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西本願寺-花灯明

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花灯明は、7時から大玄関門から一定の人数づつ、時間を置いて入場できます。
大玄関門は、江戸時代弘化4年(1847)に建立され、両側に門番屋が付いています。
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花灯明の待ち時間、龍谷大学の大宮学舎が公開されていました。
龍谷大学の歴史は、江戸時代の寛永16年(1639)に西本願寺境内に
創設された学寮に始まり、その発祥の地が現在の大宮学舎です。
正面にシンボル的な本館があり、明治12年(1879)に竣工され、
国の重要文化財に指定されています。
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南黌(こう)-1
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南黌-全景
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北黌
南北の教室棟である南黌・北黌も同年竣工で、国の重要文化財に
指定され、本館とともにライトアップされています。
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レンガ造りの旧守衛所も同年竣工で、明治を感じさせます。
国の重要文化財に指定され、
現在は龍谷大学のオリジナルグッズが展示されています。
残念ながら当日は閉じられていました。
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ようやく順番が来て大玄関門から中へ入ります。
ライトアップされた唐門は、一際華やかで美しく見えます。
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大玄関は幽玄さが漂っています。

順路は書院へと入りますが、白書院は閉じられていました。
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書院を出て飛雲閣へ入ります。
飛雲閣は、豊臣秀吉が建立した聚楽第の一部が移築されたと伝わります。
聚楽第は、関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として
天正14年(1586)に着工され、翌年に完成しましたが、
文禄4年(1595)には秀吉の手によって取り壊されました。
飛雲閣は、池泉式庭園・滴翠園(てきすいえん)の奥に配され、
滴翠園は名勝、飛雲閣は国宝に指定されています。
楼閣建築の最高傑作とされ、金閣、銀閣とともに京都三名閣の
一つに数えられています。
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三層からなり、初層の東側に茶室・憶昔席(いくじゃくのせき)があり、
右隣の舟入の間には唐波風屋根があります。
かっては、船で舟入の間から出入りしたそうです。
八景の間をはさんで主室招賢殿には入母屋屋根で、
全体の左右が非対称になっています。
二層にある歌仙の間には、8畳の上段の間と17畳の下段の間があります。
三層の摘星楼は、8畳の広さで4周に軍配形などの窓があり、
窓を開けると楼内から星が掴めるように見えたことから名付けられました。
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北面・南面25.8m、西面12.4mの規模で、
西面から廊橋で黄鶴台と結ばれています。
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東の高台には鐘楼があります。
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飛雲閣から出ると、築地塀沿いにライトアップされた
竹の飾りが展示されています。
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明かるい時に見た目隠し塀の前の飾りも、生き生きと輝いています。
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御影堂の上には月があり、暗い空にたった一つの灯明を灯しているようでした。
ライトアップされた御影堂門を後にして帰宅の途につきました。

次回は、西国三十三所の第二十二番札所・総持寺へ向かいます。

高槻城跡公園

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国道171号線の北大手の信号を、京都方面から左折した先に高槻城跡があります。
高槻城は、正暦元年(990)に近藤忠範が、久米路山と呼ばれる小丘に
築城したのが始まりとされていますが定かではありません。
高槻城の文献上の初見は、大永7年(1527)の桂川原の戦いで
山崎城に詰めていた薬師寺国長波多野稙通(はたの たねみち)に攻められ、
高槻城に逃亡した記録が残されています。
その後、入江春継が城主となり、入江城とも呼ばれました。
織田信長が摂津に侵攻、永禄11年(1568)に高槻城の北部にある
芥川山城を落城させると、高槻城も無血開城に近い形で降伏し、
三好三人衆と行動を共にしていた入江春継は、永禄12年(1569)の
本圀寺の変で敗退し、自害して滅んでしまったようです。
この時逆に活躍したのが芥川山城主であった和田惟政で、
信長より高槻城も与えられ、芥川山城の支城となっていた
高槻城を本城に戻しました。
元亀2年(1571)、荒木村重中川清秀が連合し、茨木重朝
居城・茨木城に迫ったため、和田惟政は茨木氏に加勢しました。
西国街道上の白井河原(現在の茨木川)を挟んで対峙しましたが、
荒木・中川連合軍の圧倒的多数の軍勢により、和田惟政は戦死しました。
荒木・中川連合軍は、高槻城を攻囲し、城下町を2日2晩かけて
すべて焼き払い破壊しましたが、信長が明智光秀に調停を命じ、
ようやく荒木・中川連合軍は撤兵しました。
その後、高山友照右近父子が城主となって天正4年(1576)に城内に
キリスト教会を建設、天正11年(1583)には修学寮も建設し、
領内には20ヶ所の教会、当時の高槻領人口の60%以上、
1万8千人もの人々がキリスト教徒になったと伝わります。
一方で、領内の神社仏閣は破壊され、神官僧侶は迫害を受け、
高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、
古い仏像の数も少ないという残念な結果になりました。
天正6年(1578)、荒木村重が信長に対して叛旗を翻すと、村重の支配下
にあった高山親子も高槻城に拠って信長に反抗しましたが、
右近は単身城を出て信長に降伏しました。
城に残った友照は捕縛され、越前国へ追放されました。
天正10年(1582)に本能寺の変で信長が討たれた後、右近は
天正13年(1585)に播磨船上城(ふなげじょう=明石市)へ転封され、高槻城は
秀吉の直轄領となりましたが、関ヶ原の戦い後は徳川氏の直轄地となりました。
慶安2年(1649)に永井直清が城主となり、侍屋敷の拡張、城下町の整備、
領内では水田開発、各所に碑を建てて文化行政にも力を注ぎ、
その後永井氏は13代にわたって高槻城主となり幕末に至ります。
明治4年(1871)、廃藩置県により廃城が決まり、明治7年(1874)には
破却が始まり、向日町駅~大阪駅間の鉄道敷設用材として
石垣などが利用されました。
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現在は城跡公園として、堀を模した池や石垣が築かれてはいますが、
城跡らしさはあまり感じません。
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公園内には、高山右近像が建っています。
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また、公園内には旧笹井家住宅が移築され、高槻市の文化財に指定されています。
江戸時代に、高槻城の北西に当たる地で、
笹井家は乾物や瀬戸物・米の商いをしていました。
古い民家の姿を残す貴重な建物として昭和57年(1982)に現在地に
移築・復元され、市立歴史民俗資料館の展示室として開館されています。
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高槻城跡には、明治42年(1909)から昭和20年(1945)まで、
大日本帝国陸軍工兵第4連隊が駐屯しました。
公園入口付近には、レンガ造りの営門が残されています。

西国三十三所・第二十二番札所の総持寺へ向かいます。
続く

総持寺-その1

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国道171号線の西河原の信号を左折し、JRの高架をくぐり、茨木郵便局の先で
左折した先、一段と高い所に山門が見えます。
山門は江戸時代中期の建立と見られています。
三間一戸の楼門で、北摂地方では箕面の勝尾寺、池田市の久安寺と総持寺の
三箇寺にのみ楼門形式の門が残されています。

総持寺には二つの定紋が掲げられています。
一つは開基・藤原山蔭家の家紋「桔梗」で、もう一つは仙台藩・伊達家の家紋
「竹に雀」です。
伊達家初代の伊達朝宗は、藤原山蔭の子孫と伝わります。
また、藤原山蔭は、藤原鎌足の6代目の孫に当たります。
江戸時代、仙台藩・伊達家は始祖・藤原山蔭の菩提寺である総持寺に帰依し、
仙台藩第3代藩主で、伊達家第19代当主の伊達綱宗(だて つなむね)は、
開山堂に祀られる藤原山蔭像を寄進されました。
その後も藤原山蔭廟所や堂宇の修繕などに寄進され、
伊達家から家紋を寺の定紋として賜りました。
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金剛力士像の阿形像(上)は、像高227.5cm、吽形像(下)の像高は226.7cmで
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての作例の特色を持っています。
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山門の手前右側に、贔屓(ひいき)に乗せられた寺号の石標が建っていますが、
総持寺の草創には亀が深く関わっています。
寺所蔵の縁起絵巻や『今昔物語集』などによると、開基・藤原山蔭の
父・藤原高房は、漁師たちが大亀を捕らえているのを見、
「今日18日は観音様の縁日だから」と言って、亀を買い取って逃がしてやりました。
その日の夜、高房の子・山蔭は、継母の計略で船から川に落とされました。
高房はこれを悲しみ、観音に祈ったところ、高房が助けた亀が、
山蔭を甲羅に乗せて現れたという。
高房の没後、山蔭が報恩のため観音像を造立し祀ったのが
総持寺の起源だとされています。
寺伝では元慶3年(879)頃、藤原山蔭が創建し、山蔭の三回忌の
寛平2年(890)に伽藍が完成したと伝わります。
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また左側には、懸崖造りの開山堂が見えます。
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山門をくぐって進んだ先、左側に賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)が
祀られています。
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賓頭盧尊者像の先に鐘楼があります。
鐘楼は江戸時代中期に建立されたとみられ、茨木市の文化財に指定されています。
現在の梵鐘は、高野山開創1200年を記念して新造されました。
かっての梵鐘は永享6年(1434)の銘があり、片桐且元(かたぎり かつもと)
陣中の鐘と伝わり、現在は納経所に保管されています。
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鐘楼の左側に池があり、池の中に閻魔堂があります。
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池の左側の丘には五社稲荷大明神が祀られています。
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境内の左側に不動堂があります。
天保14年(1843)に建立された経堂を、大正時代以降に不動堂に改修されました。
須弥壇中央の厨子には、本尊の不動明王像、脇侍として
矜羯羅童子(こんがらどうじ)像と制多迦童子(せいたかどうじ)像の
不動三尊像が安置されています。
また、正面右側に観音菩薩来迎像、左側に御前立の
不動明王立像が安置されています。
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不動堂の右側に荒神社があります。
荒神社は、昭和60年(1985)に解体修理が行われ、その際に発見された
墨書きから寛永20年(1643)に造営されたことが判明され、
茨木市の文化財に指定されています。
仏・法・僧の三宝を守護する三宝荒神として祀られています。
仏教では、荒神は如来の姿で表され、「如来荒神」と呼ばれています。
総持寺に伝来する「如来荒神画像」は収蔵庫で保管されています。
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荒神社の右側に宝蔵があり、寛永20年(1643)に造営され、
茨木市の文化財に指定されています。
大阪府下では四天王寺の宝蔵以外に校倉造が見られず、
全国的にも例の少ない建物です。
断面が五角形の校木が正面と側面で交互に組まれ、また入口が左に偏っています。
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承応元年(1651)の境内絵図では「御朱印蔵」として描かれ、
「御朱印蔵 経蔵」の扁額が掲げられています。
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宝蔵の右側に収蔵庫があります。
境内の奥の方へ向かいます。
続く

総持寺-その2

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境内の奥に鎮守社があり、江戸時代初期に建立されたと考えられ、
茨木市の文化財に指定されています。
元、箕面市にあった素戔嗚尊神社(すさのおのみことじんじゃ)の本殿でしたが、
総持寺に移築されました。
大黒天・弁財天・青面金剛(庚申・こうしん)が祀られています。
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鎮守社の右側に十三重石塔が建ち、その右側に包丁塚があります。
藤原山蔭が観音仏像を彫る仏師の童子に千日間、
魚鳥などを料理して毎日奉膳供養しました。
この千日料理の伝承から、山蔭を料理の始祖とたたえ、
日本料理の神として崇敬されるようになりました。
山蔭の命日に当たる4月18日には、室町時代から続くとされる
山陰流包丁式が行われ、包丁塚には包丁が奉納されます。
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包丁塚の右側に観音堂があり、普悲観音(ふひかんのん)が祀られています。
普悲観音とは、観音様の平等普遍の大慈悲心を特に強調した名前で、
「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第6番札所の本尊です。
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本堂の方へ戻ります。
本堂の左側に金堂(薬師堂)があり、慶安2年(1649)に建立されたもので、
茨木市の文化財に指定されています。
内陣須弥壇の厨子内に鎌倉~南北朝時代の作とされる像高55.5cmの
薬師如来像が安置されています。
脇侍には、江戸時代の作とされる日光・月光の菩薩像が安置され、
厨子の左右には、江戸時代作の十二神将が薬師三尊を守護しています。
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本堂の右前には水天社が祀られています。
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山門をくぐった正面に本堂があります。
本堂は、慶長8年(1603)に豊臣秀頼の命により、
片桐且元(かたぎり かつもと)を奉行として再建されましたが、
その後火災などで大破し、寛永期(1624~1645)と元禄期(1688~1704)に
大規模な修復が行われました。
一部慶長期、寛永期の部材を残しつつ、現在の本堂は元禄12年(1699)に
再建されたと考えられ、茨木市の文化財に指定されています。

