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少し時間に余裕が出てきましたので、京都や近郊を歩いてみたいと思います。
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  • 11/27/18--00:49: 久米寺
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    仁王門
    久米寺は山号を霊禅山、院号を東塔院と号する真言宗御室派、仁和寺の別院で、
    西国薬師四十九霊場・第7番、仏塔古寺十八尊・第9番及び
    聖徳太子霊跡・第32番などの札所となっています。
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    仁王門や仁王像の造立された年代は不明ですが、
    仁王像の端整な姿は好感が持てます。
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    門をくぐると大塔の礎石が残されています。
    寺伝によると久米寺は、元はヤマト政権で軍事部門を担当していた
    部民久米部(くめべ)の氏寺として創建されました。
    用明天皇の皇子である来目皇子(くめのみこ)が7歳の時に眼病を患い、
    兄の聖徳太子の勧めでこの地の薬師如来に祈願し、平癒しました。
    その功があって推古天皇の勅願により来目皇子が金堂、講堂、鐘楼、経堂、
    大門、五重塔を建立して伽藍となし、皇子自らは来目皇子と称し、
    寺は「来目精舎(くめ の しょうじゃ)」と呼ばれるようになりました。
    その後、養老2年(718)に天竺(インド)から善無畏三蔵が久米寺に寄留して、
    日本最初の多宝大塔を建立し、三粒の仏舎利と『大日経』を塔柱に納めました。
    大同2年(807)には空海が諸大弟子と宝塔内で経王を講讃(こうさん)し、
    初めて真言密教を宣布しました。
    「来目精舎」は後に「久米寺」と改められました。
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    大師堂には弘法大師が祀られています。
    空海が撰文した「益田池碑銘并序」(ますだいけひめいならびにじょ)には、
    「来目精舎」として言及されています。
    益田池は平安時代初期の弘仁13年(822)より、高取川に堤防を築いて
    水の流れをせき止めて作られた巨大な灌漑用の貯水池であり、
    天長2年(825)に完成しましたが、現在は堤の一部が残り、
    跡地には橿原ニュータウンが建設されています。
    旱魃(かんばつ)の備えと土地の開拓のために造られ、弘仁12年(821)に
    空海が改修した讃岐国(香川県)の満濃池の技法が取り入れられました。
    この工事には空海は直接携わってはいませんが、変わりに弟子の真円らが
    取り組み、完成後の碑銘の揮毫(きごう)は空海が行いました。
    また、橿原ニュータウン内の岩船山頂上付近にある
    益田岩船(ますだのいわふね)は碑銘を載せた台との説があります。
    東西約11m、南北約8m、高さ約4.7mの、亀石や酒船石などと並ぶ
    飛鳥の石造物の1つで、その中でも最大のものであり、
    奈良県の史跡に指定されています。
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    修行大師像
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    金刀比羅宮(ことひらぐう)
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    不動三尊像と役行者像
    誰かにいたずらされたのか、役行者像には塗装されているように見えます。
    文化財にいたずらするヤカラのために、寺社が過度の文化財保護を行って、
    我々の目から遠ざけることの無いように願っています。
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    五重石塔か七重石塔の欠損したものか?
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    石仏
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    多宝塔は万治2年(1659)に仁和寺より移築されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
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    不明なお堂
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    水子地蔵でしょうか?
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    久米仙人像
    久米寺には「久米仙人伝説」が残されています。
    久米仙人は、欽明天皇の御代(在位:539~571年)、金剛山麓葛城の里に
    生まれたとされ、吉野山麓龍門ヶ獄(りゅうもんがたけ)で神通飛行術を取得し、
    空中を自由に飛べるようになりました。
    その後、百数十年もの間、久米寺に住んでいたと伝わり、聖武天皇が東大寺に
    大仏殿を建立する際、勅命を受けた久米仙人は神変不思議の仙術を使い、
    国々にある大木大石の数々を三日三夜の内に大仏殿境内まで
    飛ばして集めて見せました。
    その甲斐あって大仏殿の建立は速やかに成就し、久米仙人の働きに
    深く感銘した聖武天皇は、免田30町歩を与えました。
    しかし、空中を飛びまわっていた仙人は、ある日、川で美しい女性が
    洗濯しているところに遭遇し、その女性のふくらはぎに目がくらみ
    神通力を失い墜落したとされています。
    この伝説は、『今昔物語』に収録され、『徒然草』にも言及されています。
    仙人はまた、衆生の中風と下の病を除くため薬師に誓願をたて、
    自ら孟宗竹の箸を作りました。
    その竹箸を使うと中風や下の病にならず長寿が得られると言い伝えられています。
    あじさいの花一枝をトイレに吊るすと中風封じになるとか、カボチャを
    冬至に炊いて食べると中風にかからないといわれます。
    あじさいの季節には鐘楼堂横のお休み処でカボチャの酢の物をいただけます。
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    鐘楼、右側に久米仙人像、左側は薬壺を持っておられることから
    薬師如来像と思われます。
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    ここで重要なことに気付きました。
    本堂の画像を撮り忘れました。
    本堂の画像はこれしかありません。
    現在の本堂は寛文3年(1663)に再建され、
    本尊の薬師如来像が安置されています。
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    観音堂
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    金色に輝く大日如来像

    神仏霊場・第33番札所の橿原神宮へ向かいます。
    続く

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  • 11/29/18--00:33: 橿原神宮
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    この地にはかって、初代・神武天皇の畝傍橿原宮があったとされ、
    明治天皇により、明治23年(1890)4月2日に官幣大社として
    橿原神宮が創建されました。
    神仏霊場の第33番札所となっています。
    参道の周囲は深い木立に覆われています。
    神威の尊厳を保ち、宮域の神聖を保持するために、明治44年(1911)から
    開始された第1回事業は、創建当初の2万159坪から約1.8倍の3万6,600坪に
    拡張整備をして、大正15年(1926)に一応の完結をみました。
    社殿は京都御所の賢所と神嘉殿(しんかでん)が移築されました。
    引き続き第2回の拡張が計画され、宮域に隣接して約4万坪の
    畝傍公園が造営されました。
    宮域の造成に約7万6,000本余の樹木が植樹され、かってこの地に
    茂っていたと推測されるカシ類を主として、昔の姿に戻されました。

    昭和15年(1940)は創建されて50周年にあたり、
    また、神武天皇即位2600年にも重なり、社殿の修築、境域と
    神武天皇陵の拡張整備など、国を挙げての奉祝記念事業が行われました。
    明治神宮の外苑建設にならって、勤労奉仕の建国奉仕隊が組織され、
    7,200団体、のべ121万4,000余人が境域の拡張と外苑の建設を行いました。
    紀元2600年奉祝式典には昭和天皇も行幸され、この年の参拝者は
    約1000万人に達したといわれています。
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    参道を進むと右手に折れ、正面に八脚門である南神門があります。
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    門をくぐった左側に参集所があり、神楽殿と接続されています。
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    神楽殿
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    外拝殿は昭和14年(1939)に完成し、畝傍山を背景に建てられています。
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    外拝殿の先に内拝殿があり、外拝殿と内拝殿の間には
    外院斎庭(ゆにわ)があります。
    内拝殿の屋根越しに見える千木(ちぎ)は幣殿のもので、
    本殿は更にその奥にあります。
    本殿には神武天皇と皇后の媛蹈韛五十鈴媛命
    (ひめたたらいすずひめのみこと)が祀られています。
    神武天皇は天孫降臨の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の四代目で、
    正式には「神日本磐余彦火火出見天皇
    (かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)」と称します。
    父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)、
    母は海神の娘の玉依姫(たまよりびめ)で、第四子として
    日向国(ひゅうがのくに)で誕生しました。
    45歳のときに兄や子を集め東征を開始、日向国から筑紫国、安芸国、吉備国、
    難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、
    畝傍山の東南橿原の地に都を開きました。
    辛酉(かのととり)年1月1日(BC660)、橿原宮で初代天皇として即位し、
    事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を
    正妃としました。
    この日付は現在の暦では2月11日であり、日本の建国記念日となっています。
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    南廻廊
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    北廻廊
    外拝殿と内拝殿は南北の廻廊で結ばれています。
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    背後の畝傍山ではカラスの帰宅時間なのか、
    帰宅ラッシュとなっているようです。
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    南神門も点灯されました。
    神武天皇陵へ向かう予定でしたが、カラスと一緒に帰宅することにしました。

