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東寺-その2

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西院へと入った左側に毘沙門堂があります。
毘沙門堂は、文政5年(1822)に建立され、創建1200年記念事業で
平成6年(1994)に修復が行われ、毘沙門天像も新造されました。
かっては羅城門の楼上に安置されていた兜跋毘沙門天
(とばつびしゃもんてん)立像を本尊としていました。
羅城門は弘仁7年(816)に大風で倒壊し、その後再建されましたが
天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊し、以降再建されることはありませんでした。
羅城門が倒壊した後、毘沙門天像は東寺に遷され、
当初は食堂(じきどう)に安置され、毘沙門堂の建立後は毘沙門堂に遷され、
現在は国宝に指定され、宝物館に安置されています。
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毘沙門堂の横に宝篋印塔、尊勝陀羅尼の碑、宝塔などが並んでいます。
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尊勝陀羅尼とは、仏頂尊勝の功徳を説いた陀羅尼で八七句から成り、
これを唱えまたは書写すれば、悪を清め長寿快楽を得、
自他を極楽往生させるなどの功徳があるとされています。
陀羅尼とは、サンスクリット語原文を漢字で音写したものを各国語で音読して
唱えるもので、本来の意味は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指します。
やがて「暗記されるべき呪文」と解釈される様になり、一定の形式を満たす
呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になりました。
本来、陀羅尼は暗記して繰り返し唱える事で雑念を払い、
無念無想の境地に至る事を目的としたものです。
亀のように見えるのは、中国の伝説上の動物・贔屓(ひいき)で、
竜の子とされ、重いものを背負うのを好むとされています。
甲羅に建つ石塔は永遠不滅とされ、古来より石碑や墓石の土台に
用いられてきました。
石碑の周囲を回りながら贔屓の頭や手足などを撫でて、自分の患部をさすると
万病に効果があると信仰されいます。
贔屓は、自分の気に入った者に対して肩入れし、
援助する意味で使われる語源になっています。
この碑はかって、北野天満宮の宗像社の傍らに嘉永6年(1853)、
比叡山の僧・願海によって建てられたのですが慶応4年(1868)の
神仏分離令により現在地に移されました。
願海は、文政6年(1823)に群馬県高崎市で生まれ、
21歳の時に比叡山へ上って千日回峰を発願し、
嘉永6年(1853)31歳で千日回峰行を満行しました。
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宝塔には小さな弘法大師像が安置されています。
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宝塔の横に「天降石」があり、天から降りてきて、
古くからこの地にあったと伝わります。
江戸時代には「護法石(五宝石」或いは「不動石」と呼ばれていたのが、
いつの頃からか天降石と呼ばれるようになりました。
石を撫でた手で体の悪い箇所をさすると治ると信仰され、
撫石(なでいし)とも呼ばれます。
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「天降石」の右側に高野山遥拝所があります。
弘法大師は、東寺を真言宗の根本道場、高野山を修禅道場と定められました。
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遥拝所の先、突き当りにある建物には駒札等が無く、不明です。
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その横の建物には「加行道場」の表札があります。
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加行道場の右前方に大黒堂があります。
大黒堂では、かって御影堂での生身供(しょうじんく)の調理が行われていました。
生身供は現在も行われていて、朝の6時前に10回の鐘の音を合図に
御影堂への唐門が開けられ、6時から一の膳、二の膳、お茶が供えられます。
6:20と7:20には弘法大師が唐より持ち帰った仏舎利を
頭と両手に授ける「お舎利さん」が行われます。
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大黒堂には、弘法大師作と伝わる大黒天・毘沙門天・弁財天が合体した
三面大黒天像が安置されています。
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大黒堂の北端には不動明王が祀られています。
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大黒堂の北側に進んだ先に鐘楼があります。
最初の鐘楼は、南北朝時代の正平3年(1348)に建立され、
梵鐘は足利尊氏によって寄進されました。
現在の梵鐘はその複製です。
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鐘楼の左奥には一切経蔵があります。
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御影堂の北側に平成12年(2000)に再建された大日堂があります。
元は、江戸時代の元禄10年(1697)に御影堂の礼拝堂として建立され、
その後平安京を造営した桓武天皇の尊牌所となりました。
現在は、役行者作と伝わる胎蔵界大日如来像が安置されています。
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西院は御影堂を囲むようにお堂が配置されています。
御影堂(西院御影堂)は大師堂とも呼ばれ、かって空海が居住していました。
南北朝時代の天授6年(1380)に建立され、応永2年(1395)に前堂、
中門が増築され、もとある後堂(うしろどう)の三つの建物で構成されています。
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御影堂の南面にある国宝・不動明王像は、工事中でも拝むことができますが、
像は弘法大師が自ら刻んだ念持仏で秘仏とされています。

工事は平成31年(2019)12月まで行われます。
金堂から講堂そして五重塔へ向かいます。
続く

東寺-その3(五重塔)

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東寺の伽藍は、南大門をくぐると、金堂、講堂、食堂そして北大門が
一直線上に配置され、東南角に五重塔が建っています。
金堂、講堂、食堂の配置は仏教の三宝である仏・法・僧を表しています。
金堂には本尊の「仏」、講堂は密教の教え「法」、そして食堂が「僧」で
生活の中に修行を見出す所です。
金堂と講堂及び宝物館へは拝観料が必要で、春の特別公開では
五重塔の初層及び観智院の拝観をセットにして1,300円で受付けています。
受付から入った左側に樹齢約120年、樹高13m、枝張り7mの
「八重紅枝垂れ桜」の木があります。
この木は岩手県の旧家で育てられていたのですが、弘法大師が唐より
帰朝して1200年を記念して平成18年(2006)にこの地に移植されました。
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その先、瓢箪池があり、その周囲に庭園が造営されています。
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瓢箪池には五重塔が映ります。
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藤棚もありますが、まだ早いようです。
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桜の季節には遅れてしまいましたが、それ以外にも色とりどりの花が
目を楽しませてくれます。
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東側に東大門がありますが、現在工事中です。
東大門は「不開門(あかずのもん)」と呼ばれ、鎌倉時代の
建久9年(1198)に再建され国の重要文化財に指定されています。
南北朝時代の延元元年(1336)、東寺に本陣を敷いた足利尊氏新田義貞が攻撃し、尊氏は門を閉めて難を逃れ、以来寺では開けてはならない門とされたと伝わります。
新田軍が放った矢の跡が残っていると伝わり、室町時代の
応永30年(1423)では大風で、江戸時代の慶長10年(1605)には
地震で損傷しましたが、同年豊臣秀頼によって大修理が施されました。
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五重塔は平安時代の元慶7年(883)に建立されましたが、天喜3年(1055)に焼失、
応徳3年(1086)に再建されたましたが鎌倉時代に再び焼失し、
その後も再建、焼失を繰り返し現在の五重塔は江戸時代に再建された
五代目になります。
周囲に高い建物が無かった時代、雷様の格好の餌食になったものと思われます。
初代五重塔の建築に当たり、その用材は伏見稲荷の山から伐り出されましたが、
その時誤って伏見稲荷の御神木も伐採されました。
天長4年(827)、淳和天皇(じゅんなてんのう)が病に倒れたのは
そのたたりであるとされ、伏見稲荷に「従五位下」の神階が授けられ、
病気平癒の祈祷が行われ、東寺の鎮守とされるようになりました。
現在の塔は寛永21(1644)、徳川三代将軍家光によって再建されたもので、
国宝に指定されています。
木造の建築物としては55mで日本一の高さを誇り、
京都の玄関のシンボルとなっています。
仏塔は、古代インドにおいて仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るために
紀元前3世紀頃から造られ始めたストゥーパを起源としています。
五重塔も仏塔の一つで、空海が唐より持ち帰った仏舎利が納められています。
下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)から
なるもので、それぞれが5つの世界(五大思想)を示し、
仏教的な宇宙観を表しています。
相輪は塔の中でも重要な部分で、最上部の宝珠は仏舎利、
竜車(高貴な方の乗り物)、水煙(火事を避けるため水煙)
そして九輪は五智如来四菩薩を表わすとされています。
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初層の棟の四隅は邪鬼が支えています。
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東側から中へ入ります。
心柱を囲むように四体の如来像が安置されています。
入った東側に像高64.8cmの阿閦如来(あしゅくにょらい)像、
北側に像高64.8cmの不空成就如来像、西側に像高65.1cmの阿弥陀如来像、
そして南側に像高62.8cmの宝生如来像が安置され、
心柱は大日如来を象徴しています。
四方柱に金剛界曼荼羅、四面の側柱に八大龍王、
四面の壁には真言八祖像が描かれています。
心柱は建物を支えている訳ではありません。
塔の内部は、複雑な木組みによって建物全体を支え、
二層以上は上がれないようです。
北側にある小窓から建物が下がってきていることが、
心柱との位置のずれから確認することができます。
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塔の内部は撮影禁止になっていますが南側から出て、
外から内部をこっそり覗いてみました。
金堂へ向かいます。
続く

東寺-その4(金堂・講堂)

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南大門の正面に金堂があります。
延暦15年(796)、朝廷が造営した東寺で最初に建設されたのが金堂です。
当時、桓武天皇により新寺建立禁止令が延暦2年(783)に発布されていて、
平安京内には官寺以外の寺院は建立できませんでした。
東寺は桓武天皇の発願により、中納言・藤原伊勢人が造寺長官となって
金堂から建設が始まりました。
弘仁9年(818)、金堂が落慶し、天長元年(824)に空海が造東寺別当に
就任しましたが、当時は金堂があるのみで、講堂などの建設に着手しました。
しかし、平安時代末期の治承4年(1180)から元暦2年(1185)にかけての
6年間にわたる大規模な内乱である治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)、一般的に呼ばれる源平合戦が起こり、寺は荒廃しました。
鎌倉時代になって建久3年(1192)以降、神護寺の文覚(ぶんかく)は、
後白河法皇源頼朝の援助により復興を開始します。
室町時代になると度々土一揆が発生し、文明18年(1486)に起こった
文明の土一揆では、東寺に立てこもった土一揆の宗徒と幕府の細川政元との
軍勢が衝突し、金堂や講堂など7棟が焼失しました。
その後、延徳年間(1489~1491)に再建されるも、
安土・桃山時代の天正13年(1586)に発生した天正地震によって伽藍は損壊し、
金堂は灌頂院とともに倒壊しました。
天正17年(1589)、木食応其(もくじきおうご)によって伽藍の再興が
始まりましたが、文禄5年(1596)に発生した慶長伏見大地震で
講堂や食堂などが損壊しました。
その後、木食応其は奉行に任ぜられ、再興に尽力されました。
現在の金堂は、慶長8年(1603)に豊臣秀頼によって再建され、
国宝に指定されています。
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金堂の中央、下の屋根が切り上げられ、両開きの扉が付けられています。
南大門の楼上から本尊・薬師如来像の顔部分が拝することのできる高さとされ、
法会の時に開けられ散華したとも云われています。
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堂内の中央には、像高288cmの薬師如来坐像が安置され、
その台座には十二神将が彫刻されています。
光背には七体の化仏を配し、薬壺(やくこ)を持たない奈良時代の様式とされ、
金堂と同じく慶長8年(1603)に七条仏所の仏師・康正(こうしょう)により
復興されました。
右側に像高290cmの日光菩薩立像、左側に像高289cmの月光菩薩立像が安置され、共に康正の作で国の重要文化財に指定されています。
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東寺の境内は、東西255m、南北515mで大伽藍が建つエリアは
255mのほぼ正方形です。
その中で中心に位置するのが講堂です。
講堂は、弘仁14年(823)、空海に東寺が与えられて着工され、
16年の年月を経て承和6年(839)に完成し、
講堂に安置する諸仏の開眼法要が営まれました。
当時は金堂と講堂の周囲に回廊を巡らせ、二つの建物は回廊で結ばれていました。
文明18年(1486)に講堂も焼失しましたが、延徳3年(1491)に逸早く再建され、
その後修復が繰り返されて現在に至っています。

