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法華寺

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七条通から壬生川通を北上し、花屋町通を西へ進んだ所に島原大門があります。
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大門前には当時の区画を記した石版があります。
島原にはかって遊郭がありました。
歴史は室町時代まで遡り、足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した
傾城町(けいせいまち)が日本の公娼地の始まりとされています。
江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、
吉野太夫夕霧太夫高尾太夫などの名妓が輩出しました。
しかし、寛永18年(1641)に現在地への移転が命ぜられ、
「島原」と呼ばれるようになりました。
急な移転騒動が、九州での島原の乱の直後であったため、
「島原」と呼ばれるようになったと伝わります。
新しい土地の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門が造られました。
島原は元禄期に最も栄え、また、和歌や俳諧等の文芸も盛んで、
島原俳壇が形成されました。
しかし、立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となり、
祇園や上七軒などに人が流れ、次第に衰退していきます。
嘉永4年(1851)の大火で揚屋町以外の島原のほとんどが焼失しますが、
幕末には西郷隆盛や久坂玄瑞などの薩長の藩士に新撰組も出入りしていたようです。
明治以降は更に寂れて「太夫道中」などの行事で支えていましたが、
昭和後期にお茶屋組合が解散して普通の住宅地となりました。
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大門をくぐった先で右折して北へと進んだ所に、太夫や芸妓(げいぎ)を
派遣する置屋の「輪違屋(わちがいや)」があります。
輪違屋は元禄年間(1688~1704)の創業と伝わりますが、
嘉永4年(1851)の大火で焼失しています。
現在の建物は安政4年(1857)の再建と伝わり、京都市の文化財に指定されています。
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法華寺・妙見堂
輪違屋から更に北へ進んだ所に法華寺があり、
洛陽十二支妙見巡り・第8番(未)の札所となっています。
法華寺は弘化14年(823)に東寺の塔頭・法華堂として創建され、
かっては東寺の北門の北にありました。
鎌倉時代の宝治年間(1247~1249)に日蓮聖人が密教を勉学する為、
法華堂に止住し、別当・真広法印より東密の秘要を学んだと伝わります。
弘安4年(1282)、真広法印は身延山に日蓮聖人を訪ね、直弟子となりました。
成就山法華寺の山号を賜わり、日蓮聖人を開山とし日蓮宗に改宗しました。
日蓮聖人の弟子・日像上人が京都での布教活動を行ったため、流罪となり
京都を追放され、2年後に赦免され京都に戻ったのですが、
翌年にはまた流罪となりました。
三度の追放と赦免という「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受けました。
また、室町時代の天文年間(1532~1555)には延暦寺の僧兵が京都市中に
押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払いました。
更にその兵火は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失し、
兵火による被害規模は応仁の乱を上回ったとされています。
この「天文法難」により、隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、
法華衆徒は洛外に追放されました。
以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となりましたが、
天文11年(1542)に京都帰還を許す勅許が下り、天文16年(1547)には
延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立しました。

法華寺は江戸時代には妙見菩薩が神戸、大阪の商人達に開運、
商売繁盛の祈願所として信仰せられ多くの講中がありました。

昭和38年(1963)に新幹線の工事に伴い、現在地に移転したため
未方位(南南西)の法華寺と申方位(西南西)の慈雲寺が逆になりました。

門を入った右側に妙見堂があり、像高50cmの妙見菩薩坐像の他に毘沙門天、
七面天女、鬼子母神が祀られています。
七面天女は法華経を守護する女神で、鬼子母神の子とされています。
また、毘沙門天が守護する北方の城に住むと伝わります。
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妙見堂の前には亀と蛇が合体したとされる玄武に乗る妙見大菩薩像
と思われる香炉があります。
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妙見堂の左側には法華寺の前身である法華堂の石標があります。
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また、日蓮聖人が手掘りされたと伝わる「硯水之井戸」がありますが、
実際に掘られた井戸は新幹線の高架下になってしまったと思われます。
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正面の本堂には釈迦如来像、普賢菩薩像、文殊菩薩像、不動明王像、
日蓮聖人像が安置されています。
日蓮聖人像は「わらじぬぎの祖師像」と呼ばれる、若い頃の姿を写した立像です。

慈雲寺へ向かったのですが、不在だったため、次の目的地である
壬生寺へ向かいます。
続く


壬生寺

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壬生川通を北上し、高辻通で左折して西へ進み、坊城通を右折して北上した
左側に壬生寺があり、京都では珍しい律宗の別格本山です。
東門(表門)は高麗門で江戸時代の寛政11年(1799)に再建されました。

壬生寺は壬生寺は平安時代の正暦2年(991)に園城寺(三井寺)の
快賢僧都によって創建され、小三井寺と称しました。
快賢僧都は母の菩提を弔うために、五条坊門壬生に堂宇を建て、
仏師・定朝が造立した像高約90cmの地蔵菩薩像を安置し本尊としました。
承歴(じょうりゃく)元年(1077)、第72代・白河天皇の勅命により
地蔵院が建立され、「地蔵院」の勅額と寺号を賜り、勅願寺となりました。
また、壬生寺が京都の裏鬼門にあたることから、天皇の発願により、
毎年2月に節分厄除大法会が始められました。

鎌倉時代の建保元年(1213)、平宗平(たいら の むねひら)により、
現在地に移されて伽藍が建立され、寺領が寄進されました。
正嘉元年(1257)に焼失した翌年、平宗平の子・政平に再興され、
本堂・阿弥陀堂・釈迦堂・別殿・宝塔・大門が建立され、
「宝幢三昧寺(ほうどうさんまいじ)」と改称されました。
平政平の再興に際し、円覚(えんがく)上人は勧進を行って中興の祖とされました。
正安2年(1300)、円覚上人は「大念佛会」を修し、仏教を大げさな
身ぶり手ぶりで、群衆にわかりやすく説こうとしました。
これが壬生狂言の始まりと伝わり、円覚上人が考え出した無言劇の形態は
「持斎融通(じさいゆうづう)念仏」と呼ばれました。
また、上人により「心浄光院」と改称されました。

