赤山禅院から修学院離宮の門前を通り、突き当りを左折して山手へ向かって
緩やかな坂道を登り、突き当りを右折した先に曼殊院があります。
天台宗の門跡寺院で天台五門跡の1つに数えられています。
北側にある通用門から出入りしますが、西側には勅使門があります。
天台宗の門跡寺院で天台五門跡の1つに数えられています。
北側にある通用門から出入りしますが、西側には勅使門があります。
寺伝では延暦年間(728~806)に伝教大師最澄が比叡山上に営んだ一坊が
その起源とされています。
天暦年間(947~957)、是算国師(ぜさんこくし)の時、比叡山三塔のうちの
天暦年間(947~957)、是算国師(ぜさんこくし)の時、比叡山三塔のうちの
西塔北谷に移り、東尾坊(とうびぼう)と称しました。
是算国師は菅原氏の出身であり、北野天満宮が造営されると初代別当職に補され、
是算国師は菅原氏の出身であり、北野天満宮が造営されると初代別当職に補され、
以後明治維新まで900年間、曼殊院は北野別当職を歴任しました。
天仁年間(1108~1110)、門主・忠尋の時に、北野天満宮を管理するために、
さほど遠くない北山(現・京都市右京区)に別院を建て、
寺号は「曼殊院」と改称されました。
しかし、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)造営のため移転を余儀なくされ、
しかし、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)造営のため移転を余儀なくされ、
康暦年間(1379~1381)に相国寺の南方へ移りました。
明応4年(1495)頃、伏見宮貞常親王の王子で後土御門天皇の猶子(ゆうし)である
大僧正・慈運法親王が26世門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族が
門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立しました。
また、道豪が第146代天台座主に就くと、その後も近世まで6名が就任しました。
寛永11年(1634)、八条宮智仁(としひと)親王の第二皇子・
また、道豪が第146代天台座主に就くと、その後も近世まで6名が就任しました。
寛永11年(1634)、八条宮智仁(としひと)親王の第二皇子・
後水尾天皇が承応4年(1655)に修学院離宮を完成させると、
明暦2年(1656)その付近である現在地へと曼殊院を移転しました。
現存する建物の多くや作庭はこの時期の造営と見られ、
現存する建物の多くや作庭はこの時期の造営と見られ、
良尚法親王は中興開山と言われています。
良尚法親王は、曼殊院を造営するに当たり、桂離宮を完成させた
良尚法親王は、曼殊院を造営するに当たり、桂離宮を完成させた
兄の智忠親王の助言を得て完成されたことから、
曼殊院は「小さな桂離宮」とも呼ばれています。
曼殊院・第三十九世山口光円門主に天台の教学を学び、作中に描いた
という縁があります。
また、母の法要も曼殊院で行いました。
この鐘は法要の準備や開始の合図に使われています。
また、母の法要も曼殊院で行いました。
この鐘は法要の準備や開始の合図に使われています。
小書院では現在工事が行われていました。
小書院と大書院の南側にある庭園は小堀遠州の作とされていますが、
遠州は曼殊院の当地移転以前の正保4年(1647)に亡くなり、
実際の作庭者はその弟子とみられています。
鶴島
亀島
深山からの渓流が、鶴島と亀島のある大河となっている様子が
表された枯山水式の庭園です。
大書院から大玄関へと戻る廊下の左側には宸殿再建予定地と記されています。
宸殿にはかって、本尊が安置され本堂の役割を果たしていましたが、
宸殿にはかって、本尊が安置され本堂の役割を果たしていましたが、
明治5年(1872)、京都府療病院(京都府立病院の前身)建築時に寄付され、
本尊などの仏像は大書院の仏間に遷されました。
建物内は撮影が禁止されているため、建物内の様子をメモしておいたのですが、
紛失したため後日、再度訪問して詳細を再掲したいと考えています。
勅使門の西側に弁天池があり、弁天島へと渡る石橋が架けられています。
島には弁財天社と天満宮があります。
洛陽十二支妙見の寅(東北東)で、「修学院の妙見さん」と呼ばれる
道入寺へ向かいます。
続く
続く