    次回は東大寺、春日大社、新薬師寺、元興寺、興福寺、石上神宮を巡ります。

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  • 12/03/18--01:08: 東大寺-その1
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    国道24号線から「木津奈良道」の信号を左折して府道754号線へ入り、
    国道369号線と合流して南進した左側に転害門(てがいもん)があります。
    天平宝字6年(762)に建立された三間一戸の八脚門で、国宝に指定されています。
    かつて東大寺境内の西側にあった3つの門のうちの現存する唯一の門で、
    門を東へ進んだ先には正倉院があります。
    東大寺の西大垣の北寄りに、佐保路に面して開けられた門で、
    「佐保路門」とも呼ばれていました。
    転害門は「手掻門」・「手貝門」・「碾磑門」と表記されたこともあります。
    「手掻門」のいわれは、行基がこの門の場所で大仏開眼に携わった菩提僧正を
    手招きしたとされ、その手で物を掻くような様子を「手掻」と
    表記したとの伝えがあります。
    行基は民衆からの支持を受けていましたが、朝廷から弾圧されていました。
    朝廷は大仏建立の大事業を推進するには、幅広い民衆の支持が必要と考え、
    行基を大僧正として迎え、協力を得ました。
    「碾磑門」については、かって、美しい石臼があったので中国の石臼を意味する
    「碾磑(てんがい)」という漢字があてられたとされています。
    また、「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つ勇猛であった
    藤原景清(平景清)が、この門に隠れて源頼朝を暗殺しようと
    企んでいたことから「景清門」と呼ばれたとの伝えもあります。

    天平勝宝元年(749)、東大寺及び大仏を建立するにあたって、
    東大寺の守護神として宇佐八幡宮から勧請され、手向山八幡宮
    (たむけやまはちまんぐう)が創建されましたが、その際、
    八幡神が転害門を通った伝承に因み、毎年10月に転害門を御旅所として、
    「転害会(てがいえ)」という祭事が行われます。
    その祭事から「害を転ずる」、縁起の良い「転害門」と呼ばれるようになった
    と伝わります。
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    正倉院は現在は宮内庁が管理し、外からは校倉の一部しか見えません。
    この日は正倉院展が催されていましたが、一般公開は10時からで、
    見学は次回に譲ることにしました。

    奈良や平安時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいました。
    「正倉」とは、元来「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された
    米穀や調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられていました。
    また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを
    収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称しました。
    南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在していましたが、歳月の経過で廃絶して
    東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に
    所在する正倉院宝庫を指す固有名詞と化しました。
    天平勝宝8年(756)6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を
    東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献されました。
    皇后の奉献は前後五回に及び、その品々は東大寺の正倉(現在の正倉院宝庫)に
    収蔵して、永く保存されることとなりました。
    これが正倉院宝物の起りで、大仏開眼会をはじめ東大寺の重要な法会に
    用いられた仏具などの品々や、これより200年ばかり後の平安時代中頃の
    天暦4年(950)に、東大寺羂索院(けんさくいん)の倉庫から正倉に移された
    什器類などが加わり、光明皇后奉献の品々と併せて、
    厳重に保管されることになりました。
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    大仏殿(金堂)の北側には講堂の跡地があり、礎石が残されています。
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    現在は木立が拡がり、鹿がのんびりと草を食んでいます。
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    大仏殿を西側から見た姿です。
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    大仏殿の前に中門があり、左右の回廊は大仏殿へと続いています。
    中門は享保元年(1716)頃に再建された入母屋造の楼門で、
    国の重要文化財に指定されています。
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    現在の大仏殿は宝永6年(1709)に落慶された寄棟造の一重裳階(もこし)付きの
    建物で、高さ46.8m、間口57m、奥行50.5mの大きさがあります。
    高さと奥行は創建時とほぼ同じですが、東西の幅は約3分の2に縮小されています。
    鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)を
    基本とした建物で、近代的工法以外で建てられた世界最大の木造建築物です。
    東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733)、
    若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が
    東大寺の起源であるとされています。
    また、『続日本紀』によれば、神亀5年(728)に第45代・聖武天皇の
    第一皇子・基親王(もといしんのう)が一歳の誕生日を迎える前に亡くなり、
    菩提を弔むため、若草山麓に金鍾山寺を建立し、
    良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させました。
    天平13年(741)に国分寺建立の詔が発せられると翌天平14年(742)、
    金鐘山寺は大和国の国分寺と定められ、金光明寺と改称されたのが
    東大寺の始まりとされています。
    奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が
    南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に
    並ぶ僧房、僧房の東には食堂があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の
    七重塔(高さ約70m以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていました。
    天平17年(745)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには
    40年近い歳月を要しました。
    官大寺を造顕する場合には、造寺司・造仏殿司といった官庁が設けられて
    造営にあたり、東大寺の場合も、当初は金光明寺造仏所が設けられ、
    のちに造東大寺司になり、それまでの諸大寺に比べて遥かに規模が
    大きかったために、多くの支所が設けられました。
    そもそも東大寺は国分寺として建立されたので、国家の安寧と国民の幸福を
    祈る道場でしたが、同時に仏教の教理を研究し、学僧を養成する役目もあって、
    華厳をはじめ奈良時代の六宗(華厳・三論・倶舎・成実・法相・律)を
    兼学する寺でもありました。
    大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があり、平安時代になると
    空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、
    最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされました。
    しかし、東大寺の勢力が強まり多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を
    行うようになると、第50代・桓武天皇は都を京都に遷し、
    南都仏教抑圧策をとり「造東大寺所」が廃止されました。
    斉衡2年(855)に大地震により大仏の頭部が落下し、その後も講堂と
    三面僧房が失火で焼失すると西塔が落雷によって焼失し、
    南大門と鐘楼が暴風雨で倒壊するなど被災しました。
    治承4年12月28日(1181年1月15日)には平清盛の命を受けた
    清盛の子・重衡は南都を焼き討ちし、東大寺及び興福寺の
    堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、大仏も焼け落ちました。
    養和元年(1181)、当時61歳だった重源は被害状況を視察に来た
    後白河法皇の使者である藤原行隆(ふじわら の ゆきたか)に
    東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて
    東大寺勧進職に就きました。
    重源と彼が組織した人々は、幾多の困難を克服して、東大寺を再建しました。
    文治元年8月28日(1185年9月23日)に大仏の開眼供養が行われ、
    建久6年(1195)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203)に総供養が行われました。
    戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火
    により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失しました 。
    大仏殿の仮堂が建てられたのですが、慶長15年(1610)の暴風で倒壊し、
    大仏は露座のまま放置されました。
    江戸時代の元禄4年(1691)になって、ようやく大仏の修理が完了し、
    宝永6年(1709)に大仏殿が再建されました。
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    大仏殿の前に建つ八角燈籠は高さ4m64cmで、創建時のものが残され、
    国宝に指定されています。
    火袋の羽目板4面には楽器を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)像が
    鋳出されていますが、4面の羽目板のうち西北面と西南面が当初のもので、
    東北面と東南面はレプリカです。
    東南面の羽目板は早くに紛失し、東北面は昭和37年(1962)に盗難に遭い、
    直後に発見されたのですが、オリジナルは別途保管されています。
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    大仏は正式には「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」と称し、『華厳経』の説く
    世界観・「蓮華蔵世界」の中心に位置し、大宇宙の存在そのものを
    象徴する仏とされています。
    像高14.7m、基壇の周囲70mで国宝に指定されています。
    天平12年(740)、聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡
    (大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、
    自らも盧舎那仏像を造ろうと決心されました。
    天平15年10月15日(743年11月5日)に聖武天皇は
    近江国・紫香楽宮(しがらきのみや)にて大仏造立の詔を発しますが、
    周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、
    都が平城京に戻されました。
    天平17年8月23日(745年9月23日)、改めて現在の東大寺の地で
    大仏造立が開始されました。
    天平勝宝4年4月9日(752年5月26日)に大仏開眼供養会が盛大に
    開催されましたが、この時点ではまだ大仏は完成していませんでした。
    天平宝治元年(757)に仕上げ作業が完了し、光背はさらに後の
    天平宝字7年(763)に着手して、宝亀2年(771)に完成しました。
    大仏の坐す蓮華座は、仰蓮とその下の反花からなり、
    ともに28弁(大小各14)の花弁を表しています。
    仰蓮にはそれぞれにタガネで彫った線刻画があります。
    蓮弁の上部には釈迦如来と諸菩薩、下部には7枚の蓮弁をもつ巨大な
    蓮華が描かれ、『華厳経』の説く「蓮華蔵世界」のありさまを表しています。
    2度の兵火にもかかわらず、台座蓮弁の線刻画にはかなり
    当初の部分が残されています。
    しかし、大仏は体部の大部分が鎌倉時代に、頭部は江戸時代に補修され、
    天平時代の部分は大腿部など、一部しか残されていません。
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    大仏の左側に脇侍として安置されている木造・虚空蔵菩薩坐像は、
    江戸時代の宝暦2年(1752)に完成しました。
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    右側の木造・如意輪観音坐像は元文3年(1738)頃に完成したもので、
    虚空蔵菩薩坐像と共に国の重要文化財に指定されています。
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    虚空蔵菩薩坐像の左側には木造・広目天立像が安置されています。
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    如意輪観音坐像の右側には木造・多聞天立像が安置されています。
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    本来は四天王像として安置される予定でしたが、持国天と増長天は
    頭部のみが完成した状態で中断されました。
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    創建当時の東大寺の模型
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    鎌倉時代に再建された大仏殿の模型
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    江戸時代に再建された現在の大仏殿の模型
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    現在の南大門の模型
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    大仏殿の柱
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    鴟尾(しび)と鬼瓦
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    中門の右前に鏡池があります。
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    池内の島には祠があり、弁財天が祀られていると思われます。
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    鏡池の南側に本坊があります。
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    本坊の地にはかって、子院の東南院があり、白河上皇の御幸以来、
    後白河法皇、後醍醐天皇の行在所となったり、源頼朝も滞在したことがあります。
    明治10年(1877)2月8日に明治天皇が宿泊されたことにより、
    この碑が建てられました。
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    南大門は平安時代の応和2年(962)8月に台風で倒壊した後、鎌倉時代の
    正治元年(1199)に重源上人により大仏様(天竺様)で再建されたもので、
    国宝に指定されています。
    25mの高さがあり、国内最大規模を誇ります。
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    扁額「大華厳寺」は古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに
    基づき、平成18年(2006)10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に
    合わせて新調されました。
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    南大門では鹿が門番をしていました。
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    像高8.4mの木造金剛力士立像は建仁3年(1203)に造立されたもので、
    国宝に指定されています。
    昭和63年(1988)から平成5年(1993)にかけて解体修理が実施され、
    像内に残された墨書きなどから、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の
    4名が大仏師となり、小仏師多数を率いてわずか69日で造られたことが
    裏付けされました。
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    南大門の内側には、日本最古とされる狛犬が安置されています。
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    南大門をくぐった左側に東大寺総合文化センターがあり、館内では
    「東大寺の歴史と美術展」が催されていましたが、開館時間が9:30でしたので
    次回に譲ることにしました。
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    センター前には実物大の大仏の手のレプリカが展示されています。
    右手は相手の畏れをなくすサインの施無畏印(せむいいん)で、
    手の大きさは3m、中指の長さは約1.5mもあります。
    左手は相手の願いを聞き届けようという姿勢を表す与願印で、
    中指の先から手のひらを含めた長さが約3.3mあります。