戦国時代の享禄元年(1528)、細川高国と丹波勢に阿波勢が加わった
連合軍の戦いで、壬生寺は焼失し、本堂と南門を除いて破壊されました。

江戸時代の天明8年(1788)には京都で発生した史上最大規模の火災
天明の大火)で焼失しました。
この火災では当時の京都市街の8割以上が焼失し、宝永5年(1708)の宝永の大火、
元治元年(1864)の元治のどんどん焼けと共に
「京都の三大大火」とも呼ばれています。
幕末の文久3年(1863)には壬生浪士組が壬生村で結成され、
後の新撰組の前身となりました。
明治元年(1868)に出された神仏分離令により、11あった塔頭は中院のみを
残して廃されました。
昭和37年(1962)には不審火(放火)により本堂が焼失しました。
本尊であった鎌倉時代作の木造地蔵菩薩半跏像や同時代作の木造四天王立像
及び正嘉元年(1257)銘があった金鼓(鰐口)も焼失しました。
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門を入った右側に「一夜天神堂」があり、中央に一夜天神、向かって右に
金毘羅大権現、左には壬生寺の鎮守である六所明神が祀られています。
一夜天神とは大宰府に左遷されることになった菅原道真が、壬生にある
親戚を訪ね一夜を明かしたという故事に由来しています。
江戸時代の寛文12年(1672)に支院・静寂庵の開祖・託願上人の夢枕に
道真が立ち、祀るように告げました。
託願上人が神像を刻んで祀ると「一夜で智慧が授かる」として、
「一夜天神」と呼ばれるようになりました。
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「一夜天神堂」の先に阿弥陀堂があり、その右端に「夜泣き地蔵」が
祀られています。
元は塔頭の中院に祀られていたもので、「おせき地蔵」とも呼ばれ、
病気平癒や幼児の夜泣き止めにご利益があるとされています。
家の近所に夜になると泣き出す迷惑犬がいるのですが、犬の夜泣きも
止められれば良いのに...と思い祈りました。
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阿弥陀堂は鎌倉時代の建保元年(1213)に平宗平(たいら の むねひら)
により創建されました。
その後、度々の災禍を被り、江戸時代の天保14年(1843)に前川五郎左衛門の
尽力により復興されました。
前川家は文久3年(1863)から約2年間、壬生浪士組の屯所となりました。
文久3年(1863)3月3月、浪士組が会津藩御預となった頃から、
前川邸は本格的に屯所として使われ始め、一家は油小路六角にあった
前川本家へと避難しました。
本尊の阿弥陀三尊像は復興時の造立と見られています。
堂内には売店もあり、また背後にある壬生塚(新選組隊士の墓所)への
入口となります。
墓所はかって、寺が管理する旧壬生村墓地にありましたが、
昭和46年(1971)に俳優の上田吉次郎氏により現在地に移されました。
壬生塚と阿弥陀堂の地下にある歴史資料館の拝観料は200円で、
後で行こうと考えていたのですが、忘れてしまいました。
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壬生塚は龍が住む?池の中にある島にあります。
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阿弥陀堂の左側に弁天堂があります。
創建されたのは不明ですが、現在の建物は明治27年(1894)に
再建されたものです。
正面にある「弁財天」と刻まれた線香立ての裏側には、
弘化4年(1847)の銘があります。
かっては、境内の西北にある池の畔にありましたが、
戦後に現在地に遷されました。
本尊の辧財天は、清水寺の延命院より遷された塑像で、
厨子に納められ、秘仏とされています。
堂内の左側に荼枳尼天(だきにてん)、右側に稲荷明神が祀られています。
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弁天堂の左側に「水掛地蔵」が祀られた地蔵堂があります。
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水掛地蔵尊は像高152cmで、江戸時代の慶安2年(1649)に造立され、
一つの願いを水を掛けて祈ると成就するとされています。
地蔵像のひびの跡は、江戸時代に地震で倒壊した際に補修されたものです。
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「水掛地蔵」の参道を挟んだ斜め前に塔頭の中院があります。
中院は江戸時代の寛永年間(1624~1643)に創建され、
かっては中之坊と呼ばれていました。
明治年間(1868~1917)に律宗の修行道場となり、
中院と呼ばれるようになりました。
現在の建物は、文政12年(1829)に再建されたものです。
堂内には本尊である鎌倉時代作の十一面観音菩薩像が安置され、
洛陽三十三観音霊場・第28番札所の本尊ともなっています。
また、向かって右側には京都十二薬師霊場の第4番札所の本尊である、
平安時代作の歯薬師如来像が安置されています。
左脇侍(向かって右側)に日光菩薩像、右脇侍に月光菩薩像が安置されています。
脇侍は共に鎌倉時代の作です。
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中院の右側に嘉永4年(1851)に再建された鐘楼があります。
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梵鐘は嘉永元年(1848)に鋳造されました。
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参道の正面に本堂があります。
本日は壬生大念仏狂言の春の特別公開日でもあり、多くの参拝者が訪れています。
現在の本堂は昭和37年(1962)に焼失後、昭和45年(1970)に
コンクリート造りで再建され落慶法要が行われました。
本尊の延命地蔵菩薩立像は、律宗本山の唐招提寺から遷されました。
平安時代作で現存する日本最古級とされ、国の重要文化財に指定されています。
脇侍には掌善童子像(しょうぜんどうじぞう)と
掌悪童子像(しょうあくどうじぞう)が安置されています。

壬生寺は中国の揚州にある文峰寺と姉妹寺院の関係にあり、
鑑真和上坐像二躯が造られ、一躯が平成28年(2016)に日本に運ばれ、
壬生寺に安置されました。
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本堂の左側に平成元年(1988)に建立され、ミャンマーのパゴダを
模した千体仏塔があります。
明治時代に京都市の区画整理の際に各地から集められた、
室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など千躯が安置されています。
地蔵盆には地蔵菩薩像が各地に貸し出されます。