本尊は、平安時代作で像高75.4cmの千手観世音菩薩像です。
縁起絵巻の続きが残されています。
藤原山蔭の父・藤原高房は、山蔭を助けた亀は観音菩薩の変身だと
信じて霊像を造ることを発願しました。
そこで、来日していた遣唐使に観音像を刻む香木を依頼したのですが、
当時の唐は香木の国外搬出が許されませんでした。
依頼を受けていた遣唐使は、「日本の藤原越前守高房に寄せる」と
香木に刻んで海に流しました。
年は流れ、高房が亡くなった後、藤原山蔭が中納言となり、父のあとを継ぎ
大宰帥(だざいのそつ)に任じられ任地に赴きました。
或る日、浜辺で、中国より流れ着いた木を発見し、
その木が父・高房が依頼した香木であることを知り、驚きと歓喜に包まれ、
高房の遺志を継ぐことを決心しました。
数年が経ち、任期を終えて香木を携えて京の都に帰ることになり、
山蔭の一行が茨木の辺り来た時、香木に根が生えたように動かなくなりました。
山蔭は途方にくれたが、ここは有縁の地であると気付き
『ここに、伽藍を建立する』と決意すると香木は軽くなりました。
都に帰った山蔭は、仏師を探すために奈良の長谷寺に籠もり祈願すると、
ある夜、夢枕に『明日の朝、下山のとき最初に出会う者が名工である』との
お告げがありました。
翌朝下山すると、一人の童子にめぐり合い、山蔭はその童子を屋敷に連れ帰り
観音菩薩を彫るように依頼しました。
すると童子は『仏を彫るのに千日かかる。その間、誰もこの仏舎に立入らないこと、そして、山蔭自身で私の食事を作ること』を申し出ました。
山蔭はこの申し出に従い、毎日違った料理を作り童子に差し出しました。
造仏を始めてより千日目の早朝、『長谷の観音様はどちらに』と
声が聞こえると仏舎より『行基菩薩よ、今帰るところよ』との答えがあり
童子は空に飛び立ちました。
山蔭が急いで仏舎に駆けつけると、千日間の食事が供えられた
千手観音菩薩立像が亀の座に立った姿で祀られていました。
この仏像を本尊として総持寺は建立されたと絵巻は伝えています。

本尊は秘仏とされ、毎年4月15日~21日の7日間のみ開帳されます。
また、本尊の脇侍として、像高57.4cmの難陀龍王立像と
像高50.6cmの雨宝童子立像が安置されています。
共に安土・桃山時代から江戸時代の復興作であると考えられています。
厨子前には御前立の千手観世音菩薩像と両脇侍(ともに江戸時代作)が
安置されています。

総持寺は、一条、後一条、白河、鳥羽天皇の勅願寺として栄えましたが、
次第に衰え、元亀2年(1571)の白井河原の合戦のとき、
織田信長の焼き討ちにあいました。
この時、観音像は下半身が焼け、炭化しながらも焼け残ったことから
「火伏観音」・「厄除観音」として信仰を集めました。
その後、天正6年(1578)、同10年(1582)の火災や、文禄3年(1594)の地震で
被害を受け、古くから伝わっていた記録類はほとんど失われました。
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本堂の右側に室町時代のものとみられる瓦窯跡(がようあと)があり、
茨木市の文化財に指定されています。
実際に発見された場所より西北西に約15m移され、窪地の上をガラスで
覆われていて、反射により内部の撮影を失敗しました。
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瓦窯跡の右側に大師堂があります。
総持寺は、高野山真言宗の寺院で、山号を補陀洛山(ふだらくさん)と称します。
大師堂は御影堂とも呼ばれ、真言宗の宗祖・弘法大師が祀られています。
寛政10年(1798)頃に描かれた『摂津名所図会』には、境内の西側に
記されていましたが、明治7年(1874)の境内絵図には描かれていませんでした。
現在の大師堂は、昭和47年(1972)に再建されました。
堂内中央には正保4年(1647)に寄進された弘法大師御影像が安置されています。
正面右側に弥勒菩薩坐像、左側に愛染明王坐像・不動明王立像が安置されています。
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大師堂の右側、山門の手前左側に納経所があります。
平成5~6年にかけて、納経所を建設する前に行われた事前調査で
瓦窯跡や室町時代の鋳造遺構などが発見されました。

国道171号線まで戻り、西河原の信号の角にある新屋坐天照御魂神社
(にいやにいますあまてるみたまじんじゃ)へ向かいます。
続く

新屋坐天照御魂神社-その1

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国道171号線の西河原の信号の北西角に新屋坐天照御魂神社があり、
同名の神社が茨木市内に三社あります。
延長5年(927)成立の『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座」
の記載がみられ、西福井にある同名神社から分祀されたも、
「三座」との記載があることから、それぞれが一座ずつに対応するものとも
みられています。
また、それぞれの位置関係をみると、西河原から西福井は、
夏至の日の入りの方角に当たります。
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激しい交通量がある国道から参道へと進むと、
鬱蒼とした木立の奥に社殿が佇んでいます。
かって磯良神社(いそらじんじゃ)の地に鎮座していましたが、
寛文9年(1669)に神域が縮小されて現在地に遷されました。
磯良神社は当社の境内社でしたが、同社の玉の井(疣水=いぼみず)が
疣取りに霊験があるとして崇敬を集めるようになり、
ついに社地を譲り独立させました。
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現在の社殿は江戸時代の寛文12年(1672)に造営されました。
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拝殿の奥にある本殿は、コンクリート造りの覆屋で厳重に護られています。
主祭神は天照御魂大神(あまてるみたまのおおかみ)で、
相殿には天児屋根命(あまのこやねのみこと)、
建御名方命(たけみなかたのみこと)が祀られています。
天照御魂大神については後述します。
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国道171号線を神戸方面に進み、中川原の信号から府道110号線に入り、
茨木福井郵便局の先にある信号を右折します。
その先にある朱塗りの宮橋を渡った所に鳥居が建っていて、
そこからがかっての参道だったのであろうと思われます。
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府道まで戻り、横断して進んだ先に西福井の新屋坐天照御魂神社があります。
第10代崇神天皇の御代、天照御魂大神(あまてるみたまのおおかみ)が、
神社背後の西の丘山(日降ヶ丘)に降臨され、物部氏の祖である
伊香色雄命(いかがしこおのみこと)を勅使として丘山の榊に木綿を掛け、
しめ縄を引いて奉斎したのが創祀とされています。
第14代仲衰天皇の御代、神功皇后が三韓征伐を行うに当たり新屋の川原にて
禊の祓と戦勝祈願をされました。
凱旋の後、天照御魂大神の荒魂、幸魂を西の川上と東の川下の辺りに
斎祀されました。
これが現在の西河原にある上河原社と宿久庄にある西河原社になります。
第26代継体天皇の御代に初めて奉幣使が遣わされて以来、
第90代亀山天皇の御代まで219回の奉幣使が遣わされました。
平安時代は、延喜式内名神大社として栄えましたが、鎌倉時代になると衰微し、
室町時代末期の大永7年(1527)に起こった細川家の内紛である
大永の乱による兵火で神殿、神宝、神器悉く灰燼に帰しました。
天正12年(1584)、中川清秀によって社殿が再建されて基礎が構築されました。
現在の社殿は延宝6年(1678)に再建され、貞享3年(1686)に拝殿が、
天保12年(1841)には本殿が改修されています。
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鳥居をくぐり石段を上った左側に歴代天皇遥拝所があります。
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歴代天皇の遥拝所の右側に太神宮拝所があります。
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太神宮拝所の右側に神武天皇遥拝所があります。
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神武天皇遥拝所の右側に住吉大社遥拝所があります。
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住吉大社遥拝所の右側に天満宮があり、菅原道真公が祀られています。
鎮座年代は不明ですが、当社所有の古図にもその存在が記載されています。
本殿がある西側に移動します。
続く

新屋坐天照御魂神社-その2

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本殿の左側に摂社・須賀神社があり、素佐之男命(すさのおのみこと)が
祀られています。
須賀という言葉は、神話の中で素佐之男命が出雲国須賀に辿り着いた際、
「この地に来て私の心は清々しい」と述べたことに由来します。
社殿は昭和45年(1970)に改修されました。
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石段を上った正面に拝殿があります。
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拝殿の奥に本殿があります。
本殿の主祭神は天照御魂大神(あまてるみたまのおおかみ)で、
天照国照彦火明櫛玉饒速日命」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり
くしたま にぎはやひ の みこと)とも称され、『日本書紀』では、饒速日命、
『古事記』では邇藝速日命と表記されています。
『日本書紀』などによると天照御魂大神は、物部氏の祖神と伝わり、
神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って
河内国の河上の地に天降り、その後大和国に移ったとされています。
神武天皇塩土老翁(しょつちのおじ)から、東方に美しい土地があり、
天磐船で先に降りたものがいることと聞き、東征を決意しました。
神武一行は難波碕(現代の大阪)へたどり着き、今の東大阪市から
生駒山を目指しましたが、土着の長髄彦(ながすねひこ)が行く手を阻みました。
神武は「日(東)に向って敵を討つのは天の道に反す」として、
熊野へ迂回し北上して改めて長髄彦と対峙します。
長髄彦は饒速日命に仕えていて、饒速日命は長髄彦に神武天皇との戦いを
止めるよう戒めましたが、長髄彦は聞き入れなかったため、
饒速日命は長髄彦を殺害し、神武天皇に帰順して忠誠を誓いました。

相殿には天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)と
天饒石国饒石天津彦火瓊々杵大神(あまにぎしくににぎしあまつひこ
ほのににぎのおおかみ)が祀られています。
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本殿の右側に摂社・出雲社があり、大国主命(おおくにぬしのみこと)が
祀られています。
古くから出雲大社の遙拝所がありましたが、当社創建二千百年祭を
斎行するにあたり、平成17年(2005)に新しく建てられました。
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出雲社の右側に鳥居が建っていてます。
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鳥居をくぐると池があり、池の中に石神(大海神)が祀られています。
明治の中頃まで早魃の際、荒縄でしばり担いで耳原井手
(神社から南東方向)に行き、そこで水づけにし、
雨が降れば水から揚げて元の場所へ戻したと伝わります。
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池の奥に六社神社があります。
右から田畑神社:祭神・大歳神(おおとせしん)、
尾上神社:祭神・倭姫命(やまとひめのみこと)、
構八幡神社:祭神・応神天皇(おうじんてんのう)、
宇奈多理神社:祭神・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、
立川原神社:祭神・手力雄命(たじからおのみこと)、
つとの御前神社:祭神・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
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六社神社の左側に稲荷社 丸山稲荷と称し、伏見大社の奥社の
丸山稲荷を勧請したものと思われます。
貞享3年(1686)に刊行された古図にも記載があります。
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稲荷社の横から山道を200mほど登ると日降ヶ丘と呼ばれる小高い丘があります。
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登り道の途中、北方向の山が削られ、造成されています。
新屋とは、「新野」を意味し、古代における新開拓地の意味とされていますが、
現在でも奥地が開拓されているようです。
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丘の頂上は、第10代崇神天皇の御代、
天照御魂大神(あまてるみたまのおおかみ)が天降りされた地と伝わります。
この地から見ると、冬至に日の入りの方角に位置する所に宿久庄の
新屋坐天照御魂神社があるとされていますが、
樹木に覆われ、確認することはできません。
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国道171号線まで戻り、神戸方面に進んだ先、豊川一丁目の信号を右折して
府道4号線に入り、その先で勝尾寺川を渡った先に
宿久庄の新屋坐天照御魂神社(にいやにいますあまてるみたまじんじゃ)が
あります。
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小じんまりとした神社の左側にはモノレールが走っています。
残念ながら通り過ぎてしまい、画像に収めることができませんでした。
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宿久庄の新屋坐天照御魂神社は、神功皇后の御代に西福井から
分祀されたと伝わります。
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鳥居をくぐった正面に拝殿があります。
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拝殿からは建物で覆われ、外からは本殿を見ることはできません。
また、社殿が建立された経緯や詳細についても不明です。
主祭神は天照皇御魂大御神(あまてらすすめみたまのおおかみ)で、
相殿には天照国照彦火明大神(あまてるくにてるひこほあかりのおおかみ)と
天津彦瓊瓊杵大神(あまつひこににぎのおおかみ)が祀られています。

