Quantcast
Channel: kor**kor*_ishik*r*のブログ
Viewing all 497 articles
Browse latest View live

長谷寺-その2

$
0
0
イメージ 1
上の登廊を上って行くと、登廊の左側、本堂の下方に三百余社の社殿があり、
江戸時代前期の慶安3年(1650)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
右側に馬頭夫人(めずぶにん)社がありましたが、見落としていました。
イメージ 2
登廊を上りきると鐘楼の下をくぐります。
高所に梵鐘(ぼんしょう)があることから「尾上(おのえ)の鐘」とも称され、
慶安3年(1650)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
梵鐘には「文亀元年(1501)」の銘が刻まれています。
イメージ 3
左側に本堂があり、慶安3年(1650)に建立されたもので、国宝に指定されています。
右側は本尊を安置する正堂、左側は参詣者のための空間である礼堂、
その間の相の間と3部分からなります。
この地に本堂が建立されたのには伝承が残されています。

『昔、諸国に大洪水があった時、近江国高島郡の岬に大木が漂着した。
村人の一人がその木の端を切り取ったところ、家が焼け、
村人が多数流行病で死んだ。
これは木の祟りだと言って誰も近寄らない。
たまたま村に来た大和国葛木下郡の男がこれを聞き、この木を持ち帰り、
十一面観音を作ろうと思ったが、木が大きくて家まで運べないので、
そのままにして帰った。
その後何人かを連れて縄をつけてひ曳いてみると軽々と曳けた。
葛木下郡当麻(たいま)まで引いてきたが仏像を作るまでに至らず、
男は死に、木はそのままで80余年たった。
そのあと村に流行病が発生し、木のせいだとして、
村人達が敷上郡長谷川の岸に捨てた。
20年たち、この話を徳道という僧が聞き、自分が像を作ろうと
今の長谷の地に曳いて行ったが、一人では作りかね、
7、8年木に向かって祈祷した。
これが元正(げんしょう)天皇のお耳に入り、藤原不比等の息子で
大臣・藤原房前(おとど・ふじわらのふささき)も聞いて、
その協力のもとに神亀4年(727)、
二丈六尺(約8.8m)の十一面観音像が完成した。
すると徳道の夢に神が現れ、北の山の下の大岩を掘り出した
その上に像を安置せよという。
それが、現在の本堂が建立されている所です。』

奈良時代に創建された本堂は、室町時代の天文5年(1536)までに計7回焼失し、
天正16年(1588)に豊臣秀長の援助により新しい堂が落慶されました。
しかし、元和4年(1618)には雨漏りの生じていたことが記録されるなど、
何らかの不具合があり、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645)から
修理ではなく全面再建工事に取り掛かり、
5年後の慶安3年(1650)に落慶されました。
イメージ 4
南側には懸造(かけづくり)の舞台も設けられています。
イメージ 5
舞台からは本坊が望め、その高低差から初瀬山の斜面を切り開いて
伽藍が建立されていった往時の苦労が偲ばれます。
イメージ 6
本尊の十一面観音像は天正7年(1538)に再興された8代目で、
国の重要文化財に指定されています。
高さ10m以上あり、国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものです。
イメージ 7
本堂の北側に明和6年(1769)に建立された十一面観音像が安置されています。
この観音像は「裏観音」とも呼ばれ、本尊が秘仏であった時代に
堂裏より拝まれていました。
イメージ 8
本堂の東側に納経所があり、長谷寺は西国三十三所観音霊場・第8番、
神仏霊場巡拝の道・第35番、真言宗十八本山・第16番札所になっています。

納経所から東へ進むと日限地蔵(ひぎりじぞう)を祀る塔頭の能満院があります。
イメージ 9
参道の左側-その1
イメージ 10
イメージ 11
参道の左側-その2
イメージ 12
参道の左側-その3
イメージ 13
参道の左側-その4
イメージ 14
日限地蔵尊
日限地蔵は「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩です。
安土桃山時代、蘆名盛氏(あしな もりうじ)が、ある夜の夢のお告げで
黒川城の堀から見つかったとされる3体の地蔵菩薩像を日限地蔵として
西光寺(会津若松市)祀ったのが始まりで、その後全国へ広がりました。
イメージ 15
参道の右側-その1
イメージ 16
参道の右側-その2
イメージ 17
納経所前まで戻った山手に三社権現(瀧蔵三社)が祀られています。
天平5年(733)、聖武天皇の勅命により徳道上人によって創建されました。
現在の社殿は慶安3年(1650)、徳川家光の寄進を得て再建されました。
東社には石蔵権現(地蔵菩薩)、中社には瀧蔵権現(虚空菩薩)、
西社には新宮権現(薬師如来)が祀られています。
イメージ 18
三社権現より更に高い所に鎮守社と思われる社殿があります。
イメージ 19
長谷寺とその背後の山を鎮守しているように思えます。
イメージ 20
イメージ 21
下って行くと愛染堂があります。
天正16年(1588)、観海上人によって建立されました。
イメージ 22
本堂の西側に「曽我地蔵尊」像が安置されています。
この地蔵尊は江戸時代に建立されたものですが、「曽我地蔵尊」と呼ばれる
伝承が残されています。

『昔、奥州田村にある多聞院の鏡線は、長谷寺の専誉(せんにょ)上人に
就いて学業を受けた。
郷里に帰った後、再び長谷寺へ向かおうとした時、箱根山中の
権現さんのほとりで、老人が現れ「われは曽我十郎祐成で、
地獄におちて呵責をうけている者である。
 弟五郎時致は強化をうけて再生し、今は長谷寺の専誉上人となっている。
それでお前が帰山すると、専誉によって地蔵菩薩を彫刻せしめ、
開眼供養して、われを成仏させてくれ。」と告げた。
鏡線は、長谷寺へ向かい専誉に告ると、専誉は前生の兄十郎の菩提のために、
この地蔵尊の大座像を彫刻し、開眼供養を行なった。』

寺伝ではこの像は南都肘塚(かいのづか=現在の奈良市肘塚町)より遷され、
長く損壊していたものを長谷寺第六世・良誉(りょうよ)が修理し、
現在の場所に奉安したと記されています。
イメージ 23
「曽我地蔵尊」の向かいに大黒堂があります。
堂の前、両側には大黒天の持ち物である福袋と打出の小槌が置かれています。
イメージ 24
堂内には弘法大師作と伝わる大黒天像が安置されています。
大黒天(だいこくてん)とは、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身である
マハーカーラ(サンスクリット語:Mahaa-kaala、音写:摩訶迦羅など)のことで、インド密教に取り入れられました。
密教の伝来とともに、日本にも伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、
軍神・戦闘神、富貴爵禄(ふうきしゃくろく=財産・爵位・俸禄があること)の
神とされました。
後に、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である
大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰されました。
その後、豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる
食物・財福を司る神となりました。
室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と
習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると
米俵に乗るといった現在よく知られる像容となりました。
また、大国主が素戔嗚尊(すさのおのみこと)の計略によって
焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、
鼠が大黒天の使いであるとされています。

御影堂(みえどう)へ向かいます。
続く

長谷寺-その3

$
0
0
イメージ 1
大黒堂から西へ進んだ所に御影堂(みえどう)があり、
天台宗ではみえいどうと読みます。
弘法大師が入定されてから1150年の御遠忌を記念して、
昭和59年(1984)に建立されました。
イメージ 2
堂内には弘法大師像が安置されています。
イメージ 3
御影堂から参道は左へと曲がり、少し進んだ高台に一切経堂があります。
永禄4年(1561)、第5代将軍・徳川綱吉の側用人であった牧野成貞により
再建されました。
成貞の妻と娘が綱吉の御手付きにされたとする説があり、
綱吉の傍若無人に耐えかね、苦悩していたようです。
堂内には寛文7年(1667)に当時伏見奉行であった水野忠貞より寄進された、
唐本一切経が納められています。
イメージ 4
一切経堂の左下方に本長谷寺があり、長谷寺発祥の地とされています。
飛鳥時代の朱鳥(あかみどり)元年(686)、道明上人は天武天皇のために
「銅板法華説相図」をこの地に安置しました。
同年5月24日、天武天皇はに病気になり、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ね、
7月20日に元号を定めて朱鳥としました。
元号は大化の改新で「大化」と定められたのが最初ですが、
それ以降は断続的になり、元号よりも干支の使用が主流だったようで、
現在は朱鳥以前は天武天皇××年と表記されます。
天皇は9月11日に病死し、10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、
3日に死刑になり、翌年の3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位し、
持統天皇となりました。
イメージ 5
堂内には「銅板法華説相図」が祀られていますが、駒札には「宝蔵館に安置」と
記載されているのでレプリカでしょうか?
イメージ 6
本長谷寺の向かいに三重塔跡があります。
Wikipediaでは「道明上人が三重塔を建立」との記載があり、
この場所に三重塔が建立されたのが長谷寺の始まりかもしれません。
慶長年間(1596~1615)に豊臣秀頼により再建されましたが、
明治9年(1876)に落雷により焼失しました。
イメージ 7
本長谷寺に隣接して昭和29年(1954)、戦後の日本で初めての五重塔が、
戦争殉職者の慰霊と世界平和を祈願して建立されました。
平成元年(1989)には大修理が行われています。
イメージ 8
五重塔の先に納骨堂があります。
イメージ 9
イメージ 10
五重塔の前から石段を下り、北に進んだ所に開山堂があり、
徳道上人像が安置されています。
イメージ 11
開山堂から南へと進んで行くと本坊があります。
イメージ 12
大講堂や書院などがあり、寛文7年(1667)に建立された建物が、
明治44年(1911)に焼失したため、現在の建物は大正13年(1924)に
再建されたもので、奈良県の有形文化財に指定されています。
イメージ 13
イメージ 14
境内には閼伽井があります。
イメージ 15
本堂を正面に仰ぎ見ることができます。

長谷寺では約2時間半滞在し、神仏霊場巡拝の道・第34番他の札所である
安倍文殊院へ向かいます。
続く

安倍文殊院

$
0
0
イメージ 1
長谷寺から国道165号線へ戻り、西進した先「安倍」の信号を左折し、
その先「安倍木材団地2」の信号を左折した先の突き当り、
坂道を登って行った所に駐車場への入口があります。
駐車場を出た右側に「文殊院西古墳」があり、国の特別史跡に指定されています。
横穴式の古墳で羨道(せんどう)部の長さ8m、幅2.3m、高さ1.8m、
埋葬用の空間である玄室(げんしつ)部は長さ5.1m、幅3m、高さ2.6mあります。
玄室の天井石には15㎡もある巨大な石が使われ、アーチ状に削られています。
大化の改新で左大臣に就いた安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ=阿倍内麻呂)
の墓と見られています。
内麻呂は大化5年3月17日(649年5月3日)に亡くなったとされています。
イメージ 2
玄室内には弘法大師が刻まれたとされる「願掛け不動」が祀られています。
イメージ 3
「文殊院西古墳」の上方に鐘楼があります。
イメージ 4
イメージ 5
鐘楼の横を登って行くと稲荷神社があります。
イメージ 6
「文殊院西古墳」から左側へ進むと本堂があります。
本堂を拝観するには700円、金閣浮御堂霊宝館との共通拝観料は
1,200円になります。
拝観料を納めると、まず向かいにある客殿五台閣へと案内され、
抹茶とお菓子を頂きます。
その後、本堂へと通されます。

安倍文殊院は安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の氏寺として、
現在の文殊院の西南約300mの地に創建されましたが、
文治元年(1185)に焼失しました。
鎌倉時代の文暦元年(1234)に現在地に移されました。
旧寺地(桜井市安倍木材団地1丁目)は「安倍寺跡」として国の史跡に指定され、
史跡公園として整備されています。
『東大寺要録』に、安倍倉梯麻呂に建立された東大寺末寺の「崇敬寺」の
記載があり、「安倍寺」と呼ばれていたことが残されています。
永禄6年(1563)、松永久秀が多武峰衆徒と戦った際に、安倍寺も攻められ、
全山焼失し、現在の本堂(文殊堂)は寛文5年(1665)に再建されました。
人母屋造本瓦茸七間四面の建物で、前には礼堂(能楽舞台)があります。
イメージ 7
本堂の右側に釈迦堂が連なっています。
イメージ 8
左側に大師堂、本坊、庫裡が並ぴ庭園を隔てて方丈客殿へと連なっています。

明治元年(1868)、神仏分離令により安倍寺の寺領は没収され、
「安倍文殊院」と改称されました。
多武峯より丈六の釈迦三尊他多数の仏像を引き取り、
三輪・大御輪寺より、客殿が移築されました。

本尊は騎獅文殊菩薩像(きしもんじゅぼさつぞう)で、
脇侍の4躯と共に国宝に指定されています。
像高は7mあり、日本最大の大きさを誇り、その迫力には圧倒されます。
鎌倉時代の建仁3年(1203)に仏師・快慶によって造立されました。
この時期、安倍文殊院の本山である東大寺が、平安時代末期の
治承4年(1181)に平重衡による南都焼討によって焼失したため、
東大寺の復興が行われていました。
東大寺・南大門の金剛力士像の造立に大仏師として携わっていた快慶が、
この年の秋に行われる東大寺総供養に間に合うようにと、
文殊菩薩像が造立されたと考えられています。

脇侍には右側に善財童子像(ぜんざいどうじぞう)、優填王像(うてんおうぞう)、左側に維摩居士像(ゆいまこじぞう=最勝老人)、
須菩提像(しゅぼだいぞう=仏陀波利三蔵)が安置されています。
永禄6年(1563)の兵火により、維摩居士像と獅子像が焼失し、
安土・桃山時代に後補されました。

堂内の右奥にある釈迦堂には釈迦三尊像、その手前には普賢菩薩像や
地蔵菩薩像、不動明王像などが安置されています。
イメージ 9
本堂を出て本坊の前には「伊勢神宮への大道標」が建立されています。
かって、安倍寺の仁王門があったことで「仁王堂の辻」との地名になった
伊勢街道に南向きに絶設置されていました。

江戸時代、伊勢街道は大坂から竹之内峠を経て、大和八木から仁王堂の辻、
そして長谷寺を経て伊勢へと続く重要な街道でした。
飛鳥時代には、伊勢街道の仁王堂の辻から時の都であった明日香や
吉野へと至る古道は「磐余の道(いわれみち)」と呼ばれていました。
磐余とは、桜井駅から西南方の旧安倍村一帯の地とされ、この地には
履中天皇の磐余稚桜(いわれ わかざくら)宮、清寧天皇(せいねいてんのうの
磐余甕栗(いわれ みかくり)宮、継体天皇の磐余玉穂(いわれ たまほ)宮、
用明天皇の磐余池辺双槻(いわれ いけべ なみつき)宮と四天皇の
宮都があったといわれる地域でもあります。

この道標は平成20年(2008)に神仏霊場巡礼の道が開創されたことを記念して、
現在地に移設されました。
安倍文殊院は神仏霊場巡拝の道・第34番札所の他、大和ぼけ封じ霊場、
大和十三仏霊場・第3番(文殊菩薩)、大和七福八宝めぐり(弁財天)、
大和北部八十八ヶ所霊場・第82番の各札所になっています。
イメージ 10
金閣浮御堂へ向かいます。
金閣浮御堂のある「文殊池」は昭和16年(1941)に造られ、
浮御堂は昭和60年(1985)に完成しました。
浮御堂は、阿倍仲麻呂安倍晴明など安倍一族を祀るために建立され、
開運弁才天を本尊としています。
堂内には仲麻呂像や晴明像、厄除け守護の九曜星の神々、方位災難除けの
十二天御尊軸が安置されています。