    二月堂などの諸堂を巡ります。
    続く


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    中門前を東へ進んだ所に「アショカピラー」と呼ばれる石像と相輪が建っています。
    昭和63年(1988)4月26日に「花まつり千僧法要」が大仏殿で開催され、
    苦悩する人々の心の救済と人類の福祉・世界の平和に
    寄与することが誓願されました。
    全日本仏教青年会によるこの精神を永く継承し、
    後世に伝える目的で建立されました。
    「アショカピラー」は、釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れた
    という伝説があり、古代インドで仏教を守護した大王であるアショーカ王が、
    碑文を刻んで建てたものです。
    この「アショカピラー」は、釈迦が初めて説法したとされるインドの
    仏教聖地・サルナートにある柱頭部を忠実に復元されたものです。
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    相輪は昭和45年(1970)に開催された大阪万博で、ほぼ原寸大で再現されていた
    七重塔が解体され、相輪のみが現在地に移されました。
    相輪の高さだけで23mもあり、塔の総高は約70mだったと推定されています。
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    回廊沿いに北へ進むと東側に石段があります。
    この石段は「猫段」または「猫坂」と呼ばれ、「ここで転ぶと猫になる」との
    言い伝えがあるようですが、かって山猫が住んでいたことに由来しているようです。
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    「猫段」を上った所は「鐘楼ヶ丘」と呼ばれるエリアで、
    左側に俊乗堂(しゅんじょうどう)があります。
    元禄年間(1688~1704)に、江戸時代の東大寺再建に尽力した
    公慶上人(こうけいしょうにん)が、鎌倉時代の中興の祖・俊乗房重源上人
    遺徳を讃えて建立されました。
    堂内中央に安置されている「重源上人坐像」は国宝に指定されていますが、
    7月5日の俊乗忌と、12月16日の良弁忌以外は参拝することができません。
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    俊乗堂の南側に鐘楼があります。
    鐘楼は東大寺再建大勧進で重源上人の後を継いだ臨済宗の開祖・栄西により、
    承元年間(1207~1210)に再建されました。
    「大仏様」と「禅宗様」が折衷された建物で、音響を分散させるために
    板壁等は用いず、屋根は音をこもらすために大きく構成されています。
    建物の総高は13mあり、軒の反り返りなどに「禅宗様」が表れ、
    国宝に指定されています。
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    梵鐘は天平勝宝4年(752)に大仏と併せて鋳造され、梵鐘が完成した
    約一か月後に大仏開眼供養が行われました。
    総高3.86m、口径2.71m、重量26.3tあり、国宝に指定されています。
    撞木はケヤキ造りで、長さ4.48m、直径30cm、重さ180kg、
    金具を入れると約200kgもあります。
    古来、東大寺では「大鐘(おおがね)」と呼ばれ、江戸時代の
    慶長年間(1596~1615)までは国内最大の大きさであったことから
    「奈良太郎」とも呼ばれていました。
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    念仏堂には本尊の像高2mを超える地蔵菩薩坐像が安置されています。
    地蔵菩薩像に残されていた墨書銘には、仏師・康清が鎌倉時代の
    嘉禎(かてい)3年(1237)に雲慶(運慶)・康勝以下15人の
    冥福を祈る旨が記されていました。
    康清は康勝の子とも弟子ともいわれています。
    念仏堂は地蔵菩薩像の造立と併せて建立されたと推定され、
    地蔵菩薩像と共に国の重要文化財に指定されています。
    創建当初は「地蔵堂」と呼ばれていたそうですが、
    今の俊乗堂があった辺りに重源が建てた浄土堂がありました。
    浄土堂は「念仏堂」とも呼ばれていたのですが、戦国時代の
    永禄10年(1567)に三好・松永の戦いの兵火で焼失しました。
    その際、浄土堂の仏舎利などが地蔵堂に移されたという記録が残され、
    「念仏堂」の名称を引き継がれたと考えられています。
    念仏堂の奥に英霊殿があり、短い廊下で繋がっています。
    英霊殿には第二次世界大戦で戦死した奈良県民の英霊が祀られています。
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    行基堂は江戸時代に再建されたもので、元は重源上人坐像が安置されていました。
    公慶上人が俊乗堂を建立して重源上人坐像が行基堂から遷されたため、
    行基像が安置されるようになりました。
    行基像は公慶上人によって造立が開始されましたが、未完成のまま
    中止されていたのを、弟子の公俊が遺志を引き継ぎ、
    享保13年(1728)4月に完成させました。
    行基は当時、朝廷により民衆への仏教の布教活動が禁じられていたのですが、
    禁を破り畿内を中心に、知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の
    宗教集団を形成しました。
    貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動していたのですが、
    寺の外での活動を禁じた「僧尼令」に違反するとして、
    糾弾されて弾圧を受けました。
    天平12年(740)、第45代・聖武天皇は大仏造立の大事業を推進するには
    幅広い民衆の支持が必要と考え、行基に協力を依頼しました。
    同15年(743)、行基は大仏像造営の勧進に起用されるとその効果は大きく、
    天平17年(745)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を
    日本で最初に贈られました。
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    鐘楼ヶ丘から正面にある緩い坂を登り、「上院」と呼ばれるエリアに向かいます。
    続く