府道4号線まで戻り、西国三十三所第二十三番札所・勝尾寺へ向かいます。
続く

勝尾寺-その1

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勝尾寺(かつおうじ)は、標高400m余り、箕面の山中にあります。
山号を「応頂山」と称する高野山真言宗の寺院で、寺号は
「かつおじ」「かちおじ」とも読まれます。
府道4号線に面して勅使門があります。
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入山料400円を納めて境内に入ると、「お迎え地蔵さま」が迎えてくれます。
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仁王門(山門)は、寛文9年(1669)に豊臣秀頼により再建され、
平成8年(1996)に修復されました。
仁王門には山号「応頂山」の扁額が掲げられています。
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仁王像の詳細については不明です。
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山門をくぐると、「勝王山」の扁額が掲げられています。
寺号「勝王寺」は、清和天皇から賜りました。
元慶4年(880)、当時の住職・行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、
「勝王寺」の寺号を賜るが、「王に勝つ」という意味の寺号は畏れ多いとして
勝尾寺に差し控えたと伝わります。

清和天皇は、貞観18年(876)に第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に
譲位すると、2年半後の元慶3年(879)に出家し、畿内巡幸の旅に入り、
「勝尾山」に参詣したとの記述が『日本三代実録』にみられます。
清和天皇の勅額は、国道171号線勝尾寺口の南側の大鳥居に掲げられており、
この大鳥居は日本最古の町石の起点でもあります。
翌年、天皇は京都嵯峨水尾の地に入りましたが、病を発症し、
行巡の祈祷により回復の兆しを見せたものの、同年崩御されました。
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仁王門をくぐると大きな池があり、参道はその池に架かる橋を渡ります。
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池の中の島には弁財天が祀られています。
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池の奥には滝があり、勢いよく水が流れ落ち、池へと注がれています。
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池にはたくさんの鯉が泳いでいて、池の畔にある鯉のエサを撒くと
寄ってきますが、撒かなくても池に近づくだけで寄ってきます。
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参道まで戻ると「知恵の環」の出入口があります。
説明書きには、先に本堂・諸堂を参拝してから...とありましたので、
帰りに寄ろうと思って、立ち寄るのを忘れました。
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石灯籠が建ち並ぶ参道を進むと石段があります。
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石段の途中、右側に宝物館がありますが、非公開です。
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石段を上った広場の正面の池の中、多宝塔を背景に観音像が祀られています。
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観音像の左側に「一願不動堂」があります。
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一願不動尊が祀られていて、一つの願い事のみを叶える不動尊として
信仰されています。
一応、願い事をしましたが、まだ叶えられていません。
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不動堂の左側には「勝ち達磨奉納所」があり、多くの達磨像が奉納されて
いますが、この奉納所以外にもあらゆるところに達磨像が置かれています。
ただ一つの願い事に対して目を入れ、願いが叶い両目が入った勝ち達磨は、
まず荒神堂へ、続いて本堂へお礼の参拝をしてから奉納所へ納められています。
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参道を進んで行くと城壁のように石垣が積まれています。
三宝荒神堂へ向かいます。
続く

勝尾寺-その2

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石段を上って右側に入った所に「三宝荒神堂」があります。
宝亀3年(772)、開成皇子が修行していたとき、体長3mの鬼神の姿をした
三宝荒神が、多数の眷属とともに夢の中に現れたと伝わります。
皇子は驚き、自ら尊影を模刻し守護神として祀りました。
三宝荒神は、凄まじい力を持ち、仏・法・僧を守護し、不浄を許さない
厳しさを持つことから、火で清浄が保たれる竈(かまど)に祀られ、
かまどの神、火の神とされています。
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勝尾寺の荒神は、厄を祓う、難を祓うとして信仰を集めています。
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三宝荒神堂の前まで来て、ようやく本堂を見ることができます。
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三宝荒神堂の横の石段の上にある薬師堂は、現在工事中でした。
源頼朝によって再建された薬師堂は、勝尾寺で最古の建造物です。
薬師三尊像は開成(かいじょう)皇子一刀三礼の作とされ、秘佛であり、
国の重要文化財に指定されています。
他にも経堂や閻魔堂もあるようですが、工事中だと思って行きませんでした。
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三宝荒神堂の右側に「鎮守堂」があります。
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「鎮守堂」の右側に「開山堂」があり、
善仲、善算と開成皇子の木像が安置されています。
伝承によると神亀4年(727)、藤原致房(むねふさ)の双子の兄・善仲(ぜんちゅう)と弟・善算(ぜんさん)は、この地に草庵を結び、仏道修行を続けていました。
それから約40年後の天平神護元年(765)、光仁天皇の皇子である開成
2人に師事して仏門に入りました。
宝亀8年(777)、開成は念願であった大般若経600巻の書写を終え、
勝尾寺の前身である弥勒寺を創建しました。
宝亀11年(780)、妙観が弥勒寺に訪れ、7月18日から8月18日の間に、
本尊の十一面千手観世音菩薩立像を制作したと伝わり、
18日が観音の縁日になった由来とされています。
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「開山堂」前の短い石段を下った左側に「水掛け観音堂」があります。
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先祖供養・水子供養の観音菩薩が祀られています。
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「水掛け観音堂」の右側に「大師堂」があります。
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堂内中央には三体の像が
安置されています。
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周囲は四国八十八所霊場の本尊で囲まれ、
その下には霊場の砂が納められています。
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現在の本堂は、慶長8年(1603)に豊臣秀頼により再建され、
平成11年(1999)に修復が行われたので、まだ朱色の鮮やかさが残されています。
勝尾寺は、元暦元年(1184)、治承・寿永の乱
一ノ谷の戦いの兵火を受けて焼失しましたが、文治4年(1188)、
源頼朝の命により、熊谷直実梶原景時によって再建されました。
本尊の十一面千手観世音菩薩像は、観音縁日である毎月18日に特別開帳されます。
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本堂には菊花紋が輝いています。
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本堂前には「勝ち達磨」授与所があります。
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授与所の横に鐘楼があります。
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鐘楼から左に折れ、その先に「不動堂」があります。
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堂内には不動明王像が安置されています。
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不動堂の横には石塔が建っています。
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二階堂へと向かいます。
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歴代住職の墓地でしょうか?
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「二階堂」は、第四代座主・証如上人によって建立されました。
法然上人が讃岐国流罪からの帰途、証如上人の遺徳をしのび
4年間滞在され念佛三昧の行に入られました。
法然は建暦元年(1211)に京都に戻りましたが、
翌年享年80(満78歳)で亡くなりました。
二階堂は、法然上人第五番霊場でもあります。
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二階堂から少し下ると大阪方面が遠望できます。
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二階堂から戻り、本堂の右横にある総合受付所で朱印を頂き、
多宝塔へと向かいます。
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多宝塔の軒下の四面には十二支の彫刻が施されています。
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多宝塔から下り、箕面の滝へ向かいます。
続く

箕面の滝~高山右近・生誕の地

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勝尾寺前の府道4号線から43号線に入った先に、箕面の滝への駐車場があります。
下って行くと、やがて下に滝道が見えてきます。
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駐車場から15分ほど下り、滝道と合流し、進んだ先に箕面の滝があります。
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箕面の滝は、落差33mあり、岩肌が望める急峻な崖から流れ落ち、
「日本の滝百選」に選定されています。
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せせらぎに沿って滝道を下って行くと、阪急・箕面駅へと続いていますが、
元来た道を戻り、駐車場へと向かいます。
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府道43号線を4号線との分岐までまで戻り、4号線を豊能町へと向かいます。
4号線に入って右側に大きくカーブした先、左側に箕面川ダムがみえます。
箕面川ダムは、大阪府が管理し、47mの高さに岩が積まれたロックフィルダムです。
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更に4号線を進み、高山の集落に入る手前で左折した先に八幡神社があります。
少し高台になった境内には、正面に「八幡神社」の祠があります。
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「八幡神社」の背後、右側には「観音堂」があり、
薬師如来と十一面観音が祀られています。
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左側には「阿多古神社」があります。
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境内には稲荷社もあります。
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境内には「高山右近 生誕之地」と刻まれた石碑が建ち、
かって高山氏が居住してた所と伝わります。
右近は、天文22年(1553)に摂津国三島郡高山庄の国人領主であった
高山友照の嫡男として生まれました。
高山友照は、当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶(みよしながよし)に仕え、右近7歳の頃、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の
沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城としました。
右近が12歳頃、キリシタン布教が広がり、友照は、一族、家臣達と
キリシタンに改宗しました。
右近が15歳の頃、三好一族と松永久秀が対立し、
友照は沢城を守り切れず高山に敗走しました。
右近が16歳の永禄11年(1568)、高山父子は芥川山城に入ります。
それまで、この八幡神社から山道を登った山頂にある高山城
本拠を置いていたと思われます。
先を急ぐ必要から城跡まで足を伸ばすことはできませんでしたが、
今は遺構の一部しか残されていないそうです。
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八幡神社から府道へ出る手前に、
「高山高札場跡(たかやまこうさつばあと)」があります。
高札場とは、中世末期以後、領主が法度・控書(おきてがき)などを書き、
法令を徹底させるために掲げた板札を高札といい、
その掲示場所が高札場と呼ばれました。
高札は明治3年(1870)に廃止されましたが、高山の里には明治時代の構造のまま、
昭和52年に改築されて残されています。
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慶應4年(1868)3月、太政官命で掲げられた高札には、
「切支丹宗門は禁制になっているので固く禁止する」というような
趣旨が掲載されています。
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府道に出ると正面に「右近の郷・コミュニティセンター」が見えますので
行ってみました。
センター内には高山右近の夫婦像が建立されています。
像は高山右近没後400年を迎えるのに当たり、右近の功績を顕彰し、
平成27年に住吉神社神域に露出している高山御影石を使用して建立されました。
豊能町は古くより石の町として、
品質の高い黒御影石を全国に供給してきたそうです。
尚、センターは地域に住む人々のための施設で、観光用では無いようです。
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センターから出て、東側にある細い道路を進んだ先に住吉神社があります。
住吉神社の創建や変遷についての詳細は不明ですが、
八幡神社に祀られていた薬師瑠璃光如来は、元はこの神社に祀られていたようです。
明治の神仏分離令で、薬師如来像は光明寺に預けられ、昭和35年(1960)頃、
八幡神社裏の観音堂に遷されました。
また、神仏分離令の後に、住吉大社の祭神三柱が勧請され、
住吉神社と改められたそうです。
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鳥居をくぐり、石段を上って行きます。
割拝殿がありますが、神楽殿と記されています。
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割拝殿を通り過ぎると、参道の両側に石灯籠が並んでいます。
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本殿の両側には狛犬が置かれています。
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更に狛犬の外側に右大臣・左大臣が守りを固めています。
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神社の外側にまわって本殿を見ます。
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神社から農道の方へ出ると棚田が望めます。
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下って下から棚田を見上げました。
「高山棚田」と名付けられ、のどかな風景が拡がっています。
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府道に戻り、少し進んだ先に高山マリアの墓があり、
府道に道標が建っています。
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府道の路肩にバイクを止め、結構な急坂を登ります。
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坂道から左折して山道へ入ります。
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木立の中に4基の墓がありますが、1基だけ少し離れた所にあります。
付近に立つ説明板によると、墓碑には江戸時代中期の
元文・延享・寛延(1730~51)の年号が刻まれており、
2組の夫婦の墓と伝えられています。
どうも右近の母の墓ではなかったようです。
江戸幕府のキリシタン禁教後、村には2軒の教徒が残り、
その夫婦の墓とみられています。
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府道に戻り、府道が国道423号線に合流する手前の道路脇に
「川尻向井山地蔵尊」があり、室町時代前期ものとみられています。
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地蔵尊の奥に、江戸時代の享保7年に建立された
宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
高さ305.5cmあり、豊能町に存在する江戸時代の塔の中で、
最も大きな塔だそうです。
塔身の四方に金剛界四仏の梵字が刻んであります。
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地蔵像の横から細い道を下った所に、相撲力士だった「小車利助」の碑が
建っています。
当地出身の力士でしょうか...?門弟によって建てられたそうです。
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向かいには旧池田海道の道標があります。
正徳4年(1714)に建立されたもので、
正面に胎蔵界大日如来を表す梵字が刻まれています。
「右八かめやま」と刻まれ、江戸時代には亀岡が「かめやま」と
呼ばれていたようです。
豊能町では立ち寄りたい所がもう少しあったのですが、
穴太寺の最終受付け時間が迫っています。
15:00、西国三十三所・第二十一番札所、穴太寺へ向かいます。
続く

