住吉大社の近くで昼食をとり、予定より大幅に遅れて12:15に
住吉大社を後にし、堺市役所へ向かいます。
国道26号線を南下し、国道310号線に入って市役所の駐車場へと向かいました。
市役所の21階ロビーは、地上80mの高さにあり、
国道26号線を南下し、国道310号線に入って市役所の駐車場へと向かいました。
市役所の21階ロビーは、地上80mの高さにあり、
無料で360度のパノラマを楽しむことができます。
南海電車が走る、その先に日本一の前方後円墳が望まれますが、
南海電車が走る、その先に日本一の前方後円墳が望まれますが、
小山にしか見えません。
古墳の右端の方に見えるのは、大仙公園にある平和塔で、
古墳の右端の方に見えるのは、大仙公園にある平和塔で、
高さは約60m、地上十五階建ての三角柱の建物です。
公園内には、七観音古墳、寺山南山古墳、旗塚古墳、グワショウ坊古墳、
公園内には、七観音古墳、寺山南山古墳、旗塚古墳、グワショウ坊古墳、
長塚古墳、収塚古墳等の前方後円墳、円墳、方墳があり、
また日本庭園が築かれています。
反正(ばんせい)天皇陵の背後にあるツインの建物はベルマージュ堺で、
タワーマンション、図書館、商業施設などを含む複合施設です。
北方向を望んだもので、遠くに見える高い建物は、高さ300mの日本一高い
「あべのハルカス」で、その左側に大阪城があるのですが、
画像では確認できません。
西方向には、場所を確認することはできませんが、
約30分、展望ロビーに滞在し、仁徳天皇陵へ向かいました。
古墳の周濠を含めた最大長840m、最大幅654m、周囲の距離2,718m、
墳丘の長さ486m、後円部の直径249m、高さ35.8m、前方部の幅307m、
長さ237m、高さ33.9mの大きさがあり、
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)とも呼ばれています。
外の濠を渡った所に拝所があり、その先に二周目の濠、
更にその先に三周目の濠と、三重の濠によって守護されています。
その所在地は諸説あります。
説明板によると、この古墳の造営には、一日最大2千人の人が従事して
説明板によると、この古墳の造営には、一日最大2千人の人が従事して
15年8か月の年月が必要で、延べ680万人の労力が費やされたと考えられています。
『日本書紀』には、仁徳天皇67年の冬10月5日に、この地に行幸して陵地を定め、
『日本書紀』には、仁徳天皇67年の冬10月5日に、この地に行幸して陵地を定め、
同月18日から工事を始めたと記されています。
工事が始まった時、野原から鹿が出てきて倒れ、鹿を調べてみると
工事が始まった時、野原から鹿が出てきて倒れ、鹿を調べてみると
鹿の耳から百舌鳥が飛び去り、耳の中が喰い裂かれていたので、
「百舌鳥耳原」と名付けられたと記されています。
仁徳天皇陵は、宮内庁によって管理されているため、立ち入ることができず、
仁徳天皇陵は、宮内庁によって管理されているため、立ち入ることができず、
他の天皇陵と同じく山や森を拝むことになります。
百舌鳥八幡宮へ向かいます。
百舌鳥八幡宮の手前に、御廟山古墳があります。
御廟山古墳は、前方後円墳で百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つであり、
御廟山古墳は、前方後円墳で百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つであり、
その中で4番目の大きさです。
墳丘長203m、後円部直径113m、前方部幅136mで、宮内庁によると
墳丘長203m、後円部直径113m、前方部幅136mで、宮内庁によると
被葬候補者として、第15代・応神天皇の陵墓参考地に治定されています。
応神天皇は、父を仲哀天皇、母を神功皇后とし、諱(いみな)を
応神天皇は、父を仲哀天皇、母を神功皇后とし、諱(いみな)を
誉田別尊(ほむたわけのみこと)と称し、八幡神とされています。
御廟山古墳から府道197号線に戻り、南東方向に進んだ先に
百舌鳥八幡宮があります。
府道から少し左に入った所に鳥居が建ち、参道が続いています。
府道から少し左に入った所に鳥居が建ち、参道が続いています。
鳥居の左側に空き地があり、狛犬が見られます。
参道を進むと、左側に放生池があります。
放生池に架かる石橋を渡った右側に弁天社があります。
放生池の中には、水天宮社があります。
また、「結び」と名付けられた二対の石柱が建っています。
放生池の先に石段があり、その右側に確か稲荷社がありましたが、
画像を取り忘れました。
石段を上った右側に、樹齢700~800年の楠木が葉を茂らせていて、
大阪府の天然記念物に指定されています。
幹回り・約5.2m、樹高・約25mあります。
幹回り・約5.2m、樹高・約25mあります。
左側には絵馬殿があります。
正面に拝殿があり、文政13年(1830)に建立されました。
本殿は、拝殿の奥ではなく左側にあり、享保11年(1726)に建立され、
拝殿とともに昭和46年(1971)に修復が行われています。
祭神は、応神天皇で神功皇后と仲哀天皇が配祀されています。
祭神は、応神天皇で神功皇后と仲哀天皇が配祀されています。
欽明天皇(532-571)の時代に、神功皇后が三韓征討からの帰路、
この百舌鳥の地に立ち寄られました。
八幡大神の宣託をうけて、この地を万代(もず)と称し、
八幡大神の宣託をうけて、この地を万代(もず)と称し、
ここに神社を創建して祀られたと伝わります。
その後社運次第に隆昌に赴き、朝野の崇敬愈々厚く、王朝時代には
その後社運次第に隆昌に赴き、朝野の崇敬愈々厚く、王朝時代には
社僧四十八ケ寺、社家三百六十人、神領寺領八百町歩を擁しました。
古い記録としては、現在滋賀県長浜町に室町時代の応安6年(1373)在銘の
古い記録としては、現在滋賀県長浜町に室町時代の応安6年(1373)在銘の
古梵鐘があり、これはもと本社の什物でした。
その銘文中に「近衛天皇の仁平年間(1151~1153)に本社の梵鐘が鋳造された」
その銘文中に「近衛天皇の仁平年間(1151~1153)に本社の梵鐘が鋳造された」
旨記されています。
又、山城石清水八幡宮所蔵の古文書には、後白河天皇の保元3年(1158)に、
又、山城石清水八幡宮所蔵の古文書には、後白河天皇の保元3年(1158)に、
当社が石清水八幡宮の別宮となっていました。
境内の奥の方に、行基により開基されたと伝わる万代寺があります。
かっては八幡宮の境内にあり、八幡宮の奥の院とも呼ばれていました。
今回訪れたかったのですが、時間がなくなってしまいました。
境内の奥の方に、行基により開基されたと伝わる万代寺があります。
かっては八幡宮の境内にあり、八幡宮の奥の院とも呼ばれていました。
今回訪れたかったのですが、時間がなくなってしまいました。
葛井寺(ふじいでら)へ向かいます。
続く
続く