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少し時間に余裕が出てきましたので、京都や近郊を歩いてみたいと思います。
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  • 10/28/18--01:37: 葛井寺
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    葛井寺は、山号を紫雲山と称する真言宗御室派の寺院で、西国三十三所・第五番、
    河内西国三十三所・特別客番、神仏霊場巡拝の道・第59番の札所になっています。

    葛井寺の詳細はこちらをご覧ください。

    当初は草創1300年記念の非公開寺宝特別拝観の日程・5月29日(火)~
    31日(木)に合わせて巡る予定でしたが、当日は天候や仕事の都合と、
    その後の猛暑で体調を崩し、9月中旬となってしまいました。
    11月28日(水)~12月2日(日)にも特別拝観が行われますが、
    他の巡礼の日程からそれも無理なような気がします。

    葛井寺は王辰爾(おうしんに)を祖とする船氏の末裔によって
    白鳳時代(645~710)に創建され、寺蔵の古絵図では、
    東西に塔をもつ薬師寺式の伽藍配置でした。
    王辰爾の甥である白猪胆津(しらいのいつ)は、新しい統治文筆技術を持つ
    新来の渡来氏族で、欽明天皇30年1月(569)、吉備の白猪屯倉
    (しらいのみやけ)の田部(たべ)の丁(よぼろ)の戸籍を定めた功績で
    白猪氏の姓を賜りました。
    屯倉とは大和朝廷の直轄地、田部は屯倉の耕作地で、
    丁は耕作に携わる人数を指します。
    その子孫の白猪広成は養老4年(720)に一族と共に白猪史から葛井連に改姓し、
    神亀2年(725)に聖武天皇の勅願により葛井寺を創建したと伝わります。
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    手水舎
    弘法大師お手堀と伝わり、目の治療や心を開眼させる聖水の湧く井戸と
    されています。
    また、以下のような霊験譚が残されています。
    『大和の住人で傍若無人な生活をしていた藤井安基は、ある時、
    河内国平石の辺りで鹿を捕り、その山のお堂に入って仏具をまな板や薪にして、
    鹿肉を煮て食べていたところ、仏罰で地獄に落とされました。
    地獄で今までの悪行を反省していると観音様が現れ、
    「今後は世の為に尽力せよ」との御言葉と共に、井戸の前に蘇りました。
    井戸の水を飲んで改心した安基は、以後寺の興隆に尽力しました。
    以来、この井戸水は「目と心を開かせる水」と有名になり、
    「安基のようなあかん人間でも、あかん時に助けてくださるお寺」、
    「あかん河内の藤井寺」として語り継がれるようになりました。』
    永長元年(1096)に藤井安基が伽藍を修復したと伝わり、
    その苗字から藤井寺とも称されるようになりました。
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    本堂
    本尊の千手観音菩薩坐像は、半丈六(像高1.5m)の大阪府下唯一の
    天平仏として、国宝に指定されています。
    聖武天皇の勅願により稽文会(け もんえ)、稽首勲(け しゅくん)の
    親子2代にわたり脱活乾漆造りで制作され、行基菩薩により
    開眼されたと伝わります。
    脱活乾漆造りとは、粘土で像の原形を造り、この上に麻布を張り漆で固め、
    漆に木屑を混ぜたもので、細かい造形を施す仏像の製作方法なのです。
    原形となった粘土は抜き取られるので軽い仏像が出来上がり、
    しかも細かい表現が可能なので、奈良時代には盛んに採用されました。
    ところが、金銅製の仏像に比べると湿気や乾燥にデリケートで、もちろん
    火災には弱く、現在まで残った仏像はわずかになってしまいました。
    八稜形框(かまち)上に宝瓶を据えた五重蓮華座上に坐し、胸前で合掌する
    2本の手を中心に1039本の大小の脇手が円形に展開しています。
    脇手は持物をもつ大手38本、小手1001本(右500本、左501本)で、
    合掌手を除く大小の脇手は、像の背後に立てた2本の支柱に打ち付けられています。
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    西門は豊臣秀頼が寄進した四脚門で、国の重要文化財に指定されています。
    元は南大門として建立されましたが、寛政2年(1790)に現在の南大門が
    建立されたのに伴い、西門に移築されました。
    葛井寺は室町時代には、奈良・興福寺の末寺として栄えましたが、
    明応2年(1493)に畠山家の内紛に端を発した兵火にあって、楼門、中門、
    三重塔、鎮守、奥院を焼失し、本堂と宝塔を残すのみとなりました。
    残った建物も永正7年(1510)の地震で倒壊し、慶長6年(1601)に
    豊臣秀頼により本格的な再建に着手され、徳川家代々の外護を受けて
    再建されてきました。