穴太寺

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国道423号線の曽我部小学校を通り過ぎた所を左折して進んだ突き当りに
穴太寺があり、15:30に到着しました。
穴太寺(あなおじ)は、天台宗の寺院で、山号を菩提山(ぼだいさん)と称し、
薬師如来を本尊としています。
「あなおおじ」「あのうじ」「あなおうじ」と読まれることもあり、
「穴穂寺」「穴生寺」とも表記されました。
穴太寺は、安土・桃山時代の天正年間(1573~92)に、明智光秀による
丹波平定の際に、兵火により焼失しました。
江戸時代の中期、行廣上人によって中興され、
現在残されている建造物はそれ以降のものになります。

仁王門(山門)は、江戸時代中期に再建されたもので、
京都府登録文化財になっています。
狩野永納が、江戸時代の延宝4年(1676)に描いた『穴太寺観音縁起絵巻』には
楼門が描かれ、その古材を利用して再建されたとみられています。
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仁王像に関する詳細は不明ですが、像の下半身は塗装も剥がれていますので、
風雨にさらされた年月を感じさせます。
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門をくぐった右側に鐘楼があります。
宝暦9年(1759)に建立され、京都府の文化財に指定されています。
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門をくぐった左側には鳥居が建っています。
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鳥居をくぐった正面に天満宮、右側に稲荷社が祀られています。
穴太寺の寺紋は、菅原道真に因んで梅鉢紋が使われるようになったそうです。
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天満宮の右側にある多宝塔は、文化元年(1804)に再建された
亀岡市唯一の木造塔で、京都府の文化財に指定されています。
参道から西側に建立されているため、午後に訪れると、
逆光で撮影に苦労します。
高さ13m、三間の多宝塔で、周囲の景観によく溶け込んでいます。
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多宝塔の右側に観音堂があります。
穴太寺の聖観音像には、『穴太寺観音縁起』が伝えられています。
「貪欲で あった宇治宮成が、信心の篤い妻の勧めで、京より仏師・感世を招き、
金色の観世音菩薩を造立します。
その礼に愛馬を差し出す約束をしましたが、馬を惜しく思い、
都へ 帰る途中に待ち伏せをして、弓矢で仏師を射殺し愛馬を取り返します。
ところが家に帰った宮成を迎えたのは、先ほど自分が放った矢が刺さり、
目から赤い涙を落として、胸より赤血を流しておられた観世音菩薩でした。」
これは、仏師の身代わりになるとともに、宮成が罪人となることをも防いだ、
観世音菩薩の霊験であり、全ての苦しみを受けてくださった、
観世音菩薩の大慈大悲の御心を説いた縁起です。
その後、観世音菩薩が宮成の夢枕にお立ちになり、
「弓矢の傷が痛むため、穴太寺の薬師如来に癒してもらいたい」と願い、
当寺にお堂を建て、穴太観音として奉安されたと伝えられています。
『穴太寺観音縁起』は、宝徳2年(1450)に重修され、
京都府の文化財に指定されています。
この説話は、『今昔物語』や『扶桑略記』などにも取り上げられ、
穴太寺は、平安時代末期には観音霊場として知られるようになりました。
尚、この木造聖観音立像は、昭和43年(1968)11月に盗難に遭い、
未だに発見されていません。
現在、観音堂には西国三十三所霊場の砂が納められているそうです。
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観音堂の右側に円応院と呼ばれる方丈及び庫裏があり、
京都府の文化財に指定されています。
棟札によると中興初代・行鹿が延宝5年(1677)に造営し、
本堂とは渡り廊下で繋がっています。
500円を納めると、本堂と庭園の拝観ができます。
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池の水が濁っているのは残念でしたが、多宝塔を借景とする景観は、
特別に目を引かれるものではありませんが、心を落ち着かせてくれます。
庭園は京都府の名勝に指定されています。

渡り廊下で本堂へ向かいます。
本堂内の正面須弥壇にある三つの御厨子の内、真中に本尊の薬師如来、
左側に 札所本尊の聖観世音菩薩立像、右側に御前立の聖観世音菩薩立像の
三尊が安置されています。
薬師如来像と聖観世音菩薩立像は秘仏とされ、薬師如来像は開帳された
記録がなく、聖観世音菩薩立像は33年に一度開帳されます。
左右の脇壇には左脇に不動明王立像、右脇には平安期の阿弥陀如来立像と
釈迦如来大涅槃像が安置されています。
この涅槃像は、明治29年(1896)に本堂屋根裏より発見されました。
当時の住職と孫娘の病気平癒のため、日々参詣をしていた信者の霊夢によって
この尊像を探し当て、堂内に祀ると孫娘の病が快癒したと伝わっています。
それ以来、諸病悉除の釈迦大涅槃像として、自分の病の個所と同じ尊像の部分を
撫で、 自分の体をさすり返すと病気平癒のご利益があるとされています。
しかし、像にはふとんが着せられ、それをめくって行うにには、
若干抵抗もあります。

また、厨子王丸肌守本尊が祀られているそうですが、
通常は公開されていないようです。
姉の安寿姫と弟の厨子王丸は、謀略によって筑紫に流された父・正氏を訪ね、
越後の直江津にたどり着いたとき、人買いの山岡太夫の手にかかり、
妻は佐渡二郎の手で佐渡に、姉弟は宮崎という人買いの手で丹後由良湊の
長者である山椒太夫にそれぞれ売り渡されました。
山椒大夫のもとで姉弟は酷使され、安寿は厨子王を密かに逃れさせようと
しましたが発覚し、罰として額に焼け火箸を当てられましたが、
肌身離さぬ守りの地蔵尊のおかげで痕が付きませんでした。
永保2年(1082)、安寿16歳、厨子王13歳の時、姉弟はついに、
再会を約して逃亡を図りました。
安寿姫は、厨子王丸を都へと逃すと、自身は山椒館の近くの沼に身を投げて
命を絶ちました。
厨子王丸をかくまった寺の一つが穴太寺だったといわれ、
後に、厨子王丸はこの肌守本尊を穴太寺に奉納し供養したと伝えられています。
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現在の本堂は、享保13年(1728)に前身の堂が焼失した後、
7年後の享保20年(1735)に再建され、京都府の文化財に指定されています。
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本堂には千社札が貼られています。
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本堂には懸仏が掲げられています。
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本堂には、寺紋の梅鉢紋をイメージした窓があります。
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本堂の右側に納経所があり、納経所の右側に念仏堂があり、
京都府の文化財に指定されています。
宝永2年(1705)に中興二世・禅梅によって建立された念仏道場で、
阿弥陀如来座像が安置されています。
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念仏堂の左側にある地蔵堂は、昭和時代初期に建立され、
万体地蔵が安置されています。
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地蔵堂の右側に宇治宮成の墓があります。
『穴太寺観音縁起』によれば、奈良時代の慶雲2年(705)、
文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされています。
穴太寺が人々に知られるようになったのは、平安時代末期に成立したとみられる
『今昔物語』や『扶桑略記』などの文献に著されたことによるものと思われます。
この墓は室町時代に建立されたとみられています。

次回は水間寺から、西国三十三所・第四番札所の槇尾寺へ向かいます。

都七福神めぐり

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※都七福神めぐり
京都には、いくつかの七福神めぐりが存在しています。
その中でも有名なのが、都七福神巡りです。
七福神めぐりは、室町時代に京都から始まったと伝わり、日本最古とされています。
正月に参詣すると福がもたらされ、また毎月7日が七福神の縁日であります。

【ゑびす神】 ゑびす神社
京都市東山区大和大路通四条下ル(京阪「祇園四条駅」下車・徒歩6分または阪急「河原町駅」下車徒歩8分)
075-525-0005

 七福神はインドや中国由来の神ですが、唯一ゑびす神は日本の神で、
古来から漁業の神でした。
 ゑびすの本来の神格は、人々の前にときたま現れる、外来物に対する信仰であり、
海の向こうからやってくる海神です。
 平安時代末期にはゑびすを市場の神(市神)として祀った記録が残っており、
中世に商業が発展するにつれ商売繁盛の神として祀られるようになりました。
 同時に福神としても信仰されるようになり、やがて七福神の一柱とされ、
ふくよかな笑顔(えびす顔)で表現されるようになりました。
 えびす神は耳が遠いとされているため、神社本殿の正面を参拝するほか、
本殿の裏側に回りドラを叩いて祈願しなくてはならないとされています。

【大黒天】 松ヶ崎大黒天
京都市左京区松ヶ崎東町31(地下鉄烏丸線「松ヶ崎駅」下車・徒歩約20分。叡山電鉄「修学院駅」下車・徒歩約15分。または市バス「北8」線「松ヶ崎大黒天」下車・徒歩約5分)
075-781-5067

 大黒天(だいこくてん)とは、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラ(サンスクリット語:Mahaa-kaala、音写:摩訶迦羅など)のことで、
インド密教に取り入れられました。
 密教の伝来とともに、日本にも伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、
軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされました。
 後に、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と
混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰されました。
 その後、豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る
神となりました。
 室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となりました。
 また、大国主が素戔嗚尊(すさのおのみこと)の計略によって焼き殺されそうに
なった時に鼠が助けたという説話から、鼠が大黒天の使いであるとされています。
 
【毘沙門天】東寺
京都市南区九条町1(近鉄「東寺駅」下車・徒歩10分)
075-691-3325

 インド神話の財宝神・ヴァイシュラヴァナが中央アジアを経て、中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになりました。
 原語を意訳すると多聞天、音訳すると毘沙門天になり、四天王では多聞天で表されています。
 仏教の聖地である須弥山(しゅみせん)頂上・忉利天(とうりてん)に住む帝釈天に仕え、北部の北倶廬洲(ほっくるしゅう)を守護しています。

【弁財天】 六波羅蜜寺
京都市東山区松原通大和大路東入ル二丁目(京阪「清水五条駅」下車・徒歩10分)
075-561-6980

 弁財天は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名で、七福神で唯一の女神です。
 原語の「サラスヴァティー」はインドの聖なる河の名であったのですが、河の守護神とされるようになりました。
 水を神格化し、言語や音楽の神とされています。
 経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」ですが、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記し、金運・財運の神としての性格が付与されました。

【福禄寿神】 赤山禅院
京都府京都市左京区修学院開根坊町18(叡山電鉄「修学院駅」下車・徒歩20分)
075-701-5181

 古い中国の仙人が神格化したと言われ、「福(幸福)と、禄(生活の安定)と、
寿(長寿)を授けるという神様」で、背丈が低く、長い頭を持ち、長い髭をはやして、右手に枕を抱え左手に宝珠を持った姿で、長寿の象徴である多くの鶴をお供に従えています。
中国では道教の神様で、南極星の化身とされています。
カノープス(南極星)は限られた時期にだけ地平線の近くに現われるので、古代中国では、南極星の出現は、きわめてめでたい出来事と考えられていました。

【寿老神】 革堂(行願寺)
京都市中京区寺町通竹屋町上ル(京都市営地下「鉄丸太町駅」下車・徒歩7分。京阪「神宮丸太町駅」下車・徒歩6分)
075-211-2770

 道教の開祖である老子が仙人となり、不老不死になったとする伝えがあり、南極老人星(カノープス)の信仰とが融合して、中国の宋の時代に寿老人という神がつくられました。
 南宋のさまざまな文化を学んでいた鎌倉時代の禅僧によって日本に伝えられ、江戸時代半ば過ぎに七福神に加えられました。
 酒を好み頭の長い長寿の神とされ、不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えています。
 また、人々の難を払う団扇を持っていることから、福財・子宝・諸病平癒・長寿の功徳ありと云われています。

【布袋尊】 万福寺
宇治市五ヶ庄三番割34(JR奈良線または京阪宇治線「黄檗駅」下車・徒歩5分)
0774-32-3900

 布袋は、唐末の明州に実在したとされる伝説的な仏僧で、本来の名は釈契此(しゃくかいし)ですが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられました。
 太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩き、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたと伝えられています。
 死後に弥勒菩薩の生まれ変わりだと信じられるようになり、神格化されました。
中世以降、中国では布袋になぞらえた太鼓腹の姿が弥勒仏の姿形として描かれるようになり、寺院の主要な仏堂に安置されるのが通例となりました。
 日本では鎌倉時代に禅画の題材として布袋が伝わり、やがて七福神の一柱として信仰されるようになりました。
布袋が背負っている袋は堪忍袋ともいわれています。

