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Channel: kor**kor*_ishik*r*のブログ

近江鉄道ミュージアム

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近江鉄道ミュージアムが平成30年(2018)12月8日で閉館されるため、
残されている主に機関車を撮っておこうと思い向かいました。
京都駅発9:00発の新快速に乗車、9:49に彦根駅に到着しました。
10時から開場されますが、既に長蛇の列ができており、当然、
先着300名に配られる「来場記念ポストカード」は入手できませんでした。
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当日は12:00から部品も販売されるため、開場後は販売会場である
資料館に長蛇の列が移りました。
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パンタグラフは売り物ではないようです。
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近江鉄道は明治29年(1896)6月16日に設立された、
滋賀県で最も古い私営の鉄道会社です。
同年9月から建設工事が始まり、明治31年(1989)に彦根~愛知川間が
開通し、開業されました。
明治33年(1900)には貴生川まで延伸され、大正3年(1914)3月8日には
多賀線が開業されました。
昭和6年(1931)3月15日に米原~彦根間が開業し本線が全通しました。
昭和19年(1944)に八日市鉄道株式会社を合併しました。
大正2年(1913)に新八幡駅(現在の近江八幡駅)と八日市口駅
(現在の新八日市駅)間で開業された湖南鉄道は、昭和2年(1927)に
琵琶湖鉄道汽船と合併しましたが、昭和4年(1929)に
琵琶湖鉄道汽船は京阪電気鉄道に合併されました。
その際、旧湖南鉄道部分は分離され、
八日市鉄道として発足することになりました。
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かって、神崎郡八日市町沖野ヶ原(現在の東近江市沖野)に
陸軍の飛行場があり、昭和5年(1930)には新八日市駅から
飛行場駅(後に御園駅に改称)まで開通し、
飛行場への物資や兵員の輸送に使われました。
この路線は永源寺がある山上(現東近江市山上町)まで線路敷設の
免許を受けていたのですが、計画の遅れなどから
昭和10年(1935)6月に敷設免許が失効しました。
戦後、飛行場が閉鎖されると物資や人の輸送量が激減し、
昭和23年(1948)8月1日に新八日市駅~御園駅間の運行が休止され、
昭和39年(1964)9月24日に廃止が認可されました。
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ED31 3
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ED31 4
「ED31 3」及び「ED31 4」は、伊那電気鉄道
(現在のJR東海飯田線の一部)が大正12年(1923)に新製した
直流用電気機関車で、当初は「デキ1形」と称され、6両が製造されました。
その後、伊那電気鉄道は戦時買収による国有化に伴い、
「デキ1形」は国鉄(当時の鉄道省)籍へ編入され、
戦後「ED31形」と改番されました。
天竜峡以北の飯田線で使用されていたのですが、
昭和30年(1955)~昭和31年(1956)に全車が除籍され、
「ED31 3」~「ED31 5」の3両が近江鉄道に譲渡されました。
その後、西武鉄道に譲渡された「ED31 1」~「ED31 2」の2両も
近江鉄道に移されましたが、平成2年(1990)に「ED31 5」、
平成16年(2004)に「ED31 1」と「ED31 2」が廃車されました。
現存する「ED31 3」と「ED31 4」ですが、「ED31 4」は
機械の故障で休車となり、「ED31 3」は車籍を保持していますが、
ATSの装備が困難などの理由から、
事実上本線走行は不可能な状態にあります。
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「ロコ1100」は昭和5年(1930)6月16に阪和天王寺~阪和東和歌山で
開業した阪和電気鉄道が、昭和5年(1930)に天王寺駅構内での国鉄との
貨車授受作業に当たるために製造された機関車で
この1両のみが製造されました。
しかし、阪和電気鉄道は昭和15年(1940)12月1日に南海鉄道に吸収合併され、
更に昭和19年(1944)5月1日には戦時買収により国有化され、
国有鉄道阪和線となりました。
戦後天王寺駅での貨車の授受が不要となったことから、近江鉄道に
譲渡されましたが、現在は車籍は無く本線走行はできません。
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ED14 1
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ED14 2
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ED14 4
「ED14」電気機関車はアメリカGE社製で、
大正15年(1926)に鉄道省により4両が輸入されました。
当初は東海道線の貨物輸送などに使われていましたが、
昭和5年(1930)に大型機の登場で甲府機関区に移り、
戦後は一時豊橋機関区に移り、飯田線で運用されていました。
昭和25年(1950)に作並機関区に移された後、昭和35年(1960)に
4両とも休車となり、2・3号機が近江鉄道へ譲渡されました。
1・4号機は再び仙山線で使用されましたが、
昭和41年(1966)に除籍され、近江鉄道へ譲渡されました。
近江鉄道に譲渡された機関車は主に石灰石の輸送に使われていましたが、
昭和63年(1988)までに貨物輸送が廃止され、
構内の入れ替えなどに時折使われるにとどまりました。
ATSの装備が困難な点などから、本線上を走ることは不可能な状態です。
4号機は国鉄時代の茶色の塗装に復元されています。
残念ながら2号機は平成31年(2019)1月28日の夜から未明にかけて、
解体のため運び出されたそうです。
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貨車のワ34形(ワ34・ワ35)は大正12年(1923)に製造された
12t積みの有蓋車で、最盛期にはワ34~ワ39の6両が在籍していました。
当初は木製でしたが昭和35年(1960)に鋼体化されました。
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しかし、ワ34の屋根にはガーランド式のベンチレータが残され、
木製車時代の貫通式扉が引き継がれています。
