12:42に串本駅に着きました。
駅にある観光協会で電動アシストのレンタサイクルを2千円で借り、
駅にある観光協会で電動アシストのレンタサイクルを2千円で借り、
本州最南端の潮岬を周遊します。
予定時間は1時間で、次に橋杭岩往復40分を計画しました。
電動自転車は、思っていたよりも楽です。
結構な坂道も、普通にペダルをこぐ感覚で登れてしまいます。
京都市内に住んでいると、海を見る機会が少ないので、海を見ながら自転車で
予定時間は1時間で、次に橋杭岩往復40分を計画しました。
電動自転車は、思っていたよりも楽です。
結構な坂道も、普通にペダルをこぐ感覚で登れてしまいます。
京都市内に住んでいると、海を見る機会が少ないので、海を見ながら自転車で
のんびり走るのは気持ちが癒されます。
観光協会では西入口から周遊する方が楽だと、アドバイスを受けたのですが、
観光協会では西入口から周遊する方が楽だと、アドバイスを受けたのですが、
道を間違え東入口から入ってしまったようです。
最初に目を引かれたのが、石畳の海岸でした。
最初に目を引かれたのが、石畳の海岸でした。
しばらく、海岸の景色に見とれていました。
展望台からの景色です。
「太陽の出て没るまで青岬」と山口誓子の句にあるように、
「太陽の出て没るまで青岬」と山口誓子の句にあるように、
日の出から日没までこの岬で見ることができます。
潮岬観光タワーの手前は芝生が拡がっているのですが、
もう少し暖かくならないと緑色に育たないようです。
かって海軍の望楼が置かれていたことから「望楼の芝」と呼ばれています。
かって海軍の望楼が置かれていたことから「望楼の芝」と呼ばれています。
灯台へ向かいます。
灯台より神社の方が気になって行ってみました。
参道は、少し下っています。
日本書紀に「少彦名命(すくなひこなのみこと)が国造りを終えて、
熊野の御から常世の国へ渡っていった。」との記述がみられ、
「熊野の御」とは潮岬だと考えられています。
潮御崎神社は、景行天皇28年(98)、御崎の「静之窟」内に少彦名命を
潮御崎神社は、景行天皇28年(98)、御崎の「静之窟」内に少彦名命を
勧請したのが始りとされています。
少彦名命は、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って
少彦名命は、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って
波の彼方より来訪し、多くの山や丘を造ったとされています。
その後、潮崎安磨「静之峯」に遷座したとされ、貞観12年(871)に、
その後、潮崎安磨「静之峯」に遷座したとされ、貞観12年(871)に、
潮崎安守はさらに「潮見の端」へ遷座したと伝わります。
江戸時代は、御崎大明神社とか御崎明神といわれ、また周参見(すさみ)から
江戸時代は、御崎大明神社とか御崎明神といわれ、また周参見(すさみ)から
串本町の下田原に至る18ヵ浦の総産土神となり、本地仏に観音菩薩を祀った
ことから、御崎観音とも称されました。
明治初年(1868)、社名を潮御崎神社に改称、同2年、境内地を灯台建設のために
明治初年(1868)、社名を潮御崎神社に改称、同2年、境内地を灯台建設のために
旧社地といわれる現在の地、静之峰に遷宮されました。
明治31年に社殿が改築され、昭和58年に大修理が施工されました。
明治31年に社殿が改築され、昭和58年に大修理が施工されました。
神社から「潮岬の鯨山見」へ向かいます。
両側が切り立った狭い背の道を進みます。
「潮岬の鯨山見」からの景色。
灯台を見ます。
周遊道路の西出口に向かって下ります。
灯台が遠くなりました。
潮岬周遊で時間を費やしてしまい、橋杭岩往復の時間が無くなってしまいました。
14:34発の普通列車で紀伊田辺に向かい、紀伊田辺駅で御坊行に乗換え、
潮岬周遊で時間を費やしてしまい、橋杭岩往復の時間が無くなってしまいました。
14:34発の普通列車で紀伊田辺に向かい、紀伊田辺駅で御坊行に乗換え、
18:37にようやく和歌山駅に着き、18:39発の紀州路快速で大阪へ、
大阪から20:23発の快速で21:06に京都に着きました。
残った最後の青春18きっぷを使い、再び和歌山に向かいます。
続く
残った最後の青春18きっぷを使い、再び和歌山に向かいます。
続く