水間寺

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第二京阪道路沿いの国道1号線を大阪方面に走り、「小路北」の信号を左折して
国道170号線に入ります。
国道170号線を南下して、「奈良池前」の信号を左折し、旧170号線へ入った
突き当りに水間寺があります。
駐車場から龍谷橋を渡り、厄除橋へ向かいます。
「天台宗 別格本山」と「水間寺」の石標が建っています。
別格本山とは、総本山に次ぐ格式の高い寺院のことで、
比叡山・延暦寺を総本山としています。
水間寺は、山号を「龍谷山」と称し、「水間観音」の名で知られています。
「神仏霊場巡拝の道」で水間寺は、全体の霊場番号53、
「大阪十二番霊場」となっています。
「新西国三十三所観音霊場」では、第四番札所になっています。
また、「和泉西国三十三箇所」、「南海沿線七福神」の霊場でもあります。
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厄除橋を渡ります。
水間の寺号は、蕎原川(そぶらがわ)と秬谷川(きびたにがわ)の
合流地点に位置することによります。
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橋は石のアーチ橋です。
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橋を渡った左側に「聖観世音菩薩立像」(平和観音)が建っていて、
その奥が写経場になっています。
写経場には西国三十三霊場全ての本尊が安置されています。
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橋の左側に石灯籠が建っています。
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石灯籠の左側に「説法石」があります。
残念ながら付近には由来を記した説明板等が無く詳細は不明ですが、
元禄7年に描かれた絵図に「説法石」は記されています。
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「説法石」から参道を進むと手水舎があります。
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手水舎の奥に地蔵堂と並んで「千日隔夜宝篋印塔」が建てられています。
宝篋印塔は享保12年(1727)に建てられたとされ、
基礎の一面に隔夜僧が浮き彫りにされています。
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参道を進んだ先に本堂があります。
現在の本堂は、岸和田藩主・岡部長備(ながとも)とその
息子・岡部長愼(ながちか)の二代に渡る尽力により、
文政10年(1827)に再建されました。
平面が約23m四方に及ぶ、大阪府下で最大級の本堂で、
貝塚市の文化財に指定されています。
以前の本堂は、天正13年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉の根来攻めで、
根来側についたため、堀秀政の軍勢により焼き討ちに遭い、
七堂伽藍をはじめ坊舎等は灰燼に帰してしまいました。
その後復興するも、天明4年(1784)に本堂より出火し、
食堂や三重塔も類焼しました。
本尊は、身丈1寸8分(約6cm)の聖観世音菩薩で、秘仏とされ、
本堂正面には御前立聖観音菩薩立像が安置されています。
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本堂の前に経堂があります。
聖武天皇の妙典、光明皇后の般若経、慈覚大師妙法経等が納められていましたが、
兵火に遭い全て焼失しました。
現在は、大般若波羅密多経600巻と大蔵経等が納められています。
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堂内には傅大師(ふだいし)とその長男・普建、及び次男の普成(ふしょう)の
像が安置されています。
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経堂の右側に布袋さんの石像があります。
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経堂の左側に鐘楼があります。
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鐘楼から左斜めに進んだ所に常寂光堂がり、先祖供養や水子供養のための
回向が毎日行われています。
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常寂光堂の右側には水子地蔵が祀られています。
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常寂光堂と本堂の間を奥に入った所に鎮守権現宮の鳥居が建っています。
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鎮守権現宮は、行基が熊野・蔵王・白山の三社権現を勧請したもので、
水間寺創建時より祀られています。
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鎮守権現宮から更に奥に進むと「降臨の滝」があります。
聖武天皇が42歳の厄年の年、病を患い、なかなか平癒しませんでした。
ある日、天皇は夢告を受けます。
「この奈良の都より西南の方角にあたって観世音菩薩がご出現なされる。
よってこの観世音の尊像を都にお供をしてご信仰申せ」
行基は、天皇の勅命を受け、尊像を求めて水間に来た時、
16人の童子が現れて行基をこの谷間へと導きました。
谷間にある巨岩の上に白髪の老人が現れ、一体の仏像を行基に手渡すと、
龍に姿を変え天へと昇って行ったと伝わります。
この仏像が、身丈1寸8分の聖観世音菩薩で、天皇に捧げた所、病は全快し、
現地に祀るようにとの勅命を受けた行基によって水間寺が創建されました。
この谷間にある滝は「降臨の滝」と呼ばれ、聖観世音出現の地とし、
聖地とされています。
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本堂へ戻り、本堂前を通り過ぎた所に三重塔があります。
現在の塔は、天保5年(1834)に再建されたもので、明治以前に建てられた
大阪府内唯一の三重塔であり、貝塚市の文化財に指定されています。
三重塔の第一層の軒下のかえる股に十二支の彫刻が施されています。
創建当初は、多宝如来を安置した多宝塔で、孝謙天皇(718~ 770)が
舎利塔を安置したとの記録が残されています。
三重塔も天正13年(1585)の兵火で焼失し、萬治年間(1658~1660)に
再建されたものの天明4年(1784)に再び焼失しました。
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三重塔付近に馬の像があり、「水間寺」再興に尽力した、
岸和田藩主・岡部氏の家紋が入っています。
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本堂の右側に食堂・寺務所があり、平成27年に新築されたものです。
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寺務所の左側に護摩堂があります。
護摩堂は、平成25年(2013)に新しく建て替えられたもので、
堂内には鎌倉時代作と推定される不動明王立像が安置されています。
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護摩堂の前に大念珠が吊るされていて、「心静かに念じ、ゆっくりと
8個の数珠玉を落とし、自分の煩悩を取り除きましょう」と記されています。

護摩堂の奥から通天橋を渡った西側は、「西山」と呼ばれ、
かって水間寺の寺領でした。
現在でも、山の麓には「瀧大明神」「薬師院」「行基堂」「弁財天」などが
残されていますが、立ち寄るのを忘れてしまいました。
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三重塔の前の参道を南に進むと愛染堂があります。
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愛染堂は「恋人の聖地」に選定されています。
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愛染堂の境内に「お夏清十郎」の墓があります。
約700年前、伏見天皇(1265~1317)の勅使として当寺を訪れた山名清十郎と
その接待役となった水間の豪農・楠右衛門の娘・お夏は互いに惹かれあうように
なりましたが、清十郎の任務が終わり二人は離れ離れになりました。
お夏は愛染明王に清十郎との再会を毎夜祈り、願掛け椿の木の枝に
縁結びの紙を結んだと伝わります。
やがて、南北朝の戦が始まり、清十郎は南朝方として出陣し、
住吉渡辺橋の戦で幸い命は取り留めたものの敗者の身となってしまいました。
お夏は清十郎の姿を求め戦場へ駆けつけ、住吉の松原で巡り会うことができ、
手に手を取り合って水間に帰ってきました。
しかし、北朝方に知れ、水間に追手が差し向けられ、清十郎の家来の
山名忠平が身代わりとなり、首を討たれました。
岸和田・淨円寺門前に清十郎の首塚として今も残されているそうですが、
山名忠平のものになります。
お夏と清十郎は、水間の里に隠れ住み、仲睦まじく暮らして、
死後椿の木の根元に葬られたと伝えられています。
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駐車場を出て厄除橋の前の通りを北へ進んだ所に水間鉄道の終着駅・
水間観音駅があります。
水間鉄道は、貝塚駅~水間観音駅間(5.5km)を結び、貝塚駅で南海本線と
連絡しています。
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水間観音駅には車庫があり、古い電車が展示されています。

西国三十三所・第四番札所の施福寺(槇尾寺)へ向かいます。
続く

施福寺

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水間寺から国道170号線に戻り、河内長野方面に戻ります。
大野町北の信号を右折し、その先、大野町の信号を左折して、
旧国道170号線に入ります。
槇尾川の手前で右折し、府道228号線を突き当りまで走った所に施福寺の
無料駐車場があります。
9:10に駐車場に到着し、そこから先は徒歩になります。
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歩き出してすぐ、八丁の丁石があり、「登れば足守の馬頭さん」と記されています。
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道はコンクリートで舗装され、川沿いに登りますので、心地よいです。
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小さな滝もありますので、景色を楽しみながら登ることができます。
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10分ほど歩くと十三重石塔が見えてきます。
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付近には、六丁の丁石があり、「迎え観音像」が祀られています。
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短い石段を上ると仁王門があります。
施福寺は、天正9年(1581)に織田信長の焼き討ちにより、
伽藍は悉く灰燼に帰しました。
江戸時代初期の慶長8年(1603)に豊臣秀頼の支援により伽藍が復興されましたが、
弘化2年(1845)の山火事で伽藍を焼失し、この仁王門だけが焼け残りました。
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仁王門を越えた所に東屋があり、休憩もできます。
ここから先は、山道になります。
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東屋の付近には石仏が多数祀られています。
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四丁の丁石を越えると、正面に建物が見えてきます。
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建物の詳細は不明ですが、スズメバチらしき巣が見られます。
その蜂達も、今はもうどこかに行ってしまったようで、
時の流れの無情さを感じます。
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二丁の丁石の先は急な石段になります。
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一丁の丁石がある所にはベンチが置かれ、大阪湾が望めます。
肉眼では大阪湾に浮かぶ船まで確認できたのですが...
唯一下界が展望できる所です。
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一丁石の先に、「弘法大師剃髪所跡」があります。
空海は延暦12年(793)の20歳の時、槇尾山寺において
勤操(ごんそう・ごんぞう)を導師として出家剃髪し、
沙弥戒(しゃみかい)を受けたと伝わります。
沙弥とは、原則として数え14歳から20歳未満の年少男性出家修行者を意味します。
また、勤操は西寺の別当に就任していて、弘法大師が東寺の別当であった時と
年代は異なるかもしれませんが、何か因縁を感じます。
ただ、空海が出家した時期については、『続日本後紀』所載の空海伝に言う
31歳出家説が今日では定説となっていますが、空海が唐からの帰国後、
都に戻る直前の大同4年(809)頃、当寺に滞在した可能性はあるようです。
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愛染堂の前には弘法大師像が建立されています。
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堂内には、弘法大師作と伝わる愛染明王勤操大徳、空海の肖像が安置され、
西国愛染明王霊場の第十五番札所になっています。
堂内は暗く確認は困難でした。
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愛染堂から先は最後の石段が続きます。
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石段の途中、左側に「弘法大師御髪堂」があり、剃髪した髪が納められています。
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ようやく本堂前にたどり着くと、十一面千手千眼観世音菩薩像が出迎えてくれます。
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右側、手水舎の横に急な石段があり、鳥居が建っていますので上ってみました。
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鎮守社でしょうか?何も表記がないので詳細は不明ですが、稲荷社のようです。
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展望は開けていますが、見えるのは山、また山の連なりのみです。
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本堂の屋根です。
色が変わっているのは、葺き替え前・後でしょうか...?
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石段を下り、本堂の左側を奥へ進むと本坊があります。
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しかし雨戸が閉ざされ、雑草が伸びています。
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本坊前の右側に短い石段があり、その上の方に石垣などが見られますが、
立入は禁止されています。
かつては808の僧坊、3,000人の僧衆が住んでいたそうです。
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本堂前に戻ります。
施福寺(せふくじ)は、山号を槇尾山(まきのおさん)と称し、
槇尾寺(まきおでら、まきのおでら)とも呼ばれています。
本尊は弥勒菩薩。
槇尾山(標高600m)の山腹、標高約500mの所に位置します。
槇尾山の名の由来は、役小角(えん の おづの /おづぬ /おつの・役行者)が、
自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、
最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いた
との伝承が残されています。
西国三十三所・第四番札所、和泉西国三十三箇所・第1番札所、
西国愛染十七霊場・第15番札所、神仏霊場巡拝の道・第52番札所となっています。
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南北朝時代成立の『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、
施福寺は欽明天皇の時代に行満上人によって創建されたと伝わります。
古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として
創建されたとみられています。
また、札所本尊の十一面千手千眼観世音菩薩像にまつわる
次のような伝承が残されています。
『宝亀2年(771)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、
一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間を
この寺で過ごさせてくれと頼んだ。
この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間、
熱心に修行に励んだ。
予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが、
寺僧たちはそれを拒んだ。
すると、客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、
真の出家者などはいないではないか。
このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで、
出て行ってしまった。
驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を、
沈みもせずに歩いている。
これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた
観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀った。』
夏安居とは、僧が、夏(げ)の期間、外出せずに一所に こもって修行をすることです。
その時彫られた観音像は、その後の火災で焼失し、現在、本堂の本尊、
弥勒菩薩の脇侍として安置されている像は、江戸時代に本堂が再建された際に、
造られたものです。
施福寺は度重なる火災で古記録が失われており、真偽のほどは定かでは
ありませんが、延喜16年(916)に定額寺に定められたと縁起に記されています。
定額寺とは、奈良・平安時代に官大寺・国分寺(尼寺を含む)に次ぐ寺格を
有した仏教寺院であり、この時代には著名な寺院であったことが伺われます。
仁治年間(1240年~1243)には、仁和寺菩提院の僧・行遍によって
灌頂堂が建立されており、中世には当寺は仁和寺の支配下にありました。
南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に組したため、
戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡しました。
天正9年(1581)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われましたが、
豊臣秀頼の援助により、慶長8年(1603)に伽藍が復興されました。
近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間(1624~1645)頃に
真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となりました。
江戸時代末期の弘化2年(1845)の山火事で、仁王門を除く伽藍を焼失し、
現在の本堂等はその後に再建されました。
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本堂の前には馬の像があります。
花山法皇は、粉河寺から施福寺へ山越えしようとしたのですが、道に迷い、
途方に暮れていた所、何処からともなく馬が現れ、その馬に導かれて無事、
施福寺に着くことができたと伝わります。
法皇がそのことに感謝して、奉納されたと云う馬頭観音像が本堂の内陣右側に
安置されています。
馬頭観音像は秘仏とされ、50~60年に1度、開帳されるそうですが、
訪れた6月9日は本堂の内陣が公開され、馬頭観音像を拝見することができました。

