大石神社の神門の追記
大石神社の神門は、義芳門と名付けられ、昭和17年(1942)に湊川神社から
大石神社の神門は、義芳門と名付けられ、昭和17年(1942)に湊川神社から
移築されたものです。
明治5年(1872)に湊川神社が創建された時に建立されました。
明治5年(1872)に湊川神社が創建された時に建立されました。
大石邸長屋門から南下したした所に赤穂城・本丸への高麗門があり、
この区画は平成4~8年(1992~1996)にかけて復元されました。
門をくぐって右に曲がると本丸門があります。
本丸門は「櫓門」であり、櫓上の内部は展示室として特定の日に
本丸門は「櫓門」であり、櫓上の内部は展示室として特定の日に
一般公開されています。
外敵の侵入が一目瞭然で、本日は平穏な日になりそうです。
御殿の南側に本丸庭園があり、「旧赤穂城庭園」として国名勝に指定されています。
本丸の東側に厩口門(うまやぐちもん)があり、
森家時代には台所門と呼ばれていました。
廃城後に失われた後、県立赤穂高等学校の通用門に改変されていました。
平成8年(1996)の発掘調査で、門礎石等が良好な状態で見つかり、
廃城後に失われた後、県立赤穂高等学校の通用門に改変されていました。
平成8年(1996)の発掘調査で、門礎石等が良好な状態で見つかり、
高麗門であったことがわかりました。
高校は移転され、平成13年(2001)に門、橋、土塀や周辺の石垣が整備されました。
高校は移転され、平成13年(2001)に門、橋、土塀や周辺の石垣が整備されました。
本丸の高麗門の方へ戻り、門の手前に大石頼母助(たのものすけ)屋敷門
があります。
大石頼母助は、大石内蔵助の大叔父に当たる人物で、家老職に就き
大石頼母助は、大石内蔵助の大叔父に当たる人物で、家老職に就き
二の丸に屋敷を構えていました。
山鹿素行(やまがそこう)が赤穂に配流された際に、素行はこの屋敷の
山鹿素行(やまがそこう)が赤穂に配流された際に、素行はこの屋敷の
一角で8年余りを過ごしたと伝わります。
門をくぐっても屋敷は無く、二の丸庭園が整備されていて、
国名勝に指定されています。
庭園はまだ整備中らしく通り抜けはできないようです。
庭園はまだ整備中らしく通り抜けはできないようです。
庭園から戻り、城の南側に移動すると米蔵が再現されていて
休憩所として使用されています。
かって、この地にこのような米蔵が2~3棟あったそうです。
米蔵から左側(東側)に進んだ所に水手門があります。
かっての赤穂城の南側はヨシ原が広がる干潟に面していて、
かっての赤穂城の南側はヨシ原が広がる干潟に面していて、
満潮時には海水が石垣まで迫っていました。
水手門には物資を運んできた船を泊めるための「船着場の雁木(がんぎ)」や
水手門には物資を運んできた船を泊めるための「船着場の雁木(がんぎ)」や
突堤が復元されています。
赤穂岬へ向かいます。
続く
続く