城興寺は、九条烏丸の北、西側の路地の奥にあります。
山号を瑞寶山(ずいほうざん)と称する真言宗泉涌寺派の寺院で、
洛陽三十三所観音霊場の第二十二番札所です。
平安時代、この地は太政大臣藤原信長の邸宅で、東は現在の竹田街道、
平安時代、この地は太政大臣藤原信長の邸宅で、東は現在の竹田街道、
西は室町通、南は九条大路、北は東寺道に至る広大な敷地の中に、
応徳2年(1085)に丈六佛を安置する九条堂を建て、城興院と称しました。
三代後の藤原 忠実(ふじわら の ただざね)が伝領し、
三代後の藤原 忠実(ふじわら の ただざね)が伝領し、
永久元年(1113)に寺院を建立し、城興寺と改めました。
10年後には数々の堂塔伽藍も完成し、保安3年(1123)に白河法皇の院宣を
10年後には数々の堂塔伽藍も完成し、保安3年(1123)に白河法皇の院宣を
もって盛大な伽藍供養が行われました。
『城興寺古伽藍図』に見る当時の寺容は、周囲を築地塀で囲い、
『城興寺古伽藍図』に見る当時の寺容は、周囲を築地塀で囲い、
九条大路に面して南大門が、中央一列に放生池・仁王門・金堂・講堂と、
東側に多宝塔と鐘楼が、西側に御影堂、北側には庫裡や数々の僧坊など、
堂塔伽藍が建ち並ぶ立派なお寺でした。
その後、堀川天皇の子であり、白河法皇の孫にあたる天台座主・
最雲法親王(さいうんほっしんのう)がこの寺を領し、
没後は弟子の以仁王(もちひとおう)が引き継ぎました。
治承3年(1179)に寺領が平氏政権によってとりあげられ、
治承3年(1179)に寺領が平氏政権によってとりあげられ、
準備不足のために露見して追討を受け、
以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死しました。
しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、
しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、
この乱により都は荒廃し、城興寺も衰退していきます。
室町時代になると応仁元年(1467)に応仁・文明の乱が発生し、
室町時代になると応仁元年(1467)に応仁・文明の乱が発生し、
その兵火を受けて焼失しました。
昭和58~9年(1983~4)の発掘調査で室町時代後期の堀跡が発見され、
昭和58~9年(1983~4)の発掘調査で室町時代後期の堀跡が発見され、
寺が自衛していたとみられています。
江戸時代の安永9年(1780)発行の『都名所図会』には「成興寺は九条烏丸にあり、
江戸時代の安永9年(1780)発行の『都名所図会』には「成興寺は九条烏丸にあり、
本尊観世音は慈覚大師の作なり」という記載があり、
洛陽三十三ヶ所観音霊場巡りの札所として栄えました。
庫裡
現在は、本堂と庫裡、それに薬院社を残すのみとなりました。
山門をくぐった左側、大イチョウの元に、摂社・次郎吉稲荷が祀られ、
唯一つの願いが叶えられるとされています。
新町通り東寺道下ル西側に施薬院、東寺道烏丸上ル西側辺りには
施薬院御倉がありました。
施薬院は、平城京で天平2年(730)、光明皇后の発願により、
施薬院は、平城京で天平2年(730)、光明皇后の発願により、
悲田院とともに創設され、病人や孤児の保護・治療・施薬が行われました。
平安京遷都後、藤原冬嗣が私財を投じて、自らの土地に施薬院を開設しました。
しかし、鎌倉時代の初期には他所へと移転し、御倉跡の施薬の森には
平安京遷都後、藤原冬嗣が私財を投じて、自らの土地に施薬院を開設しました。
しかし、鎌倉時代の初期には他所へと移転し、御倉跡の施薬の森には
施薬院稲荷の祠のみが残され、以後周辺地域の鎮守社となりました。
明治5年(1872)の辻堂廃止令により、施薬院稲荷は明治11年(1876)
明治5年(1872)の辻堂廃止令により、施薬院稲荷は明治11年(1876)
城興寺境内の荼枳尼天堂(だきにてんどう)に合祀され、
跡地は京都府へ寄贈されました。
荼枳尼天堂には、荼枳尼天が祀られ、稲荷信仰と混同されて習合し、
荼枳尼天堂には、荼枳尼天が祀られ、稲荷信仰と混同されて習合し、
一般に白狐に乗る天女の姿で表されています。
稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が合祀され、
稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が合祀され、
男女のお稲荷さんが祀られていることになり、
夫婦円満のお稲荷さんとして信仰されています。
本堂には、本尊の千手観音菩薩像が安置されていますが秘仏とされています。
この像は、慈覚大師円仁が承和五年(838)、遣唐使の一員として唐に渡り、
この像は、慈覚大師円仁が承和五年(838)、遣唐使の一員として唐に渡り、
無事の帰朝を念じて船中で造作したものです。
薬師如来像は、弘法大師作と伝わり、天長6年(829)、全国に大疫病流行し、
淳和天皇が弘法大師に祈祷を命じました。
大師は、この薬師如来像を造って祈祷した所、疫病が治まったと伝わります。
大師は、この薬師如来像を造って祈祷した所、疫病が治まったと伝わります。
その他、不動明王像と大日如来像が安置されています。
洛陽三十三所観音霊場・第二十七番札所・平等寺(因幡薬師)へ向かいます。
続く
続く