湯屋橋を渡ると摩尼殿が見えてきて、正面にある石段を上ります。
コの字形に曲がり、摩尼殿を縦に見る方向へ向きを変え、
唐破風の玄関を正面に石段を上ります。
書写山・圓教寺は、西国三十三所のうち最大規模の寺院で、
「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山と
ともに天台宗の三大道場と称された巨刹です。
書写山にはかって、素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、
「素盞ノ杣(そま)」といわれ、性空入山以前より
この地に祠が祀られていたと伝わります。
また、インドに有り、釈迦が『無量寿経』や『法華経』を説いた山である霊鷲山(りょうじゅせん)の一握りの土で造り、「書き写した」ように似ていることから、「書寫山」と呼ばれるようになったとも伝わります。
性空は、貴族の橘氏の出身でしたが、36歳の時に出家し、それから約20年間、
また、インドに有り、釈迦が『無量寿経』や『法華経』を説いた山である霊鷲山(りょうじゅせん)の一握りの土で造り、「書き写した」ように似ていることから、「書寫山」と呼ばれるようになったとも伝わります。
性空は、貴族の橘氏の出身でしたが、36歳の時に出家し、それから約20年間、
九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966)の57歳の時、
書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりとされています。
入山して4年目の天禄元年(970)、天人が書写山内の桜の霊木を賛嘆礼拝する
入山して4年目の天禄元年(970)、天人が書写山内の桜の霊木を賛嘆礼拝する
のを見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木の桜に六臂如意輪観音の像を刻み、
その崖に3間四方の如意輪堂(現・摩尼殿)を創建しました。
寛和2年(986)には花山法皇が来山して、圓教寺の勅号を与え、「圓教」には、
輪円具足を教えるという意味があり、円の形は欠けたところがなく、
徳において最も成就した状態を象徴していることから、
自己を完成する道を教える寺の意となります。
また、花山法皇は米100石を寄進し、性空はこの寄進をもとに
また、花山法皇は米100石を寄進し、性空はこの寄進をもとに
また勅願により建物の改築・改修、建立が行われました。
延徳4年(1492)、真言堂からの火災により、蓮鏡院、摩尼殿が焼失し、
延徳4年(1492)、真言堂からの火災により、蓮鏡院、摩尼殿が焼失し、
性空が造らせた如意輪観音像も失われました。
天正6年(1578)、織田信長より中国地方征伐を命じられた羽柴秀吉が、
播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを
近江の長浜に持ち帰りました。
また、秀吉は、26,000石の全てを没収し、後に500石だけを施入し、
また、秀吉は、26,000石の全てを没収し、後に500石だけを施入し、
江戸時代になって833石になりましたが、圓教寺は荒廃しました。
その後、観音像は戻されたのですが、厨子内から発見され、
その後、観音像は戻されたのですが、厨子内から発見され、
平成18年(2006)に開山性空一千年忌に初めて公開された
如意輪観音像がこの像だったのかもしれません。
像高は19.8cm(台座含30.9cm)、桜のの一木造で、像底の銘により
像高は19.8cm(台座含30.9cm)、桜のの一木造で、像底の銘により
延応元年(1239)、当時の住僧・妙覚によって供養されたものと判明し、
兵庫県の文化財に指定されています。
この如意輪観音像は、性空が造らせたのと同木同作かもしれません。
この如意輪観音像は、性空が造らせたのと同木同作かもしれません。
摩尼殿は、大正10年(1921)12月にも焼失し、その後再建に着手され、
昭和8年(1933)に落慶したもので、国の登録有形文化財に登録され、
姫路市の文化財にも指定されています。
内陣に造り付けの大厨子は5間に分かれ、向かって左側の間から広目天、
内陣に造り付けの大厨子は5間に分かれ、向かって左側の間から広目天、
増長天、六臂如意輪観音(本尊)、多聞天、持国天の各像を安置されていますが、
いずれも秘仏で、1月18日の修正会(しゅしょうえ)に開扉されます。
四天王立像は、寛和2年(986)の作とみられ、国の重要文化財に指定されています。
六臂如意輪観音像は、西国三十三所観音霊場・第二十七番札所の本尊でもあり、
四天王立像は、寛和2年(986)の作とみられ、国の重要文化財に指定されています。
六臂如意輪観音像は、西国三十三所観音霊場・第二十七番札所の本尊でもあり、
宝印は摩尼殿で授けられます。
摩尼殿から西に進むと瑞光院があり、現存する圓教寺塔頭の六院の一つで、
信者の組織である網干(あぼし)観音講の宿院でもあるようですが、
門の外からは寂れているように見えます。
大黒堂から北側に坂を上り、上手の参道に合流して西に進んだ所に
青銅製の大仏像が建立されています。
大仏像の先に、樹齢700~800年とされる杉の木が聳えていて、
姫路市の保存樹に指定されています。
樹高約35m、幹周り約7.5mの大木です。
樹高約35m、幹周り約7.5mの大木です。
