下鴨神社から賀茂川の右岸を北上すると、出雲路橋が見えてきます。
大宝令(たいほうりょう)で賀茂川の西岸が出雲郷と定められ、
大宝令(たいほうりょう)で賀茂川の西岸が出雲郷と定められ、
出雲路橋が架かる通りが鞍馬口通で、鞍馬口通を挟む南北の
地域が該当します。
古代氏族・出雲氏がこの地域に住んでいたことが地名の由来となり、
古代氏族・出雲氏がこの地域に住んでいたことが地名の由来となり、
出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)を鎮守社
として祀ったとされています。
鞍馬口は、京都の七口の一つで、
鞍馬口は、京都の七口の一つで、
京都から鞍馬へ向かう街道の出入り口に当たる要衝でした。
明治の中頃まで橋は無く、川床を渡っていたそうです。
明治の中頃まで橋は無く、川床を渡っていたそうです。
橋を見て、少し手前で左折し、通りに沿って右側に曲がった所に
上御霊神社の鳥居が建っています。
元、この地には出雲氏の氏寺として上出雲寺(かみいずもでら)が
元、この地には出雲氏の氏寺として上出雲寺(かみいずもでら)が
創建されていましたが、平安京遷都に際し桓武天皇の御願により王城守護の
その事件に天皇の弟の早良(さわら)親王が関与したとされ配流となりました。
親王は無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中に
親王は無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中に
藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)が病死する一方で、洪水が発生するなど、
災難が相次ぎました。
桓武天皇はそれらは早良親王の祟りであるとして、幾度か鎮魂の儀式が執り行い、
桓武天皇はそれらは早良親王の祟りであるとして、幾度か鎮魂の儀式が執り行い、
延暦19年(800)に崇道天皇と追称しました。
更に平安京へと遷都し、崇道天皇の神霊を祀ったのが
更に平安京へと遷都し、崇道天皇の神霊を祀ったのが
上御霊神社の始りとされています。
その後、第54代任明天皇(にんみょうてんのう、在位:
その後、第54代任明天皇(にんみょうてんのう、在位:
天長10年3月6日(833年3月30日)~ 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))、
第56代清和天皇(在位:天安2年11月7日(858年12月15日)~
貞観18年11月29日(876年12月18日))により不運の死を遂げた
人々を祭神として追祀されました。
これらの人々を丁重に弔うことによって災いをなくそうという御霊信仰が生まれ、
これらの人々を丁重に弔うことによって災いをなくそうという御霊信仰が生まれ、
下出雲寺御霊堂、上御霊神社は上出雲寺御霊堂と称しました。
鳥居の前に「応仁の乱勃発地」の碑が建立されています。
室町時代の文正2年1月18日(1467年2月22日)、家督相続により明け渡しを
室町時代の文正2年1月18日(1467年2月22日)、家督相続により明け渡しを
求められた畠山政長は自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社に陣を敷きました。
当時、御霊の森は現在の2倍の面積があり、竹林に囲まれ、西には細川が流れ、
当時、御霊の森は現在の2倍の面積があり、竹林に囲まれ、西には細川が流れ、
大軍を率いて出兵して政長を攻撃(御霊合戦)、戦いは夕刻まで続き、
夜半に政長は社に火をかけ、自害を装って逃走しました。
畠山家の家督争いに端を発して、足利義視(あしかが よしみ)・
畠山家の家督争いに端を発して、足利義視(あしかが よしみ)・
発展しました。
この騒乱は文明9年(1477)までの約11年間に渡り全国的に拡大・継続し、
この騒乱は文明9年(1477)までの約11年間に渡り全国的に拡大・継続し、
主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。
西門の前に座す狛犬は、来るものを厳しく威嚇しているようです。
西側にある楼門は、江戸時代に伏見城から移築された四脚門と伝わります。
門には随身の装束をした2神像が安置されています。
手水舎の東側に芭蕉句碑があります。
「半日は神を友にや年忘」
元禄3年(1690)に松尾芭蕉は向井 去来(むかい きょらい)や門人と参詣し、
「半日は神を友にや年忘」
元禄3年(1690)に松尾芭蕉は向井 去来(むかい きょらい)や門人と参詣し、
「年忘歌仙」を奉納しました。
絵馬所は江戸時代中期の宝暦年中(1751~1764)に内裏賢所権殿が
寄進されたものを改築されました。
参道の正面は拝殿があります。
本殿は享保18年(1733)に寄進された内裏賢所御殿の遺構を
藤原大夫人・橘大夫(たちばなのだいぶ)
・文大夫(ぶんのだいぶ)・火雷神・吉備大臣(きびのおとと)
井上大皇后は聖武天皇の第一皇女、光仁天皇の皇后で、その子・他戸親王は
光仁天皇の第四皇子です。
宝亀4年(773)、井上大皇后は、光仁天皇の同母姉の難波内親王を
宝亀4年(773)、井上大皇后は、光仁天皇の同母姉の難波内親王を