金閣浮御堂の受付けでは、「肌守り」と7枚の「おさめ札」が授与されます。
浮御堂の正面に「おさめ箱」があり、堂の周囲を左回りに一周して
「おさめ札」を「おさめ箱」へ納めます。
7周して全ての札を納めてから堂内へと入り、参拝することで七難即滅、
七福即生の御利益があるとされています。
イメージ 11
金閣浮御堂の東側に不動堂があります。
イメージ 12
不動堂の東側に西国三十三所と四国八十八ヶ所の各本尊の石仏が祀られています。
江戸時代に安倍山境内地に霊場が開かれていたそうで、
現在はこの地にまとめられて祀られています。
イメージ 13
東へ進んだ奥の方に白山神社があり、室町時代の社殿で
国の重要文化財に指定されています。
祭神は白山比神(しらやまひめのかみ)で、菊理媛神
(くくりひめのかみ)と同一神とされ、伊弉冉尊(いざなみ)と
伊奘諾尊(いざなぎ)を仲直りさせたとして、縁結びの神とされています。
イメージ 14
白山神社の横には、白山大権現の本地仏とされる十一面観音像が祀られています。
イメージ 15
観音像の北奥に飛鳥時代の閼伽井古墳(東古墳)があります。
羨道(せんどう)の中程に湧水があり、閼伽水または智慧の水と呼ばれています。
イメージ 16
窟内には石仏が祀られています。
石室規模は全長13m、玄室の長さ4.69m、幅は奥壁部で2.29m、
玄門部で2.67m、高さ2.6m、羨道の長さ8.31m、幅は玄門部で1.75m、
羨門部で2.04mあります。
イメージ 17
古墳から戻り南側の「合格門」と記された門を入り山手へと登ります。
イメージ 18
文殊池の東側に築かれたコスモス畑の迷路が見下ろせます。
イメージ 19
標高103mのこの地で、かって安倍晴明が天文観測をしていたとされ、
「天文観測の地」の石碑が建立されています。
イメージ 20
イメージ 21
平成12年(2000)に新しく建立された晴明堂があり、魔除け、方位除けに
ご加護が受けられるとされる「如意宝珠」が置かれています。
イメージ 22
またウォーナー塔があり、第二次世界大戦で奈良や京都の文化的価値を
上層部に説得され、空爆リストから外された功績から建立されています。

安倍文殊院には約1時間滞在し、西国三十三所・第7番札所の岡寺へ向かいます。
続く

岡寺

$
0
0
イメージ 1
安倍文殊院から「安倍木材団地2」の信号まで戻り、県道15号線へ
左折して南下すると「奥山」の信号があり、信号を左折した先に
岡寺の駐車場があります。
イメージ 2
駐車場から歩いた参道の突き当りに「岡寺跡」の石碑があり、
国の史跡に指定されています。
突き当りの右側に治田神社(はるたじんじゃ)があり、岡寺所蔵の
寛文年間(1661~1672)の絵図には、神社の境内付近に金堂や講堂、
塔の跡地が描かれています。
イメージ 3
イメージ 4イメージ 5
















突き当りを左へ進んだ所に仁王門があり、
 慶長17年(1612)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。




イメージ 6
仁王の門の手前にある受付けで入山料400円を納め、門をくぐると、
参道は突き当り、右側へと曲がり石段を上ります。
イメージ 7
その左側です。
イメージ 8
石段を上って来た所
イメージ 9
参道を進んだ左側に楼門があり、慶長年間(1596~1615)頃に建立されたもので、
奈良県の文化財に指定されています。
過去の古い写真では、楼上に兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)像が
安置されていたことが判明し、その毘沙門天像は
現在は本堂に安置されています。

楼門の奥に表書院、その右側に国の重要文化財に指定されている古書院、
左側に白書院がありますが、普段は非公開です。
古書院は寛永21年(1644)かそれ以前に建立されたと見られています。
イメージ 10
楼門の向かいに鐘楼堂があります。
正確な建立年代は不明ですが、梵鐘には文化5年(1808)と刻まれており、
建築様式などから本堂と同時期に再建されたものと考えられています。

梵鐘は戦時供出されましたが、製錬所での溶解を免れ寺に返されましたが、
銅やスズなどの含有率を調べるために穴が7個開けられています。
研究者の調査で、このような梵鐘は全国で248個存在しているそうです。
イメージ 11
楼門の先に開山堂があります。
元は多武峰妙楽寺(現、談山神社)の護摩堂であったものが、
明治4年(1871)に移築されました。
イメージ 12
堂内には阿弥陀三尊像が安置されています。
イメージ 13
開山堂の右側に本堂があり、文化2年(1805)に建立されたもので、
奈良県の文化財に指定されています。
岡寺は正式には山号を「東光山(とうこうさん)」、院号を「真珠院」、
寺号を「龍蓋寺(りゅうがいじ)」と称する真言宗豊山派の寺院です。
岡山の中腹に位置していることから「岡寺」と呼ばれるようになりました。

創建されたのは約1300年前、義淵(ぎえん)僧正によって創建されました。
義淵は父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇
観音様の申し子だとして草壁皇子とともに岡宮で養育されたと伝わります。
その後出家して元興寺に入り唯識・法相を修め、文武天皇3年(699)、
学行褒賞で稲1万束を賜り、大宝3年(703)に僧正に任じられました。

義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった
良弁や菩薩と仰がれた行基など、奈良時代の高僧の
多くが義淵僧正の教えを受けました。
また、天武天皇より岡宮の地を賜り、龍蓋寺を創建しました。
他に龍門寺など「龍」の字が付く龍蓋寺を含め5ヶ寺を創建しました。

本尊は日本最大の塑造の如意輪観音座像で、国の重要文化財に指定されています。
像高4.85m、奈良時代末の制作で、銅像の東大寺・毘盧遮那仏、
木像の長谷寺・十一面観世音菩薩と共に日本三大仏に数えられています。

弘法大師が日本・中国・インドの土で造ったとされ、それまで本尊とされてきた
金銅如意輪観世音菩薩 半跏思惟像が胎内に納められています。

右手は施無畏(せむい)、即ち相手に危害を加えず恐れをいだかせないことを表し、左手は衆生の願いを叶え、救済に導くとされる与願の印を結んで、
結跏趺坐をする姿をしています。

如意輪観音菩薩は、平安時代以後は密教の流入に伴い六臂で、片膝を立てて
思惟する像容が多くなりましたが、数少ない二臂の姿をしています。

頭部は造像当初のものを残しますが、体部は補修が多く、脚部は本来、
石山寺本尊像と同様の半跏像であったと見られています。

胎内に納められたとする金銅如意輪観音像はその後、取り出されたらしく、
現在は京都国立博物館に寄託され、その分身とされる像が安置されています。
金銅如意輪観世音菩薩 半跏思惟像は、春日仏師の名仏師とされる
稽首勲(けいしゅくん)の作と伝わる高さ31.2cmの像で、
国の重要文化財に指定されています。

また、国宝に指定されている「木心乾漆義淵僧正坐像」は
奈良国立博物館に寄託されています。

岡寺は江戸時代までは興福寺の末寺でしたが、
江戸時代以降は長谷寺の末寺となりました。
イメージ 14
本堂の向かいには龍蓋池があり、寺号を「龍蓋寺」とした伝承が残されています。
飛鳥の地を荒らし農民を苦しめていた悪『龍』を、義淵僧正がその法力を
もって池の中に封じ込め大きな石で『蓋』をし改心をさせたことから
その名が付いたと伝わっています。
悪龍の『厄難』を取り除いた事から『やくよけ信仰』の始まりの
所以の一つであるとも言われています。
また、池の大きな要石を触ると雨が降るという言い伝えも残っています。
イメージ 15
池の奥からは奥之院へと参道が続きます。
イメージ 16
少し登った所に「瑠璃井」があります。
弘法大師ゆかりの厄除の涌き水とされてきましたが、
現在では飲むことはできません。
「瑠璃井」を見守るように地蔵像が祀られています。
イメージ 17
奥には小さな滝があり、岩には梵字が刻まれ、
横には不動明王の石像が祀られています。
イメージ 18
イメージ 19
橋を渡って進んだ先に稲荷神社があります。
イメージ 20
イメージ 21
奥之院石窟には弥勒菩薩像が祀られています。
イメージ 22
しばらく登って行くと義淵僧正の廟所があり、
南北朝時代の宝篋印塔が建立されています。
イメージ 23
廟所前からは本堂などが一望できます。
イメージ 24
廟所から下った所に三重宝塔が建立されています。
旧境内地の治田神社境内地に塔の跡地が描かれており、鎌倉時代初期には
三重塔があったことが『諸寺建立次第』によって明らかにされています。
その塔は文明4年(1472)の大風により倒壊し、その後再建されることなく、
解体された用材は現在の仁王門や楼門に転用されました。

現在の三重宝塔は、昭和59年(1984)の弘法大師千百五十年御遠忌を記念して
復興に着手され、昭和61年(1986)に完成しました。
平成6年(1994)より三重宝塔の荘厳として扉絵・壁画・琴などの作成に着手し、
平成13年(2001)に完成しました。
見過ごしましたが、軒先に荘厳として琴が吊るされ、
全国的にみても珍しい荘厳となっているそうです。
毎年10月第3日曜日の開山忌にはその扉絵・壁画が年に一度公開されます。
イメージ 25
三重宝塔より下って来た所に大師堂があり、弘法大師が祀られています。
昭和の初めに建立されたもので、現在は修理中でした。
右に「修行大師像」左側に「稚児大師像」が建立されています。

岡寺には約1時間滞在しました。
明日香村には新西国三十三所観音霊場の飛鳥寺や橘寺の他、
石舞台古墳など巡りたい所があったのですが、西国三十三所観音霊場・第6番、
神仏霊場巡拝の道・第38番札所である壺阪寺へ向かいます。
続く









壺阪寺-その1

$
0
0
イメージ 1
岡寺から国道169号線へと出て、国道を南下し、「清水谷」の信号を
左折して県道119号線へと入ります。
壺阪寺を通り越して、更に坂道を登った峠の手前に五百羅漢への登り口があります。
路肩にある道標には「五百羅漢約0.2km、高取城跡約2.8km」と記されています。
イメージ 2
高取城は南北朝時代の元弘2年/正慶元年(1332)に越智邦澄(おちくにずみ)が、
標高583mの高取山の頂に砦のように築城したのが始まりとされています。
その後、国内最大規模の山城となりました。
天文元年(1532)から同4年(1535)の「天文の錯乱」では、法華宗以外の
仏教宗派を追放すべきだとする門徒の集団が、興福寺の塔頭をすべて焼き払い、
興福寺の僧兵たちは高取城に庇護を求めてきました。
門徒の集団は高取城を包囲し、激戦となったようですが、
筒井順興(つつい じゅんこう)が率いる軍に背後を襲われ敗走しました。
イメージ 3
イメージ 4
五百羅漢はこの戦で犠牲となった人々を弔うために刻まれたものでしょうか?
確認はできませんでしたが、他に二十五菩薩像、五社明神像、
両界曼茶羅などが点在しているそうです。
イメージ 5
イメージ 6
横には、新しい石仏も多数祀られています。
イメージ 7
坂道を下って壺阪寺へ戻ります。
道路脇に「壺阪寺参道」の石標を見つけ、バイクを置いて下って行きました。
イメージ 8
しかし、そのまま下って行くと、その先の門は閉じられ、少し後戻りして、
途中で左へ曲がらなければなりません。
イメージ 9
受付で入山料600円を納めて境内に入ると、平成12年(2000)に落慶された
大講堂があります。
堂内には平安時代後期作で像高160.5cmの増長天立像、鎌倉時代作で
像高87.2cmの薬師如来坐像、江戸時代作で像高29cmの
愛染明坐像、江戸時代作で像高47.5cmの大日如来坐像、
平安時代後期作で像高50.7cmの不動明王坐像、鎌倉時代前期作で
像高96.4cmの不動明王立像、平安時代後期作で像高160cmの
多聞天立像などが安置されています。
イメージ 10
大講堂の先、石段を上った所に鎌倉時代の建暦2年(1212)に建立された
仁王門があります。
室町期と安土桃山期に大修理を加え、昭和になって解体修理が行われています。
平成10年(1998)の台風で屋根が半壊したため、平成15年(2003)に
壷阪寺開創1300年を期して、解体修理を行い現在地に移築されました。
イメージ 11イメージ 12
















仁王像は仁王門と同時代に造立されたものでしょうか?
阿形像は両腕の先が無くなっても、その表情は険しく、
凛として壺阪寺を護っているように見えます。
仁王像の像高は其々一丈一尺(約3.3m)あり、背後から釣金の助けなく、
自立されています。
イメージ 13
仁王門をくぐった左側に多宝塔があります。
平成15年(2003)に壷阪寺開創1300年を迎えるにあたり、
平成14年(2002)4月に落慶されました。
本尊として平安時代作の大日如来像が安置されています。
イメージ 14
多宝塔の左側に灌頂堂があります。
平安時代、壺阪寺は真言宗の一流派である子島流(小島)または壷坂流と
称された道場で、その教えを伝えるために灌頂堂は建立されました。
その後二度の火災で焼失後も再建されてきましたが、「天文の錯乱」で
被災後は再建されることはありませんでした。
その後、豊臣秀長が郡山城に入り、事実上大和国は秀長に支配されるようになり、
高取城は秀長の重臣・本多利久に与えられました。
秀長と本多利久、その子・本多俊政は壺阪寺の伽藍復興に尽力され、
本多俊政によりこの地に因幡堂が寄進されました。
平成17年(2005)、因幡堂を解体し、その部材の大部分を使い、
幅と奥行きを拡げ灌頂堂が落慶されました。

堂内、中央須弥壇には本尊の室町時代作・十一面千手観音菩薩坐像、
右側に興教大師(こうぎょうだいし)像、左側に弘法大師像、
須弥壇の左側に本多俊政像が安置されています。
イメージ 15
灌頂堂の前に仏足石がありました。
イメージ 16
灌頂堂から西へ進んだ所に像高5mの天竺渡来・十一面観音菩薩坐像の
石像が祀られています。
明治時代に作られた浄瑠璃の演目『壺阪霊験記』では、主人公の座頭の
三味線弾きである沢市とその妻・お里が、お互いを思いやるがゆえに生じた
悲劇を、壺阪寺の本尊である十一面観音が救済するというあらすじになっています。
この観音像は、その夫婦愛を後世に伝える願いをこめ、
『夫婦観音』として建立されました。
イメージ 17
観音像の前には「パワーストーン台座」が置かれ、その上に乗ると緑色の
マラカイトには視力改善や厄除、青色のラピスラズリには健康増進や
頭脳明晰などの御利益があるとされています。
イメージ 18
観音像の前から八角円堂(本堂)を仰ぎ見ることができます。
八角円堂は大宝3年(703)に創建され、本尊として十一面観音菩薩座像が
安置されています。
現在の建物は江戸時代に再建されました。
多宝塔まで戻ります。
続く

