上の登廊を上って行くと、登廊の左側、本堂の下方に三百余社の社殿があり、
江戸時代前期の慶安3年(1650)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
右側に馬頭夫人(めずぶにん)社がありましたが、見落としていました。
右側に馬頭夫人(めずぶにん)社がありましたが、見落としていました。
登廊を上りきると鐘楼の下をくぐります。
高所に梵鐘(ぼんしょう)があることから「尾上(おのえ)の鐘」とも称され、
高所に梵鐘(ぼんしょう)があることから「尾上(おのえ)の鐘」とも称され、
慶安3年(1650)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
梵鐘には「文亀元年(1501)」の銘が刻まれています。
梵鐘には「文亀元年(1501)」の銘が刻まれています。
左側に本堂があり、慶安3年(1650)に建立されたもので、国宝に指定されています。
右側は本尊を安置する正堂、左側は参詣者のための空間である礼堂、
右側は本尊を安置する正堂、左側は参詣者のための空間である礼堂、
その間の相の間と3部分からなります。
この地に本堂が建立されたのには伝承が残されています。
この地に本堂が建立されたのには伝承が残されています。
『昔、諸国に大洪水があった時、近江国高島郡の岬に大木が漂着した。
村人の一人がその木の端を切り取ったところ、家が焼け、
村人が多数流行病で死んだ。
これは木の祟りだと言って誰も近寄らない。
たまたま村に来た大和国葛木下郡の男がこれを聞き、この木を持ち帰り、
これは木の祟りだと言って誰も近寄らない。
たまたま村に来た大和国葛木下郡の男がこれを聞き、この木を持ち帰り、
十一面観音を作ろうと思ったが、木が大きくて家まで運べないので、
そのままにして帰った。
その後何人かを連れて縄をつけてひ曳いてみると軽々と曳けた。
葛木下郡当麻(たいま)まで引いてきたが仏像を作るまでに至らず、
その後何人かを連れて縄をつけてひ曳いてみると軽々と曳けた。
葛木下郡当麻(たいま)まで引いてきたが仏像を作るまでに至らず、
男は死に、木はそのままで80余年たった。
そのあと村に流行病が発生し、木のせいだとして、
村人達が敷上郡長谷川の岸に捨てた。
20年たち、この話を徳道という僧が聞き、自分が像を作ろうと
20年たち、この話を徳道という僧が聞き、自分が像を作ろうと
今の長谷の地に曳いて行ったが、一人では作りかね、
7、8年木に向かって祈祷した。
これが元正(げんしょう)天皇のお耳に入り、藤原不比等の息子で
これが元正(げんしょう)天皇のお耳に入り、藤原不比等の息子で
大臣・藤原房前(おとど・ふじわらのふささき)も聞いて、
その協力のもとに神亀4年(727)、
二丈六尺(約8.8m)の十一面観音像が完成した。
すると徳道の夢に神が現れ、北の山の下の大岩を掘り出した
すると徳道の夢に神が現れ、北の山の下の大岩を掘り出した
その上に像を安置せよという。
それが、現在の本堂が建立されている所です。』
それが、現在の本堂が建立されている所です。』
奈良時代に創建された本堂は、室町時代の天文5年(1536)までに計7回焼失し、
天正16年(1588)に豊臣秀長の援助により新しい堂が落慶されました。
しかし、元和4年(1618)には雨漏りの生じていたことが記録されるなど、
しかし、元和4年(1618)には雨漏りの生じていたことが記録されるなど、
何らかの不具合があり、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645)から
修理ではなく全面再建工事に取り掛かり、
5年後の慶安3年(1650)に落慶されました。
南側には懸造(かけづくり)の舞台も設けられています。
舞台からは本坊が望め、その高低差から初瀬山の斜面を切り開いて
伽藍が建立されていった往時の苦労が偲ばれます。
本尊の十一面観音像は天正7年(1538)に再興された8代目で、
国の重要文化財に指定されています。
高さ10m以上あり、国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものです。
高さ10m以上あり、国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものです。
本堂の北側に明和6年(1769)に建立された十一面観音像が安置されています。
この観音像は「裏観音」とも呼ばれ、本尊が秘仏であった時代に
この観音像は「裏観音」とも呼ばれ、本尊が秘仏であった時代に
堂裏より拝まれていました。
本堂の東側に納経所があり、長谷寺は西国三十三所観音霊場・第8番、
神仏霊場巡拝の道・第35番、真言宗十八本山・第16番札所になっています。
納経所から東へ進むと日限地蔵(ひぎりじぞう)を祀る塔頭の能満院があります。
参道の左側-その1
参道の左側-その2
参道の左側-その3
参道の左側-その4
日限地蔵尊
日限地蔵は「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩です。
安土桃山時代、蘆名盛氏(あしな もりうじ)が、ある夜の夢のお告げで
