紀州藩主・徳川頼宣によって慶安期(1648~1651)に建造されました。
和歌山県最古の石橋で、何度か補修されているものの、橋の原型そのものは
和歌山県最古の石橋で、何度か補修されているものの、橋の原型そのものは
4世紀にわたって崩される事なく、今日まで継承されています。
橋を渡りながら海を見ると、クロダイでしょうか?結構大きな魚が
群れを成して泳いでいます。
エイの姿も見えます。
見えてる魚は釣れないといいますが、釣り道具があれば試してみたくなります。
エイの姿も見えます。
見えてる魚は釣れないといいますが、釣り道具があれば試してみたくなります。
妹背山は、周囲250m程の小島で、橋を渡った右側に経王堂が建っています。
この経王堂は、平成23年(2011)に妹背山護持顕彰会の方々の尽力により
この経王堂は、平成23年(2011)に妹背山護持顕彰会の方々の尽力により
再建されたもので、堂内には梵文題目碑が祀られています。
島は、広域変成作用によって地下深所に引き込まれた堆積物などが
高温・高圧のもとで再結晶してできた変成岩が隆起してできているようです。
島を半周した裏側に観海閣がコンクリート造りで再建されています。
観海閣は、頼宣が慶安年間(1648~1651)に木造の水上桜閣として
観海閣は、頼宣が慶安年間(1648~1651)に木造の水上桜閣として
建立したものですが、台風や高波の被害を受け、
再建や改修が繰り返されましたが、昭和36年に第二室戸台風で流出しました。
確かに強度的にはコンクリート造りでしょうが、
確かに強度的にはコンクリート造りでしょうが、
歴史を伝える建物の役割が失われたような気がします。
かっては、正面に紀三井寺と背後の名草山(なぐさやま・標高228m)を
望む景勝地だったのでしょうが...現在の景色です。
観海閣から石段を少し上った所に海禅院・多宝塔があり、
和歌山市の文化財に指定されています。
慶安2年(1649)、頼宣の母親・養珠院(お万の方)が、徳川家康の三十三回忌の
慶安2年(1649)、頼宣の母親・養珠院(お万の方)が、徳川家康の三十三回忌の
際に、法華経を書写した経石を納めた石室を造り、
その上に小堂を建てました。
養珠院に賛同した後水尾上皇や庶民など、身分を問わず全国から経石を集めて
養珠院に賛同した後水尾上皇や庶民など、身分を問わず全国から経石を集めて
総数は20万個になったと云われています。
承応2年(1653)に養珠院が亡くなり、明暦元年(1655)、頼宣は小堂を二層の
承応2年(1653)に養珠院が亡くなり、明暦元年(1655)、頼宣は小堂を二層の
多宝塔に改築し拝殿と唐門を建立しました。
多宝塔は、高さ13mで、塔の下には石室(東西210cm、南北164cm)があり、
多宝塔は、高さ13mで、塔の下には石室(東西210cm、南北164cm)があり、
経石が埋納された場所には、経石埋納供養の由来が刻まれた
題目碑が造立されています。
その後、養珠寺の末寺になり、紀州徳川家の庇護を受けていましたが
その後、養珠寺の末寺になり、紀州徳川家の庇護を受けていましたが
明治維新で江戸幕府が滅亡すると禄を失って荒廃していき、
檀家のない海禅院は多宝塔を残すのみとなりました。
明治時代に海禅院は本山報恩寺の末寺となり、
明治時代に海禅院は本山報恩寺の末寺となり、
平成6年~8年(1994~6)にかけて報恩寺とその檀家有志によって
多宝塔が解体修理され、美しく甦りました。
多宝塔の横から妹背山への山頂へ続く登山道が整備されています、
と云っても数分の距離です。
多宝塔の重い上層部分を、細いくびれで支えています。
多宝塔の重い上層部分を、細いくびれで支えています。
頂上から向かいの鏡山を望みます。
妹背山から下り、鏡山の山裾を巡ります。
鏡山の東麓に、頼宣は「芦辺屋」と「朝日屋」という茶屋を造らせ、
鏡山の東麓に、頼宣は「芦辺屋」と「朝日屋」という茶屋を造らせ、
この辺りから紀三井寺への渡し舟が出ていました。
案内板には、明治末頃と昭和10年代の料理旅館「芦辺屋」の写真が
掲載されていますが、現在の景観とは全く異なります。
鏡山の山裾を回り込んだ所に鹽竈(しおがま)神社があります。
