短い石段を上ると仁王門があります。
施福寺は、天正9年(1581)に織田信長の焼き討ちにより、
伽藍は悉く灰燼に帰しました。
江戸時代初期の慶長8年(1603)に豊臣秀頼の支援により伽藍が復興されましたが、
弘化2年(1845)の山火事で伽藍を焼失し、この仁王門だけが焼け残りました。
ここから先は、山道になります。
建物の詳細は不明ですが、スズメバチらしき巣が見られます。
その蜂達も、今はもうどこかに行ってしまったようで、
時の流れの無情さを感じます。
一丁の丁石がある所にはベンチが置かれ、大阪湾が望めます。
肉眼では大阪湾に浮かぶ船まで確認できたのですが...
唯一下界が展望できる所です。
一丁石の先に、「弘法大師剃髪所跡」があります。
空海は延暦12年(793)の20歳の時、槇尾山寺において
勤操(ごんそう・ごんぞう)を導師として出家剃髪し、
沙弥戒(しゃみかい)を受けたと伝わります。
沙弥とは、原則として数え14歳から20歳未満の年少男性出家修行者を意味します。
また、勤操は西寺の別当に就任していて、弘法大師が東寺の別当であった時と
年代は異なるかもしれませんが、何か因縁を感じます。
ただ、空海が出家した時期については、『続日本後紀』所載の空海伝に言う
31歳出家説が今日では定説となっていますが、空海が唐からの帰国後、
都に戻る直前の大同4年(809)頃、当寺に滞在した可能性はあるようです。
堂内には、弘法大師作と伝わる愛染明王勤操大徳、空海の肖像が安置され、
西国愛染明王霊場の第十五番札所になっています。
堂内は暗く確認は困難でした。
石段の途中、左側に「弘法大師御髪堂」があり、剃髪した髪が納められています。
ようやく本堂前にたどり着くと、十一面千手千眼観世音菩薩像が出迎えてくれます。
右側、手水舎の横に急な石段があり、鳥居が建っていますので上ってみました。
鎮守社でしょうか?何も表記がないので詳細は不明ですが、稲荷社のようです。
展望は開けていますが、見えるのは山、また山の連なりのみです。
本堂の屋根です。
色が変わっているのは、葺き替え前・後でしょうか...?
石段を下り、本堂の左側を奥へ進むと本坊があります。
しかし雨戸が閉ざされ、雑草が伸びています。
本坊前の右側に短い石段があり、その上の方に石垣などが見られますが、
立入は禁止されています。
かつては808の僧坊、3,000人の僧衆が住んでいたそうです。
本堂前に戻ります。
施福寺(せふくじ)は、山号を槇尾山(まきのおさん)と称し、
槇尾寺(まきおでら、まきのおでら)とも呼ばれています。
本尊は弥勒菩薩。
槇尾山(標高600m)の山腹、標高約500mの所に位置します。
槇尾山の名の由来は、
役小角(えん の おづの /おづぬ /おつの・役行者)が、
自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、
最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いた
との伝承が残されています。
西国三十三所・第四番札所、和泉西国三十三箇所・第1番札所、
西国愛染十七霊場・第15番札所、神仏霊場巡拝の道・第52番札所となっています。
南北朝時代成立の『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、
施福寺は
欽明天皇の時代に行満上人によって創建されたと伝わります。
古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として
創建されたとみられています。
また、札所本尊の十一面千手千眼観世音菩薩像にまつわる
次のような伝承が残されています。
『宝亀2年(771)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、
一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間を
この寺で過ごさせてくれと頼んだ。
この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間、
熱心に修行に励んだ。
予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが、
寺僧たちはそれを拒んだ。
すると、客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、
真の出家者などはいないではないか。
このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで、
出て行ってしまった。
驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を、
沈みもせずに歩いている。
これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた
観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀った。』
夏安居とは、僧が、夏(げ)の期間、外出せずに一所に こもって修行をすることです。
その時彫られた観音像は、その後の火災で焼失し、現在、本堂の本尊、
弥勒菩薩の脇侍として安置されている像は、江戸時代に本堂が再建された際に、
造られたものです。
施福寺は度重なる火災で古記録が失われており、真偽のほどは定かでは
ありませんが、延喜16年(916)に定額寺に定められたと縁起に記されています。
定額寺とは、奈良・平安時代に官大寺・国分寺(尼寺を含む)に次ぐ寺格を
有した仏教寺院であり、この時代には著名な寺院であったことが伺われます。
仁治年間(1240年~1243)には、仁和寺菩提院の僧・行遍によって
灌頂堂が建立されており、中世には当寺は仁和寺の支配下にありました。
南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に組したため、
戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡しました。
天正9年(1581)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われましたが、
豊臣秀頼の援助により、慶長8年(1603)に伽藍が復興されました。
近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間(1624~1645)頃に
真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となりました。
江戸時代末期の弘化2年(1845)の山火事で、仁王門を除く伽藍を焼失し、
現在の本堂等はその後に再建されました。
本堂の前には馬の像があります。
花山法皇は、
粉河寺から施福寺へ山越えしようとしたのですが、道に迷い、
途方に暮れていた所、何処からともなく馬が現れ、その馬に導かれて無事、
施福寺に着くことができたと伝わります。
法皇がそのことに感謝して、奉納されたと云う馬頭観音像が本堂の内陣右側に
安置されています。
馬頭観音像は秘仏とされ、50~60年に1度、開帳されるそうですが、
訪れた6月9日は本堂の内陣が公開され、馬頭観音像を拝見することができました。
内陣の左側に方違大観音像が安置されています。
日本で唯一とされるこの観音さんは、悪い方角を良い方角に変えてくれる
御利益があります。
特に転居や結婚など人生の大きな節目や変わり目にお参りすると、
変化はチャンスにすることができるかも...
内陣背後のには、左右に弘法大師像と伝教大師像が安置され、
壁面には天部の像が多数安置されています。
また、釈迦涅槃像も安置されています。
内陣の拝観には500円が必要でしたが、多くの仏像と対面でき、感動を覚えました。
本堂前の広場には観音像や子育地蔵尊、智慧如来などが祀られています。
広場の奥の方に観音堂があります。
堂内には、西国三十三所の本尊が安置されています。
観音堂の奥に展望台があります。
鎮守社からと同じような景色が望まれます。
本堂前から下り、駐車場に出る手前にある「満願滝 弁財天」へ向かいます。
続く