来迎院から南側にある石段を上ると後月輪東山陵
(のちのつきのわひがしのみささぎ)参道の石標が建っています。
坂道を登って行くと、後堀川天皇の観音寺陵(かんおんじのみささぎ)へと
参道が分かれ、左に折れて石段を上ります。
東側へ登って行きます。
後堀川天皇は、鎌倉時代の第86代天皇で、
承久3年(1221)~貞永元年(1232)の期間に在位しました。
承久3年(1221)に起こった承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・
承久3年(1221)に起こった承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・
土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させ、
後鳥羽上皇の兄・守貞親王の三男である茂仁(ゆたひと)王を即位させました。
茂仁王は、僅か10歳で後堀河天皇として即位したのですが、
茂仁王は、僅か10歳で後堀河天皇として即位したのですが、
元来病弱で23歳で崩御されました。
かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた
かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた
僧正・仁慶の怨霊の祟りだとか、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異である
などと噂されたと伝わっています。
僧正・仁慶は、茂仁王が即位する前に弟子として十楽院に入室させていました。
参道まで下り後月輪東山陵へ向かいます。
坂道を登って開けた所に孝明天皇の後月輪東山陵と英照皇太后の後月輪東北陵
坂道を登って開けた所に孝明天皇の後月輪東山陵と英照皇太后の後月輪東北陵
(のちのつきのわのとうほくのみささぎ)があります。
孝明天皇は、江戸時代最後の第121代天皇で弘化3年(1846)~慶応2年(1867)
までの幕末の激動期に在位しました。
当時の日本は、諸外国からの外交圧力にさらされていました。
嘉永6年(1853)、浦賀沖にペリー率いる黒船が現れます。
幕府の実権を握る大老・井伊直弼は、悪名高い不平等条約である
当時の日本は、諸外国からの外交圧力にさらされていました。
嘉永6年(1853)、浦賀沖にペリー率いる黒船が現れます。
幕府の実権を握る大老・井伊直弼は、悪名高い不平等条約である
「日米修好通商条約」を締結しましたが、孝明天皇はこれに反対し、
勅許を下しませんでした。
幕府と尊王攘夷派の対立が起こり、井伊直弼は万延元年(1860)に桜田門外で
幕府と尊王攘夷派の対立が起こり、井伊直弼は万延元年(1860)に桜田門外で
殺害されてしまいます。
幕府は揺らぎつつある権威を守り、政権の安定を公武合体によって図ろうと
画策し、孝明天皇も攘夷を条件にそれに同調して万延2年(1861)に妹の和宮を、
徳川第14代将軍・家茂(いえもち)へ降嫁しました。
しかし、京の治安は悪化の一途をたどり、文久2年(1862)に
翌文久3年(1863)には
新選組の前身となる壬生浪士組が結成されました。
元治元年(1864)、尊王攘夷派の急先鋒である長州藩に対し、
天皇は将軍・家茂に「長州征討の勅命」を下しました。
孝明天皇は、必ずしも幕府の崩壊を望んでおらず、公武が一体となって
孝明天皇は、必ずしも幕府の崩壊を望んでおらず、公武が一体となって
国難にあたる政治姿勢を貫いていました。
この第一次長州征伐は、終始幕府軍優勢に終わったのですが、
藩主・毛利敬親・元徳父子は病と称して大阪へ来訪しませんでした。
次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な意見が出る中で、
次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な意見が出る中で、
天皇は第二次「長州征討の勅命」を下しました。
薩摩藩の離反などにより幕府軍は苦戦を強いられ、慶応2年(1866)、
薩摩藩の離反などにより幕府軍は苦戦を強いられ、慶応2年(1866)、
将軍・家茂の突然の死により撤退、事実上の敗戦に追い込まれました。
同年、後を追うように孝明天皇も満35歳で崩御されました。
在位期間は21年で、天然痘が死因と診断されていますが、
同年、後を追うように孝明天皇も満35歳で崩御されました。
在位期間は21年で、天然痘が死因と診断されていますが、
他殺説とも議論されています。
慶応3年(1867)に伊東甲子太郎(いとう かしたろう)他15名が新撰組を離脱し、
慶応3年(1867)に伊東甲子太郎(いとう かしたろう)他15名が新撰組を離脱し、
御陵衛士が結成されました。
御陵衛士とは、孝明天皇の後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)を
御陵衛士とは、孝明天皇の後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)を
守るための組織で、孝明天皇は命だけでなく、
その御陵までも護衛しなければならなかったようです。
英照皇太后は、天保5年(1835)に九条尚忠(ひさただ)の六女として生まれ、
弘化2年(1845)12歳の時に、統仁(おさひと)親王の妃となりました。
翌3年仁孝天皇(にんこうてんのう)が崩御され、統仁親王は孝明天皇として
翌3年仁孝天皇(にんこうてんのう)が崩御され、統仁親王は孝明天皇として
即位され、女御として入内されました。
嘉永3年(1850)に第一皇女・順子内親王、安政5年(1858)に
嘉永3年(1850)に第一皇女・順子内親王、安政5年(1858)に
第二皇女・富貴宮が生まれましたが、いずれも幼児期に亡くしました。
万延元年(1860)、勅令により中山慶子の生んだ第二皇子・祐宮(さちのみや・
万延元年(1860)、勅令により中山慶子の生んだ第二皇子・祐宮(さちのみや・
当時9歳、後の明治天皇)を「実子」と称しました。
慶応2年(1866)、孝明天皇と死別し、明治天皇即位後の慶応4年(1868)に
慶応2年(1866)、孝明天皇と死別し、明治天皇即位後の慶応4年(1868)に
皇太后の宣下を受けました。
東京奠都後、明治5年(1872)、赤坂離宮に遷御、明治7年(1874)に
東京奠都後、明治5年(1872)、赤坂離宮に遷御、明治7年(1874)に
赤坂御用地に移った後、明治30年(1897)に崩御され、
「英照皇太后」の追号を奉られました。
大葬の際建築された御須屋は法音院の本堂へ移築されました。
大葬の際建築された御須屋は法音院の本堂へ移築されました。
御陵から下り、泉涌寺へ向かいます。
続く
続く