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即成院(そくじょういん)

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京阪東福寺駅から東大路通に出て泉涌寺道を上って行くと、
泉涌寺の総門の手前に即成院があります。
即成院は平安時代の正暦3年(992)恵心僧都源信によって建立された
光明院が始まりと伝わります。
橘俊綱は関白・太政大臣を務めた藤原頼通の次男として生まれたのですが、
讃岐守・橘俊遠の養子となりました。
藤原頼通は摂政・太政大臣・藤原道長の長男で、永承7年3月28日(1052)には
道長の別荘であった宇治殿を平等院鳳凰堂に改修しました。

光明院はその後、寛治年間(1087~1094)に橘俊綱
(たちばな の としつな)が営んだ伏見山荘に移されました。
伏見山荘は、巨椋池(おぐらいけ)を一望にする景勝地・指月の丘
(現在の桃山丘陵の南麓)に、俊綱自ら造園を行い
「風流勝他、水石幽奇也」と賞賛されていました。
伏見山荘に移された光明院は伏見寺とも即成就院(そくじょうじゅいん)
とも呼ばれ、屋根には平等院鳳凰堂の鳳凰に向き合う様に
鳳凰が飾られていました。
山門の鳳凰がその名残となっています。

堂内には阿弥陀如来が諸菩薩を引き連れて亡者を西方極楽浄土へ迎え入れる様を
表した、阿弥陀如来及び二十五菩薩像が
安置されていました。

平安時代後期には後白河天皇の第六皇女である宣陽門院(せんようもんいん)に
よって中興され、宣陽門院の墓が残されていたと伝わります。

鎌倉時代、那須与一は光明院に参詣し、武運を祈願したとの記録があり、
現在も即成院の本堂裏側には那須与一の墓とされる
石造りの宝塔が残されています。
史実として那須庄は宣陽門院領であったことが残され、
那須与一との結び付きが推定されます。

安土・桃山時代になると豊臣秀吉の伏見城築造のため、即成就院は
文禄3年(1594)に現在の伏見区深草大亀谷に強制的に
移転させられました。

明治初年、廃仏毀釈の影響を受け、明治5年(1872)に即成院は廃寺となり、
仏像は泉涌寺に遷されました。
明治20年(1887)に泉涌寺大門付近に仮堂が建設されてようやく復興し、
明治32年(1899)には泉涌寺塔頭の法安寺に吸収合併されました。
明治35年(1902)、大門付近から総門前の現在地に移され、
昭和16年(1941)になって寺号が法安寺から即成就院が短縮されて
「即成院」へ改称されました。
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現在の本堂には阿弥陀如来及び二十五菩薩像が安置され、
国の重要文化財に指定されています。
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阿弥陀如来の左右には亡者を乗せるための蓮台を捧げ持つ観音菩薩像と
合掌する勢至菩薩像が安置されています。
周りを取り巻く23体の菩薩像の多くは楽器を演奏する姿で表されています。
26躯のうち、阿弥陀如来像と観音菩薩像を含む11体のみが平安時代の作ですが、
大亀谷に移ってから戦禍により、残りの15躯は江戸時代に造立されました。
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「祈願の塔」は地球をイメージして造られ、ヤマノビュティーグループから
奉納されました。
美肌を祈願して直接球体に触れることができます。
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「祈願碑」は現代アートのデザイナー・杉本博司氏の作品で、
世界の恒久的な平和と繁栄が祈願されています。
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与一の手洗い場
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境内の画像ですが、詳細は不明です。
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泉涌寺道を進み、大門前を通り過ぎた左側に「解脱金剛宝塔」が建立されています。
解脱金剛宝塔には、岡野聖憲の遺骨が祀られています。
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解脱会は東京に本部を置く新宗教団体で、昭和4年(1929)に
岡野聖憲(おかのせいけん)によって創設され、
泉涌寺道には解脱会の関西道場があります。

岡野英蔵は昭和6年(1931)に醍醐寺三宝院にて出家得度し、
聖憲の法名を授かりました。
昭和23年(1948)に醍醐寺三宝院から諡号(しごう)「解脱金剛」と
権大僧正位が贈られ、昭和29年(1954)には大僧正位が追贈されました。