呪い殺した嫌疑により、他戸親王とともに幽閉され、
宝亀6年4月27日(775年5月30日)、
母子は幽閉先で同じ日に二人とも亡くなりました。
藤原 吉子(ふじわら の よしこ)は、桓武天皇の夫人で、謀反の嫌疑がかけられ、
その子・伊予親王とともに幽閉されて飲食を絶たれました。
母子は自害し、その後、祟りを怖れた朝廷によって復位・贈位がなされ、
母子は自害し、その後、祟りを怖れた朝廷によって復位・贈位がなされ、
藤原大夫人と尊称されました。
橘逸勢(たちばな の はやなり)は、書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称され、延暦23年(804)には最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡りました。
大同元年(806)に帰国後は、琴と書の第一人者となり、承和7年(840)に
大同元年(806)に帰国後は、琴と書の第一人者となり、承和7年(840)に
但馬権守に任ぜらましたが、老いと病により出仕せず、
静かに暮らしていました。
しかし、承和9年(842)、嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に
しかし、承和9年(842)、嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に
皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)の東国への移送を画策し謀反を
企てているとの疑いで、伴健岑(とも の こわみね)とともに捕縛されました。
逸勢は流罪となり、伊豆への護送途中で病死しましたが、
逸勢は流罪となり、伊豆への護送途中で病死しましたが、
死後に無実であったことが判明し、無罪となりました。
文室 宮田麻呂(ふんや の みやたまろ)は、承和10年(843)には散位従五位上の
官位でしたが、従者から謀反を図っているとの告発があり、伊豆へ流罪となり、
配所で没したとされていますが、死後に無罪であったことが判明しました。
火雷神は、以上五所と崇道天皇の荒魂で、吉備大臣とともに
後年祀られるようになりました。
吉備真備(きび の まきび)は、養老元年(717)に阿倍仲麻呂・
玄(げんぼう)らと共に遣唐留学生として、唐に渡りました。
天平7年(735)に帰国後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、
天平7年(735)に帰国後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、
天平18年(746)には吉備朝臣の姓を賜与されました。
しかし、孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750)に藤原仲麻呂が専権し、
しかし、孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750)に藤原仲麻呂が専権し、
筑前守次いで肥前守に左遷されました。
天平勝宝3年(751)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752)に再度入唐し、
天平勝宝3年(751)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752)に再度入唐し、
翌年の天平勝宝5年(753)に、鑑真と共に帰国しました。
本殿の右側に「清明心の像」が建立されています。
中国・宋代の学者・司馬 光(しば こう)が幼少の頃、数人の子供達と満水の
中国・宋代の学者・司馬 光(しば こう)が幼少の頃、数人の子供達と満水の
大甕の周辺で遊んでいたところ、一人が甕に登り、
誤って水中に落ちてしまいました。
司馬 光は傍らにあった大石で甕を割って子供を助けたという故事を
司馬 光は傍らにあった大石で甕を割って子供を助けたという故事を
像にしたもので、国際児童年(1979)にあたり生命の尊重と子供達の健やかな
成長を祈って建立されました。
「清明心の像」の右奥に福寿稲荷神社があります。
本殿の左側に花御所八幡宮があり、正面の鳥居前にも「花御所八幡宮」の
石碑が建立されています。
花の御所は、室町幕府・三代将軍・足利義満が造営したとされ、
花の御所は、室町幕府・三代将軍・足利義満が造営したとされ、
その鎮守として源氏の氏神である八幡神が勧請されました。
ただ、その敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、
ただ、その敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、
北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町の場所で、
上御霊神社から南西の地になり、なぜ現在地に遷されたのかは不明です。
花御所八幡宮の右側には末社が並んでいます。
末社の左方向に厳島神社があります。
厳島神社の右側、本殿の裏側に当たる所に神明神社があります。
神仏霊場巡拝の道・第99番の相国寺へ向かいます。
続く
続く