内陣の左側に方違大観音像が安置されています。
日本で唯一とされるこの観音さんは、悪い方角を良い方角に変えてくれる
御利益があります。
特に転居や結婚など人生の大きな節目や変わり目にお参りすると、
変化はチャンスにすることができるかも...
内陣背後のには、左右に弘法大師像と伝教大師像が安置され、
壁面には天部の像が多数安置されています。
また、釈迦涅槃像も安置されています。
内陣の拝観には500円が必要でしたが、多くの仏像と対面でき、感動を覚えました。
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本堂前の広場には観音像や子育地蔵尊、智慧如来などが祀られています。
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広場の奥の方に観音堂があります。
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堂内には、西国三十三所の本尊が安置されています。
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観音堂の奥に展望台があります。
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鎮守社からと同じような景色が望まれます。

本堂前から下り、駐車場に出る手前にある「満願滝 弁財天」へ向かいます。
続く

満願滝弁財天と満願寺不動尊

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施福寺から下り、駐車場に出る手前に「満願滝弁財天」があります。
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石標には「弘法大師行満願乃滝」とあります。
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鳥居をくぐり石段を上った所に手水舎があり、
弘法大師の石像が祀られています。
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手水舎から石段を上った所に本堂があります。
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境内図です。
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本堂の前から橋を渡った正面に稲荷社があります。
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本堂前の石段を下り、左へ曲がって橋をくぐった正面に満願滝があります。
落差は50m位でしょうか...?
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滝の右側には役行者神変大菩薩像が建立されています。
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奥の祠には、役行者像が祀られています。
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このような御神体も祀られています。
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滝の左側の岩窟には、弘法大師像が祀られています。
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滝を後にして、橋をくぐった右側に子安観音菩薩が祀られています。
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石段を上ると、山の傾斜に白龍王大神や常富大神などが祀られています。
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満願滝弁財天から下り、駐車場の前に、満願寺不動尊があり、
和泉霊場・第十六番の札所になっています。
この辺り、カジカの涼やかな鳴き声が聞こえます。
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境内の左側に水子供養地蔵尊が祀られています。
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境内には、千体地蔵尊堂があります。
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堂内には、中央に地蔵菩薩像が安置されています。
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左右の壁面には、千体地蔵が安置されています。

国道170号線まで戻り、金剛寺へ向かいます。
続く

金剛寺-その1

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施福寺から府道228号を国道170号線(外環状線)まで戻り、
河内長野方面に向かって走り、トンネルに入る手前で左折して
旧170号線に入ります。
左にカーブした先に金剛寺があります。
金剛寺は、山号を天野山と称し、真言宗御室派の大本山です。
高野山が女人禁制だったのに対し、女性も参詣ができたため、
「女人高野」とも呼ばれました。
本尊は、金剛界大日如来坐像、新西国三十三箇所・第七番札所本尊は千手観音。
神仏霊場巡拝の道・第55番、
河内飛鳥古社寺霊場・第8番札所になっています。
画像の南大門は、元禄13年(1700)に建立されたもので、
大阪府の文化財に指定されています。
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横を流れる天野川沿いに「水掛三尊仏」が建立されています。
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三尊仏の横に架かる橋は「恵之橋」と名付けられています。
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参道を進んだ左側に楼門があり、鎌倉時代後期(1275~1332)のものとされ、
国の重要文化財に指定されています。
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楼門内には、弘安2年(1279)に造立された木造二天王立像が安置され、
国の重要文化財に指定されています。
平成3年から5年にかけて解体修理が行われ、像内から墨書銘が発見されたにより、
仏師名や、両像が持国・増長天像であることが判明しました。
残念ながら金剛寺では、現在、金堂や多宝塔などの解体修理が行われ、
その他、各所でも修理が行われているため、
落ち着かない参拝となりました。
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受付けで入山料を納めます。
伽藍のみが200円で、本坊を含めると500円です。
受付から入った右側に食堂があり、「天野殿」と名付けられています。
食堂は室町時代前期(1333~1392)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
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南北朝時代の正平9年(1354)からの6年間、南朝方の拠点となり、
子院の「摩尼院(まにいん)」とともに食堂も
行宮(あんぐう=仮宮)となりました。
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楼門の左側に龍王池がありますが、工事中のフェンスで囲われていました。
池の背後には、龍王三社が並び、いずれも元禄13年(1700)の建立で
大阪府の文化財に指定されています。
手前から「弁財天社」「八大竜王・善女竜王社」
「天照皇大神社(あまてらすこうたいじんじゃ)」と並んでいます。
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三社の斜め前にある石段を上った左側に経堂があり、
大阪府の文化財に指定されています。
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経堂の右側に多宝塔があります。
平安時代後期(1086~1184)に建立されたもので、多宝塔建築としては
日本最古とされ、国の重要文化財に指定されています。
多宝塔は、平成21年から解体修理が行われています。
見た所、ほとんど完成していると見られ、
落慶法要も近いのではないかと思われます。
慶長10年・11年(1605・1606)に豊臣秀頼によって、伽藍の大修理と
改築が行われ、また、元禄13年(1700)には、徳川綱吉の命により
岸和田藩主が奉行となって、修理が行われています。
今回の解体修理は、元禄の修理以降300年ぶりの大修理となり、
創建当時の美しさがよみがっています。多分...?
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多宝塔の右側に金堂があります。
金堂は、鎌倉時代後期の元応2年(1320)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
美しく彩色も施されています。
本尊は、平安時代後期作の金剛界大日如来坐像、その右に不動明王坐像、
左に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)坐像が
安置されていますが、現在は解体修理が行われています。
不動明王坐像は、以前の修理で鎌倉時代の天福2年(1234)、快慶の弟子、
行快の作と判明し、降三世明王も行快の作とみられています。
金剛寺は、奈良時代の天平年間(729~749)に聖武天皇の勅命により、
行基によって創建されたと伝わります。
その後、400年の間に荒廃してしまいますが、平安時代末期に
高野山の僧・阿観上人が、後白河上皇とその妹の八条女院の帰依と庇護を受け、
御影堂を始め、金堂、多宝塔、楼門、食堂などの伽藍を再興しました。
金剛寺は、八条女院の祈願所となり、また、八条女院の侍女が阿観上人の
弟子となり、二代続けて院主となり、女性も参詣ができたため
「女人高野」と呼ばれるようになりました。
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金堂の右後ろに鐘楼があり、室町時代前期(1333~1392)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。

金堂前に戻り、その先にある石段を上り五仏堂へ向かいます。
続く

金剛寺-その2

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金堂前を進むと石段があり、それを上った正面に宝形造の五仏堂があり、
慶長11年(1606)に建立されたもので、大阪府の文化財に指定されています。
古くは、三宝院とも大日堂とも称されました。
本尊は、平安時代作の五智如来で、国の重要文化財に指定されています。
大日如来を中尊とし、阿閦(あしゅく)如来、宝生(ほうしょう)如来、
阿弥陀如来、不空成就如来を四方に配しています。
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五仏堂の左側に薬師堂があり、慶長11年(1606)に建立されたもので、
大阪府の文化財に指定されています。
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薬師堂の横から四国八十八所の本尊が祀られた霊場巡りの
約30分のコースがあります。
途中には、千年杉や「修行大師像」などの見どころもあるそうですが、
時間の都合で割愛しました。
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霊場への「登り遍路道」の横に宝蔵があり、元禄13年(1700)に
建立されたもので、大阪府の文化財に指定されています。
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五仏堂から渡廊を右に進んだ所に観月亭があり、
国の重要文化財に指定されています。
後村上天皇が月見をされたそうです。
渡廊は慶長年間(1596~1615)に建立されたもので、
大阪府の文化財に指定されています。
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観月亭の背後に御影堂があり、観月亭とともに慶長11年(1606)に
建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
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五仏堂と御影堂の間の奥に閼伽井屋があり、慶長年間(1596~1615)に
建立されたもので、大阪府の文化財に指定されています。
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蓋がされていますので、今も水が湧き出ているのかは不明です。
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御影堂の裏側に法具蔵があり、慶長11年(1606)に建立されたもので、
大阪府の文化財に指定されています。
但し、写真がブレてしまって、建物の確認が定かではありません。
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法具蔵の横から石段を上った右側に開山堂があり、
元禄13年(1700)に建立されたもので、大阪府の文化財に指定されています。
開山堂横の石段は、「下り遍路道」です。
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中に納められている三重石塔二基も文化財に指定されていますが、
石塔が造られた年代は不明です。
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開山堂の左側の石段を上った所に、光巌天皇分骨所があります。
光厳天皇(こうごんてんのう・1313~1364)は、鎌倉時代末期の
持明院統の天皇で、諱(いみな)を量仁(かずひと)といいいます。
後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就きましたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した
後醍醐天皇が、自身の廃位と光厳の即位を否定したため、
歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われています。
しかし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇
合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって
院政を行いました。
正平6年(1351)、足利尊氏が南朝の後村上天皇に帰順し、北朝は廃止され
正平一統)、三種の神器も南朝側に接収されました。
正平7年(1352)、尊氏が弟・直義を討つため鎌倉へ出陣している間に、
京都を奪回した南朝軍は、光厳・光明・崇光の三上皇と
皇太子直仁親王を拘禁します。
しかし、直義を倒した尊氏が京都に攻め込み、撤退する南軍によって
三上皇と直仁親王は山城国男山(京都府八幡市)、さらに南朝本拠地である
大和国賀名生(奈良県五條市)に拉致され、後に金剛寺へ移されました。
正平12年(1357)に還京するまで、子院「観蔵院」に幽閉されていました。
その間、光厳上皇は金剛寺で出家・得度され、その縁で上皇没後、
遺髪が金剛寺に送られてきて、御陵が造営され納められました。
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法具蔵の横から石段を下った所に護摩堂があり、慶長年間(1596~1615)に
建立されたもので、大阪府の文化財に指定されています。
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護摩堂から天野川沿いの参道まで戻り、天野川に架かる「禅之橋」を渡り、
無量寿院への門をくぐります。
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門をくぐった左側に「南朝行在所 摩尼院(まにいん)」を示す
案内板がでています。
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これがそうでしょうか? 南大門付近にあった境内図と場所が
異なっているように思います。
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右側には水子供養の地蔵像が並んでいます。
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川沿いに進むと「忍之橋」があり、渡った先に講堂があります。
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「忍之橋」の先に「進之橋」があり、その先の粘進門は閉ざされていました。
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その先の川向うには食堂があります。
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川の手前、本坊の先にある建物は所化(しょけ)部屋で、
修行僧などの宿泊所と思われます。
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本坊の門です。
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門を入った正面に玄関がありますが、一般の人は手前から出入りします。
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門を入った左側に井戸がありました。
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廊下の右側の庭園で、奥に見える建物は客殿ですが、「上」の客殿です。
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山手に霊明殿(持仏堂)があり、その手前、松の木が植えられているのが
「亀島」です。
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鶴島と一般用の客殿
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鶴島
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霊明殿の内部
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廊下を山手に上った突き当りに宝物庫があります。
内部は撮影禁止になっていますが、入った右側に伝教大師作の
「走り大黒天像」が安置されています。
「祈願すれば尋ね人、失せもの、走りくる霊験あり」と伝わります。
中央には、多宝塔の本尊である大日如来座像が安置されていて、
国の重要文化財に指定されています。
塔が建立された治承2年(1178)ないし修造の建久2年(1191)頃の製作と
みられています。
光背の三十七尊化仏の過半、台座のほとんどが当初のものです。

