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赤山禅院

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大超寺から叡山電鉄の八幡駅前まで戻り、白川通を南進して、
音羽川沿いに東へ進み、修学院の集会所前を左折して、
道なりに進んだ先に赤山禅院の石鳥居が建っています。
赤山禅院は神社ではなく、延暦寺の塔頭で天台宗の寺院です。
鳥居に掛る「赤山大明神」の扁額は、後水尾天皇が修学院離宮行幸に際し、
賜ったものです。

赤山禅院は、平安時代に慈覚大師円仁の遺命により、仁和4年(888)に
天台座主・安慧(あんえ)によって創建されました。
円仁は最後の遣唐使として唐に留学し、遣唐使一行と離れて滞在した
赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したのですが、果たせないままに没しました。
安慧は、陰陽道の主祭神でもある泰山府君(たいざんふくん)を勧請して
赤山禅院を創建したと伝わります。
かってこの地には南淵年名(みなみふちのとしな)が、晩年に営んだ
「小野山荘」がありました。
貞観19年(877)に南淵年名はその山荘で、日本初の音楽歌舞の遊宴である
尚歯会(しょうしえ)」を催しました。
尚歯会は、もとは845年、中国(唐)で白居易(はくぎょい)が催した
故事が起源で、最高齢の主人を含む7人の高齢者が招かれ、
あるいは集まり、詩賦(しふ)、あるいは和歌を楽しんだとされています。
「尚」はとうとぶ、「歯」は、年歯、年齢を表し、敬老の集まりの意味があります。
南淵年名の没後、延暦寺が山荘を買収して赤山禅院を創建しました。
境内には「小野山荘旧跡」と「我邦(国)尚歯会発祥之地」の石碑が建っています。
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参道は緩い坂道なっており、坂道を登って行くと山門があります。
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参道の突き当りの左側に石段があります。
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石段を上った正面に拝殿があります。
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屋根の上には御幣とかぐら鈴を持ち、皇城(京都御所)を守護している
猿像が祀られています。
十二支で鬼門(丑寅)と反対の方角が未申であることから、
猿の像が鬼門避けとして祀られています。
かつて夜な夜な悪さをしたため、逃げ出さないよう金網の中に
入れられていると言われます。
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本殿には安慧によって勧請された泰山府君が赤山大明神として祀られています。
内裏の表鬼門の方角に当たり、皇城守護の寺として皇室から信仰されてきました。
本殿には「皇城表鬼門」の木札が掲げられています。
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正念誦
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還念珠
本殿の前に大きな数珠の輪があります。
こちらは「正念誦(しょうねんじゅ)」といい、境内の順路に従って進むと
出口付近にあるのが「還念珠(かんねんじゅ)」と名付けられています。
正念誦をくぐりながら、心にうかんだ願いについて、境内を参拝する間思い続け、
還念珠をくぐる時、その願いが大切だと考えるなら、
その願いに向け努力することを誓います。
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雲母(きらら)不動堂は、廃寺となった雲母寺の本堂が移築されました。
雲母寺は比叡山への登山口、雲母坂の音羽谷に平安時代末期の
元慶年間(877~884)に創建されました。
本尊は伝教大師最澄作の不動明王立像でしたが、明治18年(1885)に廃寺となり、
本堂と本尊は赤山禅院に遷されました。
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不動堂の脇には昔の消火用手押しポンプが置かれていました。
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境内の東側に山手へと登る石段があり、その脇に滝行場があり、
滝不動が祀られています。
残念ながら外からは滝行場が望めないので、撮影は諦めました。
石段を上ると、正面に相生社があります。
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左側へ進むと歓喜天が祀られています。
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更に左へ進んだ所に金神社があり、鬼門方除けの神とされています。
鬼門思想は中国から伝来し、古代の中国では北東方角を鬼門と呼び、
異界の鬼が人間界と行き来する出入り口があると考えられていました。
日本では陰陽道の思想を取り入れ、北東の艮(うしとら)とは、
北方の陰から東方の陽へと転ずる急所とされ、畏れられてきました。
金神(こんじん)は、方位神の一つであり、鬼門を護る神とされています。
艮の金神は「久遠国」という夜叉国の王である、巨旦大王の精魂とされています。
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金神社の右側には、手前から十禅士権現、住吉大明神、新羅(しんら)大明神、
賀茂大明神、平野大明神、西宮大明神、松尾大明神が祀られています。
慈覚大師円仁は、遣唐使として唐に留学したのですが、
請益僧(しょうやくそう)として短期間の留学しか認められていませんでした。
唐の皇帝へ唐への留住を何度も願い出たのですが認められず、
そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒し、不法在唐を決意しました。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高(ちょうほこう)をはじめとする
多くの新羅人海商が活躍していました。
円仁は張宝高が設立した赤山法華院に滞在し、張宝高は円仁の
9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援しました。
円仁の没後の延長2年(924)に新羅神社は創建されました。
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金神社の左側には八幡大菩薩、天照皇大神宮、春日大明神が
祀られた社殿があります。
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金神社から下ると放生池があります。
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池の淵を進んだ先に福禄寿殿があります。
都七福神めぐりの福禄寿、神仏霊場・第107番の朱印所になります。
福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、
三体一組の神でした。
中国では、明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた
「三星図」を飾る風習があります。
「三星図」はさまざまな形態で描かれ、日本人には二物を伴った
一人の神に見えたため、日本では福禄寿を三人ではなく一人の神格とする
認識が流布したと考えられています。
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福禄寿殿の左側には、七福神の像が祀られています。
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福禄寿殿から左側へ進んだ先に稲荷社があります。
手前の小さな社殿にも狐の像が祀られています。
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本殿の左側に弁天堂があります。
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弁天堂の左側に十六羅漢の石像が祀られています。
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十六羅漢像の右側に三十三観音像が祀られています。
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十六羅漢像から左奥の方向に地蔵堂があります。
赤山禅院では、赤山大明神は地蔵菩薩の化身であるとされています。
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地蔵堂の左側の建物には、たくさんのわらじが吊るされています。
比叡山の千日回峰行は、7年間にわたって行われ、5年700日を満行すると、
最も過酷とされる「堂入り」が行われます。
堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる
阿闍梨となり、行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入ります。
6年目からはこれまでの行程に赤山禅院への往復が加わり、
1日約60kmの行程を100日続けられます。
7年目には200日行い、はじめの100日は全行程84kmにおよぶ京都大回りで、
後半100日は比叡山中30kmの行程に戻ります。
京都大回りでは、行者は深夜2時に無道寺谷を出て比叡山中30kmの山廻りを
行った後に明王堂に戻り、それから雲母坂を下って赤山禅院へ入ります。
赤山禅院ではわらじを履き替え、
お加持を行った後に京都市内の神社仏閣を巡拝します。
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境内では紅葉と早咲きの桜を愛でることができました。

神仏霊場・第108番及び近畿36不動尊霊場・第17番札所である
曼殊院へ向かいます。
続く

曼殊院(まんしゅいん)

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赤山禅院から修学院離宮の門前を通り、突き当りを左折して山手へ向かって
緩やかな坂道を登り、突き当りを右折した先に曼殊院があります。
天台宗の門跡寺院で天台五門跡の1つに数えられています。
北側にある通用門から出入りしますが、西側には勅使門があります。

寺伝では延暦年間(728~806)に伝教大師最澄が比叡山上に営んだ一坊が
その起源とされています。
天暦年間(947~957)、是算国師(ぜさんこくし)の時、比叡山三塔のうちの
西塔北谷に移り、東尾坊(とうびぼう)と称しました。
是算国師は菅原氏の出身であり、北野天満宮が造営されると初代別当職に補され、
以後明治維新まで900年間、曼殊院は北野別当職を歴任しました。

天仁年間(1108~1110)、門主・忠尋の時に、北野天満宮を管理するために、
さほど遠くない北山(現・京都市右京区)に別院を建て、
寺号は「曼殊院」と改称されました。
しかし、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)造営のため移転を余儀なくされ、
康暦年間(1379~1381)に相国寺の南方へ移りました。

明応4年(1495)頃、伏見宮貞常親王の王子で後土御門天皇の猶子(ゆうし)である
大僧正・慈運法親王が26世門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族が
門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立しました。
また、道豪が第146代天台座主に就くと、その後も近世まで6名が就任しました。
寛永11年(1634)、八条宮智仁(としひと)親王の第二皇子・
良尚法親王が入寺されました。
桂離宮は八条宮家の別邸であり、八条宮初代・智仁親王によって造営されました。
良尚法親王は、寛永9年(1632)に後水尾天皇の猶子となり、
後水尾天皇が承応4年(1655)に修学院離宮を完成させると、
明暦2年(1656)その付近である現在地へと曼殊院を移転しました。
現存する建物の多くや作庭はこの時期の造営と見られ、
良尚法親王は中興開山と言われています。
良尚法親王は、曼殊院を造営するに当たり、桂離宮を完成させた
兄の智忠親王の助言を得て完成されたことから、
曼殊院は「小さな桂離宮」とも呼ばれています。
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拝観は600円を納めて北側の通用門から入ります。
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庫裡から大玄関へと渡る廊下の左側に小さな石庭が築かれています。
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廊下には谷崎潤一郎氏が寄贈された鐘が吊るされています。
谷崎潤一郎とは、氏が「少将滋幹の母」を執筆するにあたり、
曼殊院・第三十九世山口光円門主に天台の教学を学び、作中に描いた
という縁があります。
また、母の法要も曼殊院で行いました。
この鐘は法要の準備や開始の合図に使われています。
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小書院では現在工事が行われていました。
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小書院と大書院の南側にある庭園は小堀遠州の作とされていますが、
遠州は曼殊院の当地移転以前の正保4年(1647)に亡くなり、
実際の作庭者はその弟子とみられています。
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鶴島
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亀島
深山からの渓流が、鶴島と亀島のある大河となっている様子が
表された枯山水式の庭園です。
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大書院から大玄関へと戻る廊下の左側には宸殿再建予定地と記されています。
宸殿にはかって、本尊が安置され本堂の役割を果たしていましたが、
明治5年(1872)、京都府療病院(京都府立病院の前身)建築時に寄付され、
本尊などの仏像は大書院の仏間に遷されました。

建物内は撮影が禁止されているため、建物内の様子をメモしておいたのですが、
紛失したため後日、再度訪問して詳細を再掲したいと考えています。
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勅使門の西側に弁天池があり、弁天島へと渡る石橋が架けられています。
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島には弁財天社と天満宮があります。

洛陽十二支妙見の寅(東北東)で、「修学院の妙見さん」と呼ばれる
道入寺へ向かいます。
続く

道入寺

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曼殊院から元来た道路を戻り、関西セミナーハウス前を音羽川沿いまで直進します。
音羽川沿いに下って行った左側に道入寺があります。
山号を法華山と号する日蓮宗の寺院です。
日長上人を開山として正保3年(1646)に創建されました。
日長上人は、音羽川の上流で苦行を行い、この地にとどまって
道入寺を創建したと伝わります。
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山門をくぐった正面に玄関があり、玄関前には「福寿寅」の
焼き物が置かれています。
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左側に本堂があり、山号「法華山」の扁額が掲げられています。
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本堂前の南側に妙見堂があり、洛陽十二支妙見・第3番(寅)の
札所本尊となっています。
この妙見像は、昭和54年(1979)に当時の住職が発見した像高20cmの坐像で、
左手に数珠を持つ僧形をした珍しい像とされています。
台座には七面天女像が祀られています。