鹽竈神社には、輿ノ窟(こしのいわや)と呼ばれている岩穴に主祭神の
塩槌翁尊(しおづちのおじのみこと)が祀られています。
塩槌翁尊は、山幸彦と豊玉姫の縁を結び、安産によって子供を授けられたことから、安産の守護神社として信仰されています。
塩槌翁尊は、山幸彦と豊玉姫の縁を結び、安産によって子供を授けられたことから、安産の守護神社として信仰されています。
かって、玉津嶋神社では、浜降(はまくだ)り神事が行われていました。
浜降り神事とは、毎年9月16日の式日に、かつらぎ町天野の
浜降り神事とは、毎年9月16日の式日に、かつらぎ町天野の
丹生都比売(にうつひめ)神社から、神輿に乗った
丹生明神(にうみょうじん)が、紀の川を下って玉津島神社へ
渡御(とぎょ)する神事です。
玉津島神社の祭神の一柱「稚日女尊(わかひるめのみこと)」が
玉津島神社の祭神の一柱「稚日女尊(わかひるめのみこと)」が
丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)の別名であり、
同体の神であると考えられてきたことに由来しています。
和歌の浦に至った神輿は、入江の「輿の窟(こしのいわや)」で清め祓いされ、
翌日玉津島に渡御しました。
神輿を祓い清める岩穴から「輿の窟」と呼ばれるようになりました。
神輿を祓い清める岩穴から「輿の窟」と呼ばれるようになりました。
鹽竈神社は、かっては玉津島神社の祓所だったのですが、
大正6年(1917)に神社となりました。
尚、浜降り神事はその起源を古代にまで遡ることができると考えられ、
尚、浜降り神事はその起源を古代にまで遡ることができると考えられ、
室町時代後期まで、中断を繰り返しながらも行われてきましたが、
江戸時代に丹生都比売神社境内での神輿の渡御という形態にかわりました。
現在、「輿の窟」は鉄骨で組まれた頑丈な覆屋で守られています。
玉津島の原風景を感じさせる、岩と松の組み合わさった美しい景観は、
玉津島の原風景を感じさせる、岩と松の組み合わさった美しい景観は、
伽羅(きゃら)岩と呼ばれる縞模様になった断崖によって造られています。
伽羅岩は、広域変成作用によって地下深所に引き込まれた堆積物などが
伽羅岩は、広域変成作用によって地下深所に引き込まれた堆積物などが
高温・高圧のもとで再結晶してできた変成岩で、美しさと同時に剥がれやすい
性質も併せ持っています。
「輿の窟」と参拝者を守るために、覆屋は必要不可欠のものと思われます。
「輿の窟」と参拝者を守るために、覆屋は必要不可欠のものと思われます。
鹽竈神社の前に「不老橋」が残されています。
「不老橋」は、片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築に際して、
「不老橋」は、片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築に際して、
翌4年に完成しました。
不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や
東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道(おなりみち)」
に架橋したものです。
橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工で、勾欄(こうらん)部分は
湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されています。
江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、
江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、
特に勾欄部分の雲を文様化した彫刻が優れています。
近年までは不老橋を渡ったところに「不老館」という和風建築の建物が
ありましたが、現在は「和歌の浦アート・キューブ」というガラス張りの
近代的な建物に変わってしまいました。
片男波への車道には、景観に配慮されてかアーチ橋になっています。
紀州東照宮へ向かいます。
続く
紀州東照宮へ向かいます。
続く