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和歌浦-その2(妹背山~塩竈神社)

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鏡山から下山し、玉津嶋神社の東参道を経て妹背山へ向かいます。
妹背山へは、「三断橋」と名付けられた石橋を渡ります。
この「三断橋」は、中国・西湖の六橋を模したものとされ、
紀州藩主・徳川頼宣によって慶安期(1648~1651)に建造されました。
和歌山県最古の石橋で、何度か補修されているものの、橋の原型そのものは
4世紀にわたって崩される事なく、今日まで継承されています。
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橋を渡りながら海を見ると、クロダイでしょうか?結構大きな魚が
群れを成して泳いでいます。
エイの姿も見えます。
見えてる魚は釣れないといいますが、釣り道具があれば試してみたくなります。
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妹背山は、周囲250m程の小島で、橋を渡った右側に経王堂が建っています。
この経王堂は、平成23年(2011)に妹背山護持顕彰会の方々の尽力により
再建されたもので、堂内には梵文題目碑が祀られています。
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島は、広域変成作用によって地下深所に引き込まれた堆積物などが
高温・高圧のもとで再結晶してできた変成岩が隆起してできているようです。
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島を半周した裏側に観海閣がコンクリート造りで再建されています。
観海閣は、頼宣が慶安年間(1648~1651)に木造の水上桜閣として
建立したものですが、台風や高波の被害を受け、
再建や改修が繰り返されましたが、昭和36年に第二室戸台風で流出しました。
確かに強度的にはコンクリート造りでしょうが、
歴史を伝える建物の役割が失われたような気がします。
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かっては、正面に紀三井寺と背後の名草山(なぐさやま・標高228m)を
望む景勝地だったのでしょうが...現在の景色です。
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観海閣から石段を少し上った所に海禅院・多宝塔があり、
和歌山市の文化財に指定されています。
慶安2年(1649)、頼宣の母親・養珠院(お万の方)が、徳川家康の三十三回忌の
際に、法華経を書写した経石を納めた石室を造り、
その上に小堂を建てました。
養珠院に賛同した後水尾上皇や庶民など、身分を問わず全国から経石を集めて
総数は20万個になったと云われています。
承応2年(1653)に養珠院が亡くなり、明暦元年(1655)、頼宣は小堂を二層の
多宝塔に改築し拝殿と唐門を建立しました。
多宝塔は、高さ13mで、塔の下には石室(東西210cm、南北164cm)があり、
経石が埋納された場所には、経石埋納供養の由来が刻まれた
題目碑が造立されています。
その後、養珠寺の末寺になり、紀州徳川家の庇護を受けていましたが
明治維新で江戸幕府が滅亡すると禄を失って荒廃していき、
檀家のない海禅院は多宝塔を残すのみとなりました。
明治時代に海禅院は本山報恩寺の末寺となり、
平成6年~8年(1994~6)にかけて報恩寺とその檀家有志によって
多宝塔が解体修理され、美しく甦りました。
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多宝塔の横から妹背山への山頂へ続く登山道が整備されています、
と云っても数分の距離です。
多宝塔の重い上層部分を、細いくびれで支えています。
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頂上から向かいの鏡山を望みます。
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妹背山から下り、鏡山の山裾を巡ります。
鏡山の東麓に、頼宣は「芦辺屋」と「朝日屋」という茶屋を造らせ、
この辺りから紀三井寺への渡し舟が出ていました。
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案内板には、明治末頃と昭和10年代の料理旅館「芦辺屋」の写真が
掲載されていますが、現在の景観とは全く異なります。
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鏡山の山裾を回り込んだ所に鹽竈(しおがま)神社があります。
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鹽竈神社には、輿ノ窟(こしのいわや)と呼ばれている岩穴に主祭神の
塩槌翁尊(しおづちのおじのみこと)が祀られています。
塩槌翁尊は、山幸彦と豊玉姫の縁を結び、安産によって子供を授けられたことから、安産の守護神社として信仰されています。

かって、玉津嶋神社では、浜降(はまくだ)り神事が行われていました。
浜降り神事とは、毎年9月16日の式日に、かつらぎ町天野の
丹生明神(にうみょうじん)が、紀の川を下って玉津島神社へ
渡御(とぎょ)する神事です。
玉津島神社の祭神の一柱「稚日女尊(わかひるめのみこと)」が
丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)の別名であり、
同体の神であると考えられてきたことに由来しています。

和歌の浦に至った神輿は、入江の「輿の窟(こしのいわや)」で清め祓いされ、
翌日玉津島に渡御しました。
神輿を祓い清める岩穴から「輿の窟」と呼ばれるようになりました。

鹽竈神社は、かっては玉津島神社の祓所だったのですが、
大正6年(1917)に神社となりました。
尚、浜降り神事はその起源を古代にまで遡ることができると考えられ、
室町時代後期まで、中断を繰り返しながらも行われてきましたが、
江戸時代に丹生都比売神社境内での神輿の渡御という形態にかわりました。

現在、「輿の窟」は鉄骨で組まれた頑丈な覆屋で守られています。
玉津島の原風景を感じさせる、岩と松の組み合わさった美しい景観は、
伽羅(きゃら)岩と呼ばれる縞模様になった断崖によって造られています。
伽羅岩は、広域変成作用によって地下深所に引き込まれた堆積物などが
高温・高圧のもとで再結晶してできた変成岩で、美しさと同時に剥がれやすい
性質も併せ持っています。
「輿の窟」と参拝者を守るために、覆屋は必要不可欠のものと思われます。
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鹽竈神社の前に「不老橋」が残されています。
「不老橋」は、片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築に際して、
第10代紀州藩主徳川治寶(はるとみ)の命によって架けられました。
第13代藩主徳川慶福(よしとみ)の治世の嘉永3年(1850)に着工し、
翌4年に完成しました。
不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や
東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道(おなりみち)」
に架橋したものです。

橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工で、勾欄(こうらん)部分は
湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されています。
江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、
特に勾欄部分の雲を文様化した彫刻が優れています。
近年までは不老橋を渡ったところに「不老館」という和風建築の建物が
ありましたが、現在は「和歌の浦アート・キューブ」というガラス張りの
近代的な建物に変わってしまいました。
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片男波への車道には、景観に配慮されてかアーチ橋になっています。
紀州東照宮へ向かいます。
続く

和歌浦-その3(紀州東照宮~和歌浦天満宮)

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不老橋から用水路沿いに紀州東照宮へ向かいます。
用水路沿いの道には姿の良い松の木が植えられています。
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突き当りに紀州東照宮があります。
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鳥居をくぐります。
参道には、青石が敷き詰められ、両側には家臣団が寄進した石灯籠が並んでいます。
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石段の遥か上に楼門が見えます。
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左側には、ゆるやかな階段の参道もあるようです。
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立札の脇にある手水鉢には江戸時代の万治3年(1660)と刻まれています。
躊躇なく急な石段を上ります。
この石段は、108段あり、「侍坂」と呼ばれています。
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息を切らせながら上って来て、見上げる楼門は一段と荘厳に見えます。
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門をくぐって内側からの門の光景です。
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門をくぐった正面に唐門があり、その背後に拝殿、石の間、本殿と続きます。
元和5年(1619)、紀州初代藩主として入国した徳川頼宣は、南海道の総鎮護として、紀州入国とともに徳川家康を神格化した東照大権現を祀る東照社の建立が
計画されました。
元和6年に起工、元和7年に竣工・遷宮式が行われました。
後になって、徳川頼宣を神格化した南龍大神が合祀されるようになりました。
社殿は、内外部共に黒漆、赤漆を塗り、複雑な組物や彫刻類には極彩色を施し、
鍍金の飾金具が施された豪華なもので、紀州の日光と称されています。
拝殿・石の間・本殿、唐門、東西瑞垣、楼門、東西回廊が重要文化財(建造物)に
指定されています。
社殿は500円を払えば案内付きで拝観できるのですが、
鹽竈神社(しおがまじんじゃ)までで時間を費やしてしまっているので
先を急ぎます。
かつては社殿の右に三重塔、左に薬師堂がありました。
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脇には、砲弾と小さな河童像が並んでいます。
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右側に神輿舎(みこしや)があり、ガラス戸で神輿を見ることができます。
5月14日に例祭・和歌祭(わかまつり)が行われます。
和歌祭は、江戸時代の元和8年(1622)から始まり、
現在は毎年5月第二日曜日に行われます。
祭の当日、陸上では紀州の武勇を示すものや紀州人の心意気を表現した行列が、
神輿に従い、海上では御関船(おせきふね)を浮かべて、古くは、
日本三大祭、紀州の国中第一の大祭と呼ばれていました。
現在は交通機関の発達で御関船がなくなり、陸上での渡御だけに
なってしまいました。
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紀州東照宮から下ってきた所に御手洗池(みたらいいけ)公園があります。
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三本位の早咲き桜は、満開近くになっていますが、その他はまだつぼみの段階です。
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池を約1/4周すると右側に和歌浦天満宮が見えてきます。
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やっと紀州東照宮から下ってきたのに、また急な石段が待ち構えています。
天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置しています。
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参道を進むと、狛牛が出迎えてくれます。
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石段は二手に分かれています。
直進するのは「男坂」と呼ばれ、剥がれやすい変成岩が使われた石段50段を登り、
左側は「女坂」とよばれ男坂よりは緩やかな石段が続きます。
男坂は急ではありますが、50段の石段はそれほど苦にはなりません。
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一気に上り、楼門を見上げます。
一間楼門として最大規模を誇り、やはり迫力があります。
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門をくぐって内側からの光景です。
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門をくぐった左側、手水を使う所に臥牛の像がありますが、
あまり撫でられたようには見えません。
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正面に唐門があり、その奥に拝殿、そして本殿へと続いているようです。

