Quantcast
Channel: kor**kor*_ishik*r*のブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 497

三井寺-その1

$
0
0
イメージ 1
長等神社の横の受付で、文化財収蔵庫の入館料が含まれた
特別拝観券800円を納めて、先にある石段を上ります。
石段の途中に「中坂世継地蔵」が祀られた地蔵堂があります。
江戸時代、なかなか子供が授からない女性が、小さな地蔵菩薩を彫って
祈願し奉納したところ、たちまち身ごもったとの伝承が残されています。
現在の地蔵堂は、文久2年(1819)に建立されたもので、
大津市の文化財に指定されています。
イメージ 2
石段を上った正面に観音堂があり、西国三十三所観音霊場の
第十四番札所となっています。
かって、観音堂は聖願寺とも正法寺とも呼ばれ、現在地から険しい道を
登った山上で、女人結界となっていた「華の谷」にありました。
室町時代の文明9年(1477)のある夜、寺中の僧たちの夢の中に老僧が現れ、
「自分は華の谷に住まう者だが、いまの場所では
大悲無辺の誓願を達成できないので、 これからは山を下り
人々の参詣しやすい地に移り、衆生を利益したい」と告げられました。
僧たちが夢告に従い、文明13年(1481)に現在の地に遷されたと伝えられています。
イメージ 3
現在の観音堂は、江戸時代の貞享3年(1686)に焼失後、
元禄2年(1689)に再建されたもので、滋賀県の文化財に指定されています。
礼堂・合の間・正堂からなり、内部には多くの絵馬が奉納されています。
その中には観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、
その「落慶図」も残されています。
本尊は如意輪観音で、脇侍として愛染明王と毘沙門天が祀られています。
如意輪観音坐像は、平安時代作で像高91.6cmの木造・漆箔像ですが秘仏とされ、
33年に一度開帳されます。
愛染明王坐像は、平安時代作で像高92.1cmの木造・彩色像で、
如意輪観音坐像とともに、国の重要文化財に指定されています。
イメージ 4
観音堂の前には石仏が祀られています。
イメージ 5
観音堂の前方に手水舎があり、その南方向に展望台への石段があります。
手水舎は大津市の文化財に指定されています。
イメージ 6
展望台の傍らには三基の宝篋印塔がありますが詳細は不明です。
イメージ 7
展望台の先には、更に山の上の方へと続く石段があり、
「華の谷」へと続いているように思われます。
イメージ 8
展望台を右方向へ進むと「大津そろばん記念碑」が建立されています。
慶長17年(1612)、長崎奉行・長谷川藤広に随行して長崎に赴いた片岡庄兵衛は、
明(みん)人からそろばんの見本と使用方法を授かって帰郷しました。
庄兵衛は研究を重ね、日本人に適した形に改良し、大津そろばんを完成させました。
その後江戸幕府から「御本丸勘定方御用調達」に任命され算盤の家元となり、
制作方法の伝授・価格の決定等を一任されるようになりました。

