谷町筋を北上し、千日前通の手前を左に入った先に生國魂神社があり、
生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)を鎮祭したのが
始まりとされています。
生島神・足島神の2神は、『古事記』・『日本書紀』等の神話に記されない
生島神・足島神の2神は、『古事記』・『日本書紀』等の神話に記されない
神々であり、日本国土の神霊であるとも、またその国土にあるものを
生成・充足する神々ともされています。
旧社地の近くには、石山本願寺も建立され栄えましたが、
旧社地の近くには、石山本願寺も建立され栄えましたが、
天正8年(1580)の石山合戦の兵火で社殿は焼失し、その後、豊臣秀吉による
大阪城築城に伴い、現在地に遷座されました。
大阪大空襲により社殿が焼失し、昭和24年(1949)に再建されましたが、
翌年のジェーン台風で倒壊しました。
現在の建物は、昭和31年(1956)4月に鉄筋コンクリート造で再建されたもので、
現在の建物は、昭和31年(1956)4月に鉄筋コンクリート造で再建されたもので、
豪壮な桃山文化の遺構とされる「生國魂造(いくたまづくり)」は再現されました。
社殿の左側に米澤彦八の碑があります。
米澤彦八は、江戸時代中期の上方の落語家で、「上方落語の始祖」や
米澤彦八は、江戸時代中期の上方の落語家で、「上方落語の始祖」や
「落語家(落語)の祖」と呼ばれています。
かって、生國魂神社境内には小屋があり、彦八は人の足を止めて注目させるため、「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出して興行していました。
かって、生國魂神社境内には小屋があり、彦八は人の足を止めて注目させるため、「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出して興行していました。
彦八の碑の左側に天満宮があり、菅原道真が祀られています。
天満宮の左側に住吉神社があり、底筒男神(そこつつおのかみ)、
中筒男神(なかつつおのかみ)、表筒男神(うわつつおのかみ)が祀られています。
住吉神社から西方への突き当りに皇大神宮があり、天照皇大御神が祀られています。
皇大神宮から石段を下ります。
左に曲がると滝から池へと水が注がれています。
池の中に精鎮社(せいちんしゃ)があり、事代主神(えびす)、
比大神(ひめのおおかみ=べんてん)が祀られています。
元は表参道の蓮池に「弁財天社」として祀られていましたが、
明治初めに精鎮社に改称し、戦後の蓮池埋め立てに伴い現在地に遷座されました。
精鎮社の西側、北向きに稲荷神社があり、倉稲御魂神(うかのみたまのかみ)が
祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ・佐賀県鹿島市)から分祀されました。
稲荷神社の右側に源九郎稲荷神社があり、源九郎稲荷大明神、
八兵衛大明神が祀られています。
源九郎稲荷神社の右側に鴫野神社(しぎのじんじゃ)があり、
通ったことから後に淀君も併せ祀られるようになりました。
大阪ビジネスパーク建設に伴い、現在地に遷座されました。
大阪ビジネスパーク建設に伴い、現在地に遷座されました。
鴫野神社から少し戻った右側、北向きに城方向八幡宮(きたむきはちまんぐう)が
玉依比売命(たまよりひめのみこと)が祀られています。
北方に位置する大坂城の守護神として鎮祭され、
北方に位置する大坂城の守護神として鎮祭され、
かつては鳥居前の蓮池付近に鎮座していました。
城方向八幡宮の右側に鞴神社(ふいごじんじゃ)があり、
香具土神(かぐつちのかみ)が祀られています。
鞴とは、火起こしの道具のことで、鍛冶の神になります。
鞴とは、火起こしの道具のことで、鍛冶の神になります。
鞴神社の右側に家造祖神社(やづくりみおやじんじゃ)があり、
祀られています。
家造りの祖神で、土木建築の守護神とされています。
家造りの祖神で、土木建築の守護神とされています。
家造祖神社の右側に浄瑠璃神社があり、近松門左衛門ら
の先師三十八柱の御霊を境内に合祀したのが始まりとされています。
浄瑠璃神社の前方に八雲琴の碑があります。
八雲琴は、文政3年(1820)に伊予の中山琴主が創始したもので、
八雲琴は、文政3年(1820)に伊予の中山琴主が創始したもので、
出雲大社に参籠し、神託を得て完成したと伝わります。
長さ約1m、幅約12cmの木製の胴の上に、2本の弦を張った琴。
長さ約1m、幅約12cmの木製の胴の上に、2本の弦を張った琴。
鞴神社前の参道を東に進みます。
織田作之助の像が建立されています。
上方文化の発展に寄与されたとして、
上方文化の発展に寄与されたとして、
平成25年に生誕100年を祝して建立されました。
像の前に北門があります。
門を出て高津宮(こうづぐう)へ向かいます。
続く
門を出て高津宮(こうづぐう)へ向かいます。
続く