平安時代の延喜元年(901)、菅原道真が大宰府に向かう途中、
海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊しました。
道真は、天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠みました。
「老を積む 身は浮き船に 誘はれて 遠ざかり行く 和歌の浦波」
「見ざりつる 古しべまでも 悔しきは 和歌吹上の 浦の曙」
その後、村上天皇の参議橘直幹が大宰府からの帰京途中に和歌浦へ立ち寄り、
この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされています。
戦国時代、織田信長と羽柴秀吉による紀州攻めにより、
天正13年(1585)に兵火を受けました。
同年、和歌山城代となった秀吉の家臣、桑山重晴
慶長6年(1601)に紀州藩主となった浅野幸長によって再建されました。
浅野幸長は、慶長9年(1604)~同11年(1606)にかけて天神山の中腹を
開墾して社地を造成し、現在残されている社殿を再建しました。
楼門前の石垣もこの時に積まれたもので、再建された本殿、
楼門など4棟が重要文化財に指定されています。
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本殿の左側に筆塚があります。
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境内の左側に白鳥神社があり、日本武尊(やまとたけるのみこと)が
祀られています。
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権現前のバス停まで戻り、御手洗池越しに和歌浦天満宮を望みました。
12:13のバスで南海和歌山市駅へ向かいます。
続く

水門吹上神社~和歌山城

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12:41に南海和歌山市駅に到着しました。
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南へ徒歩5分ほどで水門吹上神社(みなとふきあげじんじゃ)に着きます。
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神社は第二次大戦で焼失し、社殿は鉄筋コンクリート造の現代的な
建物になっていました。
この地は、神武天皇の兄・五瀬命(いつせのみこと)が雄叫びして崩御された
「男之水門(おのみなと)」であるとされています。
古事記では、「河内国(かわちのくに)で登美能那賀須泥毘古
(とみのなかすねびこ)の抵抗に遭い、五瀬命が彼の矢を受けて、出血甚だしく、
紀伊国へと迂回することになりました。
そのとき、男之水門に上陸し、ここで五瀬命が雄たけびをして崩御(ほうぎょ)され、竈山(かまやま)の地に葬り申し上げました。」との記述がみられます。

水門神社と吹上神社は元々は別の神社で、それぞれの鎮座地も
現在地とは異なっていました。
水門神社の社伝では、「昔、紀水門の海上に、夜ごとに神光顕われ、
いつしか波に従って浜辺に打ち上げられたのを見ると、戎様の神像であったと言う。
そこで、湊村字和田濱鵜島に祠を建て、これを齋き祀っていたが、
明應年間(1491~1500)に大海嘯が起こって砂に埋没したので、
住民らが今の西河岸町字元恵美須に移し、更に大永3年(1523)に現在位置に
鎮座したものである。」とされています。
大海嘯(だいかいしょう)とは、津波などによって波が川を遡る現象をいいます。
吹上神社は、「昔は、吹上三本松(今の植松町の南)と言う所に鎮座していたが、
天正年間(1573~1591)に此地に合祀したものである。」と伝わります。
その後、しばらくは、相殿でお祀りし後に、社殿を分け二神相並べてお祀りし、
第二次大戦迄、水門神社・吹上神社と称していました。
戦災により社殿一切が消失し、戦後は、同床共殿によりお祀りし、
水門吹上神社と称するようになりました。
水門神社は蛭兒(ひるこ)神(戎様)、吹上神社は大己貴神
(おおなむち・大国様)祭神とし、紀州の十日戎祭発祥の社とされています。
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本殿の左側に「笠森稲荷大神」が祀られています。
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東側の鳥居から出て、南海和歌山市駅に戻ります。
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駅からバスで和歌山城へ向かい、一の橋・大手門から中へ入りました。
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満開の枝垂桜が迎えてくれました。
しかし、当日何かイベントが行われているのか、かなり混雑していて
巡るのを断念しました。
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堀を遊覧船が進んでいました。
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御橋廊下
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城を眺めながらバス停へ向かいます。
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JR和歌山駅発14:22の電車で粉河寺へ向かいます。
続く

粉河寺-その1

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14:56にJR粉河駅に着き、駅から15分くらい歩き、朱色の短い橋を渡った先に
大門が見えてきます。
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大門は宝永4年(1707)に建立された楼門で、国の重要文化財に指定されています。
和歌山県では、高野山・根来寺に次ぐ威容を誇る規模で、
桁行は12.48m、梁間(はりま)は7.48mあります。
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仏師春日(しゅんじつ)作と伝える像高5mの金剛力士像が安置されています。
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大門の右側に蛭子社があります。
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左側には善光堂?があり、彩色の天女が描かれています。
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その横の堂には地蔵像が祀られています。
地蔵像の横には石?...
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地蔵が祀られた堂の横の石垣には、小さな石の塔が並べられています。
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大門をくぐって進むと参道は右へとカーブしています。
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カーブする手前の左側に不動堂があります。
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右に曲がった所に「子育地蔵」が祀られた祠があります。
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「子育地蔵」の横に不明な御堂がありますが、
上部に施された彫刻が気になりました。
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奥の方に本坊がありますが、門は閉ざされています。
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本坊の横に童男堂(どうなんどう)があり、童男大士が祀られていますが
秘仏とされ、年に一度、12月18日のみ開帳されます。
粉河寺縁起絵巻』(国宝)では粉河寺の草創を以下のように伝えています。
「紀伊国の猟師・大伴孔子古(おおとものくじこ)は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。
これが粉河寺の始まりという。
その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、
一晩泊めてくれと言う。
童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。
8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、
金色の千手観音の像だけがあった。
孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになった。」
そして、千手観音の霊験説話へと続きます。
「河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。
そこへどこからともなく現れた童男行者が千手千眼陀羅尼を称えて
祈祷したところ、娘の病は全快した。
喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童男行者は受け取らず、
娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、
「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。
長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、
観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。
長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、
孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くした。」
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童男堂の横に出現池がありますが、門は閉ざされていて
隙間から覗くことになります。
粉河寺の本尊・千手観音の化身、童男大士(童男行者)が柳の枝を手に
白馬に乗って出現したと伝わる池です。
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正面に童男大士の石像が祀られています。
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手前左側には千手観音が祀られているのですが、角度の関係で
カメラに収めることはできません...残念!
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出現池の前に「仏足石」が置かれています。
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駒札です。
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出現池の横に念仏堂があります。
念仏堂は光明殿ともいわれ、阿弥陀如来像が安置されています。
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念仏堂の横に粉河鋳物で鋳造された、阿弥陀如来像が安置されていて、
和歌山市の文化財に指定されています。
像高144cm、台座を含めた高さは210cmで、文久2年(1862)の刻印があります。
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念仏堂の横に太子堂があり、聖徳太子が祀られています。
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手水舎
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盥漱盤(かんそうばん・荷葉鉢)安永4年(1775)粉河鋳物師蜂屋薩摩掾
五代目源正勝の作品。
総高240cm・幅185cm、江戸時代に全国に知られた粉河鋳物の代表的作品で、
和歌山市の文化財に指定されています。
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手水舎の前に身代わり地蔵尊が建ち、背後は庭園になっています。
中門をくぐり本堂へ向かいます。
続く

粉河寺-その2

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中門は、棟札によれば明和年間(1764~1772)頃から着工し、
天保3年(1832)に完成し、国の重要文化財に指定されています。
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山号「風猛山」の扁額は紀州十代藩主徳川治宝の筆によるものです。
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門には四天王像が安置され、中門といえども威風堂々とした立派な門です。
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門をくぐった左側に若山牧水の歌碑が建っています。
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中門をくぐった突き当りに、「水向地蔵」が祀られた地蔵堂があり、
堂前には経木塔婆(きょうぎとうば)が立てられています。
経木塔婆に水を手向け、亡くなった人の冥福を祈るので水向地蔵と
言われるそうです。
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「水向地蔵」の左側に芭蕉句碑が建っていますが、
葉に邪魔されて文字が読めません。
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句碑の左側に丈六堂があります。
丈六堂は、文化3年(1806)に再建され、
昭和57年(1982)に解体修理が行われました。
仏は身長が1丈6尺(約4.85m)とされていることから
仏像も丈六が基準とされました。
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堂内には、丈六の阿弥陀如来像が安置されています。
坐像の場合、丈六像は半分の約8尺(2.43m)になります。
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正面、本堂への石段の手前・両側の約3mの斜面に国の名勝に指定されている
粉河寺庭園があります。
緑泥片岩を主とし、琴浦(ことうら)の紫石、龍門石(りゅうもんいし)などの
紀州の名石を含む、多数の巨大な岩石が変化に富む手法で堅固に、
美しく組まれています。
ツツジの刈込みが、石組を一段と美しく引き立てているように見え、
桃山時代の豪華な作風が表されています。
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石段を上った右側に六角堂があります。
六角堂は享保5年(1720)に建立され、平成7年(1995)に解体修理が行われました。
堂内には、西国三十三所の本尊が安置されています。
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六角堂の前に「湯浅桜」が花を咲かせています。
湯浅の元祖である湯浅宗重の父、藤原宗永が粉河寺の本尊・千手観音の
お告げによって、本堂の巽(東南)の方角に植えたと伝わります。
何度か代替わりをしているのでしょうが、今も守り続けられ、
満開とはいきませんがきれいな花で疲れを癒してくれます。
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本堂は、享保5年(1720)に上棟されました。
天正13年(1585)、織田信長・羽柴秀吉軍による紀州攻めにより、
全山焼失しました。
また、正徳3年(1713)にも火災があり、現在の伽藍はほとんどがそれ以降の
江戸時代に再建されました。
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西国三十三所では最大級の堂で、本尊を安置する正堂(しょうどう)と、
礼拝のための礼堂(らいどう)を前後に並べた形式になっています。
正堂内には、正面3間、側面3間の内陣が設けられ、内陣の正面1間分は須弥壇とし、千手観音の眷属である二十八部衆像と風神雷神像計30体が
左右15体ずつ安置されています。
その奥の正面2間、側面2間は扉と壁で囲まれた閉鎖的なスペースで、
お前立ちの千手観音像が安置されていますが、
このお前立ちでさえ秘仏とされています。
真の本尊は本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされています。
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礼堂には、賓頭盧尊者像が安置されています。
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本堂の西側に千手堂があり、草創1300年行事で特別開帳されていますが、
午後4時までで10分足らずしか残されていません。
16:34の粉河駅発に乗車したかったので諦めることにしました。
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本堂と千手堂の間に石段があり、それを上った所に産土神社がありますが、
時間の関係で下の遥拝所でお参りを済ませました。
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本堂から左側に進むと鐘楼があります。
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鐘楼の右側に「踞木地(きょぼくち)のクスノキ」が聳えていて、
保存木に指定されています。
粉河寺の開祖・大伴孔子古(おおとものくじこ)が木の上で踞(うずくま)り
下を通る鹿を狙ったと伝わります。
樹齢は不詳ですが、樹高20m、目通り幹周7.7mの風格を感じさせる大樹です。
この大樹から奥の方へ進むと十禅律院があるのですが、JR粉河駅に戻り、
和歌山電鉄の和歌山駅から竈山(かまやま)神社へ向かいます。
続く