    神仏霊場・第60番札所である枚岡神社へ向かいます。
    続く

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    枚岡神社は近鉄奈良線の枚岡駅の駅前、東側にあります。
    駅前の石段の途中には大正11年(1922)に奉納された注連柱が建っています。
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    駅から石段を上り車道を横断した所には、昭和54年(1979)に建立された
    二の鳥居が建っています。
    二の鳥居から参道を西に約800メートル下った先の東高野街道沿いに
    一の鳥居があります。
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    参道を進むと注連柱が建ち、その先に石段が続いています。
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    注連柱の手前右側の石段の上に昭和10年(1935)竣工の斎館があります。
    昭和12年(1937)の大正天皇の貞明(ていめい)皇太后行啓に
    先立ち再建されました。
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    手水所は鹿の像の前から流れ落ちています。
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    手水所から右奥に進んだ所に禊を行う滝行場があります。
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    注連柱の両側には狛犬ならぬ狛鹿が神域を守護しています。
    武甕槌命が白鹿に乗ってきたとの伝承から、鹿は春日神の神使とされています。
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    石段を上った正面に明治12年(1879)に新築された拝殿があります。
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    拝殿の奥に中門があり、本殿は透き塀で囲われています。
    透き塀の手前には照沢池があります。
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    拝殿の左側に御神木の「柏槙(びゃくしん)」があり、
    大阪府の天然記念物に指定されています。
    社伝によると神津嶽(かみつだけ)には神武天皇お手植えの柏槙の大木があり、
    白雉元年(650)に神津嶽から現在地に遷座された際に、
    その枝を切って挿し木したものと伝えられています。
    昭和36年(1961)の第二室戸大風で損傷し、昭和40年代に地上3mを残して
    伐採され、切株を保存するため覆い屋根が施されました。
    胸高幹周囲6.5m、高さ25mありました。
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    拝殿の右側には神津嶽や橿原神宮などの遥拝所があります。
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    現在の本殿は江戸時代の文政9年(1826)に造営され、
    東大阪市の文化財に指定されていますが、平成30年(2018)9月4日の
    台風21号で倒壊し、現在修復が行われています。
    春日大社と同様に春日造4棟から成り、第一殿に天児屋根命
    (あめのこやねのみこと)、第二殿に天児屋根命の妻神である比売御神
    (ひめみかみ)、第三殿に経津主命(ふつぬしのみこと)、
    第四殿に武甕槌命(たけみかづちのみこと)が祀られています。
    社伝では、神武天皇即位前3年、神武東征に際して天種子命
    ( あめのたねこのみこと )が勅命によって天児屋根命・比売神の2神を
    東方山上の神津嶽(かみつだけ)に奉斎したことが始まりとされています。
    その後、白雉元年(650)に平岡連(平岡氏)らが神津嶽から
    山麓の現在地に遷座したと伝わります。
    天種子命は天児屋根命の孫で、この地に留まって代々祭祀を司り、
    平岡連(ひらおかむらじ)と呼ばれるようになりました。
    中臣氏は平岡連の遠祖となります。
    平城京に遷都された和銅3年(710)に中臣氏から分かれた藤原氏の不比等が、
    春日の御蓋山(みかさやま)に鹿島神である武甕槌命を祀り、
    春日神と称しました。
    その後、神護景雲2年(768)に藤原永手が、鹿島神である武甕槌命と
    香取の経津主命と枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売御神を
    分霊、勧請し、御蓋山の麓に四殿の社殿を造営して春日神社と称しました。
    このことから枚岡神社は「元春日」と呼ばれています。
    宝亀9年(778)、春日神社から武甕槌命と経津主命が勧請され、
    春日神社と同様に四柱の祭神が祀られるようになりました。
    延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では名神大社に列し、
    朝廷の月次祭・相嘗祭・新嘗祭では幣帛(へいはく)に
    預かる旨が記されています。
    平安時代末期からは河内国の一宮として崇敬を受けたとされています。
    建治元年(1275)には西大寺の叡尊が衆僧100余人を率いて参詣し、
    蒙古襲来に対する大般若経の転読を行いました。
    天正2年(1574)に神官の水走氏(みずはやし)と織田信長の間で合戦が生じ、
    本殿や摂・末社17社が焼失しました。
    その後、慶長7年(1602)11月に豊臣秀頼により再建されました。
    明治4年(1871)5月の近代社格制度では官幣大社に列しましたが、
    戦後は神社本庁の別表神社に列しています。
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    本殿の右横を登って行った所に摂社・若宮社があり、天押雲根命
    (あめのおしくもねのみこと)が祀られています。
    天押雲根命は天児屋根命と比売御神の間に生まれた御子神です。
    皇御孫尊(すめみまのみこと)の御膳水(みけつみず)を国土の水に
    天上の水を加えて奉れという神漏岐神漏美命(かむろき・かむろみ)の
    委託により、 父神・天児屋根命の命を受けて、神漏岐神漏美命の元に
    遣わされ、天水を天二上よりもち下ったとされています。
    画像はありませんが、若宮社の右奥に「出雲井」と称される井戸があり、
    古くより神聖な水が湧き続けています。
    現在の枚岡神社の鎮座地・出雲井町は、この井戸の名称によるものと
    考えられています。
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    末社の天神地祇社(てんちしぎしゃ)には元境内にあった19末社や
    近郊に祀られていた天津神・国津神が合祀されています。

    画像はありませんが、天神地祇社の南側に梅園がありますが、
    かっての枚岡神社の神宮寺であった黄檗宗の神護寺の跡地で、
    神護寺は明治6年(1873)に廃寺となりました。
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    境内の北側に鶏鳴殿があり、社務所などに使われています。
    枚岡神社は神仏霊場・第60番の札所となっています。

    次回は西国観音霊場・第6番札所である南法華寺(壺坂寺)から
    明日香村を巡ります。

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    平成30年(2018)10月9日、西国観音霊場・第6番の南法華寺(壺坂寺)から
    キトラ古墳まで巡りましたが、南法華寺についてはこちらをご覧ください。

    南法華寺の次に向かったのが西国薬師霊場・第9番札所である金剛寺です。
    奈良県五條市野原西3丁目にあり、通称はボタン寺として
    関西花の寺・第22番札所にもなっています。
    高野山真言宗の寺院で、山号を小松山と号し、正式には福寿院 金剛寺と称します。
    承安3年(1173)に平清盛の長男である平重盛により創建されました。
    江戸時代初期から野原城主の畠山義春の菩提寺として復興し、奈良朝の末期、
     光仁天皇の皇后、井上内親王(いがみないしんのう)と その子の
    他戸親王(おさべしんのう)の怨霊を祀る宮寺として さらには
    仁和寺直末の中本寺として栄えました。
    また、「雨乞いの寺」として江戸時代の享保年間(1716~1736)から
    昭和になっても雨乞いの祈祷が奉修されています。
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    参道には金属製パイプ足の燈籠が多数建ち並び、
    その背後に修行大師像が祀られています。
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    山門には宝暦12年(1762)に造られた梵鐘が吊るされています。
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    この梵鐘は近畿一円より10万人の寄進により造られ、
    「山門に鐘楼あり牡丹寺」とうたわれています。
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    山門を入った右側に薬師井戸があり、本尊の薬師如来に供えられる水として、
    「除病延寿」の霊水と伝えられています。
    江戸時代から一度も枯れたことが無いとされ、
    現在も水が湛えられているそうです。
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    本堂や庫裡の拝観は有料で300円を納めます。
    庫裡は元禄4年(1691)に建立され、大正時代まで
    唐招提寺長老の隠居の間でした。
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    庫裡からは元禄時代初期に築造された枯山水の庭が望めます。
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    裏側はボタン園になっているそうで、文政5年(1822)に当時の本常和尚が
    薬の原料としてボタンを植えたのがきっかけとなっているそうで、
    現在では毎年4月下旬から5月上旬にかけてボタン祭りが開催されています。

    画像はありませんが本堂は元禄年間(1688年~1704)に再建され、
    昭和時代後期に大修理が行われています。
    本尊は藤原時代作の薬師如来で、西国薬師霊場・第9番の
    札所本尊にもなっています。
    白檀の香木による一木造りで、日光・月光両菩薩を脇侍とし、
    十二神将が配されています。
    また、堂内には鎌倉時代作の阿弥陀如来坐像も安置されています。
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    観音堂は明治30年(1897)に当時の唐招提寺長老、大森覚明大僧正によって
    再建されました。
    鴟尾(しび)には「唐招提寺金堂之模造」と印されています。
    堂内には十一面観音像及び准胝観音像が安置されています。
    江戸時代には金剛寺は宮寺でしたが、明治の神仏分離令により
    天満宮と御霊宮から遷されました。