都七福神めぐり・第1番札所である松ヶ崎大黒天へ向かいます。
続く

松ヶ崎大黒天

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道入寺から音羽川沿いに下り、白川通を左折して二つ目の信号を右折します。
叡山電鉄の修学院駅前の踏切を越え、高野川に架かる橋を渡った先で、
斜めに右折し、用水路沿いに進んで右側に入った先に松ヶ崎大黒天があります。
松ヶ崎大黒天は正式には、山号を松崎山、寺号を妙円寺と号する日蓮宗の寺院です。
鎌倉時代末期の永仁2年(1294)、日蓮上人の弟子である日像上人が、
日蓮の遺命を受け、京都での日蓮宗の布教を行いました。
松ヶ崎集落は、逸早く教化された集落であり、徳治元年(1306)には集落の住民は
一村あげて改宗し、「松ヶ崎法華」とまでいわれるようになりました。
当時、集落にあり天台宗の寺院だった歓喜寺の住持も日像に帰依して
日蓮宗に改宗し、寺名を妙泉寺と改称し、京都での日蓮宗の寺院としては
最も古い一つとなりました。
しかし、延暦寺の迫害を受け、門徒により集落が焼き払われ、
日像上人は徳治2年(1307)に京都から追放されました。
日像上人はその後赦免され、後醍醐天皇より寺領を賜り、上京区に妙顕寺を創建しましたが、伏見区の宝塔寺で荼毘に付され、その廟があります。
天正2年(1574)には松ヶ崎檀林・本涌寺が創建されました。
檀林とは、近世初頭に日蓮宗教団が宗内僧侶の養成のために設けた学問所のことで、松ヶ崎檀林は数ある洛陽檀林で最古となります。
元和2年(1616)、妙円寺は本涌寺内に日英上人の隠居所として開創されました。
尚、妙泉寺は本涌寺に大正7年5月14日に合併され、涌泉寺(ゆうせんじ)と
改称し、現在でも妙円寺の北西にあります。

参道の入り口には石造りの鳥居が建っています。
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参道を進むと、背後には五山送り火の一つである「妙」「法」の
「法」の字が見えます。
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参道の突き当りには白雲稲荷神社の鳥居が建っています。
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松ヶ崎大黒天への参道は鳥居の手前から斜め方向へと進みます。
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その先で参道はY字形となり、手前の参道を進むと山門があります。
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奥の方へと向かう参道を進むと鳥居が建っています。
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鳥居をくぐって石段を上るとこちらにも山門があり、狛犬が門番をしています。
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山門をくぐった右側に絵馬堂があります。
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絵馬堂の向かいにコンクリート造りの本堂がありますが、撮り忘れてしまいした。
本堂には「妙園精舎」の扁額が掲げられています。

本堂前には宗祖・日蓮上人の説法像が建立されています。
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上人像の右側には石仏が祀られています。
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本堂の右側に大黒堂があり、都七福神めぐり・第1番の札所本尊である
大黒天像が安置されています。
大黒天像は伝教大師最澄作とされ、日蓮上人によって開眼され、
開基・日英上人の感得にて鎮座されたと伝わります。
大黒堂は文化2年(1805)に建立され、明治34年(1901)には改築が施されましたが、昭和44年1月20日に信者の献灯により焼失しました。
大黒天像は無事に救出され、以後「火中出現 火伏守護の大黒さま」として
崇拝されるようになりました。
大黒天像は年約6回の甲子大祭(60日に1回)の前夜7時に開帳され、
加持祈祷が厳修されます。
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大黒堂の右側には水子観音像が祀られています。
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観音像から右側に進むと釈迦如来像が祀られています。
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境内の東側に白雲稲荷神社(しらくもいなりじんじゃ)があります。
拝殿は御所にあった能楽殿が移築されました。
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伝承によると、寺の北西、西参道の登り口に井戸があり、子狐がその井戸に落ちて
命を落としました。
親狐が現れ、「今後、井戸を掘ってはならない。
代りにこの井戸は涸らさない。
もし他に井戸を掘れば、その家には災いが起こる」と告げました。
以後、東松ヶ崎の17軒は大正15年(1913)に水道が敷かれるまで、この井戸を
生活用水として使用していました。
また、境内の東南には「牛の宮」が祀られ、牛の飼育も禁止されていました。
農家は牛の代わりに馬を飼い、昭和39年(1964)まで参道には馬場があり、
祭礼には競馬が奉納されていました。
現在、「牛の宮」は稲荷神社に合祀されています。

紀貫之は「たなひかぬ 時こそなけれ 秋も又 松ヶ崎より 見ゆる白雲」と
歌を残しています。

次回は西国三十三所観音霊場の京都市内で残された清水寺~六波羅蜜寺を巡ります。

清水寺

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11月28日、早朝6時に清水寺の開門時に合せて到着しましたが、まだ暗いです。
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明るくなった下山時の画像と併せて掲載します。
仁王門前の左側に善光寺堂があります。
善光寺堂は清水寺の塔頭の一つで、鎌倉時代以前からこの地にあり、
地蔵菩薩を祀る地蔵堂でした。
その後、如意輪観音像が併祀され「地蔵院」となり、明治になって神仏分離令
による境内の整理が行われ、奥の院南庭にあった善光寺如来堂を合併されました。
善光寺如来堂に安置されていた善光寺型阿弥陀三尊像が遷されたことから、
「善光寺堂」と称されるようになりました。
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堂内中央には如意輪観音像が安置され、洛陽三十三所観音霊場・
第十番札所本尊となっていますが、納経は清水寺の納経所で行います。
左側に旧本尊であった地蔵菩薩像、右側に善光寺阿弥陀三尊像が安置されています。
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善光寺堂前の小堂があり、首が回転する地蔵尊が祀られていることから
「首振り地蔵」と呼ばれ、清水寺七不思議の一つに数えられています。
かって、祇園の幇間(ほうかん)であった鳥羽八が座敷の合間を縫って、
自らの姿を彫り、生形見(いきがたみ)の地蔵として奉納されたと伝わります。
思う人の方向に首を回転させて祈願すると願い事が叶うと、江戸時代から
信仰され、恋愛成就や首が回らない借金苦に御利益があるとされています。
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仁王門の手前、左側に馬駐(うまどめ)があり、日本最古の遺構として、
国の重要文化財に指定されています。
馬に乗って来た身分の高い公家や武士もここに馬を繫ぎ、
ここからは徒歩で参詣しました。
現在の建物は応仁の乱後の慶安2年(1649)に再建されたもので、
5頭の馬が繋げる規模の大きさがあり、しかも馬駐の遺構としては
全国的にも珍しいものです。
間口は三間(10.5m)、奥行き二間(5.1m)、高さ5.2mの大きさがあります。
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柱には馬の手綱を繫いでおくための鐶(かん)という金具が横向きに
取り付けられていますが、2か所だけ下向きに取り付けられ、
清水寺の七不思議の一つとなっています。
1か所は右側の柱の右下で、もう1か所は判りませんでした。
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清水寺では平成20年から平成大修理が行われ、馬駐は平成22年に完成しています。
現在は本堂や西門屋根の葺き替え工事が行われ、
その模型が馬駐に展示されています。
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仁王門の前にある狛犬は、東大寺南大門にある狛犬を模して造られたとされ、
どちらも口を開けた阿形の像で、清水寺七不思議の一つに数えられています。
元々は金属製の阿形、吽形像でしたが、戦時供出され、現在の狛犬は
昭和19年(1944)に信者団体により寄進されました。
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仁王門は応仁の乱で焼失し、その後、室町時代に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
朱塗りされていることから「赤門」とも呼ばれる八脚三間一戸の楼門です。
横幅9.9m、奥行き8.4m、高さ14mの堂々たる門です。
また、仁王門は「目隠し門」との別名があります。
高台にある清水寺から御所を見下ろすことができないように
仁王門が建てられたとされています。
画像を取り忘れましたが、仁王門の南西の柱の腰貫がへこんでいます。
腰貫をたたくと、対角にある腰貫に音が伝わり、「カンカン」と聞こえるそうで、
多くの人にたたかれ、へこみとなって残されています。
この腰貫は「カンカン貫」とも呼ばれていますが、
重要文化財なので試すのは控えた方が良いと思ます。
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左右には仁王像が安置されていますが、少々見難いです。
室町時代の文明元年(1469)に焼失し、後再造され、江戸時代の
寛永6年(1629)の大火では焼失は免れましたが、補修されています。
像高365cmあり、京都に現存する仁王像としては最大の像です。
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仁王門をくぐって右側に進むと西門(さいもん)への石段がありますが、
西門は現在工事中で立ち入ることはできません。
西門は平安時代に建立され、現在の門は寛永6年(1629)に発生した大火後の
寛永8年(1631)に再建されました。
三間一戸、丹塗りの八脚門で横幅8.7m、奥行き3.9m、高さ4mの単層の門です。
右に持国天像、左に増長天像が安置され、二躰は共に像高が2.2mで
南北朝時代の作とされています。
西門からは西山に沈む夕日が望め、日想観の聖所となっています。
日想観とは、まさに沈もうとしている夕日を見つめ、心を堅くとどめて
乱すことなく、一すじに想いつめて他のことに触れず、阿弥陀如来の
浄土を想念(そうねん)する観法(かんぽう)です。
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石段の右側に「念彼観音力」碑が建立されています。
観音経には、「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」という
経文が 13回出てきます。
観音様の力を念じれば、いろいろな危険や苦しみ、困難から解放されるという
13個の例え話が説かれています。
観世音菩薩は、助けを求める衆生の声(世間の音=世音)を観じとって、
33種に姿を変え、六世間(地獄・餓鬼・畜生・修羅(しゅら)・人(にん)・
天)の衆生を救済するために、広大な慈悲の心を誓われました。
この碑は清水寺・中興開山とされる大西良慶和上の筆によるものです。
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左側には「祥雲青龍」像が建立されています。
清水寺では毎年、3月14日、3月15日、4月3日、9月14日、9月15日に
清水寺で行われる青龍会(せいりゅうえ)が行われています。
青龍会が始まってから15年目に当たる平成27年(2015)12月に
祥雲青龍像が建立されました。
龍は観音様の化身とされ、清水寺では龍が音羽の瀧に夜ごと飛来して
水を飲むという伝承が残されています。
青龍会では、長さ約18mの青龍を先頭に、荘厳な装束に身を包んだ一行が
地域守護と除災を祈願して境内と門前町を巡行します。
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仁王門から石段を上った左側に鐘楼があります。
江戸時代初期の慶長12年(1607)に現在の場所に移築・再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
鐘楼は通常は4本の柱で支えられていますが、この鐘楼には6本があり、
七不思議の一つに数えられています。
一説では創建当初の梵鐘が、大きくて重く、4本の柱では支えられなかった
とされいますが、本当の理由は定かではありません。
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4代目となる梵鐘は、室町時代の文明10年(1478)に鋳造され、
国の重要文化財に指定されていました。
4代目の梵鐘は劣化が原因で保存され、現在の梵鐘は
平成20年(2008)に再鋳された5代目で、高さ約2.1m、
口径約1.2m、厚さ約13㎝、重さ約2,365kgとなります。

改めて境内図を見てみると鐘楼の東側に水子観音堂が描かれていますが、
見過ごしました。
平成30年4月より西国三十三所の2巡めを始める予定ですので、
次回はしっかりと確認します。
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鐘楼の先参道は南へと直角に曲がり、突き当りに随求堂(ずいぐどう)があります。
塔頭・慈心院の本堂で、大随求菩薩を本尊としていますが秘仏です。
江戸時代の享保3年(1718)に再建されたもので、正面最上部の
妻には鏝(こて)を使った鏝絵の雲龍意匠が施されています。
大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)は、観音菩薩の変化身とされ、
衆生の求めに対して自在に願いを叶えてくれると言われています。
随求堂には地下へと下る階段があり、暗闇の中で数珠を頼りに巡る
「胎内めぐり」が体験できます。
本尊の真下には、大随求菩薩の梵字が刻まれた石があり、
闇の中に浮かび上がります。
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随求堂から右手の短い石段を上った右側に三重塔があります。
三重塔は平安時代の承和14年(847)に、桓武天皇の第十二皇子・
葛井親王(ふじいしんのう/かどいしんのう)の勅命により創建されました。
兄である嵯峨天皇の皇子誕生に清水寺本尊の千手観音菩薩の
霊験があった事により奉じたとされています。
その後、幾度かの焼失が繰り返され、現在の塔は江戸時代の寛永9年(1632)に
再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
昭和62年(1987)に解体修理が行われ、鮮やかな色彩が現在でも残されています。
高さは約31mあり、国内最大級の三重塔で、市内からもよく望め、
古くから清水寺のシンボル的な存在となっています。