竈山(かまやま)神社

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JR粉河駅を16:34に発車し、17:05に和歌山駅に到着しました。
すぐ隣に和歌山電鉄のホームがあるのですが、跨線橋の階段を上り、
中央のホームへ下り、更に地下通路へ下ってようやく
改札口にたどり着くことができます。
17:25に発車し、17:34に竈山駅に到着、竈山神社は南へ徒歩約10分の距離です。
少し歩いて橋を渡った先に大きな鳥居が建っています。
「昭和13年2月建設、昭和62年6月再建」とあります。
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鳥居をくぐり、広い道路を横切った所に「神武天皇兄・彦五瀬命 竈山墓」があり、公式形式は円墳とされています。
日本書紀では彦五瀬命(ひこいつせのみこと)と表記されこの地で亡くなり
葬られたとあり、古事記では五瀬命と表記され、水門吹上神社の地で亡くなり
竈山の地に葬られたとされています。
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少し南へ進み、鳥居の柱だけが残されたようで、一見すると神社の入口には
見えない所から入り、参道の途中、神門の手前に合流します。
本来の参道は、もう一筋南の通りから始まるようで、そこに鳥居が建っています。
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神門をくぐります。
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正面に拝殿があり、その奥に本殿があります。
天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めでは、社宝・古文書を焼失、
社領の神田8町8段も没収されましたが、慶長5年(1600)に紀伊国に入った
浅野幸長によって小祠が再建されました。
寛文9年(1669)に初代紀州藩主・徳川頼宣によって社殿が再建されましたが、
寺社奉行の支配下に置かれたため、氏子・社領なく衰微しました。
明治6年(1873)、村社に列せられ、明治18年(1885)4月22日に官幣中社、
大正4年(1915)11月10日に官幣大社に昇格し、村社から官幣大社まで昇格した
唯一の例となりました。
現在の社殿が整備されたのは、昭和13年(1938)頃です。
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奥に本殿、手前に境内社の合祀社・結社・子安社があります。
本殿の祭神は彦五瀬命で、左脇殿に神日本磐余彦命
(かんやまといわれひこのみこと・神武天皇)、三毛入沼命
(みけいりののみこと)、稲飯命(いなひのみこと)の3人の弟が祀られています。

右脇殿には、高倉下命(たかくらじのみこと)、可美眞手命
(うましまでのみこと)、天日方奇日方命(あめのひがたくしびがたのみこと)、
天種子命(あめのたねこのみこと)、天富命(あめのとみのみこと)、
道臣命(みちのおみのみこと)、大久米命(おおくめのみこと)、
椎根津彦命(しいねつひこのみこと)、頭八咫烏命(やたのからすのみこと)の
七柱が祀られています。

高倉下命は、夢で見た神託により、神武天皇に霊剣布都御魂をもたらした
とされています。

可美眞手命は、始め長髄彦(ながすねびこ)に従っていたが、
神武天皇の東征に際して長髄彦を殺し天皇に帰服し、以後自らの部族である
物部(もののべ)を率いて皇城守護の任に当たったとされています。

天日方奇日方命の妹、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が
神武天皇の皇后になったことにより、可美眞手命とともに
申食国政大夫(けくにのまつりごともうすうなきみ)という役職に就きました。

天種子命は、天児屋命(あめのこやねのみこと)の孫で中臣(なかとみ)氏の
遠祖になります。
神武東征に従軍し、筑紫(つくし)の宇佐(うさ)で菟狭津媛(うさつひめ)と結婚した
といわれています。

天富命は、神武東征において橿原宮を造営し、阿波国に続いて
房総の開拓をしました。

道臣命は、神武東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めました。

大久米命は、神武東征にしたがい、大和の宇陀(うだ)の豪族兄宇迦斯(えうかし)や、忍坂(おさか)の土蜘蛛(つちぐも)を討ちました。

椎根津彦命は、神武東征において速吸門で出会った国つ神で、
船路の先導者となりました。

頭八咫烏命は、神武東征で熊野から大和へ入る山中を導くため天照大神から
遣わされた烏で、鴨県主(かものあがたぬし)の祖である
賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が化したものと伝えられています。
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神門を出て左側に周り込むと青葉神社があります。
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竈山駅に戻ると、たまたま「たま電車」が入ってき、和歌山駅まで戻り、
そして京都へと戻りました。
次回は石山寺へ参拝します。
続く

石山寺-その1

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午前8時にバイクで石山寺の東大門前に到着しました。
東大門は、建久元年(1190)に源頼朝の寄進により建てられたとされ、
国の重要文化財に指定されています。
その後、慶長年間(1596~1615)に淀殿の寄進により大修理が行われました。
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この辺りに豊臣の家紋が残されているのですが、豊臣のたたりか?
ピンボケになってしまいました。
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門には仁王像が安置されています。
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門をくぐり参道を進むと右側に「拾翠園」があり、無料休憩所になっています。
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庭園の池の中に「金龍竜王社」があります。
金龍竜王は、大日如来の化身で石山寺の守護神とされています。
除災招福を司ると云われています。
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「拾翠園」の先に、右側に大黒堂への門があります。
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大黒堂は鎌倉様式で約750年前に再建されたとされています。
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本尊の「挙印大黒天」は、平安時代の万寿元年(1024)に3人の僧に夢告があり、
湖水から出現したとされています。
堂の前の駒札には弘法大師作とありますが、秘仏とされ室町時代に、
お前立ちの像が安置されるようになりました。
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大黒堂の左側に大湯屋があります。
大湯屋の前に通路があり、参拝順路の出口になっています。
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大湯屋を通路越しに見て参道を進むと参拝受付があり、入山料600円を納めます。
受付から入った正面に「比良明神影向石(ようごうせき)」があります。

石山寺は、縁起によると聖武天皇の勅願により、天平19年(747)に、
東大寺の僧・良弁(ろうべん)僧正が創建したと伝わります。
聖武天皇は、東大寺の大仏に用いる黄金が取れるように良弁に吉野の
金峯山(きんぷせん)に祈らせました。
すると、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ
「近江国志賀郡の湖水の南の土地で祈りなさい」と告げたといいます。

夢のお告げにしたがって石山の地を訪れると、岩の上で釣りをしていた老人が、
お告げの場所がまさにこの地であることを良弁に伝えました。
この老人こそが、近江の地主である比良明神であり、
座っていた岩がこの影向石と伝わります。

良弁は、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の金銅如意輪観音像を安置し、
草庵を建てました。
その2年後、陸奥国から黄金が取れて、良弁の修法の効果が出たのですが、
どういうわけか如意輪観音像が岩山から離れず、動かせなくなってしまいました。
しかたなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが
石山寺の始まりとされています。
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「比良明神影向石」の右側、池の向かい側に「くぐり岩」があり、
穴をくぐると願い事がかなうとされています。
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参道を進んだ左側に石山寺の茶丈である密蔵院があり、
島崎藤村が約二ヵ月間過ごしました。
門は閉ざされていますが、中を覗き見しました。
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境内には『石山寺にハムレットを納むるの辞』の一節が、
文学碑として設置されているそうです。
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那須与一の地蔵堂は、地元の人たちが那須与一の傷を手当したことに因んで
建立されたものです。
那須与一は、地蔵信仰が篤かったとされ、また、この地蔵をお参りすると
痛い所が良くなるとも言われています。
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本堂への石段を上ります。
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石段を少し上った所に龍蔵権現社があります。
龍蔵権現は、女性の守り神とされ、本堂をお参りする前に
女性がお参りすると更に幸徳が得られるとか...
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石段を上った右側に御神木が聳えていて、草創期の杉と伝わります。
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御神木の奥に観音堂があります。
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西国三十三所観音霊場の本尊が安置されています。
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観音堂の横に毘沙門堂があり、江戸時代の安永2年(1773)に建立されたもので、
滋賀県の文化財に指定されています。
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堂内には、兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)を中尊とし、
毘沙門天の妃または妹とされる吉祥天と
毘沙門天の息子の一人とされる善膩師童子(ぜんにしどうじ)が
脇侍として安置されています。
兜跋毘沙門天は、金鎖甲(きんさこう)という鎖を編んで作った鎧を着し、
腕には海老籠手(えびごて)と呼ぶ防具を着け筒状の宝冠を被り、
左手に宝塔、右手に戟(げき・ほこ)を持ち、平安時代後期の作で
国の重要文化財に指定されています。