三つの堂の手前に本多家廟所があり、土塀で囲まれた中に廟屋(びょうおく)
5棟と11基の墓碑が並んでいます。
廟の門を入った正面の右側の廟屋は、本多忠国、左側の半分写っているのが
政長の墓です。
忠勝と並び、廟屋は兵庫県の文化財に指定されています。
左側の廟屋のない大きな五輪塔2基は、31歳で病死した忠刻(ただとき)と
孫・幸千代の墓で、背後には忠刻の供をして23歳で殉死した、
宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓碑もあります。
三つの堂は、常行堂、食堂、大講堂がコの字形に配列され、
かって本多家廟所には五重塔があり、中世の寺院景観を呈していました。
南北時代の元徳3年/元弘元年(1331)の落雷、永享8年(1436)の火災で焼失し、
南北時代の元徳3年/元弘元年(1331)の落雷、永享8年(1436)の火災で焼失し、
現存する各堂は室町時代に再建されましたが、
五重塔はこの地には再建されませんでした。
五重塔に安置されていた平安時代後期の大日如来坐像(木造、像高102.0 cm)は、食堂の宝物館に遷されています。
五重塔に安置されていた平安時代後期の大日如来坐像(木造、像高102.0 cm)は、食堂の宝物館に遷されています。
大講堂は、北側に位置し、寛和2年(986)に参詣した花山法皇の勅願により、
3間四方の講堂として建立されましたが、焼失後永享12年(1440)に
下層部分が再建され、寛正3年(1462)に上層部分が上乗せされ、
文明年間(1469~1487)に全体が整備されたと考えられています。
元和8年(1622)、本多忠政により修復され、昭和26年~昭和31年(1951~1956)に
元和8年(1622)、本多忠政により修復され、昭和26年~昭和31年(1951~1956)に
解体修理されました。
大講堂は、国の重要文化財に指定されています。
大講堂は、国の重要文化財に指定されています。
堂内には、釈迦如来像と両脇侍に文殊菩薩像及び普賢菩薩像が安置されています。
この釈迦三尊像は、圓教寺創建時の永延元年(987)の造立とされ、
この釈迦三尊像は、圓教寺創建時の永延元年(987)の造立とされ、
国の重要文化財に指定されています。
大講堂と向かい合う南側には常行堂があり、国の重要文化財に指定されています。
切妻造の部分は東半部を「中門」(寝殿造の中門廊に似ることによる)、
切妻造の部分は東半部を「中門」(寝殿造の中門廊に似ることによる)、
西半部を「楽屋」と称し、中央部に唐破風造、1間四方の
「舞台」が突出しています。
舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものです。
寺伝によれば元弘年間(1331~1334)に建立され、永享8年(1436)に焼失後、
舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものです。
寺伝によれば元弘年間(1331~1334)に建立され、永享8年(1436)に焼失後、
享徳2年(1453)に再建され、昭和38年(1963)より解体修理が行われました。
常行堂の本尊は、像高254.0cmの木造阿弥陀如来坐像で、記録によると
寛弘2年(1005)頃に性空の弟子・安鎮によりに造立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
右の大講堂とともに写した画像しかないのですが、食堂は、長堂とも呼ばれ、
古くは三宝院と称され、長さ40mかつ総2階で他に類を見ない
日本の近世以前の仏堂建築物です。
承安4年(1174)に参詣した後白河法皇の勅願により建立され、
承安4年(1174)に参詣した後白河法皇の勅願により建立され、
教興坊と称されました。
暦応元年(1338)に再建、貞和4年(1348)落慶との記録が残されていますが、
暦応元年(1338)に再建、貞和4年(1348)落慶との記録が残されていますが、
永享8年(1436)に焼失し、その後未完成のまま、数百年放置されたものを
昭和38年(1963)の解体修理で完成の形にされました。
食堂は国の重要文化財に指定されています。
食堂の1階は、神仏霊場巡拝の道・第75番札所と写経道場、2階は宝物館で
食堂は国の重要文化財に指定されています。
食堂の1階は、神仏霊場巡拝の道・第75番札所と写経道場、2階は宝物館で
寺内の諸堂にあった仏像などがここに移されています。
2階からは食堂と常行堂の屋根が重なり合っているのが見えます。
食堂の前に燈籠の礎石と見られる六角形の石があります。
大講堂の左側に灌頂(かんちょう)水と呼ばれる井戸があります。
井戸の左側に弁慶の鏡井戸があります。
昼寝をしていた弁慶の顔にいたずら書きをされました。
寝覚めた弁慶の顔を見て、皆が笑うのが分からずに、この池に顔を映してみると、
昼寝をしていた弁慶の顔にいたずら書きをされました。
寝覚めた弁慶の顔を見て、皆が笑うのが分からずに、この池に顔を映してみると、
いたずら書きをされているのに気付き、大喧嘩になりました。
この喧嘩が元で大講堂をはじめ、山内の建物を焼き尽くしたと伝わります。
この喧嘩が元で大講堂をはじめ、山内の建物を焼き尽くしたと伝わります。
残念ながら今ではそんなに鮮明には映らないようで、
当時も今のようだったら、火災は起こらなかったと思えます。
奥之院へ向かいます。
続く
続く