内部中央には東向きに大日如来像が安置され、四方の壁には真言八祖像が、
さらに天井や柱には密教仏画や飛天、龍などが極彩色で描かれています。
三重塔の南東の鬼瓦には龍が使われています。
龍神は水の神とされ、火伏・魔除けのために置かれているとされ、
清水寺七不思議の一つにもなっています。
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三重塔の前に地蔵菩薩の石仏とその右側に石灯籠があり、
「かげきよつめがたくわんぜおん」と刻まれた石碑が建っています。
石灯籠の火袋の中には、線彫りの小さな観音像が祀られているそうですが、
内部は暗く確認はできませんでした。
この観音像は壇ノ浦の合戦で捕らえられた平家の武将、
平景清(たいらのかげきよ)が獄中にいる間、自分の爪で石に観音様を彫り、
清水寺に奉納されたものだと伝えられています。
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三重塔から角を曲がった所に経堂があり、国の重要文化財に指定されています。
平安時代中期には一切経を所蔵し、全国から学問僧が集まる講堂として
栄えましたが、それ以降は記録から消え、一切経も現在は残されていません。
現在の建物は寛永10年(1633)に再建され、
平成12年(2000)に解体修理が行われました。
堂内須弥壇には釈迦三尊像、愛染明王像、宝塔が安置され、
鏡天井に江戸時代の絵師・岡村信基筆の墨絵の円龍が描かれています。
毎年2月15日の涅槃会はここで行われ、当日は縦約391cm、
横約303cmの大涅槃図が掲げられます。
この涅槃図は狩野派の絵師・山口雪渓が宝永4年(1707)から2年半を
かけて描いたと伝わります。

経堂の先に拝観受付があり、入山料400円を納めて轟門(とどろきもん)へと
向かいます。
チケットは轟門でチェックされ、一度下ってしまっても、
当日であれば再度、轟門から入ることができます。
続く

清水寺-その2

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経堂の先に田村堂(開山堂)があります。
奈良時代の末期、奈良の子島寺で修行を積んだ僧・賢心(後に延鎮と改称)は、
ある夜、夢に白衣の老翁があらわれ「北へ清泉を求めて行け」との
お告げを受けました。
延鎮(えんちん)は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で
清らかな水が湧出する瀧を見つけ、老仙人と出会いました。
老仙人は、行叡居士(ぎょうえいこじ)と言い、この瀧のほとりで
草庵をむすび修行をしていました。
行叡居士は延鎮に観音力を込めたという霊木を授け
「あなたが来るのを待ち続けていた。
どうかこの霊木で千手観音像を彫刻し、この観音霊地を守ってくれ」と
言い残して姿を消したといいます。
延鎮は「行叡居士は観音の化身だ」と悟り、
以後、音羽山の草庵と観音霊地を守りました。
それから2年後の宝亀11年(780)、鹿狩りに音羽山を訪れた
坂上田村麻呂が音羽の瀧で延鎮と出会います。
田村麻呂は、身籠った妻・高子のために、鹿の生き血が効くと聞き、
鹿狩りをしていました。
延鎮は坂上田村麻呂に観音霊地での殺生を戒め、観世音菩薩の功徳を説きました。
延鎮の安産祈願により高子は無事に出産し、
また、教えに深く感銘を受けた田村麻呂は、十一面千手観世音菩薩像を
祀るために自邸を本堂として寄進しました。

田村麻呂は、後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられ、
若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て
戦いに勝利し、無事に都に帰ることができました。
延暦17年(798)、田村麻呂は延鎮と協力して本堂を大規模に改築し、
観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を安置しました。
田村堂の堂内、中央の須弥壇上の厨子には坂上田村麻呂夫妻像が安置され、
併せて清水寺開基・行叡居士と開山・延鎮上人が奉祀されています。

現在の建物は寛永10年(1633)に再建、平成18年(2006)に修復されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
繧繝彩色(うんげいさいしき)という手法が施され、丹塗りの柱と屋根を
つなぐ組み物は、朱や緑など五色で彩られています。
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田村堂の先に轟門(とどろきもん)があり、その前には石橋が架かっています。
かっては轟川が流れていたそうですが、現在、その流れは無く、
七不思議の一つに数えられています。
橋は清水寺の口を象徴し、橋の中央の木板は舌、
両側の石の部分は歯を表しています。
橋の左側には手水鉢があり、画像はありませんが、中央の仏をはさんで
四隅にふくろうの浮き彫りが施されています。
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手水鉢の左側に朝倉堂があり、国の重要文化財に指定されています。
越前の守護大名・朝倉貞景の寄進により、「法華三昧堂」として
永正7年(1510)に創建されました。
創建当初は朱が鮮やかな舞台造りでしたが、寛永6年(1629)の大火で焼失した後、
崖が埋め立てられました。
整地の際に石函(いしはこ)が出土し、中から約7寸(約22cm)の金色の
清水型千手観音像が発見され、現在は成就院の本尊として祀られています。
寛永10年(1633)に朝倉堂として、現在の姿である全面白木造りに再建され、
平成25年(2013)に解体全面修復されました。
堂内の宝形作り唐様厨子の内部には、本堂と同様に清水寺型千手観音、
毘沙門天、地蔵菩薩の三尊像が安置され、洛陽三十三所観音霊場・
第十三番札所となっていますが、納経は清水寺の納経所で行います。
また、絶対秘仏とされる「文殊菩薩騎獅像(もんじゅぼさつきしぞう)」が
安置されています。
もとは地主神社の本地仏として、地主神社の本殿で祀られていたのですが、
明治の神仏分離令により清水寺に遷され、朝倉堂に安置されるようになりました。
朝倉堂は通常非公開です。
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朝倉堂には「補陀殿」の扁額が掲げられています。
「補陀落山(ふだらくさん)」にあるとされる「観音菩薩が座する宝殿」という
意味合いが込められた扁額であると伝えられています。

現在は本堂の修復工事が行われているため、奥へ立ち入ることが出来ませんが、
奥のほうに仏足石があります。
「平景清の足形石」とも「弁慶の足形石」とも呼ばれています。
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朝倉堂から北へ進むと池があります。
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池の中には島があり、島には弁天堂があります。
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轟門へ戻ります。
画像はありませんが、門の正面には左右両脇に持国天と広目天、
背面には阿・吽形の狛犬が安置されています。
但し、この門で拝観券がチェックされ、本堂へと向かう人々が通り過ぎて
行きますので、ゆっくりと鑑賞はできないようです。
轟門には、「釈迦如来の教えが獅子が吼えるように四方八方に轟く」という
意味が込められています。
轟門が何時頃創建されたかは定かでありませんが、現在の門は
寛永6年(1629)の大火後、寛永8~10年(1631~33)に再建されました。
東大寺の転害門を模して建立されたと伝わり、国の重要文化財に指定されています。
寛永の大造営は、第3代将軍・徳川家光の寄進により大火で焼失した
伽藍のほとんどが復元されました。
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轟門から朝倉堂の前を回廊が続き、回廊を進んだ先に長さ約30cm、
重量12kgの鉄下駄が展示されています。
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鉄下駄の背後には2本の錫杖(しゃくじょう)が立てられています。
錫杖の大きい方は長さ2.6m、重量96kg、小さい方は長さ176cm、
重量17kgあります。
鉄下駄と錫杖は弁慶の持ち物だったとの伝承が残されています。
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回廊はその先で右に曲がり、更に左へ曲がって本堂の前に続きます。
左へ曲がったところに、室町時代作で像高113cmの
出世大黒天像が安置されています。
かって、五条大橋(現在の松原橋)の中島にあった大黒堂の
本尊であったと伝わります。
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本堂-全景(但し工事中)
平安時代になると、桓武天皇は新寺建立禁止令を発布し、
平安京内に東寺と西寺の二官寺以外の新寺の建立は禁止されました。
清水寺は平安時代以前に建立された坂上田村麻呂の私寺として、
例外的に存続が認められました。
延暦24年(805)、太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜って桓武天皇の
御願寺となり、弘仁元年(810)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、
「北観音寺」の寺号を賜りました。

清水寺の伽藍は康平6年(1063)の火災以来、近世の寛永6年(1629)の焼失まで、
記録に残るだけで9回の焼失を繰り返しました。
平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺の
南都北嶺」の争いにも、たびたび巻き込まれ、
延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡しています。
現在の本堂は寛永6年(1629)の火災後、寛永10年(1633)に徳川家光の
寄進により再建されたもので、国宝に指定されています。

本尊の十一面千手観世音菩薩像は、42本の手のうち、左右各1本を頭上に
伸ばして組み合わせ、化仏(けぶつ)を捧げ持つ特殊な形式の像で
「清水寺形千手観音」と呼ばれています。
33年に1度開扉の秘仏とされ、秘仏本尊を模して造られた
「お前立ち像」が安置されています。
脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵菩薩像は、鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、
剣を持つ特殊な形の像です。
その左右に室町時代から江戸時代作の「二十八部衆立像」が並んでいます。
二十八部衆は千手観音に従って仏教と、その信者を守るとされ、
二十八部衆のそれぞれに500名の部下を持って本尊を守護しています。
また、毘沙門天像の厨子の左右には風神・雷神像が安置されています。
本尊の十一面千手観世音菩薩像は、西国三十三書観音霊場・第16番、
洛陽三十三所観音霊場・第12番の札所本尊でもあります。
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本堂の舞台のすぐ下に音羽の瀧があります。
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音羽の瀧の真上には奥の院があります。
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遠くに子安塔が望めます。

画像はありませんが、本堂の東側には「堂々巡り筋痕」が残されています。
かって、お百度、お千度の堂々巡りの際に、闇の中で長押しに数珠を当て、
それを手掛りとしてお参りした痕跡ですが、
弁慶が指で付けたとの伝承も残されています。

本堂を出た左側に地主神社があります。
続く

清水寺-その3

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地主神社(じしゅじんじゃ)は社伝によると、
その歴史は神代までさかのぼるとされています。
太古、京都盆地は湖でした。
地主神社の鎮座する辺りは、古来「蓬莱山(ほうらいさん)」と呼ばれ、
不老長寿の霊山として信仰を集めていたと伝わります。
清水寺が創建されると、鎮守社として地主神を祀る「地主権現社」と
呼ばれるようになります。
明治の神仏分離令により清水寺から独立して、「地主大明神」と改められ、
その後「地主神社」と改称されました。
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地主神社への石段を上って行くと、大国主命と因幡の白兎像が祀られています。
大国主命によって助けられた白兎は、「あなたこそが八上比売(やかみひめ)と
結ばれるでしょう」と告げ、その予言通りに二人は結ばれました。
大国主命は良縁の神様として祀られています。
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本殿への石段を上る前に右奥に進んだ所に
栗光稲荷(くりみついなり)社があります。
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栗光稲荷社の手前に良縁大国(りょうえんだいこく)が祀られています。
契り糸を「良縁大国」に結びつけて、縁結びを祈願します。
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本殿への石段を上った正面とその奥に「恋占いの石」が祀られています。
本殿前にある左右の石を、両目を閉じてたどり着ければ、
恋の願いが叶うと言われています。
春分、秋分の日には二石の直線上に太陽が昇り、沈みます。
近年、この石が縄文時代のものと判明され、地主神社が古代から
この地に鎮座していたことを物語っています。
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本殿の前に祓戸社(はらえどしゃ)があります。
地主神社に参拝した際は、まず祓戸社にある祓串(はらいぐし)で、
心身を清めます。
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本殿には大国主命を主祭神として、その父母神、素戔嗚命(すさのおのみこと)・
奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、さらに奇稲田姫命の父母神、
足摩乳命(あしなずちのみこと)・手摩乳命(てなずちのみこと)が
正殿に祀られています。
相殿には、芸能と長寿の神様である大田大神、旅行安全・交通安全の神様である
乙羽竜神、知恵と学問、受験の神様である思兼大神が祀られています。
乙羽竜神は、神仏分離令以前は清水寺の音羽の滝上に祀られていました。