現在は救援者代用として残され、車内には搭載機材一覧が記載されています。
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チ10形6.35t積みレール運搬車は、平成20年(2008)に廃車となった
500系電車の505編成を改造して2両製造されました。
走行装置や連結器は台枠ごと流用され、
レール昇降用のチェーンブロックも装備されています。
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ホキ10形は昭和60年(1985)に彦根工場で新造された30t積みの
バラスト運搬用のホッパ車で、3両在籍しています。
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2軸貨車のチ1形は大正12年(1923)に製造された12t積みの長物車で、
末期はチ10形が製造されるまでレールの運搬などにも使用されました。
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近江鉄道ミュージアムの入口付近には「ほほえみパーク号」が停車しています。
500系電車を改造し、彦根駅東口前にある保育園(ほほえみ園)の
開園1周年を記念して保育施設に改装したものです。
500系電車は昭和44年(1969)から昭和58年(1983)にかけて自社工場で
6編成12両が製造されましたが、車体のみが新造され、
台車や主電動機をはじめとした機器類は廃車発生品を転用したため
名義上は改造車両とされています。
非冷房車であったため、平成12年(2000)から800系への入れ替えが行われ、
平成23年(2011)頃には全て廃車となりました。
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ワイン電車2018に使われた車両は800系電車で、西武鉄道の
413Fを譲り受け、彦根工場で改造されて
平成14年(2002)から運用されています。
近江鉄道は昭和18年(1943)に西武グループの傘下に入り、
平成28年(2016)2月29日には西武鉄道の完全子会社となりました。
主力の車両は西武鉄道の中古車両を改造して使用されています。
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近江鉄道は平成30年(2018)6月11日に彦根~愛知川間、
7月24日に愛知川~八日市間の開業120年を迎えました。
記念のヘッドマークを付けた車両は西武鉄道の415Fを譲り受け、
改造の後、平成11年(1999)から運用されています。
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220系電車は両運転台の電車で、平成3年(1991)から平成8年(1996)までの
6年間にわたって、彦根工場で6両製造されました。
本線・八日市駅~貴生川駅間は運行経費削減のため、
1往復を除きレールバスLE10形で運用されていました。
しかし、LE10形は二軸車で収容能力も小さかった(定員70名)ことから、
ラッシュ時には2両連結での運用となり、
経費削減の効果が削がれることとなりました。
そこで、定員102名の220系が造られることになり、
様々な部品を流用して新造されました。
226は平成8年(1996)3月31日にモハ100形103の車籍・機器と
西武モハ741の部品を利用して竣工し、
平成27年(2015)3月限りで定期運用から外されました。
大型のスノープラウが装備されており、冬季は雪かき車として、
また、工事列車を牽引する牽引車として、
ホキ等の貨車と連結して使われています。
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手前の西武ライオンズの「レオ」が描かれた223は、
モハ100形101の車籍・機器と西武クハ1741の部品を利用して、
平成5年(1993)6月18日に竣工しました。
後方の820系電車は西武鉄道の429Fが改造され、
平成9年(1997)8月から運用されていました。
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「水色いちばん-びわ湖」とラッピングされた220系電車。
モハ100形102の車籍・機器と西武クハ1740の部品を利用して、
平成6年(1994)5月24日に竣工されました。
車籍上では大正3年(1914)と、最も古い車両になります。
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車庫横に停車していた700系の「あかね号」は、近江鉄道開業100周年と
八日市駅の新駅舎完成を記念して、平成10年(1998)5月12日に竣工しました。
西武401系電車をベースに1年がかりの改造工事を経て、
八日市駅の改築竣工記念式に合わせた同年6月13日に運行が開始されました。
しかし、老朽化のため2019年5月6日で引退することが発表されています。
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高宮駅
近江鉄道に乗車して多賀大社へ向かいます。
本線の高宮まで乗車して、多賀線に乗換えるのですが、
多賀線の延長距離は2.5kmで途中にスクリーン駅があるのみです。
一部を除いて高宮駅と多賀大社前駅でピストン運転されています。
多賀線は大正3年(1914)3月8日に開業し、
大正14年(1925)3月12日に電化されました。
かって、住友セメント多賀工場やキリンビール滋賀工場への引き込み線があり、
高宮駅にはこの中継のための貨物ヤードがありました。
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現在は平成26年(2014)12月で、全車が廃車となった
西武鉄道の3000系電車が留め置かれています。
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多賀大社前駅
当日運行されていた900系は、西武鉄道より譲り受けた101系電車を改造し、
平成25年(2013)6月14日に運用が開始されました。
当初は青を基調とした車体色から「淡海号(おうみごう)」と
称されていましたが、平成30年(2018)7月16日より、
特別車両「虹たび号」としての運行が開始されました。
滋賀県観光キャンペーン「虹色の旅へ。滋賀・びわ湖」をPRするため、
キャンペーンナビゲーター(虹たびナビゲーター)であり
「滋賀ふるさと観光大使」を務める
西川貴教氏の写真がラッピングされています。
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多賀大社前駅
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駅前からの参道には鳥居が建立されています。

