平等寺は、松原通を烏丸通から東に進んで、北側に入った所にあり、
松原通りに石標が建っています。
本堂は因幡堂とも呼ばれ本尊の薬師如来像は、京都十二薬師霊場の第一番札所、
京都十三佛霊場の第七番札所です。
また、長野善光寺の阿弥陀如来・京都嵯峨清涼寺の釈迦如来とともに
また、長野善光寺の阿弥陀如来・京都嵯峨清涼寺の釈迦如来とともに
日本三如来に数えられています。
因幡堂延喜(東京国立博物館蔵)によれば、天徳3年(959)に橘行平は、
村上天皇の命で因幡国(現鳥取県)の一宮に赴きました。
そこで神事を済ませ帰洛の途中、行平は急病になり、平癒を神仏に
そこで神事を済ませ帰洛の途中、行平は急病になり、平癒を神仏に
祈り続けていると、ある夜、夢に異形の僧が現れこう告げました。
「因幡国賀留津の海中に一つの浮き木がある。その浮き木は衆生済度のため
「因幡国賀留津の海中に一つの浮き木がある。その浮き木は衆生済度のため
遠くの仏の国からやってきた。
あなたは速やかにこの浮き木を求めて供養しなさい。
そうすれば必ず病気は治り、さらに一切のあらゆる願いが成就するだろう。」
行平は正夢に違いないと思い、早速人々を集めて大網をもって海底を
あなたは速やかにこの浮き木を求めて供養しなさい。
そうすれば必ず病気は治り、さらに一切のあらゆる願いが成就するだろう。」
行平は正夢に違いないと思い、早速人々を集めて大網をもって海底を
探らせたところ、お告げの通り一つの浮き木がありました。
そしてそれはよく見ると身の丈五尺余り(約165cm)の薬師如来像でした。
行平は喜んでこれを信心しこれを供養する草堂をこの浦に建て
行平は喜んでこれを信心しこれを供養する草堂をこの浦に建て
薬師如来像を祀りました。
これが「因州(鳥取県)高草郡大字菖蒲浦の座光寺(ざこうじ)」です。
その後、行平の病気は平癒し、無事に京に帰る事が出来ました。
ところが帰京した行平にまたある夜、一人の異形な僧から夢告があります。
「我は西の天より来て、東の国の人々を救おうとやってきた。
これが「因州(鳥取県)高草郡大字菖蒲浦の座光寺(ざこうじ)」です。
その後、行平の病気は平癒し、無事に京に帰る事が出来ました。
ところが帰京した行平にまたある夜、一人の異形な僧から夢告があります。
「我は西の天より来て、東の国の人々を救おうとやってきた。
あなたには宿縁(前世からの因縁)があるから重ねて事を示す」
長保5年(1003)、行平が夢から覚めると来客があり、
長保5年(1003)、行平が夢から覚めると来客があり、
西の門を開けると薬師如来像が立っていました。
行平は屋敷を改造してお堂を作り、薬師如来像を安置して因幡堂と名付けました。
行平は屋敷を改造してお堂を作り、薬師如来像を安置して因幡堂と名付けました。
第66代の一条天皇は、勅願所とし、八ヶ所の子院を建立され、また歴代天皇も
即位ごとに祈祷し、「薬師もうで」と呼ばれた勅使の月参りもありました。
承安元年(1171)、高倉天皇により「平等寺」と命名され、勅額を賜りました。
また、天皇は因幡堂のすぐ南「東五条院」に住居され、五条院の御所に遠慮して
承安元年(1171)、高倉天皇により「平等寺」と命名され、勅額を賜りました。
また、天皇は因幡堂のすぐ南「東五条院」に住居され、五条院の御所に遠慮して
南門を開けなかったために、因幡堂の正面真南の通りを
「不明(あけず)門」と呼ばれるようになりました。
因幡堂は度々火災に見舞われ、寺域も次第に小さくなっていきました。
元治元年(1864)に起きた蛤御門の変で焼失後、本堂は明治15年(1882)から
元治元年(1864)に起きた蛤御門の変で焼失後、本堂は明治15年(1882)から
再建に着手され、明治19年(1886)に他の堂宇も含めて完成しました。
本尊の薬師如来像、釈迦如来立像、如意輪観音坐像は収蔵庫に安置され、
共に非公開で国の重要文化財に指定されています。
釈迦如来立像は像高76.7cmで、鎌倉時代の建保元年(1213)の作とされています。
如意輪観音坐像は像高81.2cmで、鎌倉時代の作とされています。
釈迦如来立像は像高76.7cmで、鎌倉時代の建保元年(1213)の作とされています。
如意輪観音坐像は像高81.2cmで、鎌倉時代の作とされています。
本堂内には今から約130年前の因幡堂の鬼瓦が展示されています。
鬼面ではなく経の巻きと呼ばれる鬼瓦で、菊の周りを橘が巻く寺紋が
