雙栗神社の社務所横の鳥居を出て、道路を横断して団地の中を進むと
自動車通行不可の橋が架かっています。
橋を渡った先に満願寺があります。
橋を渡った先に満願寺があります。
満願寺は当初、平安時代の延暦2年(783)に最澄によって開基され成就坊と
称された天台宗の寺院であったとする説と、大同年間(806~9)に
やはり天台宗寺院として開基されたする説があります。
安土桃山時代の永禄12年(1569)に僧・宗意によって中興され、
慶長年間(1596~1611)の頃に浄土宗に改められました。
昭和36年の第二室戸台風で、本堂は柱だけが残されて飛ばされました。
現在の本堂は、その後再建された物です。
昭和36年の第二室戸台風で、本堂は柱だけが残されて飛ばされました。
現在の本堂は、その後再建された物です。
明治時代まで本尊であり、現在は客仏になっている薬師如来坐像は
像高103.3cmで、平安時代後期の作とされ、
久御山町の文化財に指定されています。
満願寺から西林寺へ向かいます。
西林寺は、安土桃山時代の天正11年(1583)に周善上人によって
開基されたと伝わります。
浄土宗の寺院で山号は宝池山です。
明治初年に廃寺となった雙栗神社(さぐりじんじゃ)の神宮寺であった
浄土宗の寺院で山号は宝池山です。
明治初年に廃寺となった雙栗神社(さぐりじんじゃ)の神宮寺であった
薬蓮寺を吸収合併し、阿弥陀如来坐像二軀が遷されました。
明治12年に薬師堂が建立され、薬師如来坐像と共に薬蓮寺から遷された
阿弥陀如来坐像二軀が安置されました。
しかし、昭和36年の第二室戸台風でイチョウの木が倒れ、
しかし、昭和36年の第二室戸台風でイチョウの木が倒れ、
薬師堂はその下敷きになり、仏像と共に壊れました。
昭和48年に薬師堂は再建され、京都国立博物館の配慮があり、
昭和48年に薬師堂は再建され、京都国立博物館の配慮があり、
仏像の復元も行われました。
現在、阿弥陀如来坐像二軀は京都国立博物館の所蔵になっています。
現在、阿弥陀如来坐像二軀は京都国立博物館の所蔵になっています。
鐘楼
梵鐘の二代目は文政元年(1818)に鋳造されたのですが、
梵鐘の二代目は文政元年(1818)に鋳造されたのですが、
戦時供出され、三代目が昭和52年8月に再鋳されました。
西林寺から川沿いの道に出て、団地の横を通り過ぎT字路を右折して、
突き当たりを道なりに右に曲がり、一筋目を左折した先に善林寺があります。
善林寺は、安土桃山時代の天正2年(1574)に西念上人によって
開基されたと伝わります。
浄土真宗の寺院で、享保4年(1719)に西本願寺より宝樹山善林寺の寺号を
浄土真宗の寺院で、享保4年(1719)に西本願寺より宝樹山善林寺の寺号を
賜ったとされています。
山門は昭和51年に再建され、解体された旧山門からは
天明元年(1781)の棟札が発見されました。
文化2年(1805)に本堂が再建され、明治6年に佐古尋常小学校が建設されるまで、
仮校舎として使用されました。
善林寺の直ぐ先に稱名寺(しょうみょうじ)があります。
稱名寺が創建されたのには伝承が残されています。
『諸国行脚を続けていた西誉直往大徳は、ある日京都日野の里(伏見区)で
『諸国行脚を続けていた西誉直往大徳は、ある日京都日野の里(伏見区)で
一宿の志を受けました。
その家の持仏堂には行基菩薩の作と伝える仏像が安置されていて
その家の持仏堂には行基菩薩の作と伝える仏像が安置されていて
「この仏像は先祖が鴨長明より賜ったもですが、然るべき所で祀っていただきたい」と譲り受けました。
直往大徳は、仏像を背負って天文3年(1534)に佐古村を訪れ、
直往大徳は、仏像を背負って天文3年(1534)に佐古村を訪れ、
吉岡氏宅でしばらく休んだ後、仏像を持ち上げようとしましたが、
仏像は全く動かないため、佐古村は有縁の地なりと吉岡氏に
寺の建立と仏像の安置を依頼しました。』
吉岡氏によって、直往大徳を開基として建立されたのが称名寺で、
吉岡氏によって、直往大徳を開基として建立されたのが称名寺で、
その仏像は本尊として安置されている阿弥陀如来坐像です。
この像は、平安時代後期の作とされ、像高は54.51cmで、
行基の作かどうかは不明ですが久御山町の文化財に指定されています。
本尊の右側には像高138cmの薬師如来坐像は、
明治初年に廃寺となった法蓮寺の本尊で平安時代後期の作とされ
大正6年に国宝に指定されましたが、戦後重要文化財に改められました。
本尊の左側には、像高89.3cmの大日如来坐像が安置されています。
この像は、明治初年に廃寺となった東明寺の本尊で、
この像は、明治初年に廃寺となった東明寺の本尊で、
平安時代後期の作とされています。
平安時代の3軀の仏像が並ぶ光景は荘厳で、特に薬師如来坐像は偉観であり、
平安時代の3軀の仏像が並ぶ光景は荘厳で、特に薬師如来坐像は偉観であり、
また穏やかな表情に見とれてしまいます。
東明寺からは「東明寺文書」も引き継がれました。
この文書は、南北朝時代~江戸時代に亘る142点で、殆どが
この文書は、南北朝時代~江戸時代に亘る142点で、殆どが
寺の運営に関するもので、京都府の有形文化財に登録されています。
境内の奥にある弁財天堂は、昔、現在の佐古公民館付近に大きな池があって、
そのほとりにが祀られていた弁財天が安置されています。
佐古の大火事で、弁天堂が焼けてしまい、称名寺境内に堂を建て
佐古の大火事で、弁天堂が焼けてしまい、称名寺境内に堂を建て
弁財天が祀られるようになりました。
今の堂は一間四方で、その中に厨子があり、極彩色の美しい
今の堂は一間四方で、その中に厨子があり、極彩色の美しい
弁財天が祀られています。
7月14日前の日曜日に法要が営まれています。
7月14日前の日曜日に法要が営まれています。
稱名寺に隣接している若宮八幡宮に向かいます。
続く