洛陽三十三観音霊場・第26番札所である正運寺へ向かいます。
続く

正運寺

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壬生寺を出て坊城通を北上し、四条通を右折して東進し、四条大宮から
大宮通を北上して錦小路の次の通りを西に入った北側に正運寺があります。
正運寺は浄土宗鎮西派の寺院です。
安土・桃山時代末期の慶長5年(1600)に、熊本藩主・加藤清正の重臣である
飯田覚兵衛が浄土宗の深誉を開山として創建されました。
当初は勝軍寺と称されていましたが、後に正運寺へと改称されました。
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正面の山門からは入ることができませんので、横にある木戸から入ると
左側に観音堂があります。
本尊は1尺2寸(36cm)の十一面観音菩薩像で、仏師・運慶が室内で光り
輝く観音像を見つけ、俗舎に置くことを恐れて寺に安置したと伝わります。
また、運慶が大和国・長谷寺の十一面観音菩薩像と同じ木で造ったとも伝わります。
洛陽三十三観音霊場・第26番の札所本尊でもあります。
正運寺は江戸時代の天明8年(1788)の天明の大火で焼失していますが、
十一面観音菩薩像と厨子は焼失を免れました。
絶対秘仏とされ、一度も開帳されたことがありません。
かって、身重の女性が観音菩薩を信仰し、お参りしたところ無事に
出産したことから「安産寺」と呼ばれるようになりました。
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観音堂の前、両側に二躯の賓頭盧尊者像が安置されています。
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観音堂の左側には鎮守社があります。
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本堂や境内の建物は大火後に再建されました。
本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置されています。
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納経は庫裏で行います。
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山門の横に「正運寺」と刻字された手水鉢に気付きました。
大火以前のものかと想像されます。

京都十二薬師霊場・第9番札所の薬師院へ向かいます。
続く

薬師院

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正運寺から大宮通を北上して御池通を右折し、東へ進んで釜座通を左折して
北上した左側に薬師院があります。
薬師院は山号を醫徳山と号する黄檗宗の寺院です。
奈良時代の延暦元年(782)、16歳だった最澄は一刀三礼して七躯の
薬師如来像を刻みました。
その後、美濃国横倉に医徳堂を建立し、その内の一躯を安置しました。

鎌倉時代の寛喜2年(1230)、疫病が全土に流行して、貴族や民衆の区別なく
死者が相次いだある日のこと、医徳堂の住職の夢に本尊の薬師如来が現れ、
次のように告げました。
「わたしの前に来れば一切の病苦を取り除こう。来也(こぬか)、来也」
感激した住職はお告げをふれ回ると、遠国からも病人が集まり薬師如来に祈ると、
諸病は平癒し、以後「こぬか薬師」と呼ばれるようになったと伝わります。

安土・桃山時代に上洛を果たした織田信長が、御利益を聞いて美濃から
現在地に遷しました。
江戸時代の元禄元年(1688)に鉄面寂錬禅師によって再興されました。
当時は大黒町一帯にまたがる広大な境内を持ち、「こぬか薬師」は
京都七薬師の一つに数えられ栄えました。
しかし、幕末の元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった
蛤御門の変で焼失しました。
明治22年(1889)になって緑樹院竺丈禅師が三井家・近衛家の外護によって
裏門を正面にして縮小再建されました。
戦後は再び荒廃し、平成12年(2000)にようやく庫裏が再建されました。
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本尊の薬師如来像は、最澄が刻んだ現存する二躯の内の一躯で、
もう一躯は延暦寺に安置されています。
秘仏とされ、毎年10月8日にのみ開扉され法要が行われます。
京都十二薬師霊場・第9番札所本尊でもあります。
「こぬか」の由来については、周囲に鹿子(かのこ)髪と呼ばれる
髪形の女性が多く、「かのこ薬師」と呼ばれていたのが転じたとの説もあります。
薬師院はかつて薬の市が立ったと云われ、二条通に薬問屋や
漢方薬店が多いのはその名残と伝わります。
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薬師堂の左手前には手水鉢が置かれています。
名前は不明ですが紫色の葉が印象的でした。

京都十二薬師霊場・第10番札所の大福寺へ向かいます。
続く

大福寺

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薬師院前の釜座通を二条通まで南下し、二条通を麩屋町通まで東へ進み、
麩屋町通を北上した左側に大福寺があります。
屋根には大黒天が祀られています。
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瑠璃光山 利生院 大福寺と号する天台宗の寺院です。
大福寺は推古天皇の時代(593~628)に大和国の宮田郷で、
聖徳太子により創建されたと伝わります。
平安時代の初め、勅旨により現在地に移転しました。
かっては皇室からの崇敬もあり、最盛期には北は夷川通、南は二条通、
東は麩屋町通、西は富小路通に囲まれた境内に七堂伽藍が建立されていました。
しかし、江戸時代の天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、寺域の殆どを失い、
現在は民家のようなお堂を残すのみとなりました。
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堂内に安置されている本尊の薬師如来像は、聖徳太子が自ら刻んだと伝わり、
京都十二薬師霊場・第10番札所本尊でもあります。
薬師如来像は菩提薬師とも呼ばれて、洛中の名薬師と謳われました。
菩提を得た者が仏であり、これを目指す衆生が菩薩と云われています。
菩提を古くは「ほてい」と呼ばれていたようで、「布袋」の字が当てられ、
それを細工人が屋号として「ほてい屋」を掲げたことから
「布袋屋町」の町名となったと伝わります。
他に千手観音像、安産腹帯地蔵尊像、延命地蔵像、准胝観音像、元三大師像、
布袋尊像などが安置されています。
布袋尊は京都七福神の札所本尊でもあります。

また、江戸時代では商家は正月(節分とも...)に大福寺の
「大福」の縁起に因み、金銭出納帳に寺の宝印を貰うことが慣例となりました。
出納帳が大福帳と呼ばれるようになった起源とされています。