堂内中央の須弥壇に室町時代の明応2年(1493)に七条仏所の康珍作の
像高284cmの大日如来像が安置されています。
大日如来を四体の如来が囲んでいますが、文明18年(1486)に焼失し、
江戸時代に復興されました。
大日如来の右側に像高140cmの宝生如来、その背後に像高136cmの
阿閦如来(あしゅくにょらい)、左側に像高136.7cmの阿弥陀如来、
その背後に像高135cmの不空成就如来の五智如来像が安置され、
いずれも国の重要文化財に指定されています。
五智如来とは金剛界五仏のことで、密教で5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、
平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたものです。

五智如来の右側、中央に像高197.2cmの金剛波羅蜜菩薩像が安置されていますが、
文明18年(1486)に焼失し、江戸時代に復興されました。
金剛波羅蜜菩薩像の右側に像高93.4cmの金剛宝菩薩、その背後に
像高93.4cmの金剛薩埵(さった)菩薩、左側に像高95.86cmの金剛法菩薩、
その背後に像高94.6cm金剛業(ごう)菩薩の五大菩薩像が安置されています。
金剛波羅蜜菩薩像以外は平安時代の承和6年(839)の作で国宝に指定されています。
五大菩薩は、『金剛頂経』(密教の根本経典の1つ)、
仁王経』(仏教による国家鎮護を説いた経)などをもとに
空海が独自に発案したものと考えられています。

五大菩薩の右側に像高187.7cmの持国天、像高197.9cmの多聞天、
持国天と多聞天の間には四羽の鷲が支える蓮華座に
像高101cmの梵天像が坐しています。
持国天、多聞天、梵天はともに承和6年(839)の作で国宝に指定されています。

五智如来像の左側、中央に像高173cmの国内最古とされる
不動明王像が安置されています。
不動明王の右側に像高174cmの降三世(こうざんぜ)明王、
その背後に像高172cmの金剛夜叉明王、左側に像高201cmの
軍荼利(ぐんだり)明王、その背後に像高143cmの
大威徳(だいいとく)明王 の五大明王像が安置されています。
五大明王像は、いずれも承和6年(839)の作で国宝に指定されています。

五大明王の左側に像高182.5cmの増長天、像高171.8cmの広目天、
増長天と広目天の間には象に乗る像高105.2cmの帝釈天が安置され、
いずれも承和6年(839)の作で国宝に指定されています。

密教では三輪身(さんりんじん)説といって、1つの「ほとけ」が
自性輪身(じしょうりんじん)、正法輪身(しょうぼうりんじん)、
教令輪身(きょうりょうりんじん)という3つの姿をとることが説かれています。
自性輪身とは真理や悟りの境地そのものであって五智如来に相当し、
正法輪身は真理を説く者、すなわち五大菩薩に相当し、
教令輪身は説法によって教化されない者を力づくで導こうとする者で
五大明王に相当します。
四天王と梵天、帝釈天を加えた六尊の守護神が、
講堂の十五尊の如来・菩薩・明王を守る立体曼荼羅を表しています。
食堂へ向かいます。
続く

東寺-その5

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講堂・金堂への入口受付を出て売店を越えた所に二棟の夜叉神堂があります。
東側に雄夜叉神、西側に雌夜叉神が祀られていて、ともに弘法大師作と伝わります。
この夜叉神は、当初は南大門に安置されていましたが、旅人が拝まないで通ると
罰を与えたと伝わり、中門(現在の金堂前・灯篭付近)に遷されました。
慶長元年(1596)に中門が倒壊したため、
現在地に夜叉神堂が建立され再び像が遷されました。
炎髪の雄夜叉神は像高193cm、巻き髪の雌夜叉神は像高204cm、
共に眼光鋭く異様な表情をし、二体共に両手が失われています。
体部には蜂の巣による小さな穴が空いているようです。
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夜叉神堂の背後に食堂があります。
食堂は平安時代に建立され、寛平7年(895)に本尊の約6mの千手観音像と
3mを超す四天王像が像立され、旧国宝に指定されていました。
千手観音菩薩像は、弘法大師の孫弟子で醍醐寺の開祖・聖宝(しょうぼう)作と
伝わります。
足利尊氏が東寺に本陣を置いた際、尊氏は食堂に居住したこともあったそうです。
昭和5年(1930)の終い弘法の日に食堂が焼失し、現在の建物は焼失後に
3年間の工事を経て完成しました。
千手観音と四天王も大きく焼損し、千手観音は修復されて宝物館に遷され、
食堂には昭和9年(1934)に新しく像高179cmの十一面観音菩薩像が造立され、
本尊として安置されています。
四天王も修復され、十一面観音菩薩像の左横に並んで安置されています。
十一面観音菩薩像の左前には、昭和11年(1936)に造仏された釈迦如来坐像と、
その脇侍として文殊菩薩像・普賢菩薩像が安置されています。
十一面観音菩薩像の右前には、不動明王像が安置され、
矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を
両脇に従えています。

食堂には納経所があります。
かって、四国八十八か所巡礼の前に、御影堂で旅立ちの挨拶を行い、
高野山・奥之院で巡礼終了を報告するのが習わしでした。
道中の無事を祈願して弘法大師ゆかりの三寺を参拝し、東寺で菅笠、
仁和寺で金剛杖、神光院で納札箱を求めて旅立ったそうです。

現在は、洛陽三十三所観音霊場・京都十三仏霊場めぐり・京都十二薬師霊場・
都七福神まいりなどの札所になっています。
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食堂を出て北へと進むと北大門があります。
北大門から先、北総門までの通りは櫛司小路(くしげこうじ)と呼ばれ、
平安京が造営された当時の道幅で残されている市内で唯一の小路です。
北大門は鎌倉時代前期に再建され、慶長6年(1601)に補修が施されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
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堀に沿って奥に進むと弁財天堂があります。
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弁財天堂の右側に善女大龍王が祀られていますが、
北大門付近に建っていた石標と比べると、規模が小さいように感じます。
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善女大龍王の右側に大元師明神が祀られています。
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堀では鵜が小魚を狙っているようです。
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北大門の先に特別公開されている塔頭の観智院があります。
観智院は、南北朝時代の延文4年(1359)に、
杲宝(ごうほう)によって創建されました。
延慶(えんきょう)元年(1308)、後宇多法皇が東寺西院に三年間参籠された際に、寺僧の住坊が計画され、二十一院を建立されたうちの一院です。
杲宝は、高野山の宥快(ゆうかい)とともに真言教学の中興の祖と称され、
東寺の創建から室町時代に至る寺史をまとめました。
これは弟子の賢宝(けんぽう)により「東宝記」として補足完成され、
現在国宝に指定されています。
観智院には代々学僧が居住し、東寺の塔頭の中で最も格式が高く、
観智院の住持が東寺の別当職を兼ねました。
古来多くの経文、書籍を所蔵し、徳川家康が古書を調査して、
真言宗一宗の勧学院として後学の用に供するように命じたこともありました。
春季特別公開で拝観ができるのは客殿・書院と茶室「楓泉観(ふうせんかん)」
などで、特別公開以降も通年で公開予定だそうです。

本尊は五大虚空蔵菩薩で、法界、金剛、宝光、蓮華、業用(ごうよう)の
各像はそれぞれ馬、獅子、象、金翅鳥(こんじちょう)、孔雀の
上の蓮華座に坐しています。
この像は入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人、
恵運によって唐から招来した像で、恵運が開創した山科の安祥寺に
あったものを賢宝が観智院に遷して本尊としました。
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門を入ると静観堂があり、心願成就・学業成就・諸芸上達・身体健全・
家内安全などの御利益があるそうです。
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客殿は安土・桃山時代の文禄5年/慶長元年(1596)に発生した
慶長伏見大地震によって倒壊し、慶長10年(1605)に豊臣秀吉の正妻・
北の政所によって再建され、国宝に指定されています。
客殿の上段の間には宮本武蔵が描いた「鷲の図」と
「竹林の図」の襖絵が残されています。
「鷲の図」は、二羽の鷲が獲物を狙うさまを描き、
二刀流開眼を告げたとも言われています。
「竹林の図」は、吉岡一門を破った武蔵が命を狙われたため、
当院にかくまわれていた時に描かれました。
書院では現代画家の浜田泰介氏が描いた襖絵、「春の朝」「初夏の芽」
「秋の音」「新雪」などの拝観ができますが屋内の撮影は禁止されています。

客殿前の庭園は、以前は「五大の庭」として、「神龍」「遣唐船」「鯱」
「神亀」「鳥」などを象徴する石が配されていましたが、
今はシンプルに白砂の庭になっています。
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客殿横の庭は「四方正面の庭」で桃山時代の枯山水です。
羅城門跡、西寺跡へ向かいます。
続く

