七条通から壬生川通を北上し、花屋町通を西へ進んだ所に島原大門があります。
大門前には当時の区画を記した石版があります。
島原にはかって遊郭がありました。
歴史は室町時代まで遡り、足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した
島原にはかって遊郭がありました。
歴史は室町時代まで遡り、足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した
傾城町(けいせいまち)が日本の公娼地の始まりとされています。
江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、
江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、
「島原」と呼ばれるようになりました。
急な移転騒動が、九州での島原の乱の直後であったため、
急な移転騒動が、九州での島原の乱の直後であったため、
「島原」と呼ばれるようになったと伝わります。
新しい土地の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門が造られました。
島原は元禄期に最も栄え、また、和歌や俳諧等の文芸も盛んで、
新しい土地の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門が造られました。
島原は元禄期に最も栄え、また、和歌や俳諧等の文芸も盛んで、
島原俳壇が形成されました。
しかし、立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となり、
しかし、立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となり、
祇園や上七軒などに人が流れ、次第に衰退していきます。
嘉永4年(1851)の大火で揚屋町以外の島原のほとんどが焼失しますが、
嘉永4年(1851)の大火で揚屋町以外の島原のほとんどが焼失しますが、
幕末には西郷隆盛や久坂玄瑞などの薩長の藩士に新撰組も出入りしていたようです。
明治以降は更に寂れて「太夫道中」などの行事で支えていましたが、
明治以降は更に寂れて「太夫道中」などの行事で支えていましたが、
昭和後期にお茶屋組合が解散して普通の住宅地となりました。
大門をくぐった先で右折して北へと進んだ所に、太夫や芸妓(げいぎ)を
派遣する置屋の「輪違屋(わちがいや)」があります。
輪違屋は元禄年間(1688~1704)の創業と伝わりますが、
輪違屋は元禄年間(1688~1704)の創業と伝わりますが、
嘉永4年(1851)の大火で焼失しています。
現在の建物は安政4年(1857)の再建と伝わり、京都市の文化財に指定されています。
現在の建物は安政4年(1857)の再建と伝わり、京都市の文化財に指定されています。
法華寺・妙見堂
輪違屋から更に北へ進んだ所に法華寺があり、
洛陽十二支妙見巡り・第8番(未)の札所となっています。
法華寺は弘化14年(823)に東寺の塔頭・法華堂として創建され、
法華寺は弘化14年(823)に東寺の塔頭・法華堂として創建され、
かっては東寺の北門の北にありました。
鎌倉時代の宝治年間(1247~1249)に日蓮聖人が密教を勉学する為、
鎌倉時代の宝治年間(1247~1249)に日蓮聖人が密教を勉学する為、
法華堂に止住し、別当・真広法印より東密の秘要を学んだと伝わります。
弘安4年(1282)、真広法印は身延山に日蓮聖人を訪ね、直弟子となりました。
成就山法華寺の山号を賜わり、日蓮聖人を開山とし日蓮宗に改宗しました。
日蓮聖人の弟子・日像上人が京都での布教活動を行ったため、流罪となり
弘安4年(1282)、真広法印は身延山に日蓮聖人を訪ね、直弟子となりました。
成就山法華寺の山号を賜わり、日蓮聖人を開山とし日蓮宗に改宗しました。
日蓮聖人の弟子・日像上人が京都での布教活動を行ったため、流罪となり
京都を追放され、2年後に赦免され京都に戻ったのですが、
翌年にはまた流罪となりました。
三度の追放と赦免という「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受けました。
また、室町時代の天文年間(1532~1555)には延暦寺の僧兵が京都市中に
三度の追放と赦免という「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受けました。
また、室町時代の天文年間(1532~1555)には延暦寺の僧兵が京都市中に
押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払いました。
更にその兵火は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失し、
更にその兵火は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失し、
兵火による被害規模は応仁の乱を上回ったとされています。
この「天文法難」により、隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、
この「天文法難」により、隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、
法華衆徒は洛外に追放されました。
以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となりましたが、
以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となりましたが、
天文11年(1542)に京都帰還を許す勅許が下り、天文16年(1547)には
延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立しました。
法華寺は江戸時代には妙見菩薩が神戸、大阪の商人達に開運、
商売繁盛の祈願所として信仰せられ多くの講中がありました。
昭和38年(1963)に新幹線の工事に伴い、現在地に移転したため
未方位(南南西)の法華寺と申方位(西南西)の慈雲寺が逆になりました。
門を入った右側に妙見堂があり、像高50cmの妙見菩薩坐像の他に毘沙門天、
七面天女、鬼子母神が祀られています。
七面天女は法華経を守護する女神で、鬼子母神の子とされています。
また、毘沙門天が守護する北方の城に住むと伝わります。
妙見堂の前には亀と蛇が合体したとされる玄武に乗る妙見大菩薩像
と思われる香炉があります。
妙見堂の左側には法華寺の前身である法華堂の石標があります。
また、日蓮聖人が手掘りされたと伝わる「硯水之井戸」がありますが、
実際に掘られた井戸は新幹線の高架下になってしまったと思われます。
正面の本堂には釈迦如来像、普賢菩薩像、文殊菩薩像、不動明王像、
日蓮聖人像が安置されています。
日蓮聖人像は「わらじぬぎの祖師像」と呼ばれる、若い頃の姿を写した立像です。
日蓮聖人像は「わらじぬぎの祖師像」と呼ばれる、若い頃の姿を写した立像です。
慈雲寺へ向かったのですが、不在だったため、次の目的地である
壬生寺へ向かいます。
続く
続く