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    「鐘楼ヶ丘」と呼ばれるエリアから緩い坂道を登った正面に
    法華堂(三月堂)があります。
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    この地は「上院(じょういん)」と称され、大仏開眼以前から存在した、
    東大寺の前身寺院があった場所であり、法華堂はその主要堂宇の一つで、
    唯一東大寺に残された奈良時代の仏堂です。
    不空羂索観音立像(ふくうけさくかんのん )を本尊とすることから、
    古くは「羂索堂」と称し、周囲の付属建物を含めて
    「羂索院」と称されていました。
    『東大寺要録』「諸院章」には、「羂索院」は天平5年(733)に
    良弁が不空羂索観音を本尊として創建したと記されています。
    法華堂は正面5間・奥行8間の建物で、奥行8間のうち、後方の4間分が
    本尊をはじめとする諸仏を安置する正堂(しょうどう)、手前の2間分が
    礼堂(らいどう)で、これらの中間の2間は両者をつなぐ
    「造り合い」と呼ばれています。
    正堂部分のみが奈良時代の建物で、礼堂は鎌倉時代に付加されたもので、
    国宝に指定されています。
    また、正堂の部材に残る痕跡から、奈良時代にもすでに礼堂が存在していた
    ことがわかり、当初は正堂と、別棟の礼堂が前後に並び建つ
    双堂(ならびどう)形式の仏堂であったと推定されています。
    「鐘楼ヶ丘」から登ってきて見える法華堂は横向きで、
    左の正堂に右の礼堂が付加されていることを示しています。

    法華堂では旧暦の3月に法華会が営まれたことから3月堂とも呼ばれましたが、
    法華会の行事は平安時代後期の11世紀には講堂で行われるように変更されました。
    その後、元和4年(1618)から法華堂での法華会が再開されましたが、
    その実施時期は11月で、現在は法華会は行われていません。
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    南へ廻りこむと法華堂の南向きの正面に出ます。
    正堂中央の八角二重の仏壇上には中央に
    本尊の不空羂索観音像が安置されています。
    三目八臂、像高は3m62cmで天平時代を代表する仏像彫刻の1つに数えられ、
    国宝に指定されています。
    頭上には高さ88cmの世界三大宝冠に数えられている銀製の宝冠を着けています。
    額には縦に第三の眼があり、8本の腕のうち2本は胸前で合掌し、
    両掌の間に水晶珠を挟んでいます。
    下方に伸ばした2本には持物(じもつ)は無く、左第1手には蓮華、
    左第2手には羂索、右第1手には錫杖、右第2手の持物は
    失われていますが、払子(ほっす)を持っていたと思われます。
    不空羂索の「不空」とは「空(むな)しからず」の意であり、
    「羂索」は手に持つ縄(元来は狩猟用具)を指し、あらゆる衆生を
    もれなく救う観音との意味が込められています。
    また、八角二重の仏壇上の左側には、像高4m3cmの帝釈天と、
    右側に像高4m2cmの梵天像が安置されています。
    これらの像が立つ八角須弥壇は、「黒漆八角二重壇」の名称で、
    国宝の附(つけたり)として指定されています。

    八角須弥壇前の左側に像高3m26cmの金剛力士・阿形像、
    右側に像高3m6cmの吽形像が安置されています。
    法華堂の金剛力士像は甲と籠手(こて)を着けた武装姿をしています。

    堂内の四方には四天王像が安置されています。
    持国天が3m9cm、増長天が3m、広目天が3m4cm、
    多聞天が3m10cmの大きさになります。

    像高1m70cmの執金剛神立像(しゅこんごうしんりゅうぞう)は秘仏とされ、
    毎年12月16日(開山忌)のみに公開されます。
    法華堂に安置されているこれらの仏像は全て国宝に指定されています。
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    法華堂の前に奈良時代の建立と考えられている校倉造りの経庫があり、
    国の重要文化財に指定されています。
    かっては正倉院宝庫の西北約150mの地にあったのですが、
    江戸時代の元禄9年(1696)に手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
    の宝庫として現在地に移されました。
    鎌倉時代に大修理が施され、小屋組・軒回り材の大半が取り換えられ、
    その後も江戸、明治、昭和の時代に修理が施されています。
    明治の神仏分離令で東大寺の帰属となり、明治33年(1900)頃に庫内から、
    寛文7年(1667)に二月堂が焼失した際に持ち出された
    大観音の光背断片が発見されました。
    発見された光背断片は東大寺ミュージアムで展示されているそうです。
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    法華堂経庫の南側に遺髪塔がありますが詳細は不明です。
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    法華堂から東へ進むと池があり、対岸に小さな祠が祀られていますが、
    詳細は不明です。
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    池の畔を東への坂道を登った所に不動堂があり、
    五大明王が祀られているようです。
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    法華堂まで戻り、北側から二月堂へ向かいます。
    法華堂から二月堂へ通じる法華堂北門は、延応2年(1240)に建立されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    続く

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    二月堂は天平勝宝4年(752)に実忠(じっちゅう)によって創建された、
    正面(間口)が7間、奥行きが10間の懸造の建物です。
    二月堂は、治承4年(1180)の平重衡の兵火と永禄10年(1567)の
    三好・松永の兵乱からの焼失を免れましたが、寛文7年(1667)に
    修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失しました。
    現在の建物は寛文9年(1669)に再建されたもので、国宝に指定されています。
    寺伝では天平勝宝3年(751)に実忠が笠置(現在の京都府南部、笠置町)の
    龍穴の奥へ入っていくと、そこは都卒天(とそつてん=兜率天)
    内院に通じており、そこでは天人らが生身(しょうじん)の
    十一面観音を中心に悔過(けか)の行法を行っていました。
    悔過とは自らの過ちを観音に懺悔(さんげ)することであり、
    実忠はこの行法を人間界に持ち帰りたいと願ったのですが、そのためには
    生身の十一面観音を祀らねばならないと告げられました。
    下界に戻った実忠は、難波津の海岸から、観音の住するという海のかなたの
    補陀洛山へ向けて香花を捧げて供養しました。
    すると、その甲斐あってか、100日ほどして
    生身の十一面観音が海上から来迎しました。
    実忠の感得した観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かかったと伝わります。
    二月堂では旧暦の2月、二七日(にしちにち、14日間の意)にわたって
    修二会が執り行われることから「二月堂」と呼ばれています。
    修二会とは、二月堂本尊の十一面観音に対して自らの過ちを懺悔し、
    国家の安定繁栄と万民の幸福を祈願する十一面悔過(けか)法要です。
    現在では新暦の3月1日から14日まで、法要は練行衆と呼ばれる、
    特に選ばれた11名の僧によって執り行われています。
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    法華堂北門を出て、石段を上った正面に唐破風(からはふ)造りの
    豪華な手水舎があります。
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    手水舎の右側の石段の上に飯道神社(いいみちじんじゃ)があります。
    実忠ゆかりの地である近江国甲賀郡の飯道神社が勧請されたものと
    考えられています。
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    二月堂の本尊は二躯の十一面観音菩薩像で、1躯は内陣中央に安置され、
    「大観音」(おおがんのん)と称され、もう1躯は厨子に納められ、
    通常は大観音の手前に安置されているもので、
    「小観音」(こがんのん)と称されています。
    大観音・小観音ともに絶対の秘仏で、修二会の法要を務める
    練行衆さえもその姿を見ることは許されません。
    修二会が行われる14日間のうち、上七日(じょうしちにち・前半の7日間)は
    大観音が本尊とされ、下七日(げしちにち・後半の7日間)は代わって
    小観音が本尊とされています。
    小観音の厨子は2月21日に「御輿洗い」と称して、礼堂に運び出されて、
    丁寧に拭き清められます。
    その後、大観音の手前ではなく背後に安置され、修二会の前半の上七日の間は
    大観音が法要の本尊となり、小観音は陰に隠されます。
    3月7日の夕方から深夜にかけて「小観音出御(しゅつぎょ)」と
    「小観音後入(ごにゅう)」という儀式が執り行われます。
    「小観音出御」は3月7日午後6時頃から行われ、大観音の背面に安置されていた
    小観音の厨子が礼堂に運び出され、香炉、灯明、花などで供養されます。
    その後、深夜0時過ぎには「小観音後入」が行われ、礼堂に運び込まれた
    厨子を再び内陣に戻す儀式で、下七日の本尊として大観音の正面に安置されます。
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    二月堂の東側を進んだ所にも手水所があります。
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    二月堂の北側からの眺望
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    二月堂の北側に茶所があります。
    茶所付近に遠敷明神(おにゅうみょうじん)を祀る遠敷神社が
    あったようですが見落としました。
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    茶所と二月堂の間に登廊があります。
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    登廊を下った正面の右側に「練行衆」の入浴施設である湯屋があり、
    左側は参籠所と接続されています。
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    湯屋の間を通り抜け、下からの光景です。
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    湯屋から下ってきた斜め前の建物の前に井戸らしきものが見えます。
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    当初はこの井戸の後ろにある建物が湯屋だと思っていたのですが、
    違っていたようで、この建物の詳細は不明です。
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    参籠所は室町時代に再建されたもので国の重要文化財に指定されています。
    参籠所は修二会で儀式を行う「練行衆」が期間中に寝泊りするための施設で、
    北半分が参籠所、南半分が食堂となっています。
    修二会の期間中、練行衆が参籠所から登廊を上り二月堂へ向かう際に、
    練行衆一人ひとりを松明(たいまつ)が先導します。
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    食堂の西面には鬼子母神が祀られています。
    鬼子母神は多くの子を持ち、それらの子を育てる栄養を摂取するために
    人間の子供を捕えて食べていました。
    それを見かねた釈迦から五戒を守り、施食によって飢えを満たすことを
    諭(さと)され、仏法の守護神となりました。
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    参籠所の南側に閼伽井屋があり、現在の建物は鎌倉時代初期に再建されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    閼伽井屋の中の井戸は「若狭井」と名付けられています。
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    閼伽井屋の東に良弁杉が聳え、その傍らに
    興成神社(こうじょうじんじゃ)があります。
    二月堂の修二会行法(お水取り)を守護する三社の一つで、
    鵜が祀られていました。
    東大寺の僧・実忠は、天平勝宝4年(752)に二月堂を創建し、
    修二会を始めました。
    修二会にはすべての神々が参列されましたが、
    ただ若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん=彦姫神)のみは
    川で魚を採っていたため遅参されました。
    そのお詫びとして、二月堂の本尊へお香水を送る約束をされました。
    若狭の鵜の瀬から白と黒の二羽の鵜がもぐっていき、二月堂のほとり、
    傍らに木が立つ岩の中から飛び立ち、その跡から湧水が満ちあふれたと伝わります。
    それが二月堂の閼伽井で、「若狭井」と名付けられ、
    その水を汲む行事「お水取り」が始まったと伝わります。
    興成神社にはその白と黒の二羽の鵜が祀られています。
    また、飯道神社、遠敷神社、興成神社の三社は、二月堂の鎮守社で、
    「惣神所(そうのじんしょ)」とも呼ばれています。
    練行衆は修二会の初日である3月1日の夕方と、法会終了後の3月14日深夜
    (正確には15日未明)にこれら3社に参詣し、修二会のとどこおりない執行と、
    法会の終了を感謝します。
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    良弁杉には由来が記された石碑が建っています。
    かって、この地には樹齢600年、高さ7丈(約21m)に及ぶ大木が
    聳えていたと伝わり、良弁がまだ幼少だった頃に大鷲にさらわれ、
    その木に飛来したと記されています。
    昭和31年(1956)9月16日の台風によりその木は倒壊し、
    現在の木はその枝から植樹されたものです。
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    良弁杉と対面するように開山堂があります。
    開山堂はかって、僧坊があった所に寛仁3年(1019)に創建され、
    僧正堂と呼ばれていました。
    その後、鎌倉時代の正治2年(1200)に重源上人によって大仏様の
    四方一間の大きさの堂舎に改築され、建長2年(1250)に現在地に移築されました。