幕末には儒学者である梅田雲浜(うめだ うんぴん)が境内に
仮住まいをしていました。
梅田雲浜は文化12年6月7日(1815年7月13日)に小浜藩士・
矢部義比(やべ よしちか)の次男として誕生しました。
その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、天保14年(1843)には京都へ移り、
藩の塾である望楠軒(ぼうなんけん)の講師となりました。
しかし、嘉永5年(1852)に藩主・酒井忠義に意見を申し立てたことが怒りに
触れて藩籍を剥奪されました。
翌嘉永6年(1853)、ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による
攘夷運動を訴え、幕政を激しく批判しました。
これが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者と
なりました。
捕縛後は京都から江戸に送られ、安政6年9月14日(1859年10月9日)、
45歳で獄中で病死しました。

また、安政2年(1855)に千代と結婚しています。
梅田千代は明治5年(1872)、京都に女子の教育機関である
女紅場(にょこうば)が設立されると、教師として採用され、
新島八重子らと協力して教育に携わりました。
千代は維新後も大福寺に住み続けたと伝わります。

洛陽十二支妙見・丑の札所である本満寺へ向かいます。
続く

台風21号

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平成30年(2018)9月4日、台風21号が近畿地方を横断しました。
午前6時、手持ちの腕時計の気圧計では997.3hPaで天気は晴れ、穏やかな風が
吹いていて、台風の接近は全く感じられない穏やかな朝となりました。
その後、1時間ごとに気圧が約1hPa毎下がり、午前9時過ぎには
気圧が993.7hPaに下がり、天候も曇りとなりました。
午前11時、気圧は989.3hPaになり、小雨が降り出し、
やや強い風が吹き出しました。
午前11:30になると気圧は986.7hPaに下がり、雨・風共にやや強く、
台風の接近が感じられるようになってきました。
午後12:30、台風は徳島県に上陸し、気圧は980.1hPaで、
気圧の降下が早くなってきました。
午後1:00に気圧は975.1hPaに低下し、風が強まってきました。
午後1:30には空が暗くなり、室内で照明を点灯しました。
気圧は969.4hPaまで下がり、猛烈な風となりました。
午後2:00、台風は神戸市に再上陸し、気圧は964.2hPaまで下がり、
猛烈な雨と風に見舞われました。
午後2:30、気圧は968.2hPaと上がり、台風の中心が通り過ぎたことが
確認できましたが、依然として猛烈な雨と風が雨戸を叩きます。
午後3:00、気圧は975.6hPaで、ピーク時と比べると幾分弱まりましたが、
まだまだ強い風が吹いています。
午後4:00頃、雨が上がり、気圧も980hPaを超えてきましたが、
時々強風が吹いています。
現在地に引っ越しして約30年になり、幸いにも我が家に被害はありません
でしたが、経験した最も強い台風でした。

本満寺

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大福寺から麩屋町通を北上し、竹屋町通を右折後、寺町通で左折して北上した先、
右側に本満寺があります。
本満寺は山号を広宣流布山(こうせんるふざん)と号する日蓮宗の本山です。
天文法華の乱で焼き討ちされる以前から存在した法華宗の
本山・洛中法華二十一ヶ寺の一つで、現在の八本山及び十六本山の
それぞれにも数えられています。
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総門の手前、左側に妙見宮があり、洛陽十二支妙見・丑の札所となっています。
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本満寺・第13世に就任した日乾(にっけん)は、自ら妙見菩薩像を二躯刻み、
一躯をこの妙見宮に、もう一躯を能勢妙見宮に安置しました。
能勢妙見宮は本満寺の旧末寺・真如寺の境外仏堂で、
真如寺は身延山久遠寺・第21世に就いた日乾に帰依した能勢頼次により、
創建されました。
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総門をくぐった先に七面堂があります。
第14世・日遠が七面山で千日修行を行った際に感得したとされる
七面天女が祀られています。
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七面堂から参道を右側に曲がり、その先を左に曲がった先に
「洗い浄行菩薩像」が祀られています。
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菩薩像の前に鐘楼があります。
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現在の本堂は明治44年(1911)2月8日に焼失し、
昭和2年(1927)に再建されました。
本満寺は応永17年(1410)に関白・近衛道嗣の子である日秀が、
本圀寺(ほんこくじ)から分立し、道嗣の別荘であった現在の
上京区元本満寺(新町通今出川上る西入付近)に創建しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で焼失した後、関白・近衛尚通が
現在地に再建し、第105代後奈良天皇の勅願寺となりました。
その後、寛文元年(1661)と宝永5年(1708)及び天明8年(1788)にも
大火で焼失しましたが、その都度再建されました。
万治4年(1751)には徳川吉宗の病気平癒を祈願し、幕府祈願所となりました。
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本堂の左側に蓮乗院霊屋があります。
蓮乗院(れんじょういん)は徳川家康の次男・松平秀康の正室で、
蓮乗院霊屋は元和7年(1621)に没後間もなく建立されたと考えられています。
鶴姫(蓮乗院)は常陸国(茨城県)の水戸城主・江戸重通の娘として生まれました。
天正18年(1590)、水戸城は佐竹義重の攻撃を受け落城し、
重通は結城晴朝の許へと逃れました。
重通の妻は結城晴朝の妹というような関係になります。
晴朝は豊臣秀吉との結びつきを求めて養子の紹介を願い出たところ、
秀吉が養子としていた羽柴秀康が婿養子として鶴姫と婚姻し、
結城家の家督を継ぐことになりました。
関ヶ原の戦いの後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から
越前北庄68万石に加増移封されました。
慶長9年(1604)には松平氏に復されましたが、
慶長12年(1607)に34歳で病死しました。
その後、鶴姫は公卿・烏丸光広(からすまる みつひろ)と再婚しました。
寛永15年(1638)、烏丸光広が60歳で亡くなると、鶴姫は福井に移り
結城家を継いだ子の直基と暮らし、福井で亡くなりました。
直基は秀康の五男で実母は鶴姫の侍女でした。
鶴姫が没後は烏丸家に縁がある本満寺に葬られました。
蓮乗院霊屋は越前産・笏谷(しゃくだに)石を用いた石造建築で、
内部に元和7年(1621)の陰刻をもつ宝篋印塔が据えられています。
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蓮乗院霊屋の左側にある五輪塔は日重上人のものと思われます。
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五輪塔の左側に慰霊塔があります。
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本堂の右側にある参道を北へ進むと六地蔵が祀られています。
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墓地の入口には観音像が祀られ、墓地には安土・桃山時代の
武将・山中幸盛の墓があります。
山中幸盛は戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将で、
尼子氏の家臣でした。
通称で鹿介(しかのすけ)と呼ばれ、優れた武勇の持ち主で
「山陰の麒麟児」の異名もありました。
尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、
我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと伝わります。
永禄9年(1566)、尼子氏は最後の砦としていた月山富田城に
毛利軍の総攻撃を受け、滅ぼされました。
その後、山中幸盛が尼子家の再興に尽力したのですが、
天正6年(1578)の上月城(こうづきじょう)の戦いで敗れ、
尼子家は滅亡し、山中幸盛は捕虜となり、後に備後国鞆に送られる途上、
備中国成羽で殺害されました。