羅城門跡~西寺跡

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東寺の南大門を出て、西へ進みます。
振り返ると、堀越に五重塔が望めます。
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更に西に進むと矢取地蔵尊が祀られた地蔵堂があります。
天長元年(824)、干ばつで人々が飢えと渇きで苦しんでいたために、
淳和天皇が勅命により東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)僧都が
神泉苑の池畔で雨乞いの祈祷を行いました。
先に守敏が祈祷するも雨は降らず、代って空海が祈祷すると三日三晩に渡って
雨が降り続き、池からは金色に輝く善女龍王が出現したと伝わります。
守敏は空海を恨み、羅城門の近くで矢を射かけました。
すると、黒衣の僧が現れて空海の身代わりとなって矢を受けました。
黒衣の僧は、地蔵菩薩の化身であり、石像の背には傷がありました。
人々はこの身代り地蔵を「矢取の地蔵」と呼び羅城門跡のこの地に祀りました。
現在の地蔵堂は明治18年(1885)に唐橋村(八条村)の
人々の寄進により建立されました。
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地蔵堂の横を奥に入った所に羅城門跡の碑が建っています。
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JR京都駅前には、羅城門の模型が展示されています。
平安京が造営された時、この門から朱雀門までの約4kmを幅約84mの
朱雀大路が続いていました。
高速道路の一車線の平均的な幅が3.5mで、片道2車線、合計4車線でも
12mですので、その7倍に当たる朱雀大路の広さを推し量ることができます。
羅城門は、『日本紀略』によると弘仁7年(816)に大風で倒壊し、
その後再建されましたが『百錬抄』には天元3年(980)に暴風雨で倒壊した
との記載が見られます。
その後、再建されることもなく、倒壊以前は芥川龍之介の『羅城門』に
あるように死体の捨て場になるなど荒廃していました。
延暦13年(794)に建設された門は、正面33m・奥行8mの二重閣瓦屋根の
壮大なものであったと推定されていますが、
今はその面影さえ偲ぶこともできません。
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羅城門跡から西に進み七本松通りを北進すると唐橋小学校があり、
それを通り過ぎた所ある公園の丘の上に西寺跡の石碑が建っています。
この丘は、戦前に松尾大社の御旅所として、神輿を練り上げるために
築かれた土塁で、かってここには講堂がありました。
現在も松尾大社の神輿は、この土塁の周囲を巡ります。
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土塁上には、発掘調査で出土した3つの金堂の礎石が置かれています。
東寺と西寺はほぼ同じ規模で、羅城門をはさんで左右対称に創建されました。
昭和34年(1959)からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・
南大門等の遺構が確認され、その配置も東寺とほぼ同じだったと考えられています。
当初、西寺は外国使節接遇の施設であったという説もあり、
官寺としての役割が強かったと考えられ、平安時代後期になると
朝廷の財政悪化から支援を受けられなくなったとみられています。
また右京の地は水はけが悪く、住民が減少したことによる環境の悪化
などの諸要因が重なり、西寺も羅城門と同じように荒廃していきました。
鎌倉時代の天福元年(1233)に五重塔が焼失すると、
その後再建されることはなく西寺は廃寺となりました。
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西寺跡から西北方向に進んだ御前通と東寺通が交わる西北角に
西寺が復興されていますが、真言宗ではなく浄土宗西山禅林派の寺院です。

土御門家(安倍晴明の子孫)屋敷跡

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西寺から御前通を北上すると、JR東海道線の下をくぐるトンネルがあります。
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レンガが積まれ、歴史がありそうに感じます。
水没したらしき跡が、直線状に残されています。
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トンネルを抜けた付近は、かって安倍晴明の子孫である
土御門(つちみかど)家の屋敷があったとされ、トンネルの先にある円光寺には、
渾天儀(こんてんぎ)の台石部分が残されています。
渾天儀は、陰陽道で星の経緯度を調べるために
土御門泰邦が使用していたものとされています。
残念ながら寺院は非公開で、この目で確かめることはできませんでしたが、
台石は一辺140cmの正方形で厚さが15cmあります。
上面の対角線を結ぶ上に、二本の細い溝が直角に十字に刻まれていて、
この溝に水を注ぎ台座の水平をとるための水準器として使われたとみられています。

円光寺は、戦国時代の大永3年(1523)に現在地より東に位置する
堀川七条付近に創建されたと伝わります。
太平洋戦争中の昭和20年(1945)に建物強制疎開により土御門家の
屋敷跡である現在地に移転しました。
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境内には「出和雅音(すいわげおん/しゅつわげおん)」と刻まれた
石標が建っています。
阿弥陀経の経文「是諸衆鳥 昼夜六時 出和雅音」からとられたもので、
「極楽には 沢山の鳥が住んでいます 。
一日に六回 優雅に鳴いて、仏教の教えを説いています。
この鳴き声を聞き、人々は「仏・法・僧」を念じます。
極楽には、さわやかな風が、吹いています。
その風で、樹木や網飾りが揺れて美しい音色が聞こえてきます。
この音色を聴き、人々は「仏・法・僧」を念じます。」という意味になるそうです。
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円光寺から御前通を少し北上した所に梅林寺があり、
土御門家代々24基の墓碑が建っています。
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山門前には「土御門家菩提所」と刻まれた石碑が建っています。
また、安倍家歴代40以上の位牌が祀られています。
境内の中庭には、石造りの「大表土台」が置かれています。
梅林寺も円光寺と同様に非公開で確認することはできませんが、
73cm四方・高さ15cmの石盤の中央に丸い穴が開けられ、
東西北を示す細い溝が刻まれ、南には太い溝が掘られています。
これは、安倍(土御門)泰邦が暦作りの日時計として製作したもので、
盤の東側面には「寛延四年四月」、西側面には「安倍泰邦製」と刻まれています。
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奥にある大日堂には、大日如来坐像、右脇時に瑠璃光薬師如来坐像、
左脇時に地蔵菩薩立像が安置されています。
大日如来坐像と地蔵菩薩立像は、かって西寺の食堂に安置されていたと伝わります。
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梅林寺の少し北にある路地を左側に入った所に稲住神社があります。
かって、この辺りの農家は稲束を広場に積んでいたことから、
稲住の社名になったと伝わります。
祭神は安倍晴明です。
安倍晴明は、平安時代では最先端の学問(呪術・科学)であった
「天文道」や占いなどを、体系としてまとめた思想としての陰陽道に関して、
卓越した知識を持った陰陽師でした。
土御門家は、晴明の14代目の子孫・陰陽師安倍有世から、本姓ではなく
家名を名乗るようになり、土御門家の初代とされています。
応仁の乱を避けて、数代にわたり若狭国南部(現在の福井県大飯郡おおい町)に
移住していたのですが、江戸時代初期に家康の命令で山城国に戻り、
征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行いました。
江戸時代は、御所周辺の公家町ではなく、現在地周辺に大規模な屋敷を構え、
北部は住居で南部は祭場でした。
祭場には祭壇の本宮権殿やその他の諸建物があり、代々天皇の即位に当たり、
聖寿の長久を祈る「天曹地府祭(てんそうちふさい)」が行われてきました。
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稲住神社の境内は、それほど広くはありません。
鳥居の手前に地蔵堂があります。
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突き当りに本殿があります。
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本殿の右手前にある魔王尊は切株の上に祀られています。
京都十二薬師霊場の三番札所・水薬師寺へ向かいます。
続く

水薬師寺~若一神社

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稲住神社から御前通に戻り、御前通を北上して次の西塩小路通の信号を
左折した先に七条幼稚園があり、その奥に水薬師寺があります。
平安時代の延喜2年(902)、この地にあった大池が光を放ち、
池の中から薬師如来の霊像が現れたと伝わります。
時の醍醐天皇理源大師に命じ、この薬師如来像を本尊として諸堂宇を建立し、
塩通山医王院水薬師寺の勅号を賜ったの始まりとされています。
元弘元年(1331)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による
鎌倉幕府討幕運動である元弘の変で、堂宇はことごとく焼失しました。
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江戸時代の寛政元年(1789)に将軍家または板倉周防守足利家とも...
によって尼寺として再興されました。
かって、平清盛が境内にあった岩井の清泉で熱病を癒したのを謝し、
宮島の弁財天を勧請して弁財天堂が建立されていました。
現在、その清泉も弁財天堂も残されていませんが、清泉は「清盛井」とも
「石井」とも呼ばれ、水薬師寺が立地する地に
西七条石井町という地名が残されています。
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付近の西大路八条には、平清盛の別荘・西八条御所があり、
その跡地に若一(にやくいち)神社があります。
若一神社は社伝によると宝亀3年(772)に威光上人が熊野を詣で、
若一王子を分霊した御神体を背負ってこの地を訪れました。
威光上人は、衆生救済のためとして諸国を巡っていたのですが、
当地の古堂で一夜を明かしたところ、神託を受け堂内に御神体を安置しました。
若一王子は、神仏習合の神であり、若王子(にゃくおうじ)とも云われ、
熊野三山に祀られる熊野十二所権現の五所王子の第一位であり、
現在は「若宮」と称し、天照大神のこととされています。
その後、当地は荒廃し、戦乱等で御神体は地中に埋められました。
平清盛が六波羅に在住した頃には、当地は「浅水の森」と称され、
風光明媚な地として名を馳せ、清盛はこの地に別荘を造営しました。
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仁安元年(1166)に清盛が熊野詣でを行った時に、「土中に隠れたる御神体を
世に出し、奉斎せよ」との神託を授かりました。
帰京後、邸内を探すと東方の築山に光が差し、清盛自らが土中を3尺ほど掘ると、
若一王子の御神体が現れ、当地に社殿を造営して鎮守しました。
清盛は御神体に開運出世を祈願したところ、翌仁安2年(1167)に太政大臣に
任ぜられたことから、開運出世の神として尊崇されるようになりました。
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境内からはみ出して、歩道をまたいだ所に清盛手植えとされる楠木が茂っています。
幹回り3m、樹高30mにもなり御神木として祀られています。
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昭和8年(1933)に市電の軌道敷設のため西大路通が拡幅され
社地が削られましたが、御神木は祟りを恐れ、迂回するように
軌道が敷設され今も西大路通にはみ出しています。
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境内には御神水が湧き出ています。
仁安元年(1166)に社殿を建立し奉斎して以来、
日供祭(にっくさい・毎朝行われる崇敬者の安寧を祈るお祭り)にて
御神前に供えられてきました。
古くから銘水として知られる地下水で、開運出世の水として、
新生児誕生に際しての産湯としても知られ、自由に持ち帰ることができます。

御神水の横には『平家物語』の歌碑が建てられています。
「萌出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき」
芽生えたばかりの草も枯れようとする草も、野辺の草は結局みな同じように、
秋になると枯れ果ててしまうのです。
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歌碑の奥に左・弁財天社、右・寿命社があります。
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境内にも御神木の楠木があります。
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本殿の右側を奥に入った所には末社三社が並んでいます。
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平清盛像
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鳥居の脇には祖霊社と福徳稲荷社があります。
次回、泉涌寺を巡ります。
続く