「兜跋」とは西域兜跋国(現在のトゥルファンとする説が一般的)に
毘沙門天がこの姿で現れたという伝説に基づきます。
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毘沙門堂の左側に宝篋印塔があり、この周りの石畳を廻ると、
四国八十八ヶ所霊場を巡るのと同じ功徳が得られるとされています。
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境内の奥に国の天然記念物に指定されている巨大な
「石山寺硅灰石(けいかいせき)」が露出しています。
水底の石灰岩が花崗岩のマグマに触れ変質したもので、
「石山」という名称の由来になりました。
続く

石山寺-その2

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硅灰石の左前方に蓮如堂があります。
淀殿による慶長期(1596~1615)の境内復興の際に、
三十八所権現社の拝殿として、慶長7年(1602)に建立されました。
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文化8年(1811)に桟瓦葺(さんかわらぶき)に改造され、明治以降は、
蓮如上人六歳の遺影や遺品を祀る堂として使用されていることから
蓮如堂と呼ばれるようになりました。
蓮如堂は国の重要文化財に指定されています。
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蓮如堂の右横から奥に進んだ所に本堂があり、国宝に指定されています。
本堂は、正堂(しょうどう)、合の間、礼堂(らいどう)からなり、
正堂は承暦2年(1078)の火災焼失後、永長元年(1096)に再建されたもので、
滋賀県下最古となります。
内陣には本尊如意輪観音を安置する巨大な厨子があり、33年に1度の開扉と、
天皇即位時の開扉以外は原則として公開されません。
昨年が33年目だったので、次は...考えたくありません。
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合の間と礼堂は淀殿の寄進で慶長7年(1602)に建立され、合の間の東端は
「紫式部源氏の間」と称され、執筆中の紫式部の像が安置されています。
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礼堂は傾斜地に建ち、正面は長い柱を多数立てて床を支える
懸造(かけづくり)となっています。
堂内は撮影禁止で、大きな提灯が吊り下がっています。
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礼堂から下を覗き込むと結構な高さになります。
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本堂の裏側辺りに子育て観音の石像があるのですが、
なぜか立入禁止になっていました。
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石像が見えますが、あれが観音像でしょうか?
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本堂横の石段を上った所に三十八所権現社本殿があり、
国の重要文化財に指定されています。
初代神武天皇から第三十八代天智天皇までが祀られています。
慶長期の伽藍復興時に、石山寺の鎮守社として「石山寺硅灰石(けいかいせき)」
の上に建立されました。
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社殿から硅灰石を見ました。
向かいに見える建物は、これから行く御影堂です。
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三十八所権現社から石段を上った所に経蔵があり、
国の重要文化財に指定されています。
16世紀ごろに建立された、県下で最古の高床式校倉造りの建物です。
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高床の下に安産の腰掛石があり、腰掛けると安産になると伝わっています。
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座布団も用意されていますが、必要がなさそうなので座ってはいません。
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経蔵の背後に二基の宝篋印塔が建っていますが、由緒は不明です。
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経蔵から鐘楼へと向かう通路に紫式部の供養塔と芭蕉の句碑が並んで建っています。
供養塔は、鎌倉時代の作とされ、宝篋印塔の笠を三つ重ねた珍しい層塔で、
重要美術品に指定されています。
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芭蕉の句碑は、「あけぼのは まだ紫に ほととぎす」と紫式部を慕って
詠んだとされています。
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鐘楼は、鎌倉時代に東大門(建久元年/1190)、多宝塔(建久5年/1194)に次いで、
源頼朝の寄進により建立されました。
鐘楼は、国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は、平安時代を下らないものと考えられ、国の重要文化財に指定されています。
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鐘楼の前に灯篭と宝篋印塔が建っていますが、由緒は不明です。
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鐘楼から少し石段を下った所に御影堂があり、室町時代に建立され、
国の重要文化財に指定されています。
慶長期に堂全体の修理が行われ、江戸時代に現在の姿に改造されました。
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弘法大師、石山寺開基・良弁(ろうべん)僧正、第三代石山寺座主・
淳祐内供(しゅんにゅうないく)の遺影が安置されています。
この堂をお参りすると美男子なると伝わりますが、もう十分かも...?

御影堂から奥の方へ進み月見亭へと向かいます。
続く

石山寺-その3

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御影堂から緩い坂道を登った所に若宮があります。
若宮は、平成14年に建立された新しい社で、三十八所権現社が親神に当たります。
天照皇大神を主祭神としています。
壬申の乱で天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、
皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、
敗れた大友皇子がこの地に葬られ寺僧により密かに供養されてきたと伝わります。
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若宮の奥に芭蕉庵があり、明治16年(1883)ごろに建築されたとみられますが、
非公開です。
かっては「観月亭」とも呼ばれていたそうです。
松尾芭蕉は、たびたびこの地に仮住まいをして、多くの句を残しています。
  「石山の 石にたばしる あられかな」
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芭蕉庵に隣接して月見亭がありますが、立ち入ることはできません。
後白河上皇の行幸の際に建築され、近江八景「石山の秋月」のシンボルと
なっています。
現在の建物は、江戸時代の末期か芭蕉庵と同じ頃に建築されたとみられています。
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今の季節、瀬田川の流れを見下ろしながら、名残の桜を愛でることができます。
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月見亭から西へ進むと多宝塔があります。
多宝塔は建久5年(1194)に源頼朝の寄進により建立されたもので、
日本三大多宝塔の一つであり、最古・最美と称えられ国宝に指定されています。
慶長期と昭和7~8年(1932~3)に解体修理が行われ、
昭和40年(1965)に檜皮葺の屋根葺き替え修理が行われ、
平成23年にも葺き替え修理が行われました。
堂内には、重要文化財に指定されている快慶作の大日如来像が
安置されているのですが、ただいま奈良国立博物館に出張されています。
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多宝塔の西側に源頼朝(右側)と亀谷禅尼(左側)の供養塔である
宝篋印塔が建っています。
源頼朝の命により中原親能(なかはら の ちかよし)が反乱軍討伐に向かう途中、
石山寺に先勝を祈願し
勝利したことに感謝して毘沙門天を安置しました。
その妻・亀谷禅尼も石山寺に来住し、別院宝塔院を建立し、
体内に頼朝の髪を納めた大日如来像を本尊としたと伝わります。
また、亀谷禅尼は頼朝の第二姫の乳母でもありました。
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境内の西南隅に「めかくし岩」があります。
目隠しをしてこの石を完全に抱けば所願成就するとの言い伝えがあります。
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「めかくし岩」の奥の方に宝蔵がありますが立入はできないようです。
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月見亭まで戻ると、左上方に心経堂が見えます。
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月見亭から左側にカーブする緩い登り坂を進むと右側に梅林が続き、
参道から少し下った所に心経堂があります。
花山法皇による西国三十三所復興一千年記念事業の一つとして建立されました。
堂内には、石山寺に奉納された写経が納められ、堂中央の八角輪堂の一面には
如意輪観世音菩薩半跏像が安置されています。
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心経堂から更に参道を登って行った所に豊浄殿があり、「石山寺と紫式部展」が
開催されていますが、午前10時からです。
まだ9時5分ですので、先へ進みます。
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豊浄殿の裏側に源氏文庫がありますが、立ち入ることはできません。
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豊浄殿から光堂へと向かう参道です。
下の画像、上方に見える建物が源氏文庫です。
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第三梅園を周り込むように進むと深く切れ込んだ崖の向こうに
光堂(こうどう)が見えてきます。
桜がピンクの色を添えてくれています。
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近づいて行くと桜の花が本当に美しくて、しばらく見とれていました。
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光堂は、平成20年(2008)に東レの寄進により落慶された新しいお堂ですが、
鎌倉時代に存在していたとされ、その復興をめざして建立されました。
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光堂(こうどう)から少し下った所に紫式部の銅像が建っています。
紫式部は、石山寺参籠(さんろう)の折に「源氏物語」の
着想を得たとされています。

八大龍王社へ向かいます。
続く

石山寺-その4

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紫式部像から下って行った所に、無憂園 (むゆうえん)と名付けられた
庭園があります。
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正面に滝があり、水鳥が気持ちよさそうに泳いでいます。
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庭園を左の方に進むと八大龍王社への石畳の参道があります。
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鮮やかな朱塗りの鳥居をくぐります。
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拝所
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八大龍王は、「龍穴ノ池」の中に祀られ、「石山寺縁起絵巻」にも描かれている
古い社です。
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池の横に「腰掛石」または「尻掛石」と呼ばれる石があり、
平安時代の僧・歴海(れっかい)がこの石に座り、孔雀経を読むと池の中から
龍王が現れ、経に聞き入り、経を読み終えると、和尚を背負って
庵まで送って行ったと伝わります。
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池の畔には草創期のものと伝わる3本のご神木の1本が聳えています。
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参道を戻って行くと「霊仙三蔵碑」が建っています。
霊仙は、最澄や空海とともに唐に渡った学問僧で、仏僧最高の尊称
三蔵法師」が名乗れる日本でただ一人の僧でした。
霊仙は、近江国醒井(さめがい)の出身との説もあり、唐で没し
故郷の土を踏めませんでしたが、霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などは、
その後唐に渡った円行常暁によって日本に持ち帰られました。
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碑が建っている所から参拝受付の方へ戻ると、天智天皇の石切場があります。
天智天皇の御代(662~668)、飛鳥四大寺の一つ、河原寺の礎石は
ここで切り出されて運ばれたと伝わります。
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石切場から川を挟んだ向かい側に「柳島」があり、かって柳の木がありました。
承歴2年(1078)、本堂が火災に見舞われた時、本尊の観音様が
柳の木にとどまったとの伝承から「柳島」と呼ばれています。
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柳島の入り口には「補陀洛山」と刻まれた石碑が建っています。
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「柳島」から「補陀洛山」と呼ばれる「雅の谷」があり、西国三十三所巡礼と
同じ効果があるとされる巡礼道がありますが、実際に三十三所を巡ろうと
苦労していますので、ここで楽する訳にはいきません。
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柳島には巡礼者像が建てられています。
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「柳島」から下って来て、蓮如堂への石段の脇に「天狗杉」と名付けられた
ご神木が聳えています。
「石山寺縁起絵巻」にも描かれたこの杉は、石山寺屈指の
学僧・朗澄律師(ろうちょうりっし)に由来します。
師は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて石山寺の一切経聖教(しょうぎょう)
の整備に尽力されました。
自分の死後は鬼となって経典や聖教を守ると誓って亡くなられました。
師の死後、鬼の姿となってこの天狗杉の上に現れたと伝わります。
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天狗杉から少し下ってきた小さな池の畔に「閼伽井屋」があります。
本尊の御座の下から湧き出ていると伝えられ、本尊に供えられる
水はここから汲まれます。
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参道は左にカーブし、その角に水車があります。
「石山寺縁起絵巻」には瀬田川の水を汲み上げる水車の図が描かれています。
江戸時代に境外200mほど離れた地に設置されていたものが移設されました。