画像はありませんが、拝殿は鏡天井で、狩野元信の龍図が描かれています。
龍は都の東を守る青龍とされ、毎夜絵から抜け出て音羽の滝の水を飲みに行く
との伝承が残されています。
現在の本殿及び拝殿は、寛永10年(1633)に徳川家光の寄進により
再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
地主神社の境内地も国の重要文化財に指定され、また清水寺とともに
世界文化遺産に登録されています。

画像はありませんが、本殿の左側に「幸福祈願所」があります。
「幸福祈願所」にはドラがあり、三度鳴らしながら祈願します。
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「幸福祈願所」の左側に「撫で大国(だいこく)」が祀られています。
小槌は良縁・開運・厄除け、福袋は金運・商売繁盛、頭は受験必勝・成績向上、
手は勝運・芸事上達、おなかは安産・子宝、足は旅行安全・交通安全、
俵は出世・土地守護・家内安全・夫婦円満のそれぞれを撫でることによって
ご利益があるとされています。
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境内の北西の奥のほうに水かけ地蔵が祀られています。
この地蔵像は近年、地中より発見されました。
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水かけ地蔵から出てきた所に「おかげ明神」が祀られ、一願成就の神・
女性の守り神として信仰されています。
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「おかげ明神」左側にある杉の御神木は「いのり杉」「のろい杉」ともいわれ、
江戸時代に「丑の刻参り(うしのときまいり)」に使われ、
五寸釘を打ち込んだ跡が無数に残されています。
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御神木の左側(南側)に総門があり、国の重要文化財に指定されています。
寛永10年(1633)に徳川家光の寄進により再建されました。
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総門に向かって左側に桜の木が植えられています。
地主桜は一樹に八重と一重の花を持ち、神社の社紋にも使われています。
平安時代、嵯峨天皇は地主神社に行幸し、桜の美しさに二度、三度と
車を引き返しては見事に咲く花を眺めたことから
「「御車返しの桜」と呼ばれました。
また、多くの謡曲に「地主権現の花」として謡われたとあり、
地主神社はかっては桜の名所だったようです。

地主神社から石段を下って左側へ進んだ所に納経所がありますが、
まだ受付前でカーテンが閉じられていました。
釈迦堂から子安塔へ向かいます。
続く

清水寺-その4

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納経所の先に西向地蔵堂がありますが、詳細は不明です。
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西向地蔵堂の右側に隣接して釈迦堂があり、国の重要文化財に指定されています。
釈迦堂は、寛永6年(1629)の大火後、寛永8年(1631)に再建されたのですが、
昭和47年(1972)の豪雨による土砂崩れで西向地蔵堂とともに倒壊しました。
現在の釈迦堂及び西向地蔵堂はその3年後に復旧されたもので、
釈迦堂は江戸時代の再建当時の用材を再使用し、屋根は再建時の瓦葺から
創建当時の茅葺に葺き替えられました。
外観は簡素な造りですが、堂内の須弥壇は黒漆塗りで、釈迦如来像・
普賢菩薩像・文殊菩薩像の釈迦三尊像が安置されています。
須弥壇背面の来迎柱は朱漆塗りの円柱で彩られ、天井には天女が天空を
飛び交う「遊飛天女画」などが極彩色で描かれています。
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釈迦堂の右側、阿弥陀堂との間に百体地蔵堂があります。
子供を亡くした親たちが、我が子に似た地蔵を探し、冥福の祈りを捧げています。
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地蔵堂の右側に阿弥陀堂があり、国の重要文化財に指定されています。
阿弥陀堂創建の詳細は不明ですが、平安時代末期の文治4年(1188)に
浄土宗の開祖・法然上人が日本で最初に常行念仏道場としました。
かっては滝山寺(たきやまでら/りょうざんじ)と呼ばれていました。
現在の建物は寛永8年~寛永10年(1631~1633)に再建され、
明治17年(1884)に大改修、平成8年(1996)に修復工事が施されています。
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扁額「日本最初 常行念仏道場」は第104代・後柏原天皇の筆によります。
本尊は丈六(像高192cm)の阿弥陀如来像が安置され、鏡天井には極楽の
妙音鳥・迦陵頻伽(かりょうびんが)が飛翔し、光背に如来形の千仏を配し
阿弥陀浄土の世界が表現されています。
阿弥陀如来坐像は江戸時代の作で、洛陽六阿弥陀の札所本尊でもあります。
また、堂内には法然上人像も安置され、円光大師二十五霊場・第十三番の
札所本尊になっています。
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阿弥陀堂の右側に奥の院があり、国の重要文化財に指定されています。
かって、この地で清水寺を開基した行叡居士(ぎょうえいこじ)が
草庵を結んで修行を行い、開山・延鎮上人が引き継いだ跡地です。
現在の奥の院は寛永10年(1633)に再建され、
平成29年(2017)に修復が完了しています。
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本堂を模して懸造りの舞台が設置されています。
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お堂前には「ふれ愛観音」像が安置されています。
仏師の故・西村公朝氏の作で、目の不自由な方でも触れて拝することが
できる仏像です。
本尊は三面千手千眼観世音菩薩座像で、像高63.4㎝、鎌倉時代初期の
慶派仏師の作とされ、国内最古のものです。
洛陽三十三観音霊場・第11番の札所本尊でもあり、
現在は江戸時代作のお前立が安置されています。
脇侍に毘沙門天像と地蔵菩薩像とが安置されています。
毘沙門天像は像高112.4㎝、鎌倉時代末期の作で、
地蔵菩薩像は像高87.7㎝、平安時代末期の作です。
堂内には他に二十八部衆と風神・雷神像、弘法大師像が安置されています。
清水寺は開創以来、法相宗を宗旨としていましたが、平安時代に奥の院では
真言宗も兼宗・兼学していましたので弘法大師像が安置されています。
かっては、奥の院は真言庵とも、三面千手千眼観世音菩薩座像が
安置されていることから千手堂とも呼ばれていました。
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奥の院の右奥に夜叉神堂があり、清水寺の巽(東南)方角を守護しています。
夜叉(やしゃ)は古代インド神話に登場する鬼神で、森林に棲む神霊であり、
水を崇拝する一方、人を食らう鬼神の性格も併せ持っています。
夜叉は釈迦に帰依し、仏法を守護する八部衆の一尊となりましたが、
善人には利益を、悪人には危害を加え、
清水寺の夜叉神は縁切りの神として信仰されています。
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奥の院から南へ進んだ所に子安塔(こやすのとう)があり、
国の重要文化財に指定されています。
子安塔は塔頭・泰産寺(たいざんじ)が守護する塔で、一辺が約3.5mの
三間四辺、高さ約15mの三重塔です。
その創建には諸説があり、いずれが正しいのかは不明です。
1.第45代・聖武天皇が光明皇后の皇子誕生を願い建立した説。
2.聖武天皇と光明皇后の子であり、史上6人目の女帝であった
孝謙天皇(こうけんてんのう)が安産だったので、その報恩として建立した説。
3.第50代・桓武天皇の第十二皇子である葛井親王(ふじいしんのう/
かどいしんのう)の誕生を願い、または無事出産できたことから
坂上田村麻呂の娘である母・坂上春子(さかのうえのはるこ)が建立した説。

「泰産」とは「安産」と同じ意味をもち、泰産寺と子安塔はかって、
仁王門の右手前にあって、安産祈願の寺として信仰を集めていました。
清水寺の参詣道である「三年坂」は、本来は「産寧坂(さんねいさか)」と呼ばれ、安産を願う意味が込められています。
現在の子安塔は室町時代の明応9年(1500)に再建されたのですが、
明治44年(1911)に泰産寺と子安塔は現在地に遷されました。
塔内には十一面千手千眼観音菩薩像が安置されています。
胎内に像高6cmの小観音像が納められて、「子安観音」とも呼ばれ、
洛陽三十三観音霊場・第15番の札所本尊でもあります。
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子安塔の南側に泰産寺がありますが、納経は清水寺の納経所で行います。
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子安塔から本堂を望みます。
音羽の滝へ向かいます。
続く

清水寺-その5

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子安塔から下ってきた所に石仏が祀られ「伝 福禄寿」の立札があります。
修行中の清水寺開基・行叡居士(ぎょうえいこじ)の像とされていますが、
後年にはその姿が福禄寿に似ていることから、
七福神として信仰されるようになりました。
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参道を進むと多数の石塔がまとめて祀られています。
境内、それ以外かもしれませんが、奉納された石塔が
集められたのだと思われます。
一部の裕福だった人々の信仰の証かもしれません。
今は、その前を多数の人々が気に留めることもなく通り過ぎて行きます。
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音羽の滝に来ました。
清水寺の原点であり、その名の由来となった瀧です。
音羽山の山中から湧き出し、かって一度も枯れたことがないと伝わります。
三筋の滝は、菩薩様の「功徳水」、心身を清める「金色水」、
長寿の「延命水」とされ、十大名水の筆頭に挙げられています。
また、三筋の霊水の由来は、奥の院本尊の千手観音が三面であることに
因むとも伝わります。
「仏・法・僧の三宝への帰依」「三大煩悩と言われている貧欲・
瞋恚(しんに=怒りや恨み)・愚痴(無知によって惑わされ、
すべての事象に関してその真理をみない心の状態)の浄化」
「人間の根本的な三つの行為である、身(行動)・口(言葉)・
意(こころ)の浄化」とされてきました。
本来は瀧の行場として、修行の地でしたが、いつしか瀧の水を飲むと
願いが叶うとの信仰が生まれました。
かっては「中は利得、右は智慧、左は慈悲。観音の三体とす」との
記述が見られましたが、現在は向かって左から「学業成就」「恋愛成就」
「延命長寿」と言われています。
三筋の中から一筋を選んで一口だけいただきます。
二口飲むと半分、三口飲むと三分の一のご利益しかいただけず、
また、三筋とも飲んだら願い事は反故になってしまうとも言われています。
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音羽の滝から本堂を仰ぎ見ることができます。
舞台までの高さは13mあり、百畳敷き(約190㎡)の舞台を
48本の柱で支えています。
樹齢400年以上の欅を使い、大きいもので長さ約12m、周囲約2mを超える
柱が整然と並び、その縦横には何本もの貫が通されています。
柱は16角に加工され、釘を1本も使用せず、「継ぎ手」と呼ばれる
木材同士を組み合わせた工法で巧みに組み上げられています。
舞台には長さ5.5m、幅30~60cm、厚さ10cmのヒノキ材が410枚以上
敷き詰められ、檜舞台の語源となった...かは定かではありません。
舞台は本尊の観音様に奉納する場所として建造されていますが、その築造は
創建当時からとも平安時代からとも、諸説あり詳細は不明です。
現在の舞台は寛永10年(1633)に再建されました。
「清水の舞台から飛び降りる」と現在でも使われていることわざですが、
江戸時代には実際に飛び降りる人が相次ぎました。
願掛けにより、所願成就の際は無事着地し、不成就の場合でも補陀落浄土への
道が開けていると信じられていたようです。
明治になると「飛び降り禁止令」が出され、事態は収束したようです。
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本堂横の石段を上り納経所へ向かいます。
石段の途中からは舞台の懸崖造りを横から見ることができます。

