東寺-その2
西院へと入った左側に毘沙門堂があります。 毘沙門堂は、文政5年(1822)に建立され、創建1200年記念事業で平成6年(1994)に修復が行われ、毘沙門天像も新造されました。 かっては羅城門の楼上に安置されていた兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像を本尊としていました。...
View Article東寺-その3(五重塔)
東寺の伽藍は、南大門をくぐると、金堂、講堂、食堂そして北大門が一直線上に配置され、東南角に五重塔が建っています。 金堂、講堂、食堂の配置は仏教の三宝である仏・法・僧を表しています。 金堂には本尊の「仏」、講堂は密教の教え「法」、そして食堂が「僧」で生活の中に修行を見出す所です。...
View Article東寺-その4(金堂・講堂)
南大門の正面に金堂があります。 延暦15年(796)、朝廷が造営した東寺で最初に建設されたのが金堂です。 当時、桓武天皇により新寺建立禁止令が延暦2年(783)に発布されていて、平安京内には官寺以外の寺院は建立できませんでした。 東寺は桓武天皇の発願により、中納言・藤原伊勢人が造寺長官となって金堂から建設が始まりました。...
View Article東寺-その5
講堂・金堂への入口受付を出て売店を越えた所に二棟の夜叉神堂があります。 東側に雄夜叉神、西側に雌夜叉神が祀られていて、ともに弘法大師作と伝わります。 この夜叉神は、当初は南大門に安置されていましたが、旅人が拝まないで通ると罰を与えたと伝わり、中門(現在の金堂前・灯篭付近)に遷されました。 慶長元年(1596)に中門が倒壊したため、現在地に夜叉神堂が建立され再び像が遷されました。...
View Article羅城門跡~西寺跡
東寺の南大門を出て、西へ進みます。 振り返ると、堀越に五重塔が望めます。更に西に進むと矢取地蔵尊が祀られた地蔵堂があります。 天長元年(824)、干ばつで人々が飢えと渇きで苦しんでいたために、淳和天皇が勅命により東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)僧都が神泉苑の池畔で雨乞いの祈祷を行いました。...
View Article土御門家(安倍晴明の子孫)屋敷跡
西寺から御前通を北上すると、JR東海道線の下をくぐるトンネルがあります。 レンガが積まれ、歴史がありそうに感じます。水没したらしき跡が、直線状に残されています。トンネルを抜けた付近は、かって安倍晴明の子孫である土御門(つちみかど)家の屋敷があったとされ、トンネルの先にある円光寺には、渾天儀(こんてんぎ)の台石部分が残されています。...
View Article水薬師寺~若一神社
稲住神社から御前通に戻り、御前通を北上して次の西塩小路通の信号を左折した先に七条幼稚園があり、その奥に水薬師寺があります。 平安時代の延喜2年(902)、この地にあった大池が光を放ち、池の中から薬師如来の霊像が現れたと伝わります。 時の醍醐天皇が理源大師に命じ、この薬師如来像を本尊として諸堂宇を建立し、塩通山医王院水薬師寺の勅号を賜ったの始まりとされています。...
View Article法性寺
京阪東福寺駅で下車して、本町通を南へ5分程度歩いた所に法性寺があります。 京阪電車が本町通まで迫り、大きくカーブしているため、レールを軋ませながら電車が通り過ぎていきます。 法性寺は、延長2年(924)に左大臣藤原忠平によって創建されました。 延長7年(929)、忠平50歳の賀が行われる頃には、大門・本堂・東堂・南堂・礼堂・鐘楼が建ち並ぶ寺院に栄えました。...
View Article法音院
泉涌寺道の緩い上り坂を進んで行くと江戸時代に建立された総門があります。 総門の脇に境内の見取り図が掲載されていて、改めて境内の広さを認識することができます。門をくぐって進んだ先に泉涌寺塔頭の法音院があります。 法音院は、鎌倉時代末期の嘉暦元年(1326)に無人如導宗師(むにんにょどうそうし)によって泉涌寺山内に創建されました。...
View Article戒光寺
戒光寺は、鎌倉時代の安貞2年(1228)に後堀河天皇の勅願所として、宋より帰朝した曇照忍律(どんしょうにんりつ)によって創建されました。 曇照忍律は、戒光寺を創建した後に再び宋に渡り、帰国後泉涌寺の門前、現・東林町に東林院を開創しました。 当初、現在の京都市南区の猪熊八条の地に戒律復興の道場として建立され、巨大な伽藍を持ち、戒光律寺と呼ばれていました。...