    丹生川上神社・下社へ向かいます。
    続く

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  • 11/02/18--02:10: 丹生川上神社・下社
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    金剛寺から吉野川沿いの国道370号線を上流方向に進み、
    その先で国道309号線に入り、秋野川沿いにすすみます。
    川ではカヌーを楽しむ人の姿も見えました。
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    やがて国道は山へ分け入るように進み、その先に日本遺産に指定された
    丹生川上神社・下社があります。
    社殿の前に丹生川が流れ、その流域には丹生神社が点在していました。
    かって、その丹生社の鳥居が洪水で流れてきたので、それを拾って神体として
    祀ったのが丹生川上神社・下社の創祀とされています。
    また神社背後の丹生山の山頂には祭祀遺跡と思しき四角形の石群が
    残されているそうです。
    創建の詳細については丹生川上神社・中社をご覧ください。
    江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、
    「式内大社 丹生川上神社」については当時「丹生大明神」と称していた
    当神社に比定する説が有力となりました。
    その後、朝廷や幕府においてもこれを認めるようになり、宝永7年(1710)に
    第114代・中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、
    時には祈雨の奉幣がなされるようになりました。
    また嘉永6年(1853)に黒船が来航すると、翌7年に第121代・孝明天皇が
    当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年(1862)には攘夷を
    祈願するなど、二十二社の1社として遇されました。
    文久3年(1863)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という
    当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により
    本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失しました。
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    鳥居をくぐった右側に白馬と黒馬が飼育されています。
    天平宝字7年(763)、幣帛の他黒毛の馬が奉献されたとの記録が残され、
    古くから朝廷より雨を祈り黒馬を、晴れを祈り白馬が献上されました。
    平安京へ都が遷ると貴船神社に受け継がれ、絵馬へと発展し、
    丹生川上神社が「絵馬発祥の地」とされています。
    平成23年(2011)8月25日に発生した台風12号は、紀伊半島に
    甚大な被害をもたらし、「紀伊半島豪雨」とも呼ばれました。
    翌年、その災害復興を祈り「白馬献上」の祭事が室町時代に途絶えて以来、
    約600年ぶりに復興されました。
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    「祓いの人形(ひとがた)」人形をした紙を、
    日々の罪と穢れと共に流すためのものです。
    側面には「発祥致福(しょうをはっし、ふくをいたす)」と記され、
    「めでたい事が生じて、幸福を招きよせる」との意味が込められています。
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    境内の左側に社務所があります。
    社殿前、右側の深い緑の木は「多羅葉」で、葉の裏に固い物で文字を書くと、
    文字が黒く浮かび上がります。
    上手に乾燥すると20年経っても文字が読めるとされ、
    葉書の語源ともなっています。
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    社務所の左前方に「牛石」と「蛙石」があり、牛は伏せているように、
    蛙は飛び跳ねているように見えます。
    牛はじっくりと物事を見極め、粘り強く歩み、
    一方蛙は瞬時に獲物を捕らえる瞬発力を持っています。
    「静」と「動」の対照的な性格を持つ二つの石が並び置かれています。
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    社殿は現在修復中ですが、台風などの被災によるものではなく、
    以前から計画されていた「平成の修復」が行われており、
    新元号の5月に完成予定です。
    現在の拝殿は文久3年(1863)の兵火で焼失後、明治34年(1901)に再建されました。
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    残念ながら拝殿から本殿への屋根を架した70段余りの階(かい)や
    本殿は幕で覆われていました。
    現在の本殿は文久3年(1863)に被災後、明治18年(1885)に修築された
    三間社流造で、棟には千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が置かれています。
    以前は高龗神(たかおかみのかみ)が祀られていましたが、
    大正11年(1922)10月12日に内務省告示で丹生川上神社上社・下社は
    中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされ、
    下社の祭神は闇龗神(くらおかみのかみ)に改められました。
    龗(おかみ)は龍の古語であり、「水の湧き出るところ」という意味もあります。
    上社の祭神、高龗神は日光の降り注ぐ山の高い所の神で、「闇(くら)」は
    日の光が届きにくい山の谷間を意味し、下社の祭神となりました。
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    拝殿の左側奥に御神木である欅の大樹が聳えています。
    幹回り4~5m、樹高30mで推定の樹齢は500年とされています。
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    拝殿の左側に井戸があり、「名水いのちの水、丹生の御食(みけ)水」と
    記されています。
    大昔から枯れることなく、森を育むために必要な水を祀った神社として、
    御神木と共にこの井戸が神社を象徴しているように思われます。
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    拝殿の右側に「産霊石(むすびいし)」が祀られ、男根と女陰が
    重なり合っているように見え、高皇産霊尊(たかみむすびのかみ)と
    神皇産霊尊(かみむすびのかみ)の御神体とされています。
    天地開闢(かいびゃく)の時、天之御中主神(あめのみなかぬし)の次に
    高皇産霊尊、その次に神皇産霊尊が高天原に出現し、
    造化の三神と呼ばれています。
    神皇産霊尊は女性とされ「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、
    高皇産霊神とともに「創造」を神格化した神とされています。

    キトラ古墳へ向かいます。
    続く

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  • 11/04/18--01:27: キトラ古墳
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    模型

    キトラ古墳は明日香村の南西部、阿部山の南斜面にあり、
    亀虎古墳とも表記されます。
    壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、
    遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に
    作られた古墳であると見られています。
    二段築成の円墳で、上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、
    高さ90cmあり、墳丘の中央には、凝灰岩の切石を組み上げた石室があります。
    被葬者は不明ですが、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が
    高いと見られています。
    古墳周辺の一帯が「阿部山」という地名から阿倍御主人(あべのみうし)を
    被葬者とする説があります。
    阿倍御主人は天武天皇元年(672)の壬申の乱で大海人皇子
    (後の天武天皇)に仕えて功を挙げて政治に携わり、持統・文武朝の代に
    高い地位にあり、晩年には右大臣として太政官の頂点の座にあった人物です。