神仏霊場・第97番札所の宝鏡寺へ向かいます。
続く

宝鏡寺

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本満寺前の上立売通を西へ進み、相国寺の塀沿いにクランク状に進んで
今出川通に出ます。
今出川通を西へ進み、烏丸通で右折して北上し、紫明通で左折して西へ進み、
堀川通で左折して南へ進むと、堀川寺之内の東北角に裏千家会館があります。
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裏千家会館から東に進んだ所に宝鏡寺があり、
神仏霊場・第97番札所となっています。
山門は江戸時代末期の弘化4年(1847)に再建されたもので、
京都市の文化財に指定されています。
宝鏡寺は山号を西山(せいざん)と号する臨済宗系の単立寺院で、
近世には皇女が入寺する尼門跡寺院でした。
但し、春と秋に行われる特別拝観以外は拝観ができません。
室町時代の応安年間(1368~1375)に伊勢の二見浦で漁網に掛かった
聖観世音菩薩像が御所に祀られていました。
引き揚げられた際に丸鏡(宝鏡)を手に持つ、珍しい姿をし、
宝鏡が光り輝いたことに驚いた人々によって、朝廷へと献上された
と伝えられています。
尼五山の筆頭であった景愛寺の第6世・光厳天皇皇女の
華林宮惠厳(かりんのみやえごん)は、景愛寺の支院であった建福尼寺に
この聖観世音菩薩像を本尊として安置しました。
北朝第4代・後光厳天皇(ごこうごん てんのう/在位:1338~1374)から
「宝鏡寺」の寺号を賜り、開山とされています。
かって、この地には百々(どど)氏という豪族が住んでいたことから
「百々御所」とも呼ばれています。
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門を入った右側に昭和34年(1959)に建立された人形塚があり、
年に1回、秋に人形供養が行われています。
碑には大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家である
吉川観方氏によって描かれた御所人形が彫り込まれています。
台座には武者小路実篤の詩文が刻まれています。
「人形よ 誰がつくりしか 誰に愛されしか 知らねども 愛された事実こそ
 汝が成仏の誠なれ」
宝鏡寺では皇女が入寺されていたことから御所から度々人形が贈られました。
昭和32年(1957)の秋から、孝明天皇ご遺愛の人形をはじめ、皇族ゆかりの
由緒ある人形が数多く保存されている宝鏡寺伝来の人形などを
一般公開するようになりました。
宝鏡寺が「人形寺」と呼ばれる由縁です。
現在では春と秋に人形展がが催され、特に3月1日の春の人形展の
オープニングイベントでは、島原太夫と和楽器等の演奏が奉納されます。
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本堂は天明8年(1788)の大火で焼失後、文政13年(1830)に再建されたもので、
京都市の文化財に指定されています。
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勅使門でしょうか?
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大玄関も文政13年(1830)に再建されたもので、
京都市の文化財に指定されています。
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阿弥陀堂でしょうか?
だとしたら文政13年(1830)の再建で、京都市の文化財に指定されています。
門前には駒札がありますが、境内には無く、判別が困難です。

横には「小川御所之跡」と刻まれた石碑が建立されています。
かって、宝鏡寺の隣地には小川御所がありました。
小川御所は元は細川勝元が所有していた邸宅の1つですが、足利義政が
将軍職を息子の義尚に譲った後の文明6年(1474)に居宅としました。
2年後の文明8年(1476)、室町御所の焼失とともに義政正室の日野富子、
義尚(よしひさ)、そして応仁の乱を避けて室町御所に避難中であった
後土御門天皇が退避してきました。
その後、文明15年(1483)には、義政と義尚が富子との不仲から御所を離れ、
以降は富子のみの居宅となりました。
長享3年(1489)、第9代将軍・足利義尚が近江出兵の際に病死しました。享年25。
義尚には継嗣が無く、義尚の甥・足利義視(あしかが よしみ)の
子・義材(よしき)が義政の養子となって(一説に義尚の養子になった
ともいわれる)、延徳2年(1490)に10代将軍に就任しました。
一方で、日野富子は堀越公方・足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた
義尚と義材の従兄・清晃(せいこう=後の11代将軍・足利義澄)に
小川御所を譲りました。
将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は、義材を軽視するものと
激怒して、小川御所を破却してしまいました。
その後、小川御所の跡地は宝鏡寺に併合されました。
宝鏡寺には現在も日野富子の木像が安置されています。