鬼面ではなく経の巻きと呼ばれる鬼瓦で、菊の周りを橘が巻く寺紋が
あしらわれています。
また、明治19年(1886)より本堂大屋根の巴蓋(ともえぶた)として
使われていた瓦も展示されています。
龍の子で、亀に似た姿で重いものを背負うのを好むとされている
龍の子で、亀に似た姿で重いものを背負うのを好むとされている
贔屓(ひいき)を図柄としています。
「贔屓」を古くは「贔屭」と書きました。
「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表したもので、
「贔屓」を古くは「贔屭」と書きました。
「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表したもので、
「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたもので、
財貨を多く抱えることを表しました。
「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、
「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、
「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになりました。
本堂の左側に観音堂があり、洛陽十三仏霊場第二十七番札所の本尊である
十一面観音菩薩像が安置されています。
この像は、かって北野天満宮に安置されていたのですが、
この像は、かって北野天満宮に安置されていたのですが、
東寺の観智院を経て平等寺に遷されました。
その他に弘法大師像、毘沙門天像、如意輪観音像、神変大菩薩(役行者)、
その他に弘法大師像、毘沙門天像、如意輪観音像、神変大菩薩(役行者)、
不動明王が祀られています。
地蔵堂の右側に鎮守社があり、十九所権現(十九所明神)が祀られています。
平等寺の鎮守社には、元は武内宿禰(たけのうちすくね)が祀られていました。
鳥取県にある因幡国一宮の宇倍神社の主祭神が武内宿禰であることから、
平等寺の鎮守社には、元は武内宿禰(たけのうちすくね)が祀られていました。
鳥取県にある因幡国一宮の宇倍神社の主祭神が武内宿禰であることから、
因幡国一宮に赴いた橘行平が勧請したものと思われます。
十九所権現の前に立つ駒札には以下のように記載されています。
十九所権現の前に立つ駒札には以下のように記載されています。
『当寺は後白河院の信仰篤く、度々御幸されたある時に当寺の鎮守は
いかなる神かとたずねられました。
住職が因幡の国一宮、武内宿禰と答えると、生身の如来衛護の神には、
住職が因幡の国一宮、武内宿禰と答えると、生身の如来衛護の神には、
武内朝臣のみでは力不足と仰せられ、十八所の神々を院宣にて勧請されました。
御白河院還幸の後、或る人の夢枕に西宮夷の御嫡子、一童御前が立たれ、
御白河院還幸の後、或る人の夢枕に西宮夷の御嫡子、一童御前が立たれ、
我もここの擁護の神に入ると仰せられました。
住職が後白河院に奉聞したところ許可されたので、十九所となりましたが、
住職が後白河院に奉聞したところ許可されたので、十九所となりましたが、
最初の院宣により十八所とよばれていました。
十八所(十九所)とは次の通りです。
十八所(十九所)とは次の通りです。
古くは三間の鎮守、五間の拝殿と記録されています。
1.天照大神 2.八幡 3.春日 4.賀茂 5.祇園 6.愛宕権現 7.松尾 8.熊野 9.北野
1.天照大神 2.八幡 3.春日 4.賀茂 5.祇園 6.愛宕権現 7.松尾 8.熊野 9.北野
10.山王 11.住吉 12.摩利支天 13.妙音 14.辨天 15.白鬚 16.多賀 17.平野
18.御霊 19.蛭子(一童御前)
※一九は ”いく” に通ず(心願成就)』
※一九は ”いく” に通ず(心願成就)』
樹は気に通じ、元気が頂けるそうです。
鎮守社から右に進むと閻魔大王の石像が祀られています。
密教では『大日経』に記述される焔摩天(えんまてん)で表され、
密教では『大日経』に記述される焔摩天(えんまてん)で表され、
各方位を守護する八方天、十二天の一尊となり、南方焔摩天とも呼ばれています。
また、除病・息災・延寿を司るともされています。
また、除病・息災・延寿を司るともされています。
洛陽三十三所観音霊場・第二十四番札所・長円寺へ向かいます。
続く
続く