    昭和58年(1983)に石室南壁にあった鎌倉時代の盗掘穴
    (高さ65cm、幅25~40cm、奥行49cm)からのファイバースコープ撮影で
    壁画が発見され石室調査が開始されました。
    発掘後、石室内にカビが発生し、平成16年(2004)8月から壁画を
    はぎ取り保存する作業が行われました。
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    古墳は平成12年(2000)に国の特別史跡に指定され、
    周囲は国営飛鳥歴史公園として整備されています。
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    平成28年(2016)9月にキトラ古墳壁画保存管理施設が建設され、
    一般に公開されています。
    四神の館の入口は一階にあり、画像の建物の手前から階段を下ります。
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    館内では、石室が復元されています。
    石室には18個の直方体の切石が使われており、石材は古墳から
    北西に約14km離れた二上山から運ばれてきました。
    石室内部の広さは奥行2.4m、幅1.0m、高さ1.2mで、天井・側壁・床面の
    全面に漆喰が塗られています。
    その白い漆喰面に、四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が
    描かれていましたが、現在ではその鮮やかさは失われています。
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    館内の天井には、石室の天井に描かれていた天文図の通りに配された
    照明が点灯されています。
    古代中国では天球を天の赤道帯に沿って東方・北方・西方・南方の四大区画に分け、その区画内の星座を組み合わせた形を龍・鳥・虎・亀(正確には
    蛇が亀に絡まっている姿)の4つの動物の姿に見立てました。
    その結果生まれたのが東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武で、
    四方を司る神獣とされています。
    石室の天井に描かれていた天文図は、現存する世界最古のもので、
    当時の中国の星座が描かれています。
    天文図の中心には北極星が描かれ、古代中国では北極星を中心に
    星が周回することから宇宙の中心と考えていました。
    古代中国では北極星を北辰や太一などと呼ばれ、北極の五星は天帝とその家族、
    北極星の周囲にある12星を紫宮(紫微宮)と呼ばれていました。
    古代の中国に於いては、天帝を祀るのは天子の義務であり、天子にしか許されず、
    歴代の王朝により天子が引き継がれていました。
    推古天皇15年(607)、天皇の摂政である聖徳太子の任命を受け、
    小野妹子が遣隋使として派遣されました。
    妹子が携えてきた国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」
    と記され、それを見た隋の皇帝「煬帝(ようだい)」は激怒します。
    天子を名乗れるのはこの世に一人しかおらず、「日出ずる処の天子」を
    認めることはできなかったのです。

    更に中国では北極星が神格化されて天皇大帝と呼ばれるようになり、
    唐の高宗(こうそう)は 「天皇」 と称し、死後は皇后の則天武后
    (そくてんぶこう)によって 「天皇大帝」 の諡(おくりな)が付けられました。
    日本の天武天皇による「天皇」の号の使用開始とほぼ同時期とされ、
    どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていません。

    四神の館の2階で壁画が公開されていますが、天文図と四方の壁画の内一枚で、
    3カ月ごとに壁画が交換され、全て見るには一年を通じて通う必要があります。

    第3代・安寧天皇(あんねいてんのう)陵へ向かいます。
    続く

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    高松塚古墳は藤原京の時代(694~710年)に築造された円墳で、
    下段の直径が23m、上段の直径が18mの二段式で5mの高さがあります。
    古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)の終末期の築造で、被葬者は天武天皇の
    皇子説や臣下説、朝鮮半島系王族説など諸説あります。
    高松塚古墳は、昭和45年(1970)に村人によって発見され、
    昭和47年(1972)3月1日から発掘調査が行われ、
    同年3月21日に石室から極彩色の壁画が発見されました。
    昭和48年(1973)4月23日に古墳は特別史跡に、極彩色壁画は、
    昭和49年(1974)4月17日に国宝に指定されました。
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    古墳の西側に壁画館があり、壁画館・石舞台古墳・亀形石造物の
    共通入場券が600円で販売されています。
    壁画館の館内は撮影が禁止されています。
    高松塚古墳の壁画にはキトラ古墳では描かれていなかった男子群像と
    女子群像が描かれ、特に西壁の女子群像はその色鮮やかさから
    「飛鳥美人」と親しまれています。
    石室の東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、
    女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、
    四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれています。
    男子群像及び女子群像は、それぞれ4人一組でで描かれ、
    総計で16名の人物が描かれています。
    ただ、南壁は盗掘時に破壊され、朱雀が描かれていたのだろうと
    考えられています。
    天井には天文図が描かれています。
    キトラ古墳の天文図が、内規(周極星)、外規(その土地で見える天の範囲)、
    天の赤道、黄道、全天の星座(66星座、350星)まで描かれた
    かなり本格的なものであったことに対し高松塚古墳は、4方向に7つの星座があり
    計28個の星座(星宿)が描かれています。
    これは28宿と呼ばれ、星座は4つの方角の7宿ごとにまとめられ、
    その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられました。
    東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四象(四神あるいは四陸ともいう)
    に分けられました。
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    高松塚古墳の南側に文武天皇陵があります。
    文武天皇は天武天皇12年(683)に天武天皇の第二皇子である
    草壁皇子の長男として誕生しました。
    文武天皇は文武天皇元年(697)に、祖母の持統天皇から譲位され、
    第42代天皇として即位しましたが、当時まだ15歳で持統天皇が初めて
    太上天皇を称し後見役に就きました。
    これが後の院政形式の始まりとされています。
    天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、持統天皇3年(689)に
    飛鳥浄御原令が頒布・制定されましたが、
    不十分で日本の国情に適合しない部分も多くありました。
    文武天皇5年(701)に大宝律令として完成し、元号が大宝元年と定められ、
    大宝律令において初めて日本の国号が定められたとする説もあります。
    30年間に及ぶ国交断絶状態であった唐に遣唐使を再開し、
    日本の国号変更を通告しました。
    また、混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けました。
    慶雲4年(707)、25歳で文武天皇は崩御されました。
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    天武天皇陵からバイクで10分弱北方向に進んだ所に欽明天皇陵があります。
    欽明天皇は継体天皇3年(509)に継体天皇の皇子として誕生し、
    宣化天皇4年(539)に第29代天皇として即位し、応神天皇の男系血統と、
    仁徳天皇以来の王朝の血統を継承したとされ、現皇統へと続く祖となりました。
    大伴金村物部尾輿(もののべ の おこし)を大連とし、蘇我稲目宿禰
    大臣としましたが、直後の欽明天皇元年(540)に大伴金村は失脚しました。
    これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがりますが、
    欽明天皇13年(552)に百済から仏像と経文が伝来しました
    廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、
    仏像を投げ捨てる事までした。
    その対立は第31代・用明天皇の時代まで続き、用明天皇2年(587)に
    用明天皇が流行していた疫病で崩御されると、次期天皇を巡って
    物部守屋と蘇我馬子が戦って蘇我氏が勝利し、物部氏は没落しました。
    欽明天皇32年(571)に天皇は崩御されました。
    陵は宮内庁により檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)と
    治定されています。
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    遺跡名を「梅山古墳」と呼ばれ、墳丘長約140mの明日香村唯一の前方後円墳で、
    周濠を持っています。
    『日本書紀』によれば、推古天皇20年に欽明天皇の妃で
    用明天皇や推古天皇の母である
    堅塩媛(きたしひめ)を合葬したと記されています。
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    欽明天皇陵の西側に欽明天皇の皇子・桜井皇子(さくらい の みこ)の
    王女である吉備姫王(きびひめのおおきみ)の墓があります。
    吉備姫王は茅渟王(ちぬのおおきみ)の妃となり、宝皇女
    (皇極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を儲けました。
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    墓内には「猿石」と呼ばれる4体の石像が置かれています。
    元禄2年(1702)に欽明天皇の梅山古墳の付近にあった平田村池田という場所の
    田んぼから掘り出され、古墳の南側に置かれていましたが、
    明治初年頃に現在の場所に移されたと伝わります。
    柵内にあるため全面からしか見ることができませんが、
    奈良文化財研究所飛鳥資料館の庭には、レプリカが置かれ、
    背面の様子なども観察できます。
    それによると、像の背面にも顔が彫られているそうです。
    高さ1mほどの石像で猿に似ていることから「猿石」と呼ばれていますが、
    渡来人をかたどったとの説もあります。
    特徴から僧、男性、女性、山王権現の愛称があります。

