上賀茂神社から東へ進み、深泥池(みどろがいけ)沿いを北上して、
宝ヶ池通で右折し再び東に向きを変え、突き当りで左折し北上します。
その先で三宅八幡神社の方へ右折し、神社沿いに北上し、その先で住宅街を
その先で三宅八幡神社の方へ右折し、神社沿いに北上し、その先で住宅街を
左折、右折、左折、右折、左折と繰り返し、少し坂を登った先に大超寺があります。
大超寺は山号を安穏山と号す浄土宗の寺院です。
天正19年(1592)、浄福寺の勝誉泰童(たいどう)によって
天正19年(1592)、浄福寺の勝誉泰童(たいどう)によって
浄福寺の付近に創建されました。
泰童上人の母が病を患い、念持仏であった薬師如来に祈願したところ、
泰童上人の母が病を患い、念持仏であった薬師如来に祈願したところ、
病気が平癒したので、堂宇を建て、薬師如来を本尊としたとの伝えがあります。
また、後陽成天皇の母・新上東門院の帰依を受け、境内地を賜って創建され、
また、後陽成天皇の母・新上東門院の帰依を受け、境内地を賜って創建され、
勅願寺になったとも伝わります。
現在でも浄福寺付近には泰童町という町名が残されています。
現在地には昭和59年(1984)に移転してきました。
現在でも浄福寺付近には泰童町という町名が残されています。
現在地には昭和59年(1984)に移転してきました。
平日の場合は、予約が必要です!!
本堂へと案内していただきました。
廊下の横には坪庭がありました。
本堂には徳川第8代将軍・吉宗から寄進された豪華な須弥壇があります。
大超寺は江戸時代の享保15年(1730)に焼失し、その後再建されています。
再建の際に、徳川家からの援助があったと想像されます。
大超寺は江戸時代の享保15年(1730)に焼失し、その後再建されています。
再建の際に、徳川家からの援助があったと想像されます。
本尊は阿弥陀如来立像で、恵心僧都・源信作と伝わります。
京都十二薬師霊場・第8番の札所本尊である鍬形薬師(くわがたやくし)は、
京都十二薬師霊場・第8番の札所本尊である鍬形薬師(くわがたやくし)は、
鍬で畑を耕していた時に、掘り出されたとされています。
薬師如来像にはその時の傷が残り、鍬形薬師と呼ばれるようになりました。
薬師如来像にはその時の傷が残り、鍬形薬師と呼ばれるようになりました。
都七福神めぐりの福禄寿、神仏霊場・第107番札所の赤山禅院へ向かいます。
続く
続く