壺阪寺-その2

$
0
0
イメージ 1
多宝塔まで戻り、その横の石段を上った先の正面に、お里・沢市投身の谷があり、
その前にお里・沢市像が建立されています。
壺阪霊験記』では、お里は三年間、沢市の目が治るようにと壷阪寺の
観音様に願掛けを行っていました。
それを知った沢市は、お里とともに観音詣りを始めるが、目の見えない
自分がいては将来お里の足手まといになると考え、
満願の日にお里に隠れて滝壺に身を投げました。
夫の死を知り悲しんだお里も、夫のあとを追って身を投げてしまう。
二人の夫婦愛を聞き届けた観音の霊験により奇跡が起こり、二人は助かり、
沢市の目も見えるようになったと締めくくられています。
イメージ 2
現在の谷は木立が鬱蒼として、谷を埋めていますが、滝壺は見当たりません。
イメージ 3
像が祀られている展望台からは遠く二上山(にじょうさん/ふたかみやま)が
薄くかすんで望めます。
奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる標高517mの北方の雄岳と
標高474mの南方の雌岳なる双耳峰で、日が沈む神の山とされています。
麓には当麻寺があり、太子町付近は、「近つ飛鳥」(河内飛鳥)と呼ばれて、
陵墓・古墳など、遺構が多く残っています。
イメージ 4
展望台から奥の方に像高3mの「めがね供養観音」の石像が建立されています。
分割した石にインドで彫刻され、壺阪寺へと運ばれ、組み立てられました。
古いめがねやコンタクトレンズは、台座に奉納供養されます。
イメージ 5
イメージ 6
「めがね供養観音」の横には「お里観音」が祀られています。
イメージ 7
また、「沢市霊魂碑」も建立されています。
イメージ 8
「めがね供養観音」から振り返った正面に禮堂(礼堂)があり、
国の重要文化財に指定されています。
礼堂は本尊を礼拝するために、壺阪寺の創建当時に建てられたと伝わり、
その後平安時代、鎌倉時代初期、室町時代初期に焼失しましたが、
いずれも早々に再建されました。
江戸時代には模様替えなど大改築がなされ、規模も縮小されましたが、
昭和になって解体修理が行われ、室町時代の禮堂の姿が判明し、
その姿に戻して建て替えられました。
礼堂の東前に廊下が造られ、その廊下を渡って八角円堂の
本尊・十一面観音菩薩座像を参拝します。

礼堂の前には、納経所があり、壺阪寺は西国三十三所観音霊場・第6番、
神仏霊場巡拝の道・第38番札所になっています。
観音霊場では壺阪寺ではなく、南法華寺と記されています。
壺阪寺は正式には山号を壺阪山、寺号を南法華寺と称する真言宗系の単立寺院です。

壺阪寺は大宝3年(703)に元興寺の弁基上人により開かれたとされています。
その前年末、持統天皇が崩御され、大宝3年に天皇として初めて火葬されました。
壺阪寺の本堂は八角円堂で、この形状の堂はすべて、誰かの霊を
なぐさめるために建てられていることから、弁基上人が持統天皇の霊を
弔うために建立したのではないかと考えられています。

壷阪寺に伝わる『古老伝』には弁基上人が山中にて修行中、
秘蔵の水晶の壺中に観世音菩薩を感得したので、その壺を坂の上に
安置して供養し、壺阪観音を模刻して本尊としたと記されています。
その後、元正天皇が壷阪寺を南法華寺と称して勅願寺にし、
長屋王が永代供養することになったという記事が残されています。
元正天皇は持統天皇の孫であり、長屋王も義理の孫にあたることから、
壷阪寺は祖母の供養のための寺であったと推察されます。
イメージ 9
イメージ 10
礼堂は南に向いて建立され、その奥にある八角円堂の本尊を拝むことができます。
イメージ 11
礼堂の向かいに三重塔があり、室町時代の明応6年(1497)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
イメージ 12
三重塔の北東側に小さな池があり、その中に観音菩薩の石仏が祀られています。
但し、鬼が「魔除け橋」の番をしていますので、
鬼の機嫌を損ねないようにしなければなりません。
イメージ 14
三重塔の東側に慈眼堂があります。
元、お里・沢市の展望台にあった、江戸時代の宝暦元年(1751)に建立された
阿弥陀堂を、平成になって解体し、現在地に移築・改築されました。
平屋だった建物は二層へと改築され、二層目に阿弥陀堂にあった阿弥陀仏が
安置され、初層には平成23年の澤市開眼350年を記念して創られる
夫婦観音像のご分身を奉り、新しい御堂を「慈眼堂」としました。
イメージ 15
扁額には御詠歌「岩をたて 水をたたえて 壺阪の 庭にいさごも 浄土なるらん」が
記されています。
イメージ 16
堂内にはインド人画家による出家から成道までの「佛伝図」が掲げられています。
イメージ 13
背後には高さ3m、横幅50mに亘って奈良教育大学教授・小川清彦氏が
インドを旅し、釈尊の道を訪ねて構図をまとめ、インドで彫刻された
レリーフが祀られています。
イメージ 17
イメージ 18
レリーフの端から四国八十八ヶ所のお砂踏み霊場が続いています。
イメージ 19
それを辿って行くと七福神の石仏が祀られていました。
イメージ 20
奥には涅槃像が祀られています。
イメージ 21
涅槃像の手前に真言密教の宗祖像が祀られています。

全長20mの観音像を拝みに行きます。
続く

壺阪寺-その3

$
0
0
イメージ 1
四国八十八ヶ所のお砂踏み霊場から下って来た所に「天竺門」があります。
イメージ 2
天竺門の右側に中興堂があります。
明治の廃仏毀釈で廃寺になりかけた壺阪寺を復興し、第二次世界大戦後の
混乱期にも伽藍の復興や社会事業にも尽力された諸大徳が祀られています。
イメージ 3
天竺門をくぐらずに左側の坂道を登り、県道の下をくぐると、
左側に天竺渡来・阿弥陀如来の石像が祀られています。
この石像は平成22年(2010)に開眼されたもので、分割して運ばれた
大観音石像の頭部を運んできた船の名が「アミダーバ」、阿弥陀如来を意味し、
アジアの海の安全を祈願して建立されました。
イメージ 4
更に進んだ左側の高台に全長20mの天竺渡来・大観音石像が建立されています。
壺阪寺は昭和39年(1964)からインドのハンセン病患者救済事業に参加され、
またインドの石工達が自立できるようにと、製造環境を整備し、
労働環境の改善に尽力されてきました。
インドは現在でも年間約13万人と、ハンセン病の新規患者数が
世界で一番多い国です。
イメージ 5
イメージ 6
この観音像は南インドにあった3億年前の古石が、インド政府より提供され、
それを66個に分割して彫刻し、日本に運ばれ組み立てられ、
昭和58年(1983)に開眼法要が営まれました。
イメージ 7
総重量1,200tに及び、深く掘り下げられた土台には、
数万巻の写経と土台石が埋葬されています。
イメージ 8
観音像から下って来た所には全長8mの涅槃像が祀られています。
平成11年(1999)に安置されたもので、全ての教えを説き終えて入滅せんとする
釈迦の姿を顕しています。
釈迦の最後の説法は「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」
自らを灯明とし、自らをよりどころとし、法を灯明し、
法をよりどころとすることを説かれました。
イメージ 9
涅槃像を見守るように表情豊かな地蔵菩薩像が安置されていますが、
二躯足りないような気がします。
イメージ 10
観音菩薩像と涅槃像の中間に、印を組まれた手の部分が置かれています。
イメージ 11
弘法大師像でしょうか?
イメージ 12
天竺門まで戻り、門をくぐった所に鐘楼堂があります。
イメージ 13
イメージ 14
参道を下り廊下を渡ります。
イメージ 15
廊下を下った所は舞台造になっています。
イメージ 16
舞台の上
イメージ 17
イメージ 18
舞台上には地蔵堂でしょうか?堂内には江戸時代作の地蔵像が安置されています。
イメージ 19
舞台から奥に進むと大石堂(永代供養堂)があり、一歩中へ踏み入ると、
言葉を失うくらいその迫力に圧倒されます。
インド・アジャンタ石窟寺院をモデルとし、延べ12万人の日本・インドの
人々によって彫刻、組み立てられ、総重量1,500tにおよぶ壮大な石の御堂で、
堂内は荘厳な空気に満ちています。
奥に釈尊の遺骨の代わりに仏跡涅槃の地・クシナガラの砂を納めたとする
高さ6mの大仏舎利塔があります。
イメージ 20
左側に高さ5mの十一面千手観音石造が安置されています。
イメージ 21
右側に石造りの「一字金輪曼荼羅」のレリーフが掲げられています。
イメージ 22
大石堂から下って来ると多宝塔が夕陽に染まっていました。
イメージ 23
多宝塔の右側に平成19年(2007)11月に開眼された、台座を含む像高15mの
釈迦如来坐像、左脇侍に像高5mの文殊菩薩坐像、右脇侍に同じく5mの
普賢菩薩坐像、中央奥に像高4.8mの十一面観音菩薩坐像、
その周囲に四天王立像の石像が安置されています。
イメージ 24
つぼさか茶屋まで下って来た時には閉門の5時になっていました。

三十三所観音霊場は奈良県を巡り終え、次回から滋賀県に残す3ヶ寺のまず、
竹生島にある第三十番・宝厳寺を予定しています。


三千院-その1

$
0
0
イメージ 1
イメージ 2
京都市内から川端通を北上し、大原へと向かいます。
国道367号線沿いにある民宿・喜津祢(きつね)を通り過ぎた所を右折し、
東の山へと分け入り、石段を上った上に惟喬親王(これたかしんのう)の
墓があります。
イメージ 3
イメージ 4
五輪塔は鎌倉時代のもので、高さは1.5mだそうです。
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子でしたが、皇位は第四皇子の惟仁親王が継承し、
惟仁親王は後に清和天皇として即位することになりました。
惟仁親王の母は、当時の右大臣藤原良房の娘で、良房らの圧力により
惟喬親王は皇位を奪われ、都を出ることになりました。
伝承によると、惟喬親王は貞観9年(867)、現在の桟敷ヶ岳(さじきがたけ)
辺りに隠棲し、翌年雲ケ畑に迎えられ、高雲宮(現・九龍山高雲寺
くりゅうざんこううんじ)に移り住み、そこで出家しました。
桟敷ヶ岳には、惟喬親王が山上に高楼(桟敷)を構えて都を眺望したという
伝説があり、それが山の名の由来となったとされています。
また、雲ケ畑には、惟喬神社があり、惟喬親王が祭神として祀られています。
鞍馬街道には二ノ瀬の地名があり、一説には惟喬親王が京を追われて
隠遁生活を送った際、雲ケ畑の市ノ瀬(=一ノ瀬)に次いでこの地で暮らした
ことに由来するといわれています。
イメージ 5
イメージ 6
墓への石段の奥にある石段を上った所に小野御陵神社があり、
惟仁親王が祀られています。
イメージ 7
神社から岩が露出した金毘羅山が望め、その南側に江文峠があり、
峠の先は鞍馬街道へと続きます。
イメージ 8
三千院へは予定より早く着いてしまい、まだ開門されていませんので
来迎院への参道口を登ります。
イメージ 9
左側に三千院の朱雀門があります。
かって三千院が極楽院を本堂としていた頃の正門で、江戸時代に再建された
鎌倉様式の四脚門ですが、現在は常時閉ざされています。
イメージ 10
イメージ 11
朱雀門から登って行くと律川(りつせん)に架かる勝手大橋があり、
その先に鳥居が建っています。
イメージ 12
イメージ 13
鳥居をくぐった先に先に勝手神社があり、勝手明神が祀られています。
大原の地はかって魚山(ぎょざん)と呼ばれ、声明(しょうみょう)発祥の地
でもあります。
三千院の境内は境内南を流れる呂川(りょせん)と北を流れる律川という
2つの川に挟まれ、呂川・律川の名は声明の音律の「呂」と「律」に
由来しています。
勝手神社は、来迎院、三千院、勝林院などで行われる声明の鎮守社として
吉野の勝手神社を勧請して創建されました。
イメージ 14
勝手大橋まで戻り、更に登った所に来迎院がありますが、開門前です。
来迎院は慈覚大師・円仁が仁寿年間(851~854)に唐で学んだ
声明の修練道場として創建されました。
その後、天仁2年(1109)に融通念仏の祖とされる良忍によって再興され、
分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させました。
勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院を以て
付近一帯は「魚山大原寺」と総称されるようになりました。

来迎院から先、約200m山道を登った所に「音無しの滝」があり、
良忍が声明を唱えていると、声明の音律と融合して水音が消えた
との伝承があります。
滝まで行きたかったのですが、次回に譲り三千院へ戻ります。
イメージ 15
三千院の門から少し北に行った所に「鉈捨藪跡」があります。
文治2年(1186)、大原寺・勝林院での法然上人の大原問答の折に、
上人の弟子であった熊谷直実は「もし、師の法然上人が論議に敗れたならば、
その法敵を討たん」との思いで袖に鉈を隠し持っていました。
しかし、上人に諭されてその鉈をこの藪に投げ捨てたと伝えられています。
熊谷直実は、寿永3年(1184)、一ノ谷合戦で、海上に馬を乗り入れ
沖へ逃がれようとする平敦盛を呼び返して、須磨の浜辺に組み討ち
その首をはねました。
 平敦盛は17歳であり、我が子・直家ぐらいの齢でした。
これ以後、直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが
いっそう強くなり、法然上人の弟子となりました。
イメージ 16
御殿門は薬医門形式で、両側に石垣と白壁をめぐらし、法親王の御殿である
政所の入口にふさわしい城郭を思わせる重厚な門構えになっています。
イメージ 17
石垣は築城で名高い近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)によって築かれました。

ようやく開門されましたので、門をくぐります。
続く

三千院-その2

$
0
0
イメージ 1
門を入り、受付で拝観料700円を納めると、大玄関から客殿、
寝殿へと順路が続きます。

客殿は平安時代には龍禅院と呼ばれ、大原寺の政所でした。
安土・桃山時代の天正年間(1573~1592)に、豊臣秀吉による宮中修復の際、
紫宸殿の余材が利用されて修復され、その後大正元年(1912)にも
補修が施されています。
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 4
客殿の庭園・聚碧園は池泉観賞式庭園で、中央付近、自然の傾斜地を利用した
上下二段式とし、南部は円形とひょうたん形の池泉をむすんだ池庭を形成し、
京都市の名勝に指定されています。
江戸時代の茶人・金森宗和(かなもりそうわ・1584~1656)による修築と
伝えられています。
イメージ 5
「懺法洗心 清浄水」と書かれた手水が流れ落ちています。
イメージ 6
寝殿
順路は客殿から寝殿へと続きます。
寝殿は三千院の最も重要な法要である御懴法講(おせんぼうこう)を
執り行うために、御所の紫宸殿を模して、大正15年(1926)に建立されました。
御懴法講は平安時代の保元2年(1157)、後白河法皇が宮中の仁寿殿に於いて
始められた宮中伝統の法要で、江戸末期までは宮中で行われていたため、
「宮中御懴法講」と呼ばれていました。
懺法とは知らず知らずのうちにつくった悪い行いを懺悔して、心の中にある
「むさぼり・怒り・愚痴」の三毒をとり除き、心を静め清らかにするもので、
天台宗のなかでも最も大切な法要儀式とされています。
明治新政府が宮中での仏事を禁じたため、この行事は一旦絶え、その後
明治31年(1898)に明治天皇の母・英照皇太后の一周忌に際し復興されました。
昭和54年(1979)に明治天皇70回忌法要が営まれてからは、
毎年5月30日に行われています。

寝殿の東の間には玉座があり、下村観山の大きな虹が描かれた
襖絵があることから「虹の間」とも呼ばれています。

寝殿の本尊は伝教大師作と伝わる薬師瑠璃光如来ですが秘仏とされています。
三千院は伝教大師・最澄が延暦年間(782~806年)に延暦寺を開いた際、
住坊として東塔南谷の梨の大木の傍に一宇を構え、「円融房」と称したのが
始まりとされています。
梨の木の傍らにあったことから、後に梨本門跡と呼ばれるようになりました。

貞観2年(860)、承雲和尚(じょううんかしょう)がその地に最澄自刻の
薬師如来像を安置した伽藍を建て、円融院と称しました。
承雲はまた、比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)の梶井に円融院の
里坊を設け、応徳3年(1086)には梶井里に本拠を移し円徳院と称し、
後には「梶井宮」と呼ばれるようになりました。
元永元年(1118)、堀河天皇第三皇子(第四皇子とも)の最雲法親王が入寺、
親王は大治5年(1130)、第14世梶井門跡となりました。
以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺するようになりました。

最雲法親王は保元元年(1156)、天台座主に任命され、同じ年、大原に
梶井門跡の政所が設置され、来迎院、勝林院などの寺院を
管理するようになりました。
坂本の梶井門跡は貞永元年(1232)の火災をきっかけに京都市内に移転し、
洛中や東山の各地を転々とした後、元弘元年(1331)に船岡山の東麓に
寺地を定めました。
この地は淳和天皇の離宮雲林院があった所と推定され、現在の京都市北区紫野、
大徳寺の南方に当たります。
しかし、応仁の乱(1467年~1477年)で焼失し、以後、
大原の政所が本坊となりました。

元禄11年(1698)、江戸幕府将軍・徳川綱吉は当時の門跡の
慈胤法親王(じいんほっしんのう)に対し、京都御所周辺の公家町内の
御車道広小路に寺地を与えました。
寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学と
附属病院が建っています。

明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗して新たに梨本宮家を起こし、公家町の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に移されました。
明治4年(1871)、大原の政所を本坊と定め「三千院」と改称しました。
「三千院」は梶井門跡の持仏堂の名称「一念三千院」から取られました。
一念三千とは、天台宗の観法であり、また根本教理でもあります。
一念の心に三千の諸法を具えることを観(かん)ずることで、中国天台宗の
開祖である天台大師・智(ちぎ)が創案したとされています。
持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額「三千院」は
寝殿に掲げられています。
イメージ 7
寝殿から往生極楽院を望む庭園は「瑠璃光庭園」と呼ばれ、
大正時代に作庭されました。
イメージ 8
寝殿から外に出て、国の重要文化財に指定されている往生極楽院へ向かいます。
寺伝では、往生極楽院は平安時代に恵心僧都源信が父母の菩提のため、
姉の安養尼とともに建立したと伝えられています。
実際は久安4年(1148)に高松中納言・藤原実衡(さねひら)の妻である
真如房尼(しんにょぼうに)が、亡き夫の菩提のために建立したことが、
彼女の甥にあたる吉田経房の日記「吉記」の記述により明らかとなりました。
江戸時代の元和2年(1616)と寛文8年(1668)に大幅な修理が施されるとともに
向拝が付けられ、現在の姿となりました。
明治4年(1871)、三千院が大原の地に移転されてから境内に取り入れられ、
明治18年(1885)に「往生極楽院」と改称されました。

堂内には平安時代作で国宝に指定されている阿弥陀三尊像が安置されています。
正面から往生極楽院を撮影すると、撮影が禁止されている阿弥陀三尊像が
入ってしまいますので、裏側しか建物を写すことしかできません。
中尊の阿弥陀如来坐像は像高2.3mあり、堂内の天井を舟底形に
くりぬかれて安置されています。
天井には現在は肉眼ではわかり難いものの、極楽浄土に舞う天女や
諸菩薩の姿が極彩色で描かれています。
向かって右側に観世音菩薩、左側に勢至菩薩坐像が安置され、
ともに「大和座り」と呼ばれる前かがみの座り方をしています。
足のつま先を立て、衆生救済のためにいつでもすぐに立ち上がる
姿勢を表しています。
イメージ 9
往生極楽院の周囲には有清園(ゆうせいえん)と呼ばれる庭園が作庭され、
京都市の名勝に指定されています。
江戸時代に作庭されとされ、中国の六朝時代を代表する
詩人・謝霊運(しゃれいうん・385~433)の
「山水清音有(山水に清音有り」より命名されました。
イメージ 10
イメージ 11
往生極楽院の東側に弁天池があり、「細波(さざなみ)の滝」と呼ばれる
三段式の滝からの流れが注いでいます。
イメージ 12
池には鶴島、亀島と呼ばれる島があります。
イメージ 13
参道の西側は苔で覆われています。
イメージ 14
イメージ 15
ふかふかの苔を布団のようにして童地蔵が祀られています。
イメージ 16
竹の樋から流れ落ちているのが延命水でしょうか?
イメージ 17
イメージ 18
先へ進んで行くと弁財天が祀られています。

金色不動堂へ向かいます。
続く

三千院-その3

$
0
0
イメージ 1
弁財天の右側の石段を上ります。
イメージ 2
石段を上った所に金色不動堂があります。
護摩祈祷を行う祈願道場として、平成元年(1989)4月に建立されました。
本尊は智証大師・円珍作と伝わる像高97cmの金色不動明王立像で、
重要文化財に指定されていますが秘仏です。
毎年4月に行われる不動大祭期間中の約1ヶ月間に開扉されます。
また、近畿三十六不動尊霊場・第16番札所の本尊でもあり、納経所もあります。

不動堂の手前に無料休憩所があり、お茶の接待を受けられます。
イメージ 3
金色不動堂から観音堂への石段の脇に宝篋印塔があり、
「写経塔」と刻まれています。
イメージ 4
石段を上った正面に平成10年(1998)に建立された観音堂があります。
イメージ 5
堂内には像高3mの金色に輝く観音像が安置されています。
イメージ 6イメージ 7










観音堂の右側には、奉納された多数の小観音像が祀られた、小観音堂があります。
イメージ 8
イメージ 9
観音堂の左側には補陀洛浄土を模して、二十五菩薩を配した
「二十五菩薩慈眼の庭」が築かれています。
イメージ 10
観音堂から下り、金色不動堂の横を通り抜けて進んで行くと
律川(りつせん)に架かる橋へと続きます。
イメージ 11
橋の上流にはその1で紹介した勝手大橋が見えますが、
フェンスがあり行くことはできません。
イメージ 12
橋を渡った所に鎌倉時代作で像高2.25mの阿弥陀如来石仏が祀られています。
イメージ 13
またこの場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた
「売炭翁(ばいたんおきな)旧跡」と伝えられることから、
「売炭翁石仏」とも呼ばれています。
イメージ 14イメージ 15イメージ 16







イメージ 17イメージ 18イメージ 19








川沿いに童地蔵が祀られています。
イメージ 20
紫陽花苑の中を通り、往生極楽院の外側を下って行くと近代的な円融房があります。
イメージ 21
円融房の向かいに円融蔵があり、宝物館になっています。
展示場には往生極楽院の舟底形天井が原寸大に設けられ、
天井画が創建当時の顔料で極彩色に復元されています。
鎌倉時代の寛元4年(1246)作の救世観音半跏像は、四天王寺の当初の
本尊像を模したものとされ、かって、三千院門主が四天王寺の別当を
兼ねていたことから、三千院に伝えられていると考えられています。
鎌倉時代作の不動明王立像も安置されており、救世観音半跏像と共に
国の重要文化財に指定されています。

宝物館には納経所もあり、三千院は神仏霊場巡礼の道・第106番、
西国薬師四十九霊場・第45番、近畿三十六不動尊霊場・第16番、
京の七福神めぐり(弁財天)の各札所になっています。
イメージ 22
大原女の小径には「女ひとり」の歌詞が刻まれた石碑が建立されています。

神仏霊場巡礼の道・第105番札所の寂光院へ向かいます。
続く

寂光院

$
0
0
イメージ 1
三千院から大原女の小径が寂光院へと続いています。
寂光院の手前にある小広場に「紫葉漬と大原女の発祥の地」と記された
石碑が建立されています。
寂光院に住した建礼門院に、大原の里人から献上された夏野菜と赤紫蘇の漬物に
感動され、「「紫葉漬(しばづけ)」と名付けたと伝わります。
「大原女(おはらめ)」は、薪や柴などを頭に乗せて京都の街で売り歩いた
大原の女性を差し、 建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないし)が山野へ出る
作業着姿がそのルーツとされています。
イメージ 2
寂光院の門を入ると、「建礼門院命名の紫葉漬発祥の寺」と記されています。
イメージ 3
拝観料600円を納め、中に入ると石段が続いています。
イメージ 4
石段を上った所に、江戸時代に再建された山門があります。
イメージ 5
イメージ 6
山門の手前、右側に茶室「孤雲(こうん)」があります。
昭和天皇即位の御大典の際に使われた建物の部材が下賜され、
昭和4年(1929)に建立されました。

孤雲という名は、『平家物語・大原御幸』に記されている、大江の定基法師が
詠じたという
「笙歌(しょうか)はるかに聞こゆ 孤雲の上 聖衆来迎(しょうじゅらいごう)
す 落日の前」に由来しています。
笙歌とは、笙に合わせて歌うこと、聖衆来迎とは、人の臨終のとき、
阿弥陀三尊と二十五菩薩が浄土より人を迎えに訪れてくることを意味しています。
イメージ 7
山門をくぐった正面に本堂があります。
寂光院は正式には山号を清香山(せいこうざん)、寺号を玉泉寺といい、
寂光院は玉泉寺の子院でした。
推古2年(594)に、聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために
建立されたと伝わります。
聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために難波で六万体の地蔵菩薩を造立し、
それを馬に載せて大原まで来た所、馬が動かなくなりました。
聖徳太子はここを有縁の地として、寺を建立して地蔵菩薩を安置したとの
伝承が残されています。
本堂の内陣および柱は、飛鳥・藤原様式及び平家物語当時の様式を
改修の度ごとに残しながら後世に伝えられてきました。

寂光院初代住持は聖徳太子の乳人(めのと)であった玉照姫(たまてるひめ)で、
敏達13年(548)に出家し、慧善比丘尼(えぜんびくに)と称し、
日本仏教最初の三比丘尼の一人とされています。
その後の史料は湮滅(いんめつ)し、永万元年(1165)に入寺し、
寂光院中興の祖とされる阿波内侍(あわのないし)が第2代住持となっています。

阿波内侍は藤原信西(しんぜい)の娘とされ、
崇徳天皇に仕えて寵愛を受けていました。
崇徳天皇の弟である第77代・後白河天皇の御代に保元の乱が起り、
破れた崇徳上皇は讃岐に流され、長寛2年(1164)に46歳で崩御されました。
これを聞いた阿波内侍は悲嘆にくれ、仏門に入り証道比丘尼と称し、
館を改め寺とし、上皇の冥福を祈りました。
その後、寺は母の生国の阿波に移されたと伝わり、阿波内侍は寂光院に入りました。

文治元年(1185)に建礼門院・徳子が入寺して真如覚比丘尼と称し、
第3代住持となりました。
平 徳子(たいら の とくし/とくこ/のりこ)は久寿(きゅうじゅ)2年(1155)に父・平清盛、母・時子の子として生まれました。
清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王
(ときひとしんのう・後の安徳天皇)を出産しました。
治承3年(1179)に起こった治承三年の政変で、平清盛は軍勢を率いて京都を制圧、
後白河上皇は鳥羽殿に幽閉され、後白河院政は停止されました。
翌、治承4年(1180)には高倉天皇が3歳の言仁親王に譲位し、
安徳天皇が践祚(せんそ)されました。

高倉上皇は病弱で治承5年(1181)、21歳で崩御すると、同年に
平清盛も64歳で死去し、後白河法皇の院政が復活しました。
清盛の死後、後白河法皇は安徳天皇を八条頼盛邸から閑院に遷し、
徳子に建礼門院の院号を宣下し、天皇と母后を平氏から引き離し、
政治の実権を奪取する画策を図りました。

寿永2年(1183)、平氏の北陸追討軍が倶利伽羅峠の戦いで
木曾義仲に撃破され大半の軍勢を失いました。
義仲は京都へと迫り、京都の防衛を断念した平宗盛は、六波羅に火を放ち、
安徳天皇・徳子・近衛基通・一族を引き連れて都を脱出しました。
延暦寺は義仲軍に就き、後白河法皇は一時、比叡山に逃れましたが、都に戻ると
平氏追討宣旨を下し、平氏は官軍から賊軍に転落し、
元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いで滅亡しました。
建礼門院は平宗盛・平時忠らと京都に護送され、宗盛は斬首、
時忠は配流となりました。
建礼門院は罪に問われることはなく吉田の地に隠棲したのですが、
その年京都に大地震が発生し、吉田の坊も被害を受けたとみられ、
大原へと移りました。
建保元年(1213)、夫・高倉天皇と壇ノ浦で滅亡した平家一門と、
我が子・安徳天皇の菩提を弔いながら、生涯を閉じました。

鎌倉時代に天台宗と浄土宗の兼学となり、寛喜元年(1229)に新しく
六万体地蔵菩薩立像が造立されました。

室町時代に一時荒廃しますが、安土・桃山時代の慶長8年(1603)に豊臣秀頼が
片桐且元を工事奉行として本堂の外陣を修理し、桃山様式となりました。
その後、江戸時代になると、豊臣秀頼や淀殿、徳川家康らによって
再興が図られました。
明治元年、太政官達旨により、延暦寺末寺となり天台宗となりました。
平成12年(2000)5月9日、放火により本堂が焼失!犯人は逮捕されずに
時効を迎えてしまいました。
現在の本堂は5年の歳月を掛けて、前住職の「すべて元の通りに」との
願いを込めて平成17年6月2日に落慶されました。

本尊の六万体地蔵菩薩立像も大きく損傷し、全身が黒焦げとなり炭化しました。
しかし、胎内に納められていた3,000体以上の地蔵菩薩の小像ほか、
多くの納入品は無事で、その後美術院国宝修理所によって修復され、
現在は収蔵庫に安置され、春・秋に特別公開されます。
旧本尊及び胎内物は引き続き国の重要文化財に指定されています。

現在の本尊は国宝修理所の小野寺久幸仏師によって、形・大きさともに
元通りに復元され、その製作費は1億4千万円にもなったそうです。
像高は256.4cmあり、日本一の高さと言われています。

堂内には建礼門院像と阿波内侍像も安置されています。
かっての建礼門院像は像高69cm、鎌倉時代の木造で、阿波内侍像は
像高69.5cm、室町時代に藁芯に写経や書状などを張り合わせて造られた
張子像でした。
二体とも焼失し、現在の像は木造で復元されたものです。
イメージ 8
イメージ 9
イメージ 10
本堂の前に汀の池(みぎわのいけ)があります。
『平家物語・大原御幸』に「池水に 汀の桜 散り敷きて 波の花こそ 
盛なりけれ」と詠まれています。
文治年(1186)4月下旬、後白河法皇は忍びの御幸で建礼門院の閑居を
訪ねた際の一首です。
汀の池は平安時代に作庭されたとされ、池の畔には樹齢1000年とも伝わる
五葉の姫小松や汀の桜などが植えられていましたが、
平成12年(2000)の火災で枯れ死しました。

本堂の右手前に鉄製の雪見灯籠がありましたが、画像は失敗しました。
豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝わります。
イメージ 11
本堂の右側に書院があり、平成12年(2000)に建立されました。
イメージ 12
書院北庭には、四方正面の池があり、池の奥には三段の滝が配されています。
イメージ 13
滝の高さや角度がが変えてあり、その音が調和されるように
石組されているそうです。
イメージ 14
汀の池の北側に江戸時代に建立された鐘楼があります。
イメージ 15
梵鐘は「諸行無常の鐘」と称され、宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があります。
総高126cm、口径70.8cm。
イメージ 16
イメージ 17
本堂の北側にある宝篋印塔の詳細は不明です。
イメージ 18
北側にある通用門を出ます。
イメージ 19
建礼門院の庵室跡があります。
壇ノ浦の戦いで建礼門院は、安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込むが、
敵兵にに救助されたとも、時子が「一門の菩提を弔うために生き延びよ」と
諭したとも伝わります。
『平家物語・大原御幸』では寂光院に閑居した翌年、後白河法皇が訪れ、
その様子が記されています。
「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「後ろは山、
前は野辺」という有様で、「来る人まれなる所」であった。
また、その後に訪れた女流歌人・建礼門院右京太夫は次のように記しています。
御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず
(ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほど
ひどいものだった)。
都ぞ春の錦を裁ち重ねて候ふし人々、六十余人ありしかど、
見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる
(都ではわが世の春を謳歌して美しい着物を着重ねて仕えていた女房が、
60人余りいたけれど、ここには見忘れるほどに衰えた尼姿で、
僅かに3、4人だけがお仕えしている)。
と涙を流したそうです。
イメージ 20
庵室跡の右側に井戸の遺構があり、今も清水が湧き出ています。
イメージ 21
庵室跡の奥に収蔵庫があります。
イメージ 22
通用門から山側に神明神社があります。
イメージ 23
石段を上った右側に拝殿があります。
イメージ 24
拝殿内部
イメージ 25
イメージ 26
イメージ 27
鳥居の先には左側に外宮、右側に内宮があります。
イメージ 28
本来の社殿はこちらでしょうか?
イメージ 29
境内社
イメージ 30
境内の左側に石段があり、磐座のような雰囲気が漂っています。
イメージ 31
石段を上って行くと、小さな石窟に石仏が祀られています。
イメージ 32
寂光院への入口の右側に隣接して建礼門院の大原西陵があります。
イメージ 33
かっては寂光院の境内に含まれていましたが、明治以降は境内から切り離され
宮内庁の管轄となりました。