清水寺本堂は西国三十三所観音霊場・第16番、神仏霊場・第117番及び
洛陽三十三所観音霊場・第12番の札所です。
善光寺堂は洛陽観音・第10番、奥の院は洛陽観音・第11番、
朝倉堂は洛陽観音・第13番、泰産寺は洛陽観音・第14番の札所で、
まとめて納経を行います。
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納経を済ませ、石段を下り、参道を下って行くと石垣が高く積まれた上に、
轟門を仰ぎ見ることができます。
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更に進むと三重塔を仰ぎ見ながら下って行きます。
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先に進むと放生池があり、水鳥がじ~っと池を見つめて瞑想?していました。
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池の左側には十一重石塔が建立されています。
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仁王門まで戻り、再び仁王門から随求堂へと進みます。
随求堂から左側へ下った先に中興堂があり、清水寺の中興開山・
大西良慶和上の御霊屋です。
良慶和上は明治8年(1875)、奈良県で生まれ、明治22年(1889)に興福寺に入り、
明治32年(1899)に興福寺231世となり、明治37年(1904)には、
法相宗の管長に就任しました。
大正3年(1914)、興福寺と兼職で清水寺の住職となり、衰退していた
清水寺を現在の形に復興されました。
昭和40年(1965)には、清水寺を本山とする北法相宗を設立し、
初代の管長に就任しました。
昭和58年(1983)、107歳で天寿を全うされ、平成7年(1995)に
和上十三回忌を記念して中興堂を建立発願し、平成9年(1997)に
落慶されました。
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中興堂の左側に鎮守堂があり、春日大明神が祀られています。
現在の鎮守堂は室町時代後期に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
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鎮守堂の先に多数の石仏が祀られ、千体石仏群と呼ばれています。
その一部は、かつて京都の各町内に祀られていた地蔵尊で、
明治の神仏分離の際に、寺に運び込まれたと伝わります。
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更に参道を進んだ先に成就院があります。
成就院は、清水寺の塔頭で、応仁の乱の兵火によって焼失した清水寺を、
勧進活動によって再興した願阿上人(がんあしょうにん)の住房として
造られたのがその始まりです。
現在の建物は、寛永16年(1639)に後水尾天皇の中宮であった東福門院和子
(とうふくもんいんかずこ)の寄進によって再建されました。
幕末の文政10年(1827)に成就院に入った月照は天保6年(1835)住職となり、
尊王攘夷主義に傾倒して公家や活動家たちと関係を深め、
西郷隆盛と親交がありました。
安政5年(1858)8月から始まった安政の大獄で幕府から追われる身となり、
西郷とともに京都を脱出して西郷の故郷である薩摩藩に逃れたのですが、
藩では厄介者である月照の保護を拒否し「日向国送り」を命じました。
これは、単に身柄を移送するのではなく、薩摩国と日向国の国境で殺害することを
意味し、これを知った月照は死を覚悟し、西郷とともに錦江湾に入水自殺しました。
月照は46歳で命を落とし、西郷は奇跡的に一命を取り留めました。
成就院には国の名勝に指定され、「月の庭」とも呼ばれる池泉回遊式庭園があり、
春と秋に一般公開されています。
室町時代に相阿弥により作庭され、江戸時代には小堀遠州
手を加えたと伝わります。
庭園の西にある持仏堂には本尊の十一面観音菩薩像と
不動明王像が安置されています。
書院の仏間には月照とその弟・信海上人坐像が安置されています。
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成就院の前には放生池があり、紅葉を水面に映しています。
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成就院から参道を進んだ先に北総門があり、国の重要文化財に指定されています。
寛永16年(1639)頃に成就院の正門として建立された薬医門で、
国の重要文化財に指定されています。

洛陽十二支妙見の日體寺へ向かいます。
続く

日體寺(にったいじ)

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清水寺から松原通を下った右側に日體寺があります。
山号を常照山と号する日蓮宗の寺院です。
創建の詳細は不明ですが、浄土宗の寺院として創建され、
かっては観音寺と称されていました。
江戸時代中期の享保6年(1721)に、当時の住職が常照院日體上人の
法華経折伏(しゃくぶく/しゃくふく)により日蓮宗に改宗されました。
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山門を入ると正面に本堂があり、釈迦如来を本尊としています。
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境内には「鎮宅妙見宮」の石碑が建立されています。
「鎮宅」とは、家屋の安全・招副を祈るという意味があり、水火の災いを除き、
怨敵の難を退け、家を修める「妙見菩薩」として信仰されています。

本堂には像高35cmの北辰妙見像が安置され、洛陽十二支妙見・
巳の札所本尊となっています。
御所の紫宸殿を中心として、南南東に祀られています。
右手に剣を立て、左手に蛇を持ち、亀に跨っています。
「北辰」とは、北極星のことで、古代中国で呼ばれていたものが
日本に伝わりました。
妙見菩薩は、国土を守り貧窮を救う神で、北極星としてこの世に
現れると伝わります。

この妙見像はかって、祇園下の妙見宮に安置されていたのですが、
妙見宮が廃されることになり、明治18年(1885)に祇園の芸妓が妙見像を
自宅に引き取りました。
その芸妓が亡くなった後に日體寺に葬られ、妙見像も日體寺で
祀られるようになりました。
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納経所は本堂横の庫裏にあります。

六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)へ向かいます。
続く

六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)

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日體寺から松原通を西へ進み、東大路通を横断して二筋目を北に進んだ所に
六道珍皇寺があります。
六道珍皇寺の創建については諸説あります。
その1-平安京に遷都以前に東山の阿弥陀ヶ峰山麓一帯に居住していた
鳥部氏族の氏寺・宝皇寺(ほうこうじ)を全身とする説。
その2-奈良時代の延暦年間(782~806)に大安寺の僧で空海の師であった
慶俊(けいしゅん)が六道の辻に愛宕寺を創建し、
後に珍皇寺と愛宕念仏寺に分かれたとする説。
珍皇寺の西方の弓矢町には念仏寺がありましたが、大正年間(1912~1926)に
右京区嵯峨鳥居本に移転しています。
その3-空海によって創建され、東寺の末寺となったとする説。
その4-小野篁(おの の たかむら)が創建したとする説。
その5-東寺百合文書に記されている承和3年(836)に
山代淡海(やましろ の おうみ)が創建したとする説。

鎌倉時代までは東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有し、
度々の火災でも再建が繰り返されてきました。
南北朝時代以降、寺領の多くが建仁寺の所有に転じたことと戦乱により衰退し、
中世後期の寺史は多くが失われてしまいました。
貞治3年(1364)、建仁寺から聞溪良聰(もんけい りょうそう)が入寺して
再興され、真言宗から臨済宗に改宗されました。
明治に入り一時、建仁寺の塔頭。大昌院に併合されたましたが、
明治43年(1910)に独立しました。
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山門前には「六道の辻」と記された石碑が建立されています。
西大谷から東清水寺の一帯は「鳥辺野(とりべの)」と呼ばれ、京の外れ、
古代から人を葬る場所でした。
六道とは地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上を言い、衆生が生前の
業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界へ、
珍皇寺の先は分かれ道となります。
小野篁が珍皇寺から冥府(閻魔(えんま)の庁)と行き来したことから称されました。
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扇には謡曲『熊野(ゆや)清水詣』から「愛宕の寺も打ち過ぎぬ
六道の辻とかや 実に恐ろしやこの道は 冥土に通ふなるものを」
と記されています。
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山門をくぐった左側にお岩大明神が祀られています。
お寺に四谷怪談のお岩の像が持ち込まれたことから、
社殿が建立され祀られるようになったと伝わります。
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お岩大明神の右側には「水子祠堂」があり、水子供養で奉納された
多数の地蔵像が祀られています。
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水子祠堂の先に水子地蔵尊が祀られています。
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水子地蔵の先に地蔵像と多数の石仏が祀られています。
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参道の右側に薬師堂があり、本尊の薬師如来坐像が安置され、
国の重要文化財に指定されていますが、非公開です。
平安時代作で最澄作とも伝わり、収蔵庫となった薬師堂に安置されています。
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薬師堂の左側に閻魔・篁堂(えんま・たかむらどう)があります。
旧篁堂に安置されていた江戸時代作の小野篁立像、獄卒鬼王(ごくそつきおう)像、善童子像が脇侍として安置されています。
悪童子像は、現在修理中との非公式情報もあります。
「獄卒鬼王」は地獄で死者を責めるという悪鬼で、「善童子」は善行を記し、
「悪童子」は悪行を記します。
小野篁は、身長六尺二寸(約188cm)の巨漢であったとされ、
立像は等身大で造られています。

閻魔大王坐像は旧閻魔堂の本尊で、平安時代の小野篁作と伝わります。
江談抄(ごうだんしょう)』、『今昔物語集』、『元亨釈書
(げんこうしゃくしょ)』といった平安時代末期から鎌倉時代に
かけての書籍には、篁は昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において
閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたと伝えています。

また、堂内には室町時代作の十一面観音立像が安置されています。
像底の墨書きから珍皇寺・第五世住持の天隠龍澤(てんいん りゅうたく)の
作とみられています。
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閻魔・篁堂の左側に鐘楼があり、「迎え鐘」と呼ばれています。
京都では江戸時代から8月13日~16日を盂蘭盆として、先祖の冥福が
祈られるのに先立ち、六道珍皇寺では8月7日から10日までの4日間に精霊
(御魂 みたま)を迎えるために参詣する風習があります。
これを「六道まいり」あるいは「お精霊(しょうらい)さん迎え」とも言います。
古来より、「精霊は槇の葉に乗って冥土より帰ってくる」とされていることから
参道で、「高野槇(こうやまき)」を購入し、「迎え鐘」の綱を引いて鐘を撞き、
迎えたお精霊さんが枝に乗り移って、自宅へと持ち帰ります。

かって、慶俊(けいしゅん)が「この梵鐘は撞く人がいなくても、
一日に12回自然に鳴るように」と造らせました。
ただ、その完成には3年間、土中に埋めて置く必要があり、
寺僧に命じて唐へと旅立ちました。
寺僧は、待ちきれずに途中で掘り出して鐘を撞きました。
その鐘の音は遠く唐まで届き、その音を聞いた慶俊は、自然に鳴らなくなった
鐘を残念がったのですが、唐まで響く鐘なら十万億土の冥土にまで
響き渡ると信じられ「迎え鐘」となったと伝わります。
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本堂前には「三界万霊十方至聖 ( さんがいばんれいじほうししん ) 」の石塔婆
が建立されています。
かって、この地で鳥辺野へ向かう死者に住職が最後の引導を渡し、
霊魂は迷うことなく浄土へと旅立ったと伝わります。

本堂には京仏師・中西祥雲作の薬師如来像と日光・月光両菩薩像が
安置されています。
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本堂の右後方に「小野篁・冥途通いの井戸」があり、近年発見された
「黄泉がえりの井戸」とともに春と秋に特別公開されています。
「冥途通いの井戸」は入口専用で、小野篁は亡き母の霊に会うために
六道珍皇寺に訪れたとされ、その後に閻魔庁の役人として
この井戸から冥界へと通ったと伝わります。
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井戸の脇には鎮守社の竹林大明神が祀られた社殿があり、
小野篁の念持仏が安置されています。
平成23年(2011)に旧境内地から「冥途からの戻り井戸」が発見され、
「黄泉がえりの井戸」と名付けられました。
また、出口の井戸は嵯峨野大覚寺門前六道町にあった福生寺(現在の嵯峨薬師寺)
にあったとされ、「冥途通いの井戸」の「死の六道」に対して
「生(しょう)の六道」と呼ばれていました。

六波羅蜜寺へ向かいます。
続く

六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)

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六道珍皇寺から松原通へ戻り、西へと進んだ角に西福寺とその向かいに
幽霊子育飴本舗があるのですが、掲載は後日になります。

西福寺から南へと進んだ所に六波羅蜜寺があります。
六波羅蜜寺は、山号を補陀洛山と号する真言宗智山派の寺院で、平安時代の
天暦5年(951)、空也上人により開創されたと伝わります。

空也上人は延喜3年(903)頃に醍醐天皇の第二皇子として誕生したとの説が
ありますが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明です。
幼少より在家の修行者として諸国を巡り、延喜22年(922)頃に尾張国分寺にて
出家し、空也と名乗りましたが、自らの寺を持たず、常に市民の中にあり
「市聖(いちのひじり)」や「阿弥陀聖」とも呼ばれました。

その後も、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造る
社会事業を行い、天慶元年(938)には京都で念仏を広めていきました。
天暦2年(948)、比叡山で天台座主・延昌(えんしょう)のもとに受戒し、
「光勝」の号を受けましたが終生「空也」を名乗りました。

天暦5年(951)、都に流行していた悪疫退散のため、空也上人自ら
十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曳き廻しました。
そして、小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、
歓喜踊躍(かんぎゆやく)しつつ念仏を唱えて病魔を鎮められました。
茶は身分の隔てなくわけ当てられ、現在も皇服茶として伝わり、
正月三日間授与されています。

その道場として建立されたのが六波羅蜜寺で、創建当初は西光寺と称しました。
また、応和3年(963)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行い、
諸堂の落慶供養が盛大に営まれ、この時をもって
西光寺の創建とする説もあります。