法性寺

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京阪東福寺駅で下車して、本町通を南へ5分程度歩いた所に法性寺があります。
京阪電車が本町通まで迫り、大きくカーブしているため、
レールを軋ませながら電車が通り過ぎていきます。
法性寺は、延長2年(924)に左大臣藤原忠平によって創建されました。
延長7年(929)、忠平50歳の賀が行われる頃には、大門・本堂・東堂・南堂・
礼堂・鐘楼が建ち並ぶ寺院に栄えました。
承平年間(931~8)に朱雀天皇御願寺となり、御願堂2棟が建立されました。
寛弘3年(1006)、藤原道長の発願により五大堂が建立され、
丈六五大明王の開眼供養が行われました。
翌寛弘4年(1007)には、藤原公季により三昧堂が建立され、長元4年(1031)に
薬師堂が建立されたとみられ、藤原忠道(1097~1164)の代には
100棟を超える堂塔が建ち並ぶ大寺院になりました。
境内も広大で、北は九条大路、南は伏見稲荷大社との境界、東は東山山麓、
西は鴨川まで至り、京洛二十一カ寺の一つに数えられていました。
しかし、延応元年(1239)に九条道家がこの地に東福寺を建立したため、
寺域は次第に東福寺に取り込まれていきました。
南北朝時代の元弘3年/正慶2年(1333)には兵火で、室町時代の
嘉吉元年(1441)には土一揆で焼失し、その後衰微してやがて廃絶しました。
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現在の寺は、明治維新以降に旧名を引き継いで、旧地付近に再建されたものです。
本尊は像高110cmの千手観音菩薩立像で、創建時に藤原忠平が春日仏師に
造らせたもので国宝に指定されています。
旧法性寺・灌頂堂の本尊とされ、藤原忠道が難病を患った際に祈祷し、
数日で回復したことから「厄除観音」と呼ばれるようになったと伝わります。
洛陽三十三所観音霊場の第21番札所で、門の前にチャイムがあり、
ボタンを押してもしばらく応答がありません。
留守かと思い、帰ろうかと思った時、腰が深く曲がった庵主さんが
出てこられました。
年も召されているようで、用心のためか扉を開けてもらうこともできず、
少し寂しさが残りました。

本町通を北上して九条通に出、九条通がカーブして東大路になり、
東大路を北上して泉涌寺へ向かいます。
続く

法音院

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泉涌寺道の緩い上り坂を進んで行くと江戸時代に建立された総門があります。
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総門の脇に境内の見取り図が掲載されていて、
改めて境内の広さを認識することができます。
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門をくぐって進んだ先に泉涌寺塔頭の法音院があります。
法音院は、鎌倉時代末期の嘉暦元年(1326)に無人如導宗師
(むにんにょどうそうし)によって泉涌寺山内に創建されました。
しかし、室町時代になると応仁元年(1467)に応仁・文明の乱が発生し、
その兵火を受けて焼失しました。
その後、江戸時代の初期、寛文4~5年(1664~1665)に幕府及び
本多正貫(ほんだ まさつら)・同夫人の支援を得、僧・覚雲西堂により
現在の地に再建され、以後本田家の京都の菩提寺になり、
正貫没後、法音院に葬られました。
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四脚門を入った正面に庫裏があります。
庫裡の手前右側に寿老人堂があり、泉山七福神の札所になっています。
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寿老人堂の手前を右奥に入った所に本堂があり、現在の本堂は
孝明天皇の女御・英照皇太后(えいしょうこうたいごう)が
明治30年(1897)1月11日に崩御され、その大葬の御須屋が移築されたものです。
須屋(すや)とは御陵または貴人の墓の上に、仮に覆いとして設けた建物で、
英照皇太后は泉涌寺の上にある孝明天皇の
後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)の北陵に葬られました。
また、京都大宮御所は、彼女のために慶応3年(1867)に造営されました。
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本尊は不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)で、「不空」とは「むなしからず」、「羂索」は鳥獣等を捕らえる縄のことであり、不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」
という意味になります。
この世では病なく、財宝を得、水難火難を除き、人々に敬われ慈悲の心で
暮らすことができるなどの利益を得られ、死に臨んでは苦しみなく
浄土に導かれるなどの利益を得るとされています。
法音院は、洛陽三十三所観音霊場の第25番札所です。
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本堂の間から書院の庭が望めます。
書院には伏見桃山城の遺構の一部が移築されています。
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本堂の右側に鎮守社があり、春日三社明神が祀られています。
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社殿の下には石が...?
祭神は八幡大菩薩、春日大明神、天照太神宮(てんしょうだいじんぐう)で、
神鹿が守護しています。
春日大明神と寿老人は鹿を神使いとされています。

向かいにある戒光寺へ向かいます。
続く

戒光寺

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戒光寺は、鎌倉時代の安貞2年(1228)に後堀河天皇の勅願所として、
宋より帰朝した曇照忍律(どんしょうにんりつ)によって創建されました。
曇照忍律は、戒光寺を創建した後に再び宋に渡り、帰国後泉涌寺の門前、
現・東林町に東林院を開創しました。
当初、現在の京都市南区の猪熊八条の地に戒律復興の道場として建立され、
巨大な伽藍を持ち、戒光律寺と呼ばれていました。
しかし、室町時代に発生した応仁・文明の乱(1467~1477)で堂舎を焼失しました。
焼失を免れた本尊の釈迦如来像は一時、一条戻橋付近に遷され、
その後天正18年(1590)には三条通の鴨川の東側(?)へと移築されました。
現在でも猪熊八条と堀川一条には戒光寺町の町名が残されています。
江戸時代の正保2年(1645)、後水尾天皇の発願により現在地に再興され、
泉涌寺の塔頭となりました。
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山門をくぐった右側に本堂があります。
本尊は釈迦如来立像で、像高は丈六(480cm)を越える丈八(580cm)で、
台座から光背を含めると約10mになります。
残念ながら本堂内の撮影は禁止されています。
後水尾天皇が皇位継承するに当たり、先の後陽成天皇と新たに権力の座を
手に入れた徳川家康が対立し、後水尾天皇は暗殺されますが、
その時身代わりとなったのがこの釈迦如来像で、「身代わりのお釈迦様」と
呼ばれるようになりました。
今も像の首の辺りから脚の部分に赤黒いシミが残されています。
像は鎌倉時代の仏師・運慶湛慶親子の合作とされ、
国の重要文化財に指定されています。
堂内の左奥には不動明王像が安置され、鎌倉時代以前の作とみられています。
右奥の左側に弘法大師像が、右側に曇照忍律上人坐像が安置されています。
曇照忍律上人坐像は、10数年前にイギリスで開催された
「ジャパンフェスティバル」の芸術品部門に出品され、
帰国後重要文化財に指定されました。
堂内の右側に安置されている小さな文殊菩薩像は、
京都十三佛霊場の第三番札所の本尊です。
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境内の左側に弁財天堂があり、最澄作と伝わる融通弁財天で秘仏とされ、
1月の成人の日と11月3日の弁財天大祭の日に開帳されます。
泉山七福神の札所で、金銭のみならず学芸など「融通を利かせてあらゆる
お願いを聞いて下さる。」と信仰を集めています。

戒光寺の墓所には御陵衛士(ごりょうえじ)4名の墓があります。
御陵衛士とは、孝明天皇の後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)を
守るための組織で、慶応3年(1867)に伊東甲子太郎(いとう かしたろう)
他15名が新撰組を離脱し、結成されました。
戒光寺の長老である堪然の仲介により、御陵守護の任を拝命し、
高台寺の塔頭・月真院に最後の屯所を置いたため、「高台寺党」とも呼ばれました。
しかし、近藤勇の怒りを買い、近藤勇は口実を付けて伊東を酒宴に招いて帰路、
新撰組の隊士が待ち伏せて伊東を暗殺しました。
そして、伊東の遺骸を油小路七条の辻に放置し、遺体を引き取りにきた
御陵衛士の同志を待ち伏せて襲い、藤堂平助、毛内有之助、
服部武雄が討死しました。
伊東ら4名の遺体を戒光寺の僧が引き取ろうとしましたが、新撰組はそれを許さず、新撰組の墓所である光縁寺に埋葬されました。
1ヶ月後、篠原 泰之進(しのはら たいのしん)ら御陵衛士の生き残りは
伏見街道の民家に伏せ、二条城からの帰りの近藤勇を狙撃、
右肩に重傷を負わせました。
戊辰戦争時に劣勢となった近藤勇は偽名を使って新政府軍に加わろうとしましたが、新政府軍の元御陵衛士らに正体を看破されて捕縛され、ついに斬首となりました。
慶応4年(1868)、4名の遺骸は元御陵衛士によって戒光寺に改葬されました。
尚、御陵衛士墓所の参拝には予め戒光寺への申し込みが必要です。

今熊野観音寺へ向かいます。
続く

今熊野観音寺

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戒光寺から更に泉涌寺道の緩い上り坂を進んだ先で、左に折れ坂道を下ります。
朱塗りの鳥居橋を渡りますが、古くからこの地には熊野権現社が
祀られていたので、橋の名の由来となっています。
かってこの橋の近くに鳥居が建っていたのかもしれません。
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橋を渡った先に門柱が立つ入口があります。
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入口を入って左奥の方を振り返ると大講堂が見えます。
近代的な三階建ての建物で、エレベーターを備え、
法事などの行事に使われています。
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入口から先に進むと子護大師像が建っています。
空海が唐より帰国した翌年の大同2年(807)、東寺で真言密教の秘法を
修法されていたとき、東山の山中に光明がさし
瑞雲棚引いているのを見られました。
不思議に思われてその方へ慕い行かれると、その山中に白髪の一老翁が
姿を現わされ、「この山に一寸八分の観世音がましますが、
これは天照大神の御作で、衆生済度のためにこの地に来現されたのである。
ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」と
語りかけられ、またそのときに一寸八分の十一面観世音菩薩像と、
一夥の宝印を大師に与えられました。
この時に老翁が立ち去ろうとされたので何びとかをたずねると、
「自分は熊野の権現で、永くこの地の守護神になるであろう。」と
告げられて姿を消されました。
空海は熊野権現のお告げのままに一堂を建立され、みずから一尺八寸の
十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった一寸八分の像を体内仏として納め、
奉安されたのが今熊野観音寺のはじまりとされています。
子護大師像は、子供達を護り、育む姿を表しています。
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子護大師像から左側にコンクリートで懸崖造りの茶所が望めます。
茶所は、法要・行事の際に休憩できる施設で、当日は施錠されていました。
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子護大師像から石段を上った所に五智の井があります。
空海が観世音を祀るのに相応しい霊地を選ぶために錫杖をもって
岩根をうがたれると霊泉が湧き出し、「五智水」と名付けました。
こちらの「五智水」は井戸から汲み上げられています。
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本堂
弘仁3年(812)、嵯峨天皇の勅により、空海は諸堂の造営を行い、
天長年間(824~833)に完成をみたと考えられています。
更に左大臣・藤原緒嗣(ふじわら の おつぐ)の発願により広大な寺域に
伽藍の造営が図られ、緒嗣亡き後は次男・春津(はるつ)に引き継がれ、
斉衡2年(855)にようやく完成しました。
南北朝時代や室町時代の応仁・文明の乱の兵火によって焼失するも、
いずれも素早く復興されていて、観音寺への信仰の厚さを窺い知ることができます。
現在の本堂は正徳2年(1712)に、かつて奥の院順礼堂があった辺りに
再建されました。
この地は空海が熊野権現と出会った場所とも伝わります。
本尊は、弘法大師が自ら刻まれたとされる一尺八寸の十一面観世音菩薩像で、
秘仏とされ、お前立の観音様が代役を務めています。
西国三十三所観音霊場の第十五番札所及び
洛陽三十三所観音霊場の第十九番札所の本尊でもあります。
脇侍には智証大師円珍作と伝えられる不動明王像と、
運慶作と伝えられる毘沙門天像が安置されています。
その他、大聖歓喜天(聖天)、薬師如来、准胝観音、三面大黒天、
恵比須神が安置され、恵比須神は泉山七福神の本尊でもあります。
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本堂の左側に大書院があります。
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大書院の左側に平安時代のものとされる三重石塔があります。
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茶所の横には菩提樹が葉を茂らせています。
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本堂の右前の観音像は、「ぼけ封じ観音像」で、今熊野観音寺は、
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場の第一番札所となっています。
観音像の台座の周囲には、奉納された身代わりの石仏が並べられています。
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観音像から短い石段を上った所にに大師堂があり、弘法大師像、不動明王像、
愛染明王像、藤原緒嗣像が安置されています。
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大師堂横の石碑
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大師堂から左側に進むと霊光殿があり、檀信徒のための納骨堂になっています。
台座の上には阿弥陀如来が安置されています。
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霊光殿から戻り、大師堂を通り過ぎた先に稲荷社があります。
空海と稲荷神には密接な関係があります。
詳細は、伏見稲荷大社の「薬力社~下山」のページ「弘法の滝」に記載しています。
真言宗では稲荷明神が大切され、多くの寺院で鎮守社として祀られています。
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稲荷社の横に熊野権現社があります。
熊野権現社は古くからこの地に祀られ、また空海と出会った熊野権現は、
一寸八分の観世音を授け、永くこの地の守護神になると約されたと伝わります。
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熊野権現社から少し下ると鐘楼があり、昭和21年に修理が施され、
戦時供出された梵鐘も戦後に新しく鋳造されました。
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鐘楼から下った所に「五智水」が祀られた小さな祠があります。
空海が観世音を祀るのに相応しい霊地を選ぶために錫杖をもって岩根をうがたれ、
霊泉が湧き出した所とされています。
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「五智水」の横から西国三十三所霊場の各本尊を石仏とまつられた
「今熊野西国霊場」の巡礼地が医聖堂まで続いているのですが、
時間の都合で割愛しました。
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「五智水」から奥に進んだ小さな池の畔のお塚があります。
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お塚の近くに金龍弁財天があり、池の近くに金色の巳(蛇の神)が現れた
ことから祀られたと伝わります。