滋賀途中から花折峠を越えて坊村にある近畿三十六不動尊・第27番札所の
葛川息障明王院(かつらかわそくしょうみょうおういん)へ向かいます。
続く


寂光院

$
0
0

三千院から大原女の小径が寂光院へと続いています。
寂光院の手前にある小広場に「紫葉漬と大原女の発祥の地」と記された
石碑が建立されています。
寂光院に住した建礼門院に、大原の里人から献上された夏野菜と赤紫蘇の漬物に
感動され、「「紫葉漬(しばづけ)」と名付けたと伝わります。
「大原女(おはらめ)」は、薪や柴などを頭に乗せて京都の街で売り歩いた
大原の女性を差し、 建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないし)が山野へ出る
作業着姿がそのルーツとされています。
寂光院の門を入ると、「建礼門院命名の紫葉漬発祥の寺」と記されています。
拝観料600円を納め、中に入ると石段が続いています。
石段を上った所に、江戸時代に再建された山門があります。
山門の手前、右側に茶室「孤雲(こうん)」があります。
昭和天皇即位の御大典の際に使われた建物の部材が下賜され、
昭和4年(1929)に建立されました。

孤雲という名は、『平家物語・大原御幸』に記されている、大江の定基法師が
詠じたという
「笙歌(しょうか)はるかに聞こゆ 孤雲の上 聖衆来迎(しょうじゅらいごう)
す 落日の前」に由来しています。
笙歌とは、笙に合わせて歌うこと、聖衆来迎とは、人の臨終のとき、
阿弥陀三尊と二十五菩薩が浄土より人を迎えに訪れてくることを意味しています。
山門をくぐった正面に本堂があります。
寂光院は正式には山号を清香山(せいこうざん)、寺号を玉泉寺といい、
寂光院は玉泉寺の子院でした。
推古2年(594)に、聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために
建立されたと伝わります。
聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために難波で六万体の地蔵菩薩を造立し、
それを馬に載せて大原まで来た所、馬が動かなくなりました。
聖徳太子はここを有縁の地として、寺を建立して地蔵菩薩を安置したとの
伝承が残されています。
本堂の内陣および柱は、飛鳥・藤原様式及び平家物語当時の様式を
改修の度ごとに残しながら後世に伝えられてきました。

寂光院初代住持は聖徳太子の乳人(めのと)であった玉照姫(たまてるひめ)で、
敏達13年(548)に出家し、慧善比丘尼(えぜんびくに)と称し、
日本仏教最初の三比丘尼の一人とされています。
その後の史料は湮滅(いんめつ)し、永万元年(1165)に入寺し、
寂光院中興の祖とされる阿波内侍(あわのないし)が第2代住持となっています。

阿波内侍は藤原信西(しんぜい)の娘とされ、
崇徳天皇に仕えて寵愛を受けていました。
崇徳天皇の弟である第77代・後白河天皇の御代に保元の乱が起り、
破れた崇徳上皇は讃岐に流され、長寛2年(1164)に46歳で崩御されました。
これを聞いた阿波内侍は悲嘆にくれ、仏門に入り証道比丘尼と称し、
館を改め寺とし、上皇の冥福を祈りました。
その後、寺は母の生国の阿波に移されたと伝わり、阿波内侍は寂光院に入りました。

文治元年(1185)に建礼門院・徳子が入寺して真如覚比丘尼と称し、
第3代住持となりました。
平 徳子(たいら の とくし/とくこ/のりこ)は久寿(きゅうじゅ)2年(1155)に父・平清盛、母・時子の子として生まれました。
清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王
(ときひとしんのう・後の安徳天皇)を出産しました。
治承3年(1179)に起こった治承三年の政変で、平清盛は軍勢を率いて京都を制圧、
後白河上皇は鳥羽殿に幽閉され、後白河院政は停止されました。
翌、治承4年(1180)には高倉天皇が3歳の言仁親王に譲位し、
安徳天皇が践祚(せんそ)されました。

高倉上皇は病弱で治承5年(1181)、21歳で崩御すると、同年に
平清盛も64歳で死去し、後白河法皇の院政が復活しました。
清盛の死後、後白河法皇は安徳天皇を八条頼盛邸から閑院に遷し、
徳子に建礼門院の院号を宣下し、天皇と母后を平氏から引き離し、
政治の実権を奪取する画策を図りました。

寿永2年(1183)、平氏の北陸追討軍が倶利伽羅峠の戦いで
木曾義仲に撃破され大半の軍勢を失いました。
義仲は京都へと迫り、京都の防衛を断念した平宗盛は、六波羅に火を放ち、
安徳天皇・徳子・近衛基通・一族を引き連れて都を脱出しました。
延暦寺は義仲軍に就き、後白河法皇は一時、比叡山に逃れましたが、都に戻ると
平氏追討宣旨を下し、平氏は官軍から賊軍に転落し、
元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いで滅亡しました。
建礼門院は平宗盛・平時忠らと京都に護送され、宗盛は斬首、
時忠は配流となりました。
建礼門院は罪に問われることはなく吉田の地に隠棲したのですが、
その年京都に大地震が発生し、吉田の坊も被害を受けたとみられ、
大原へと移りました。
建保元年(1213)、夫・高倉天皇と壇ノ浦で滅亡した平家一門と、
我が子・安徳天皇の菩提を弔いながら、生涯を閉じました。

鎌倉時代に天台宗と浄土宗の兼学となり、寛喜元年(1229)に新しく
六万体地蔵菩薩立像が造立されました。

室町時代に一時荒廃しますが、安土・桃山時代の慶長8年(1603)に豊臣秀頼が
片桐且元を工事奉行として本堂の外陣を修理し、桃山様式となりました。
その後、江戸時代になると、豊臣秀頼や淀殿、徳川家康らによって
再興が図られました。
明治元年、太政官達旨により、延暦寺末寺となり天台宗となりました。
平成12年(2000)5月9日、放火により本堂が焼失!犯人は逮捕されずに
時効を迎えてしまいました。
現在の本堂は5年の歳月を掛けて、前住職の「すべて元の通りに」との
願いを込めて平成17年6月2日に落慶されました。

本尊の六万体地蔵菩薩立像も大きく損傷し、全身が黒焦げとなり炭化しました。
しかし、胎内に納められていた3,000体以上の地蔵菩薩の小像ほか、
多くの納入品は無事で、その後美術院国宝修理所によって修復され、
現在は収蔵庫に安置され、春・秋に特別公開されます。
旧本尊及び胎内物は引き続き国の重要文化財に指定されています。

現在の本尊は国宝修理所の小野寺久幸仏師によって、形・大きさともに
元通りに復元され、その製作費は1億4千万円にもなったそうです。
像高は256.4cmあり、日本一の高さと言われています。

堂内には建礼門院像と阿波内侍像も安置されています。
かっての建礼門院像は像高69cm、鎌倉時代の木造で、阿波内侍像は
像高69.5cm、室町時代に藁芯に写経や書状などを張り合わせて造られた
張子像でした。
二体とも焼失し、現在の像は木造で復元されたものです。
本堂の前に汀の池(みぎわのいけ)があります。
『平家物語・大原御幸』に「池水に 汀の桜 散り敷きて 波の花こそ 
盛なりけれ」と詠まれています。
文治年(1186)4月下旬、後白河法皇は忍びの御幸で建礼門院の閑居を
訪ねた際の一首です。
汀の池は平安時代に作庭されたとされ、池の畔には樹齢1000年とも伝わる
五葉の姫小松や汀の桜などが植えられていましたが、
平成12年(2000)の火災で枯れ死しました。

本堂の右手前に鉄製の雪見灯籠がありましたが、画像は失敗しました。
豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝わります。
本堂の右側に書院があり、平成12年(2000)に建立されました。
書院北庭には、四方正面の池があり、池の奥には三段の滝が配されています。
滝の高さや角度がが変えてあり、その音が調和されるように
石組されているそうです。
汀の池の北側に江戸時代に建立された鐘楼があります。
梵鐘は「諸行無常の鐘」と称され、宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があります。
総高126cm、口径70.8cm。
本堂の北側にある宝篋印塔の詳細は不明です。
北側にある通用門を出ます。
建礼門院の庵室跡があります。
壇ノ浦の戦いで建礼門院は、安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込むが、
敵兵にに救助されたとも、時子が「一門の菩提を弔うために生き延びよ」と
諭したとも伝わります。
『平家物語・大原御幸』では寂光院に閑居した翌年、後白河法皇が訪れ、
その様子が記されています。
「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「後ろは山、
前は野辺」という有様で、「来る人まれなる所」であった。
また、その後に訪れた女流歌人・建礼門院右京太夫は次のように記しています。
御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず
(ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほど
ひどいものだった)。
都ぞ春の錦を裁ち重ねて候ふし人々、六十余人ありしかど、
見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる
(都ではわが世の春を謳歌して美しい着物を着重ねて仕えていた女房が、
60人余りいたけれど、ここには見忘れるほどに衰えた尼姿で、
僅かに3、4人だけがお仕えしている)。
と涙を流したそうです。
庵室跡の右側に井戸の遺構があり、今も清水が湧き出ています。
庵室跡の奥に収蔵庫があります。
通用門から山側に神明神社があります。
石段を上った右側に拝殿があります。
拝殿内部
鳥居の先には左側に外宮、右側に内宮があります。
本来の社殿はこちらでしょうか?
境内社
境内の左側に石段があり、磐座のような雰囲気が漂っています。
石段を上って行くと、小さな石窟に石仏が祀られています。
寂光院への入口の右側に隣接して建礼門院の大原西陵があります。
かっては寂光院の境内に含まれていましたが、明治以降は境内から切り離され
宮内庁の管轄となりました。

滋賀途中から花折峠を越えて坊村にある近畿三十六不動尊・第27番札所の
葛川息障明王院(かつらかわそくしょうみょうおういん)へ向かいます。
続く


葛川息障明王院(かつらがわそくしょうみょうおういん)

$
0
0
イメージ 1
イメージ 2
旧花折峠への道
大原から国道367号線を北上していくと滋賀途中と呼ばれる小さな峠を越えます。
かって福井と京都を結ぶ鯖街道で、京都から出発して最初の難所でした。
千日回峰行を創始した延暦寺の僧・相応和尚(そうおうかしょう)が、
葛川明王院を創建しましたが、比叡山から明王院への途中に位置する
「龍花村(りゅうげむら)」を「途中村」と命名したことから途中越と
呼ばれるようになったと伝えられています。
現在は集落には入らず、トンネルを通過して鯖街道で最大の難所だった
花折峠へと向かいます。
現在は整備された道路になっていますが、かっては離合するのも困難な峠道でした。
現在の国道から旧峠道が残されています。
友人に誘われて、「滋賀途中」のバス停から歩き、旧峠から比良へと
登山したのが学生時代、登山を始めるきっかけとなりました。
花折峠の名は、かって葛川明王院への参拝者が、仏前へ供えるシキミを
峠付近で摘んだことが由来となったと伝わります。
イメージ 3
しかし、今は峠もその先にもトンネルが開通し、かっての曲がりくねった
細い峠道の面影はありません。
イメージ 4
坊村の里に入って右折した所に地主神社があります。
祭神は国常立命(くにとこたちのみこと)ですが、この地の地主神である
思古淵明神(しこぶちみょうじん)も祀られています。
思古淵は安曇川(あどがわ)流域に多く祀られる神で、この地域の開拓の
祖神であり水の神として、崇められています。

『葛川縁起』では、「修行に適した静寂の地を求めていた相応和尚が、
思古淵明神から修行の場として当地を与えられ、地主神の眷属である
浄喜・浄満(常喜・常満とも)という2人の童子の導きで比良山中の三の滝に至り、
7日間飲食を断つ厳しい修行を行った。
満願の日、相応は三の滝で不動明王を感得し、滝壺に飛び込み、拾い上げた
桂の古木で不動明王を刻み、祀った」のが明王院の始まりとされています。

地主神社は明王院の鎮守社として、明王院が創建された同年、
平安時代の貞観元年(859)に相応和尚によって創建されました。
イメージ 23
イメージ 24
手水舎
イメージ 5
イメージ 6
石段を上ると拝殿、幣殿、本殿が一直線上に並んでいます。
現在の本殿及び幣殿は、室町時代の文亀2年(1502)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
イメージ 7
本殿は春日造と呼ばれる左右が反り上がるもので、大津には珍しい建物だそうです。
イメージ 8
蟇股(かえるまた)には、牡丹・唐草・笹竜胆(ささりんどう)・蓮など
12種類ものデザインの彫刻がなされ、しかも左右対象という
非常に凝ったものに仕上げられています。
イメージ 9
本殿の背後には大行事社、山上社、志古淵明神の境内社があります。
イメージ 10
イメージ 11
神社の北側にある明王滝川に架かる三宝橋を渡ります。
イメージ 12
橋を渡った先の石段を上った右側に行者庵室があります。
現在の行者庵室は天保5年(1834)に再建されたもので、
参籠の行者が寝泊りするための建物です。
相応が開いた葛川での参籠修行(葛川参籠)は、かつて旧暦6月の
蓮華会(れんげえ、水無月会とも)と旧暦10月の法華会(霜月会とも)の
年2回・各7日間にわたって行われていたが、現在はこのうちの蓮華会のみが
夏安居(げあんご)と称して7月16日から20日までの
5日間にわたって行われています。
夏安居には百日回峰と千日回峰の行者がともに参加し、相応和尚の
足跡を偲んでの断食修行、滝修行などが古来の作法どおりに行われています。
夏安居は山林徒渉とともに回峰行の重要な修行に位置づけられ、
百日回峰は葛川での夏安居に参加しなければ満行とは認められません。
夏安居の中日の7月18日深夜には「太鼓回し」という勇壮な行事が行われます。
相応が滝壺に飛び込んだ故事に因み、行者らが次々と大太鼓から飛び降り、
滝壺に飛び込むさまを表しています。