神仏霊場・第133番札所の多賀大社へ向かいます。
続く

多賀大社への参道

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多賀大社前駅から鳥居をくぐり、多賀大社への参道を進むと丁字路となり、
左へ曲がった先に延命地蔵菩薩が祀られた地蔵堂があります。
天保年間(1830~1840)に多賀大社門前の名物・糸切り餅を発案した
北国屋市兵衛が、木之本地蔵の分身を勧請し、
堂を建てて祀ったのが始まりとされています。
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堂内中央には地蔵菩薩像が安置されています。
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右側の中央は死体の両足を引っ張る奪衣婆(だつえば)の像が安置されています。
その背後に千手千眼観世音菩薩、地蔵菩薩像が安置されています。
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左側には中央に閻魔大王像が安置され、その前には亡者の生前の
一挙手一投足が映し出されるため浄玻璃(じょうはり)の鏡が置かれています。
閻魔大王の左右には罪状を読み上げている司命(しみょう)と
それを記録する司録が配されています。
閻魔大王の両肩には倶生神(くしょうじん)が亡者の生前の行いを報告しています。
倶生神は、人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に在って、
昼夜などの区別なく善悪の行動を記録して、
その人の死後に閻魔大王へ報告する神です。
左肩にある男神を同名(どうめい)といい、善行を記録し、右肩にある
女神を同生(どうしょう)といい、悪行を記録するとされています。
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地蔵堂の前左側には半跏地蔵菩薩像、右側には阿弥陀三尊が
極楽浄土へと導く来迎像が祀られています。
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また、「開運!近江の地獄巡り」と称され、参道には様々な
地獄世界を表した像が祀られています。
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参道の先には、「開運!近江の地獄巡り」「頬落(ほおとし)地獄」の
像が祀られています。
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参道を進んだ先に真如寺があります。
室町時代の創建と伝わり、現在の本堂などの建物は
創建時代のものとされています。
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本堂
堂内には多数の仏像が安置されています。
重要文化財に指定されている平安時代後期作で像高約140cmの
木造阿弥陀仏如来坐像は、多賀大社の本地仏で、明治の神仏分離令により
真如寺に遷されました。
真如寺には四天王像など廃寺となった寺院から遷されたと
思われる仏像が安置されています。
鎌倉時代の正安元年(1299)作の阿弥陀三尊懸仏(かけぼとけ)は
多賀町の文化財に指定されています。
直径61.6cmのやや厚めの木板に薄銅盤を打ち付けて鏡面を作り、
中央に像高23cmで鋳造の阿弥陀如来、左右に像高14.5cmの
観音菩薩と勢至菩薩が配されています。
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須弥壇前の地獄絵図は、江戸時代後期に修行僧により、
法要の周期に合わせた10枚の地獄の様子が描かれています。
初七日の図は、泰広王(しんこうおう)による裁きの模様が描かれています。
倶生神(くしょうじん)からの報告を元に、無益な殺生を初めとする
仏教の五戒に反していなかったかについての審理を行い、
その死者がどこから三途の川を渡るかを決定します。
罪の浅い者は山水瀬(浅水瀬)や七宝飾りの 美しい橋を渡ることができ、
罪の深い者は激流の江深淵(こうしんえん)を泳いで渡ります。
また、善人用の渡し舟(六文船)も用意されています。
