勝龍寺城公園に直ぐ近くに勝龍寺があります。
勝龍寺は、平安時代の大同元年(806)、空海によって開基されたと伝わります。
寺号は恵解山青龍寺で、当初の「青龍寺」という寺名は、
勝龍寺は、平安時代の大同元年(806)、空海によって開基されたと伝わります。
寺号は恵解山青龍寺で、当初の「青龍寺」という寺名は、
空海が学んだ唐の青龍寺に由来しているとされています。
観音堂を始め九十九坊が建てられていた大寺院であったことが、
観音堂を始め九十九坊が建てられていた大寺院であったことが、
勝龍寺城や地名で残されていることから窺うことができます。
応和2年(962)、大干ばつ・大飢饉が発生し、第62代・村上天皇の命により、
応和2年(962)、大干ばつ・大飢饉が発生し、第62代・村上天皇の命により、
当時の住職であった千観(せんかん)上人の祈とうで雨が降り、
龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名されました。
室町時代になると、境内が勝龍寺城に隣接していたため、たびたび焼失し、
室町時代になると、境内が勝龍寺城に隣接していたため、たびたび焼失し、
その後の山崎の合戦でも焼失しました。
現在の勝龍寺は、専勝坊の法灯を継いでいます。
現在の勝龍寺は、専勝坊の法灯を継いでいます。
本尊は鎌倉時代につくられた十一面観音で、国の重要文化財に指定されています。
京都国立博物館に寄託されており、8月18日とガラシャ祭り(11月第2日曜)には
京都国立博物館に寄託されており、8月18日とガラシャ祭り(11月第2日曜)には
勝龍寺で御開帳されます。
他に鎌倉時代の十一面観音像や聖観音立像、二天王立像(持国天像・多聞天像)が
他に鎌倉時代の十一面観音像や聖観音立像、二天王立像(持国天像・多聞天像)が
安置されていて、いずれも長岡京指定文化財になっています。
正面の右には、びんずる尊者の像が安置されています。
「諸病悉除衆苦代受(しょびょう・しつじょ・しゅうく・だいじゅ)」
なでぼとけの別名を持つこの仏様は、心身の病んでいるところと、
「諸病悉除衆苦代受(しょびょう・しつじょ・しゅうく・だいじゅ)」
なでぼとけの別名を持つこの仏様は、心身の病んでいるところと、
同じところを撫でて、一心にお参りすると病が治るというご利益があります。
また京都洛西観音霊場第十四番札所です。
初代の梵鐘は、大阪の陣で持ち去られ、現在、大阪府能勢町の真如寺に存在が
確認され、大阪府指定文化財になっています。
二代目は、昭和3年に鋳造されたのですが、第二次世界大戦時に
二代目は、昭和3年に鋳造されたのですが、第二次世界大戦時に
戦時供出されました。
三代目になる現在の梵鐘は、昭和52年に鋳造されたものです。
三代目になる現在の梵鐘は、昭和52年に鋳造されたものです。
修行大師像
境内に安置されている石仏群
春日神社は、平安時代末期の承安4年(1174)、九条兼実による建立と伝わります。
天正10年(1582)に焼失しましたが、慶兆9年(1604)に再建されました。
弘化2年(1845)に破損・造営したと伝わります。
江戸時代には勝竜寺村(久貝を除く)の氏神となりました。
石鳥居には元禄13年(1700)、石灯篭には正徳4年(1714)、
天正10年(1582)に焼失しましたが、慶兆9年(1604)に再建されました。
弘化2年(1845)に破損・造営したと伝わります。
江戸時代には勝竜寺村(久貝を除く)の氏神となりました。
石鳥居には元禄13年(1700)、石灯篭には正徳4年(1714)、
狛犬には慶応元年(1865)の銘があり、
江戸時代の境内整備の記録が残されています。
ガラシャ通りに出て、小畑川に架かる橋の手前に、「勝龍寺城大門橋」の石碑と
シンボルとしての結界門が建っています。
南北朝時代、勝龍寺城を築城の際、細川師氏(もろうじ)は、
南北朝時代、勝龍寺城を築城の際、細川師氏(もろうじ)は、
宇波多川(うばたがわ・現-小畑川)の流れを西南の方に移動して、
勝龍寺城の外堀としました。
元亀2年(1571)、細川藤孝が勝龍寺城を改修した際、ここに大手門を構築しました。
以来、この大手門に架かる橋は「大門橋」と呼ばれるようになりました。
橋を渡らずに右折し、川沿いに恵解山通りに出て、恵解山古墳に向かいます。
続く
元亀2年(1571)、細川藤孝が勝龍寺城を改修した際、ここに大手門を構築しました。
以来、この大手門に架かる橋は「大門橋」と呼ばれるようになりました。
橋を渡らずに右折し、川沿いに恵解山通りに出て、恵解山古墳に向かいます。
続く