View Article今熊野観音寺
戒光寺から更に泉涌寺道の緩い上り坂を進んだ先で、左に折れ坂道を下ります。 朱塗りの鳥居橋を渡りますが、古くからこの地には熊野権現社が祀られていたので、橋の名の由来となっています。 かってこの橋の近くに鳥居が建っていたのかもしれません。橋を渡った先に門柱が立つ入口があります。入口を入って左奥の方を振り返ると大講堂が見えます。...
View Article善能寺~来迎院
今熊野観音寺から戻り、宮内庁事務所の横を奥の方へ進んだ所、宮内庁事務所の裏辺りに善能寺があります。山門をくぐると左側に白砂が敷かれた枯山水の庭があり、参道が本堂へと続いています。 右側奥に鳥居が建ち、右側に稲荷大神が祀られています。左側に稲荷神石社があり、日本最初の稲荷大明神が祀られています。...
View Article後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)
来迎院から南側にある石段を上ると後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)参道の石標が建っています。 御陵への参道は、泉涌寺の伽藍の横を通り、泉涌寺の上へと続きます。坂道を登って行くと、後堀川天皇の観音寺陵(かんおんじのみささぎ)へと参道が分かれ、左に折れて石段を上ります。...
View Article泉涌寺-その1
後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)の石標が建っている所まで下り、その横から泉涌寺へ入ることができますが、無人でしたので、入山料500円は帰りに納めます。 入った正面に仏殿があり、国の重要文化財に指定されています。仏殿は本堂であり、宋風の呼称です。 泉涌寺の創建や変遷の詳細は不明です。...
View Article泉涌寺-その2
勅使門の北側に本坊への門があり、門を入った左側に無料休憩所があります。 右側には塀越しに大玄関とその奥に霊明殿が望めます。泉涌寺は、洛陽三十三所観音霊場の第20番札所で、第18番札所の善能寺の分と合わせ、本坊で朱印が受けられます。...
View Article城興寺
城興寺は、九条烏丸の北、西側の路地の奥にあります。 歴史的名称では成興寺とも書き、境内に残されている石碑にそれが見られます。山号を瑞寶山(ずいほうざん)と称する真言宗泉涌寺派の寺院で、洛陽三十三所観音霊場の第二十二番札所です。...
View Article平等寺(因幡薬師)
平等寺は、松原通を烏丸通から東に進んで、北側に入った所にあり、松原通りに石標が建っています。 烏丸通りに面しても、松原通の北側に石灯籠が建っています。本堂は因幡堂とも呼ばれ本尊の薬師如来像は、京都十二薬師霊場の第一番札所、京都十三佛霊場の第七番札所です。...
View Article長圓寺
松原通を西に進み大宮通を越えて壬生川通の手前、南側に長圓寺があります。 山号を延命山と称し、浄土宗の寺院です。 江戸時代の慶長13年(1608)、京都所司代・板倉勝重が清巌和尚に帰依し、土地を寄進して、本堂・庫裏・客殿などを建立したのが始まりとされています。 寛永元年(1624)勝重没後、その法諱(ほうき)「長圓院」にちなんで寺号を長圓寺としました。...
View Article西本願寺-その1
大宮通を南下して、花屋町通を左折すると西本願寺の駐車場があるのですが、当日は伝灯奉告法要が行われているため駐車場は閉鎖されていました。 バイクは龍谷大学の横に駐車できるとのことで、大宮通を七条通まで南下し、七条通に面した門から入りました。 花灯明の受付けは、5:30から始まるのですが、既に多くの方々が並んでいました。北小路通を堀川通まで進み、堀川通を北上して御影堂門から改めて境内へと入ります。...
View Article西本願寺-その2
書院の入口近くに旧仏飯所(ぶっぱんしょ)があります。 かって御影堂と阿弥陀堂に供する仏飯を炊事していた建物で、東半が台所、西半が板間で、南面の西寄りには渡り廊下がありました。 寺伝では、「江戸時代の貞享2年(1685)に創建し、宝暦年間(1751~1763)に再修す」とありますが、現在の建物は宝暦年間のものとみられています。...
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