空也上人が始めた踊念仏は、鎌倉時代中期に一遍により急速に広められ、
室町時代以降は民衆のなかで芸能化され、やがて壬生狂言六斎念仏
泡斎念仏を生み出しました。

空也上人は天禄3年(972)、70歳で西光寺にて示寂されました。
鎌倉時代に運慶の四男・康勝の作による「木造空也上人立像」は、
首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と
鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで歩く姿を表しています。
「南無阿弥陀仏」の6字を象徴した6体の阿弥陀仏の小像が、
開いた口元から吐き出すように取り付けられ、念仏を唱えるさまを
視覚的に表現しています。

鹿の角のついた杖は、上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を
愛した鹿を、猟師により射殺されたことに悲み、その皮と角を請い受け、
皮を革衣とし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったと伝わります。

空也上人の没後、貞元2年(977)に上人の弟子だった比叡山の僧・中信が
中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称しました。
六波羅蜜とは、大乗仏教で説く悟りの彼岸に至るための6つの修行徳目を指します。
1.布施波羅蜜-分け与えること
2.持戒波羅蜜-戒律を守ること
3.忍辱波羅蜜-耐え忍ぶこと
4.精進波羅蜜-努力すること
5.禅定波羅蜜-特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること
6.般若波羅蜜-前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための
階梯であるとともに、般若波羅蜜を希求することによって調御、成就される

平安時代の後期には、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、
その数5200余りに及んだのですが、寿永2年(1183)には源氏の挙兵に対し、
平氏は六波羅殿に火を放ち、西国へと逃れました。
この時、六波羅蜜寺は本堂を残し諸堂を焼失し、
その4日後には本堂も焼失しました。

鎌倉時代の承久3年(1221)、幕府はそれまでの京都守護を改組して、
平清盛邸跡に六波羅探題を置き、朝廷公家の監視と反幕勢力の牽制、
市中警護を行いました。

南北朝時代の元弘3年/正慶2年(1333)に後醍醐天皇の討幕運動から
元弘の乱が起こると、令旨に応じた足利尊氏らが京を攻め、これによって
当時の探題だった北条仲時らは京を追われ、六波羅探題は壊滅しました。
その後、室町時代前期の貞治2年(1363)に国の重要文化財に指定されている
現在の本堂が再建されましたが、応仁・文明の乱では
本堂を除く諸堂を焼失しました。

安土桃山時代には、豊臣秀吉による方広寺の大仏造営の際に、
本堂を補修し現在の向拝を附設、諸堂の修復を行いました。
尚、文禄4年(1595)頃に六波羅蜜寺は天台別院から智積院の末寺となり、
真言宗智山派に改宗しています。

明治の廃仏毀釈で寺領は4割まで狭められ、開山堂・閻魔堂・地蔵堂などが
破却・譲渡されました。

本尊は像高258cmの木造十一面観音立像で、西国三十三所観音霊場・
第17番の札所本尊でもあり、国宝に指定されています。
天暦5年(951)に空也上人が自ら刻んだと推定されていますが秘仏で、
12年に一度の辰年にしか開帳されません。
六波羅蜜寺は神仏霊場・第118番札所でもあります。
四天王像の内、多聞天立像(像高176cm)、広目天立像(像高169.7cm)、
持国天立像(像高179.4cm)は創建時のもので、共に空也上人の作とされ、
国の重要文化財に指定されています。
増長天立像(像高175.7cm)は鎌倉時代の補作で、
国の重要文化財に指定されています。

南側に安置されている像高163.7cmの薬師如来坐像は、
国の重要文化財に指定されています。
中信が中興し、六波羅蜜寺と改称した頃の本尊であったとされています。

安置されている二躯の地蔵菩薩像の内、地蔵菩薩立像は平安時代後期の
仏師・定朝の作と伝わり、国の重要文化財に指定されています。
元、地蔵堂の本尊で左手に頭髪を持ち「鬘掛(かつらかけ)地蔵」または、
「山送り地蔵」ともと呼ばれています。
宝物集』には「東山に貧き女ありけり、年来此地蔵尊を信じける、
此女に年老たる母を持たりける、あるとき老母死してけり、
いかがして葬んと案じ煩ひ居たりける程に。
ある日夕暮行脚の僧一人出来て、何事にかくは歎き給ふと問ければ、
事の仔細をありのままにかたりける。
僧これを最易ことにこそ侍るなれとて、ひしひしとしたため背に
かき負ふて山へおくり、其営し給ひけり。
此女嬉しさいふばかりなし、これは則六波羅の地蔵の為給へると思ふて、
参りて拝し奉りければ、地蔵の御足に土打つけてぞおはしましける。
夫よりして此地蔵をば山をくりの地蔵とも、御手に老母の鬘を持て居給へば、
かづらかけの地蔵とも号しける。」と記されています。

また、『今昔物語集』には、「今は昔、但馬前司、源国挙(くにたか)という
人があって朝廷で忙しく働いていたが、病気になり死んでしまった。
 死後、閻魔庁に着き、恐ろしい地獄で忙しくしていらっしゃる小僧(実は地蔵)に涙ながらに「助けてください。」と懇願したが、小僧は「人間の世の栄華は
かりそめの夢幻、人の罪業は岩山の如し。
まして、お前は女色にふけり、その罪でここへ来たのだ。どうしてお前を
助けられよう。」と言われるので国挙は「ですが、何卒お慈悲でお助けください。
もし、許されて国に帰ることができたなら、全財産で三宝と地蔵さまに
帰依しましょう」と申し上げると地蔵菩薩の計らいで閻魔王庁の役人の前で
放免してもらった、と思った瞬間、蘇生した。
その後、国挙は出家入道し、大仏師 定朝にたのんで地蔵菩薩像をお造り申し上げ、法華経一部を書写し六波羅蜜寺にて法要を行った。法会の列席者は涙ながらに
菩薩を尊んだ。」と記されています。

像高89.7cmの地蔵菩薩坐像は鎌倉時代に運慶の作と推定され、
国の重要文化財に指定されています。
運慶が夢の中で出会った地蔵の姿をそのまま彫刻したと伝わり、
「夢見地蔵」と呼ばれています。
運慶は八条高倉に地蔵十輪院を建立し、この地蔵菩薩像を本尊とし、安置しました。
運慶とその子・湛慶像は地蔵菩薩像の脇侍として安置され、
共に国の重要文化財に指定されています。
建保6年(1218)に地蔵十輪院が焼失し、六波羅蜜寺境内に十輪院が建立され
これらの像が遷されました。

鎌倉時代作で像高89.2cmの閻魔王坐像は、かって境内北にあった
閻魔堂に安置されていました。
閻魔の眷属である司命像と司録像は共に像高37cmで、鎌倉時代のものです。
平安時代作の夜叉神像2躯、鎌倉時代の吉祥天立像、室町時代の奪衣婆坐像などが
旧閻魔堂から遷されました。
閻魔王坐像、吉祥天立像は国の重要文化財に指定されています。
鎌倉時代作で像高82.7cmの木造僧形坐像(伝・平清盛像)は、慶派仏師の作で
最古の肖像とされ、国の重要文化財に指定されています。
鎌倉時代、快慶の弟子・長快の作の弘法大師坐像は、像高69cmで
国の重要文化財に指定されています。
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入口から入った正面に弁天堂があり、六波羅弁財天が祀られ、
「都七福神めぐり」の札所本尊になっています。
第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)の夢告により、禅海が造仏したと伝わります。
崇徳天皇は保元の乱(ほうげんのらん)で皇位争いに敗れて讃岐へ配流となり、
8年後の長寛2年(1164)に崩御されました。
天皇が寵愛した阿波内持は、天皇の崩御後、現在の祇園歌舞伎町付近にあった
屋敷を寺院に改め、弁財天を祀りました。
明治の廃仏毀釈後、その寺院は廃寺となり弁財天は六波羅蜜寺に遷されました。
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弁天堂の右側に観音像が建立され、その傍らには石造りの転法輪があり、
鞍馬寺では「南無阿弥陀仏」と唱えてこの転法輪を一転すれば念仏六万遍の
功徳があると伝えられています。
六波羅蜜寺では「一願石」と名付けられ、「祈りを込めて金文字から手前に
三回お回しください」と記されています。
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観音像の奥に「阿古屋塚」があり、更にその奥に「平清盛塚」があります。
「阿古屋塚」は鎌倉時代に造られた石造りの宝塔で、台座は古墳時代の
石棺の石蓋が使用されています。
阿古屋は五条坂の白拍子で、悪七兵衛(あくしちびょうえ)と呼ばれた
平景清の愛人で、その子を身籠っていました。
平家の残党を探す畠山重忠は、阿古屋を捕らえ、詮議のために琴・三味線・
胡弓を弾かせたました。
その音色に一点の乱れもなかったことから、重忠は「阿古屋は景清の所在を
知らない」として釈放したと伝わります。

平清盛は養和元年(1181)、九条河原口の平盛国の屋敷で64歳で
熱病のために亡くなりました。
「平清盛塚」は、六波羅蜜寺以外にも大覚寺の塔頭寺院である祇王寺の供養塔、
神戸市兵庫区にある能福寺の平相國廟、同じく兵庫区の清盛塚、
山口県下関市彦島の清盛塚が残されています。
能福寺は、寺伝では延暦24年(805)に伝教大師・最澄によって創建され、
治承4年(1180)には清盛の福原京遷都計画にともなって平家一門の
祈願寺に定められました。
清盛が京で亡くなった後、能福寺の住職であった円実法眼が遺骨を持ち帰り、
寺領内に葬ったとの伝承が残されています。
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境内の北側には銭洗弁財天や水掛不動尊、地蔵菩薩像が祀られています。
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境内には「なで牛」が祀られています。
病んでいるところを撫でれば平癒するそうです。
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また、道元禅師の辻説法の遺蹟の碑が建立されています。

都七福神の京都ゑびす神社へ向かいます。
続く

京都ゑびす神社

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六波羅蜜寺から松原通まで戻り、松原通を西へ進み、大和大路通を右折した先に
京都ゑびす神社があり、都七福神めぐりの札所となっています。
大和大路通に面して石造りの鳥居と冠木門(かぶきもん)が
並ぶようにして建立されています。
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冠木門をくぐった右側に名刺塚と財布塚が建立され、
古くなった名刺や財布が供養されています。
名刺塚は吉村孫三郎氏の揮毫(きごう)によります。
吉村孫三郎氏は大正10年(1921)に京都市山科区で現在のヨシボー株式会社を
創業され、京都実業界の重鎮となった人物です。
財布塚は現在のパナソニックの創業者・松下幸之助氏の揮毫によるものです。
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財布塚の先には石造りのゑびす像が祀られています。
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二の鳥居には福箕(みの)が取り付けられ、ここにお賽銭を投げ入れることが
できれば願い事が成就されると言われています。
掲げられているゑびすの尊顔は昭和57年(1982)に奉納されたもので、
コインがお顔に当たれば...と躊躇し控えました。
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鳥居をくぐった正面に拝殿があります。
京都ゑびす神社は鎌倉時代の建仁2年(1202)に栄西禅師建仁寺を創建した際に、
その鎮守社として祀られたのが始まりです。
社伝によれば、建久2年(1191)、宋に留学していた栄西禅師が帰国の際、
暴風雨に遭遇して船が沈没しそうになった時、海上に恵比須神が現れ、
その加護により難を逃れたと伝わります。

