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四天王寺-その5

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池を挟んで北鐘堂が見えます。
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北鐘堂は、正式には黄鐘楼といい、北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれます。
かって、葬送の時、石鳥居の先にある引導石の前に棺を置き、
この鐘が三回撞かれたと云われています。
その鐘は外からは見えませんが、遠く極楽までも響くと云われています。
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北鐘堂の先に太鼓楼があります。
元は刻を知らせる太鼓を鳴らすお堂でしたが、
再建の際に梵鐘が釣られ鐘楼となりました。
本尊は虚空蔵菩薩で、毎月21日には開堂されます。
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六時礼讃堂の前、亀の池に架かっている石橋の上に石舞台があります。
住吉大社の石舞台厳島神社の平舞台とともに、
日本三大舞台の一つとされています。
元は木造でしたが、文化5年(1808)に石造りで再建され、
国の重要文化財に指定されています。
東西9.9m、南北12.6mの大きさがあります。
毎年4月22日に聖徳太子を偲んで行われる聖霊会舞楽大法要の際には、
古来の作法にのっとり舞台上で舞楽が舞われます。
8月11~12日には盆踊りも行われるようです。
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石舞台の手前、北鐘堂と太鼓楼の間に御供所があり、その左右に楽舎があります。
御供所は、聖霊会の際に御供物が安置される場所であり、
御供物はここから六時礼讃堂へと運ばれ、堂内の宝前に供えられます。
舞楽には「左方の舞」と「右方の舞」があり、
舞に対応して左方楽舎、右方楽舎が楽を奏でます。
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六時礼讃堂は、境内中央に位置し、薬師如来坐像と四天王像が安置されています。
元和9年(1623)に椎寺薬師堂を移築、建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
六時礼讃(ろくじらいさん)とは、浄土教における法要、念仏三昧行の一つで、
1日を6つに分け、誦経(読経)、念仏、礼拝が行われます。
また、「四六時中」の語源ともなっています。
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中心伽藍の周囲を南側に廻り、中門から入ります。
中心伽藍は、中門から北へ五重塔、金堂、講堂が一直線状に配され、
その周囲を回廊で囲まれています。
四天王寺は創建以来、度重なる災害により古い建物は悉く失われています。
近世以降でも、天正4年(1576)に石山本願寺攻めの兵火で焼失し、
豊臣秀吉によって再建されています。
慶長19年(1614)には大坂冬の陣で焼失し、江戸幕府の援助で再建されました。
しかし、幕末の享和元年(1801)に落雷により焼失し、
文化9年(1812)に再建されました。
昭和9年(1934)の室戸台風で五重塔と中門が倒壊し、金堂も大被害を受けました。
五重塔は昭和14年(1939)に再建されましたが、昭和20年(1945)の
大阪大空襲で国宝の東大門他伽藍とともに焼失しました。
現在の中心伽藍は、日本では最も古い建築様式の一つである
「四天王寺式伽藍配置」を踏襲し、昭和32年(1957)からコンクリート造りで
再建にかかり、昭和38年(1963)に落慶法要が営まれました。
中門は、創建当初の様式を再現して再建されました。
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門には鮮やかな色彩の金剛力士像が伽藍を守護しています。
左、密迹金剛力士(みっしゃく・吽像)、右、那羅延金剛力士 (ならえん・阿像)
ブレてしまったのが少し残念。
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門を入ると正面に五重塔が迫ってきます。
現在の五重塔は8代目で、昭和34年(1959)に再建されました。
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中心伽藍を囲む回廊を巡ります。
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金堂の堂内には、中央に本尊救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が安置されています。
周囲の壁面には中村岳陵筆の「仏伝図」の壁画が描かれています。

講堂の画像は取り忘れましたが、堂内西側を「夏堂」(げどう)、
東側を「冬堂」(とうどう)と称し、それぞれ阿弥陀如来坐像
松久朋琳・宗琳作)、十一面観音立像(佐川定慶作)を本尊とし、
安置されています。
金堂、講堂とも堂内の撮影は禁止されています。
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中心伽藍を出て、東側にある「聖霊院(太子殿)」へ向かいます。
唐門から中へと入ります。
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聖霊院の主要な建物は前殿と奥殿で、更にその北に絵堂がありますが、
立ち入りできるのは前殿のみです。
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前殿には、聖徳太子十六歳像・太子二歳像・四天王像が、
奥殿には太子四十九歳像(1月22日のみ公開の秘仏)が祀られています。
聖霊院は聖徳太子が祀られていることから太子殿とも呼ばれています。
四天王寺の草創について『日本書紀』に次のように記されています。
「用明天皇2年(587)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と
排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。
蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ
攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、
自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。
聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、
この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、
「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」と
いう誓願をした。
その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。
その6年後、推古天皇元年(593)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で
四天王寺の建立に取りかかった。」
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聖霊院の境内には、宝篋印塔も見られます。

極楽門近くにある納経所へ向かいます。
四天王寺は、聖徳太子霊跡1番、新西国三十三箇所1番、近畿三十六不動尊1番、
法然上人二十五霊跡6番、西国薬師四十九霊場16番、摂津国八十八箇所25番、
神仏霊場巡拝の道 第43番、西方四十八願所44番、西国三十三所番外、
四国八十八ヶ所霊場番外などの札所になっています。

清水寺へ向かいます。
続く

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