境内には、藤原長家と藤原忠通及び忠通の第六子・九条兼実の弟に当たり、
青蓮院に入寺して天台座主に就任した慈円(じえん)の藤原三代の供養塔や
島津逆修の供養塔があります。

洛陽三十三所観音霊場・第18番札所である泉涌寺の塔頭・善能寺へ向かいます。
続く

善能寺~来迎院

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今熊野観音寺から戻り、宮内庁事務所の横を奥の方へ進んだ所、
宮内庁事務所の裏辺りに善能寺があります。
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山門をくぐると左側に白砂が敷かれた枯山水の庭があり、
参道が本堂へと続いています。
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右側奥に鳥居が建ち、右側に稲荷大神が祀られています。
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左側に稲荷神石社があり、日本最初の稲荷大明神が祀られています。
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参道へと戻り、先に進むと木の根でしょうか?土が盛り上がっています。
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善能寺は、一説によると大同元年(806)また、弘仁14年(823)とも...に空海が
八条油小路付近の地に稲荷大明神を祀る寺院として
創建したのが始まりとされています。
平城天皇(へいぜいてんのう)の勅願寺であったとされています。
天文20年(1551)また、天文24年(1555)とも...に後奈良天皇の命で
現在地に移され、泉涌寺の塔頭となりました。
本尊は、平安時代作の聖観世音菩薩で、稲荷神の本地仏である
枳尼(だきに)尊天を祀った最初の寺でもあります。
古くから洛陽三十三所観音霊場の札所であり、近年になって復興され、
第18番札所になっています。
尚、善能寺は無人のため朱印は、第20番札所である泉涌寺で合わせて授けられます。
本堂の詳空殿は、昭和46年(1971)の航空機事故で犠牲となられた
遺族の寄進によって建立されました。
東亜航空(日本エアシステムの前身)63便のYS-11機「ばんだい号」は、
函館空港に着陸直前に函館郊外の横津岳に墜落し、乗員・乗客68名
全員が死亡した事故で、その他の航空機事故の犠牲者とともに供養されています。
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詳空殿の横に重森三玲氏が作庭された池泉式庭園があります。
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善能寺の向かいに来迎院があります。
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山門をくぐって進んだ先、右側に弘法大師像が建っています。
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像の右側には小石が山積みされています。
この石は「祈願の御石」と呼ばれ、願い事を書いた御石を持って
大師像の周りを三度巡り、背後の石碑の梵字に御石を当てて
祈願し納められたものです。
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大師像の左側奥に独鈷水が湧き出ています。
空海が独鈷でもって岩をうがち、水を掘り当てたと伝わります。
独鈷水と言えば揚谷寺(柳谷観音)も有名で、遠くからもわざわざ
この水を汲みに来る多くの人がいました。
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参道の左側には宝篋印塔が建っています。
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正面の石段を上った所に廣福殿荒神堂があり、我が国最古とされる
像嵩68.2cmの三宝荒神坐像が安置され、国の重要文化財に指定されています。
寺伝によれば、大同元年(806)に空海が唐で感得した三宝荒神像を安置して
来迎院を開創したと伝わります。
あるとき現在来迎院の建つ山の頂が七日七夜にわたって光を放ち、
これにより空海はここを霊地であると考え、来迎院を興した
との伝承が残されています。
三宝荒神は本来、火の神として台所、かまどを司るとされていますが、
来迎院の荒神は「胞衣荒神(ゆなこうじん)」とも称され、安産の御利益も
あるとされ、かっては皇后宮安産の勅願所になっていました。
荒神堂には三宝荒神の眷属である護法神立像5躯(像高65.3~69.3cm)も
安置されていましたが、現在は京都国立博物館に管理が委託されています。
 
廣福殿には布袋尊も祀られていて、泉山七福神巡りの第四番「布袋尊」の
札所となっています。
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廣福殿の横に、石の宝船に奉安された布袋尊像が、明らかに定員オーバーの
状況で大混雑を呈しています。
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奥の方に鎮守社の三宝荒神社があります。
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石段を下って右に行くと本堂があり、山号「明應山」の扁額が掲げられています。
空海が来迎院を開創して400年後の建保6年(1218)、泉涌寺の長老であった
月翁智鏡(がっとうちきょう)律師が、藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し、
泉涌寺の子院となりました。
室町時代に発生した応仁・文明の乱(1467~1477)で伽藍が焼失し、
その後荒廃しました。
安土桃山時代の天正2年(1574)、中興の祖 舜甫明韶(しゅんぽみょうしょう)が
織田信長の援助により再興、慶長2年(1597)には前田利家が諸堂の再建を行い、
徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い、ようやく復興を果たしました。
元禄14年(1701)、大石良雄は赤穂を退去した後、外戚にあたる当時の
来迎院住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け
山科に居を構え、多くの時間を来迎院で過ごしました。
書院を興し、名水「独鈷水」が湧き出ていることから茶室
「含翆軒」(がんすいけん)、「含翆庭」(がんすいてい,池泉回遊式庭園)を
設け、ここで茶会を催しながら同士である元赤穂藩の家臣達と
討ち入りの密議をおこなったとされています。
来迎院本堂に安置される勝軍地蔵像(しょうぐんじぞうぞう)は、
大石良雄の念持仏で、吉良邸への討ち入り成就を祈願したと伝わります。

本尊として本堂に安置されている阿弥陀如来像は、寺伝によれば運慶の作と伝わり、脇侍仏として観音菩薩像、勢至菩薩像が安置されています。
明治時代になると廃仏毀釈により荒廃したが、大正時代になって修復されました。
今回、含翆軒の拝観は見送りました。
後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)を経て泉涌寺へ向かいます。
続く

後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)

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来迎院から南側にある石段を上ると後月輪東山陵
(のちのつきのわひがしのみささぎ)参道の石標が建っています。
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御陵への参道は、泉涌寺の伽藍の横を通り、泉涌寺の上へと続きます。
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坂道を登って行くと、後堀川天皇の観音寺陵(かんおんじのみささぎ)へと
参道が分かれ、左に折れて石段を上ります。
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少し上った所から泉涌寺の伽藍が望め、その先で参道は右側に曲がり、
東側へ登って行きます。
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後堀川天皇は、鎌倉時代の第86代天皇で、
承久3年(1221)~貞永元年(1232)の期間に在位しました。
承久3年(1221)に起こった承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・
土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させ、
後鳥羽上皇の兄・守貞親王の三男である茂仁(ゆたひと)王を即位させました。
茂仁王は、僅か10歳で後堀河天皇として即位したのですが、
元来病弱で23歳で崩御されました。
かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた
僧正・仁慶の怨霊の祟りだとか、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異である
などと噂されたと伝わっています。
僧正・仁慶は、茂仁王が即位する前に弟子として十楽院に入室させていました。
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参道まで下り後月輪東山陵へ向かいます。
坂道を登って開けた所に孝明天皇の後月輪東山陵と英照皇太后の後月輪東北陵
(のちのつきのわのとうほくのみささぎ)があります。
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孝明天皇は、江戸時代最後の第121代天皇で弘化3年(1846)~慶応2年(1867)
までの幕末の激動期に在位しました。
当時の日本は、諸外国からの外交圧力にさらされていました。
嘉永6年(1853)、浦賀沖にペリー率いる黒船が現れます。
幕府の実権を握る大老・井伊直弼は、悪名高い不平等条約である
日米修好通商条約」を締結しましたが、孝明天皇はこれに反対し、
勅許を下しませんでした。
幕府と尊王攘夷派の対立が起こり、井伊直弼は万延元年(1860)に桜田門外で
殺害されてしまいます。
幕府は揺らぎつつある権威を守り、政権の安定を公武合体によって図ろうと
画策し、孝明天皇も攘夷を条件にそれに同調して万延2年(1861)に妹の和宮を、
徳川第14代将軍・家茂(いえもち)へ降嫁しました。
しかし、京の治安は悪化の一途をたどり、文久2年(1862)に
会津藩主・松平容保(まつだいら かたもりが京都守護職に就任、
翌文久3年(1863)には
新選組の前身となる壬生浪士組が結成されました。
元治元年(1864)、尊王攘夷派の急先鋒である長州藩に対し、
天皇は将軍・家茂に「長州征討の勅命」を下しました。
孝明天皇は、必ずしも幕府の崩壊を望んでおらず、公武が一体となって
国難にあたる政治姿勢を貫いていました。
この第一次長州征伐は、終始幕府軍優勢に終わったのですが、
藩主・毛利敬親・元徳父子は病と称して大阪へ来訪しませんでした。
次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な意見が出る中で、
天皇は第二次「長州征討の勅命」を下しました。
薩摩藩の離反などにより幕府軍は苦戦を強いられ、慶応2年(1866)、
将軍・家茂の突然の死により撤退、事実上の敗戦に追い込まれました。
同年、後を追うように孝明天皇も満35歳で崩御されました。
在位期間は21年で、天然痘が死因と診断されていますが、
他殺説とも議論されています。
慶応3年(1867)に伊東甲子太郎(いとう かしたろう)他15名が新撰組を離脱し、
御陵衛士が結成されました。
御陵衛士とは、孝明天皇の後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)を
守るための組織で、孝明天皇は命だけでなく、
その御陵までも護衛しなければならなかったようです。