本殿には八代言代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)、
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)が
祀られています。
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八代言代主大神は、大国主大神と神屋楯比売(かむやたてひめ)との間に生まれ、
国譲り神話では釣りをしていた時、父の大国主から託され、
建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)と交渉した神です。
この神話から八代言代主大神は、海と関係の深いゑびすと同一視され、
大鯛を小脇に抱え釣竿を持った七福神のゑびす神として表されるようになりました。
また、大国主はその読みから転じて大黒様とされています。
少彦名神は小柄だったことから一寸法師の原型とされている神で、国造り神話では
大国主と義兄弟の関係となって国造りに尽力した神です。
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本殿の右側に八幡神社と猿田彦神社が並んでいます。
八幡神は文武の神、猿田彦命は導きの神、交通の神とされています。
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猿田彦神社の左側には北野天満宮の遥拝所があります。
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岩本稲荷社は、かって六波羅蜜寺の東にあった鎌倉時代中期の
女流歌人・阿仏尼(あぶつに)の屋敷に祀られていました。
阿仏尼作とされる在原業平像が伝えられています。
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境内の西側にある小松天満宮は、九州筑紫の天拝山(てんぱいざん)で
荒業をする憤怒の姿した菅原道真像が祀られています。
天拝山という名は、大宰府に流刑された菅原道真が自らの無実を訴えるべく
幾度も登頂し天を拝したという伝記に由来しています。
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「足止め天神」とも呼ばれ、狛犬の足に名前と生年月日を書いた紙を、
男性なら右足、女性なら左足にくくりつけ、毎日お参りすると
家出した人が帰ってくると信仰されています。
また、無実の罪が晴れるとも、大切な人が自分から離れないという
「縁固め」のご利益もあるとされています。
供物は精進物に限定されています。

小松天満宮の左側には白太夫社があります。
白太夫(しらだゆう)は、浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』の登場人物で、
菅丞相(かんしょうじょう=菅原道真)に仕え、死後もその霊を守護した
忠義心のあつい農民とされています。
また、伊勢神宮の神職・度会(わたらい)春彦のことで、道真の死をみとった
という伝承も残されています。
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小松天満宮の西側に西門がありますが、大和大路通まで戻り、
北上して洛陽三十三観音霊場・第16番札所の仲源寺へ向かいます。
続く

仲源寺

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京都ゑびす神社から大和大路通を北上し、四条通を右折した先、
四条通に面した南側に仲源寺があります。
仲源寺は山号を福寿山と号する浄土宗の寺院で、
平安時代の治安2年(1022)に仏師・定朝が四条橋の東北に
地蔵尊を祀ったのが始まりとされています。
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山門には「雨奇晴好(うきせいこう)」の扁額が掲げられています。
「雨の日は奇観(きかん=他では見られない景色)をなし、
晴天の景色もまたよい」との意味になります。
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山門を入った正面に本堂があり、扁額「目疾(めやみ)地蔵尊」が
掲げられています。
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本尊は地蔵菩薩像で、定朝が末代まで衆生救済を祈願して、
護持仏の聖徳太子像と地蔵菩薩像を胎内に収め、38カ月の歳月をかけて
丈六の地蔵菩薩像を刻んだと伝えられています。

鎌倉時代の安貞2年(1228)に鴨川が大雨で洪水となり、
防鴨河使(ぼうかし)となった勢多判官為兼(せたのほうがんためかね)が
この地蔵尊に止雨を祈ったところ雨がやんで洪水も治まった伝わります。
防鴨河使とは鴨川の水防のために置かれた官職です。
その報恩により第86代後堀川天皇から「仲源寺」の寺号を賜って勅願寺となり、
地蔵尊も「雨止(めやみ)地蔵」と名付けられました。

また、大雨で鴨川を渡るのが困難になると地蔵に祈願したので「雨止地蔵」とも、
八坂神社への参詣者が突然の雨に見舞われ、寺で雨宿りし、雨が止むのを
祈ったことから「雨止地蔵」と呼ばれたなどの説もあります。

かって、老夫婦がこの地蔵尊を信仰していたのですが、夫は眼を病み失明しました。
妻が地蔵尊に祈願すると「寺の閼伽水で眼を洗うように」とのお告げを受け、
そのようにすると眼が見えるようになったと伝わります。
お礼参りに訪れると、地蔵尊の玉眼入りの右目が赤く、夫の眼の病を
身代わりとなって病んでいるように見えたことから
「目疾地蔵尊」と呼ばれるようになりました。
江戸時代には眼病に霊験のあるとして、名地蔵の一つに
数えられるようになりました。

また、雨止(めやみ)が目疾(めやみ)に転化したとの説もあります。

仲源寺は安土・桃山時代の天正13年(1585)に豊臣秀吉の命を受けて
現在地に遷されました。

仲源寺では毎年の7月10日と7月28日に祇園祭での神輿洗いの
神事が行われています。
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本堂の右側に観音堂があり、洛陽三十三観音霊場・第16番札所本尊でもある
像高248cmの十一面千手観音坐像が安置されています。
平安時代後期の春日仏師の作と伝わり、国の重要文化財に指定されています。
かって、現在の高台寺附近にあった雲居寺(うんごじ)または、
その塔頭の桂橋寺の本尊でしたが、同寺が廃寺となり、仲源寺に遷されました。
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走り大黒天像や大日如来像、阿弥陀如来像、石造りの地蔵尊像などが
安置されています。
蛸薬師で知られている永福寺へ向かいます。
続く

永福寺

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仲源寺から四条通を西へ進み、新京極通りを北進した所に永福寺があります。
山号を浄瑠璃山、院号は林秀院と号する浄土宗西山深草派の寺院です。
蛸薬師堂とも称され、薬師如来を本尊とし、
京都十二薬師霊場の12番札所となっています。

創建は、平安時代末期の養和元年(1181)に林秀が、薬師如来の石仏を安置する
六間四面の堂を、二条室町に建立したのが始まりとされています。
二条室町に住んでいた林秀は、延暦寺・根本中道の薬師如来を深く信仰し、
比叡山までの月参りを長年続けていたのですが、老齢により困難となってきました。
ある日、薬師如来の仏前で「どうか薬師如来様のお姿を一体お与え下さい」と
祈願すると、その夜夢枕に薬師如来が現れました。
「昔、伝教大師・最澄が、私の姿を石に彫り、比叡山に埋めている。
これを持ち帰るがよい。」とのお告げを受け、翌日その場所を掘ると
薬師如来の石仏が見つかり、持ち帰ったものと伝わります。
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蛸薬師と呼ばれるようになったのには諸説ありますが、創建された二条室町には
「蛸薬師町」の町名が残されています。
かって、二条通の南(下がる)の御池通には池があり、水上薬師や
澤(たく=沢)薬師とも呼ばれていました。
「たくやくし」が転訛して「たこやくし」になったという説があります。

また、建長年間(1249~1256)の初め頃、僧・善光の病の母が、
「タコが食べたいと」と願い、善光は悩みながらも市場でタコを買いました。
それを町の人たちに見られ、僧がタコを食うのかと咎められ、
タコが入っている箱の中身を見せるようにと責められました。
そこで善光は一心に薬師如来に「この蛸は、私の母の病気が良くなるようにと
買ったものです。どうぞ、この難をお助け下さい」と祈りました。
すると、八本足のタコが光を放ちながら法華経八巻に変化し、
この光景を見た人たちは皆合掌して南無薬師如来と称えました。
そのタコが放った瑠璃光を善光の母が浴びたところ、病気はたちまち回復し、
それ以来、永福寺は霊験あらたかな蛸薬師堂と呼ばれ、その本尊は蛸薬師如来、
親しみを込めて「蛸薬師さん」と呼ばれるようになりました。
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本堂には「お花にかえて風車を」と記され、多数の風車が奉納されています。
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また、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)ならぬ、賓頭盧蛸像が祀られ、
「なで薬師」と称され「左手で触れるだけで全ての病が癒されると云われている」
と記されています。

「寅薬師」の名で親しまれている京都十二薬師霊場・11番札所の
西光寺へ向かいます。
続く

西光寺(寅薬師)

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蛸薬師堂から新京極通りを少し北上し、東側の路地を入った奥に西光寺があります。
西光寺は、山号を北亀山と号する浄土宗西山深草派の寺院です。
鎌倉時代の弘安年間(1278~1288)に、第91代・後宇多天皇から下賜された
薬師如来像を安置するため、御倉堂を建立したのが始まりとされています。
この薬師如来像は、弘法大師・空海が一刀三礼して刻んだもので、
寅の日の寅の刻に完成したことから、寅薬師の名がついたと言われています。
もとは宮中に持仏として安置され、歴代の天皇の信仰を集めたと伝わります。

天明8年(1788)の天明の大火、元治元年(1864)の蛤御門の変などで焼失と
再建が繰り替えされきましたが、明治44年(1911)に焼失した後、
大正2年(1913)に再建された仮建築のまま現在に至っています。
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仮本堂には本尊の阿弥陀如来像と寅薬師の名がついた薬師如来像、
地蔵菩薩像が安置されています。
阿弥陀如来像は安阿弥(快慶の法号)作と伝わります。
薬師如来は京都十二薬師霊場・11番札所本尊で、地蔵菩薩は
洛陽四十八願所地蔵尊の第34番札所本尊となっています。

地蔵菩薩像は、かって西光寺の南隣りにあった清帯寺の本尊で行基作とされ、
600年前から安産や子宝授かりに霊験あらたかと伝わり、
腹帯地蔵と呼ばれていました。
元は大きな泥塑仏でしたが、火災により胎内仏のみが残されています。
安永9年(1780)の『都名所絵図』には清帯寺が記されていますが、
その後廃寺となり、地蔵菩薩像は西光寺へ遷されました。

洛陽観音霊場・第2番及び新西国観音霊場・第15番札所の誓願寺へ向かいます。
続く

誓願寺

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西光寺から新京極通を北上した右側に誓願寺があります。
誓願寺は、浄土宗西山深草派の総本山です。
飛鳥時代の天智6年(667)、天智天皇の勅願により奈良に創建されました。
天皇は、当時仏師として名を馳せていた賢問子(けんもんし)・
芥子国(けしこく)父子に丈六の阿弥陀如来座像の造立を命じました。
三論宗の寺院として七堂伽藍が建立され、誓願寺と名付けられました。
その後、法相宗の興福寺の所有となり、長岡京遷都に伴い、京都府乙訓郡へと
移転し、平安京遷都以前に現在の伏見区深草付近へ移ったと伝わります。

平安時代、清少納言が出家し、境内に庵を結び、和泉式部も誓願寺に
四十八日の間籠もり、一日中ひたすら念仏を称え往生を願ったと伝わります。
和泉式部は娘を亡くした苦しみから、悟りへの導きを願い書写山・圓教寺
性空(しょうくう)上人を訪ねました。
圓教寺には和泉式部の歌塚と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が
残されています。
その後、和泉式部は性空上人から石清水八幡宮を紹介され、八幡大菩薩の前で
七日七夜、極楽往生の道を祈ったところ、老僧から誓願寺の阿弥陀仏に
「一生を掛け極楽往生の道を祈りなさい」と告げられました。
誓願寺に辿り着いた和泉式部は、四十八日間寺に籠もり、一日中ひたすら
念仏を称え往生を願い、その後剃髪し尼僧となりました。
関白・藤原道長は娘の上東門院に仕えていた和泉式部ために、誓願寺の傍らに
柴の一庵を与え、小御堂と呼ばれました。
誓願寺は平安時代、「女人念仏往生の寺」として知られるようになりました。

平安時代後期の安元元年(1175)、興福寺の僧・蔵俊僧都(ぞうしゅんそうず)は、法然上人に帰依し、誓願寺を法然に譲り、浄土宗に改宗しました。

鎌倉時代初期に京都の一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に
移転しました。
その後、天正19年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の
三条寺町の地に移されました。
秀吉の側室であった京極竜子(きょうごく たつこ)とその生家の京極家から
広い敷地が与えられ、竜子の援助により再興されました。
表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内地六千坪余には、
本堂、開山堂、釈迦堂、三重塔、地蔵堂二宇、経蔵、鼓楼、方丈、鎮守春日社、
十三仏堂、十八ヶ寺の山内寺院を擁していました。

京極竜子は、父を京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)で、
浅井長政を叔父とし、浅井三姉妹とは従妹にあたります。
若狭守護・武田元明に嫁ぎ、2男1女をもうけたのですが、元明は本能寺の変後、
明智方に就き丹羽長秀・羽柴秀吉の連合軍に討たれ、子も殺害されました。
竜子は捕らえられた後、その美貌から秀吉の側室となり、大坂城の西の丸に
屋敷を与えられ、西の丸殿(西丸殿)と呼ばれました。
その後、伏見城に移り、松の丸殿(松丸殿)、あるいは京極殿(京極様)など
と呼ばれました。
秀吉の死後、出家して寿芳院(じゅほういん)と号し、一条小川近くの現在の
上京区西洞院通一条下るに住していました。
松の丸殿の墓は当初、誓願寺にありましたが、その後豊国廟へ移されました。