大日如来座像の右前には、江戸時代作の厨子が置かれ、その中には石仏が
安置されていますが、石仏の年代は不詳です。
大日如来座像の前面、両側に鎌倉時代の木造狛犬が置かれています。
庫内右側に、鎌倉時代作の千手観音立像が安置されていますが、
新西国三十三箇所観音霊場の札所本尊でしょうか?
観音像の背後に、建長6年(1254)作の中興五代住職の像が安置されています。
左側には平安時代作の地蔵菩薩立像が安置されています。
地蔵菩薩立像の背後には、中興の祖・阿観上人像が安置されています。
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宝物庫の下に茶室がありますが、非公開です。
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一般用の客殿前の廊下には太鼓と半鐘があります。
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奥殿から見た、一般用客殿からの渡り廊下。
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奥殿への渡り廊下からの景色
奥殿の画像は撮り忘れたようです。
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奥殿内部
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奥殿の前

感心寺へ向かいます。
続く

歓心寺-その1

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金剛寺から外環状線まで戻り、「工業団地北」の信号を右折して、
国道170号線に入ります。
南海「河内長野駅」前で左へカーブし、その先で国道310号線と合流しますので、
310号線の方に入ります。
観心寺は国道に面して駐車場があります。
駐車場から緩い石段を上った所に山門があります。
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また、石段を上らずに、その前を通り過ぎた先に、
楠木正成(くすのきまさしげ)像が建立されています。
観心寺は楠木氏の菩提寺でした。
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山門をくぐった先にある手水舎には、地蔵菩薩像が祀られていますが、
その姿は重文に指定されている像によく似ています。
重文に指定されている像は、霊宝館に安置されています。
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受付で入山料300円を納めて境内に入ります。
入った左側にある建物の横には、「楠公 学問所 中院」と刻まれた
石碑が建っています。
歓心院の子院・中院は、楠木家の菩提寺でした。
かって、楠木正成は8~15歳まで、この中院で仏典を学びました。
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参道を進むと左側、灯篭の手前に霊宝館への案内板が立っています。
拝観料不要は、有難いです。
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霊宝館の方へ曲がると、数体の石仏が祀られています。
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その先に牛滝堂がありますが、詳細は不明です。
岸和田に牛滝山があり、役行者が開いたとされ、
後に天台宗の僧・恵亮によって大威徳寺と改称された寺院があります。
空海も当山で修行をし、多宝塔などを建立したと伝わります。
観心寺は、文武天皇の大宝元年(701)、役行者によって開かれ、
当初は雲心寺と称し、その後、大同3年(808)に空海が訪れ、
境内に北斗七星を勧請し、弘仁6年(815)に衆生の除厄のために
本尊・如意輪観音菩薩を刻み、寺号を観心寺と改称しました。
創建からの由来が、大威徳寺と共通するところがあり、牛滝は、
この牛滝山から採られたのではないかと想像されます。
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牛滝堂の奥に恩賜講堂があります。
昭和天皇即位大典のために京都御苑に建てられた饗宴場の一部を、
昭和5年(1930)に移築改造したもので、国の有形文化財に登録されています。
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恩賜講堂の手前、右側に霊宝館があり、無料で公開されていますが、
館内の撮影は禁止されています。
歓心寺には、国の重要文化財に指定されている多くの仏像が保存されています。
本尊の木造如意輪観音坐像は、金堂に安置され、平安時代に弘法大師の作と
伝わり国宝に指定されていますが、4月17日と18日のみにしか開帳されません。
霊宝館には、平安時代前期の作とされ、本尊の試作または御前立として、
本尊とよく似た木造如意輪観音坐像が安置されていて、
国の重要文化財に指定されています。
この像も、弘法大師が刻まれたのかも...と想像します。
また、建掛塔(たてかけとう)の「塔内四仏」であった薬師如来・宝生如来・
釈迦如来・弥勒菩薩が安置されていて、いずれも平安時代の作で、
国の重要文化財に指定されています。
観心寺には、国宝や重要文化財の建築・美術工芸品を250点余り所蔵していて、
その一部が霊宝館に展示されています。
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霊宝館から参道に戻り、短い石段上った正面に金堂があり、
国宝に指定されています。
南北朝時代の正平年間(1346~1370)に建立された、大阪府下で最古の和様、
禅宗様、大仏様の折衷様式の本堂建物です。
江戸時代の初期から昭和の初期までたびたび修理が施され、
昭和59年(1984)に昭和大修理の落慶法要が営まれました。
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本尊は如意輪観音で、不動明王、愛染明王を脇侍としています。
新西国三十三箇所・客番、仏塔古寺十八尊・第13番、
関西花の寺二十五霊場・25番、役行者霊蹟札所
神仏霊場巡拝の道・第56番の札所になっています。
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金堂の手前に、弘法大師・礼拝石があります。
弘法大師はここに座り、七星(しっしょう)如意輪立体曼荼羅の
主尊と一体となったのでは...と思われます。
星塚を巡ります。
続く

歓心寺-その2

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一番目の貧狼星(とんろうしょう)の星塚です。
本堂の左から七つの星塚が配置され、南に訶梨帝母天(かりていぼてん)を祀り、
立体の七星(しっしょう)如意輪曼荼羅が構成されています。
訶梨帝母とは、鬼子母神(きしもじん/きしもしん)のことで、
梵名ハーリーティーを音写した呼び名です。
仏法の守護神であり、子供と安産の守り神でもあります。
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1.貧狼星(とんろうしょう)、2.巨門星(こもんしょう)、
3.禄存星(ろくぞんしょう)、4.文曲星(もんこくしょう)、
5.廉貞星(れんじょうしょう)、6.武曲星(むこくしょう)と巡って
本堂の右側に下ってきた所に弘法大師像が祀られています。
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像の横に御影堂があり、堂内には弘法大師像が安置されています。
御影堂の周囲には、四国八十八ヶ所霊場の砂が埋められた、
霊場巡りのコースが設けられています。
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御影堂の右側に役行者堂があり、役行者が祀られています。
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御影堂と役行者堂の間に納骨塔があります。
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御影堂から石段を下ると修行大師像が建立されています。
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大師像の前方に、7.破軍星(はぐんしょう)の星塚があり、約10分で星塚を巡り、
訶梨帝母天堂(かりていぼてんどう)を参拝した後、金堂で拝むと
その年の厄が払われるとされています。
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破軍星の星塚の奥に開山堂(本願堂)があり、実質の開祖とされる
実恵(じちえ)が祀られています。
実恵は、空海の一番弟子で、淳和(じゅんな)天皇から勅命を受け、
天長4年(827)から弟子の真紹(しんしょう)と共に
観心寺の堂宇の造営を始めました。
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開山堂の右側の石段を上った所に楠木正成の首塚があります。
湊川の戦いで敗れ、自害した楠木正成の首は観心寺に届けられ、
ここに葬られました。
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首塚から右側に進むと新侍賢門院(しんたいけんもんいん)の墓があります。
阿野廉子(あのやすこ/かどこ)は、後醍醐天皇の寵妃(ちょうひ)で、
後村上天皇(義良親王)・恒良親王成良親王祥子内親王
惟子内親王などの母です。
後醍醐天皇が崩御された後、後村上天皇の生母として南朝の皇太后となり、
正平6年/観応2年(1351)に院号宣下を受けましたが、
正平14年/延文4年(1359)に観心寺で崩御されました。
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開山堂の左側にある石段を上った所に、
後村上天皇の桧尾陵(ひのおのみささぎ)があります。
足利軍によって京を追われていた天皇は、京への帰還を図り、
正平9年/文和3年(1354)河内天野に移り、金剛寺を行宮と定め、
正平14年/延文4年(1359)に観心寺に移り、翌年には住吉まで北上しました。
しかし、願いは叶わず正平23年/応安元年(1368)に、
住吉大社宮司・津守氏の住之江殿にて崩御されました。
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石段を下り、御影堂へ上る石段の前を通り過ぎた所に阿弥陀堂があります。
阿弥陀如来・普賢菩薩・不動明王が祀られています。
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阿弥陀堂の前に建掛塔(たてかけとう)があり、
国の重要文化財に指定されています。
伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を
発願したのですが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、
一重目だけで建築が中断された未完成の塔です。
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建掛塔の背後にあるのは経蔵でしょうか?
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経蔵の背後に鐘楼があります。
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阿弥陀堂の左側に弁天堂があります。
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本堂前の石段を下った左側に鎮守堂(訶梨帝母天堂)があり、
国の重要文化財に指定されています。
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室町時代後期の天文18年(1549)に建立され、彫刻が施されています。
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鎮守堂の前に拝殿があり、鎮守堂との間には、太鼓橋が架かっています。

河内長野には、まだ巡るべき所が残されていたのですが、
時間が無くなってしまいました。
次回から住吉大社を巡ります。
続く

住吉大社-その1

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第二京阪道路沿いの国道1号線を大阪方面に走り、守口ジャンクションで
大日に入り、大日の信号で国道一号線に入ります。
蒲生四丁目の信号を右折して、そのまま一号線沿いに進み、
東天満の信号で天満橋筋に入ります。
天満橋筋から谷町筋へと接続され、天王寺から阿倍野筋に接続されます。
阿倍野筋を南下して、播磨町の信号を右折して、南港通に入ります。
南港通に入り、塚西で阪堺電車の路面線との交差点があり、
左折して路面線沿いに進んだ所に住吉神社があります。
バイクですので、住吉神社を通り過ぎてから左折して、住吉神社沿いに進むと
武道館があり、そこから入った先にバイクの無料駐車場があります。
入口には鳥居が建ち、左奥の建物が武道館です。
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バイクを置いて、武道館の横から元来た道路の方に出て左折して進んだ先、
道路の右側に大きな石灯籠が目に入ります。
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石灯籠の手前を右折した所に、住吉神社の境外末社・浅澤神社があります。
かって、この地には清水が湧く広い池があり、浅沢と呼ばれ、奈良の猿沢の池
京都の大沢の池と並ぶ近畿の名勝でした。
浅沢池には、杜若(かきつばた)が美しく咲き乱れ、万葉集をはじめ多くの
歌集にその名が留められています。
奈良時代に編纂された『摂津国風土記』には、「昔、息長帯 比売
(おきながたらしひめ=神功皇后)の世に住吉の大神が現れ、
住むべき国を探し求めて天下を巡り、この住吉の地に至った時、
これぞまことに住むべき国なり『真住み吉し、住吉の国』と言い、
神の地と定めた」と記載され、住吉と呼ばれた由縁が残されています。
しかし、昭和になると浅沢の清水も枯れ果て、地元の尽力により、
平成9年になって、浅沢に新しい水脈が加えられ、杜若が復活されています。
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浅澤神社には市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られ、
後の神仏習合では弁才天とされています。
芸能上達や女性の守護神とされ、また、初辰まいり3番参りで、
「芸事や美容の願い」に福を授かるとされています。
初辰まいりとは、毎月最初の辰の日に参拝すれば、より一層力を与えて
守り助けを授かり、そして4年を一区切りとして、48回参拝すると四十八辰、
つまり始終発達するという意味で、満願成就となります。
参拝ルートは、一番の「種貸社」から四番の「大歳社」を巡ります。