洛陽三十三所観音霊場・第29番及び京都十二薬師霊場・第六番札所である
福勝寺へ向かいます。
続く

福勝寺

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宝鏡寺から堀川通を今出川通まで南進し、今出川通を千本今出川まで西へ進みます。
千本今出川で左折した後、千本中立売を右折し、その先六軒町通を南進した
東側に福勝寺があります。
福勝寺は山号を竹林山と号する真言宗善通寺派の寺院です。
通に面した山門は、かっては九条家の屋敷の門と伝わります。
毎年2月3日の節分会の日に開門されます。
節分会には瓢箪のお守りが授与されます。
正式には「宝珠尊融通御守(ほうしゅそんゆうづうおんまもり)」と称され、
弘法大師が唐で学んだ「如意宝珠の修法」に由来します。
「如意宝珠」とは「意のままに願いを叶えてくれる」という宝珠で、
瓢箪が宝珠をふたつ重ねた姿に似ているとして、鎌倉時代ごろから
お守りとして用いられるようになったと伝わります。
この瓢箪のお守りから「ひょうたん寺」と呼ばれるようになりました。
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通常の出入り口は南側にありますが、入った正面に細い通路を挟んで
建物があり、圧迫されます。
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横から見るとこんな感じです。
通路の先の細い明かりが通用門です。
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通路を右側に進んだ左側に本堂があります。
福勝寺は弘法大師により河内国古市郡中村(現在の大阪府羽曳野市)
に創建されたと伝わります。
しかし、その後衰微し、正嘉年間(1257~59)に醍醐寺の覚済(かくぜい)に
よって、京都油小路五条坊門に再建されました。
その後も2回移転し、安土・桃山時代には豊臣秀吉の京都改造により
福勝寺を寺町通丸太町下ルに移転させたと思われます。
秀吉は武運長久を祈願して奉納した瓢箪で「千成瓢箪」の旗印を作ったと
伝わります。
天下統一後に自作の木像を福勝寺に納め、寺領を寄進しました。
第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)の勅願寺となりましたが、
宝永の大火(1708)で焼失しました。
その後、現在地で再建され、第111代・後西天皇(在位:1654~63)の
勅願寺となりました。

本尊は薬師如来で「峰の薬師」と呼ばれ、60年に1度開帳される
秘仏とされています。
京都十二薬師霊場・第六番の札所本尊でもあります。
かって、京都市西京区御陵峰ケ堂の法華山寺の峯堂に安置されていましたが、
南北朝の争乱の際に遷されたと伝わります。
法華山寺は鎌倉時代に延朗(えんろう)上人により西山の峰ヶ堂に
創建されましたが、正慶元年(1332)に兵火で焼失し、その後廃寺となりました。
寺の跡地には、峰ヶ堂城が築かれました。

本堂の脇壇に安置されている聖観世音菩薩像は聖徳太子の作と伝わり、
後西天皇が祈願し、それが成就されたことから「観世音菩薩」の名号と
紫宸殿の左近の桜の分木を下賜され、「桜寺」と呼ばれるようになりました。
聖観世音菩薩は洛陽三十三所観音霊場・第29番の札所本尊でもあります。

聖歓喜天像は唐に渡った空海が、長安の青龍寺の恵果(けいか)和尚より
伝授されたものと伝わります。
恵果和尚は延暦24年(805)に60歳で入寂され、臨終間際に空海に伝授され、
翌年空海は日本に帰国しています。

不動明王像は空海の作と伝わり、「牛皮不動」とも呼ばれ、
名不動の一つに数えられています。
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本堂前に建つ十三重石塔の横に下賜されたと思われる桜の木があります。

京都薬師霊場・第5番札所の地福寺へ向かいます。
続く

地福寺

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福勝寺前の六軒町通から出水通に入って西へ進み、七本松通りで左折して
南へ進んだ東側に地福寺があります。
地福寺は山号を宝珠山と号する真言宗醍醐派の寺院です。
平安時代の弘仁年間(810~823)に嵯峨天皇の勅許により、
真済上人を開山として太秦安井の地に創建されました。
真済上人は空海の十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の
僧正に任ぜられました。
江戸時代の享保年間(1716~35)に道空和上が、時の関白・鷹司公の
北政所の病気を治したことにより現在地に移転しました。
鷹司家は藤原兼平を祖とし、江戸後期から幕末にかけて鷹司家の当主が
関白を務めることが多くありました。
地福寺は以後、道空和上の念持仏であった薬師如来が本尊となり、
京都薬師霊場の第5番札所本尊ともなりました。
薬師如来は「日限薬師(ひぎりやくし)」とも呼ばれ、穴の開いた石に
5色の紐を通して奉納し、後日、日を決めて祈願すると
耳の不自由が治ると伝えられています。

