正門の正面、境内の中央には、開山堂が建っています。
棟札から、寛永19年(1642)に完成したことがわかり、
棟札から、寛永19年(1642)に完成したことがわかり、
京都府の文化財に指定されました。
開山堂に向かって右側に本堂があります。
本堂は、宝形造の建物で、正徳4年(1714)に建てられ、
本堂は、宝形造の建物で、正徳4年(1714)に建てられ、
京都府の文化財に指定されました。
天明7年(1787)に出版された「拾遺都名所絵図」によると、
南真経寺は、興隆寺と隣接していて、南真経寺には本堂が無く、
現在の本堂は境智堂と呼ばれていました。
本堂には、「境智堂」の扁額が掛かっています。
明治9年、興隆寺は石塔寺に吸収合併されました。
明治9年、興隆寺は石塔寺に吸収合併されました。
西門を出て、石塔寺へ向かいます。
石塔寺は、鎌倉時代末の延慶3年(1310)に、日像が現在地に題目石塔を建立し、
室町時代の文明年中(1469~87)に、石塔の傍らに本堂を建立したのが
始まりと伝わります。
山門の前に題目石塔が建っています。
江戸時代の寛文年間(1661~72)には独立本山に成長し、
山門の前に題目石塔が建っています。
江戸時代の寛文年間(1661~72)には独立本山に成長し、
末寺は近畿一円に総数33ヶ寺に達しました。
明治9年、興隆寺を吸収合併し、翌年に本堂など伽藍の整備が行われました。
付近には石塔寺にちなんだ地名が残されていることから、
明治9年、興隆寺を吸収合併し、翌年に本堂など伽藍の整備が行われました。
付近には石塔寺にちなんだ地名が残されていることから、
伽藍の壮大さをうかがうことができます。
また、この付近は、長岡京の時代に藤原種継が暗殺された場所や、
また、この付近は、長岡京の時代に藤原種継が暗殺された場所や、
平安時代に紀貫之が京に入る前に休息した「島坂」など
歴史が偲ばれる場所でもあります。
石塔寺では、毎年5月3日に「鶏冠井(かいで)題目踊り」が奉納されます。
「鶏冠井題目踊り」は、鎌倉時代の末期に鶏冠井地区で布教活動を行っていた
「鶏冠井題目踊り」は、鎌倉時代の末期に鶏冠井地区で布教活動を行っていた
日像が、村人の家を訪れた際、炊事場の湯気に
「南無妙法蓮華経」の題目が浮かびました。
それを見た村人は歓喜のあまり、野良着のまま踊り出したとされ、
それを見た村人は歓喜のあまり、野良着のまま踊り出したとされ、
それが「鶏冠井題目踊り」の始まりと伝わります。
当初は、北真経寺と南真経寺で交互に奉納されていたのですが、
当初は、北真経寺と南真経寺で交互に奉納されていたのですが、
廃絶の危機に陥り、「鶏冠井題目踊り保存会」が結成され、
石塔寺で奉納されるようになりました。
山門をくぐると、正面に松の木が目に入り、庭園が綺麗に整備されています。
本堂はコンクリート造りです。
山号「法性山」の扁額が掛かっています。
庫裏
何が祀られているのか社があります。
七面堂
迹殿(じゃくでん)
鐘楼
五辻まで戻ります。
平成24年、五辻に常夜灯が復活されました。
五辻の常夜灯は慶応元年(1865)に楊谷寺(柳谷観音)へ参拝する講の一つである
五辻の常夜灯は慶応元年(1865)に楊谷寺(柳谷観音)へ参拝する講の一つである
京都の千眼講によって建てられた石灯籠です。
江戸時代の終わり頃からは、眼病によく効く水があることで
楊谷寺へ参詣する人が増えていきました。
京都から向かう「柳谷道」の起点となるこの地に
京都から向かう「柳谷道」の起点となるこの地に
一対の大きな石灯籠が建てられました。
当時、この地は、向日神社の境内地でしたので、
当時、この地は、向日神社の境内地でしたので、
その過程が神社の古文書に残されていました。
昭和初期の新道建設時に、南側に有った1基は移設され現在は長岡京市梅が丘に、
昭和初期の新道建設時に、南側に有った1基は移設され現在は長岡京市梅が丘に、
北側の1基も昭和44年頃の歩道工事の時に楊谷寺の表参道にある
大阪府島本町と長岡京市の境付近に移設されました。
向日神社へ向かいます。
向日神社の前に「説法石」があります。
京都で布教活動を行っていた日像が、天台宗の僧侶らによって都を追われ、
京都で布教活動を行っていた日像が、天台宗の僧侶らによって都を追われ、
西へと向かう道中で、向日神社に立ち寄りました。
そこに二羽の白いハトが飛んできて、日像の衣のすそをくわえて離さなかった。
そこに二羽の白いハトが飛んできて、日像の衣のすそをくわえて離さなかった。
そうするうちに、日像は鶏冠井村のお年寄りに教えを請われ、
木陰の石に腰を下ろして説教しました。
日像が説法に使ったとされる石は当初、参道の中間にありましたが
日像が説法に使ったとされる石は当初、参道の中間にありましたが
廃仏棄釈の際に神社から出され、「説法石」として現在地に安置されました。