    堂内、内陣の中央には八角造の厨子があり、
    厨子内には良弁僧正坐像が安置されています。
    良弁僧正坐像は像高92.4cm、平安時代の作で開山堂と共に
    国宝に指定されています。
    神亀5年(728)、第45代・聖武天皇の第一皇子・基親王(もといしんのう)が
    一歳の誕生日を迎える前に亡くなり、菩提を弔むため、若草山麓に
    金鍾山寺(こんしゅせんじ)を建立され、智行僧九人が住持しました。
    その筆頭となったのが良弁で、後に金鍾山寺は大和国分寺と定められ、
    東大寺となり、天平勝宝4年(751)には、東大寺大仏建立の功績により
    東大寺の初代別当となりました。
    天平勝宝8年(756)に鑑真と共に大僧都に任じられ、宝亀4年(773)には、
    僧正に任命されましたが、その年の閏11月24日に亡くなりました。
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    開山堂の南側に三昧堂(四月堂)があります。
    三昧堂は平安時代の治安3年(1021)または治暦3年(1067)の創建と考えられ、
    現在の建物は江戸時代の延宝9年(1681)に再建されたもので、
    国の重要文化財に指定されています。
    毎年四月に法華三昧会(ほっけさんまいえ)が執り行われることから、
    「四月堂」とも呼ばれています。
    本尊は千手観音菩薩立像でしたが、東大寺ミュージアムに遷されたために、
    二月堂から十一面観音菩薩立像が新たに本尊として遷されました。
    また、堂内には阿弥陀如来坐像等が安置され、
    共に国の重要文化財に指定されています。

    手向山八幡宮へ向かいます。
    続く

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  • 12/11/18--00:28: 手向山八幡宮
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    手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は天平勝宝元年(749)に聖武天皇が
    大仏造立の際、その守護神として宇佐八幡宮より勧請されました。
    当初は大仏殿前にある鏡池の東側に鎮座していましたが、治承4年(1180)の
    平重衡による戦火で焼失し、建長2年(1250)に北条時頼により
    現在地に再建されました。
    明治の神仏分離令により東大寺から独立しました。
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    鳥居をくぐって進んで行くと、建物の詳細は不明ですが、
    内部に大国殿があります。
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    拝殿
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    本殿は南北に横長の大きな建物か、
    その奥に本殿があるのか不明です。
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    神門が何時頃建築されたのかは不明ですが、左右に回廊を持つ立派な楼門で、
    春日大社に次ぐ規模とされています。
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    法華堂経庫の南側にある校倉造りの宝庫は、経庫と同じように正倉院宝庫が
    あるエリアから移されたもので、国の重要文化財に指定されています。

    春日大社へ向かいます。
    続く

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  • 12/12/18--01:14: 春日大社
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    春日大社は、時間短縮の都合で駐車場まで登り、
    駐車場から上のみの参拝となりました。
    駐車場付近には貴賓館(斎館)があり、付近は県の文化財に指定されています。
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    貴賓館の北側には先祖の祈祷所があります。
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    貴賓館と祈祷所の間を進むと左側に桂昌殿があります。
    元禄12年(1699)、第5代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院の寄進により
    建立されたもので、市の文化財に指定されています。
    「天下泰平之御祈祷」として建立されたことから、
    「祈祷殿」とも呼ばれています。
    桂昌院は護持僧・隆光の意向を受け、南都寺社の復興のみならず、
    京都の寺社にも多大な寄進をされています。
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    桂昌院の西側に四脚門があり、市の文化財に指定されています。
    明治時代に桂昌院の後方部分が増築され、
    社務所として使われていた時の正門です。
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    桂昌殿の向かいに貞観元年(859)に創建された竈殿(へっついどの)があり、
    国の重要文化財に指定されています。
    竈殿は春日際で神饌を調理する建物で、中には竈が設けられています。
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    竈殿に隣接して酒殿(さかどの)があり、貞観元年(859)の創建と伝わり、
    国の重要文化財に指定されています。
    春日際に供える御神酒を醸造する所で、内部には大甕が据えてあります。
    天平勝宝2年(750)に記録が残されていることから、酒殿は貞観元年以前から
    存在していたと考えられ、現存する酒殿は日本最古の醸造所でもあります。
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    桂昌殿前の石段を上った所に本殿一帯などを取り巻く「回廊」があり、
    正面の西回廊には北から内侍門、清浄門、慶賀門があります。
    これらの三門はいずれもほぼ同じ規模を持って治承3年(1179)に
    創建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
    慶賀門は藤原一門の参入門として用いられて、天井には
    格組天井(ごうぐみてんじょう)を張り、
    他の二門より立派な構造となっています。
    清浄門は「僧正門」とも呼ばれ僧侶の、内侍門は内侍の参入門として
    用いられてきました。
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    西回廊の長さは約57mあり、北側の27mある北回廊と21mある
    南回廊の半分と接続されています。
    回廊は重要文化財に指定され、北回廊のみ本殿後ろに廻り込む前で終ります。
    また、回廊は斜めに建てられています。
    武甕槌命(たけみかづち の みこと)が降臨されたのが
    御蓋山(みかさやま)の山頂・浮雲峰(うきぐもみね)とされ、
    神山である御蓋山に造られた春日大社は山の斜面を削ることが許されず
    回廊は山の斜面に沿って斜めになっています。
    回廊を含む境内には千の釣り灯籠があります。
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    南回廊は南門を挟んで東西に各21mあります。
    南門は藤原氏以外の参入門として治承3年(1179)に創建され、
    国の重要文化財に指定されています。
    門が建立される以前は、内侍門、清浄門、慶賀門を含め全て
    鳥居が建てられていました。
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    南門の前に「出現石」または「額塚」とも呼ばれる石が祀られています。
    太古の昔、神様の憑代(よりしろ)として祀られた「磐座(いわくら)」、
    或いは春日若宮の祭神である赤童子が現れたとの伝承から
    「出現石」と呼ばれています。
    また、宝亀3年(772)に落雷による火災で落下した社額を埋納したとの
    伝承から「額塚」とも呼ばれれていますが、諸説あるそうです。
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    今回は行くのを断念しましたが南門から南側への参道があり、
    若宮神社へと結ばれています。
    その参道にも石灯篭が連なり、春日大社には2千の石灯籠があるそうです。
    石灯籠は室町時代以前からのものが、そのままの場所に建ち、
    石工によって補修が行われています。
    この石工達は、昭和35年(1960)に起きたチリ地震で倒れたイースター島
    モアイ像の他、世界各地の遺跡の修復にも貢献しています。
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    南門をくぐった先に幣殿・舞殿があり、国の重要文化財に指定されています。
    東側2間が幣殿、西側3間が舞殿で、幣殿の天井板は格天井となり、
    舞殿と区別されています。
    舞殿は宮中伝来の御神楽を行うための建物で、神楽は神への舞とされ、
    巫女は庶民の願いを神に伝える役割をしていました。
    春日大社は巫女発祥の地とされ、春日大社では巫女は御巫(みかんこ)と
    呼ばれています。