また、敗戦により維持・運営に困難をきたしていた泉涌寺に対して援助を行い、
昭和14年(1939)に泉涌寺と結縁を成しています。
解脱会は伊勢神宮、橿原神宮と並び泉涌寺を三聖地と定め、醍醐寺を加えて
集団参拝を行っています。
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解脱金剛宝塔から南へと進んだ西側に賀陽宮・久邇宮の墓地があります。
賀陽宮(かやのみや)は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子・邦憲王が、
父宮がかつて称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家です。
賀陽宮の宮号は、朝彦親王の宮邸の榧(かや)の老木に由来するとされています。
初代の邦憲王(くにのりおう)に続き、恒憲王(つねのりおう)が
継承しましたが、第二次大戦後は敗戦の責任を取って、皇籍を離脱しました。

久邇宮(くにのみや)は、明治時代前期に伏見宮邦家親王の第4王子・
朝彦親王が創立した宮家です。
朝彦親王は親王宣下の後、出家して京都青蓮院門跡となり、天台座主を兼ね
尊融入道親王と称しました。
文久3年(1863)に還俗して中川宮の宮号を賜り、名を朝彦と改め、
元治元年(1864)に宮号を賀陽宮と改めました。
明治維新後は、反政府陰謀の疑いで逮捕され、親王の身分を剥奪されて
安芸広島藩に預けられました。
明治3年(1870)に伏見宮に復帰し、明治8年(1875)に久邇宮の宮号を賜りました。
宮号の由来は、恭仁京にちなんだと云われています。

2代・邦彦王(くによしおう)の王子女・朝融王(あさあきらおう)は久邇宮を
継承しましたが、敗戦後にGHQの指令により皇籍を離脱しました。
また、良子女王は昭和天皇と結ばれ、
香淳皇后(こうじゅんこうごう)となりました。
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賀陽宮・久邇宮の墓地の向かい側(東側)には梨本宮守脩親王
(なしもとのみや もりおさしんのう)、桂宮淑子内親王
(かつらのみや すみこないしんのう)、久邇宮朝彦親王の墓があります。

梨本宮守脩親王は伏見宮貞敬親王(ふしみのみや さだゆきしんのう)の
第10王子で、天保4年(1833)に出家しました。
安政6年(1859)には円融院(三千院の旧称)に入り、天台座主にも就任しました。
明治維新後に還俗(げんぞく)し、梶井宮守脩親王を名乗りました。

桂宮淑子内親王は第120代・仁孝天皇(にんこうてんのう)の第三皇女として、
文政12年1月19日(1829年2月22日)に誕生しました。
天保11年(1840)1月28日に閑院宮愛仁親王(かんいんのみや なるひとしんのう)
と婚約し、天保13年(1842)9月15日には結婚を前に内親王宣下を被りましたが、
その2日後に愛仁親王が薨去(こうきょ)されました。
文久2年(1863)12月23日に異母弟・節仁親王(みさひとしんのう)が薨去すると、不在となった桂宮を第12代として継承しました。
これは女宮が当主として世襲親王家を継承した唯一の例となります。
淑子内親王は明治14年(1881)に53歳で薨去され、久邇宮朝彦親王は
不在となった桂宮家を、三男の久邇宮邦彦王に継がせようと政府要人に
働きかけたのですが失敗し、桂宮家は断絶しました。
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雲龍院への参道に戻り、少し進んだ左側に泉涌寺の経堂があります。
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境内には五輪塔が建立されていますが詳細は不明です。
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経堂の東側には鐘楼があります。
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雲龍院への参道に戻った右側に山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)
の墓があります。
晃親王は伏見宮邦家親王の第一王子で、邦家親王は第125代・
今上天皇の高祖父に当たります。
また、敗戦後の昭和22年(1947)に皇籍離脱した
旧皇族11宮家全ての源流となります。
晃親王は文化14年(1817)には山科の門跡寺院・勧修寺を相続し、
文政7年(1824)には出家して済範(さいはん)入道親王と称し、
勧修寺に入りました。
しかし、天保12年(1841)10月8日、二歳年下の叔母・
幾佐宮(きさのみや)隆子女王と共に出奔するという不祥事を起こし、
勧修寺門跡の地位が停止され、伏見宮より除籍されました。
元治元年(1864)に伏見宮に復され、勅許をもって復飾し改めて親王宣下と
共に、山階宮の宮号を賜りました。

西国薬師霊場の第40番札所である泉涌寺塔頭の雲龍院へ向かいます。
続く

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