安土桃山時代、蘆名盛氏(あしな もりうじ)が、ある夜の夢のお告げで
黒川城の堀から見つかったとされる3体の地蔵菩薩像を日限地蔵として
西光寺(会津若松市)祀ったのが始まりで、その後全国へ広がりました。
参道の右側-その1
参道の右側-その2
納経所前まで戻った山手に三社権現(瀧蔵三社)が祀られています。
天平5年(733)、聖武天皇の勅命により徳道上人によって創建されました。
現在の社殿は慶安3年(1650)、徳川家光の寄進を得て再建されました。
東社には石蔵権現(地蔵菩薩)、中社には瀧蔵権現(虚空菩薩)、
天平5年(733)、聖武天皇の勅命により徳道上人によって創建されました。
現在の社殿は慶安3年(1650)、徳川家光の寄進を得て再建されました。
東社には石蔵権現(地蔵菩薩)、中社には瀧蔵権現(虚空菩薩)、
西社には新宮権現(薬師如来)が祀られています。
三社権現より更に高い所に鎮守社と思われる社殿があります。
長谷寺とその背後の山を鎮守しているように思えます。
下って行くと愛染堂があります。
天正16年(1588)、観海上人によって建立されました。
天正16年(1588)、観海上人によって建立されました。
本堂の西側に「曽我地蔵尊」像が安置されています。
この地蔵尊は江戸時代に建立されたものですが、「曽我地蔵尊」と呼ばれる
この地蔵尊は江戸時代に建立されたものですが、「曽我地蔵尊」と呼ばれる
伝承が残されています。
『昔、奥州田村にある多聞院の鏡線は、長谷寺の専誉(せんにょ)上人に
就いて学業を受けた。
郷里に帰った後、再び長谷寺へ向かおうとした時、箱根山中の
郷里に帰った後、再び長谷寺へ向かおうとした時、箱根山中の
権現さんのほとりで、老人が現れ「われは曽我十郎祐成で、
地獄におちて呵責をうけている者である。
弟五郎時致は強化をうけて再生し、今は長谷寺の専誉上人となっている。
それでお前が帰山すると、専誉によって地蔵菩薩を彫刻せしめ、
弟五郎時致は強化をうけて再生し、今は長谷寺の専誉上人となっている。
それでお前が帰山すると、専誉によって地蔵菩薩を彫刻せしめ、
開眼供養して、われを成仏させてくれ。」と告げた。
鏡線は、長谷寺へ向かい専誉に告ると、専誉は前生の兄十郎の菩提のために、
鏡線は、長谷寺へ向かい専誉に告ると、専誉は前生の兄十郎の菩提のために、
この地蔵尊の大座像を彫刻し、開眼供養を行なった。』
寺伝ではこの像は南都肘塚(かいのづか=現在の奈良市肘塚町)より遷され、
長く損壊していたものを長谷寺第六世・良誉(りょうよ)が修理し、
現在の場所に奉安したと記されています。
「曽我地蔵尊」の向かいに大黒堂があります。
堂の前、両側には大黒天の持ち物である福袋と打出の小槌が置かれています。
堂の前、両側には大黒天の持ち物である福袋と打出の小槌が置かれています。
堂内には弘法大師作と伝わる大黒天像が安置されています。
大黒天(だいこくてん)とは、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身である
マハーカーラ(サンスクリット語:Mahaa-kaala、音写:摩訶迦羅など)のことで、インド密教に取り入れられました。
密教の伝来とともに、日本にも伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、
密教の伝来とともに、日本にも伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、
軍神・戦闘神、富貴爵禄(ふうきしゃくろく=財産・爵位・俸禄があること)の
神とされました。
後に、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である
後に、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である
大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰されました。
その後、豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる
その後、豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる
食物・財福を司る神となりました。
室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と
室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と
習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると
米俵に乗るといった現在よく知られる像容となりました。
また、大国主が素戔嗚尊(すさのおのみこと)の計略によって
また、大国主が素戔嗚尊(すさのおのみこと)の計略によって
焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、
鼠が大黒天の使いであるとされています。
御影堂(みえどう)へ向かいます。
続く
続く