神倉神社へは太鼓橋を渡ります。
太鼓橋の風情ある景観に、道路標識は似合いません。
橋のたもとに立つ「下馬」と刻まれた石碑は、高さ1.59m、幅43cm、
厚さ17cmで、高さ26cm、幅80cmの台石の上に建てられています。
江戸時代の寛文12年(1672)の銘があり、奥州の南部志和郡の人物が、
江戸時代の寛文12年(1672)の銘があり、奥州の南部志和郡の人物が、
子孫繁栄を祈念して熊野参詣7度を達成したことを記念して寄進されました。
橋の左側に戻ります。
神仏習合の名残である両部鳥居が建っています。
鎌倉式石段の急な登り坂が続きます。
石段は、538段あるそうで、200段ほど上った所に、右に中の地蔵堂、
左に火神社があります。
火神社とは、文字通り火の神、奥津彦神・奥津比女命が
火神社とは、文字通り火の神、奥津彦神・奥津比女命が
祀られているのでしょうか?
それにしてもストーレートな社名だと思いました。
それにしてもストーレートな社名だと思いました。
中の地蔵堂から先、坂が少し緩やかになったように感じます。
下の鳥居から10分くらい上って来ると、
ゴトビキ岩への鳥居が見えてきます。
鳥居をくぐると右側に手水鉢が置かれています。
この手水鉢は、高さ60cm、幅1.9m、奥行き91cmあり、
この手水鉢は、高さ60cm、幅1.9m、奥行き91cmあり、
黒雲母花崗斑岩の巨大な一枚岩を加工して作られています。
寛永8年(1631)2月に新宮城第2代城主の水野重良によって寄進されました。
寛永8年(1631)2月に新宮城第2代城主の水野重良によって寄進されました。
手水鉢の先に巨大な岩が見えてきます。
神武東征に記されている「天磐盾(あめのいわたて)」は、
神武東征に記されている「天磐盾(あめのいわたて)」は、
真にこの山だと思えてきます。
神武天皇が天磐盾に登った時、天照大神の子孫の高倉下命は、
神武天皇が天磐盾に登った時、天照大神の子孫の高倉下命は、
神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で
軍を進め、熊野・大和を制圧したとされています。
この岩は「ゴトビキ岩」と呼ばれ、ゴトビキとは新宮の方言で
この岩は「ゴトビキ岩」と呼ばれ、ゴトビキとは新宮の方言で
ヒキガエルをあらわすそうです。
手水鉢の付近で、カエルらしき鳴き声が聞こえました。
手水鉢の付近で、カエルらしき鳴き声が聞こえました。
岩の前には社殿が設けられ、高倉下命(タカクラジノミコト)と
天照大神が祀られています。
神倉神社の創建年代は128年頃と云われ、熊野三山の中心となる
神倉神社の創建年代は128年頃と云われ、熊野三山の中心となる
熊野速玉大神・熊野夫須美大神・家津美御子大神の神々が、
最初に降臨された所と伝わります。
しかし、ゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸の破片が発掘されていることから、
しかし、ゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸の破片が発掘されていることから、
太古から磐座信仰の地になっていたのだろう推測されます。
標高約120mからの眺望は素晴らしく、熊野灘が一望できます。
古来から人々は、この景観の中に神が宿るのに相応しい場所と
古来から人々は、この景観の中に神が宿るのに相応しい場所と
感じていたのでしょう。
下山して、自分が今晩宿る所に向かいます。
続く
下山して、自分が今晩宿る所に向かいます。
続く