次回からは大阪泉佐野市にある七宝瀧寺(しっぽうりゅうじ)から
河内長野市の金剛寺を巡ります。
「出水の七不思議」の一つに数えられ、毎月12日に開帳されています。

七宝瀧寺への参道

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第二京阪高速の側道を西へ進み、「讃良川(さらがわ」の信号から
国道170号線(外環状線)へと入り、ひたすら南へ進みます。
「熊取」の信号を左折して府道62号線に入り、東南方向に進み3時間近く
かかってようやく大師堂前に到着しました。
大師堂の手前に駐車場があり、隅っこにバイクを停めて谷沿いを歩きます。
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8:00、参道の入り口には「名勝 犬鳴山」の石碑が建っています。
犬鳴山は大阪府の名勝に指定されていますが、
この先は空気感が変わるような気がします。
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参道は何度か川を渡りながら登って行き、
ハイキングコースにもなっているようです。
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少し進んだ所に「迎えの行者尊」が祀られています。
七宝龍寺は斉明天皇7年(671)、役行者により、大峰山山上ヶ岳より
6年早くに開山したと伝わり、元山上と呼ばれています。
古くは犬鳴山を含む和泉山系全体を「葛城」と呼び、その中でも犬鳴山は
西の行場、東の行場を持つ葛城二十八宿修験道の根本道場となります。
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「迎えの行者尊」から先に進むと岩の中に「岩屋大黒天」が祀られています。
駒札には下記のよう記されています。
「古記によれば、この岩屋は大黒天の岩屋で、時に神馬に乗って向かいの大岩
(大黒岩)に遊び、時に対岸の絶壁(乗鞍崖)の登って神遊されたと
伝承されています。
また、この崖の中腹に金剛界・胎蔵界の大日如来が出現されたとも言われ、
出現の石碑が建っています。
この一帯は今も大黒天の霊域です。」
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大黒天像も祀られています。
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この岩が「大黒天岩」です。
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「大黒天岩」の先にある岩には「屏風岩」と記されています。
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谷を挟んだ対岸にある絶壁が乗鞍崖で、下に見えるのが乗鞍岩です。
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両界の滝・善女ヶ淵行場は、古来から犬鳴山第一の行場とされ、
役行者が開山の際、この瀑布から火の神・火の迦具土が出現したと伝わります。
役行者はこれを火走大神犬鳴大明神と称して祀り、里の大木村に
現在の火走神社の前身を創建しました。
後に、弘法大師が修行で当山を訪れた際に、この淵に善女龍王を勧請し、
以来雨乞いの祈祷場としてその名を馳せるようになりました。
また、修行者はまずここで身を清め、聖なる仏界へ向かいます。
俗界と仏界を隔てる滝から「両界の滝」と呼ばれています。
滝には犬鳴大明神、善女龍王、白長大神が祀られています。
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「きんたかばし」を渡ります。
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「きんたかばし」を渡った正面に金高社があり、金高大明神が祀られています。
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金高社から参道を登った先に瑞龍門があります。
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門をくぐった先で白雲閣から下ってきた参道と合流していますが、
橋を渡り谷沿いの参道を進みます。
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参道の左側に鳥居が見えてきました。
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境内は広く、中央に護摩壇があります。
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左前方に虚空菩薩殿があります。
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中央の奥には霊現堂があります。
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境内には補大僧正や役行者像が祀られています。
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「神明橋」を渡ります。
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橋を渡った左側には六地蔵が祀られています。
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墓地でしょうか?
宝篋印塔や五輪塔が見えます。
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また、出世稲荷や九頭龍大神などが祀られています。
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縁切大神
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縁切大神の先には「天力地蔵」、「豆八大明神」などが祀られています。
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「天力地蔵」の鳥居をくぐり、石段を上った所には六躯の石仏が祀られています。
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塔の滝行場は、主神が毘沙門天とされ、毘沙門天が左手に持つ宝塔に因み
「塔の滝」と呼ばれています。
塔の滝行場には毘沙門天、和修吉龍王、岩屋不動尊、五帝龍王、
大岩魂大神が祀られています。
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毘沙門天
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岩屋不動
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滝の右側の岩に大岩魂大神が祀られています。
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清滝大神・白滝大神社
清滝大神は清滝権現とも号し、善女龍王と同一視されています。
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さざれ石
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参道脇にある「お亀石」の上部に二基の墓石が並んでいます。
『義犬伝説』には以下のような伝承が残されています。
「宇多天皇の御代、紀州の猟師がこの山域で狩りをしていた際、
突然連れていた犬が激しく鳴きだし、結果猟師が射ようとしていた
鹿が逃げてしまった。
怒った猟師は犬の首をはねたのだが、その首はそれでも飛び跳ね、
今まさに猟師に襲いかかろうと狙っていた大蛇に噛み付いた。
犬は、主人が大蛇に狙われていることを知って鳴いていたのであった。
愛犬に救われたと気付いた猟師は、これを悔いて七宝瀧寺の僧となって
愛犬を供養した。
 このことを聞いた天皇は、いたく感動し、七宝瀧寺に『山号を
「いぬなきさん」と改めよ』と勅号を賜った」
この墓はその犬の墓とされていますが、なぜ二基あるのかは不明です。
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「お亀石」にはその犬の足跡が残されているとされています。
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また動物納骨堂もあります。
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8:50駐車場に到着しました。
駐車場の奥には不動明王が祀られています。
本堂の参拝ならば、この駐車場まで車で登って来られます。
本堂へ向かいます。
続く

