相国寺から今出川通を西に進み、烏丸通を右折・北上した一筋目の西北角に
大聖寺があります。
大聖寺は山号を岳松山と号し、花の御所の跡地の一部にあり、
大聖寺は山号を岳松山と号し、花の御所の跡地の一部にあり、
御寺御所とも称する、天皇家ゆかりの尼門跡寺院で、
神仏霊場・第98番札所となっています。
日野宣子(のぶこ)は、貞治7年(1368)、光厳天皇の法事が天龍寺で行われた際、
春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を導師として落飾(出家)しました。
出家後、無相定円と称し、義満に招かれ花の御所内の岡松殿に住しました。
永徳2年(1382)、無相定円が亡くなった後、西園寺実衡(さいおんじ さねひら)の
出家後、無相定円と称し、義満に招かれ花の御所内の岡松殿に住しました。
永徳2年(1382)、無相定円が亡くなった後、西園寺実衡(さいおんじ さねひら)の
孫である玉厳悟心尼(ぎょくがんごしんに)を開基として、
岡松殿を寺にしたのが大聖寺です。
寺号は無相定円の法名「大聖寺殿無相定円禅定尼」に因み、
寺号は無相定円の法名「大聖寺殿無相定円禅定尼」に因み、
山号の岳松山は岡松殿に由来します。
室町時代、北朝最後の第6代・後小松天皇の内親王が入寺して以降、
皇女が入寺するようになりました。
寺はその後、永享2年(1430)に長谷(現・左京区岩倉長谷町)に移転し、
寺はその後、永享2年(1430)に長谷(現・左京区岩倉長谷町)に移転し、
さらに文明11年(1479)には毘沙門町(現・上京区上立売通寺町西入る)に
移転しましたが、延宝元年(1673)に焼失しました。
正親町天皇の皇女が入寺した際、天皇から尼寺第一位の綸旨を得、
正親町天皇の皇女が入寺した際、天皇から尼寺第一位の綸旨を得、
御寺御所と称される尼門跡寺院となっています。
現在地には聖護院がありましたが、延宝3年(1675)に焼失し、
現在の左京区に移転して跡地が残されていました。
江戸時代の元禄10年(1697)、現在地に大聖寺が再興されました。
その後、天巌永皎(てんがん えいこう)が住持職の時に
「御寺御所」の称号を授かりました。
山門は江戸時代後期(1751~1830)に建立されたものを、大正11年(1922)に
移築したもので、国の重要文化財に指定されています。
門を入った左側に第27世・花山院慈薫(かさのいん じくん)の歌碑
「九品仏 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」
が建立されています。
宮御殿の東側にある玄関は大正12年(1923)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
桁行15m、梁間5,3m、入母屋造桟瓦葺で、東面に唐破風造銅板葺の
桁行15m、梁間5,3m、入母屋造桟瓦葺で、東面に唐破風造銅板葺の
大きな車寄せがあります。
南から応接室、玄関、内玄関、納戸を並べ、背面に廊下で本堂と繋がれています。
渡り廊下と本堂も、国の重要文化財に指定されていますが、内部は非公開です。
南から応接室、玄関、内玄関、納戸を並べ、背面に廊下で本堂と繋がれています。
渡り廊下と本堂も、国の重要文化財に指定されていますが、内部は非公開です。
本堂前庭の枯山水式庭園は、江戸時代中期の元禄10年(1697)に
第109代・明正天皇の「河原の御殿」から形見として樹木や石が
下賜されて作庭されました。
大聖寺庭園は京都市の名勝に指定されています。
大聖寺庭園は京都市の名勝に指定されています。
洛陽十二支妙見(西陣の妙見宮)札所である善行院へ向かいます。
続く
続く