三途の川を渡ってきた亡者の衣服は、奪衣婆が剥ぎ取り、
懸衣翁(けんえおう)が衣領樹(えりようじゆ)に掛けて、
衣服の濡れ具合で罪の重さを量ります。
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二七日は、死後14日目に初江王(しょごうおう)により、泰広王の
審理結果や懸衣翁からの報告を元に、主に盗みに関しての審理が行われます。
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三七日は、死後21日目に宋帝王(そうたいおう)により、
性に関する罪の審理が行われます。
左側には僧によって救済されている様子が描かれていますが、
改心の見込みがあったり、裁きに不完全な部分があったり、
現世の遺族側の回向(えこう)が十分に行われていたりすると、
次の裁判にまわされるようです。
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四七日は、死後28日目に五官王により、目 · 耳 · 鼻 · 口 · 舌の五官が
元となる悪業や罪を審理対象とし、特に妄言(もうげん=嘘)に関する
詮議が行われます。
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五七日は、死後35日目に閻魔王による審理が行われます。
亡者の生前の一挙手一投足が映し出される浄玻璃(じょうはり)の鏡が
置かれ、いかなる隠し事も見破られます。
もしこれで嘘をついていることが判明した場合、
舌を抜かれてしまうとされています。
これまでの裁きの結果を元に閻魔王により、死者が六道(地獄・餓鬼・
畜生・修羅・人間・天上)の何処に生まれ変わるかが決定されます。
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六七日は、死後42日目に変成王(へんじょうおう)による審理が行われます。
六道に振り分けられた亡者が、その中でもどのような場所に
生まれ変わるかの審理が行われます。
変成王に懇願している女性が描かれていますが、十王の中では
比較的寛容で、亡者側の意見や願いを聞き入れてくれるとされています。
また、図では三つ目ではありませんが、人間の善悪を見破る
三つ目の赤鬼と青鬼を従えているとされています。
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七七日は、死後49日目に泰山王により、最終の審理が行われます。
どのような姿で生まれ変わるか、寿命などが決定されます。
この審理を終えるとそれぞれ六道と繋がる六つの鳥居が示されますが、
亡者はどれがどこに繋がっているかは分からず、鳥居をくぐって
初めて裁きが分かるようになっています。
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百ヶ日は、平等王により、救済の審理が行われます。
遺族が供養に努めれば、悪道に堕ちたものは救済され、
善道に行ったものは更に徳をつめるとされています。
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一周忌は、死後二年目に都市王による審理が行われ、
これで喪は明けたとされています。
光明箱とよばれる箱を持ち、中にはありがたい経文が入っていますが、
悪業の深い者があけると業火に焼かれるとされています。
都市王の裁きの場から極楽に行くことが可能ですが、
その距離は十万億土(一説には三十光年)とされています。
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三回忌は、五道転輪王により最後の裁きが行われます。
図では地面の割れ目から這い出して、阿弥陀如来に救いを求めていますが、
生前の行いにより、岩で蓋をされ、鳥に啄まれる姿が描かれています。
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本堂前には「開運!近江の地獄巡り」の「地獄絵図」の像が置かれています。
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更に先に進むと「開運!近江の地獄巡り」の「かまゆで地獄」の像が
置かれています。

