆屋に収められています。
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鎮守社の前に西向きに十王堂があります。
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縁側に賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)が安置されています。
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堂内の左側にクジャク明王が安置されています。
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堂内の右側には閻魔大王を中心に十王尊が安置されています。
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本堂の左前に置かれている鉄湯船は、鎌倉時代の正応3年(1290)の銘があり、
重要文化財に指定されています。
現在は手水鉢に転用されています。
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鉄湯船の左側に、安楽と健康長寿の御利益があるとされる、
楽寿観音が祀られています。
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境内の地蔵像
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五輪塔
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バスの時間まで余裕がありましたので山門まで下りました。
参道の途中にひっそりと佇む石仏がありました。
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山門
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山門の仁王像

バス停まで戻り、15:10発のバスで傘松公園まで下ります。
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下山はケーブルカーを利用しました。
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観光船にはカモメのエサが販売されています。
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カモメが餌をねだっているようです。
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船が動き出すとカモメが後を追っていきます。

16:28天橋立発の西舞鶴行に乗車し、西舞鶴で17:09発福知山行に乗換え、
綾部で18:17発の園部行に乗換え、更に園部で19:13発の
京都行に乗換え19:59に京都駅にたどり着きました。
次は、24番の中山寺へ向かいます。
続く

中山寺-その1

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青春18きっぷは、春・夏・冬に11,850円で発売され、全国のJR線の普通列車、
快速列車の普通車自由席に乗車できます。
春の分は、2月20日~3月31日まで発売され、3月1日~4月10日まで
利用することができます。
1枚の切符で、1人~5人まで利用することができ、1人の場合は5日間、
連続しても、飛び飛びでも使用できます。
先週の天橋立行に続き、2回目の使用になります。
東海道線や福知山線は快速列車が多発されていますので、使い勝手がいいです。
京都発5:52発の西明石行普通列車で大阪まで行き、
大阪で6:43発の快速・福知山行に乗換えると、7:10に中山寺に着きます。
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中山寺駅の北口駅前ロータリーには、「馬上太子」像が
2013年に建立されています。
馬上の聖徳太子は、中山寺の奥の院の方を見つめているそうです。
中山寺駅の北口から出て、国道176号線を左折して、
阪急中山駅前の信号を右折します。
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阪急の中山観音駅の下をくぐると正面に「大本山 中山寺」と刻まれた
石標が見えてきます。
阪急の中山観音駅から中山寺へは徒歩5分ですので、JR中山寺から
阪急の中山観音駅まで10分を費やしたことになります。
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突き当りを左に曲がれば、すぐそこに大きな山門が目に飛び込んできます。
この山門は、江戸時代の正保3年(1646)に徳川家光によって再建され、
兵庫県の重要文化財に指定されています。
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仁王像は、2009年頃に修復され、胎内から木札が見つかり、
山門と同時期に製作されたことが判りました。
仁王像を囲む柵には、願い事を記した数多くの
小さな奉納わらじが掛けられています。
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門をくぐりました。
改めて山門の荘厳さが覗えます。
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門の内側には、獅子と狛犬が安置されています。
この獅子と狛犬は木製で、仁王像と同じように修復が行われました。
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参道の両側に、塔頭寺院が並んでいますが、今まで本山に参拝しても、
塔頭寺院は閉鎖的な感じを受けていました。
しかし、こちらは本堂の扉も開けられていて、参拝することができます。
ただ、駒札等が無かったので、詳細が不明だったが残念です。
総持院では、雛人形が飾られていましたが3月3日はもう過ぎています。
旧暦で祭られているのでしょうか?
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本堂
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五大力不動尊
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水子地蔵
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宝蔵院山門
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本堂には、本尊の大日如来が安置されています。
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華蔵院山門
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華蔵院の水子地蔵の周りは、きれいな花で飾られていました。
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成就院山門
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本堂には、本尊の虚空蔵菩薩が安置されています。
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歓喜天堂
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参道の突き当りに石段がありますが、右に行くとエスカレーターや
エレベーターが設置されていて、足が不自由な方でも参拝できるように
配慮されています。
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石段を上った所に手水舎があります。
蓮の花の蕾ような形をしています。
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手水舎の後ろ側に鐘楼があります。
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手水舎の斜め右側に五百羅漢堂があります。
開創1400年記念事業として、平成19年に新築されました。
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堂内には、中央に本尊である釈迦如来像、その周囲には五百羅漢像が
安置されています。
五百羅漢は、仏陀に常に付き添った500人の弟子、または仏滅後の
結集(けつじゅう)に集まった弟子を称しています。
実際には700余体の像が安置され、「親兄弟の顔が見たくば、中山寺の
五百羅漢の堂にござる」と詠まれるほど様々な表情をしています。
天井には金剛界五仏と釈迦如来の種字曼荼羅が描かれ、
床には蓮華の陶板が敷かれています。
参道の左側へ向かいます。
続く