英照皇太后は、天保5年(1835)に九条尚忠(ひさただ)の六女として生まれ、
弘化2年(1845)12歳の時に、統仁(おさひと)親王の妃となりました。
翌3年仁孝天皇(にんこうてんのう)が崩御され、統仁親王は孝明天皇として
即位され、女御として入内されました。
嘉永3年(1850)に第一皇女・順子内親王、安政5年(1858)に
第二皇女・富貴宮が生まれましたが、いずれも幼児期に亡くしました。
万延元年(1860)、勅令により中山慶子の生んだ第二皇子・祐宮(さちのみや・
当時9歳、後の明治天皇)を「実子」と称しました。
慶応2年(1866)、孝明天皇と死別し、明治天皇即位後の慶応4年(1868)に
皇太后の宣下を受けました。
東京奠都後、明治5年(1872)、赤坂離宮に遷御、明治7年(1874)に
赤坂御用地に移った後、明治30年(1897)に崩御され、
「英照皇太后」の追号を奉られました。
大葬の際建築された御須屋は法音院の本堂へ移築されました。

御陵から下り、泉涌寺へ向かいます。
続く

泉涌寺-その1

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後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)の石標が
建っている所まで下り、その横から泉涌寺へ入ることができますが、
無人でしたので、入山料500円は帰りに納めます。
入った正面に仏殿があり、国の重要文化財に指定されています。
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仏殿は本堂であり、宋風の呼称です。
泉涌寺の創建や変遷の詳細は不明です。
寺伝では、空海が天長年間(824~834)にこの地に草創した法輪寺が起源であり、
斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとされています。
空海は、大同2年(807)に今熊野観音寺を創建していますので、
やや疑問に思います。
平安時代初期には泉涌寺の前身となる寺院が草創され、
平安時代後期には荒廃していたようです。
寺伝でも、鎌倉時代に再興した、月輪大師・俊芿(がちりんだいし・しゅんじょう)が開山したと仰がれています。
建保6年(1218)、月輪大師が宇都宮信房から現在地の寄進を受けて
大伽藍の造営に着手し、嘉禄2年(1226)に完成しました。
大師は正治元年(1199)に宋に渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、
建暦元年(1211)に帰国しました。
大師は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は全て宋風に造られました。
泉涌寺は律を中心として天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の道場とし、
公家や武家から深く帰依されました。
室町時代に発生した応仁・文明の乱(1467~1477)や
その後の火災で堂宇はたびたび焼失しています。
現在の仏殿は寛文8年(1668)に徳川家綱の援助で再建されました。
堂内には釈迦、右側に阿弥陀、左側に弥勒の三世仏(さんぜぶつ)が
安置されています。
いずれも鎌倉時代の仏師・運慶の作で像高88cm、南宋の寺に倣い、
未来・過去・現在の三世に渡り、衆生の安泰と幸福を守るという意味があります。
天井には畳八畳分もあるという「蟠龍図(ばんりゅうず)」が江戸時代の
画家・狩野探幽(かのうたんゆう)によって描かれています。
三世仏裏の壁にも探幽作の「白衣観音」が描かれ、どこから見ても、
拝んでいる人の方をずっと向いており、必ず目が合うといわれています。
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仏殿の右側に泉涌水屋形があり、京都府の文化財に指定されています。
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江戸時代の寛文7年(1667)に再建されたもので、寺号の由来となった
霊泉が今も湧き続けています。
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泉涌水屋形の左側に清少納言の歌碑と供養塔が建っています。
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ
清少納言は、一条天皇の皇后である藤原定子(ふじわらのていし)に
仕えましたが、長保2年(1000)、定子が第2子を出産した後に
亡くなって間もなく宮仕えをやめます。
定子の亡骸は、東山の鳥辺野(とりべの)に埋葬されました。
摂津守だった藤原棟世(むねよ)と再婚し、任国摂津に下り、
娘・小馬命婦(こまのみょうぶ)を生みました。
晩年、父・清原元輔の山荘があった鳥辺野近くの東山月輪の辺りに隠棲しました。
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仏殿に隣接して舎利殿があり、京都府の文化財に指定されています。
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舎利殿は、江戸時代の寛永年間(1624~43)に御所・内裏の御殿を移築し、
上層部を付け足し重層に変えられて再建されました。
俊芿の弟子湛海が宋から持ち帰った仏牙舎利(ぶつげしゃり=釈尊の歯)が
舎利塔に納められ安置されています。
舎利塔の左右には、月蓋長者(がつがいちょうじゃ)、韋駄天の像も安置され、
謡曲『舎利』の舞台となっています。
足疾鬼(そくしつき)が舎利殿に飛び上がり、舎利を奪い去りますが、
韋駄天がこれを取り返す話になっています。
月蓋長者像は国の重要文化財に指定されています。
天井には狩野山雪筆の「鳴き龍(赤龍)」が描かれ、龍の目を見ながら
手をたたくと鳴き返すような不思議な残響音が響く『鳴き龍』と
呼ばれる仕組みが施されています。
通常非公開ですが、12年に1度、辰年にのみ特別公開されます。
 
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舎利殿から右側に進んだ所に霊明殿がありますが立ち入ることはできません。
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霊明殿は、明治15年(1882)10月に炎上した後、同17年(1884)に
明治天皇によって再建されました。
堂内には、桓武天皇から昭和天皇までの歴代天皇、皇后、親王などの
尊牌が祀られています。
泉涌寺は、貞応3年(1224)に後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ、
仁治3年(1242)、次代の四条天皇のが崩御された際には、
泉涌寺で葬儀が営まれ、このころから皇室との結び付きが強まりました。
その後、南北朝から安土・桃山時代と江戸時代の後陽成天皇から
孝明天皇まで歴代天皇、皇后、親王などの葬儀が執り行われ、
皇室の菩提寺として尊崇されました。
泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以でもあります。
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霊明殿の前から築地塀沿いに北方向に行くと勅使門があり、
明治18年(1885)に再建されました。
本坊へ向かいます。
続く

泉涌寺-その2

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勅使門の北側に本坊への門があり、門を入った左側に無料休憩所があります。
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右側には塀越しに大玄関とその奥に霊明殿が望めます。
泉涌寺は、洛陽三十三所観音霊場の第20番札所で、第18番札所の善能寺の
分と合わせ、本坊で朱印が受けられます。
また、京都十三佛霊場の第六番札所(弥勒菩薩)です。
本坊で300円を納めると中に入ることができます。
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本坊の南の部分は御座所と呼ばれ、皇族方が御陵を参拝される際に、
御休所として使用されます。
明治15年(1882)10月の霊明殿炎上とともに、庫裡・書院も焼失し、
明治天皇により霊明殿の再建と併行して京都御所内にある皇后宮の
御里御殿を移築・再建されました。
この建物は文化15年(1818)に造営されたものであり、当時の
宮廷絵師によって描かれた襖絵などもそのまま移築されました。
御座所には車寄せが設けられています。
何か行事があるのか掃除をされていました。
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勅使門を内側から望める大玄関は安政年間(1854~1860)に造営された
京都御所の部材が用いられています。
襖絵も御所から移されたのですが建物内の撮影は禁止されています。
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霊明殿・御座所・海会堂そして御陵拝所に囲まれた所に庭園が築かれています。
新緑が美しく、ピンクのつつじが色を添えています。
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庭園を左に進むと、奥の方に海会堂があり、明治17年(1884)に
京都御所の仏間・御黒戸を移築したものです。
歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られています。
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本坊を出て、大門の方へ向かう正面の森の中に鎮守社の拝殿があります。
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鎮守社は寛文8年(1668)に豊川稲荷が勧請され建立されました。
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鎮守社から参道をはさんで左側に寛文年間(1661~1672)に再興されたもので、
明治30年(1897)に現在地に移築されました。
京都府の文化財に指定されています。
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大門の手前右側に楊貴妃観音堂があります。
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観音堂は寛文年間(1661~1672)に建立されたもので、六羅漢像の中央に
楊貴妃観音像が安置されています。

楊貴妃は唐王朝の玄宗皇帝の妃で、安史の乱(あんしのらん)が起こると、
皇帝は宮廷を脱出し蜀(現在の四川省)へと敗走します。
その途上で護衛の兵が反乱を起こし、楊貴妃の兄・楊国忠は安禄山の挙兵を
招いた責任者として断罪されたあげく、息子兄弟と共に兵士に殺害されました。
そして、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとして殺害さました。
皇帝・玄宗は亡き妃の面影を偲ぶため、香木にて容姿を写した
等身大の聖観音坐像を造りました。
建長7年(1255)、宋に渡った俊芿(しゅんじょう)の弟子湛海は、
その像を月蓋長者(がつがいちょうじゃ)像とともに持ち帰り、
泉涌寺に安置したと伝わります。
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観音堂の右側に鐘楼があります。
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大門は、慶長年間(1596~1615)に造営された、
内裏の南門が移築された四脚門です。
時間が足らなかったので、まだ巡れていない所もありますが、
また改めて訪れたいと思います。
次回は西本願寺の花灯明を巡ります。

城興寺

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城興寺は、九条烏丸の北、西側の路地の奥にあります。
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歴史的名称では成興寺とも書き、境内に残されている石碑にそれが見られます。