中世から近世にかけて、葛川参籠を行った者は参籠札という卒塔婆形の
木札を奉納することが習わしで、元久元年(1204)銘のものを最古として、
約500枚の参籠札が残されています。
それらの中には足利義満足利義尚日野富子のような歴史上の
著名人のものも含まれ、国の重要文化財に指定されています。
イメージ 13
行者庵室の奥に護摩堂があります。
護摩堂は江戸時代の宝暦5年(1755)に建立され、平成の修理
(平成17年11月1 日~平成23年3月31日)で塗り替えられたと思われます。
イメージ 14
境内の中央に本堂への石段があります。
イメージ 15
イメージ 16
石段の左側に弁財天が祀られています。
イメージ 17
現在の本堂は正徳5年(1715)に再建されたものですが、滋賀県教育委員会が
平成17年(2005)から実施した保存修理工事の結果、平安時代の部材が
再利用されていることが判明しました。
堂内には、重要文化財に指定されている、いずれも平安時代作の千手観音立像、
不動明王立像、毘沙門天像が安置されていますが、厨子内に納められ、
扉が閉じられています。
御前立に不動明王立像が安置されています。
イメージ 18
イメージ 19
イメージ 20
また、堂内には多くの絵馬が掲げられています。
イメージ 21
堂内西側には「太鼓回し」で使われると思われる太鼓が保管されています。
イメージ 22
三宝橋を渡った参道の左側に政所門があり、門くぐった先に納経所があります。
葛川息障明王院は近畿三十六不動尊・第二十七番札所です。

明王院は境内の様子、各建物の配置などは中世の絵図に描かれたものから
ほとんど変化していません。
建物を含めた境内地全体が、回峰行の行場としての景観を良く留めており、
本堂・護摩堂・庵室・政所門の主要建物4棟に加え、
境内の石垣・石塀・石段などを含む境内地及び隣接する地主神社の境内地も
併せて重要文化財に指定されています。

予定では近江今津まで行き、竹生島に渡りたかったのですが、
最終の船の時間に間に合いそうにもないので、三の滝へ向かいます。
イメージ 25
かって登山で何回か登り、また下山路として行き来した林道ですが、
すぐ先で車の通行が止められ、荒れているように感じました。
しばらく登ると二の滝・護摩堂があります。
駒札には「回峰行者がお滝参籠の途中に、煩悩を焼き尽くすため、
護摩を修す道場である」と記されています。
但し、この場所から二の滝を望むことはできません。
イメージ 26
更に進むと三の滝への入口があり、そこから少し下ります。
イメージ 27
イメージ 28
滝の上部は「く」の字形に曲がっています。
かって、林道から見たことはありますが、このように対面して見るのは初めてです。
イメージ 29
イメージ 30
さらに下って行くと滝壺が見えてきました。
イメージ 31
小さなお堂が正面に見えてきました。
イメージ 32
お堂との間には鎖が渡され、その下は垂直に崖が切り立っています。
イメージ 33
お堂の横に立つ杉の木は、その根が岩盤のため下に伸ばせず、
横へと張り出しています。

沢歩きする人にとって、三の滝は普通の滝に見えると思いますが、
この地から滝を見つめていると何か神秘的なものを感じます。

竹生島へは、改めて来週の10月8日にこのルートの先から
続けたいと考えています。

竹生島 宝厳寺

$
0
0
イメージ 1
自宅を出て約2時間、なんとか9:40発の船に間に合うように
近江今津港に着きました。
バイクは乗り場横に無料で置けます。
乗船料は往復で2,590円と竹生島の入島料400円が別途必要です。
乗船時間25分で島に到着します。
イメージ 2
島に降り立った所に「琵琶湖八景 深緑 竹生島の沈影」の碑が建立されています。
イメージ 3
竹生島では平成16年(2004)以降、カワウが急速に増加して、
多くの樹木を枯らせたとニュースで報じられていました。
船が島に近付くと、白く立ち枯れした木が目に入り、やはりその痕跡が伺えます。
しかし、今回カワウを島で見ることはありませんでした。
植林もされているようで、何れ深緑の竹生島が取り戻されるように思われます。
イメージ 4
また、「琵琶湖周航の歌」の歌碑も建立されています。
この曲は大正6年(1917)6月28日、第三高等学校(現在の京都大学)
ボート部の部員による恒例の琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎による詞を
「ひつじぐさ」(作曲:吉田千秋)のメロディーに乗せて初めて歌われました。
歌詞にある「古い伝えの竹生島」のとおり、古来、信仰の対象となった島で
神の棲む島とも言われ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが
竹生島信仰の始まりと伝わります。
また、北側の対岸である葛籠尾崎(つづらおざき)の沿岸や竹生島との間には
湖底遺跡(葛籠尾崎湖底遺跡)があります。
最大で水深70mほどの湖底から、漁師の網に引っ掛かるなどして約140点もの
土師器・須恵器や土器が、ほぼ原形をとどめたまま引き揚げられています。
これらの製作年代は縄文時代早期から弥生時代、さらに中世まで幅広い時代に
及ぶと考えられていますが、なぜ湖底から見つかるのかは、
現在では解明されていません。
イメージ 5
イメージ 6
券売機で拝観券を400円で購入し、正面の石段を上ります。
イメージ 7
上った所に手水舎があり、深さ230m(湖底130m)より汲み上げられた
地下水「瑞祥水」の井戸があります。
ここで参道は二手に分かれ、上へ上がると宝厳寺、右へ曲がると
竹生島神社(都久夫須麻神社)へと続きます。
イメージ 8
イメージ 9
左側に本坊があります。
イメージ 10
イメージ 11
正面の石段を上った左側に護摩堂があります。
イメージ 12
右側に鐘楼があります。
イメージ 13
更に石段を上って行くと左側に本堂が見てきます。
イメージ 14
石段を上った正面に手水舎があります。
イメージ 15
手水舎の左側に高さ247cmで鎌倉時代作の五重石塔があり、
国の重要文化財に指定されています。
イメージ 16
納経所にはすでに長い列ができていますので、先に三重塔の方へ上りました。
現在の塔は5年の歳月をかけて平成12年(2000)5月に再建されたもので、
以前の塔は江戸時代初期に焼失したようです。
イメージ 17
三重塔の左側に雨宝童子(うほうどうじ)堂があります。
雨宝童子とは、天照大神が16歳のときに日向に降臨されたときの姿とされています。

寺伝では、竹生島宝厳寺は、神亀元年(724)に聖武天皇が、夢枕に立った
天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。
その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。
すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、
僧・行基を勅使として堂塔を開基させたのが始まりとされています。
島に渡った行基は、弁財天を彫刻し本尊として本堂に安置し、翌年には、
観音堂を建立して、千手観音像を安置したと伝わります。

三重塔の南側に宝物殿がありますが、帰りの船のことを考えると
拝観できる時間がないように思われ、先を急ぎます。
イメージ 18
三重塔の横に片桐且元(かたぎり かつもと)が手植えしたとされている
モチの木」が大きく枝を伸ばしています。
宝厳寺は中世以降、貞永元年(1232)、享徳3年(1454)、永禄元年(1558)などに
大火がありましたが、その都度復興されてきました。
永禄元年の大火後、慶長7年~8年(1602~1603)、豊臣秀頼が片桐且元に
命じて伽藍を復興し、その記念樹として植えられました。
イメージ 19
蔵のような建物もあります。
イメージ 20
三重塔から本堂前へ下って来た所に不動明王と童子の三尊像が祀られています。
イメージ 21
イメージ 22
古来、都久夫須麻神社(竹生島神社)の本殿が、宝厳寺の本堂とされてきました。
しかし、明治の神仏分離令の際、弁財天社は平安時代の『延喜式』に見える
「都久夫須麻神社」という社名に変更することなりました。
仏教寺院としての宝厳寺は廃寺の危機を迎えますが、寺側の
「弁才天は仏教の仏である」との主張が通り、
寺と神社が分離することになりました。
本堂の建物のみが神社側に引き渡されたため、昭和17年(1974)に
平安時代様式で本堂が新築されました。
軒には邪鬼の彫刻があります。

寺伝では、神亀元年(724)、聖武天皇の勅命を受け、僧・行基によって創建され、
弁才天を祀ったとされていますが、承平元年(931)成立の『竹生島縁起』によると、行基の来島は天平10年(738)で、小堂を建て四天王を祀ったのが
始まりとされています。
天平勝宝5年(753)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)
という人物が、千手観音を造立して安置したとあります。
当初は本業寺(ほんごうじ)、のちに竹生島大神宮寺と称し、
東大寺の支配下にあり、平安時代前期に延暦寺の傘下に入り、
天台寺院となりました。
以降、島は天台宗の僧の修行の場となり、また、平安時代末期頃からは
観音と弁才天信仰の島として栄えたと記されています。
しかし、現在は真言宗豊山派の寺院で、山号を巌金山(がんこんさん)と称します。
イメージ 23
向かって左側の弁財天像
本尊の弁天像は江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁財天」の一つで、
その中でも最も古い弁財天とされ、宝厳寺では大弁財天と称しています。
行基が開眼したとされ、60年に一回開帳される秘仏でもあり、
次回の開帳は西暦2037年になります。
堂内の両側には御前立の弁財天像が安置されています。
イメージ 24
向かって右側の像は、桃山時代の慶長10年(1605)作と記されています。
イメージ 25
また、多数の達磨像が奉納されています。
これは「お願いだるま」と呼ばれ、願い事を書いた紙を達磨の中に
封入して祀られています。
イメージ 26
イメージ 27
本堂の左奥に三龍善神が祀られた社殿があります。
「潤徳護法善神」、「福壽白如善神」、「徳澤惟馨善神」の
三神が祀られていますが、詳細は不明です。

納経所の列はそれほど短くなってはいません。
並んでいると、発船のアナウンスが聞こえ、
1時間10分島の滞在時間が増えることになりました。
続く

宝厳寺~都久夫須麻神社

$
0
0
イメージ 1
宝厳寺は西国三十三所観音霊場・第30番、神仏霊場巡礼の道・第138番、
江州三十三観音霊場・第17番の各札所です。
納経を済ませ、観音堂の方へ下りますが、観音巡りからすれば、順路が逆でした。
イメージ 2
港から上ってきた石段の前を通り過ぎた所に西国三十三所の各本尊が
祀られていましたので、せめてこちらを先に参拝すべきでした。
イメージ 3
その先にぼけ封じ、諸病封じの「薬寿・観世音菩薩」像が建立されています。
イメージ 4
観音堂は現在、工事中で国宝の唐門、重要文化財の観音堂も全容を
見ることはできませんでした。
戦国時代の永禄元年(1558)の大火で、現在の都久夫須麻神社の本殿や
観音堂が被災し、現在の観音堂は慶長7年~8年(1602~1603)に、
豊臣秀頼の命を受けた片桐且元によって再建されました。

唐門は豊国廟の唐門が移築され、土地の条件から観音堂に接して建てられています。
この門は極楽門とも称せられ、元は大坂城の本丸北方に架けられていた
極楽橋の唐破風造部分であった可能性が指摘されています。

観音堂は傾城地に建てられた懸造(かけづくり)で、他所から移築された
痕跡が残されています。
仏間は2階にあり、観音霊場の本尊である鎌倉時代の千手観世音菩薩像が
安置されていますが、秘仏とされ原則として60年に一度開扉されます。
イメージ 5
観音堂から都久夫須麻神社本殿へは渡廊で結ばれ、慶長8年に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
観音堂と同じく懸造で豊臣秀吉の御座船「日本丸」の用材を用いて建てたという
伝承から「船廊下」と呼ばれています。
イメージ 6
都久夫須麻神社本殿は、永禄元年(1558)の大火で焼失し、
永禄10年(1567)に再建され、これが現存する庇(ひさし)と
向拝の部分にあたります。
イメージ 7
建物中心部の身舎(もや)は、慶長7年(1602)に元の本殿の外回りに、
伏見城または豊国廟の建物を入れ込んだ、建立年代の異なる2つの建物を
合体して1棟としたものです。
身舎の正面中央間は黒漆塗の桟唐戸を立て、菊文様の装飾彫刻で飾られています。
イメージ 8
庇の部分は素木仕上げで彫刻が施されています。
祭神は市杵島比売命(いちきしまひめのみこと=弁財天)、宇賀福神、
浅井比売命(あざいひめのみこと)、龍神の四柱が祀られています。

宇賀福神は、宝厳寺の弁財天像の頭頂部に小さく乗っています。
神名の「宇賀」は、伏見稲荷大社の主祭神である宇迦之御魂神
(うかのみたま)に由来するもの、または仏教語で「財施」を意味する
「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もあります。
その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、延暦寺(天台宗)の
教学に取り入れられて、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは
合体したとされ、この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれます。
宇賀神は、弁才天との神仏習合の中で造作され案出された神、との説もあります。

社伝では、雄略天皇3年(459)に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが
都久夫須麻神社の始まりと伝わります。
『近江国風土記』には、夷服岳(いぶきのたけ=伊吹山)の多多美比古命
(たたみひこのみこと)が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、
湖に落ちた首が竹生島になったと記されています。

木曽義仲を討つべく平家の軍勢10万余騎は、
北陸へ向けて琵琶湖西岸を北上しました。
その途中、琵琶の名手として名高い平経正(たいら の つねまさ)は竹生島に渡り、この地で「上弦(しょうげん)、・石上(せき しょう)」の秘曲を奏でました。
そのあまりにも美しい調べに、弁才天の化身と思われる白龍が
龍神となって現れたと伝わります。
寿永2年(1183)、平氏の北陸追討軍が倶利伽羅峠の戦いで、木曾義仲に
撃破され大半の軍勢を失い、平家滅亡への道を辿ることとなりました。
また、平経正は寿永3年(1184)、一ノ谷の戦いで命を落としました。
イメージ 9
イメージ 10
本殿への石段下右側に日本三大弁財天の二社、江の島の江島神社
宮島の厳島神社があります。
イメージ 11
イメージ 12
左側には天忍穂耳神社(あめのおしほみみじんじゃ)と大己貴神社があります。
天忍穂耳は『古事記』では、天照大神の勾玉から生まれ、
天照大神の子とされています。
萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)との間に
天火明命(あめのほあかりのみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を
もうけました。
葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるよう天照大神から命令されるが、
下界は物騒だとして途中で引き返してしまったといいます。
建御雷神(たけみかづちのかみ)らによって大己貴命(おほなむちのみこと)から
国譲りがされ、再び天忍穂耳に降臨の命が下るが、天忍穂耳はその間に生まれた
息子の瓊瓊杵尊に行かせるようにと進言し、瓊瓊杵尊が天下ることになりました。
「おしほみみ(忍穂耳)」は威力(生命力)に満ちた稲穂の神を意味し、
稲穂の神、農業神として信仰されています。
イメージ 13
イメージ 14
境内の西側には白巳大神が祀られた社があります。
祭神は宇賀神で金運・財運の御利益があるとされています。
イメージ 15
白巳社の右側に弁天像が祀られています。
イメージ 16
弁天像の先で懸造の渡廊の構造を見ることができます。
イメージ 17
琵琶湖を望む断崖上に龍神拝所があります。
イメージ 18
ここから土器(かわらけ)に願い事を書き、湖面に突き出た宮崎鳥居へと投げ、
鳥居をくぐれば、願い事が成就するとも言われています。
イメージ 19
桟橋まで降りてきて龍神拝所を望みました。
イメージ 20
向かいには31番札所の長命寺があり、船なら一直線で行けそうですが、
そのような便はありません。
イメージ 21
港には長浜港からの船も着岸しており、料金は3,070円ですが、
今津港往復より1便多く運行されています。
また、今津港から乗船して長浜港で下船する(又はその逆)場合は
2,830円になります。
彦根港からは近江マリーンの船便があり、料金は往復で3,000円です。
イメージ 22
12:30発、今津港行きの便が到着しました。
イメージ 23
13:00に今津港に着き長命寺に向かいます。
続く