    初穂料500円を納めると特別参拝を行うことができます。
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    本殿の直前に中門があり、重要文化財に指定されている高さ10mの楼門です。
    中門正面の唐破風は明治時代に取り付けられました。
    中門左右の御廊(おろう)は長さがそれぞれ13mあり、
    国の重要文化財に指定されています。
    かって、祭典では興福寺の僧侶が読経を行っていましたが、
    現在は神職の座る場所となっています。
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    東回廊
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    東回廊を出て、北へ進んだ所に御蓋山の山頂・浮雲峰の遥拝所があります。
    平城京遷都の和銅3年(710)、藤原不比等鹿島の武甕槌命を勧請し、
    御蓋山の麓に祀って春日神と称しました。
    武甕槌命は白い鹿に乗り、山頂の浮雲峰に降り立ったとの伝承が残され、
    御蓋山は禁足地とされています。
    また、御蓋山は平城京の東にあり、日が昇る山であり、水源地でもあります。
    浮雲峰から延びる尾根線上を進んだ所に平城京があり、
    その線上に春日神社の本殿が建てられています。
    浮雲峰遥拝所はその神山を拝する所となります。
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    遥拝所の先にある回廊の東北角は板葺の築地塀になっています。
    古代春日大社の大宮は四囲を築地塀で囲まれていましたが、
    平安時代の治承3年(1179)に現在のような回廊に改築されました。
    しかし、本殿から見て丑寅(東北)の方向に当たるこの部分は鬼門のため、
    改築が避けられたようです。
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    東の御廊の東端に手力雄神社(たぢからおじんじゃ)・飛来天神社の
    遥拝所があります。
    手力雄神社と飛来天神社は本殿・第一殿の右側に鎮座され、
    南側の手力雄神社には手力雄命が祀られています。
    手力雄命は岩戸隠れの際に岩戸の脇に控え、天照大御神が岩戸から
    顔をのぞかせた時、岩戸を引き開けて、放り投げた岩戸の扉が
    信濃国の戸隠山に落ちたという伝説が残され、勇気と力の神とされています。
    北側の飛来天神社は、空の旅の安全を守る神とされています。

    本殿の第一殿は武甕槌命(たけみかづち の みこと)、
    第二殿に経津主命(ふつぬし の みこと)、
    第三殿に天児屋根命(あめのこやね の みこと)、
    第四殿に比売神(ひめのかみ)が祀られています。
    武甕槌命と経津主命は葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)の際に、
    天下って大己貴命(おおあなむち の みこと=大国主)を説得し、
    国譲りを平和裡に成功させた神です。
    天児屋根命は天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ の みこと)に随伴し、
    後に中臣連(なかとみうじ)の祖となりました。
    比売神は天児屋根命の妻です。
    社伝では神護景雲2年(768)に称徳天皇の勅命により
    左大臣・藤原永手(ふじわら の ながて)が現在地に社殿を造営し、
    千葉県香取から経津主命、大阪の枚岡神社から天児屋根命と
    比売神を勧請して祀ったのが春日大社の始まりとされています。
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    御廊の西端前に地上1.3mの幹回りが7.94mで樹齢千年とも
    言われる杉の御神木が聳えています。
    平安時代に描かれた絵巻物にもまだ若い杉の木が描かれ、建物の配置なども
    平安時代から変わりなく引き継がれています。
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    大杉の下に岩本神社があり、住吉三神が祀られ、受験合格祈願等に
    御利益があるそうです。
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    御廊が北へと曲がった所に平安時代の治承3年(1179)に建立された
    「捻廊(ねじろう)」と呼ばれる階段があり、
    国の重要文化財に指定されています。
    春日祭に奉仕する斎女(いつきめ)や内侍(ないし)が昇殿する登り廊で、
    江戸時代に飛騨の名工・左甚五郎が現在のように斜めに
    捻じれたものに改造したと伝わります。
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    本殿の真西に風宮神社があり、級長津彦命(しなつひこ の みこと)と
    級長津姫命が祀られています。
    風を司る神であり、春日祭巳之祓式(みのはらえしき)には御神木を
    こちらの御垣の隅へ納める故実があり、 春日大社ではお祓いは
    風の神様の御力を頂いて吹き祓うものであると伝えられています。
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    風宮神社の傍らには七種寄木(なないろのやどりぎ)があります。
    カゴノキを母樹として、ツバキ、ナンテン、ニワトコ、フジ、カエデ、
    サクラが着生した珍し木で、風神がそれぞれの種を
    運んできたとの伝承があります。
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    本殿の背後には後殿(うしろどの)遥拝所があります。
    後殿には手前から左軍神社、杉本神社、海本神社、
    栗柄神社(くりからじんじゃ)と並び、奥に八雷神社が鎮座していますが、
    手前の左軍神社は建物の隠れて見えません。
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    また、遥拝所からは本殿の背後の屋根が見えます。
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    後殿から西へ進んだ北側に藤浪之屋があり、その前に椿本神社があります。
    祭神は角振神(つのふりのかみ)で、春日神の眷属神で隼の明神とも呼ばれ、
    災難を祓う神とされています。
    椿の木がこの付近にあったことから、椿本神社と呼ばれています。
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    藤浪之屋は江戸時代までは神職の詰め所で、
    国の重要文化財に指定されています。
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    藤浪之屋の扉を開けると中は暗く、吊り燈籠が灯されています。
    春日大社では毎年2月3日の節分万燈籠と8月14・15日に境内の全ての
    燈籠が灯されます。
    その縮小版がこの建物内で体験することができます。
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    藤浪之屋の西側に多賀神社があり、伊弉諾命が祀られています。
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    多賀神社の南側に、大同2年(807)の創建と伝わる厚板で組み上げられた
    校倉造りの宝庫があり、国の重要文化財に指定されています。
    3月の春日祭で、本殿を飾る鏡、太刀、鉾、弓矢などの神宝が納められています。
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    西回廊の内側です。
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    大杉の根から直会殿(なおらいでん)の屋根を突き抜けて
    イブキ(ビヤクシン)が聳えています。