立木観音へ向かいます。
続く

立木観音

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石山寺から瀬田川沿いに下って行くと、瀬田川洗堰があります。
琵琶湖には、一級河川だけで118本、支川も含めると400以上もの河川が
流入しているのに対し、流れ出る川は瀬田川だけでした。
そのため、大雨が降ると琵琶湖沿岸の人々が「水込み」と呼ぶ浸水被害に
悩まされていました。
奈良時代、行基は、瀬田川の「川ざらえ」(浚渫)を指揮し、瀬田川に張り出し、
川幅を狭くしていた大日山の開削によって川の流量を増やそうと試みました。
しかし、川の流量を増やすことは、琵琶湖沿岸の「水込み」は抑えられるものの、
下流域では逆に洪水の危険が高まってしまうことから、
下流住民からは反対の声が上がりました。
そこで、上・下流住民の対立を見越し、大日山を破壊することはタブーとして、
山に大日如来を祀り、大日山に手をつけると祟りが起こると
言い残したと伝わります。
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河岸に残る旧南郷洗堰の遺構の背後に大日山が望まれます。
明治29年(1896)に多数の死傷者行方不明者がでた大水害が発生し、
この年、河川法が制定され、国による直轄治水事業として
「淀川改良工事」が始動しました。
瀬田川から宇治川、淀川に至る流域全体を見通した計画を立て、
琵琶湖と下流域の水害を同時に軽減する狙いで洗堰が建設されることになりました。
こうして、洗堰本体は明治35年(1902)に着工して、明治38年(1905)に完成し、
「南郷洗堰」と呼ばれました。
完成当時、洗堰の上を通行できるのは、地元の人達だけに限られていたようです。
瀬田の唐橋から洗堰を建設する南郷付近までの川底を浚渫するとともに、
大日山の一部も削り取られましたが、祟りは無かったようです。
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堰の機能を強化するため、昭和36年(1961)に在来堰の直下流に
コンクリート製の可動堰が建設され、以前は手動式だった堰の開閉は
電動に変更されました。
平成4年(1992)にバイパス水路が新設され、疎通能力が更に向上しました。
平成14年(2002)、洗堰の歴史的価値が認められ、土木学会選奨土木遺産
選ばれました。
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洗堰の向かいには、南郷温泉もあります。
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洗堰から下って行くと、新しい橋の建設工事が行われていました。
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11:30に少し前に立木観音への参道前に到着しました。
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ここから石段が800段余り、連続して続きます。
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少し上った所で身を清めます。
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奥の方に弘法大師の修行像が建っています。
寺伝によると、平安時代前期の弘仁6年(815)、空海がこの地に立ち寄った際、
瀬田川の対岸に光り輝く霊木を見つけた。
ところが川の流れが速く、渡れないでいるところ、白い雄鹿が現れ、
大師を背に乗せ対岸まで導いてくれた。
白鹿はたちまち観世音菩薩に姿を変え、虚空に消え去ったという。
以来、この地は「鹿跳(ししとび)」と呼ばれるようになったという。
この奇跡に感服した弘法大師は霊木に五尺三寸の観世音菩薩像を彫刻し、
それを本尊としてこの寺を建てたという。
この時、空海が厄年の42歳であったとされるため、広く厄除けの霊験あらたかな
観音像として信仰されることになった。
大師はその後、高野山を開基されたので、立木観音は
「元高野山」とも呼ばれています。
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参道の石段の途中には丁石が建てられ、石仏が祀られています。
3丁目の石標は、登り始めから約5分後に通過しました。
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2丁目の石標は、3丁目通過から約3分後に通過しました。
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1丁目の石標は、2丁目通過から約3分後に通過しました。
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11:45に本堂前に到着。
立木観音は正式には山号を立木山とし、寺号を安養寺と称します。
本尊は聖観世音菩薩で、広目天・多聞天地蔵尊・弘法大師尊像が安置されています。
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縁側には賓頭盧尊者像が安置され、本堂の裏側に周ると
観音様を裏側から拝むこともできます。
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縁側を渡ると奥之院への参道があり、歴史を感じさせる石塔が建っています。
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参道の石段を少し上った所に「厄除の鐘」と称される鐘楼があり、
心をこめて一人一撞きすれば厄を落とすとされています。
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梵鐘には、開山1,150年を記念して再鋳されたもので、鹿の模様が施されています。
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奥之院には立木山を守護する道了権現大菩薩が祀られています。
妙覚道了(みょうかくどうりょう)は、室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧で、
なぜ奥之院に祀られているかは不明です。
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奥之院から下って来ると、本堂と庫裡とを結ぶ渡廊の下をくぐります。
約5分で奥之院を巡り終えました。
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庫裡には「白鹿苑」の扁額が掲げられています。
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白鹿苑の前方に聖徳太子二歳像が建っています。
聖徳太子が、二歳の春に東方を向いて合掌し、「南無仏」と称えたという
説話上の姿を表した像です。
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境内には、開山の由来となった鹿に乗った弘法大師像が建てられています。
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参道の石段を上ってきた所にある御茶所は、観音様のおさがりの
お茶・ゆず湯・こぶ茶がいただける休憩所で、その奥には神事に
使われていたであろうと思われる鉄湯釜が水桶のように使われていました。

岩間寺へ向かいます。
続く

春日神社~奥宮神社

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立木観音から瀬田川沿いに下り、南大津大橋北詰信号を通り過ぎて谷沿いの道を
右折し、京滋バイパスをくぐった先で左に入ると春日神社があります。
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唐破風の向拝殿
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本殿は一間社流造で、覆屋に納められています。
祭神は、建御雷男神(たけみかづちのおのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、
天兒屋根命(あめのこやねのみこと)、比大神(ひめのおおかみ)の
春日四神と別雷命(わけいかづちのみこと)が祀られています。
別雷命は、内畑村字里谷に鎮座していた加茂神社の祭神だったのですが、
明治42年(1909)に合祀されたことによるものです。

鎌倉時代の元久2年(1205)に春日大明神を勧請した棟札が残されています。
江戸時代に入ると寛文6年(1666)より明治元年(1868)まで、
歴代の膳所城主より石高の寄進があった記録が残されています。
また明治初年まで境内に釈迦堂があり、神社本地佛とされていたのですが、
神仏分離令により現在は、内畑の法蔵寺に預けられています。
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春日神社から先へ進むと小さな集落があり、集落を過ぎた所で
左に進路を取ってしまいました。
峠道になり、登った所に「霊杉」と刻まれた石標が建っています。
「霊」の文字が似合うほど奥まって静かで汚してはいけないような
空気が漂っています。
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「笠取八景 夕映えの一本杉」が立ち、笠取名所との立札がありますが、
まだ杉は若く「霊杉」の代役には荷が重すぎるように思います。
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「霊杉」から少し下った所に清瀧宮(せいりょうぐう)があります。
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祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)で、「大いなる山の神」という
意味を持ち、林業や鉱業の神とされます。
また、山から下りてきて恵みをもたらすともされ、里山農業では田の神とも
されています。
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社殿の前に竈が設けられています。
どのような神事が行われるのか分かりませんが、五穀豊穣の祈りが
捧げられるように思います。
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竈の背後に拝殿があります。
よく手入れされた境内は、凛とした静寂の中にあります。
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しかし、目的地からは外れていますので、元来た道を戻ります。
下ってきた所で道標を見つけ、岩間寺まで徒歩と車道が記されています。
迷わず車道を選びましたが、これは大間違いでした。
右側の道路に入ると峠を越え、更に京滋バイパス沿いの道路に出て、
ようやく岩間寺への登り口にたどり着きました。
岩間寺へと登って行くと、奥宮神社の気になる鳥居を見つけました。
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すぐそこにあると思っていた神社は急坂を登って行っても
なかなかたどり着けません。
ようやくの思いで鳥居の下に着くことができました。
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バイクを止め石段を上って行くと、まだ新しそうな社殿がありました。
拝殿には、龍が睨みを利かせています。
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本殿
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神楽殿でしょうか?
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由緒のある古社かとの期待は外れましたが、眺望は期待以上のものがありました。
北東方向には、遠くに琵琶湖と近江富士が望めます。
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正面に石山寺の山容が望めます。
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東南方面には湖南アルプスも一望できます。
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南の方に下って行くと朱色の鳥居が建ち、正面から歩いて来た方と出会い、
岩間寺から来られて、歩いて15分との情報を得ました。
奥宮神社から岩間寺まで往復します。
続く