    文武天皇・持統天皇陵へ向かいます。
    続く

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    欽明天皇陵から東方向へ進んだ高台に天武天皇・持統天皇陵があり、
    石段の参道が陵へと続いています。
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    天武天皇の生誕日は『日本書紀』にも記載がなく不明ですが、
    第34代・舒明天皇(じょめいてんのう)と皇后・寶皇女
    (たからのおおきみ=後の皇極天皇・斉明天皇)の子で大海人皇子と称しました。
    中大兄皇子(後の天智天皇)は両親を同じくする兄で、天智天皇が
    近江大津宮で即位した際は、次期皇位継承者である皇太弟とされました。
    しかし、天智天皇の第1皇子の大友皇子(後の弘文天皇)を史上初の
    太政大臣としたため、大海人皇子は皇太弟を辞退しました。
    天智天皇10年(671)に天智天皇が病に倒れると、大友皇子が皇太子となり、
    大海人皇子は自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下りました。
    翌年、天智天皇が崩御されると大友皇子が24歳で皇位を継承しますが、
    大海人皇子は吉野で挙兵し、吉野を出立しました(壬申の乱)。
    天武天皇元年(672)、大友皇子が敗れて自害すると、翌年に大海人皇子は
    都を飛鳥浄御原宮へ遷し、第40代・天武天皇として即位しました。
    天皇は一人の大臣も置かず、直接に政務を執り、皇族の諸王が要職を分掌する
    皇親政治を行い、「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇です。
    『日本書紀』と『古事記』の編纂を始め、神道を整備し、
    仏教を保護して国家仏教を推進しました。
    伊勢神宮は壬申の乱での加護に対する報恩の念があり、
    皇女の大来皇女(おおくのひめみこ)を斎王として仕えさせています。
    天武天皇8年(679)、天武天皇は妃の鸕野讚良(うののさらら)皇女と
    異母皇子4人及び天智天皇の皇子2人を伴い、吉野へ行幸されました。
    吉野では草壁皇子を次期天皇であると事実上宣言した盟約が結ばれました。
    大津皇子は草壁皇子の1歳年下で、有能で母親の身分も草壁皇子と同等でしたが、
    母親が早くして亡くなり、草壁皇子の母親が鸕野讚良に対し、
    大津皇子の後ろ盾は乏しいものでした。
    朱鳥(あかみとり)元年(686)に天武天皇が崩御されると大津皇子に
    謀反の疑いが持たれ、大津皇子は24歳で自害して果てました。
    草壁皇子は持統天皇3年(689)に病気で亡くなり、軽皇子(かるのみこ=
    後の文武天皇)は7歳とまだ幼く、皇后が持統天皇として即位しました。
    持統天皇は天武天皇の政策を引き継ぎ、藤原京を造営して
    飛鳥浄御原令を制定しました。
    伊勢神宮の第一回式年遷宮も行っています。
    持統天皇の統治期間の大部分に第一皇子である高市皇子が太政大臣に就き、
    皇太子の有力候補となっていましたが、持統天皇10年(696)7月10日に
    薨去されました。
    同年8月1日に15歳の軽皇子(かるのみこ=文武天皇)に譲位すると、
    自らは太上天皇として文武天皇を後見し、政務を執りました。
    大宝2年(702)に崩御され、天皇として初めて火葬に付されて
    天武天皇陵に合葬されました。
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    天武天皇・持統天皇陵から北東方向に進んだ所に「亀石」があります。
    高さ1.8m、幅2.1m、奥行き3.6mの巨大な花崗岩に亀に似た
    彫刻が彫られていることから「亀石」と呼ばれています。
    何時頃、何の目的で造られたのか?、川原寺(もしくは橘寺)の所領の隅を示す
    石標とする説や仏教伝来以前の土着信仰の対象物(神像)とする説など
    諸説ありますが、詳細は不明です。
    昔、大和が湖であった頃、ここ川原と対岸の当麻(たいま)の間に争いが生じ、
    当麻に湖の水を取られてしまいました。
    川原の辺りは干上がってしまい、たくさんの亀が死んだため、哀れに思った
    村人が亀の形を石を刻んで供養したと伝わり、今は南西を向いている石が、
    西の当麻を睨み付けるように向きを変えると、大和盆地は泥沼になるとの
    伝承が残されています。
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    「亀石」から南東方向に進んだ所に石舞台古墳があります。
    狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられたとの
    伝説が残されています。
    古墳時代後期(6世紀初めから7世紀の半ば頃)の古墳で、
    国の特別史跡に指定されています。
    元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていましたが、その土が失われ、
    巨大な石を用いた横穴式石室が露出しています。
    埋葬者としては蘇我馬子が有力視されていますが、大阪府の太子町にも
    蘇我馬子の墓所とされている所があります。
    昭和8年(1933)と昭和10年(1935)に発掘調査が行われ、貼石列、空堀、
    外堤の跡が見つかり、方形であることが判明しました。
    一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提
    (南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳と考えられています。
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    花崗岩の石組みで造られた石室は西南方向に開口部があり、
    羨道(えんどう)は長さ約11m、幅2.5mになります。
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    玄室(げんしつ)は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7mの規模を有し、
    約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されています。
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    玄室内に残されていた石棺の破片や飛鳥時代の古墳の資料から復元された
    石棺が置かれています。