旧東海道、逢坂の関付近が起源で、盛んに製作されていたそうですが、
明治になって鉄道開通に伴う立ち退き等の影響を受け
完全に消滅しました。
現代、生産高8割を占める播州そろばんは、 天正年間(1573~1593)の
三木城落城に際して大津に避難していた人々が、技術を
習得し持ち帰ったという逸話が残されています。
イメージ 9
展望台からの観音堂
イメージ 10
展望台からの三重塔
イメージ 11
展望台から観音堂へと戻った所に絵馬堂があります。
イメージ 12
絵馬堂から、長等神社から上ってきた石段を挟んで「観月舞台」があります。
江戸時代の嘉永3年(1849)に建立されたもので、
滋賀県の文化財に指定されています。
眼下に琵琶湖の景観を望む、「観月の名所」と呼ばれるに相応しい場所にあります。
イメージ 13
「観月舞台」の北側に「百体堂」があります。
江戸時代の宝暦3年(1753)に建立されたもので、
滋賀県の文化財に指定されています。
堂内中央に観音堂本尊と同じ如意輪観音像、その左右に西国礼所の
三十三観音像が安置されています。
右には坂東三十三箇所、左には秩父三十四箇所の本尊を安置し、
合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれています。
イメージ 14
「百体堂」から「毘沙門堂」へと下る石段を挟んだ所に鐘楼があります。
江戸時代の文化11年(1814)に上棟されたことが棟札に残され、
滋賀県の文化財に指定されています。
かって、この鐘楼には「童子因縁の鐘」と呼ばれた梵鐘が吊るされていました。
この鐘を鋳造するに際し、当時の僧たちは大津の町々を托鉢行脚しました。
とある富豪の家に立ち寄り勧進を願ったところ、その家の主は
「うちには金など一文もない。
子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進しよう」との返事で、
そのまま帰ってきました。
日が改まり、梵鐘が出来上がると不思議にもその鐘には三人の子供の
遊ぶ姿が浮かび上がっており、 その日にかの富豪の子供三人が
行方不明になったという伝説が伝わっています。
残念ながら、その梵鐘は戦時供出され、現在は重要文化財の「朝鮮鐘」を
模鋳したものが吊られています。
イメージ 15
鐘楼横の石段を下った左側に「十八神社」があり、
山内の土地・伽藍を守護する神々が祀られています。
また、「ねずみの宮」とも呼ばれています。
『太平記』によると、園城寺の僧・頼豪(らいごう)は、承保元年(1074)に
白河天皇の皇子誕生を祈願し、敦文親王(あつふみしんのう)が誕生したことから、園城寺の戒壇道場建立の勅許を得ました。
しかし、対立していた比叡山の強訴により勅許が取り消されてしまい、
これを怒った頼豪は、二十一日間の護摩をたき壇上に果ててしまいました。
その強念が八万四千のねずみとなって比叡山へ押し寄せ、
堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと伝わります。
現在の建物は、江戸時代の天保7年(1836)に再建されたもので、
比叡山に向かって建てられています。
イメージ 16
「十八神社」の右方向に毘沙門堂があります。
江戸時代の元和2年(1616)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
宝形造、唐様式の小建築物で、極彩色が施されています。
元和2年(1616)、園城寺五別所の一つ尾蔵寺の南勝坊境内に建立されたのですが、
明治42年(1909)に三尾社の下に移築、
昭和31年(1956)の解体修理に際して現在地に遷されました。
イメージ 17イメージ 18
















イメージ 19イメージ 20
















毘沙門堂から参道は緩い下り坂で、参道の両側には石仏が祀られています。
イメージ 21
更に坂を下った左側に天台智者大師像が建立されています。
智(ちぎ:538年 ~ 597年)は、中国の南北朝時代から隋にかけての僧侶で、
天台教学の大成者であり、天台宗の開祖とも慧文(えもん)、
慧思(えし)に次いで第三祖ともされています。
智は天台大師とも智者大師とも尊称されています。
イメージ 22
智の像の右側に微妙寺があります。
微妙寺は、圓城寺五別所(別院)の一つで、
平安時代の正暦5年(994)に創建されました。
本尊は、平安時代作、像高81.8cmの十一面観音立像で、
国の重要文化財に指定されています。
もとは、五別所の一つ、尾蔵寺の本尊でしたが、尾蔵寺の廃寺に伴い、
微妙寺に安置されました。
古くから、厄除開運、健康長寿、財福授与などを願う参詣客で賑わい、
かぶっていた笠がぬげるほどだったことから「笠ぬげの観音さま」として
信仰されてきました。

微妙寺から参道を挟んだ向かい側に文化財収蔵庫があります。
平成26年(2014)10月に、宗祖・智証大師生誕1200年慶讃記念事業として
開館されました。
微妙寺本尊の十一面観音立像や梵鐘の朝鮮鐘などが収蔵されていますが、
館内の撮影は禁止されています。

金堂へ向かいます。
続く

Viewing all articles
Browse latest Browse all 497

Trending Articles