山号を瑞寶山(ずいほうざん)と称する真言宗泉涌寺派の寺院で、
洛陽三十三所観音霊場の第二十二番札所です。
平安時代、この地は太政大臣藤原信長の邸宅で、東は現在の竹田街道、
西は室町通、南は九条大路、北は東寺道に至る広大な敷地の中に、
応徳2年(1085)に丈六佛を安置する九条堂を建て、城興院と称しました。
三代後の藤原 忠実(ふじわら の ただざね)が伝領し、
永久元年(1113)に寺院を建立し、城興寺と改めました。
10年後には数々の堂塔伽藍も完成し、保安3年(1123)に白河法皇の院宣を
もって盛大な伽藍供養が行われました。
『城興寺古伽藍図』に見る当時の寺容は、周囲を築地塀で囲い、
九条大路に面して南大門が、中央一列に放生池・仁王門・金堂・講堂と、
東側に多宝塔と鐘楼が、西側に御影堂、北側には庫裡や数々の僧坊など、
堂塔伽藍が建ち並ぶ立派なお寺でした。
その後、堀川天皇の子であり、白河法皇の孫にあたる天台座主・
最雲法親王(さいうんほっしんのう)がこの寺を領し、
没後は弟子の以仁王(もちひとおう)が引き継ぎました。
治承3年(1179)に寺領が平氏政権によってとりあげられ、
天台座主明雲に与えられました。
このことが以仁王の挙兵の原因の一つとされています。
治承4年(1180)、以仁王と源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画したのですが、
準備不足のために露見して追討を受け、
以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死しました。
しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、
全国的な動乱である治承・寿永の乱(1180~1185)が始まります。
寿永2年(1184)、木曾義仲は院御所・法住寺殿を襲撃して、
後白河法皇後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握します。
この戦で明雲は戦死し、城興寺は以仁王の子・真性へと引き継がれましたが、
この乱により都は荒廃し、城興寺も衰退していきます。
室町時代になると応仁元年(1467)に応仁・文明の乱が発生し、
その兵火を受けて焼失しました。
昭和58~9年(1983~4)の発掘調査で室町時代後期の堀跡が発見され、
寺が自衛していたとみられています。
江戸時代の安永9年(1780)発行の『都名所図会』には「成興寺は九条烏丸にあり、
本尊観世音は慈覚大師の作なり」という記載があり、
洛陽三十三ヶ所観音霊場巡りの札所として栄えました。
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庫裡
現在は、本堂と庫裡、それに薬院社を残すのみとなりました。
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山門をくぐった左側、大イチョウの元に、摂社・次郎吉稲荷が祀られ、
唯一つの願いが叶えられるとされています。
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奥の方に薬院社があります。
新町通り東寺道下ル西側に施薬院、東寺道烏丸上ル西側辺りには
施薬院御倉がありました。
施薬院は、平城京で天平2年(730)、光明皇后の発願により、
悲田院とともに創設され、病人や孤児の保護・治療・施薬が行われました。
平安京遷都後、藤原冬嗣が私財を投じて、自らの土地に施薬院を開設しました。
しかし、鎌倉時代の初期には他所へと移転し、御倉跡の施薬の森には
施薬院稲荷の祠のみが残され、以後周辺地域の鎮守社となりました。
明治5年(1872)の辻堂廃止令により、施薬院稲荷は明治11年(1876)
城興寺境内の荼枳尼天堂(だきにてんどう)に合祀され、
跡地は京都府へ寄贈されました。
荼枳尼天堂には、荼枳尼天が祀られ、稲荷信仰と混同されて習合し、
一般に白狐に乗る天女の姿で表されています。
稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が合祀され、
男女のお稲荷さんが祀られていることになり、
夫婦円満のお稲荷さんとして信仰されています。
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本堂には、本尊の千手観音菩薩像が安置されていますが秘仏とされています。
この像は、慈覚大師円仁が承和五年(838)、遣唐使の一員として唐に渡り、
無事の帰朝を念じて船中で造作したものです。
薬師如来像は、弘法大師作と伝わり、天長6年(829)、全国に大疫病流行し、
淳和天皇が弘法大師に祈祷を命じました。
大師は、この薬師如来像を造って祈祷した所、疫病が治まったと伝わります。
その他、不動明王像と大日如来像が安置されています。
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また納経所には賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)が祀られています。

洛陽三十三所観音霊場・第二十七番札所・平等寺(因幡薬師)へ向かいます。
続く

平等寺(因幡薬師)

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平等寺は、松原通を烏丸通から東に進んで、北側に入った所にあり、
松原通りに石標が建っています。
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烏丸通りに面しても、松原通の北側に石灯籠が建っています。
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本堂は因幡堂とも呼ばれ本尊の薬師如来像は、京都十二薬師霊場の第一番札所、
京都十三佛霊場の第七番札所です。
また、長野善光寺の阿弥陀如来・京都嵯峨清涼寺の釈迦如来とともに
日本三如来に数えられています。

因幡堂延喜(東京国立博物館蔵)によれば、天徳3年(959)に橘行平は、
村上天皇の命で因幡国(現鳥取県)の一宮に赴きました。
そこで神事を済ませ帰洛の途中、行平は急病になり、平癒を神仏に
祈り続けていると、ある夜、夢に異形の僧が現れこう告げました。
「因幡国賀留津の海中に一つの浮き木がある。その浮き木は衆生済度のため
遠くの仏の国からやってきた。
あなたは速やかにこの浮き木を求めて供養しなさい。
そうすれば必ず病気は治り、さらに一切のあらゆる願いが成就するだろう。」
行平は正夢に違いないと思い、早速人々を集めて大網をもって海底を
探らせたところ、お告げの通り一つの浮き木がありました。
そしてそれはよく見ると身の丈五尺余り(約165cm)の薬師如来像でした。
行平は喜んでこれを信心しこれを供養する草堂をこの浦に建て
薬師如来像を祀りました。
これが「因州(鳥取県)高草郡大字菖蒲浦の座光寺(ざこうじ)」です。
その後、行平の病気は平癒し、無事に京に帰る事が出来ました。
ところが帰京した行平にまたある夜、一人の異形な僧から夢告があります。
「我は西の天より来て、東の国の人々を救おうとやってきた。
あなたには宿縁(前世からの因縁)があるから重ねて事を示す」
長保5年(1003)、行平が夢から覚めると来客があり、
西の門を開けると薬師如来像が立っていました。
行平は屋敷を改造してお堂を作り、薬師如来像を安置して因幡堂と名付けました。
第66代の一条天皇は、勅願所とし、八ヶ所の子院を建立され、また歴代天皇も
即位ごとに祈祷し、「薬師もうで」と呼ばれた勅使の月参りもありました。
承安元年(1171)、高倉天皇により「平等寺」と命名され、勅額を賜りました。
また、天皇は因幡堂のすぐ南「東五条院」に住居され、五条院の御所に遠慮して
南門を開けなかったために、因幡堂の正面真南の通りを
「不明(あけず)門」と呼ばれるようになりました。

因幡堂は度々火災に見舞われ、寺域も次第に小さくなっていきました。
元治元年(1864)に起きた蛤御門の変で焼失後、本堂は明治15年(1882)から
再建に着手され、明治19年(1886)に他の堂宇も含めて完成しました。
本尊の薬師如来像、釈迦如来立像、如意輪観音坐像は収蔵庫に安置され、
共に非公開で国の重要文化財に指定されています。
釈迦如来立像は像高76.7cmで、鎌倉時代の建保元年(1213)の作とされています。
如意輪観音坐像は像高81.2cmで、鎌倉時代の作とされています。
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本堂内には今から約130年前の因幡堂の鬼瓦が展示されています。
鬼面ではなく経の巻きと呼ばれる鬼瓦で、菊の周りを橘が巻く寺紋が
あしらわれています。
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また、明治19年(1886)より本堂大屋根の巴蓋(ともえぶた)として
使われていた瓦も展示されています。
龍の子で、亀に似た姿で重いものを背負うのを好むとされている
贔屓(ひいき)を図柄としています。
「贔屓」を古くは「贔屭」と書きました。
「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表したもので、
「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたもので、
財貨を多く抱えることを表しました。
「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、
「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになりました。
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本堂の左側に観音堂があり、洛陽十三仏霊場第二十七番札所の本尊である
十一面観音菩薩像が安置されています。
この像は、かって北野天満宮に安置されていたのですが、
東寺の観智院を経て平等寺に遷されました。
その他に弘法大師像、毘沙門天像、如意輪観音像、神変大菩薩(役行者)、
不動明王が祀られています。
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観音堂の右横に併設して歓喜天堂があり、大聖歓喜天(聖天)が祀られています。
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歓喜天堂の右側に地蔵堂があり、地蔵菩薩が祀られています。
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地蔵堂の右側に鎮守社があり、十九所権現(十九所明神)が祀られています。
平等寺の鎮守社には、元は武内宿禰(たけのうちすくね)が祀られていました。
鳥取県にある因幡国一宮の宇倍神社の主祭神が武内宿禰であることから、
因幡国一宮に赴いた橘行平が勧請したものと思われます。
十九所権現の前に立つ駒札には以下のように記載されています。

『当寺は後白河院の信仰篤く、度々御幸されたある時に当寺の鎮守は
いかなる神かとたずねられました。
住職が因幡の国一宮、武内宿禰と答えると、生身の如来衛護の神には、
武内朝臣のみでは力不足と仰せられ、十八所の神々を院宣にて勧請されました。
御白河院還幸の後、或る人の夢枕に西宮夷の御嫡子、一童御前が立たれ、
我もここの擁護の神に入ると仰せられました。
住職が後白河院に奉聞したところ許可されたので、十九所となりましたが、
最初の院宣により十八所とよばれていました。
 十八所(十九所)とは次の通りです。
古くは三間の鎮守、五間の拝殿と記録されています。
1.天照大神 2.八幡 3.春日 4.賀茂 5.祇園 6.愛宕権現 7.松尾 8.熊野 9.北野
 10.山王 11.住吉 12.摩利支天 13.妙音 14.辨天 15.白鬚 16.多賀 17.平野
18.御霊 19.蛭子(一童御前)
※一九は ”いく” に通ず(心願成就)』
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玉垣には隙間が開けてあり、神木に触れられるようになっています。
樹は気に通じ、元気が頂けるそうです。
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鎮守社から右に進むと閻魔大王の石像が祀られています。
密教では『大日経』に記述される焔摩天(えんまてん)で表され、
各方位を守護する八方天、十二天の一尊となり、南方焔摩天とも呼ばれています。
また、除病・息災・延寿を司るともされています。
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閻魔像の奥には石仏が祀られています。

洛陽三十三所観音霊場・第二十四番札所・長円寺へ向かいます。
続く

長圓寺

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松原通を西に進み大宮通を越えて壬生川通の手前、南側に長圓寺があります。
山号を延命山と称し、浄土宗の寺院です。
江戸時代の慶長13年(1608)、京都所司代・板倉勝重が清巌和尚に帰依し、
土地を寄進して、本堂・庫裏・客殿などを建立したのが
始まりとされています。
寛永元年(1624)勝重没後、その法諱(ほうき)「長圓院」にちなんで
寺号を長圓寺としました。
天明8年(1788)に起こった天明の大火で焼失しましたが、
15世瑞誉上人の時に再建され、華頂宮博経親王から「長圓寺」の額を賜りました。
昭和6年(1931)にも出火しましたが、本堂・観音堂・山門は類焼を免れ、
翌年には再建されて現在に至っています。
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山門をくぐると右側に本堂があり、慈覚大師円仁作と伝わる阿弥陀三尊像が
安置されています。
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山号「延命山」の扁額が掲げられています。
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本堂の前に仏足石があります。
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本堂の横に観音堂があり、恵心僧都源信作と伝わる聖観音像が安置されています。
観音像は、洛陽三十三所観音霊場・第二十四番札所の本尊で、
国の重要文化財に指定されています。
平安時代・一条天皇の頃、平安京に疱瘡(ほうそう)が流行し、
大納言・藤原親衡(ちかひら)は、天台宗の高僧、恵心僧都源信
に依頼して観音像を作らせました。
親衡は、この観音像を宮中に祀り、21日間祈祷したところ、
疱瘡の流行は治まり、その後、比叡山に安置されました。
天正15年(1587)、応仁の乱で荒廃した京の町に、
三河の僧・清巌(大誉上人)が入ります。
上人は霊告を受け、比叡山にあったこの聖観音を京の町に持ち帰り、
小さな庵を建てて観音像を安置したのが観音堂の始まりとされています。
その後、板倉勝重が清巌を開基として長圓寺を創建しました。