岩間寺

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奥宮神社から歩いて岩間寺の境内に入り、少し下った所に青龍が祀られた
小さな祠があります。
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祠から見上げると、満開の桜に思わず見とれてしまいました。
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祠の横方向に、黄色の花が目に止まり、自然の色が与えてくれる
暖かさのようなものを感じます。
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参道へ戻り、進んだ先に八大龍王堂があります。
平成7年に再建されたもので、八大龍王が祀られています。
八大龍王は、仏法を守護するとされ、また
昔から雨乞いの神様として祀られています。
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龍王堂の横に建つ宝篋印塔は、明和8年(1722)に建立されたもので、
陀羅尼の密印が籠められている」とあります。
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龍王堂の先に護法龍王拝殿があります。
山中に鎮座されている「九頭龍」龍王、「白龍」龍王、「七面弁財天」の
遥拝所になります。
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本堂の前に「霊木」として夫婦桂の木が植えられています。
泰澄(たいちょう)が等身大の千手観音像を刻んだと伝わる桂の木ですが、
現在の桂の木は三代目で、二代目が第二室戸台風で倒されてしまった時に、
そのひこばえから育ちました。
観音像は、人々を苦しみから救うために、毎夜厨子から抜け出し
136の地獄を駆け巡り、日の出頃に汗をかかれて戻られた姿から
「汗かき観音」と呼ばれるようになりました。
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現在の本堂は、天正5年(1577)に再建されたもので、
寛永年間(1624~1645)に解体修理されました。
岩間寺は、正式には山号を岩間山、寺号を正法寺と称します。
縁起によれば、元正天皇の病気平癒祈願に功のあった泰澄が
奈良時代の養老6年(722)、岩間山中の桂の大樹から千手陀羅尼を感得し、
その桂の木で等身の千手観音像を刻んで、元正天皇の念持仏である
金銅千手観音像をその胎内に納め、祀ったのが始まりとされています。
その後、後白河、後宇多、正親町(おおぎまち)天皇等歴代天皇の尊崇厚く熊野、
吉野に並ぶ、日本三大霊場の一として隆盛しました。
また、鎌倉時代に編纂された『醍醐雑事記』には醍醐寺末寺の筆頭として
挙げられており、醍醐寺より禄を受け、近世に至るまで
岩間寺の住職は醍醐寺内より選ばれていました。
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本堂の右側に不動堂があり、寛政(1789~1801)・文化(1804~1818)・
昭和(1926~1989)年間と再建が繰り返され、現在の建物は
平成5年(1993)に再建されました。
堂内には、平安時代中期作の不動明王像と矜羯羅(こんがら)・
制吒迦(せいたか)の童子像が安置され、
いずれも国の重要文化財に指定されています。
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本堂と不動堂の間に池があり、芭蕉が「古池や蛙とびこむ水のおと」を
詠んだと伝えられ、「芭蕉の池」と呼ばれています。
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不動堂の前方、半分以上が崖の上と見られる所に、
昭和60年(1985)に再建された大師堂があります。
開山・泰澄大師と宗祖・弘法大師が祀られています。
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参道を進みますというより、参道を逆行していることになりますが...
立木観音道50丁と刻まれた石標が建っています。
ぐる~っと遠回りしてきたのに、案外近い距離だと感じました。
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石標の先に仁王像が建っていますが、風雨から防いでくれる山門はありません。
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仁王像の近くに白姫龍神が祀られています。
開山・泰澄大師が白山で修行中、白馬に乗った美女に出会われ、
その美女こそが「白山妙理大権現」で、大師によって岩間山に勧請されました。
女性がお参りすると美女になるそうです。
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白姫龍神の右側に湖南方面の眺望が開けています。
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白姫龍神の先に、ぼけ封じ近畿十楽観音の砂を納めた仏足石があります。
岩間寺は近畿十楽観音霊場の第四番札所です。
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境内には鐘楼があります。
梵鐘は平成2年(1990)に鋳造されました。
醍醐寺へ向かう予定でしたが、道に迷ったりして
時間がなくなってしまいました。
次回は松尾寺から小浜方面を巡ります。
続く

松尾寺(まつのおでら)

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自宅を6:00に出て、バイクで国道162号線から県道16号線に入り、
国道27号線を経て、9:00に松尾寺に到着しました。
当日は気温が低く、途中で3回休憩し、暖かい飲み物等で、体を温めながら行く、ちょっとつらい日になりました。

仁王門は江戸時代に再建されたもので、京都府の文化財に指定されています。
松尾寺は、織田信長によって全山焼き討ちに遭い、
江戸時代の享保15年(1730)に牧野英成によって現在の姿に整備されました。
牧野英成は、丹後田辺藩第3代藩主で寺社奉行を経て京都所司代に就任しています。
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松尾寺は「若狭富士」と呼ばれている青葉山(693m)の中腹にあり、
山号を青葉山と称します。
仁王門には山号の扁額が掲げられています。
仁王像は鎌倉時代の作で、京都市の文化財に指定されていて、
現在は宝物殿に安置されています。
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石段を上って山門をくぐると、左側に風格のある門が...勅使門でしょうか?
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右側に宝物殿があります。
宝物殿は、開創1300年記念事業として、平成20年(2008)建設され、
東京・京都・奈良各博物館に寄託していた国宝や重要文化財を収蔵しています。
中でも仏画「普賢延命菩薩像」は、舞鶴市唯一の国宝で、九百年前、
鳥羽天皇行幸の際、寄進されたと伝えられています。
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正面の石段を上ります。
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本堂の美しい二重屋根が目に飛び込んできます。
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左側に観音像が建ち、その横には経蔵があります。
経堂は江戸時代に建立されたもので、京都府の文化財に指定されています。
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経蔵の右奥に縁側に地蔵像が祀られたお堂があります。
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お堂の前、右奥に閼伽井らしき祠があります。
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本堂に掛かる扁額。
松尾寺は、和銅元年(708)に唐の僧・威光上人によって開基されたと伝わります。
青葉山は二つの峰を持ち、それが中国の馬耳山という霊験のある山と
山容が似ていたことから登山され、松の大樹の下に馬頭観音を感得し、
草庵をを結ばれたのが始まりとされています。
また青葉山北麓の若狭神野浦(こうのうら)の漁師・春日為光が海難に遭遇し、
一浮木で助かり、その木が馬頭観音であったとも伝わります。
平安時代になると美福門院(1117~1160)の崇敬を受け、
伽藍と15宇の坊舎が再建されました。
平安時代の末期には観音霊場の一として庶民の信仰を集めるようになりました。
寺蔵の「松尾寺参詣曼荼羅」には、中世末から近世初期にかけて本堂を中心とした
七堂伽藍や背後の青葉山奥院、境内の参詣人などが詳細に描かれ、
松尾寺の隆盛が偲ばれます。
しかし、織田信長の兵火によって一山ことごとく灰燼に帰し、近世は
田辺歴代城主の外護を受け、天正9年(1581)細川藤孝により本堂が再建、
慶長7年(1602)京極高知により修復されました。
その後寛永7年(1630)、正徳6年(1716)の火災で本堂などを焼失し、
享保15年(1730)に牧野英成により大修復されたと伝わります。
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本堂には御前立が安置されています。
本尊の馬頭観音は秘仏とされ、77年に一度開帳され、
最近では平成20年に開帳されました。
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本堂の左前に馬の像が設置されていますが、馬頭観世音が農耕の守り仏として、
或いは牛馬畜産、車馬交通 、更には競馬に因む信仰を集めていることから
奉納されたものでしょうか?
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本堂の右側に「心霊閣」の扁額が掲げられたお堂があります。
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本堂と心霊閣は渡廊で結ばれ、渡廊をくぐった先に「京都の自然200選」に
選定されている青葉山への登山道があります。
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登山道の横に入った所に「青葉大権現」が祀られた祠があり、
その背後に多くの石仏が山積みされています。
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境内まで戻り、本堂の左前に子供を抱いた地蔵像でしょうか?
その背後、上部の無い灯篭が石の玉垣で囲われているのが謎です。
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玉垣の前方に鐘楼があります。
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鐘楼から奥に進んだ先にあるのは六所神社でしょうか?
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苔むした狛犬と石灯籠が歴史を感じさせます。
由緒等を示す駒札などがありませんので詳細は不明です。
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石段を下り、手入れされた庭園を巡りながら納経所へ向かいます。
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納経所の奥に見えるのは方丈でしょうか?
説明書きが無いので疑問形が残る松尾寺でした。
小浜方面へ向かいます。
続く

