京都発5:43の網干行快速で大阪に行き、大阪で環状線に乗換、
崇峻天皇(すしゅんてんのう)を祭神として社殿を造営したのが最初と伝わり、
四天王寺七宮の一つに数えられています。
かつて創建当初から明治中ごろまで境内の南沿いに堀があり、
かつて創建当初から明治中ごろまで境内の南沿いに堀があり、
この堀を渡って参詣したのが社名の由来とされています。
右側に入ると「熊野第一王子之宮」があります。
京都・城南宮を発ち、船で八軒家浜船着場に着き、
京都・城南宮を発ち、船で八軒家浜船着場に着き、
上陸した所に第一王子の窪津王子がありました。
窪津王子は、後に四天王寺・西門近くの「熊野神社」に遷され、
窪津王子は、後に四天王寺・西門近くの「熊野神社」に遷され、
その後「堀越神社」に合祀されました。
「白龍社」の奥の方、神木の根に「太上神仙鎮宅七十二霊符尊神」が
祀られています。
鎮宅とは、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとの義で、下記のような由来があります。
「風水・宅相に精通していた漢の孝文帝が、あるとき孔農県に行幸したとき、
鎮宅とは、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとの義で、下記のような由来があります。
「風水・宅相に精通していた漢の孝文帝が、あるとき孔農県に行幸したとき、
滅茶苦茶凶相の地に、立派な邸宅のあるのを怪しみ、その主人をよんで
尋ねたところ、その昔、災禍打ち続きど貧民となり不幸のどん底にあったとき、
いずこともなく書生二人が現れ、七十二霊符を伝授され、十年にして大富豪となり、二十年にして子孫栄え、三十年にして天子までが訪ねて来るであろうと預言し、
忽然と消えたという。ここに孝文帝はこの霊符の法を深く信仰し、天下に伝えた」
お守りやお札の元祖の神で、節分や七夕など星祭りは、
お守りやお札の元祖の神で、節分や七夕など星祭りは、
この神の家内安全、商売繁盛のお祭りです。
参道に戻り、先に進んだ正面に本殿があります。
本殿の左側に茶臼山稲荷神社があります。
稲荷社の左側に狛犬が置かれています。
四天王寺へ向かいます。
続く
四天王寺へ向かいます。
続く