向日神社から西国街道を北へ進んだ右側に「冨永屋」があります。
江戸時代の元和2年(1616)には、宿屋として開業していて、
江戸時代の元和2年(1616)には、宿屋として開業していて、
全国を測量した伊能忠敬も宿泊したことが記録に残っています。
冨永屋から更に北に進んだ西国街道と愛宕道の分岐点に須田家住宅があります。
屋号を「松葉屋」といい、明治30年代まで醤油の製造販売を営んでいました。
元和2年(1616)に作成された古文書にも記載されていて、
屋号を「松葉屋」といい、明治30年代まで醤油の製造販売を営んでいました。
元和2年(1616)に作成された古文書にも記載されていて、
京都府の有形文化財に指定されています。
向日市文化資料館へ向かいます。
向日市文化資料館の前には、元稲荷古墳の発掘調査で出土した石室の天井石が
展示されています。
館内には、長岡宮大極殿・朝堂院の復元模型や、遺跡からの出土品が
展示されています。
しかし、特に目を引かれたのが、如意輪観世音菩薩半跏像の大きな写真でした。
昭和39年に廃寺となった宝菩提院願徳寺に安置されていた、
向日市唯一の国宝でしたが、寺とともに京都市西京区大原野へ
移転しました。
館内には、歴史ウォークのパンフレットが数種類置かれていて、
向日市を巡る強力なツールになりました。
向日市文化資料館から緩い坂道を上っていくと、はり湖池があります。
池を廻り込む様に進むと案内板があります。
はり湖池と大池との間から山の上へと道が続きます。
山の頂上に五塚原古墳があり、といっても何も無い平坦な土地だけです。
ただ、二等三角点がありました。
五塚原古墳は、古墳時代前期(4世紀)の全長約91.5mの前方後円墳です。
本格的な調査は実施されていないようですが、1977年に
本格的な調査は実施されていないようですが、1977年に
京都大学考古学研究室が測量調査を行いました。
後円部は直径54m・高さ8.5mの3段築成で、前方部は幅36m・高さ4mの
後円部は直径54m・高さ8.5mの3段築成で、前方部は幅36m・高さ4mの
2段築成で、ほぼ盛土からなっています。
くびれ部の幅は18mで、墳丘斜面には、こぶし大から人の頭大の河原石を
くびれ部の幅は18mで、墳丘斜面には、こぶし大から人の頭大の河原石を
使用した葺石が施されているそうですが、確認はできませんでした。
頂上部から少し下った所にも平坦な部分があります。
帝塚山大学の電気探査により後円部墳頂中央および前方部墳頂中央に墓あなの
帝塚山大学の電気探査により後円部墳頂中央および前方部墳頂中央に墓あなの
存在が認められました。
前者は東西15m・南北11mで主軸に直交し、後者は東西5m・南北7mで
前者は東西15m・南北11mで主軸に直交し、後者は東西5m・南北7mで
主軸に平行しています。
墳丘の裾部では埴輪の破片が見つかっています。
五塚原古墳は、後円部の北西裾の一部が宅地造成によって削平されていますが、
墳丘の裾部では埴輪の破片が見つかっています。
五塚原古墳は、後円部の北西裾の一部が宅地造成によって削平されていますが、
全体的には遺存状態の良い古墳と言えます。
しかし、地上からは低い山としか見えず、地図上でも前方後円墳の形は
しかし、地上からは低い山としか見えず、地図上でも前方後円墳の形は
確認できません。
上ってきた反対側に下山すると芝山公園に出ます。
ここに、古墳の案内板があり、平面図が描かれていました。
公園を右折して、府道上久世・石見・上里線(大原野道)に出ます。
この道は、江戸~明治期には宝菩提院までの道でした。
明治時代の末頃から道幅を拡げ、宝菩提院の西側へも道を続ける工事が行われ、
この道は、江戸~明治期には宝菩提院までの道でした。
明治時代の末頃から道幅を拡げ、宝菩提院の西側へも道を続ける工事が行われ、
昭和初期になって、大原野と結ばれるようになりました。
この街道を右折して、坂道を下ると慶昌院があります。
ここに安置されているのが、いやし地蔵尊です。