長命寺-その1

$
0
0
イメージ 1
今津港から国道161号線を南下し、途中白髭神社に立ち寄る予定でしたが、
神社は大勢の人で混雑していたため断念。
その先では国道も渋滞していました。
堅田まで南下して、琵琶湖大橋を渡り、湖岸道路を北上して予定より
20分遅れの14:40に長命寺港に到着しました。
現在は長命寺山の東側は大中之湖干拓地が広がっていますが、
干拓以前の長命寺は島の中にあったそうです。
かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島・宝厳寺から船で
長命寺に参詣したそうです。
また、安土の城下に物資が運ばれた水上交通の要衝でもありました。
イメージ 2
港から道路を渡った所に日吉神社があります。
創建の詳細は不明ですが、滋賀県神社庁の記録によると、
「平安時代の承和3年(836)、長命寺の僧・頼智が長命寺再興の際、
山王十禅寺を祀ったと長命寺文書にあるのを創立とする。
その後文政3年(1820)本殿改築の事、棟礼に記される、
明治九年村社に列せられた。」と記されています。
祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で別名を山末之大主神
(やますえのおおぬしのかみ)とも称し、背後の長命寺山(333m)の
地主神として祀られています。
イメージ 3
日吉神社の右側に穀屋寺があり、推古天皇時代(592-628)に聖徳太子によって
創建され、本尊として聖徳太子が祀られています。
長命寺が推古天皇27年(619)に同じく聖徳太子によって創建されていますので、
同時期かそれ以降と思われます。

平成21年(2009)、穀屋寺から熊野観心十界曼荼羅
(くまのかんしんじつかいまんだら)2点と
長命寺参詣曼荼羅3点が見つかりました。
十界曼荼羅は縦約141cm、横約110~113cm、同じ絵柄で、
上部に誕生から死までの人間の姿が描かれ、中下部に地獄や餓鬼、
菩薩や仏など仏教の世界観を表す「十界」を表現しています。
中央上部には十界のうち「仏界」の阿弥陀、薬師、釈迦の三仏が描かれています。
戦国時代末期と江戸時代後期の作とみられ、戦国時代末期のものは、
全国で確認された十界曼荼羅約60点の中で最古級とされています。

参詣曼荼羅は縦約154~約161cm、横約159~約180cmで、
長命寺の境内を上から眺めた視点で描かれています。
3点はそれぞれ戦国時代末期、江戸時代中期、同後期の作と推定されています。
長命寺は永正13年(1516)の兵火で焼失し、寺の再興のため、16世紀半ば頃から
尼僧が全国を歩きながら十界曼荼羅を用いて布教し、浄財を集め、穀屋寺は、
長命寺再建のため全国に寄付を募った僧や尼僧の拠点となりました。
イメージ 4
穀屋寺から奥へ進むと石段があり、標高約250mにある本堂まで808段の
石段の参道が続き、約20分の時間を要します。
山道を車で登り、本堂下に駐車場があり、楽する方法もあるのですが、
せめてこの短い間だけでも巡礼者になって歩いて登りたいと思います。
イメージ 5
少し登った左側に宿院・妙覚院があります。
イメージ 6
更に登った所に現れたのは鳥居でしょうか?
イメージ 7
付近にはいくつかの石碑が立っています。
イメージ 8
鳥居らしきものをくぐった先にも石段が続きます。
イメージ 9
更に登ると右側に禅林院の石柱が立っていますが、それらしき建物は見えません。
イメージ 10
参道脇に小さな祠があります。
イメージ 11
中には石仏らしきものが祀られているようです。
イメージ 12
祠から更に登ると厄除不動尊が祀られています。
イメージ 13
ようやく冠木門が見えてきました。
イメージ 14
門をくぐると本堂を仰ぎ見ることができますが、まだ石段が続いています。
イメージ 15
左側に長命寺書院があります。
イメージ 16
玄関の衝立には孔雀が描かれています。
イメージ 17
本堂前まで登り右側へ進むと、本堂の裏側に当たる所に閼伽井堂があります。
天智天皇6年(667)に近江大津宮へ遷都した天智天皇は、大津宮の鎮護と
天下泰平を祈願するため長命寺に参拝しました。
その折、この古井戸で念仏を唱えたところ、水泡が浮かび出たことから
「念仏井戸」と呼ばれるようになりました。
イメージ 18
閼伽井は今も清水を湛えています。
イメージ 19
堂内上部には仏像が安置されています。
イメージ 20
閼伽井堂の右側にある石段を上った所に、天正17年(1589)から
慶長2年(1597)にかけて建立された三重塔があり、
国の重要文化財に指定されています。
永正13年(1516)の兵火で焼失する以前には、鎌倉時代の
元応2年(1320)に建立された塔がありました。
現在の塔は高さ24.35mで、県内に現存する三重塔七基の内、
二番目の高さを誇ります。
初重内部は須弥壇を設け、胎蔵界大日如来像(桃山時代)と四天王像
(鎌倉時代)が安置され、共に近江八幡市の文化財に指定されています。
大日如来像は像底の銘から天正17年(1589)、七条仏師の作と判明しました。

三重塔の左奥に護摩堂がありますが、撮影に失敗しました。
護摩堂は三重塔に続いて慶長11年(1606)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
再建後間もなく、屋根の葺き替えで二重軒付に変更されましたが、
昭和49年(1974)の半解体修理で、一重軒付に復元されました。
堂内には本尊として不動明王像が安置されています。

本堂へ向かいます。
続く

長命寺-その2

$
0
0
イメージ 1
三重塔の前から見る本堂。
現在の本堂は、寺の文書から室町時代の大永4年(1524)に再建されたと判明し、
国の重要文化財に指定されています。
長命寺は山号を姨綺耶山(いきやさん)と称する天台宗系単立の寺院です。
西国三十三所・第31番、神仏霊場巡拝の道・第143番、聖徳太子霊跡・35番、
近江西国三十三所・第21番、近江七福神(毘沙門天)などの各札所になっています。

伝承によると、第12代景行天皇の時代(71~130)に、
武内宿禰(たけしうちのすくね)がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と
彫り長寿を祈願し、そのご利益があったのか300歳(360歳とも)の
長寿を得られたと伝わります。
イメージ 2
宿禰が祈願したとされる岩が本堂の裏にある六処権現影向石
(ろくしょごんげんようごうせき)で祈願石とも呼ばれています。
イメージ 3
また、境内には修多羅(すだら)岩があり、武内宿禰の御神体とされています。
修多羅とは仏教用語で天地開闢(かいびゃく)、天下泰平、子孫繁栄を意味します。

推古天皇27年(619)、この地を訪れた聖徳太子が宿禰が祈願した際に
彫った文字を発見し、感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、
その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げました。
太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置し、宿禰の長寿にあやかり、
当寺を長命寺と名付けたと伝わります。

中世の長命寺は延暦寺・西塔の別院としての地位を保ち、
近江守護・佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えていました。
しかし、永正13年(1516)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により
伽藍は全焼しました。

本尊は、千手十一面聖観世音菩薩三尊一体、つまり、、千手観音、十一面観音、
聖観音(しょうかんのん)の3体が長命寺の本尊とされています。
中央に千手観音像、向かって右に十一面観音像、左に聖観音像が安置され、
いずれも秘仏で、国の重要文化財に指定されています。
千手観音像は像高91.8cm、平安時代末期頃の作と推定されています。
十一面観音像は像高53.8cm、平安時代初期~中期の作と推定されています。
聖観音像は像高67.4cm、鎌倉時代の作と推定されています。
堂内、後の間には地蔵菩薩立像と薬師如来立像が安置されています。
イメージ 4
本堂から三仏堂は渡廊下で結ばれています。
三仏堂は平安時代末期の元暦元年(1184)に佐々木秀義の菩提を弔うため、
その子・定綱によって建立されました。
永正13年(1516)に焼失後、室町時代の永禄8年(1565)に再建されたと推定され、
江戸時代の寛政5年(1793)に改造されています。

堂内には釈迦・阿弥陀・薬師の三仏(いずれも立像)が安置され、
県下でも数少ない持仏堂形式の貴重な遺構として、
滋賀県の文化財に指定されています。
イメージ 5
渡廊下は、更に護法権現社拝殿へと結ばれています。
護法権現社拝殿及び渡廊下も残されていた墨書きから三仏堂と同じ、
永禄8年(1565)の再建と見られ、県の文化財に指定されています。
イメージ 6
護法権現社本殿は、江戸時代後期の再建と推定され、武内宿禰が祀られています。
イメージ 7
護法権現社の左側にある石段を上った所に鐘楼があり、上棟式の際に用いられた
木槌の墨書きから慶長13年(1608)に再建されたことが判明し、
国の重要文化財に指定されています。
袴腰の柱の配置が下層は二間x二間(各面3.33m)ですが、上層は南北面、
東面は二間ですが西面のみ、撞木を吊る関係で三間(各面3.03m)にしたと
考えられています。
イメージ 8
梵鐘は鎌倉時代のものと見られ、県の文化財に指定されています。
イメージ 9
鐘楼に隣接して如法行堂があり、堂内には「勝運・将軍地蔵尊」、
「智恵文殊菩薩」、「福徳・庚申(こうじん)尊」が安置されています。
イメージ 10
如法行堂から少し奥に進んだ山手に陀枳尼天尊が祀られたお堂があります。
かっての、稲荷明神が祀られた社殿がお堂の中に納められ、
仏教の天尊に改められました。
イメージ 11
更に奥に進んだ所に太郎坊権現社があり、長命寺の総鎮守社となっています。
イメージ 12
イメージ 13
寺伝によると、後奈良天皇の時代に長命寺にいた普門坊なる
超人的力をもった僧が、寺を守護するため大天狗に変じ、
太郎坊と称したと伝わります。
普門坊は長命寺で修行した後、京都・愛宕山の愛宕権現を祀る白雲寺に住し、
長命寺を懐かしみ愛宕山の岩を投げたのが、権現社の拝殿横の大きな岩で、
「飛来石」と呼ばれています。
イメージ 15
社殿前からは近江富士と呼ばれる三上山を正面に望むことができます。
イメージ 14
付近にある宝篋印塔。
イメージ 16
これは何でしょう?詳細は不明です。

長命寺は約1時間滞在し、16:00に山を下ります。
次回は西国三十三所・第19番の行願寺(革堂)を巡ります。

晴明神社

$
0
0
イメージ 1
10月10日、堀川通を北上して午前8:30に晴明神社に到着しました。
堀川通に面して一の鳥居が建立されています。
イメージ 2
鳥居に掛る扁額には神紋の晴明桔梗印が掲げられています。
神紋の五芒星(ごぼうせい)は、桔梗の花を図案化したもので、
陰陽道では魔除けの呪符として伝えられています。
しかし、意味するものは難解で、詳細は割愛します。

かって、この地には安倍晴明の屋敷があり、晴明は平安京・内裏の鬼門を
封じるために屋敷を設けたと伝わります。
創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、
南は中立売通に至る広大なものでした。
イメージ 3
鳥居をくぐった左側に一条戻橋の欄干の親柱が境内に移され、
橋が再現されています。
この親柱は大正11年(1922)から平成7年(1995)まで
実際に使用されていたものです。

橋の脇には式神の石像が置かれていますが、
式神は本来は人の眼には見えないそうです。
安倍晴明は式神十二体を自由に操り、
日常は一条戻橋の下に封じ込めていたと伝わります。
イメージ 4
参道を進み葭屋町通(よしやまちどおり)を横断した所に、
二の鳥居が建立されています。
鳥居に掛る社号額は、安政元年(1854)に土御門晴雄により奉納されたものを
忠実に再現し、平成29年(2017)に新調されました。
イメージ 5
二の鳥居をくぐった右側に晴明井があり、
安倍晴明の念力により湧き出たとされています。

画像は撮り忘れましたが、かってこの地に千利休の屋敷があったとされ、
晴明神社の一角に千利休屋敷跡の碑が建立されています。
千利休は晴明井の水を茶の湯に使用していたとされ、
豊臣秀吉もその茶を服したと伝わります。

井戸の上部には五芒星が刻まれた石が設置され、
星型の頂点の一つには取水口があります。
取水口の方向はその歳の恵方を向いており、恵方は毎年変わるため、
立春の日に上部の石を回転させ、その年の恵方に合わせます。
イメージ 6
イメージ 7
正面に本殿があり、現在の本殿は、明治38年に建てられました。
晴明神社は平安時代の寛弘4年(1007)に創建されました。
寛弘2年(1005)、安倍晴明が亡くなると一条天皇は、晴明の遺業を賛え、
その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。
室町時代、応仁・文明の乱で社殿は焼失し、更に安土・桃山時代には
豊臣秀吉による都市改造により社地は縮小され、古書、宝物なども散逸し、
社殿も荒れたままの時代が続きました。
幕末の嘉永6年(1853)以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、
昭和25年(1950)には堀川通に面するように境内地が拡張されました。
イメージ 8
イメージ 9
本殿の右側には末社・齋稲荷社(いつきいなりしゃ)、天満社、地主社があります。
齋稲荷社の齋とは、賀茂神社に仕える齋王が籠る場所である
齋院(さいいん)にあったことに由来します。
また、晴明は稲荷神の生まれ変わりとする説もあります。
イメージ 10
本殿の前に安倍晴明の像が建立されています。
晴明神社に保存されている肖像画を元に作成され、衣の下で印を結び、
夜空の星を見て天体を観測している姿を表しています。

安倍晴明は延喜21年(921)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれた
とされていますが、安倍文殊院では当地が生誕の地としています。

幼くして京都に移り、陰陽師・賀茂忠行保憲父子に陰陽道を学び、
天文道を伝授されたという。
第61代・朱雀天皇の信を得て仕えると、第62代・村上天皇の時代には、
天徳4年(960)に40歳で陰陽寮に所属し、天文博士から天文道を
学ぶ学生の職である天文得業生となり、50歳の頃天文博士となりました。
天元2年(979)、59歳の晴明は当時の皇太子・師貞親王
(もろさだしんのう=後の第65代・花山天皇)の命で那智山の天狗を
封ずる儀式を行いました。
熊野古道・大門坂の上部には、花山天皇にお供した安倍晴明が庵を結び、
その庵の近くにあった「晴明橋」の石材が残されています。

小右記』によると、正暦4年(993)、第66代・一条天皇が急な病に伏せった折、
晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため
正五位上に叙されたと記されています。
また、『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004)には深刻な干魃が続いたため、
晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ、雨が降り、一条天皇は
晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたことなどが記されています。

晴明の2人の息子・安倍吉昌安倍吉平(あべのよしひら)が天文博士や
陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の
賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立しました。

晴明の死後、早くも神格化され、歴史物語の『大鏡』『十訓抄』や説話集の
今昔物語集』『宇治拾遺物語』はいくつかの晴明に関する
神秘的な逸話が掲載されています。
イメージ 11
社殿前の右側には「厄除桃」の像があり、桃を撫でることによって
身を清めるとされています。

古くから桃には邪気を祓う力があると考えられ、『古事記』では、
伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、
黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させた。
伊弉諸尊はその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を
与えたと記されています。
イメージ 12
「厄除桃」の前に、樹齢約300年とされる御神木の楠が葉を繁らせています。
イメージ 13
晴明神社前の堀川通を神社から約100m南に進んだ所に一条戻橋が架かっています。
現在の橋は平成7年(1995)に架け替えられたもので、
橋の長さも幅も拡げられました。
イメージ 14
橋の上流の方には、かっての橋の面影が残されているような気がします。

戻橋と呼ばれるようになった伝承が残されています。
延喜18年(918)に漢学者・三善清行(みよしきよつら)が亡くなった際、
熊野で修行中の子・浄蔵は父の死を聞いて急ぎ帰り、
この橋の上で葬列に追い付きました。
棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、
父子が抱き合ったとの伝説から「戻橋」と名付けられました。

『平家物語』剣巻では、源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱(わたなべのつな)が、
夜中に戻橋の東詰を通りかかると、美しい女性から、
「夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしい」と頼まれました。
綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、
それを引き受け馬に乗せました。
すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へと
飛び立ちました。
綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができ、腕は摂津国渡辺
(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、
綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされています。
イメージ 15
戻橋の下には安倍晴明によって封じ込められた12名の式神が住みつき、
その式神が橋占を行う名所でもありました。
『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮・建礼門院の出産の際、
その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行いました。
このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子
(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったとされ、その予言が正しければ、
僅か8歳で壇ノ浦に入水した悲惨なものだったと思われます。

