勝龍寺城公園の手前に観音寺があります。
観音寺は、室町時代の元亀1年(1570)、雪山によって開創され、
造物されたと伝わります。
像内部に残された胎内銘によると「文和4年(1355)に常光寺(滋賀県甲賀市、
臨済宗永源寺派)に奉安されてたとあり、
その後、当寺に還されたといわれています。
この十一面観音座像は京都府の重要文化財に指定されています。
(画像は浄土宗公式サイトに掲載されています)
勝龍寺城公園は、平成4年に勝龍寺城の本丸跡に造られ、
三方を堀で囲まれています。
発掘調査では、堀の深さ3m、幅15m以上あり、石垣が組まれ、
発掘調査では、堀の深さ3m、幅15m以上あり、石垣が組まれ、
その上に高さ4~5mの土塁が築かれていたそうです。
東辺の土塁上では、多聞櫓の土台であった石垣なども発見されています。
勝龍寺城公園は、都市公園で、勝龍寺城を再現したものではありません。
東辺の土塁上では、多聞櫓の土台であった石垣なども発見されています。
勝龍寺城公園は、都市公園で、勝龍寺城を再現したものではありません。
堀には鯉がたくさん泳いでいて、餌やりをする方もいて、人を見ると寄ってきます。
おこぼれに預かっている、鳩や雀も人を見ると、
おこぼれに預かっている、鳩や雀も人を見ると、
餌をくれる人だと勘違いしているようです。
元亀2年(1571)、細川藤孝が勝龍寺城に入り、織田信長の命を受け、
大規模な城の改修を行いました。
天正6年(1578)、明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が、
藤孝の長男である細川忠興に嫁ぎ、2年間、この城で新婚時代を過ごしました。
公園内には、四箇所の井戸跡が発掘調査で見つかり、その内三箇所が、
細川藤孝の改修時に造られたものでした。
直径0.9m、深さ2mで、太い木を井桁に組み、その上に石を積み上げたもので、
直径0.9m、深さ2mで、太い木を井桁に組み、その上に石を積み上げたもので、
発掘調査の時も水が湧き出していたそうです。
今は、コンクリートで固められていますので、
今は、コンクリートで固められていますので、
当時の姿は説明板の写真で偲ぶことができます。
横には、地下水100%の水道水という水飲み場が設置され、
「ガラシャ おもかげの水」と命名されています。
「ガラシャ おもかげの水」の先に、細川忠興・ガラシャ夫人像が
建てられています。
本丸の北東隅から、石垣で築かれた高さ4mの土塁が見つかりました。
土塁の上は一辺が10m四方の平坦な面があり、多聞櫓が築かれていたと推定され、
土塁の上は一辺が10m四方の平坦な面があり、多聞櫓が築かれていたと推定され、
説明板では当時の図面が描かれています。
現在は、隅櫓が建築され休憩所になっていますが、窓は塞がれ、
敵の接近を見張ることは出来ません。
管理棟の1階は休憩所になっていて、ガラス越しに池に泳ぐ錦鯉などを見て
くつろげますが、飲食禁止になっていて、喫茶スペースがほしいと思いました。
細川忠興・ガラシャ夫人の肖像画が掛けられています。
2階には資料展示室がありますが、撮影禁止になっています。
2階には資料展示室がありますが、撮影禁止になっています。
細川忠興・ガラシャ夫人の肖像画が掛けられています。
2階には資料展示室がありますが、撮影禁止になっています。
2階には資料展示室がありますが、撮影禁止になっています。
西側土塁の中央部には、斜面が階段状に削られ、多量の石が詰められていました。
南西の角が、北東隅と同じように平らになっていることから、
南西の角が、北東隅と同じように平らになっていることから、
ここにも隅櫓が築かれていたのだろうと推定されています。
西側全体の土塁は本来、この高さで続いていたのですが、中央部にくぼみを付けて、橋が架けられ、沼田丸への通路とされたと考えられています。
西側全体の土塁は本来、この高さで続いていたのですが、中央部にくぼみを付けて、橋が架けられ、沼田丸への通路とされたと考えられています。
土塁の上に植えられているムクノキは、長岡京市の保存樹木に指定されています。
本丸の西側、今は公園として利用されている東西約50m、
南北約65mの少し盛り上がった台地には沼田丸が築かれていました。
沼田は、細川藤孝の妻の旧姓であり、
沼田丸奥の沼田屋敷には、一族が住んでいたと思われます。
ベンチで休憩していると、やはり鳩と雀が寄ってきます。
沼田丸にも、本丸と同じような井戸跡が駐車場との境に設置されています。
横には、地下水100%の水道が設置されていて、近所の方々が汲みに来ていました。
南門から公園内に戻ります。
この門は、沼田丸へ行くのに便利なように、土塁を削って造られたように思います。
この門は、沼田丸へ行くのに便利なように、土塁を削って造られたように思います。
突き当たりに、石仏や五輪塔が多数安置されています。
発掘調査により石垣跡や井戸跡から出土したものです。
発掘調査により石垣跡や井戸跡から出土したものです。
北西には、北門跡があります。
山崎の合戦では、光秀は本陣からこの城に逃げ帰り、夜陰にまぎれて
山崎の合戦では、光秀は本陣からこの城に逃げ帰り、夜陰にまぎれて
5~6人の家臣と共に北門から脱出しました。
光秀は、坂本城へ向かう途中、竹槍によって命を落とし、
光秀は、坂本城へ向かう途中、竹槍によって命を落とし、
勝龍寺城は、秀吉に攻め込まれて落城しました。
勝龍寺城公園は、毎週火曜日及び12月28日から1月4日までは休園日です。
毎年11月の第2日曜日には、玉の輿入れ行列の再現などによる
「長岡京ガラシャ祭」が行われています。
勝龍寺へ向かいます
続く