西本願寺へ向かいます。
続く

西本願寺-その1

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大宮通を南下して、花屋町通を左折すると西本願寺の駐車場があるのですが、
当日は伝灯奉告法要が行われているため駐車場は閉鎖されていました。
バイクは龍谷大学の横に駐車できるとのことで、大宮通を七条通まで南下し、
七条通に面した門から入りました。
花灯明の受付けは、5:30から始まるのですが、既に多くの方々が並んでいました。
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北小路通を堀川通まで進み、堀川通を北上して
御影堂門から改めて境内へと入ります。
境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、
平成6年(1994)に国の史跡に指定され、同年12月に「古都京都の文化財」
としてユネスコの文化遺産に登録されました。

御影堂門は、江戸時代の寛永13年(1636)に建立され、
国の重要文化財に指定されています。
安政6年(1859)に親鸞聖人600回大遠忌を前に、昭和35年(1960)に
親鸞聖人700回大遠忌を前に修理が施されています。
また、平成18年~21年(2006~9)にかけて、親鸞聖人750回大遠忌を前に、
築地塀と併せて石工事・屋根工事・金物工事などが実施されました。

築地塀は江戸時代中期~後期に建築されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
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門をくぐった正面の目隠し塀は江戸時代後期に建築されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
塀の前に竹で作られた飾りは、夜になるともっと美しくなります。
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右側に手水舎があり、国の重要文化財に指定されています。
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手水舎付近に立つイチョウの木は樹齢約400年と推定され、
京都市の天然記念物に指定されています。
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御影堂(ごえいどう)は、寛永8年(1631)に焼失後、寛永13年(1636)に
再建されたもので、国宝に指定されています。
中央に親鸞聖人の木像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置し、
重要な行事の際には1200名が収容できるそうです。
御影堂は、本堂である阿弥陀堂よりも大きく造られています。
これは本願寺がそもそも宗祖・親鸞上人の廟堂として始まったことによります。
東西48m、南北62m、高さ29mで、畳が734枚敷かれている
世界最大級の木造建築です。
屋根には11万5千枚の瓦が葺かれ、その重さは1,200tにもなり、
227本の柱で支えています。
宝暦10年(1760)、寛政12年(1800)に大修復工事が行われ、
親鸞聖人750回大遠忌法要の記念事業として、平成11年(1999)から
10年間の大修復工事が行われました。
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御影堂と阿弥陀堂(本堂)は渡廊で結ばれています。
御影堂と阿弥陀堂の縁側や廊下には、木材の亀裂や穴を木片で繕った
埋め木が施されています。
動物や植物、徳利や軍配など様々な形をした埋め木があるそうで、
大工の遊び心で造られたとみられています。
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阿弥陀堂の内陣中央に、本尊の阿弥陀如来立像が安置されています。
左右には、インド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の
影像が安置されています。

もともと、本願寺は、東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、
親鸞聖人の遺骨をおさめた廟堂から発展しました。
その後、比叡山・延暦寺から迫害を受けるなど、場所は転々としました。
本願寺が現在地に創建されたのは、安土・桃山時代の文禄元年(1592)で、
豊臣秀吉から土地が寄進され、御影堂と阿弥陀堂が建立されました。
慶長7年(1602)、徳川家康の寄進により東本願寺が建立され、
本願寺は東・西に分裂されましたが、これには本願寺の勢力を
弱体化させる狙いがあったのでは...?との推察もあります。
以後西本願寺と称されるようになりますが、正式には「龍谷山 本願寺」で
浄土真宗・本願寺派の本山です。
元和3年(1617)、浴室からの出火で御影堂と阿弥陀堂が焼失し、
翌年、阿弥陀堂(仮堂)が再建されました。
現在の阿弥陀堂は、宝暦10年(1760)に再建されたもので、
国宝に指定されています。
東西の奥行42m、南北の横幅45m、高さ25mで、堂内外陣には285枚の
畳が敷かれ、800名以上が一度に参拝することができます。
昭和55年(1980)から5年間をかけて修復工事が行われました。
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境内の北東方向に経堂があり、国の重要文化財に指定されています。
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経堂には「転輪蔵」の扁額が掲げられています。
経堂は延宝6年(1678)に建立され、内部の八角形の堂が回転する構造
になっていて、転輪蔵とも呼ばれます。
堂内には、天海僧正が寛永12年(1635)に江戸の寛永寺で発起し、
12年をかけて開版された『大蔵経(一切経)』が納められています。

書院へ向かいます。
続く

西本願寺-その2

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書院の入口近くに旧仏飯所(ぶっぱんしょ)があります。
かって御影堂と阿弥陀堂に供する仏飯を炊事していた建物で、東半が台所、
西半が板間で、南面の西寄りには渡り廊下がありました。
寺伝では、「江戸時代の貞享2年(1685)に創建し、宝暦年間(1751~1763)に
再修す」とありますが、現在の建物は宝暦年間のものとみられています。
当初は渡り廊下が無く、北面の西寄りに出入口がありましたが、
文化8年(1811)に改修が行われ、渡り廊下が建設されました。
明治以降の改修工事により、渡り廊下が一部を残して撤去され、
現在の姿となりました。
昭和36年(1961)の宗祖700回大遠忌事業に伴い、現在の膳所(ぜんしょ)が
建立され、仏飯所が担ってきた機能が移されました。
現在、炊事等は行われませんが、かまどや流し等が復元され、保存されています。
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仏飯所から右に進むと書院の大玄関があり、国の重要文化財に指定されています。
大玄関は、公式行事の際に使用され、普段は立ち入りできません。
宗祖500回大遠忌に当たる宝暦10年(1760)より少し以前に
建立されたとみられています。
書院は、江戸時代の寛永年間(1624~1643)に建立された対面所と、
それ以前に建立された白書院から成り、国宝に指定されています。

書院内は撮影が禁止され、虎渓の庭も撮影できません。
順路は、まず虎の間に入ります。
渡辺了慶によって描かれた虎の絵があることから虎の間と称され、
国の重要文化財に指定されています。

対面所、白砂の中に建つ南能舞台は、現存する日本最大の能舞台で、
国の重要文化財に指定されています。
元禄7年(1694)に建立されたと伝わり、舞台には松が描かれています。
対面所の上段の間から舞台を見ると、初めて松の絵が浮かび上がる
仕組みになっているそうです。
毎年5月21日の宗祖降誕会に祝賀能が演じられます。

対面所は鴻(こう)の間とも呼ばれ、上下段の境の厚さ10cmの欄間に
雲間を飛ぶ鴻が透かし彫りされています。
203畳敷きの大広間で、下段には12本の柱が立ち、
柱間は奥に進むほど狭くなって部屋を広く見せています。
上段の床には「商山四皓(しょうざんしこう)」を題材とした、
張良が四賢人を率いて恵帝に謁する図が逆遠近法で描かれ、
上段に坐した人物を大きく見せる効果があります。
その他にも松と鶴、松と花鳥などが描かれ、天井には尾長鳥が描かれています。
対面所、雀の間、雁の間、菊の間、狭屋の間及び
北能舞台は国宝に指定されています。

対面所前の広縁を進み、右に折れて「西狭屋(にしさや)の間」と
呼ばれる廊下に入った所に雀の間があります。
対面所の控えの間でもあり、襖絵には円山応瑞(まるやま おうずい)の
筆による、竹林の中を飛び回る雀が描かれています。
68羽描かれたとされていますが、実際は66羽で、2羽抜け出したとして
「抜け雀の間」とも呼ばれています。

雁の間は、対面所の西に接し、貼付には編隊を組んで飛翔する
雁の群れが描かれています。
隣接する菊の間との間の欄間には雁を透し彫りにし、
菊の間の貼付には満月の月が描かれています。
雁の間から見ると、欄間越しに見える月は半月に見え、
飛翔する雁は月に向かっているように見えます。
また、雁の間の襖には、水辺に遊ぶ雁を描いて、秋の風趣を表しています。

菊の間には、菊が秋花とともに描かれ、天井には241の扇面図が描かれています。

対面所の北側に賓客を迎える正式の書院、白書院があります。
東側奥の装束の間に続いて一の間があり、紫明の間ともいわれる最重要の間で、
上下段に分かれ、壁面や襖等には中国古代の帝王堯舜(ぎょうしゅん)に
関する故事が描かれています
三の間は孔雀が描かれ、「孔雀の間」ともいわれています。
畳を取り除くと能が演ぜられるよう工夫されています。
白書院の欄間は一刀彫で、椿に尾長鳥、松に藤などが透かし彫りされています。
装束の間は、客人が装束を整え、門主との対面を待つ部屋です。

白書院の北側に北能舞台があり、懸魚(げぎょ)に天正9年(1581)の
墨書紙片があり、日本に現存する最古の能舞台とされています。
舞台の周囲には滑石(なめりいし)が並べられ、
装飾とともに音響効果に工夫されています。

東側には江戸時代初期に伏見城から移築された虎渓の庭があり、
特別名勝に指定されています。
中国廬山(ろざん)のふもと虎渓を模して造られた江戸初期の枯山水庭園で、
御影堂の屋根を廬山に見せた借景の技法を取り入れています。

東狭屋の間の天井には、様々な書物が描かれ、
その中に一匹の猫を書いた巻物が描かれています。
「八方睨みの猫」と呼ばれ、大切な書物をネズミから守るために睨みを利かせ、
またどこから見ても目が合うように描かれています。

書院を出て唐門へ向かいます。
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唐門は、安土・桃山時代に建立された伏見城の遺構で、彫刻の見事さに
日の暮れるのを忘れてしまうことから「日暮らし門」とも呼ばれています。
江戸時代初期の元和4年(1618)に移築され、
本願寺内では最も古い建造物とされています。
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唐門の向かいは勅使門でしょうか?脇には「明治天皇行幸所 本願寺」の
石碑が建っています。
堀川通まで戻り、北小路通まで南下して唐門を表側から見ます。
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門には、中国の故事による彩色された16面の彫刻が施されています。

花灯明の整理券を求めて約1時間並び、
入場できるまで更に1時間待たなければなりません。
続く
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