多賀大社へ向かいます。
尚、ヤフーブログ廃止に伴い、こちらにも掲載しています。
順次ヤフーブログ掲載分もこちらに移行していきます。

多賀大社

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真如寺からの参道を進んだ先に多賀大社の西参道入口があり、
鳥居が建っています。
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鳥居をくぐって進むと手水舎がありますが、現在は使われていません。
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正面には日向神社(ひゅうがじんじゃ)があります。
創建に関する詳細は不明ですが、天平神護2年(766)に
神封二戸を寄せられたとの記録が残され、奈良時代には既に存在しており、
平安時代の延喜式神名帳に列せられた延喜式内社です。
昭和9年(1934)に多賀大社の摂社に指定されています。
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祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)で、天照大御神の神勅を受け、
日向の高千穂峰に天下ったとされています。
多賀大社には本地堂があり、行基菩薩作とされる
阿弥陀如来像が安置されていました。
猿田彦命を祀る摂社の山田神社は観世音菩薩、日向神社は勢至菩薩を
本地仏とする、阿弥陀三尊が形成され、多賀三所明神と称されていました。
尚、山田神社は境外摂社で、多賀大社の北方向にあります。
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日向神社の右側に神明両宮があります。
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伊勢神宮の内宮と外宮の祭神・天照大御神と豊受大神が祀られています。
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神明両宮の右側に夷神社があり、事代主神が祀られています。
また、この付近に神宮寺の般若院があったと推定されています。
多賀大社には、不動院とその配下に般若院、成就院、観音院の四つの
神宮寺があったとされ、坊人と呼ばれる僧が奉仕していました。
室町時代中期の明応3年(1494)に天台宗の不動院が建立されると、
坊人は全国にお札を配って信仰を広めました。
多賀大社は中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わい、
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡も生まれました。
舟橋聖一の小説『花の生涯』のヒロイン・村山たか(1809~1876)は若き頃、
般若院で過ごしたとされ、また、般若院は井伊家の宿坊であったことから、
村山たかと井伊直弼の初めての出会いは般若院であったのかもしれません。
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夷神社から参道を進んだ右側に太閤蔵があります。
天正16年(1588)、豊臣秀吉は生母・大政所の病気平癒の祈願を行い、
これが成就したことから大名に与えるに等しい1万石を寄進し、
社殿の改修等を行いました。
この蔵はその際に建立されたもので「太閤蔵」と呼ばれています。
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太閤蔵の東側に鐘楼があります。
現在の鐘楼は昭和59年(1984)12月から
昭和61年(1986)3月にかけて再建されました。
梵鐘は室町時代後期の天文24年(1555)に鋳造されたもので、
滋賀県の文化財に指定されています。
鐘身153.2cm、龍頭からの高さ209.2cm、口径127cmあり、
全国五指に入る大鐘とされています。
天文5年(1536)から永禄6年(1563)にかけて室町幕府、佐々木六角、
浅井家の奉賛のもとに大々的な社殿の修造が行われ、
この梵鐘もその一環として鋳造されました。
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鐘楼の東側に神輿庫があります。
かって、参集殿の西側にあったものが、昭和の大造営に際し、
昭和11年(1936)に現在地に鉄筋コンクリート造りで建立されました。
毎年4月22日に営まれる「古例大祭(多賀まつり)」に出御される
神輿と鳳輦(ほうれん)が収納されています。
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神輿庫の斜め左前に2個の大釜が置かれています。
元和元年(1615)に社殿が焼失し、第3代・徳川家光は30万両を寄進して
社殿の再建を命じました。
寛永11年(1634)から5年の歳月を要して本殿以下の大造営が行なわれ、
更に約60年後の元禄11年(1698)には再び大修復工事が行われました。
この二つの大釜は、両度の正遷宮を祈念して営まれた「御湯神事」に
使われたと伝わります。
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神輿庫の東側にある文庫はかって、多賀大社大禰宜だった
車戸宗功(くるまどむねいさ)の邸内にあり、
長州や土佐の志士と密議を行ったとされています。
車戸宗功は、平田篤胤(あつたね)門の国学者で、多賀神社の自邸を
諸国勤王派の交流の場とし、「桜田門外の変」の後の彦根藩が
倒幕の姿勢を示す一因となりました。
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社務所
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社務所前の参道から境内を出て、
西参道から改めて御神門のある参道から境内に入ります。
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こちらからが正式な参道入り口となります。