浅澤神社から南側に細江川に架かる橋を渡った所に、住吉神社の境外末社・
大歳神社があったのですが、うっかりして参拝するのを忘れました。
初辰まいり4番参りで「願いを成就」させてもらえるとされ、
ご祈祷を受けた方に授ける、小石に「大」と書かれた
「大歳守(おおとしまもり)」は集金のご利益があるそうです。
また、大歳社境内に鎮座する、おいとしぼし社の「おもかる石」は願いを
占う石として知られているそうです。
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武道館の前に、「卯の花苑」があります。
住吉大社がこの地に鎮座されたのは神功皇后摂政11年卯の歳、
卯の月、卯の日であったと伝わります。
五月最初の卯の日に、住吉神社に卯の葉の玉串が捧げ、神威の更新を祈る重要な
「卯の葉神事」が営まれます。
卯の花は、ユキノシタ科のウツギという落葉低木で、かっては住吉神社の
境内にも群生していたのですが、現在ではそのほとんが失われています。
住吉神社名勝保存会では、築山の土壌を改良して卯の花を育成しています。
「卯の花苑」には後鳥羽院・皇子の光台院親王の歌碑が建立されています。
「すみよしの ゆふしでなびく 松風に うらなみしろく かくるうのはな」
「ゆふしで」とは、木綿四手と書き、四手とは、玉串や注連縄(しめなわ)など
に下げる紙のことで古くは木綿(ゆう)を用い、「ゆふしでの」は、
「神」にかかる枕詞として使われています。
卯の花は白く、5月~7月に多くの花を咲かせ、旧暦の四月を「卯月」と
呼ぶのはこの花に由来します。
白波で、白い卯の花が隠されてしまった様に、後鳥羽院のことを思い起こされて
詠まれたのでしょうか?
この歌を詠まれた頃の住吉大社は、太鼓橋あたりまで海でした。
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武道館の先、参道を進んだ所に南門があり、国の重要文化財に指定されています。
豊臣秀頼により、慶長12年(1607)に建立された四脚門で、
門に続く右側の建物が東楽所、左側が西楽所になります。
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門をくぐって見た東楽所です。
この門と石舞台、楽所がセットになって残された舞楽施設として、
重要文化財に指定されました。
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門の前の灯籠には「薩州 船持荷主 中」と刻まれ、
交易が盛んであったことが窺がわれます。
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門をくぐった先に池があり、池に架かる橋の上には石舞台があります。
慶長年間(1596~1615)に豊臣秀頼から奉納され、
日本三舞台(住吉大社・厳島神社・四天王寺)の一つでもあります。
毎年5月の卯之葉神事では、石舞台に木製高欄が立てられ、舞楽が演じられます。
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池を隔てた所にある建物の詳細は不明です。
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石舞台の先、朱塗りの門をくぐった右側に摂社「若宮八幡宮」があります。
第四本宮の祭神・神功皇后の御子で、第15代応神天皇
(誉田別尊=ほんだわけのみこと)が祀られています。
国家鎮護・厄除開運・安産育児の神とされる武内宿禰 (たけしうちのすくね)が
共に祀られています。
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「若宮八幡宮」から東方向へ進んだ所に「五所御前」があり、
石の玉垣の中に杉の木が立っています。
神宮皇后が住吉大神を祀る地を求めていた時に、白さぎが3羽飛んできて、
この杉の木に止まったのを見て、この地に祀ると決められたと伝わっています。
毎年5月の卯之葉神事では、卯の葉の玉串が捧げられます。
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石の玉垣の中には小石が敷かれ、その中に「五」「大」「力」と書かれた
小石があり、その3個を集めてお守りにすると
心願成就のご利益があるとされています。
一応探してはみましたが、時間が掛りそうなので先に進むことにしました。
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「五所御前」の先に「海龍社」があり、岩の御神体が祀られています。
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小さな門をくぐって進んだ先に、末社「立聞社」があり、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祀られています。
天児屋根命は、春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも呼ばれ、
国土安泰・産業(農・商・工)繁栄の神ですが、「禁断の神。酒だち、
煙草だち等 神徳を顕わし給ふ。」と説明されています。
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「立聞社」の左側に「貴船社」があり、高龗神(たかおかみのかみ)が祀られ、
「祈雨の神なり」と説明されています。
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「貴船社」の向かい側に、樹齢千年を超える楠の大樹が祀られています。
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楠の大樹を周り込むように進んだ所、楠の大樹を背にするようにに末社
「楠珺社(なんくんしゃ)」があり、招福猫が多数奉納されています。
宇迦魂命 (うがのみたまのみこと)が祀られ、稲荷神のはずですが、何故か猫です。
初辰まいり2番参りで、「願いの発達」を祈ります。
毎月授かる「招福猫(しょうふくねこ)」は、奇数月は左手を、
偶数月には右手を挙げた小猫を毎月集め48体そろうと、満願成就の証として
納め、一回り大きな招福猫と交換してもらい、今後の繁栄を祈願します。
左手挙げが「人招き」、右手挙げが「お金招き」のご利益があるとされています。
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「楠珺社」から北方向に進むと、右側に社殿が並んでいます。
手前に末社・「新宮社」があり、津守王子(つもりおうじ)社が合祀されています。
津守王子は、熊野古道・九十九王子の6番目の王子で、かってこの地より
南東方向にある現在の墨江小学校に鎮座していました。
津守という名称は、住吉大社の古代よりの奉斎氏族であり宮司家でもあった
津守氏にちなんだものです。
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「新宮社」の横に「八所社」があり、素盞鳴尊が祀られています。
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「八所社」の横に「今主社」があり、国助霊神が祀られています。
文永・弘安の役(1274・1281=元寇)の際、日本をモンゴルから守り、
外敵を撃退させる祈祷を行った津守家48代神主が、
正安2年(1300)に奉斎されています。
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「今主社」の横に「斯主社(このぬししゃ)」があり、国盛霊神が祀られています。
津守家43代神主は、源頼朝と祖父が同じであり、源氏興隆の基を開いたとして、
建仁2年(1202)に奉斎されています。
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「斯主社」の横に「薄墨社」があり、
国基霊神 (くにもとのみたまのかみ)が祀られています。
津守家39代の神主は、和歌の達人でした。
「薄すみに書く玉章と見ゆるかな霞める空に帰る雁かね」の和歌より
薄墨神主と称えられました。
朝廷に仕え藤井戸神主とも号し、芸術に秀で才能高く中興の神主と讃えられ、
建長5年(1253)に奉斎ました。
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「薄墨社」の横に、それまでの並びと異にする古風な建物の「招魂社」があり、
諸霊神(もろもろのみたまのかみ)が祀られています。
住吉大社に縁の深い人などを祖霊神として祀っています。
「招魂社」の建物は、江戸時代中期までは住吉大社神宮寺の護摩堂でした。
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「招魂社」の奥の方に「后土社(ごどしゃ)」があり、
土御祖神(つちのみおやのかみ)が祀られています。
后土は土地の神を指し、鬼門を守護しています。
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「招魂社」の左側に五社殿があり、住吉の神職七家祖神が祀られています。
もう少し、摂社・末社巡りが続きます。
続く

住吉大社-その2

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昨日の文書を読み返して、「后土社(ごどしゃ)」は、鬼門を
守護しているので、「招魂社」の奥ではなく、五社殿の左奥、
境内の北東角にあります。
后土社から西方向に進んだ所に「星宮」があり、
国常立命 (くにのとこたちのみこと)と竈神 (かまどのかみ) が祀られています。
国常立命は、天地開闢(てんちかいびゃく)、即ち天地に代表される世界が
初めて生まれたときのことで、世界の最初に、高天原に相次いで
三柱の神が生まれ、続いて二柱の神が生まれました。
その次に生まれたのが国常立命と豊雲野神(とよくもののかみ)の二柱の神です。
また、『日本書紀』本文では、国常立尊は最初に現れた神とされています。
竈神は、火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされています。
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「星宮」から更に西に進んだ所に、鳥居が建っています。
奥に進むと、右側に海士子社(あまごししゃ)、
左側に児安社(こやすしゃ)があります。
海士子社は、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が祀られています。
鵜茅葺不合尊の父は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)で、
兄の火照命(ほでりのみこと=海幸彦)と猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに
出掛けたのですが、兄に借りた釣針を失くしてしまいました。
山幸彦は小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」に行き、
そこで海神(大綿津見神)の娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまびめのみこと)と
結ばれ、誕生したのが鵜茅葺不合尊です。

児安社の祭神は、興台産霊神 (こごとむすびのかみ) で、
かつては縁結びの神として、現在は、子供を守る神としても信仰を集めています。
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海士子社の鳥居の横にもう一つ鳥居があり、その奥に「種貸社」があります。
祭神の倉稲魂命 (うがのみたまのみこと) は、穀物・食物の神であり、
伏見稲荷大社の主祭神でもあります。
昔は、稲種を授かって豊作を祈っていましたが、やがて商売の神、
子授けの神として信仰さるようになりました。
初辰まいり1番参りで、「願いの種」を授かります。
ご祈祷した「お種銭」を授かり、これを商売などの元手に加えて、
資本充実の祈願をします。
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「子宝祈願」では、「種貸人形」を授かり、願いが叶った人形が
社殿の裏側に多数奉納されています。
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「種貸社」の前方に土俵があり、毎年10月に
近畿高等学校招待相撲大会が行われています。
住吉大社では、古くから相撲会(すもうえ)が行われていて、
とても強い力士がいました。
誰一人として相手になるものがいませんでしたので、行司はご神前の
「しめ縄」をその力士の腰にまとわせ、このしめ縄の垂れに手をかけるものが
あればこれを勝ちとして相撲をとらせましたが、やはり誰もこのしめ縄に
触れることすらできませんでした。
これが横綱の起源であると伝わっています。
また、住吉大社では、3月の大阪場所の前に横綱の手数入(土俵入)、
横綱による「しめ縄」の奉納が行われています。
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土俵の東側に、神苑の森があり、かって神宮寺がありました。
天平宝字2年(758)、薬師如来を本尊とする新羅(しらぎ/しんら)寺が
建立され、その跡を示す石碑が建てられています。
天正4年(1576)の石山合戦の際に、住吉社の社殿と共に
新羅寺の仏堂も炎上しました。
しかし、慶長11年(1606)に豊臣秀頼により住吉社と共に本格的な復興が行われ、
本堂・法華三昧堂・常行三昧堂・僧坊・鐘楼などの他、方形二重の大塔である
東塔と西塔が造営されました。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって再び灰燼に帰しましたが、
元和4年(1618)に徳川秀忠により再興されました。
明治の廃仏毀釈や神仏分離令の影響を受けて、新羅寺は明治6年(1873)に
破却され廃寺となりました。
その際、一部の建物は売却され、西塔は阿波国の切幡寺の大塔に、
薬医門は荘厳浄土寺の表門に、回廊の一部は
生根神社の香梅殿として現存しています。
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神苑の森が途切れた所に「古札納所」があります。
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「古札納所」の先で、左に曲がると「御文庫」があります。
享保8年(1723)に書物を収める目的で、大坂を中心に京・江戸の
書籍商たちによって建立されました。
和書漢籍・洋装本を併せると一万点以上、数万冊が保存されています。
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「御文庫」の先に石灯籠の覆屋があり、二基の灯篭が納められています。
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石灯籠には、文政9年(1826)と刻まれています。
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石灯籠の前方に「大神宮」があり、伊勢神宮の遥拝所になっています。
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「大神宮」の後方に「楠珺社(なんくんしゃ)」の夫婦楠が祀られています。
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夫婦楠の後方右側に校倉造りの蔵が二棟並んで建っています。
北高蔵と南高蔵で、いずれも慶長12年(1607)に建立されたもので
国の重要文化財に指定されています。
下の画像が北高蔵です。
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「御文庫」の方へ戻り、門を越えた所にある建物の詳細は不明です。
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「神楽殿」の看板が立っていますが、神楽殿はこちらの方で、
伝統ある神楽として、神楽女の行なう神降 (かみおろし) ・倭舞(やまとまい)
四段・熊野舞四段・白拍子・田舞 (やおとめまい) などが伝承されています。
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「神楽殿」の先、授与所の前に「矛社(ほこしゃ)」があり、
経津主命 (ふつぬしのみこと)が祀られています。
神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、
刀剣の威力を神格化した神とする説があり、本殿を守護しています。
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対面する所に「盾社」があり、
武甕槌命 (たけみかづちのみこと) が祀られています。
神名の「ミカヅチ」は雷(イカヅチ)に接頭語「ミ」をつけた
「ミ・イカヅチ」の縮まったものであり、雷神は剣の神でもあります。
「矛社(ほこしゃ)とともに本殿を守護しています。
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「盾社」に向かって右前方に「撫でうさぎ」が祀られています。
うさぎは、住吉大社の神使いとされています。
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「撫でうさぎ」の先に門があり、本殿への参拝を後にまわし、
一旦門から出て南の方へ進みます。
続く
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