    春日大社の回廊内以外は日を改めて参拝したいと考えています。

    新薬師寺へ向かいます。
    続く

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  • 12/13/18--01:12: 新薬師寺
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    春日大社から南へ歩いて約15分の距離に新薬師寺があり、
    西国四十九薬師霊場の第6番札所となっています。
    新薬師寺は山号を日輪山と号していますが、古代の寺院に山号は無く、
    後世に付されたものです。
    東門は鎌倉時代に建立され、重要文化財に指定されていますが、
    ここからの出入りはできません。
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    南門も鎌倉時代の建立で、国の重要文化財に指定されています。
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    拝観料600円を納め、門をくぐった正面に本堂があります。
    寺伝では新薬師寺は盧舎那仏建立中の聖武天皇が病を患われ、
    天平19年(747)に光明皇后がその病気平癒を願って創建されました。
    天皇の病気平癒のため、都とその近郊の山、清らかな場所で
    薬師悔過(けか)が行われ、都と諸国に薬師七仏を造立し、
    薬師経七巻を写経するように命じられました。
    この詔により創建されたのが香山薬師寺(こうぜんやくしじ)で、
    後に新薬師寺と改められました。
    新薬師寺の「新」は新しい古いの「新」ではなく、霊験あらた(新)かな
    お薬師様をお祀りしたとして、名付けられました。
    当初は100人の僧が住み、七堂伽藍と二基の塔が建ち並ぶ官立の大寺院でした。
    金堂は現在の本堂の西方150m、現在の奈良教育大学内にあったことが
    発掘調査で判明しました。
    当時の金堂は東西約60mの桁行の長い建物であったことが確認されました。
    堂内には、善名称吉祥王如来(ぜんみょうしょうきっしょうおうにょらい)、
    宝月智厳光音自在王如来(ほうがつちごんこうおんじざいおうにょらい)、
    金色宝光妙行成就王如来(こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅおう
    にょらい)、無憂最勝吉祥王如来(むうさいしょうきっしょうおうにょらい)、
    法海雲雷音如来(ほうかいうんらいおんにょらい)、法海勝慧遊戯神通如来
    (ほうかいしょうえゆげじんつうにょらい)、薬師瑠璃光如来
    (やくしるりこうにょらい)の七仏薬師像が安置されていました。
    それぞれの如来像には脇侍の菩薩像が各二躯づつ安置され、
    更に十二神将像が安置されていました。
    しかし、宝亀11年(780)に西塔に落雷し、いくつかの堂宇に
    延焼して焼失しました。
    更に応和2年(962)の台風により、金堂以下の主要堂塔が倒壊し、
    東の高台にあった現在の本堂のみが残されました。
    現在の本堂は創建当初の建物で、国宝に指定されています。
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    本堂の出入り口は西側にあり、堂内には高さ約90cm、直径約9mの円形状の
    土壇が築かれ、壇上中央に薬師如来坐像、周囲に十二神将像が安置されています。
    薬師如来坐像は、昭和50年(1975)に調査が行われた際に、
    胎内から平安時代初期と見られる法華経8巻が発見されたことから、
    像は平安時代初期の作と推定されています。
    像高は191.5cmあり、彩色や金箔を施さない素木仕上げで、眉、瞳、髭などに
    墨、唇に朱を差しています。
    一般の仏像に比べ眼が大きいのが特徴で、「聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を
    祈願して新薬師寺を創建した」との伝承も生じています。
    薬師如来坐像は国宝に、法華経8巻は国宝の「附(つけたり)」として
    指定されています。
    光背には6躯の化仏が配されていて、像本体と合わせた7躯は、
    『七仏薬師経』に説く七仏薬師を表現しているとみられています。
    また、光背の装飾にはシルクロード由来のアカンサスという植物の葉と
    考えられている装飾があります。

    十二神将像は塑像で像高は152~166cm、国内最古で最大の十二神将像とされ、
    国宝に指定されています。
    但し、像高160cmの波夷羅(はいら)大将像は、江戸時代末期の地震で倒壊し、
    昭和6年(1931)に補作されたもので、国宝の指定からは外されています。
    十二神将像は奈良時代の作で、元は高円山麓にあった岩淵寺
    安置されていました。
    本尊の右側に安置されている伐折羅(ばさら)大将像は、
    500円切手の図柄に使用されていました。
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    南門を入った東側に鎌倉時代に再建された鐘楼があり、
    国の重要文化財に指定されています。
    画像はありませんが、梵鐘は奈良時代のもので
    国の重要文化財に指定されています。
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    鐘楼の北側に池があり、その奥には竜王社があります。
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    南門の西側の塀沿いには石仏が祀られ、奥には稲荷社があります。
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    石仏群の前に建つ五重石塔は東大寺二月堂を創建した実忠和尚の歯塚です。
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    歯塚の背後にも多数の石仏が祀られています。
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    歯塚の北側に鎌倉時代に建立された地蔵堂があり、
    国の重要文化財に指定されています。
    堂内には鎌倉時代作の十一面観音菩薩立像(小西町自治会所有)、
    室町時代作の薬師如来立像、南北朝時代作の地蔵菩薩立像が安置されています。
    この地蔵菩薩像は「おたま地蔵」と呼ばれ、興福寺別当を務めた
    実尊の追善のために弟子が造らせたもので、廃寺となった
    勝願院に安置されていました。
    また、平景清の老母が勝願院の近くに住んでいて、持仏の地蔵尊を
    勝願院に祀っていたとの伝承が残されています。
    東大寺大仏殿供養の日に源頼朝を暗殺するため奈良を訪れ、老母の家に
    隠れていた平景清が、自分の持つ弓の鉾をこの地蔵の錫杖の柄としたことから
    「景清地蔵」と呼ばれていたとも伝わります。
    しかし、昭和58年(1983)にこの像の解体修理が行われ、像内から造像に
    かかわる文書や像の旧部材などの納入品が発見されました。
    この文書により実尊の追善のために造られてことが判明し、
    国の重要文化財に指定されています。
    また、像内から裸形像の体部が発見されました。
    鎌倉時代には、裸形の仏像に布製の衣を着せて安置する例が散見され、
    本像は裸形像の上に木造の衣を貼り付けた稀有な作例であることが判明しました。
    裸形像に新しく造った頭部をつないで別の像として独立させ、
    「おたま地蔵」として香薬師堂に安置されています。
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    地蔵堂から北へ進むと西側に門があり、門を入ると香薬師堂があり、
    「おたま地蔵」が安置されています。
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    隣の建物では、金堂の発掘調査時のビデオが放映され、縁側に
    座り前の庭園を眺めながらくつろぐこともできます。
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    新薬師寺の南門を出た西側に南都鏡神社があります。
    社標の横には埴輪が祀られています。
    画像はありませんが、南都鏡神社の東側に境外摂社の
    比賣神社(ひめじんじゃ)があり、「比賣塚」と呼ばれる古墳の上に
    昭和56年(1981)に創建されました。
    古墳は天武天皇の第一皇女・十市皇女(とおちのひめみこ)と藤原鎌足の
    娘・氷上娘(ひかみのいらつめ)が埋葬されていると考えられています。
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    拝殿の背後にある本殿は、江戸時代の享保13年(1728)に春日大社
    第三殿の本殿として建立されたものを、延享3年(1746)に春日大社の
    第47次式年造替の際に、鏡神社へ移築されたもので、
    市の文化財に指定されています。
    南都鏡神社は平安時代の大同6年(806)に、佐賀県唐津市にある鏡神社から
    勧請され、新薬師寺の鎮守社として創建されました。
    唐津にある鏡神社は、神功皇后が三韓征伐の際、鏡山山頂に戦勝を祈願して
    鏡を奉納し、後にその鏡が霊光を発したことから、それを聞いた神功皇后が
    自らの生霊を鏡に込めて祀ったのが始まりとされ、一ノ宮には
    息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が祀られています。
    また、藤原広嗣の乱により藤原広嗣が当地で処刑された10年後の
    天平勝宝2年(750)、肥前国司に左遷された吉備真備(きび の まきび)により、
    広嗣を祀る二ノ宮が創建されました。
    藤原不比等(ふじわら の ふひと)の息子の四兄弟は朝廷での実権を
    握っていましたが、天平9年(737)に天然痘の流行により、
    相次いで亡くなりました。
    代って政治を担った橘諸兄は、唐から帰国した吉備真備と興福寺の
    僧・玄(げんぼう)を重用するようになり、
    政策の方向転換が図られるようになりました。
    藤原四兄弟の三男・藤原宇合(ふじわら の うまかい)の長男・広嗣(ひろつぐ)は、天平10年(738)に大宰府に左遷されました。
    広嗣は天平12年(740)に政治を批判し、吉備真備と玄の更迭を求める
    上奏文を送ると同時に、筑前国遠賀郡に本営を築き、
    太宰府管内諸国の兵を徴集して反乱を起こしました。
    しかし、追討軍に敗走して捕えられ、肥前松浦郡にて処刑されました。
    天平14年(742)、玄は筑紫に配せられ、観世音寺落成式に臨んだ時、急死し、
    遺体は広嗣の祟りで奈良の地に飛散したとの伝承が生まれました。
    吉備真備もまた、孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750)に筑前守、
    次いで肥前守に左遷されました。
    南都鏡神社は広嗣の霊を鎮めるため、邸宅跡と伝わるこの地に創建されました。