    神仏霊場・第37番札所である談山神社(たんざん じんじゃ)へ向かいます。
    続く

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  • 11/11/18--01:53: 談山神社
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    石舞台古墳から県道155号線を進み、多武峰(とうのみね)の山中へと
    分け入った所に談山神社(たんざん じんじゃ)があります。
    参道には後醍醐天皇から寄進されたと伝わる石灯籠があり、
    国の重要文化財に指定されています。
    竿には元徳3年(1331)の刻銘があり、この年、後醍醐天皇は元号を元弘に
    改めましたが、光厳天皇と幕府は元弘改元を認めず、
    元徳4年(1332)に正慶に改元しました。
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    談山神社は、神仏分離以前は寺院であり、
    多武峯妙楽寺(とうのみね みょうらくじ)と称し、明治の近代社格制度では
    別格官幣社に列せられました。
    別格官幣社は国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなった
    武将・志士・兵士などを祭神として祀る神社のために創設された社格になります。
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    談山神社の入口はもう少し坂を登って神幸橋を渡った先にあります。
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    橋を渡った右側に池があり、池の中に祓戸社があります。
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    社殿の横には蛙の像が置かれています。
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    入口の受付で入山料600円を納め、正面にある石段を上った所に
    末社の総社本殿があります。
    天神地祇、八百万の神が祀られ、平安時代の延長4年(926)に
    勧請された日本最古の総社です。
    現在の建物は江戸時代の寛文8年(1668)に造り替えられた談山神社の
    本殿を寛保2年(1742)に移築したもので、国の重要文化財に指定されています。
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    総社本殿の右側に江戸時代の元和5年(1619)に造営された閼伽井屋があり、
    国の重要文化財に指定されています。
    閼伽井は「摩尼法井」とも呼ばれ、往古、定慧和尚(じょうえおしょう)が
    法華経を講じた時、龍王の出現があったと伝わります。
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    閼伽井屋の奥には滝があります。
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    総社拝殿-本殿側
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    総社本殿の向かい側に寛文8年(1668)に造営された総社拝殿があり、
    国の重要文化財に指定されています。
    拝殿の内側壁画は狩野永納(かのう えいのう)によるもので、
    松、竹、梅、蘭などが極彩色で描かれています。
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    拝殿には像高3mの福禄寿像が安置されています。
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    総社拝殿から参道を挟んだ向かい側に寛文8年(1668)に再建された
    神廟拝所(旧・講堂)があり、国の重要文化財に指定されています。
    天智天皇8年10月16日(669年11月14日)に中臣鎌足が亡くなりましたが、
    死の前日に天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられて
    「藤原」の姓を賜りました。
    鎌足の長男である中臣真人(なかとみのまひと)は出家して定慧と称し、
    遣唐使として唐に渡りました。
    天武天皇7年(678)に帰国した定慧は、摂津安威(あい=現在の茨木市安威)に
    あった父の墓をこの地へ移し、十三重塔を建立しました。
    天武天皇9年(680)に講堂を建立し、妙楽寺と号したのが
    談山神社の始まりとされています。
    かっては室町時代作の釈迦三尊像が安置されていましたが、
    神仏分離令により阿部文殊院へ遷されました。
    尚、茨木市安威に阿武山古墳(あぶやまこふん)があり、
    被葬者を藤原鎌足とする説もあります。
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    総社拝殿と神廟拝所の間の広場では毎年4月29日11月3日に蹴鞠が行われ、
    「蹴鞠の庭」と呼ばれています。
    中臣鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)が飛鳥法興寺(現在の飛鳥寺)の
    「蹴鞠会」で初めて出会い、「大化の改新」の発端となった
    故事に因んで行われています。
    「蹴鞠の庭」の先に石段があります。
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    石段を上った所に永正3年(1506)の火災後に再建された権殿
    (旧・常行堂)があり、国の重要文化財に指定されています。
    社殿には儀式殿と記されています。
    創建されたのは天禄元年(970)で、摂政・太政大臣の藤原伊尹
    (ふじわら の これただ)の立願によるもので、
    摩多羅神(またらじん)が祀られていました。
    円仁(慈覚大師)が唐に渡り、五台山の引声念仏を相伝し、
    帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に
    常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたとされています。
    常行堂は神仏分離以降は「権殿」と称されています。
    平成23年(2011)5月16日に権殿が修復され、観世宗家の「翁」が奉納され、
    翌年に談山神社の本殿が修復されてからは権殿が
    演能の場として開放されているそうです。
    妙楽寺が能楽を大成した観阿弥・世阿弥親子の本拠地となっていた
    由縁があります。
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    権殿の左側に寛文4年(1627)に造営された末社の比叡(ひえ)神社本殿があり、
    社殿は国の重要文化財に指定されています。
    元は飛鳥の大原にあった大原宮で、この地に遷され明治維新までは
    山王宮と呼ばれていました。
    右側の山神神社には、大山津見神が祀られ、
    左側の稲荷神社には宇迦之御魂神が祀られています。
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    境内の北側には、手前に末社の神明神社があり、天照皇大御神が祀られ、
    その左横の杉山神社には久々能智神(くくのちのかみ)が祀られています。
    久々能智神は木の神とされています。
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    神明神社の横から御破裂山(ごはれつやま=標高607m)への登山道があり、
    登山道を約20分登った所に藤原鎌足の墓所があるそうです。
    御破裂山には、古来から天下に異変が生じると山が鳴動し、
    談山神社の神像が破裂(亀裂)すると言い伝えられています。
    慶長12年(1607)の破裂の際、第107代・後陽成天皇の要望により
    御破裂記録の編纂が行われています。
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    登山道の右側に龍ヶ谷の古代「磐座」と「龍神社」があります。
    古代信仰で天上から神を迎え、祭祀を行った神聖な場所です。
    この滝は大和川の源流の一つで、飛鳥時代に龍神信仰が伝わり、
    日本神話の水神である高龗神(たかおかみのかみ)と習合し、
    「龍神社」として祀られるようになりました。
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    権殿の右側に建つ十三重塔は室町時代の享禄5年((1532)に再建され、
    17mの高さがあり、木造十三重塔としては世界唯一のもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    天武天皇7年(678)に父・藤原鎌足の追福のために、長男・定慧と
    次男・不比等によって創建されました。
    唐の清涼山宝池院の塔婆を模して建てられたと伝わります。
    清涼山は五台山(ごだいさん)の別名で、文殊菩薩の聖地とされ、
    古くから信仰を集めてきました。
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    十三重塔から東へ進み石段を上った所に元和5年(1619)に造営された
    校倉造りの西宝庫があり、国の重要文化財に指定されています。
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    石段を上った正面に建つ楼門は寛文8年(1668)に再建されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    楼門の左側に授与所があり、談山神社は神仏霊場・第37番札所となっています。
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    楼門に接して右側斜面には元和5年(1619)に再建された懸造りの拝殿があり、
    国の重要文化財に指定されています。
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    拝殿へ上がり、本殿を拝します。
    大宝元年(701)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する
    祠堂(しどう)が建立され、聖霊院と号しました。
    また、大織冠社、多武峰社とも称され、現在の建物は嘉永3年(1850)に
    建て替えられたもので、日光東照宮のモデルにもなり、
    国の重要文化財に指定されています。
    神仏分離令により明治2年(1869)に談山神社に改められ、
    現在は本殿となっています。
    皇極天皇4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)にて中臣鎌足と
    中大兄皇子らによって蘇我入鹿が暗殺され、翌日には蘇我蝦夷
    (そが の えみし)が自らの邸宅に火を放ち自害しました。
    乙巳の変=いっしのへん/おっしのへん)
    これにより、蘇我氏の専横に終止符が打たれました。
    乙巳の変の前の5月に中臣鎌足と中大兄皇子が本殿背後の山中で
    「大化の改新」について語り合ったことから「談い山(かたらいやま)」と
    呼ばれ、社名はその山名に因みます。

