東寺の南大門を出て、西へ進みます。
振り返ると、堀越に五重塔が望めます。
振り返ると、堀越に五重塔が望めます。
更に西に進むと矢取地蔵尊が祀られた地蔵堂があります。
天長元年(824)、干ばつで人々が飢えと渇きで苦しんでいたために、
天長元年(824)、干ばつで人々が飢えと渇きで苦しんでいたために、
淳和天皇が勅命により東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)僧都が
神泉苑の池畔で雨乞いの祈祷を行いました。
先に守敏が祈祷するも雨は降らず、代って空海が祈祷すると三日三晩に渡って
先に守敏が祈祷するも雨は降らず、代って空海が祈祷すると三日三晩に渡って
雨が降り続き、池からは金色に輝く善女龍王が出現したと伝わります。
守敏は空海を恨み、羅城門の近くで矢を射かけました。
すると、黒衣の僧が現れて空海の身代わりとなって矢を受けました。
黒衣の僧は、地蔵菩薩の化身であり、石像の背には傷がありました。
人々はこの身代り地蔵を「矢取の地蔵」と呼び羅城門跡のこの地に祀りました。
現在の地蔵堂は明治18年(1885)に唐橋村(八条村)の
守敏は空海を恨み、羅城門の近くで矢を射かけました。
すると、黒衣の僧が現れて空海の身代わりとなって矢を受けました。
黒衣の僧は、地蔵菩薩の化身であり、石像の背には傷がありました。
人々はこの身代り地蔵を「矢取の地蔵」と呼び羅城門跡のこの地に祀りました。
現在の地蔵堂は明治18年(1885)に唐橋村(八条村)の
人々の寄進により建立されました。
JR京都駅前には、羅城門の模型が展示されています。
平安京が造営された時、この門から朱雀門までの約4kmを幅約84mの
平安京が造営された時、この門から朱雀門までの約4kmを幅約84mの
朱雀大路が続いていました。
高速道路の一車線の平均的な幅が3.5mで、片道2車線、合計4車線でも
高速道路の一車線の平均的な幅が3.5mで、片道2車線、合計4車線でも
12mですので、その7倍に当たる朱雀大路の広さを推し量ることができます。
羅城門は、『日本紀略』によると弘仁7年(816)に大風で倒壊し、
その後再建されましたが『百錬抄』には天元3年(980)に暴風雨で倒壊した
との記載が見られます。
その後、再建されることもなく、倒壊以前は芥川龍之介の『羅城門』に
その後、再建されることもなく、倒壊以前は芥川龍之介の『羅城門』に
あるように死体の捨て場になるなど荒廃していました。
延暦13年(794)に建設された門は、正面33m・奥行8mの二重閣瓦屋根の
延暦13年(794)に建設された門は、正面33m・奥行8mの二重閣瓦屋根の
壮大なものであったと推定されていますが、
今はその面影さえ偲ぶこともできません。
羅城門跡から西に進み七本松通りを北進すると唐橋小学校があり、
それを通り過ぎた所ある公園の丘の上に西寺跡の石碑が建っています。
この丘は、戦前に松尾大社の御旅所として、神輿を練り上げるために
この丘は、戦前に松尾大社の御旅所として、神輿を練り上げるために
築かれた土塁で、かってここには講堂がありました。
現在も松尾大社の神輿は、この土塁の周囲を巡ります。
東寺と西寺はほぼ同じ規模で、羅城門をはさんで左右対称に創建されました。
昭和34年(1959)からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・
昭和34年(1959)からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・
南大門等の遺構が確認され、その配置も東寺とほぼ同じだったと考えられています。
当初、西寺は外国使節接遇の施設であったという説もあり、
当初、西寺は外国使節接遇の施設であったという説もあり、
官寺としての役割が強かったと考えられ、平安時代後期になると
朝廷の財政悪化から支援を受けられなくなったとみられています。
また右京の地は水はけが悪く、住民が減少したことによる環境の悪化
また右京の地は水はけが悪く、住民が減少したことによる環境の悪化
などの諸要因が重なり、西寺も羅城門と同じように荒廃していきました。
鎌倉時代の天福元年(1233)に五重塔が焼失すると、
鎌倉時代の天福元年(1233)に五重塔が焼失すると、
その後再建されることはなく西寺は廃寺となりました。
西寺跡から西北方向に進んだ御前通と東寺通が交わる西北角に
西寺が復興されていますが、真言宗ではなく浄土宗西山禅林派の寺院です。