義士墓所や宝物館の拝観は有料です。
受付で400円を納め中に入ると、左側に赤穂雲火焼(あこううんかやき)の
受付で400円を納め中に入ると、左側に赤穂雲火焼(あこううんかやき)の
作品が展示されています。
赤穂雲火焼とは、江戸時代後期から明治時代初期にかけて、赤穂の地において
赤穂雲火焼とは、江戸時代後期から明治時代初期にかけて、赤穂の地において
大嶋黄谷(おおしまこうこく)が生み出した独特の焼き物のことです。
無釉でありながら、炎と煙によって窯の中で描かれたその色彩と文様は、
無釉でありながら、炎と煙によって窯の中で描かれたその色彩と文様は、
燃える夕焼空を連想させ、精巧な技術で磨かれた陶膚は、鈍い光沢を呈し、
当時の人々に賞賛を得ていました。
しかし、その陶法を伝える人もなく、文献もなく、
しかし、その陶法を伝える人もなく、文献もなく、
幻の雲火焼と称せられてきました。
昭和62年(1987)に赤穂瀬戸内窯(あこうせとうちがま)で試行錯誤を重ねられ、
昭和62年(1987)に赤穂瀬戸内窯(あこうせとうちがま)で試行錯誤を重ねられ、
ようやく復活に成功しました。
平成5年(1993)には、兵庫県伝統的工芸品に指定されました。
平成5年(1993)には、兵庫県伝統的工芸品に指定されました。
正面には浅野家霊廟があります。
霊廟の手前に忠義塚が建立されています。
赤穂浪士50回忌にあたる宝暦2年(1752)に建立され、大石良金(主税)と
赤穂浪士50回忌にあたる宝暦2年(1752)に建立され、大石良金(主税)と
関わった藤江熊陽(ふじえゆうよう)の撰による碑文が刻まれています。
忠義塚の奥に義士の墓所があります。
赤穂浪士37回忌にあたる元文4年(1739)に有志により、
赤穂浪士37回忌にあたる元文4年(1739)に有志により、
遺髪を納め義士の墓が建立されました。
墓所から戻り、赤穂雲火焼が展示してある奥のほうへ進むと義士宝物館があります。
義士宝物館には、浅野家や義士関連の資料が数多く展示されていますが、
義士宝物館には、浅野家や義士関連の資料が数多く展示されていますが、
撮影は禁止されています。
義士宝物館を出て北へ進むと義士木像堂があり、250余年前に造られた
四十七義士の木像及び札所本尊である大石家代々の持仏・千手観世音菩薩像が
安置されています。
こちらの堂内も撮影禁止になっています。
義士木像堂を出て東に進むと、中国より渡来の石仏が安置されています。
舟御光観音で、背面に魏の景明2年(501)と刻まれているそうですが、
舟御光観音で、背面に魏の景明2年(501)と刻まれているそうですが、
とても1500年前の石仏とは思えないほど原型を留めています。
境内に置かれている宝珠は元、森家霊廟の屋根に載せれていたものだそうですが、
説明文の文字が劣化してよく読めず詳細は不明です。
浅野家霊廟の奥に大石家先祖墓があります。
大石家は、大坂・夏の陣、天王寺・岡山の戦いで大石良勝が活躍したことから、
大石家は、大坂・夏の陣、天王寺・岡山の戦いで大石良勝が活躍したことから、
浅野家の永代家老家となりました。
大石家先祖墓から右に進み、北の奥に浅野長重の墓があります。
長重の母の姉が豊臣秀吉の正室・ねねであり、浅野氏は優遇されました。
慶長4年(1599)には徳川家康の命令で江戸へ移り、翌年1月から家康の三男
長重の母の姉が豊臣秀吉の正室・ねねであり、浅野氏は優遇されました。
慶長4年(1599)には徳川家康の命令で江戸へ移り、翌年1月から家康の三男
秀忠の小姓(こしょう)として仕えるようになりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは、東軍として参戦し、慶長7年(1602)には
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは、東軍として参戦し、慶長7年(1602)には
家康の養女となっていた松平家清の娘と結婚。
慶長16年(1611)に父・長政の死去に伴い、常陸真壁(現在の茨城県)5万石を
慶長16年(1611)に父・長政の死去に伴い、常陸真壁(現在の茨城県)5万石を
相続しました。
元和8年(1622)、真壁を含む5万3500石とされて笠間藩主となりました。
寛永9年(1632)に死去。享年45。
元和8年(1622)、真壁を含む5万3500石とされて笠間藩主となりました。
寛永9年(1632)に死去。享年45。
享年63。
長直の墓の手前に長友の墓があります。
長友は、延宝3年(1675)、33歳で亡くなり、長男の長矩(ながのり)が9歳で
長友は、延宝3年(1675)、33歳で亡くなり、長男の長矩(ながのり)が9歳で
後を継ぎました。
浅野家の墓所の右側には「松月園」と名付けられた庭園があります。
鍵はかけられてはいませんでしたが、扉は閉じられていましたので、
鍵はかけられてはいませんでしたが、扉は閉じられていましたので、
一般には開放されていないように思えます。
大石家先祖墓の左側に森家の墓所があります。
森家は、浅野家が改易となった後、永井家に継いで宝永3年(1706)に
森家は、浅野家が改易となった後、永井家に継いで宝永3年(1706)に
赤穂藩主となり、花岳寺を菩提寺と定めました。
墓所から出た右側に座禅堂があります。
神仏霊場巡拝の道76番(兵庫11番)の大石神社へ向かいます。
続く
続く