大超寺から叡山電鉄の八幡駅前まで戻り、白川通を南進して、
音羽川沿いに東へ進み、修学院の集会所前を左折して、
道なりに進んだ先に赤山禅院の石鳥居が建っています。
赤山禅院は神社ではなく、延暦寺の塔頭で天台宗の寺院です。
鳥居に掛る「赤山大明神」の扁額は、後水尾天皇が修学院離宮行幸に際し、
赤山禅院は神社ではなく、延暦寺の塔頭で天台宗の寺院です。
鳥居に掛る「赤山大明神」の扁額は、後水尾天皇が修学院離宮行幸に際し、
賜ったものです。
赤山禅院は、平安時代に慈覚大師円仁の遺命により、仁和4年(888)に
天台座主・安慧(あんえ)によって創建されました。
円仁は最後の遣唐使として唐に留学し、遣唐使一行と離れて滞在した
円仁は最後の遣唐使として唐に留学し、遣唐使一行と離れて滞在した
赤山禅院を創建したと伝わります。
かってこの地には南淵年名(みなみふちのとしな)が、晩年に営んだ
かってこの地には南淵年名(みなみふちのとしな)が、晩年に営んだ
「小野山荘」がありました。
貞観19年(877)に南淵年名はその山荘で、日本初の音楽歌舞の遊宴である
貞観19年(877)に南淵年名はその山荘で、日本初の音楽歌舞の遊宴である
故事が起源で、最高齢の主人を含む7人の高齢者が招かれ、
あるいは集まり、詩賦(しふ)、あるいは和歌を楽しんだとされています。
「尚」はとうとぶ、「歯」は、年歯、年齢を表し、敬老の集まりの意味があります。
南淵年名の没後、延暦寺が山荘を買収して赤山禅院を創建しました。
境内には「小野山荘旧跡」と「我邦(国)尚歯会発祥之地」の石碑が建っています。
「尚」はとうとぶ、「歯」は、年歯、年齢を表し、敬老の集まりの意味があります。
南淵年名の没後、延暦寺が山荘を買収して赤山禅院を創建しました。
境内には「小野山荘旧跡」と「我邦(国)尚歯会発祥之地」の石碑が建っています。
参道は緩い坂道なっており、坂道を登って行くと山門があります。
参道の突き当りの左側に石段があります。
石段を上った正面に拝殿があります。
屋根の上には御幣とかぐら鈴を持ち、皇城(京都御所)を守護している
猿像が祀られています。
十二支で鬼門(丑寅)と反対の方角が未申であることから、
十二支で鬼門(丑寅)と反対の方角が未申であることから、
猿の像が鬼門避けとして祀られています。
かつて夜な夜な悪さをしたため、逃げ出さないよう金網の中に
かつて夜な夜な悪さをしたため、逃げ出さないよう金網の中に
入れられていると言われます。
本殿には安慧によって勧請された泰山府君が赤山大明神として祀られています。
内裏の表鬼門の方角に当たり、皇城守護の寺として皇室から信仰されてきました。
本殿には「皇城表鬼門」の木札が掲げられています。
内裏の表鬼門の方角に当たり、皇城守護の寺として皇室から信仰されてきました。
本殿には「皇城表鬼門」の木札が掲げられています。
正念誦
還念珠
本殿の前に大きな数珠の輪があります。
こちらは「正念誦(しょうねんじゅ)」といい、境内の順路に従って進むと
こちらは「正念誦(しょうねんじゅ)」といい、境内の順路に従って進むと
出口付近にあるのが「還念珠(かんねんじゅ)」と名付けられています。
正念誦をくぐりながら、心にうかんだ願いについて、境内を参拝する間思い続け、
正念誦をくぐりながら、心にうかんだ願いについて、境内を参拝する間思い続け、
還念珠をくぐる時、その願いが大切だと考えるなら、
その願いに向け努力することを誓います。
雲母(きらら)不動堂は、廃寺となった雲母寺の本堂が移築されました。
雲母寺は比叡山への登山口、雲母坂の音羽谷に平安時代末期の
雲母寺は比叡山への登山口、雲母坂の音羽谷に平安時代末期の
元慶年間(877~884)に創建されました。
本尊は伝教大師最澄作の不動明王立像でしたが、明治18年(1885)に廃寺となり、
本尊は伝教大師最澄作の不動明王立像でしたが、明治18年(1885)に廃寺となり、
本堂と本尊は赤山禅院に遷されました。
不動堂の脇には昔の消火用手押しポンプが置かれていました。
境内の東側に山手へと登る石段があり、その脇に滝行場があり、
滝不動が祀られています。
残念ながら外からは滝行場が望めないので、撮影は諦めました。
石段を上ると、正面に相生社があります。
残念ながら外からは滝行場が望めないので、撮影は諦めました。
石段を上ると、正面に相生社があります。
左側へ進むと歓喜天が祀られています。
更に左へ進んだ所に金神社があり、鬼門方除けの神とされています。
鬼門思想は中国から伝来し、古代の中国では北東方角を鬼門と呼び、
鬼門思想は中国から伝来し、古代の中国では北東方角を鬼門と呼び、
異界の鬼が人間界と行き来する出入り口があると考えられていました。
日本では陰陽道の思想を取り入れ、北東の艮(うしとら)とは、
日本では陰陽道の思想を取り入れ、北東の艮(うしとら)とは、
北方の陰から東方の陽へと転ずる急所とされ、畏れられてきました。
金神(こんじん)は、方位神の一つであり、鬼門を護る神とされています。
艮の金神は「久遠国」という夜叉国の王である、巨旦大王の精魂とされています。