ここに安置されているのが、いやし地蔵尊です。
慶昌院は、安土桃山時代の天正年間(1573~1592)の創建され、
当初は「泰平山慶昌庵」と称されていました。
江戸時代の天保6年(1835)に、曹洞宗の僧・希運曇開(きうんどんかい)
江戸時代の天保6年(1835)に、曹洞宗の僧・希運曇開(きうんどんかい)
によって再興され、山号を慈廣山と改めました。
慶昌院に残されている「絹本着色・曇開和尚像」は、
慶昌院に残されている「絹本着色・曇開和尚像」は、
向日市指定文化財になっています。
本堂
本尊の田植え地蔵尊には伝承があります。
「長谷川半兵衛という人が、眼病を患ったので、その治癒を寺に祈願しました。
その後、安土桃山時代の文禄3年(1594)には、都一帯に疫病が流行し、
「長谷川半兵衛という人が、眼病を患ったので、その治癒を寺に祈願しました。
その後、安土桃山時代の文禄3年(1594)には、都一帯に疫病が流行し、
近郊の人々が病気平癒を祈願しました。
病気で田植えができなかったその田には、早苗が植えられていました。
半兵衛は、地蔵尊の手足が泥で汚れていたことに気付き、
病気で田植えができなかったその田には、早苗が植えられていました。
半兵衛は、地蔵尊の手足が泥で汚れていたことに気付き、
地蔵尊が代わりに田植えを行ったことが知られるようになりました。
以来地蔵尊は田植え地蔵尊と呼ばれるようになりました。」
以来地蔵尊は田植え地蔵尊と呼ばれるようになりました。」
かなえ地蔵尊はドラえもんやピカチュウの石像が安置されています。
南無地蔵菩薩
境内の内外にいろいろな地蔵尊が安置されています。
宝菩提院跡に向かいます。
慶昌院から少し下った、例慶(れつけい)公園に、
宝菩提院跡の案内板が建っています。
宝菩提院は、飛鳥時代の670~680年頃に、女帝であった
第41代・持統天皇の夢告により薬師如来を本尊として創建されました。
薬師如来は、乙訓社の神木によって造仏されたと伝わります。
当地付近に本拠地を置いた豪族が、五重塔や金堂などの荘厳な
薬師如来は、乙訓社の神木によって造仏されたと伝わります。
当地付近に本拠地を置いた豪族が、五重塔や金堂などの荘厳な
仏教建築を造営しました。
先の五塚原古墳や元稲荷古墳など、古来この地の豪族が偲ばれます。
約100年後、長岡京の時代に入ると、国家が管理する大寺院に整備され、
先の五塚原古墳や元稲荷古墳など、古来この地の豪族が偲ばれます。
約100年後、長岡京の時代に入ると、国家が管理する大寺院に整備され、
境内は南北800m、東西1300mに及びました。
平安時代、徳のある願いによって建てられた寺ということから、
平安時代、徳のある願いによって建てられた寺ということから、
寺号は「願徳寺」と称されました。
本尊であった薬師如来は、平安時代の貞観6年(864)に広隆寺に遷されました。
本尊であった薬師如来は、平安時代の貞観6年(864)に広隆寺に遷されました。
鎌倉時代には、天台宗の僧であった忠快が、それまで京都市東山区で住していた
小川殿の宝菩提院とともに、この地に移り、願徳寺を中興しました。
以降、天台密教の道場として発展しました。
以降、天台密教の道場として発展しました。
鎌倉時代末期~南北朝時代、澄豪によって中興され、平敦盛の小川殿にあった
宝菩提院の本尊・地蔵菩薩を遷し、院号を「宝菩提院願徳寺」としました。
その後、応仁の乱、信長の元亀2年(1571)の兵火によって諸堂が焼失しましたが、
江戸時代になって徳川家康の加護により再興されました。
しかし、昭和39年に廃寺となりました。
例慶公園の向かいには、向日神社の御旅所があります。
江戸時代から、向日神社の神輿を寺戸地区の宮座の長老が
並んで出迎えたことから、「列見」と呼ばれ、
なぜか「例慶」の字が宛てられるようになりました。
祠の横には、大黒天と恵比寿様の像が置かれていました。
五辻まで戻り、善峰道から角宮神社へ向かいます。
続く