当初、久御山町役場から久御山町中部を巡る予定でしたが、
京阪淀駅から京阪バスの京阪宇治駅行きに乗り、藤和田で下車に変更しました。
バス停から先、淀生津の信号を左折して島田の堤防跡を進むのですが、
旧木津川とされる所との高低差が殆どありません。
地名だけは「古堤防中村」と残されています。
地名だけは「古堤防中村」と残されています。
先に進むと右方向は少し上り坂、左方向は少し下り坂になったY字路に
なりますので、左方向に進みます。
道路の傍らに、たわわに実をつけた柿の木が立っています。
「誰も取らないのだろうか?」「きっと渋柿だろう」と余計な事を
道路の傍らに、たわわに実をつけた柿の木が立っています。
「誰も取らないのだろうか?」「きっと渋柿だろう」と余計な事を
考えてしまいます。
地図では柿の木から道路が直進しているようですが、実際には左に曲がっていて、
地図では柿の木から道路が直進しているようですが、実際には左に曲がっていて、
その先で直進している道路に交わるようです。
直進している道路の中ほど、細い路地の突き当たりに妙蓮寺があります。
直進している道路の中ほど、細い路地の突き当たりに妙蓮寺があります。
妙蓮寺は、「御牧郷寺社明細帳」によると室町時代後期の
天文元年(1532)に開基されたと伝わります。
封戸村の西福寺と島田村の浄音寺を末寺に持っていましたが、
封戸村の西福寺と島田村の浄音寺を末寺に持っていましたが、
淀藩が通達した触書「貧寺は破棄、無住寺は廃寺、跡地は開墾する」により、
両寺とも廃寺となり、跡地は農民に払い下げられました。
妙蓮寺は、宝暦7年(1757)7月21に本堂などを焼失し、過去帳などが失われました。
妙蓮寺は、宝暦7年(1757)7月21に本堂などを焼失し、過去帳などが失われました。
本堂と庫裏の間には、何やら不思議な石柱が...
庭園は綺麗に手入れされているのですが、なぜソテツが...
妙蓮寺の前を東に進むと南北の広い通りに出られ、
その通りを右折して府道へと出ます。
ローソンを通り過ぎると、通りの向かいに消防署があり、
ローソンを通り過ぎると、通りの向かいに消防署があり、
久御山町役場と並んでいます。
角に交番があるT字路の信号で役場側に渡り、
角に交番があるT字路の信号で役場側に渡り、
少し進んだ先を右折すると郵便局があります。
先に進むとY字路になり、国道1号線の下をくぐり木津川の堤防沿いへと
先に進むとY字路になり、国道1号線の下をくぐり木津川の堤防沿いへと
続いていきます。
堤防へと上がる階段が見える所、下津屋区公民館の横の路地を入った突き当たりに
迎接寺(こうしょうじ)があります。
迎接寺は、下津屋集落唯一の寺院で、元は天台宗の寺院として創建されたと
考えられています。
築地塀には三本線が引かれています。
築地塀には三本線が引かれています。
山門の瓦には、菊花紋が入っています。
戦国時代の天文18年(1549)に称念上人によって中興され、
浄土宗に改宗されました。
現在の本堂は平成11年11月に再建されました。
本堂には聖観音菩薩坐像が安置されていて、この像は平安時代前期の作で彩色され、像高は77.6cmで、久御山町の文化財に指定されています。
巨椋池周辺では最古の観音菩薩像とされ、彩色は現在では剥落しています。
元は、迎接寺の先にある室城神社(むろきじんじゃ)の神宮寺の本尊
巨椋池周辺では最古の観音菩薩像とされ、彩色は現在では剥落しています。
元は、迎接寺の先にある室城神社(むろきじんじゃ)の神宮寺の本尊
であったと考えられています。
神宮寺は、護国山神宮寺妙観院と称し、真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)の末寺
神宮寺は、護国山神宮寺妙観院と称し、真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)の末寺
でしたが明治初期に廃寺となりました。
境内には経塚が設けられていました。
歴史の有りそうな石塔もあります。
木津川の堤防沿いの道まで戻り、を迎接寺から上流側に進んだ先に
室城神社があります。
室城神社の創建は、奈良時代の神亀年間(724~49)に近国で発生した
大洪水によって民衆が飢えていた時、聖武天皇の勅により、
天神地祇(てんじんちぎ)を祀ったのが始まりとされています。
また、聖武天皇の在位中(724~49)に悪病の流行があり、
また、聖武天皇の在位中(724~49)に悪病の流行があり、
天皇は当社に弓矢を献奉してその退散を祈願されました。
現在行われている春祭りの矢形餅(やかたもち)神事の起源とされ、
現在行われている春祭りの矢形餅(やかたもち)神事の起源とされ、
神事では弓矢をかたどった神饌(しんせん)が供献されます。
室城神社の旧鎮座地は「室ノ木」でしたが、寛永7年(1630)に木津川の
室城神社の旧鎮座地は「室ノ木」でしたが、寛永7年(1630)に木津川の
堤切れを起こした洪水により壮大な社殿は流失しました。
大正3年(1914)、木津川改修工事により、現在地に遷され、
大正3年(1914)、木津川改修工事により、現在地に遷され、
旧社地は木津川の底となりました。
境内に入った左側に「榎」と思われる木が祀られています。
室城神社の名称について、「神社要録」「神名帳考証」に
室城神社の名称について、「神社要録」「神名帳考証」に
室城とは室樹のことをいい、当社はこの地区を開拓した豪族の
榎室連(えむろのむらじ)の祖を祀った神社であろうとしています。
古代豪族であった榎室連は、天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖とし、
古代豪族であった榎室連は、天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖とし、
この地の開拓に携わりました。
聖徳太子が久世郡水主郷の水主古麻呂の家に立ち寄った際に、
聖徳太子が久世郡水主郷の水主古麻呂の家に立ち寄った際に、
門に榎の大樹があり、太子は「樹がまるで室のようであり、
これなら大雨でも水が漏れない」と述べられ、
榎室連の姓を授けられたとの伝承が残されています。
手水舎には龍身の手水鉢が置かれています。
鳥居の正面には稲荷社が位置しています。
稲荷社の前に燈籠が建っていて、舞殿から拝殿・本殿へと続いています。
舞殿と本殿は、昭和36年に修理が行われました。
舞殿と本殿は、昭和36年に修理が行われました。
拝殿
本殿
の四神が祀られています。
本殿の左側には住吉社が祀られています。
下津屋は古くから木津川の舟運の津として発達した集落と考えられることから、
下津屋は古くから木津川の舟運の津として発達した集落と考えられることから、
津を守護する住吉神社を祀ったと考えられます。
室城神社には、かって御幣座、北座、南座と三座の宮座があり、それぞれ祭祀を司っていました。
木津川改修工事で、木津川の流路が下津屋を南北に分断したため、
木津川改修工事で、木津川の流路が下津屋を南北に分断したため、
祭神を分神し、対岸の上奈良村(現・八幡市)に御園神社に祀られるようになり、
獅子を譲り受けました。
以後、御園神社の祭儀は南座が司るようになりました。
御幣座と北座は神輿を譲り受け、現在では下津屋全体で奉祭するようになりました。
以後、御園神社の祭儀は南座が司るようになりました。
御幣座と北座は神輿を譲り受け、現在では下津屋全体で奉祭するようになりました。
神社に隣接した池には大きな鯉が泳いでいました。
室城神社から第二京阪道路の下をくぐって浄安寺へ向かいます。
続く
続く