杉森神社~八幡神社

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松尾寺から国道27号線まで戻り、小浜方面へ向かうと県境のトンネルがあり、
トンネルを越えてしばらく進んだ左側に杉森神社があります。
神仏習合の名残を示す両部鳥居(りょうぶとりい)が建っています。
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この神社の創建や由緒に関する詳細は不明です。
祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と大物主神(おおものぬしのかみ)です。
大物主神は、大国主命少彦名神(すくなひこなのかみ)とともに
国造りを行っていた時、少彦名神が常世の国へ去った後に現れ、
大国主命に「三輪山に祀れば国造りに協力する」と約束した神です。
明治初年の廃仏毀釈では、新政府の王政復古の方針から、
旧来の本尊に替わって大物主神を祭神とした例が多くみられます。
杉森神社もそのような例の一つかもしれません。
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境内には国の天然記念物に指定されているイチョウの木が聳えています。
画像にあるのは社殿西側にあるもので、もう1本は社殿の東方の山腹に立ち、
いずれも天然記念物に指定されています。
残念ながらまだ若葉が出た頃で、銀杏の実物は見ることはできませんが、
銀杏が葉の上に結実することから「オハツキイチョウ」と呼ばれています。
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イチョウは現生の裸子植物の中で最も起源が古く「生きている化石」ともいわれる、地球上にたった一族一種の貴重な樹木です。
杉森神社の「オハツキイチョウ」は、シダ植物、特にソテツシダに似た葉に
実が付く原始的な性質を有する極めて貴重なイチョウだそうです。
背後の山の上には、第二次世界大戦時の砲台跡が残されているそうです。
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27号線の後瀬山トンネルを通り抜けてすぐ、小浜伏原の信号を左折し、
その先の信号を左折した先に八幡神社があります。
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車道に大鳥居が建ち、白壁の建物の脇に黒っぽい大きな狛犬が
存在感を見せています。
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鳥居をくぐって進んだ先に、木製の大鳥居が建ち、
小浜市の文化財に指定されています。
この鳥居は、元禄7年(1694)に再建されたとの記録が残り、
明治42年(1907)の暴風によって倒壊したため、
柱の下部は石材に交換されています。
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鳥居をくぐった所に神馬が奉納されています。
八幡神社の創建は神護景雲3年(769)に勧請されたのが始まりとされ、
神護景雲4年(770)に勅使が参向した際に鹿毛の馬が奉納されたと
考えられています。
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社殿は後瀬山(のちせやま)の麓に創建されました。
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石段を上って、左右に置かれている狛犬は越前禿(えちぜんかむろ)に
分類されるものでしょうか?
越前(現在の福井県)には、笏谷(しゃくだに)石という細工しやすい
柔らかい石を算出する場所がありました。
笏谷石を使った狛犬の特徴は、おかっぱ(禿)頭と、背中にぺったり
張り付いた紐のような細い尾にあるそうです。
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八幡神社は、八幡三神である應神天皇神功皇后(應神天皇の母)、
宗像三神(多紀理比賣神、多紀都比賣神、市伎島比賣神)を祭神としています。
室町時代の応永2年(1395)に大鳥居が再建され、社殿が造営されたとの
記録が残されています。
しかし、応永12年(1405)、鳥居が倒壊しました。
大永2年(1522)、若狭国守護・武田元光が八幡神社背後に
後瀬山城(のちせやまじょう)を築くと、歴代領主から
庇護を受けるようになります。
天文7年(1538)守護・武田信豊が太刀(銘吉入道宗長)一振(市文化財指定)を
奉納し、同17年に大鳥居を再建しました。
永禄2年(1559)松永久秀の乱によって社殿は炎上し、
由緒記等多くの文書が焼失しました。
天正20年(1592)国主・浅野長政の子長継・族臣家次が朝鮮出陣を前に
一族の武運を祈り神殿を造営しましたが、社地が城郭に接近していたため、
社は後瀬山の北麓に遷されました。
国主が京極高次に変わった慶長年間(1596~1614)に社は旧地に復されました。
寛永11年(1634)酒井氏が若狭を領し、正保元年(1644)に酒井忠勝公によって
拝殿が造営されました。
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本殿の左側には、手前から若宮神社、栗島神社、伊勢神宮遥拝所をはさんで
天満神社と並んでいます。
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本殿の右側には、手前から大山祗神社、松尾神社、三輪神社と並んでいます。
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大山祗神社から右に進んだ所に稲荷神社があり、稲荷神社の左横、
奥の方に彦狭智(ひこさしり)神社があります。
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稲荷神社の前方、右側に手前に神馬舎、その奥に船玉社があります。
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神馬舎
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船玉社には、弁才船(当地では千石船と言った)の模型が祀られています。
小浜は江戸時代から明治にかけて、日本海を舞台に国内交易を行い、
遠く北海道まで船を乗り出していた港町で、
航海の安全を祈り祀られるようになりました。
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神馬舎から石段を下ると稲荷神社の朱の鳥居が建っています。
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境内には神輿庫でしょうか?
毎年9月には若狭地方最大の祭礼である
「八幡神社放生会」(市無形文化財指定)が執行され、
大太鼓・神楽・山車・神輿の他に、武州川越から伝えられた獅子舞も奉納されます。
空院寺へ向かいます。
続く

空院寺

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八幡神社のすぐ近く、西方向に歩いた突き当りを左に曲がった先に
空院寺があります。
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ここからは後瀬山(のちせやま)の山容がよく見えます。
空院寺は、元は若狭守護・武田元光の守護館でした。
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山門は、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと
言われている薬医門で、小浜市の文化財に指定されています。
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元光が大永2年(1522)に後瀬山城(のちせやまじょう)を築き、
守護館を当時長源寺のあった後瀬山城の山麓に移しました。
水堀を廻らせた堅固な若狭守護館は、戦国時代以降も麓の城として
利用され織田信長の重臣である丹羽長秀や豊臣秀吉の親族である浅野長政
木下勝俊なども平時はこの地を拠点としました。
京極高次が関ヶ原の戦いの論功行賞により若狭国主となり、同館の主となり、
高次没後、息子の京極忠高が旧地を京極高次の牌所とし泰雲寺を建立しました。
京極家は寛永11年(1634)に松江へ転封となりました。
その後小浜藩主酒井家の菩提寺として、酒井忠勝により父酒井忠利の
霊骨を移して建康寺と称され、二代藩主酒井忠直が酒井忠勝の七回忌法要を
執り行うに当り、寛文8年(1688)に伽藍を増築し空印寺となりました。
曹洞宗の寺院で、馬頭観音を本尊とし、山号を建康山と称します。
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境内には八百比丘尼(やおびくに)が入定された洞窟があります。
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洞窟入口には「八百比丘尼入定地」の石碑が建っています。
飛鳥時代の白雉5年(654)、東勢村(ひがしせいむら・現小浜市)の
高橋長者権太夫に子が生まれ、才色兼備の誉れ高い娘に成長しました。
娘が16歳の時、高橋長者はある男から招かれ、連れて行かれたのは
海中にある蓬莱の国でした。
「竜宮の土産」と言われて持ち帰ったのは人魚の肉でした。
知らずにそれを食べてしまった娘は全く老いることがなく、
困った末に尼になって全国行脚を行い800歳の時、
この洞窟に入定したとされています。
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洞窟に入る時に白椿を植え、「この椿が枯れたら私が死んだと思ってください。」
と言い残したと伝わっています。
椿は白い花をつけていますが、この木はまだ若く、八百比丘尼が
植えたとされる木はもう枯れてしまったのかもしれません。
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駅前の広い通りを海岸まで突き当たった所に人魚像がおかれています。
ジュゴンが人魚のモチーフとなり、肉が不老不死や媚薬になると
信じられたことがあったそうですが、この像のような
人魚なら出会いと思いました。
若狭国分寺跡へ向かいます。
続く

若狭国分寺跡~若狭姫神社

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国道27号線を東に向いて走り、若狭国分のバス停で左折した先に
若狭国分寺跡があり、国の史跡に指定されています。
国分寺は、奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、
当時の日本の60余州に建立を命じた寺院で、国分僧寺と国分尼寺があり、
若狭国分寺は国分僧寺でした。
若狭国分寺の寺域は二町(約230m)四方が推定され、
寺域内には若狭地方最大の径45mに及ぶ円墳があります。
入ったすぐの所、円墳前に南大門跡があります。
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南大門跡から直線状に進んだ所に中門跡、金堂跡、そして講堂跡と
続いていたのですが、講堂跡には現在は民家が建ち、
金堂跡には釈迦堂が建っています。
国分寺跡は、曹洞宗の寺院として存続し、釈迦堂は慶長16年(1611)に建立され、
その後倒壊し、宝永年間(1704~1710)に再建されました。
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通りに面して鐘楼があります。
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通りをはさんだ向かいに新しく薬師堂が建立されたようで、
堂内には薬師如来像が安置され、国の重要文化財に指定されています。
この像は、13世紀の作で像高79.7cm、胎内の墨書から、
元禄6年(1693)に尼寺の本尊として祀られたことがわかりました。
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境内には拝観受付所がありますが、昼食等で時間を浪費したため
拝観は断念しました。
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受付所の横は庭園が整備されています。
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庭園の奥に進んだ所に塔の跡があります。
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当時の礎石の様子が再現されています。
塔の初層辺長は8.1m、塔頂にあったと思われる水煙の一部が出土しています。
周囲の景観は、当時のままと思わせるほどのどかなものです。
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子供の日も近いのでこいのぼりが立っていますが、気温は低めです。
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古墳の上には、若狭姫神社がありますが、これから向かうのも若狭姫神社で、
なぜ古墳の上の神社が若狭姫神社なのかは謎です。
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国道27号線を少し戻り、駅口の信号を左折して県道35号線に入った先、
右側に若狭姫神社があります。
国分寺を出て10分足らずの距離です。
若狭姫神社は、若狭一の宮の下社で、上社は若狭彦神社になります。
若狭一の宮とは若狭国で最も社格の高い神社であった証しでもあります。
元は遠敷川(おにゅうかわ)の上流、白石の里に
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
が示現したと伝わり、奈良時代の和銅7年(714)に若狭彦神社が創建されました。
翌霊亀元年(715)に若狭彦神社は上社の現在地に遷座し、
養老5年(721)に上社より分祀して下社・若狭姫神社が創建されました。
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鳥居をくぐった先、社務所の向かいに弁才船(当地では千石船と言った)の
模型が置かれていますが、画像はガラスに反射してうまく
納めることができませんでした。
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その先に隋神門があり、門の手前の鳥居は文政6年(1823)に小浜の廻船問屋、
北前船の古川屋が奉納したものです。
隋神門は寛保3年(1743)に造営されたもので、
福井県の文化財に指定されています。
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門内には、豊玉姫のお供の眷属が左右に各四体安置されています。
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「遠敷神社」とは若狭姫神社の通称で、文化元年(1804)に作成された鳥居額が、
隋神門内に掲げられています。
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隋神門の釣り灯籠は、天保12年(1841)に奉納されたものです。
本殿へと向かいます。
続く