    一方で藤原氏の氏寺である興福寺が勢力を拡大すると宗派で対立するようになり、
    天仁2年(1108)には興福寺の焼き討ちに遭い、多くの伽藍が焼失しました。
    十三重塔も承安3年(1173)に興福寺衆徒勢の焼き討ちで消失しました。
    また、南北朝時代にも南朝に仕えていた旧臣に占領されて反幕府の拠点にされ、
    永享10年(1438)8月には幕府軍に焼かれて全山全焼しました。
    その他にも度々戦乱に巻き込まれて焼失し、天正13年(1585)には
    豊臣秀吉により郡山城下に寺を移すことを厳命されて破却されました。
    天正18年(1590)に帰山を許された後、徳川家康により復興され、
    江戸幕府に3,000石余の朱印領を認められました。
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    拝殿を出て東へ進んだ所に「龍珠(りゅうじゅ)の岩座」と呼ばれる
    岩が祀られています。
    『多武峰縁起』によると「東の大樹の辺りより異光を放つ」と記され、
    この岩がその光を放つ霊石と伝わります。
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    本殿を挟んで東側に元和5年(1619)に造営された校倉造りの東宝庫があり、
    国の重要文化財に指定されています。
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    拝殿下の石段を下ってくると注連柱が建ち、「恋の道」と記されています。
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    「恋の道」を進んで行くと古来から神の鎮まる岩座として信仰されてきた
    「結びの岩座」があり、「岩を撫でて心に思うことを祈願してください」と
    記されています。
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    「結びの岩座」から更に東へ進んだ所に摂社の東殿(とうでん)があり、
    鏡女王(かがみのおおきみ)、定慧和尚、藤原不比等が祀られ、
    「若宮」とも称されています。
    鏡女王は藤原鎌足の正妻で、藤原不比等の母親とされています。
    社殿は元和5年(1619)に造り替えられた談山神社の本殿を、
    寛文8年(1668)に移築されたもので、国の重要文化財に指定されています。
    「恋神社」とも称され、本殿正面から参拝し、時計回りに廻って
    裏側で参拝し、正面に戻って参拝することを3回行うと成就される...
    かもしれません。
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    社殿には鏡女王の像が祀られています。
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    東殿から北東方向に進んだ所に如意輪観音堂があり、
    「縁切り祈願所」とされています。
    談山神社に残る唯一の仏像である「譚峰(だんぽう)如意輪観世音菩薩像」は
    現在、神廟拝所に安置され、観音講まつりの期間中(6~7月)のみ
    一般公開されます。
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    如意輪観音堂から約250m先に末社の三天稲荷神社がありますが、
    時間の都合で行くのは断念しました。
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    石段まで戻り、下った所に鳥居が建っていて、
    こちらの入口は桜や紅葉の見頃以外は閉門されています。

    県道155号線を下り、西国観音霊場の第7番札所である岡寺へ向かいます。
    続く

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  • 11/11/18--23:43: 岡寺
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    談山神社から県道155号線を下り、石舞台古墳を通り過ぎて県道15号線を
    北上するとスマホの地図ナビは南側の駐車場へ案内してくれました。
    北側の駐車場より歩く距離は短いです。
    岡寺の詳細はこちらをご覧ください。
    慶長17年(1612)に再建された仁王門は国の重要文化財に指定されています。
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    門には彫刻が施されています。
    四神獣でしょうか?
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    奈良県の文化財に指定されている
    慶長年間(1596~1615)頃に建立された楼門です。
    楼門の奥に表書院、その右側に国の重要文化財に指定されている古書院、
    左側に白書院がありますが、普段は非公開です。
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    隙間から覗いて見ると、古書院とその前には庭園が築かれています。
    古書院は寛永21年(1644)かそれ以前に建立されたと見られています。
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    境内には秋の花が咲き誇っています。
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    本堂前にある龍蓋池
    岡寺は正式には東光山・真珠院・龍蓋寺(りゅうがいじ)と称し、
    「岡寺」は岡山の中腹に位置することから地名に因む通称でした。
    しかし、「岡寺」の方が一般的に知られるようになり、
    現在は宗教法人としての登録も「岡寺」で行われています。
    龍蓋寺は約1300年前、義淵(ぎえん)僧正により、
    天武天皇から岡宮の地を賜って創建されました。
    飛鳥の地を荒らし農民を苦しめていた悪『龍』を、義淵僧正が
    その法力をもって池の中に封じ込め、大きな石で『蓋』をし
    改心をさせたことから『龍蓋寺』と称したと伝わります。
    悪龍の『厄難』を取り除いた事から『やくよけ信仰』が始まり、
    本尊の如意輪観音は日本最初の厄除け観音とされています。
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    池の中に祀られている要石を触ると雨が降るという言い伝えが残され、
    かっては池の前で雨乞いの法要も行われていたそうです。
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    本堂前の「もちの木」は「願いをもちかなえる木」とされ、
    「龍玉願い珠(りゅうぎょくねがいだま)」が掛けられています。
    願い珠の下から白い紙を取出し、それに願い事を記して
    願い珠に戻したものが多数吊るされています。
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    岡寺は西国観音霊場・第7番札所で、本堂で納経を済ませ、
    新西国観音霊場・第10番札所及び聖徳太子霊跡・第8番の橘寺へ向かいます。
    続く