中山寺-その2

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五百羅漢堂から左側に進んだ所に塔婆おさめ所があります。
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塔婆おさめ所の左側に閻魔堂があります。
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本尊は閻魔大王で、罪状を読み上げ、判決文を記録する司命(しみょう)と
司録(しろく)の2人の書記官が脇侍として安置されています。
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堂内には、その他の十王が安置されています。
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閻魔堂の左側奥に寿老神堂があります。
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本尊は寿老神で、長寿の神であり、南極老人星(カノープス)の化身とされ、
七福神の一柱です。
寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボル
である牡鹿を従え、長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っています。
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左側には、午年生まれの守り本尊である勢至菩薩像が安置されています。
勢至菩薩は、智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように
救う菩薩とされています。
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寿老神堂の左奥に大黒堂があります。
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本尊は大黒天で、日本では、大黒天は大国主と神仏習合し、
福袋と打出の小槌を持ち、米俵に乗った姿が一般的です。
左には、子年生まれの守り本尊である千手観音坐像が安置されています。
千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、
観音の慈悲と力の広大さを表しています。
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大黒堂の横に「石の櫃(いしのからと)」と称する中山寺古墳
(白鳥塚古墳・はくちょうづかこふん)の横穴式石室があり、
兵庫県の史跡に指定されています。
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玄室の長さ6m、幅2.5m、高さ3m、羨道部(えんどうぶ)の長さ9.2m、
幅2m、高さ2.4mでほぼ南向きに開口しています。
床には敷石を敷き、5枚以上の天井石を載せてあり、玄室の中央奥寄りに、
長さ190cm、幅115cm、高さ50cmの家形石棺が安置されています。

寺伝では、仲哀天皇の先后である大中姫の墓とされ、大中姫の子、
忍熊皇子もこの地に葬られ、異母弟である応神天皇が慰霊の使者を送ったところ、
忍熊皇子の霊が「恨みを捨て、厄除神になる」と答えて古墳の羨道から
白鳥が飛び出し、山中の石(中山寺奥之院の白鳥石)の中に消えた、
と伝わります。
聖徳太子は、大中姫と忍熊皇子の霊を鎮めるために中山寺を創建したという
伝承により大中姫の墓とされたと想像されていますが、
実態はこの地区に勢力を持っていた豪族の墳墓とみられ、
家形石棺の形態から見ると、7世紀初頭の造営と考えられています。
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大黒堂の奥に阿弥陀堂があります。
阿弥陀堂は、本堂とともに慶長8年(1603)、豊臣秀頼
片桐且元(かたぎり かつもと)に命じて再建されましが、現在の阿弥陀堂は、
新築されたように見えます。
中山寺の阿弥陀堂は、先祖供養や納骨回向のための御堂で、
永代経供養の位牌が数多く祀られています。
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阿弥陀堂の近くに多宝塔がありますが、詳細は不明です。
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多宝塔の先に、亥の子地蔵(北向き地蔵)が祀られた地蔵堂があります。
亥の子(いのこ)は、旧暦10月(亥の月)の亥の日のことで、
この日に詣でてほうきにて地蔵尊を掃き清めた後に、自身を加持すれば、
頭痛・肩こり・腰痛・中風・リュウマチ等に功徳があるとされています。
六地蔵は知られていますが、ここでは十体の地蔵像が祀られています。
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地蔵の前付近は記念写真の場所になっているのでしょうか?
横の石段を上って行けば、子授け地蔵に行けたのですが
もう必要もなかったので飛ばしてしまいました。
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地蔵堂の先は広場になっています。
大きく立派な信徒会館があります。
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左側にはガラス張りの絵馬堂があります。
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広場の前は展望台になっていて、宝塚市内が望めます。
市内よりも、ぽこっとした山が気になったので撮影しました。
梅林へ向かいます。
続く
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