大谷祖廟から更に東へ進んだ所に長楽寺があります。
円山公園の南横を通り過ぎた所ですが、ここまで訪ねてくる人は少なく、
円山公園の南横を通り過ぎた所ですが、ここまで訪ねてくる人は少なく、
時は自分の歩みと共に流れていくようです。
灯篭が建ち並ぶ参道を進みます。
庫裡の先に客殿があります。
庭園は相阿弥の作と伝わります。
相阿弥は祖父・父に引き続いて足利将軍家に同朋衆として仕え、8代将軍・
相阿弥は祖父・父に引き続いて足利将軍家に同朋衆として仕え、8代将軍・
義政の命により、慈照寺(銀閣寺)庭園の試作として造園されたと伝わります。
池の奥に滝が組まれているのですが、水はほとんど流れておらず、
「八功徳水」と呼ばれる名水のはずが、薄氷が張ったように
どんよりと曇ったように見えます。
客殿を出て石段を上った所に本堂があります。
現在の本堂は明治19年(1886)に焼失したため、西賀茂にある正伝寺の
現在の本堂は明治19年(1886)に焼失したため、西賀茂にある正伝寺の
仏殿が移築されたもので、京都市の有形文化財に指定されています。
正伝寺の仏殿は、江戸時代の寛文6年(1666)に造営され、
正伝寺の仏殿は、江戸時代の寛文6年(1666)に造営され、
明治23年(1890)に長楽寺に移築されました。
本尊は准胝観音(じゅんていかんのん)で、最澄の作と伝わります。
最澄が入唐の際に暴風で船が難破しかけ、最澄が船中で除難を祈願したところ、
最澄が入唐の際に暴風で船が難破しかけ、最澄が船中で除難を祈願したところ、
頭に准胝観音を載せた二頭の龍神が示現し、風波を治めたと伝わります。
延歴24年(805)に唐より帰国した最澄は、同年、桓武天皇の勅命により長楽寺を
延歴24年(805)に唐より帰国した最澄は、同年、桓武天皇の勅命により長楽寺を
創建し、最澄が示現した准胝観音を自ら刻み、本尊としました。
唐の長楽寺が建つ風景と似ていたことから、長楽寺の寺名となったと伝わります。
弘仁14年(823)に延暦寺が建立されると、その別院となり、
唐の長楽寺が建つ風景と似ていたことから、長楽寺の寺名となったと伝わります。
弘仁14年(823)に延暦寺が建立されると、その別院となり、
当初は天台宗の寺院でした。
鎌倉時代の建久5年(1194)に延暦寺で天台教学を学んでいた隆寛律師は
比叡山から下って長楽寺に住し、長楽寺を浄土宗に改めました。
南北朝時代の元中2年/至徳2年(1385)、当時の住職だった栄尊は
寺を国阿上人に譲ってその弟子となりました。
長楽寺は時宗に改宗され、時宗霊山派になりました。
長楽寺は時宗に改宗され、時宗霊山派になりました。
室町時代になると応仁・文明の乱(1467~1477)で長楽寺は焼失しました。
その後再建され、豊臣秀吉からは寺地の寄進も受けますが、江戸時代の
その後再建され、豊臣秀吉からは寺地の寄進も受けますが、江戸時代の
寛文10年(1670)に大谷祖廟の造営の際に、幕命により境内が割譲されました。
文化年中(1804~1818)に再び浄土宗に改宗され、明治時代になると
文化年中(1804~1818)に再び浄土宗に改宗され、明治時代になると
境内の大半が円山公園に編入されました。
明治3年(1870)に再び時宗に改宗され、七条道場金光寺の末寺となりましたが、
明治3年(1870)に再び時宗に改宗され、七条道場金光寺の末寺となりましたが、
金光寺の衰退により、長楽寺に合併され、
山号を東山から黄台山へと改められました。
本堂の右側に鐘楼があります。
記録では明和5年(1768)に楽阿によって鐘楼が建立され、
記録では明和5年(1768)に楽阿によって鐘楼が建立され、
前住職・与阿の遺志により梵鐘が鋳造されたとあります。
本堂の右奥に建礼門院の御塔が建立されています。
文治元年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に海に飛び込んだ
文治元年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に海に飛び込んだ
平徳子は、ただ一人源氏軍の武将・渡辺昵(わたなべむつる) に救助されました。
平徳子は京都へ護送され、侍女の阿波内侍と共に長楽寺で出家し、
平徳子は京都へ護送され、侍女の阿波内侍と共に長楽寺で出家し、
「直如覚」と名乗りました。
平家物語には、以下のように記されています。
「かくて女院は文治元年五月一日 御ぐしおろさせた給ひけり。
平家物語には、以下のように記されています。
「かくて女院は文治元年五月一日 御ぐしおろさせた給ひけり。
御戒の師には長楽寺の阿証房の上人印誓とぞきこえし。
御布施には、先帝の御直衣なり。」
この十三重石塔は建礼門院の御髪塔と伝わります。
かっては、背後の山腹にある八丁台の景勝地に建っていましたが、
この十三重石塔は建礼門院の御髪塔と伝わります。
かっては、背後の山腹にある八丁台の景勝地に建っていましたが、
明治初年この地が国有地になった為、現在地に移されました。
背後の長楽寺山もかっては長楽寺の境内でしたが、明治の上地令で
背後の長楽寺山もかっては長楽寺の境内でしたが、明治の上地令で
境内地8400坪の内、5400坪が失われました。
十三重石塔の奥の方に平安の滝があります。
落飾した建礼門院や法然上人の高弟・隆寛律師等も
落飾した建礼門院や法然上人の高弟・隆寛律師等も
この滝で修行されたと伝わります。
滝から奥へと進んで行くと収蔵庫があります。
収蔵庫は平成20年(2008)5月に火災によりほぼ全焼しましたが、
収蔵庫は平成20年(2008)5月に火災によりほぼ全焼しましたが、
全ての文化財は住職らによって運び出され、難を逃れました。
現在の収蔵庫は翌年9月に再建されました。
収蔵庫に安置されている時宗祖師像7躯は、七条道場金光寺から
現在の収蔵庫は翌年9月に再建されました。
収蔵庫に安置されている時宗祖師像7躯は、七条道場金光寺から
遷されたもので、国の重要文化財に指定されています。
金光寺は正安3年(1301)に仏師・運慶の三男・康弁が自らの宅地を
金光寺は正安3年(1301)に仏師・運慶の三男・康弁が自らの宅地を
真教上人に寄進した事に始まると伝わります。
金光寺に残されていた代々の祖師像は、いずれも七条仏所の仏師によって
金光寺に残されていた代々の祖師像は、いずれも七条仏所の仏師によって
制作されました。
収蔵庫の前に正保3年(1646)に七条仏所の仏師・法眼康音から奉納された
金光寺の石灯籠が建っています。
収蔵庫から更に山手へ登り、外史橋があります。
橋の手前を右へ登って行くと「尊攘苑」と名付けられた水戸藩氏の
橋の手前を右へ登って行くと「尊攘苑」と名付けられた水戸藩氏の
墓地がありますが、時間の都合で割愛しました。
渡った先に頼山陽の墓所があります。
頼山陽は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人で、
頼山陽は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人で、
安永9年12月27日(1781年1月21日)に大坂で生まれました。
主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えました。
文化8年(1811)から京都、洛中に居を構え、
主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えました。
文化8年(1811)から京都、洛中に居を構え、
天保3年(1832)に53歳で亡くなりました。
円山公園へ向かいます。
続く
続く