若狭姫神社-その2

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隋神門の先に神門があり、そしてその奥に本殿が鎮座し、
いずれも県の文化財に指定されています。
神門(中門)は、享和3年(1803)に、本殿は享和2年(1802)に造営されました。
祭神は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)で、
海神・大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘です。
若狭彦神社(上社)の祭神である山幸彦「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)」は兄、海幸彦の道具で釣りをしている時、誤って針を無くしました。
針の行方を聞くため海神のいる竜宮城へ行った山幸彦は、
そこで豊玉姫と出会いました。
無くした針は鯛の喉から見つかり、山幸彦と豊玉姫は結ばれ、
やがて豊玉姫は鵜茅不合葺命(うがやふきあえずのみこと)を出産します。
豊玉姫は、山幸彦に産屋を覗いてはならないと伝えたのですが、
山幸彦は約束を破り覗いてしまいます。
そこに山幸彦が見たものは、「八尋大熊鰐(やひろおおくまわに)」の姿とも
「龍」の姿とも伝わり、出産後豊玉姫は綿津見神の国へ
帰ってしまいました。
鵜茅不合葺命は、豊玉姫の妹・玉依姫に養育され、
後に神武天皇の父親になりました。
社殿の右前にある石灯籠は、かって鯖街道に置かれていたものが
昭和40年代に移築されたものです。
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本殿を囲う玉垣内に千年杉が聳えていますが、
この杉には健康長寿や子孫繁栄の御利益があるとされています。
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玉垣に享和2年(1802)に造営された本殿の鬼板が建てら掛けられています。
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その横には、享和3年(1803)に造営された神門の鬼板が建てら掛けられ、
印が付けられたハートマークは、屋根替えの都度、
引き続き用いられているそうです。
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本殿の右前の奥に能舞台があります。
海幸彦と山幸彦を題材とした謡曲「玉井」があります。
この舞台で演じられたか、知る由もありませんが、
この舞台は長く使われていないように見受けられます。
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能舞台の傍らに立つ「招霊(おがたま)」の木は、
明治時代に京都御所から移植されたもので小浜市の
天然記念物に指定されています。
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本殿の左側に神饌所があります。
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神饌所の横には相撲の番付表が展示されていますので、
以前は奉納相撲が行われていたのかもしれません。
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神饌所の左前に「子種石」があり、陰陽石に祈れば子宝に恵まれると
信仰されています。
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「子種石」の傍らに立つ大イチョウは、乳房のような乳根が垂れ下がり、
乳神様と崇められています。
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「子種石」の奥に「桂の井」と呼ばれる霊水が湧き出ています。
若狭彦神社へ向かいます。
続く

若狭彦神社~鵜の瀬

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15:50若狭彦神社に到着しました。
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鳥居をくぐり参道を進みます。
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両側に杉の大樹が聳え、二の鳥居とも考えられています。
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手前の石灯籠は慶応3年(1867)に奉納されたもので、
右側には「金殿燈彌明」と刻まれています。
「りっぱな御殿を照らし、いよいよおごそこかであるよう、あがめ尊ぶ」と
いう意味だそうです。
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左側には「神明仰巌徳」と刻まれ、「神を敬い、心が正しく、
行いが善であるよう慎むこと」の意味だそうです。
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参道は西の方へと曲がります。
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その先に夫婦杉があります。
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隋神門は江戸時代後期に建立されたもので、
福井県の文化財に指定されています。
門には下社と同様に八体の随身像が安置されています。
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門をくぐって神門との間に拝殿があったのですが、
昭和40年の風害で倒壊したため、礎石だけが残されています。
そこを回り込むように逆コの字に参拝するように記されています。
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手水が池の上を越えて通されています。
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その奥にある朽ちかけた建物が気になります。
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神門(中文)は天保元年(1830)、本殿は文化10年(1813)に
建立されたもので、ともに県の文化財に指定されています。
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が祀られています。
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本殿の横にある若宮神社は、豊玉姫の子、
鵜茅不合葺命(うがやふきあえずのみこと)が祀られています。
霊鳥と云われる鵜の羽を用いて産屋を建てようとしたのですが、
屋根が葺き終えないうちに生まれてしまったために名付けられたのだとか...
相殿には蟻通神(ありどおしのかみ)と
大山祇神(おおやまつみのかみ)が祀られています。
蟻通神は、「昔、ある中将が唐の皇帝から七曲の玉に蟻を通せ
という難問を課され、中将はそれを見事に解いてみせ、後に蟻通神として
祀られた。」との伝承から「智恵の神様」とされています。
大山祇神は、「大いなる山の神」という意味を持つ名で、山の神とされています。
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振り返ると夕日を浴びた隋神門は大樹の中に小さく見えます。
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急いで神宮寺へと向かったのですが拝観時間は4時までで、
外から伺うしかありませんでした。
神宮寺は、若狭一の宮の神願寺として、
和銅7年(714)に元正天皇の勅命により創建されました。
鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名、七堂伽藍二十五坊を誇りましたが、
豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微しました。
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満開の桜や本堂の一部が覗けましたが、改めて訪れたいと思います。
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神宮寺から遠敷川(おにゅうがわ)を遡って行った所に鵜の瀬があります。
ここでは、毎年3月2日に奈良東大寺二月堂に香水を送る
「お水送り」神事が行われています。
東大寺の僧・実忠(じっちゅう)は、天平勝宝4年(752)に二月堂を創建し、
修二会を始めました。
修二会にはすべての神々が参列されましたが、ただ若狭の
遠敷明神(彦姫神)のみは川で魚を採っていたため遅参されました。
そのお詫びとして、二月堂の本尊へお香水を送る約束をされました。
鵜の瀬から白と黒の二羽の鵜がもぐっていき、二月堂のほとり、
傍らに木が立つ岩の中から飛び立ち、その跡から湧水が満ちあふれたと伝わります。
それが二月堂の閼伽井で、「若狭井」と名付けられ、
その水を汲む行事「お水取り」が始まったと伝わります。

鵜の瀬の少し上流に白石神社があり、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)が降臨された地とされ、
若狭彦神社が創建された聖域です。

東寺では、3月20日~5月25日まで「春季特別公開」が開催され、
特に4月28日~5月25日までは五重塔の初層特別拝観ができます。
次回は東寺へ向かいます。

東寺-その1

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7:25に近鉄東寺駅に着き、5分余り余り西に歩いた所に東寺があります。
東寺は正式には「金光明(こんごうみょう)四天王教王護国寺秘密伝法院」で、
山号は「弥勒八幡山」ですが、宗教法人としての登録名は「教王護国寺」で、
「東寺」は創建当時から使用されてきた歴史的名称であります。
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南大門は安土桃山時代末期の慶長6年(1601)に建立されたのですが、
明治元年(1868)に焼失し、明治28年(1895)に蓮華王院(三十三間堂)の
西門が移築されました。
安土桃山時代のもので、国の重要文化財に指定され、重厚さを感じさせます。
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門を入った右側に八島神社があります。
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八島とは、伊邪那岐命と伊邪那美命が生み出した日本列島のことで、
東寺が造営される以前からこの地に祀られていました。
空海は、東寺の伽藍建立に先立ち、この神に造立成就を祈願し、
地主神として崇められたと伝わります。
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明治元年(1868)に南大門が焼失した際に、八島神社も焼失し、
現在の社殿は平成4年(1992)に再建されました。
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南大門の左側に弘法大師像が建っています。
弘仁7年(816)に修禅の道場として高野山の開創に着手した空海は、
弘仁14年(823)に太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としました。
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弘法大師像から奥に進むと鎮守八幡宮があります。
鎮守八幡宮は弘仁元年(810)、薬子の変に際し、空海が王城鎮護を祈願して
宇佐八幡宮を勧請し、創建されました。
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空海は一本の霊木から、自ら八幡三神を刻んだと伝わり、
日本最古の神像で秘仏とされています。
南北朝時代、東寺の内外で戦闘が行われた時、鎮守八幡宮から神矢が飛んで、
東寺に陣を置いた足利尊氏が勝利しました。
この戦勝により、足利幕府は東寺を保護し、鎮守八幡宮も栄えたのですが、
南大門の焼失の際に類焼し、平成4年(1992)に再建されました。
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鎮守八幡宮の向かい、境内の南西角には灌頂院(かんじょういん)があり、
鎮守八幡宮の向かいに灌頂院への東門があります。
灌頂院は東寺にしか現存せず、「真言堂」とも呼ばれ、真言宗寺院では
最も重要な堂宇で、国の重要文化財に指定されています。
空海が修行した唐の青竜寺にならい、密教修行の道場として建立され、
灌頂道場としては最大規模になります。
承和10年(843)に建立されたのですが、承和2年(835)に弘法大師が
入定されたため、東寺二祖の実恵大徳(じつえだいとく)によって完成されました。
承和10年(843)に太政官符で実恵大徳に対し
東寺で最初の伝法灌頂が許可されました。
天正13年(1586)に発生した天正地震で損壊し、弘法大師八百年御遠忌の
寛永11年(1634)に徳川三代将軍家光により再建されました。
天正地震は、中部地方を震源とした巨大地震で、被害の範囲は
明治24年(1891)の濃尾地震(M8.0~8.4)をも上回る広大なものでした。
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灌頂院北門
灌頂院の四方は築地塀で囲われ、通常非公開です。
東門と北門はともに国の重要文化財に指定されています。
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鎮守八幡宮から北上すると勅使門があり、築地塀で囲われた内部には書院、
客殿、小子坊などがありますが、通常非公開です。
小子坊は、元は西院大師堂の一面にあり、
西院とは境内の西北隅に位置することからの呼称です。
南北朝時代に九州に下った足利尊氏が光厳上皇(こうごんじょうこう)の院宣を
掲げて京都に入り、建武3年(1336)から約半年間、
洛中の戦乱が治まるまで御所とされました。
現在の建物は、昭和9年(1934)に弘法大師千百年御遠忌の記念事業として、
木曽檜材を用いて新築されました。
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本坊への門には「真言宗総本山 教王護国寺 事務所」と掲げられています。
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本坊も非公開です。
本坊の北側にある西院は、かって空海が居住していたと伝わり、
御影堂(大師堂)がありますが、現在工事中です。
西院を巡ります。
続く
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