    西国四十九薬師霊場の第5番札所である元興寺へ向かいます。
    続く

    0 0
  • 12/15/18--01:30: 元興寺
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    新薬師寺から西へ進んだ所に元興寺があり、西国四十九薬師霊場の
    第5番札所となっています。
    画像がありませんが東門は応永年間(1394~1428)に、鎌倉時代に
    造られた東大寺西南院四脚門が移築されました。

    元興寺の前身は、推古天皇4年(596)に蘇我馬子によって創建された
    日本初の寺院である法興寺で、「仏法が興隆する寺」という意味を
    込めて名付けられました。
    和銅3年(710)に都が平城京へ遷されると、法興寺も養老2年(718)に
    奈良に移され、「元仏法が興隆した寺」として元興寺と称されました。
    法興寺は明日香村に残され、現在は「飛鳥寺」と呼ばれています。
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    奈良で創建された元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、
    東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇り、寺域は南北4町(約440m)、
    東西2町(約220m)もありました。
    南大門、中門、金堂、講堂、鐘堂、食堂が南北に一直線に並び、中門左右から
    伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していました。
    回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があり、
    小塔院には、小型の塔が屋内に安置されていたものと推定されています。
    しかし、都が平安京に遷り、律令制度が崩壊していくと国の財政援助も途絶え、
    次第に衰退していきました。
     長元8年(1035)の『堂舎損色検録帳』という史料では、金堂をはじめとする
    元興寺の伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったと記されています。
    金堂や講堂の天井が朽ちて雨漏りし、回廊の瓦は落ち、僧坊の一部などは
    建物がなくなり大木が映えている有様だったことが書かれています。
    寛元4年(1246)の記録では、この頃までに五重塔の四、五重目と相輪が失われ、
    南大門、鐘楼が大破していた記録が残されています。
    また、永承7年(1052)は末法元年として、人々に恐れられていました。
    貴族の摂関政治が衰え、治安が乱れてくると現世の利益を諦め、
    極楽浄土を願うようになってきました。
    奈良時代の学僧・智光は、学友の頼光が没した後、頼光が智光の夢に現れ、
    阿弥陀浄土に往生を遂げているのを見て、画工に描かせました。
    「智光曼荼羅」と呼ばれ、当時の僧坊に祀られていて、
    「極楽坊」と呼ばれていました。
    平安時代末期に極楽往生を願い阿弥陀信仰が盛んになってくると、
    「智光曼荼羅」が信仰を集めるようになり、極楽坊は発展していきました。
    鎌倉時代になると極楽坊が改築されるだけでなく、
    小塔院や中門堂などにも僧が往持するようになりました。
    中門堂に安置されていた二天像(持国天・増長天)とその眷属である
    夜叉像八体、同じく中門堂に安置され、中門観音と呼ばれていた
    十一面観音像が多くの信仰を集めました。
    一方で元興寺は食堂以北や南大門以南、西僧坊などを失っていきます。
    更に室町時代の正長元年(1428)に凶作や流行病、将軍の代替わりなどによる
    社会不安が高まる中、近江坂本や大津の馬借が徳政を求めました。
    その一揆が畿内一帯に波及し、宝徳3年(1451)には奈良の農民が興福寺に
    徳政を求めて元興寺周辺になだれ込んで民家に放火し、その火が金堂、
    小塔院に延焼して焼失しました。
    この時、「智光曼荼羅」の原本も焼失しました。
    後に金堂は再建されましたが文明4年(1472)の大風で倒壊し、
    それ以降は再建されることはありませんでした。
    応仁元年(1467)には中門堂に落雷により二天像が失われましたが、
    十一面観音像は既に観音堂に遷されており、難を逃れました。
    天正年間(1573~92)になると元興寺伽藍内に「新屋」と呼ばれる町が
    形成されるようになり、江戸時代になると急速に都市化が進んで
    「奈良町」が完成されました。
    現在の元興寺は奈良市中院町に極楽坊を本堂とするものと、奈良市芝新屋町に
    観音堂と五重塔を引き継ぐものが残されています。
    芝新屋町の元興寺は、江戸時代末期の安政6年(1859)に近隣火災の類焼で
    観音堂と五重塔を焼失し、昭和10年(1935)頃にその傍らに
    小堂の観音堂が再建され、中門堂から遷された十一面観音像が安置されています。
    境内には東寺の五重塔(54.8m)より高い57mだったと
    推定されている五重塔の礎石が残されています。

    中院町の元興寺は、講堂の背後左右にあった僧坊の、東側手前にあったものを
    鎌倉時代に改築し、室町時代の火災以降は西大寺の末寺となって
    「極楽院」と称しました。
    極楽院は明治以降は荒れ果て、現在国宝に指定されている本堂も
    昭和25年(1950)頃までは床は落ち、屋根は破れて
    「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方でした。
    昭和18年(1943)に極楽院の住職となった辻村泰圓は、戦災孤児のための
    社会福祉事業に尽力すると共に、境内の整備や建物の修理を進め、
    昭和30年(1955)に「元興寺極楽坊」と改称し、昭和52年(1977)に
    「元興寺」に改められました。
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    本堂の閼伽棚も鎌倉時代のもので、国宝に指定されています。
    閼伽棚は仏に供える水や花などを置く棚です。
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    本堂の西側に禅室があり、国宝に指定されています。
    本堂と同様に創建当時の僧坊を鎌倉時代に大仏様に改築されたもので、
    部材や屋根瓦の一部には奈良時代のものが残されています。
    禅室の部材が年輪年代測定法で調査され、西暦582年伐採の
    樹木が使用されているそうです。
    本堂と同様に「行基葺(ぎょうきぶき)」と呼ばれる上部が細くすぼまり、
    下部が幅広い独特の形をした瓦を重ねる葺き方が一部に残されています。
    禅室には四つの扉があり、内部は四つの間に区切られています。
    西南の部屋は影向間(ようごうのま)と呼ばれ、
    宝庫のように使われてきました。
    かって、智光曼荼羅が禅室の経蔵にあった時、
    空海は毎日経蔵で勉強をしていました。
    ある日、空海が智光曼荼羅を拝んでいると、
    春日大明神が影向されたことに気づき、春日曼荼羅を描いて、
    勧請しました。
    そして、空海自らの影(姿)を彫りその像も、その部屋にとどめ、
    以来影向間と呼ばれるようになりました。
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    境内の南側にコンクリート造りの法輪館があり、収蔵庫となっています。
    館内には国宝に指定されている奈良時代作で高さ5.5mの五重小塔や
    平安時代作で重要文化財に指定されている智光曼荼羅(板絵)などが
    収蔵されています。
    また、平安時代作の阿弥陀如来坐像、鎌倉時代作の聖徳太子立像(孝養像)、
    鎌倉時代作の弘法大師坐像が安置され、いずれも国の重要文化財に
    指定されています。
    その他、国の重要有形民俗文化財に指定されている鎌倉時代~室町時代の
    元興寺庶民信仰資料などが納められています。
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    法輪館の前に多数の五輪塔が並んでいます。
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    石塔の手前に仏足石があります。
    日本・スリランカ友好親善の記念として平成24年(2012)10月8日に
    造立されたもので、約2千年前にスリランカで創られた図を
    基に復元されています。
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    禅室の南前は浮図田(ふとでん)と呼ばれ、二千五百余基の石塔、
    石仏類(総称して浮図)が田圃の稲のごとく整備されています。
    鎌倉時代末期から江戸時代中期にかけて、元興寺や興福寺に関係する人々、
    また近在の人達が極楽往生を願って造立したものです。
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    浮図田の西側には弁財天社があります。
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    浮図田の南側に小子坊があり、現在は参拝者の休憩所として使われています。
    創建時は東室南階大坊の北側に梁間の狭い小子坊が附属していました。
    中世になって僧坊が書院化すると、小子房の一部を改築して、
    北厨房あるいは台所と称されました。
    江戸時代の寛永3年(1663)に現在の形に改修され、
    極楽院庫裏として台所と呼ばれました。
    昭和24年(1949)に本堂の南側に移転増築して極楽院保育所建物とし、
    昭和35年(1960)に現位置に移築して復旧されました。
    平成6年(1994)には西側に茶室「泰楽軒」が増築されました。
    小子坊内部には北向土間不動尊が安置され、護摩供養が行われるそうです。
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    裏側には庭園が築かれています。

    西国三十三所観音霊場・第9番、西国四十九薬師霊場・第4番及び
    神仏霊場・第16番札所である興福寺へ向かいます。
    続く