11:22に那智駅に到着し、熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)へ
向かいます。
駅から熊野三所大神社まで徒歩約3分の距離です。
駅から熊野三所大神社まで徒歩約3分の距離です。
ここは浜の宮王子跡とされ、かっては若宮の社殿と五輪塔があったのですが、
宝永(1704~1710)の津波で流失しました。
浜の宮王子はかって、渚宮王子、錦浦王子とも呼ばれ、那智山を参拝する前に
浜の宮王子はかって、渚宮王子、錦浦王子とも呼ばれ、那智山を参拝する前に
潮垢離を行い、身を清める場所でもありました。
境内の森は、「渚の森」と呼ばれ、和歌にも詠まれた名勝の森でした。
境内の森は、「渚の森」と呼ばれ、和歌にも詠まれた名勝の森でした。
現在でも「夫婦樟」呼ばれる樹齢約800年の樟の大樹が残ってはいますが、
当時の面影はなくなってしまったようです。
境内には、「神武天皇頓宮跡」の石碑も建っています。
石碑の前に置かれている丸い石は「力だめしの石」でしょうか?
古代の玉石信仰「丸石神」の石ともいわれ、中世以降は石を持ち上げて、
石碑の前に置かれている丸い石は「力だめしの石」でしょうか?
古代の玉石信仰「丸石神」の石ともいわれ、中世以降は石を持ち上げて、
その重い軽いで願い事の占いをし、また力くらべをした石とされています。
古来、熊野三所大神社と補陀洛山寺が神前仏前の供え水を汲んだ井戸、
「閼伽の井(あかのい)」がありました。
現在、その井戸がどこにあるのか不明ですが、「潮垢離を取ったあと、
真水で禊をする井戸だった」との思いを込めて手水を使いました。
本殿へ向かいます。
熊野三所大神社は、古くから熊野那智大社の末社で、
夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神を主祭神とし、
主祭神像三躯は重要文化財に指定されています。
本殿の右側に丹敷戸畔命(にしきとべのみこと)が祀られた石の祠があり、
地主の神とされています。
丹敷戸畔命は、『日本書紀』神武天皇の東征に登場する人物です。
「戸畔」は、女酋長のことを意味し、神武天皇が進軍した熊野荒坂津
丹敷戸畔命は、『日本書紀』神武天皇の東征に登場する人物です。
「戸畔」は、女酋長のことを意味し、神武天皇が進軍した熊野荒坂津
(またの名を丹敷浦)の女酋長だったと推測されています。
神武天皇が丹敷戸畔を滅ぼしたとき、「神が毒気を吐いて人々を萎えさせた。
神武天皇が丹敷戸畔を滅ぼしたとき、「神が毒気を吐いて人々を萎えさせた。
このため皇軍はまた振るわなかった。」と記載されています。
また、天皇が丹敷戸畔を討った際に手に付いた血を洗ったのが、
また、天皇が丹敷戸畔を討った際に手に付いた血を洗ったのが、
新宮市の御手洗(みたらい)海岸だとされています。
本殿の左側は三狐神(さんこじん)が祀られ、食物の神とされています。
三狐神とは、稲荷神で、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に
三狐神とは、稲荷神で、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に
「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、
あるいは眷属に収まったと考えられています。
熊野三所大神社の隣に補陀洛山寺(ふだらくさんじ)があります。
補陀落とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳で、
補陀落とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳で、
『華厳経』ではインドの南端に位置するとされています。
補陀洛山寺は、仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人に
補陀洛山寺は、仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人に
よって開山されたと伝わります。
江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していましたが、
江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していましたが、
文化5年(1808)の台風により主要な堂塔は全て滅失しました。
現在の本堂は、平成2年(1990)に再建されたものです。
本尊は、平安時代後期作、像高172cmの木造・十一面千手千眼観世音菩薩立像で、
国の重要文化財に指定されています。
また、明治初年、那智山で神仏分離が行われ、那智山の仏像仏具類は、
また、明治初年、那智山で神仏分離が行われ、那智山の仏像仏具類は、
この補陀洛山寺に移されたそうです。
境内には、補陀落渡海で使われたであろう船を模したものが展示されています。
中世日本では、遥か南洋上に「補陀落」が存在すると信じられ、
中世日本では、遥か南洋上に「補陀落」が存在すると信じられ、
「補陀落」を目指して船出しました。
屋形の四方には、「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を
屋形の四方には、「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を
表す鳥居が建てられています。
屋形に人が入ると、扉は塞がれ、釘で固定されたそうです。
白帆を上げ、伴船に沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後は、
屋形に人が入ると、扉は塞がれ、釘で固定されたそうです。
白帆を上げ、伴船に沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後は、
ただ漂流するだけでした。
戦国時代になると、熊野三山への参詣者が減少したことから、
戦国時代になると、熊野三山への参詣者が減少したことから、
渡海が勧進の手段として使われたようで、補陀洛山寺の住職は
60歳くらいになると、渡海する慣わしになっていたようです。
その年を過ぎても渡海しない場合は信者に後ろ指を指されたといいます。
その年を過ぎても渡海しない場合は信者に後ろ指を指されたといいます。
再び陸に戻ることが許されなかったのですが、戦国時代、金光坊という僧が
屋形から脱出して付近の島に上陸しました。
金光坊は捕えられ、海に投げ込まれるという事件が発生しました。
金光坊(こんこぶ)島と呼ばれ、今も那智浦沖にその島はあります。
井上靖の小説『補陀洛渡海記』の題材にもなったこの事件の影響で、
金光坊は捕えられ、海に投げ込まれるという事件が発生しました。
金光坊(こんこぶ)島と呼ばれ、今も那智浦沖にその島はあります。
井上靖の小説『補陀洛渡海記』の題材にもなったこの事件の影響で、
江戸時代には住職などの遺体を渡海船に載せて水葬するという形に
変化したようです。
補陀洛山寺を出て那智山への県道沿いに「振分石」が建っています。
紀伊半島の西側を海沿いに進む大辺路、紀伊半島の東側を海沿いに南下する
紀伊半島の西側を海沿いに進む大辺路、紀伊半島の東側を海沿いに南下する
伊勢路、そして田辺から本宮大社、那智山、那智を結ぶ中辺路の分岐点を示す
道標です。
江戸時代に、庶民が主に伊勢神宮への参拝をすませ、速玉大社に詣でた後、
那智大社・熊野大社をめざす道標になりました。
那智発11:46の普通列車で串本へ向かいます。
続く
那智発11:46の普通列車で串本へ向かいます。
続く