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鳥居をくぐった正面にそり橋があり、町の文化財に指定されています。
太鼓橋で「太閤橋」とも呼ばれているそうですが、豊臣秀吉が
架橋したのではなく、寛永の大造営の際に築造されました。
かなりの急勾配で渡るのも一苦労ですが、「古例大祭(多賀まつり)」では
この橋を神輿が渡る「神橋」でもあります。
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そり橋を渡った先に御神門があります。
多賀大社は寛永の大造営以降、安永2年(1773)に焼失し、
天明2年(1782)にも火災に遭いました。
寛政3年(1791)には暴風で社殿が倒壊しましたが、その都度彦根藩及び
幕府からの手厚い寄進により再建されてきました。
しかし、明治の神仏分離令により境内にあった全ての神宮寺は払拭されました。
明治以降建物の再建や撤去が無計画に行われたため、
社殿配置に統一性が欠けているとして大正から昭和にかけて大造営が行われ、
御神門から本殿まで、参道に沿って一直線上に配置されました。
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御神門前の「夫婦桜」は昭和7年(1932)に、大正から昭和にかけて
大造営の竣工を記念して植樹された、県内屈指の早咲きの枝垂れ桜です。
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「夫婦桜」の手前には向かって右側に秋葉神社、左側に愛宕神社があります。
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御神門をくぐった先に神馬舎があり、町の文化財に指定されています。
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神馬舎の向かいには手水舎があります。
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参道の正面に拝殿があり、その奥に神楽殿、幣殿そして本殿と並んでいます。
現在の社殿は大正8年(1919)に明治神宮造営局技師・大江新太郎氏の
設計により、国費で建立されました。
拝殿には巨大なしゃもじが立てられています。
第44代・元正天皇(在位:715~724)が病の際、多賀大社の神主が
強飯を炊き、しでの木で作った杓子を献上したところ病気が平癒したと伝わります。
現在、お守りとしてしゃもじが授けられる「お多賀杓子(おたがじゃくし)」は、
この故事に因むもので、「お多賀杓子」は「お玉杓子」の
由来になったとされています。
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祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命で、社殿では国産み・神産みを終えた
伊邪那岐命が多賀大社から東約6kmの杉坂峠に天下り、
この地に鎮まったとされています。
杉坂峠には、三本杉が残されています。
天下った伊邪那岐命に土地の老人が粟の飯を献上し、食後伊邪那岐命が
杉箸を地面に突き刺したところ、それが根付いたとされています。
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拝殿の東側に能舞台があります。
多賀大社では毎年1月3日に能始が行われ、「翁」が舞われることから
「翁始式(おきなはじめしき)」と呼ばれています。
多賀大社の近くにある敏満寺は近江猿楽の発祥地とされ、
多賀大社でも古くから神事で能が奉納されてきました。
多賀大社には現在、能面五十九、狂言面十三面が残されています。
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能舞台の東側に子安神社があり、安産・子育ての神が祀られています。
また、子安神社の左側に年神神社と竃神神社の二社殿があります。
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寿命石と祈願の白石
鎌倉時代の東大寺中興の祖・俊乗房重源上人は、後白河上皇の命を受け、
61歳で東大寺勧進職に就きました。
上人は伊勢神宮に17日間参籠(さんろう)したのですが、夢に天照大神が現れ、
「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げられました。
上人は多賀大社の本地堂に参籠して20年の延命を告げられたとされ、
寿命石はその由緒を伝えるものとして建てられています。
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祈願の白石は、上人が柏の葉の神託により延命を授かった故事に因み、
白石に願い事を書いて寿命石に祈願するものです。
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本殿の右側には熊野新宮、天神神社、熊野神社の三社殿があります。
なぜ那智大社でなく天神神社が祀られているのか悩みます。
また、三社殿の右側に聖神社、三宮神社の二社殿があります。
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参道を進むと金咲稲荷神社があります。
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更に北へ進んだ右側に神田があり、遠く山頂だけ見える山は薄く雪化粧しています。
伊邪那岐命が天下ったとされる杉坂峠も雪が積もっているようです。

次回は西国薬師霊場・第15番札所である家原寺(えばらじ)から
阿倍野神社を経て近畿三十六不動尊霊場・第4番札所の京善寺を巡る予定です。
尚、ヤフーブログ廃止に伴い、こちらにも掲載しています。
次回からはこちらに掲載します。

西福寺

頂法寺(六角堂)

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頂法寺(六角堂)を投稿しました。
詳細はこちらをご覧ください。

京都御苑-その2(間ノ町口~蛤御門)

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