戻橋には嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が実家に戻って来ては
いけないという意味から、この橋に近づかないという慣習があり、
逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願って
この橋に渡りに来ることがありました。
イメージ 16
一条戻橋の下流には中立売通に、明治6年(1873)に架け替えられた
堀川第一橋が架かっています。
江戸時代には「御成橋」と呼ばれ、天皇の行幸路になっていました。

神仏霊場巡拝の道・第101番札所の下鴨神社へ向かいます。
続く

下鴨神社

$
0
0
イメージ 1
晴明神社から堀川通を北上し、今出川通へ右折し、河原町今出川を左折して、
その先を右折して賀茂川に架かる出町橋を渡ります。
高野川に架かる河合橋の手前を北上した所に社標と鳥居が建立されています。
下鴨神社は賀茂川と高野川の中州に位置し、縄文時代の土器や弥生時代の
住居跡が発掘されており、古くから何らかの祭礼が行われていたことが伺えます。
文書が残るものとしては、第10代・崇神天皇(すじんてんのう)7年(BC91)に
神社の瑞垣の修造の記録があり、それより以前に創建されたと考えられています。
下鴨神社は正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)といい、
山城国一宮で旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
また、世界遺産「古都京都の文化財」の1つとして登録されています。

鳥居をくぐって直進すると御陰通に突き当たります。
毎年、賀茂祭(葵祭)に先だって、五月十二日には、御蔭祭(御生神事)が
 高野川の上流、叡山電鉄の八瀬駅付近にある御陰神社で行われます。
社伝では御陰神社のある地に、下鴨神社の祭神・賀茂建角身命
(かもたけつぬみのみこと)が降臨したとされ、神霊が御陰神社から
下鴨神社へと遷されます。
その祭列が通ることから「御陰通」と名付けられました。
御蔭祭の起源は、第2代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)の
時代(BC581~BC549)と伝わります。
イメージ 2
御陰通を左折した先に表参道があり、参道入り口には「世界文化遺産」と
刻まれた石碑が建立されています。
イメージ 3
参道を進み、境内を流れる「瀬見の小川」に架かる「紅葉橋」を渡り、
鳥居をくぐった左側に三井社があります。
三井社は三塚社とも呼ばれ、社殿前に立つ駒札には「古い時代の下鴨神社は、
古代山代国・愛宕(おたぎ)、葛野郷(かずぬごう)を領有していた。
その里には下鴨神社の分霊社が祀られていた。
この社は、鴨社蓼倉郷(たてくらごう)の総(祖)社として祀られていた神社。
摂社・三井神社の「蓼倉里三身社」とは別の社。」と記されています。

鴨社蓼倉郷の現在地を特定するのは困難ですが、下鴨神社の北部に
左京区下鴨蓼倉町、東部、高野川を越えた所に高野蓼倉町の地名が残されています。

祭神は中社に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、
東社に伊賀古夜媛売命(いかこやひめのみこと)、
西社に玉依媛売命(たまよりひめのみこと)が祀られています。
伊賀古夜媛売命は賀茂建角身命の妻で、玉依媛売命は子ですが、
豊玉姫の妹ではなく、一般に巫女を差す名とされています。
イメージ 4
三井社の横にある手水舎。
イメージ 5
三井社の前に下鴨神社・第一摂社である河合神社の神門があります。
イメージ 6
イメージ 7
神門をくぐった正面に拝殿があり、その正面に河合神社があります。
正式には「鴨川合坐小社宅神社(かものかわいにいますおこべそじんじゃ)」といい、創建や変遷の詳細は不明ですが、平安時代の延長5年(927)にまとめられた
延喜式』には鴨川合坐小社宅神社と記されています。
現在の社殿は江戸時代の延宝7年(1679)に行われた式年遷宮の際に造営されました。
イメージ 8
イメージ 9
祭神は神武天皇の母である玉依姫命で、美貌の持ち主とされ、
美貌成就を願う「鏡絵馬」が多数奉納されています。
イメージ 10
河合神社の右側には貴布禰神社(きふねじんじゃ)があり、
高龗神(たかおかみのかみ)が祀られています。
高龗神は伊弉諸尊(いざなぎのみこと)の子で、水を司る神とされています。
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に、河合神社の
御垣内に祀られていたことが収載されています。
イメージ 11
左側には任部社(とうべのやしろ)「古名 専女社(とうめのやしろ)」があり、
八咫烏命(やたがらすのみこと)が祀られています。
河合神社創祀のときより祀られています。
古名の専女とは、稲女とも書き食物を司る神々が祀られていたことを示しています。
鎌倉時代末期に成立した『百練抄(ひゃくれんしょう』の
安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀され、
この時より祭神が八咫烏命に改められたと思われます。
八咫烏は、下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
化身とされ、神武東征では神武天皇を大和・橿原の地まで先導したとされています。
その後、『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の
賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と
賀茂河(鴨川)が合流する地点に鎮まったとされています。
イメージ 12
昭和6年(1931)、八咫烏命が日本の国土を開拓された神の象徴として
日本サッカー協会のシンボルマークとなって以来、サッカー必勝の守護神となり、サッカーボールが多数奉納されています。
イメージ 13
境内の左側には六社(むつのやしろ)があり、右側から
諏訪社[祭神:建御方神(たけみなかたのかみ)]、
衢社(みちしゃ)[祭神:八衢毘古神(はちまたひこのかみ)、
八衢比賣神(やちまたひめのかみ)]、
稲荷社[祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)]、
竈神(かまどのかみ)[祭神:奥津日子神(おくつひこのかみ)、
奥津比賣神(おくつひめのかみ)]、
印社(いんしゃ)[祭神:霊璽(れいじ)]、
由木社(ゆうきしゃ)[祭神:少彦名神(すくなひこなのかみ)]が祀られています。
建仁元年(1201)の第八回、新年遷宮のために描かれたとみられる
「鴨社古図」によると、河合神社の御垣内にそれぞれ別々に祀られていましたが、
江戸時代の式年遷宮のとき各社が一棟となっていました。
いずれも、衣食住の守護神です。
イメージ 14
境内の右側には鴨長明の方丈が再現されています。
鴨長明は久寿2年(1155)、下鴨神社最高位の地位にある
正禰宜(しょうねぎ)惣官(そうかん)、鴨長継(かものながつぐ)の
次男として誕生しました。
元久元年(1204)、かねてより望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の
職に欠員が生じたことから、長明は就任を望み後鳥羽院から推挙の内意も得ました。
しかし、賀茂御祖神社・禰宜の鴨祐兼(すけかね)が長男の
祐頼(すけより)を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、
神職としての出世の道を閉ざされました。
その後、長明は出家し、東山次いで大原、晩年は京の郊外・日野山
(京都市伏見区日野町)に方丈を結び隠棲し、
建暦2年(1212)に『方丈記』を著しました。
『方丈記』は、長明が庵内から当時の世間を観察し、書き記した記録であり、
日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後の『徒然草』、
『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」とも呼ばれています。
イメージ 15
河合神社の東の鳥居を出ると、北側へと馬場が伸びています。
毎年、5月3日に行われる流鏑馬神事では、勇壮に馬が駆け抜け、
馬上から的にめがけて矢が放たれます。
イメージ 16
参道へ戻ります。
境内に広がる原生林は糺の森と呼ばれ、ケヤキやエノキなどの落葉樹を中心に、
約40種・4,700本の樹木が生育しています。
下鴨神社の紅葉の見頃は、12月初旬~中旬とやや遅れぎみです。
高い広葉樹が落葉した後に、ようやく樹高が低い楓に日光が当たり、
紅葉が始まります。
かっては「紅葉橋」から糺の森を数筋の細い参道があって、
「烏の縄手」と呼ばれ、下鴨神社の七不思議として伝えられています。
縄手とは「狭い、または細い、長い道」という意味で、
八咫烏は下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
化身とされていることから、八咫烏の神様へお参りする長い参道を意味しています。
現在、その参道は姿を消していますが、一部復活されているそうです。
イメージ 17
参道を進んだ中間地点付近にある御神木は、樹皮が剥がれて
白く枯れた幹が見え、つっかえ棒によって支えられています。
イメージ 18
反対側から見ると、青々と葉を茂らせ存在感を見せつけているようです。
イメージ 19
イメージ 20
イメージ 21
更に参道を北上した右側に平安時代後期の祭祀遺構が復元されています。
ただ河原石が並べられているように見え、
どのような祭祀が行われていたのでしょうか?
イメージ 22
参道を横切る「瀬見の小川」の先に南口鳥居が建立されています。
イメージ 23
鳥居の手前、左側に無料休憩所の「おやすみ処」があります。
イメージ 24
右側に手水舎があります。
イメージ 25
手水鉢には舟形磐座石が使われ、神水を注ぐ樋には糺の森の主と呼ばれていた
樹齢600年のケヤキです。
覆屋は、第10代・崇神天皇(すじんてんのう)7年(BC91)頃、糺の森神地に
瑞垣の造り替えが行われた記録を基に再現した透塀(すきべい)です。

行きそびれてしまいましたが、手水舎の奥の方に舩島(ふなじま)があります。

鳥居をくぐります。
続く

下鴨神社-その2

$
0
0
イメージ 1
南口鳥居をくぐった左側に社務所があり、その一角に
「さざれ石」が祀られています。
さざれ石の詳細についてはこちらをご覧ください。
イメージ 2
さざれ石の北側に相生社(あいおいのやしろ)があり、縁結びの神とされている
神皇産霊神(かむむすびのかみ)が祀られています。
イメージ 3
鳥居の右側には夫婦らしき石像が置かれています。
イメージ 4
社殿横には神木の「連理の賢木(れんりのさかき)」と呼ばれる
2本の木が立っています。
下鴨神社・七不思議の一つとされ、2本の木が途中から1本に結ばれています。
イメージ 5
相生社で縁結びの祈願を行うには特別の作法があるようで、
社殿前にその方法が記されています。
イメージ 6
鳥居の正面に高さ13mの楼門があります。
楼門と東西の回廊は、江戸時代の寛永5年(1628)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
以前は21年ごとの式年遷宮で造り替えられてきましたが、
寛永の遷宮以降は解体修理を行い、保存されています。
式年遷宮は、平安時代の長元9年(1036)に第1回が行われました。
この頃、京都では天候不順による農作物の不作や鴨川の氾濫、
飢饉や疫病が蔓延し、政情不安に陥っていました。
朝廷が下鴨神社で祈願したところ沈静したことから、
成就した報恩として式年遷宮が行われました。
イメージ 7
西回廊の床張りの一間は「剣の間」と呼ばれ、賀茂祭(葵祭)の時、
勅使がここで剣を解かれます。
葵祭の起源は、欽明天皇28年(567)に天候不順で五穀が実らず、
疫病が流行したのは賀茂大神の祟りとされ、祟りを鎮めるため、
勅命により4月の吉日に祭礼を行ったのが始まりとされています。
馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)を
したところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。
弘仁10年(819)には、朝廷の律令制度として、最も重要な
恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になりました。
イメージ 8
楼門をくぐった正面に舞殿(まいどの)があり、江戸時代の
寛永5年(1628)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
葵祭の時、勅使が御祭文(ごさいもん)を奏上され舞曲・
東遊(あずまあそび)が奉納されます。
また、御所が被災したとき、臨時の内待所と定められています。
イメージ 9
舞殿の左方向に橋殿があり、江戸時代の寛永5年(1628)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
橋殿は御手洗川の上に建立されており、御陰祭では御神宝が奉安される御殿です。
古くは御戸代会神事(みとしろえしんじ)、奏楽、里神楽、
倭舞(やまとまい)が行われていました。
御戸代会神事は秋の収穫を前に五穀豊穣、天下泰平を祈願した平安時代に
行われていた神事で、現在では名月管弦祭として引き継がれています。
また、正月神事など年中祭事の際に神事芸能が奉納されます。
イメージ 10
橋殿の奥に細殿があり、寛永5年(1628)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
細殿は歴代天皇の行幸、法皇、上皇、院の御幸の行在所(あんざいしょ)です。
イメージ 11
細殿の北側には解除所(げじょしょ)があります。
解除所は、天皇の行幸や官祭などの際に解除(祓い)が行われました。
その先に続く御手洗池(みたらしいけ)では、古代から現在に至るまで
5月15日に行われる葵祭にさきがけ、斎王代御禊儀(みそぎのぎ)をはじめ、
年中祭事の樹下神事(じゅげしんじ=御祓)が斎行されます。
イメージ 12
御手洗池の奥に井上社(御手洗社)があり、
瀬織津姫(せおりつひめ)が祀られています。
瀬織津姫は、水神や祓神であり、人の穢れを早川の瀬で浄めるとされています。
元は唐崎社と呼ばれ、高野川と賀茂川の合流地の東岸に鎮座していましたが、
文明の乱により文明2年(1470)に焼失したため、
文明年間(1592~1596)に現在地に再建されました。
井戸の井筒の上に祀られたことから井上社と呼ばれるようになり、
寛永年度(1692)に行われた式年遷宮より官営神社となりました。
土用の丑の日に足つけ神事が行われ、土用になると御手洗池から
清水が湧き出ることで七不思議の一つに数えられています。
池底から自然に湧き上がる水泡をかたどったのがみたらし団子の発祥と伝わります。
イメージ 13
御手洗池から流れ出る御手洗川には「輪橋(そりはし)」が架かり、
橋の手前には鳥居が建立されています。
イメージ 14
舞殿前まで戻り、正面にある中門をくぐると、本殿前の前庭に干支の
守り神を祀った七つの小さな社があります。
いずれも大国主命の別名で、言霊の働きによって呼び名が変わります。
イメージ 15
門の正面に当たる所に向かい合わせの一言社の社殿があり、
左側には顕国玉神(うつしくにたまのかみ)が祀られ、
午年生まれの守護神とされています。
右側には大国魂神(おおくにたまのかみ)が祀られ、
巳・未年生まれの守護神とされています。
イメージ 16
境内の右側に二言社(ふたことしゃ)があり、むかって右側には大国主神が祀られ、子年生まれの守護神とされています。
左側には大物主神が祀られ、丑・亥年生まれの守護神とされています。
イメージ 17
境内の左側に三言社(みことしゃ)があり、向かって右側には
志固男神(しこおのかみ)が祀られ、卯・酉年生まれの守護神とされています。
中央には大己貴神(おおなむちのかみ)が祀られ、
虎・犬年生まれの人の守護神とされています。
左側には八千矛神(やちほこのかみ)が祀られ、
辰・猿年生まれの人の守護神とされています。

本殿は東本殿と西本殿があり、東本殿には玉依姫命(たまよりひめのみこと)、
西本殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祀られています。
玉依姫命は賀茂建角身命の御子神で、鴨川で禊をしていた時、
上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床に置いていました。
丹塗矢は、火雷神(ほのいかづちのかみ)の化身であり、後に
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと=上賀茂神社の祭神)を出産しました。
下鴨神社が賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と称されるのは、
上賀茂神社の祖父と母を祀ることによるものです。

西本殿の左側に印璽社(いんじしゃ)があり、霊璽(れいじ)が祀られています。
印璽とは印形のことであり、古くより印は宮廷や社寺において
貴重な秘印として扱われ、それが次第に神格化されていきました。
現在では、契約の神として、大切な契約の時、
物事を成功裏に結び付けたいなどの信仰を集めています。

本殿の左側にある摂社・三井神社へ向かいます。
続く
Viewing all 497 articles
Browse latest View live




Latest Images