国道1号線から国道161号線へと左折し、京阪電車・大津線の踏切を越え、
大津線が161号線の路面を走るようになった3つ目の信号を左折し、
突き当りを右折し、その先の四つ角で左折した突き当りに長等神社があります。
現在の楼門は明治38年(1905)に完成したもので、
大津市の文化財に指定されています。
楼門には、色鮮やかな随身の装束をした2神像が安置されています。
長等神社は天智天皇が近江大津宮へ遷都(西暦667年)の際に都の鎮護として、
須佐之男命を志賀の長等山岩座谷の地に祀られたのが始まりです。
天智天皇8年5月5日、天智天皇が宇治より還行の時、弓と矢を奉納され、
天智天皇8年5月5日、天智天皇が宇治より還行の時、弓と矢を奉納され、
この日が例祭日と定まりました。
貞観2年(860)、園城寺の開祖・智証大師円珍が日吉大神を勧請合祀され、
貞観2年(860)、園城寺の開祖・智証大師円珍が日吉大神を勧請合祀され、
園城寺の鎮守社として、新日吉社・新宮社としました。
天喜2年(1054)、庶民参詣のため山の上から現在地に遷座され、
永保元年(1081)には白河天皇が勅使を遣わし、国家安寧の祈願を行い、
官符を下して「日吉祭り」が勤行されました。
以来、日吉大社と対比して「湖南の大社」として隆盛を極めましたが、
以来、日吉大社と対比して「湖南の大社」として隆盛を極めましたが、
山門・寺門の衆徒の闘争により、度々の兵火で被災しました。
鎌倉幕府は、宇津宮頼綱(うつのみやよりつな)に命じて社殿を造営しましたが、
延元元年(1336)には兵火で焼失しました。
興国元年(1340)、足利尊氏により社殿が再興され、寛文11年(1671)に
興国元年(1340)、足利尊氏により社殿が再興され、寛文11年(1671)に
大修理が施されて以降、天明年間(1781~1789)、
寛政年間(1789~1801)にも修理が行われています。
門を入った正面に拝殿があります。
画像はありませんが、拝殿の左側に平清盛の末弟である
木曽義仲に都を攻められ兵庫へと敗走しました。
義仲軍は、平家が援軍を求めるであろう比叡山にも手を伸ばし、
義仲軍は、平家が援軍を求めるであろう比叡山にも手を伸ばし、
東坂本には五万騎が集結していたと云われています。
忠度は、都落ちした後に6人の従者と都へ戻り、俊成の屋敷に赴いて
忠度は、都落ちした後に6人の従者と都へ戻り、俊成の屋敷に赴いて
自分の歌が百余首収められた巻物を俊成に託しました。
『千載和歌集』の撰者となった俊成は、その中から上記の一首を
『千載和歌集』の撰者となった俊成は、その中から上記の一首を
「詠み人知らず」として掲載しました。
本殿の周囲には回廊がありますが、カメラの調子が悪く
回廊内部の画像が撮れていませんでした。
本殿
祭神は建速須佐之男大神(たてはやすさのをのおおかみ)と
大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)で、1月14日~16日には、
建速須佐之男大神が退治した八岐大蛇(やまたのおろち)に災厄を託す
「綱打祭(つなうちさい)」が行われます。
大山咋大神は、神代の昔より比叡山に鎮座する地主神で、
日吉大社・東本宮の祭神です。
配祀神に市杵島姫大神(いちきしまひめのおおかみ)、
宇佐若宮下照姫大神(うさわかみやしもてるひめのおおかみ)、
八幡大神(やはたのおおかみ)が祀られています。
本殿の北側に両御前神社があり、その北側に馬神神社があります。
かって、大津東町に鎮座され、馬の守護神として、徃古から道中の馬の無事、
かって、大津東町に鎮座され、馬の守護神として、徃古から道中の馬の無事、
安全が祈願されてきましたが、明治34年(1901)に長等神社境内地に
遷座されました。
前回の行願寺でカメラが故障し、帰宅してから調整して直ったと
思っていたのですが、殆どの画像が白とびしていました。
今回補正して使えるものだけ掲載しましたが、今回の行程の
今回補正して使えるものだけ掲載しましたが、今回の行程の
長等神社~岩屋寺は後日、撮り直しを行いたいと思います。
長等神社の横にある三井寺の入口から三井寺を巡ります。
続く
続く