誓願寺は、その後天明8年(1788)の天明の大火や元治元年(1864)の禁門の変で
焼失し、明治の廃仏毀釈と、明治5年(1872)から始まった新京極通の整備で
寺地を公収され、6500坪あった境内の4800坪が失われました。
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山門前の左側に明治15年(1882)9月に建立され、「迷子のみちしるべ」と
彫られた石標があります。
右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあり、その当時、落し物、
迷子などの時、落した人は捜す方へ、拾った人は教える方へ、
この石に紙に書いて張り出しました。
江戸末期から明治中期、迷子が深刻な社会問題となり各地の社寺や
盛り場に建てられたそうです。
月下氷人(仲人)役の石ということから、別名「奇縁氷人石」とも呼ばれました。
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現在の本堂は昭和39年(1964)に再建されました。
本尊は丈六(約4.85m)の阿弥陀如来坐像で、かって石清水八幡宮に
八幡神の本地仏として安置されていました。
神仏分離令により明治2年(1869)に誓願寺へ遷されました。
平安時代後期の定朝様で、鎌倉時代から南北朝時代の頃の作と見られています。

平安時代後期作の毘沙門天像は僧・常慶が一刀三礼して刻んだと伝わります。
平安時代、西国に名を馳せた盗賊が捕まり斬られようとした時に、
かつて誓願寺の本尊を信仰していた功徳により、刀が折れて助かりました。
盗賊は改心して出家し、常慶と号し毘沙門天像を刻んで誓願寺に安置しました。
毘沙門天像は国の重要文化財に指定され、
現在は京都国立博物館に寄託されています。

十一面観音菩薩像は空海の作とされ、かって誓願寺付近にあった
長金寺(ちょうごんじ)の一言堂(いちごんどう)の本尊でしたが、
明治の廃仏毀釈で廃寺となり、誓願寺へ遷されました。
一言で願いをかなえる「一言観音」と呼ばれ、また洛陽三十三観音霊場・第2番
及び新西国三十三観音霊場・第15番の札所本尊でもあります。
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本堂の右側には北向地蔵堂があります。
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本堂の左前には本堂前と同じ高さにかさ上げされた鐘楼があります。

洛陽三十三観音霊場・第1番及び西国三十三所観音霊場・第18番の札所である
頂法寺(六角堂)へ向かいます。
続く

谷汲山 華厳寺

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頂法寺(六角堂)の予定でしたが、画像に不備があり、
順序が逆になりますが西国三十三所・観音霊場の満願・結願の寺院である
谷汲山 華厳寺を先に掲載します。

谷汲山 華厳寺は、近畿二府四県に点在する西国三十三所の観音霊場で
唯一岐阜県にある満願・結願の札所となります。
冬の青春18きっぷを使い、7:33京都駅発の新快速・米原行に乗車、8:30米原に
到着し、8:33発の大垣行に乗り換えます。
9:05に大垣駅に着き、樽見鉄道に乗り換えます。
大垣駅~谷汲口駅は片道670円ですが、1日フリー切符が千円で発売されています。
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9:11に大垣駅を発ち、9:51に谷汲口駅に到着、駅を出ると10:00発の
バスが待っていてくれます。
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約8分間乗車して終点・谷汲山で下車すると総門があり、参道が北方向へ
一直線に伸びています。
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参道の左右には桜とカエデが交互に植えられ、桜と紅葉の並木道となりますが、
冬は葉を落とした枝越しに背後の山並みが望めます。
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参道を10分ほど歩くと仁王門があります。
仁王門は入母屋造、三間の二重門で、江戸時代の宝暦年間(1751~1764)に
再建されました。
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門には「谷汲山」の扁額が掲げられています。
平安時代の延暦20年(801)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917)には
醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜したとの
記録が残されています。
山号の「谷汲山」は、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が
汲めども尽きなかったことに由来しています。
約270年間途絶えていた西国観音霊場を再興した花山法皇は、
華厳寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺=おいずる)、杖、
及び三首の御詠歌を奉納したと伝わります。
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左右には運慶作と伝わる仁王像が安置されています。
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それぞれの仁王像の手前には巨大な草鞋が奉納されています。
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門をくぐってからも参道は一直線上に伸びています。
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参道の右側に放生池があり、その中に地蔵堂があります。
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堂内には金色に輝く地蔵菩薩像が安置されています。
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池の先にある建物は案内図によると「茶所」と記されています。
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更に右側の先に塔頭の一乗院がありますが、門は閉じられています。
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左側にあるのは塔頭の法輪院だと思われるのですが、
表札が消えていて定かではありません。
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一乗院の先に十王堂があり、死者の魂を裁く十人の裁判官が祀られています。
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中を覗いて見ると、かわいい十王尊像が安置されていて、極楽浄土に
往生の叶わなかった衆生を地獄の責め苦からの救済するとされる地蔵菩薩が、
閻魔大王の背後で光り輝いています。
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案内図では十王堂の北側に羅漢堂や地蔵院が描かれていますが、見つけられず、
その奥の方に地蔵尊が祀られていました。
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十王堂の向かい側には塔頭の明王院があり、豊川稲荷分霊の
吒枳尼天(だきにてん)が祀られ、「吒枳尼真天」(だきにしんてん)と
呼称されています。
吒枳尼天は、インドの古代民間信仰に由来する仏教の女神ですが、日本では
稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるようになりました。
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吒枳尼天堂は格子天井で、彩色された花の絵などが描かれています。
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明王院の本堂には本尊の阿弥陀如来が祀られています。
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参道には三十三度石とその先に百度石が立ち、更にその先に焼香堂があります。
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焼香堂の手前・右側に手水舎があり、観音像が持つ水瓶から流れ落ちています。
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焼香堂先の左側に一切経堂があります。
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経堂の向かい側に英霊堂があり、その右手前に延命地蔵尊が祀られています。
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英霊堂前の石段を上った右側に三十三所堂があります。
三十三所堂から先の石段は、現在工事中で通行ができません。
迂回して本堂へ向かいます。
続く

谷汲山 華厳寺-その2

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参道の左側へと進む迂回路には観音菩薩と勢至菩薩像が建立されています。
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迂回路を進むと中門があります。
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中門をくぐると内仏客殿があります。
その先に庫裏があり、玄関が見えます。
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内仏客殿の右側に大師堂があります。
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大師堂前から右側に本堂への石段があります。
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石段を上ると大師堂から本堂へ渡り廊下が続き、廊下の下をくぐります。
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廊下をくぐった先に笈摺堂(おいずるどう)があります。
西国三十三所を巡礼した人が着用してきた笈摺を奉納するお堂ですが、
自分も含めて笈摺を着用して巡礼している人は少ないように思われます。
かっての巡礼は、必要な物を背負って歩いたので、着物の背が摺り破れないよう、
着物の上へ笈摺を着けました。
現在、笈摺は御宝印をいただき、死後の旅路に着けるものとされています。
現在の笈摺堂には多数の千羽鶴などが奉納されています。
千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから
奉納されているようです。
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笈摺堂の前から左の石段を上った所に子安観音堂があり、
子安観音が祀られています。
願い事を記した多くのよだれかけが奉納されています。
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子安堂から左へ進むと満願堂への三十三段の石段が続きます。
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巡礼者は満願堂へ納め札を納めます。
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満願堂付近には狸の像が多数祀られていますが、なぜ狸なのかは不明です。
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「見狸・言わ狸・聞か狸」の像から右方向へと進んだ所に奥の院があります。
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石段を上り、本堂の裏側辺りに阿弥陀堂があり、
付近には石仏が祀られていますが詳細は不明です。
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奥の院までは片道1.5km約30分かかり、
次のバスの時間に間に合わないようなので不動堂へと下ります。
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不動堂の前には観音菩薩像が祀られています。
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不動堂から下ってきた所に鐘楼がありますが、礎石の一部に被害があったようです。
その被害は本堂前まで拡がっていて、本堂前の石段が通行禁止になっていました。
その工事のためか、ここから本堂の方へは通行ができず、元来た道を戻ります。
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笈摺堂から本堂の裏側を巡ります。
本堂の裏側には四天王像が安置されています。
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突き当りに苔の水観音が祀られています。
花山法皇が奉納した三種のご詠歌のうち、「万世の 願いをここに 納めおく
 水は苔より 出る谷汲」にちなむとされています。
観音像には病の治癒を祈願したお札が張られています。
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付近には大黒天像が安置されています。
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また、詳細不明の像も安置されています。
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本堂廻縁のコーナーには持経観音が祀られています。
持経観音は、岩に坐り手に右手に経巻を持ち、
左手は膝の上に置く姿で現されています。
観音が奉持する経典には、如来の説法の内容がすべて込められています。
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こちらの祠には??明王と記されていますが、文字が薄くなって判別できません。
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そして本堂へと入ります。
「戒壇めぐり」の入口がありますが、時間の都合で断念しました。

華厳寺の本尊は十一面観世音菩薩で秘仏とされています。
十一面観世音の尊像を建立したいと強く願っていた奥州会津黒河郷の
豪族・大口大領が、手に入れた霊木を持って京の都へ上り、尊像を完成させました。
大領が像を会津へ持ち帰ろうとしたのですが、美濃国の赤坂
(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなりました。
赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、
大領は谷汲の地へとたどり着き、そこで修行をしていた
豊然上人(ぶぜんしょうにん)と出会いました。
延暦17年(798)に二人が力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を
安置したのが華厳寺の始まりとされています。

建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、幾度となく
諸堂伽藍が焼失しましたが、本尊等は山中に移し難を逃れました。
文明11年(1479)、観音菩薩の夢告を受けた薩摩国鹿児島慈眼寺
住職・道破拾穀(どうはじっこく)により、再興されたと伝えられています。

現在の本堂は明治12年(1879)に再建されたもので、正面向拝の左右の柱に
「精進落としの鯉」が打ち付けられていますが、画像を撮り忘れました。

12:07発のバスに間に合うように下山したのですが、タッチの差で
出て行くバスを見送ることになりました。
次のバスは13:35ですので谷汲口駅まで歩くことにしました。
続く

樽見鉄道

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華厳寺の総門から県道40号線へと曲がった所に、平成13年(2001)に廃線に
なってなってしまった旧谷汲鉄道(後の名鉄・谷汲線)の谷汲駅があります。
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駅から先のレールは撤去され、もう動くことは無いモ510型とモ750型の
車両が留め置かれています。
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約1時間歩いて谷汲口駅に着いたものの、13:46発の電車は出たばかりで、
次は15:23までありません。
駅前には錆びついた昭和22年(1947)製造の旧国鉄のオハフ33が保存されています。
昭和55年(1980)10月に成立した国鉄再建法により、同59年(1984)10月に
国鉄の旧樽見線が第三セクターの樽見鉄道に転換されました。
客車は樽見鉄道の発足時に旧国鉄から3両を譲り受け、淡墨桜(うすずみさくら)
花見列車用として使用されていましたが、平成18年(2006)3月に
セメント輸送貨物列車の廃止と老朽化により、貨物列車も牽引していた
ディーゼル機関車とともに、この客車も役目を終えました。
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14:20樽見行が到着します。
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それに乗り込み、北上すると景色が一変します。
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終点・樽見駅から先にも数十m先までレールが伸びていますが、
かつて客車列車の機関車の付け替えに使われていたものです。
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平成20年(2008)4月に完成した「うすずみふれあいプラザ」と呼ばれる
新しい駅舎ですが、人は誰もいなく、駅前にあるモニュメントの塔が
何か寂しさを感じさせました。
しかし、終着駅という侘しさは無く、周辺には小規模ながら商店街もあり、
本巣市役所根尾総合庁舎もあります。
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折り返しのワンマンカーに乗り込み、大垣へ戻ります。

次回から東山七条周辺を巡ります。
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