金神(こんじん)は、方位神の一つであり、鬼門を護る神とされています。
艮の金神は「久遠国」という夜叉国の王である、巨旦大王の精魂とされています。
金神社の右側には、手前から十禅士権現、住吉大明神、新羅(しんら)大明神、
賀茂大明神、平野大明神、西宮大明神、松尾大明神が祀られています。
慈覚大師円仁は、遣唐使として唐に留学したのですが、
慈覚大師円仁は、遣唐使として唐に留学したのですが、
請益僧(しょうやくそう)として短期間の留学しか認められていませんでした。
唐の皇帝へ唐への留住を何度も願い出たのですが認められず、
唐の皇帝へ唐への留住を何度も願い出たのですが認められず、
そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒し、不法在唐を決意しました。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高(ちょうほこう)をはじめとする
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高(ちょうほこう)をはじめとする
多くの新羅人海商が活躍していました。
円仁は張宝高が設立した赤山法華院に滞在し、張宝高は円仁の
円仁は張宝高が設立した赤山法華院に滞在し、張宝高は円仁の
9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援しました。
円仁の没後の延長2年(924)に新羅神社は創建されました。
円仁の没後の延長2年(924)に新羅神社は創建されました。
金神社の左側には八幡大菩薩、天照皇大神宮、春日大明神が
祀られた社殿があります。
金神社から下ると放生池があります。
池の淵を進んだ先に福禄寿殿があります。
都七福神めぐりの福禄寿、神仏霊場・第107番の朱印所になります。
福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、
都七福神めぐりの福禄寿、神仏霊場・第107番の朱印所になります。
福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、
三体一組の神でした。
中国では、明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた
中国では、明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた
「三星図」を飾る風習があります。
「三星図」はさまざまな形態で描かれ、日本人には二物を伴った
「三星図」はさまざまな形態で描かれ、日本人には二物を伴った
一人の神に見えたため、日本では福禄寿を三人ではなく一人の神格とする
認識が流布したと考えられています。
福禄寿殿の左側には、七福神の像が祀られています。
福禄寿殿から左側へ進んだ先に稲荷社があります。
手前の小さな社殿にも狐の像が祀られています。
手前の小さな社殿にも狐の像が祀られています。
本殿の左側に弁天堂があります。
弁天堂の左側に十六羅漢の石像が祀られています。
十六羅漢像の右側に三十三観音像が祀られています。
十六羅漢像から左奥の方向に地蔵堂があります。
赤山禅院では、赤山大明神は地蔵菩薩の化身であるとされています。
赤山禅院では、赤山大明神は地蔵菩薩の化身であるとされています。
地蔵堂の左側の建物には、たくさんのわらじが吊るされています。
比叡山の千日回峰行は、7年間にわたって行われ、5年700日を満行すると、
比叡山の千日回峰行は、7年間にわたって行われ、5年700日を満行すると、
最も過酷とされる「堂入り」が行われます。
堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる
堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる
阿闍梨となり、行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入ります。
6年目からはこれまでの行程に赤山禅院への往復が加わり、
6年目からはこれまでの行程に赤山禅院への往復が加わり、
1日約60kmの行程を100日続けられます。
7年目には200日行い、はじめの100日は全行程84kmにおよぶ京都大回りで、
7年目には200日行い、はじめの100日は全行程84kmにおよぶ京都大回りで、
後半100日は比叡山中30kmの行程に戻ります。
京都大回りでは、行者は深夜2時に無道寺谷を出て比叡山中30kmの山廻りを
京都大回りでは、行者は深夜2時に無道寺谷を出て比叡山中30kmの山廻りを
行った後に明王堂に戻り、それから雲母坂を下って赤山禅院へ入ります。
赤山禅院ではわらじを履き替え、
赤山禅院ではわらじを履き替え、
お加持を行った後に京都市内の神社仏閣を巡拝します。
境内では紅葉と早咲きの桜を愛でることができました。
神仏霊場・第108番及び近畿36不動尊霊場・第17番札所である
曼殊院へ向かいます。
続く
続く