大蓮寺から二条通に戻り、二条通を東に向かい、岡崎通の信号で左折して北上し、
次の信号を右折して東に進み、一筋目の路地を右折した先、
左側に満願寺があります。
山門は江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて
山門は江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
山門には、山号「示現山(じげんざん)」の扁額が掲げられています。
山門の左側に建つ石標
山門を入った左側に文子(あやこ)天満宮があり、
拝殿及び本殿は京都市の文化財に指定されています。
平安時代の天慶3年(940)、菅原道真の乳母だった多治比文子(たじひのあやこ)は、西の京に道真を追悼する堂宇を建立しました。
北野朝日寺の僧・最珍を開基とし、道真の自作と伝わる天満自在天像を
平安時代の天慶3年(940)、菅原道真の乳母だった多治比文子(たじひのあやこ)は、西の京に道真を追悼する堂宇を建立しました。
北野朝日寺の僧・最珍を開基とし、道真の自作と伝わる天満自在天像を
安置する真言宗の寺院が満願寺の始まりとされています。
道真の霊が示現して願いが成就したことから、
道真の霊が示現して願いが成就したことから、
山号を「示現山」と称したと伝わります。
本殿に掲げられている扁額
文子天満宮の左側に建つ石塔
文子天満宮の右側に小さな祠がありますが、詳細は不明です。
祠の前にとぐろを巻く蛇の石像、覆屋にも蛇の彫刻が施されています。
本堂は、江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて造営され、
京都市の文化財に指定されています。
満願寺は、元禄10年(1697)に住持の宗遍(そうへん)僧正が、
満願寺は、元禄10年(1697)に住持の宗遍(そうへん)僧正が、
妙伝寺の遠沾院日享(おんでんいんにっこう)上人に帰依して日蓮宗に改宗し、
元禄14年(元禄15年とも...)に現在の地に移りました。
元禄13年には東山天皇の勅願寺となっています。
本堂には、本尊である釈迦如来像及び多宝如来像が安置されています。
また、妙見菩薩像は当初、法勝寺塔頭の本光寺に安置されていたのですが、
元禄13年には東山天皇の勅願寺となっています。
本堂には、本尊である釈迦如来像及び多宝如来像が安置されています。
また、妙見菩薩像は当初、法勝寺塔頭の本光寺に安置されていたのですが、
安永3年(1774)に本光寺が焼失したために、満願寺に遷されました。
洛陽十二支妙見の5番の札所で、京都御所から辰(東南東)の方角に当たります。
洛陽十二支妙見の5番の札所で、京都御所から辰(東南東)の方角に当たります。
本堂の右前に見える石碑は、日蓮上人が一万部の法華経読誦の大誓願成就を
記念する「妙経万部之塔」です。
本堂の軒下にはかごが吊るされています。
本堂の屋根にはうさぎが...
本堂を左側に進んだ所には「経塔」と刻まれた石碑が建っています。
本堂の右側、庫裡への参道脇に手水舎があり、現在地に移転した直後に
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
法勝寺執行の地位にありました。
安元3年(1177)、平家の横暴に抗し、自らの鹿ケ谷の山荘で
安元3年(1177)、平家の横暴に抗し、自らの鹿ケ谷の山荘で
その後、俊寛は死を決意して、食を断ち自害したと伝わります。
「俊寛僧都故居碑」の向かいには鐘楼があり、元禄16年(1703)に
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
鐘楼の右側に「閼伽井天」が祀られ、その脇に法勝寺で使われていたと
伝わる井戸が残されています。
この井戸は、俊寛の荒行井戸とも呼ばれていました。
庫裡の左側に祖師堂があり、本妙寺分身の日蓮像が安置されています。
祖師堂前の参道脇に映画監督「溝口健二之碑」が建立されています。
当時の大映社長の永田雅一氏が満願寺を菩提寺としていた縁から、
当時の大映社長の永田雅一氏が満願寺を菩提寺としていた縁から、
境内に建てられたそうです。
溝口健二は、昭和9年(1934)、永田雅一が設立した第一映画社に参加し、
溝口健二は、昭和9年(1934)、永田雅一が設立した第一映画社に参加し、
その後の変遷を経て、昭和30年(1955)に当時、永田雅一が社長だった
大映の取締役に就任、重役監督となりました。
同年11月3日には映画監督として初の紫綬褒章を受章しましたが、
同年11月3日には映画監督として初の紫綬褒章を受章しましたが、
翌年、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し亡くなりました。
「溝口健二之碑」の横に「大阪物語」の碑が建てられています。
洛陽三十三所観音霊場・第六番及び法然上人二十五霊跡・第二十四番札所の
金戒光明寺へ向かいます。
続く
続く