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四天王寺

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10:27に快速・みえ鳥羽行で津駅に到着しました。
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端は伊勢鉄道のホームになっています。
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駅から南へ20分弱歩いた所に四天王寺があり、山号を塔世山と号する
曹洞宗の寺院で、西国四十九薬師霊場・第34番札所となっています。
山門の北側に鐘楼門があります。
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鐘楼門へと入った所に松尾芭蕉の文塚があります。
文塚は句碑に先行する芭蕉の追善碑です。
元文2年(1737)に津の俳人・菊池二日坊が建てたもので、
塚の形態をとった県下で一番古いものです。
また、全国的にも文塚は希少であり、この文塚は全国で18番目に古いものです。
碑の裏側には芭蕉の略歴と由来が記されています。
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文塚の左側には菊池二日坊の杖塚が建立されています。
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門の手前には石仏が祀られています。
鐘楼門は閉じられていますので山門の方へ向かいます。
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山門は江戸時代の寛永18年(1646)に再建されたもので、
津市の文化財に指定されています。
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門をくぐった右側に稲荷社があります。
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稲荷社の北側には宝篋印塔が建ち、その奥に先ほどの鐘楼門が見えます。
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鐘楼門の梵鐘は総高154cm、外形90cmあり、江戸時代の延宝8年(1680)に
津の鋳物師・辻越後守陳種(つじ えちごのかみ のぶたね)によって
鋳造されました。
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参道へ戻るとその先にも楼門があります。
四天王寺の公式HPでは先の門が寛永18年(1646)に再建された山門と記載され、
参拝で頂いたパンフレットにはこの門が山門と記されています。
どちらが正しいかは未確認です。
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更に参道を進んだ正面にコンクリート造りの本堂があります。
寺伝では四天王寺は第31代・用明天皇の治世(585~587)に聖徳太子によって
創建されたと伝わります。
太子は強硬な廃仏派だった物部守屋(もののべ の もりや)の軍に3度も敗れ、
四天王尊像を刻み勝利を祈願しました。
守屋軍に勝利した太子は、戦前に誓願した四つの四天王寺を建立し、
その内の一つが本寺であるとされています。
一方で近年、境内から奈良時代の古瓦が出土され、建立されたのは7世紀頃の
国分寺説など、諸説あります。
その後、焼失と再建が繰り返され、詳細な歴史も失われたようです。

江戸時代の元和5年(1619)に津藩の初代藩主・藤堂高虎(とうどう たかとら)に
よって再建されています。
藤堂高虎は豊臣秀吉に仕えていたのですが、秀吉の死後は親交のあった
徳川家康に仕えるようになりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川軍として参戦し、戦後は徳川家の
重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げました。
高虎は築城技術に長け、黒田孝高(官兵衛)、加藤清正とともに
名人として知られていました。
高虎はこれらの功により慶長13年(1608)に伊賀国内10万石、並びに
伊勢安濃郡・一志郡内10万石で計22万石に加増移封され、津藩主となりました。
四天王寺は寛永14年(1637)に、高虎の後を継いだ二代藩主・高次から
寺領を寄進され、寺勢を取り戻しました。
寛政9年(1797)刊行の『伊勢参宮名所図会』には、今以上に広大な寺域を有し、
本堂の他にも多くの建物が見られ、境内の北側に南向きに建つ薬師堂は、
本堂に準じる大きさがありました。
しかし、昭和20年(1945)、戦災によりほぼ全ての建物が焼失しました。
この時、津市は数次にわたる空襲によって市街地の約7割が焼失するという
壊滅的な被災を受けました。
薬師堂に安置されていた旧国宝(現行法の重要文化財に相当)の
木造大日如来坐像、木造薬師如来坐像、木造阿弥陀如来坐像、
木造阿閦如来坐像、木造千手観音坐像が失われました。
大日如来像の像高は242.5cm、阿弥陀如来像は23.7cm、阿閦如来像は
238.2cmで、五躯はいずれも平安時代後期の作でした。
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唯一、本尊である平安時代後期作で像高65cmの薬師如来坐像は救出され、
国の重要文化財に指定され、現在は本堂に安置されています。
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本堂の左側には小さな不動堂があり、その前には椿の花が咲いています。
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堂内には不動明王像が祀られています。

墓所には織田信長の母の墓があります。
信長の母は土田御前(どたごぜん/つちだごぜん)と呼ばれ、本能寺の変で
信長と孫の信忠が自害した後は、孫の信雄( のぶかつ)の
庇護のもとにありました。
天正18年(1590)に信雄が豊臣秀吉の怒りを買って改易されてからは織田信包(おだ のぶかね)を頼るようになりました。
信長の弟・織田信包は永禄11年(1568)に安濃津城(津城)の城主となり、
城で暮らしていたと思われます。
文禄3年(1594)正月7日に亡くなり、四天王寺に埋葬されました。

津駅まで戻り、11:31発の快速・みえ5号鳥羽行に乗車して多気駅へ向かい、
駅から町営バスに乗り、西国四十九薬師霊場・第35番札所の神宮寺へ向かいます。
続く

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