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  • 11/13/18--01:19: 橘寺
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    岡寺から西へ進んだ所に橘寺があり、駐車場へと続く道路の脇に
    「聖徳太子御誕生所」の石碑が建立されています。
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    駐車場横の石段を上った所に東門があります。
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    狛犬は仏教とともに朝鮮半島を経て伝わったとされ、最初は仏像や
    仏塔入口の両脇に置かれ、左右共通の姿をしていました。
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    拝観料350円を納め門をくぐると、右側に本坊があります。
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    左側に中門跡があります。
    発掘調査では、創建当初の橘寺は東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が
    東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置
    だったことが判明しました。
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    中門跡の先に鐘楼があります。
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    鐘楼の先に五重塔跡があります。
    飛鳥時代には高さ約40mの五重塔が建っていたと考えられています。
    塔跡の背後に見えるのは経蔵でしょうか?
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    正面から撮影しました。
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    本坊の先に聖徳太子が梵字を形どって造られたと伝わる阿字池があります。
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    阿字池の前に「三光石」があります。
    寺伝では推古天皇14年(606)に天皇の命により、聖徳太子が
    勝鬘経(しょうまんぎょう)を三日間に渡り講讃された際に、
    大きな蓮の華が1mも降り積もり、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち、
    太子の冠が日、月、星の光に輝いたと伝わります。
    日、月、星の光を放ったのが「三光石」とされ、この不思議な出来事に
    驚かれた天皇は、太子に寺を造るように命ぜられました。
    当時、この地には欽明天皇の「橘の宮」と呼ばれる別宮がありました。
    太子はその御殿を改造して寺としたのが橘寺の始まりと伝わります。
    『日本書紀』によれば、第11代・垂仁天皇の御代、田道間守(たじまもり)が
    勅命を受け、不老長寿の薬を求め常世の国(中国雲南省?)へ渡り、
    10年間捜し求めて持ち帰った実を当地に蒔いて育ったのが橘で、
    以後この地は「橘」と呼ばれるようになりました。
    また、田道間守は黒砂糖も持ち帰り、橘と共に薬として用いられ、
    後にミカン・薬・菓子の祖神として崇められ、祀られるようになりました。
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    「三光石」の北側に観音堂があり、重要文化財に指定されている
    六臂如意輪観音像が安置されています。
    安永6年(1777)に本堂として再建されましたが、元治元年(1854)に
    現在の本堂が新築され、旧本堂が現在地に移築されて観音堂となりました。
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    また、賓頭盧尊者像も安置されています。
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    観音堂の西側に護摩堂があり、不動明王、文殊菩薩。大黒天が祀られています。
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    「三光石」の南側に経堂があり、中央須弥壇に阿弥陀如来坐像が安置されています。
    左側に弘法大師像、右側に傅大師(ふだいし)像が安置されています。
    傅大師は中国の南北朝時代の在俗仏教者で、大蔵経の閲覧に不便を覚え、
    輪蔵を作ったと伝えられています。
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    参道を進んだ左側に「蓮華塚」があります。
    聖徳太子が勝鬘経を講讃された際に降り積もった蓮の華を埋めた
    所とされています。
    大化の改新ではこの塚を一畝(せ=当時36坪、現在では30坪)と定め、
    面積の基準として田畑が整備されたので
    畝割塚(うねわりづか)とも呼ばれています。
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    参道の正面に本堂があり、その前に黒駒の像があります。
    聖徳太子の愛馬で空を駆け、達磨大師の化身であったと伝わります。
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    本堂前の石灯籠
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    現在の本堂は、かって講堂があった辺りに建立され、
    「太子殿」の扁額が掲げられています。
    橘寺は正式には仏頭山 上宮皇院 菩提寺と称します。
    寺伝では推古天皇の命により聖徳太子が建立したと伝わり、
    太子建立七大寺の1つとされています。
    しかし発掘調査では天智天皇の時代(662~671)に北側に位置する
    川原寺と対を成すように尼寺として建立されたとする説が有力になっています。
    『日本書紀』天武天皇9年(680)4月条に、「橘寺尼房失火」との記載があり、
    尼寺説を有力なものにしています。
    第45代・聖武天皇の光明皇后から丈六の釈迦三尊像が寄進され、
    第53代・淳和天皇からは薬師三尊像の寄進もあり、
    法相宗の寺院として栄えていたことが伺えます。
    久安4年(1148)に五重塔が落雷により焼失し、その後塔は鎌倉時代まで
    再建されず、衰微していたと考えられています。
    鎌倉時代に親鸞により太子信仰が盛んになると、橘寺も復興し、
    文治年間(1185~1189)には三重とはなりましたが塔が再建され、
    元興寺から四方仏が遷されたとの記録も残されています。
    しかし、室町時代後期の永正3年(1506)、室町幕府管領・細川政元の
    武将・赤沢朝経(あかざわともつね)の多武峰(とうのみね)攻めに
    橘寺の僧が与したために、多武峰の衆徒によって焼き討ちに遭いました。
    伽藍の殆どを焼失して衰退し、更に江戸時代には正堂、念仏堂が大破して
    僧舎一棟を残すのみとなりました。
    江戸時代中期から延暦寺の直末となり、
    法相宗から天台宗に改宗され再建されました。
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    本堂の左側に二面石があります。
    飛鳥時代の高さ約1mの石造物の一つで、高さ約1mの石に
    人の心の善悪二相を表したものとされています。
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    境内の南側に放生池があります。
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    池には橋が架けられ、水神が祀られています。
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    橘寺から川原寺へ向かい、川原寺の前から橘寺を見ました。
    背後に見えるのが仏頭山で、聖徳太子が勝鬘経を講讃された際に
    千の仏頭が現れ、光明を放った山とされ、山号にもなっています。

    川原寺へ向かいます。
    続く