七宝瀧寺

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七宝瀧寺の駐車場から参道に戻った先に朱の鳥居が見えます。
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鳥居の手前に観音堂があり、観音堂の左側には金剛華菩薩像が祀られています。
盛られた花は金色に輝いています。
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観音堂には弘法大師自作とされる十一面観音菩薩像が安置されていますが、
厨子に納められ、扉は閉じられています。
弘法大師は犬鳴山で修行の際、災難除けの身代り不動明王像と厄除けの
十一面観音菩薩像を自作され、本堂に安置されました。
厄除けの十一面観音菩薩の霊験あらたかとして、観音堂が建立され、
本堂から遷されて安置されるようになりました。
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宇賀耶白長弁財天(うがやはくながべんざいてん)は、役行者が
犬鳴山開山の際に、弁天の滝上部に弁財天を祭祀されたのが
始まりとされています。
昭和27年(1952)、一般参拝者の利便を考慮して滝下の現在地に遷座されました。
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弁財天社の右側には金色に輝く弁財天像が祀られています。
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癌除けお岩竜王には以下のような霊験が伝えられています。
『天台宗の教師・森川妙慎尼は胃がんと診断されましたが、
犬鳴山不動明王の月参り護摩祈祷を受け、また、志津の涙水を汲み、
薬と共に服していた。
ある夜、夢中に志津の涙水付近より、大竜王が御出現して妙慎尼に告げる
「吾れは、お岩竜王なり、汝の病を救うべし」と告げられるやたちまちに
消え失せれた。
妙慎尼は夢のお告げをかたく信じ、不動明王に願をかけると共に
志津の涙水付近を、お岩竜王の在所と観じ、一心に祈った。
それより、日増しに病気は回復し全快したのである。』
昭和13年(1938)10月に全快のお礼として当地に「お岩竜王」の
祠が建立されました。
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「志津の涙水」には以下のような伝承が残されています。
『昔、淡路の小聖という者、しばしば御所へ出入りしていたが、
官女の志津女という美人に想われる身となった。
小聖は修行の妨げと振り切って、犬鳴山中へ逃れてきた。
志津女は修行僧を想い切れず跡を追い、諸国を捜し求めたのであるが、
遂に泉州犬鳴山で小聖が修行しているとのことを、風の便りに聞き、
修行僧に一目逢うべく犬鳴山まで来たが、険しき渓谷と山路、それに飢えと寒さ、
なお、俄かに白雲がたちこめて、来た道を見失い、終いに路傍で悶死したのである。
村人は志津女の死体をねんごろに葬り、供養されたのであった。 
こうしたことがあってから、犬鳴山に白雲が立ちこめる日は、
必ず、雨が降るようになった、村人はこの雨を志津の涙雨と云い、また、
倒れていた付近から、こんこんと清水が湧き出ているいる処から、
この湧き水を「志津の涙水」と呼ぶようになった。
一心をこめた願い事がある場合、この水を持ち帰り毎日飲用すると、
必ずや願い事が成就すると云われている。』
七宝瀧寺の院号「白雲院」はこの故事に由来しています。
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横には「お志津地蔵尊」が祀られています。
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「心願成就」と刻まれた石碑には以下のような伝承が残されています。
『江戸時代の末期、塩谷善兵衛は堺で海産物の商いを営んでいました。
ある日、仕入れのため讃岐の坂出方面に行ったのですが、
その帰途に船が転覆し仕入れた海産物が流されました。
その影響で店は傾き、衰退したのですが、堺から毎月1日、15日、28日に
犬鳴山の不動明王に登山・参拝し、店の回復繁盛を祈願しました。』
この石碑は、善兵衛が一心の願いを込めて刻字したもので、
その後店は往昔の繁栄を取り戻したと伝わります。
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谷の上に建物が見えます。
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谷の上には門があり、門をくぐった右側に鐘楼があります。
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中央には護摩壇があり、その背後には高さが7m以上とされる
身代り不動明王像が祀られています。
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不動明王像の右側には變大菩薩像(役行者像)が祀られています。
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役行者像の右側に熊野権現社があります。
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不動明王像の左側には修行大師像が祀られています。
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修行大師像の左側に入試合格祈願票の投入口があります。
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四国八十八箇所霊場の砂が埋められた「お砂踏み場」があります。
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水子地蔵尊には小さな地蔵像が多数奉納されています。
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水子地蔵尊の左側に洗心院があり、先祖や水子などの供養の
受付が行われています。
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洗心院の手前には七福神堂があり、布袋尊が祀られています。
平安初期の第53代・淳和天皇の御代(在位:823~833)、全国的な
大旱魃が起こり天皇は諸国の霊山、神社仏閣に祈雨の祈願を命じました。
犬鳴山でも不動明王に祈雨の修法がなされ、
泉州一円は慈雨に恵まれることができました。
そこで淳和天皇は、犬鳴山中にある著名な七瀑を金銀などの七宝に因んで、
「七宝瀧寺」と命名しました。
弘法大師が再び犬鳴山に修行に訪れた際に、七瀑に七福神を祭祀されました。
以来、七福神は七宝瀧寺を鎮守する神となりました。
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参道に戻るとその先に鳥居が建っています。
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鳥居をくぐった右側に「お首地蔵尊」が祀られています。
何か由緒がありそうですが、詳細は不明です。
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その先の正面には干支の護り本尊である七仏が祀られています。
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七仏の左側には不像三尊像が、背後の石垣に同化するように祀られています。
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眼光鋭い「ぼけよけ不動明王」は手が4本ある四臂(しひ)の不動明王で、
右手に持つ剣は火炎に包まれています。
火炎は煩悩を焼きつくし、大智恵を授ける智火の大剣を表しています。
この不動明王を信仰することにより、大智恵を授かってボケを封じ、
心身共に堅固に護られると記されています。
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韋駄天将軍神は仏舎利を盗んだ捷疾鬼(しょうしつき)を追いかけて
取り返したことから、足の速い神、盗難除けの神とされています。
韋駄天が釈尊のために方々を駆け巡って食物を集めたとの俗信に由来して、
「御馳走(ごちそう)」という言葉が出来たとも伝わります。
七宝瀧寺では足腰の痛みを除き、堅固にする神として祀られ、
祈祷が行われています。
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左側にある滝は、案内図によると上部が布引の滝、中間は見えないようですが、
古津喜ノ滝、下部が音羽の滝と思われますが定かではありません。
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下流には石橋があり、江戸時代の万治年間(1658~1661)に架けられたもので
この時、本堂の修理も行われました。
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更に石段を上った所に倶利伽羅大龍不動明王像が祀られています。
七宝瀧寺の本尊は役行者が自ら刻まれたとされる倶利伽羅大龍不動明王像で、
本堂に安置され、秘仏とされています。
不動明王が右手に持つ降魔の三鈷剣は、魔を退散させると同時に人々の
煩悩や因縁を断ち切とされています。
三昧耶形(さんまやぎょう/さまやぎょう)では、不動明王の象徴そのものであり、貪・瞋・痴の三毒を破る智恵の利剣であるとされています。
その剣に不動明王が化身したとされる倶利伽羅龍王が燃え盛る
炎となって巻き付いています。
不動明王の激しさ、荒々しさ、力強さそのものの姿とされています。
七宝瀧寺では倶利伽羅大龍不動明王は悉地(しっち=成就)明王ともいわれ、
古来より願望成就の守護神であり、生命乞の不動明王として
霊験あらたかとされています。
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鎮守堂には「白髭一言稲荷大明神」が祀られています。
南北朝時代の正平17年/貞治元年(1362)、七宝瀧寺を中興した
志一上人(しいちしょうにん)は橋本正高の外護をにより六坊を建立しました。
橋本正高は貝塚市橋本の出身で南朝方の楠木正成が率いる武士団に
属して活躍していました。
志一上人は南朝方の勝利を祈願するために白髭一言稲荷大明神を勧請し、
荼枳尼天の修法を行ったとされています。

その後、室町時代には二十坊の坊舎を有し、本堂の修復も行われて栄えましたが、
安土・桃山時代の天正13年(1585)に羽柴秀吉による根来攻めで本堂以外の
堂舎を焼き払われ、田畑山林も没収され、一時は廃絶同然となりました。
しかし、秀吉はその後、米麦を寄進すると共に滝本坊(現:宿坊)を再建、
御供米として30石を寄附しています。

明治の廃仏毀釈と共に修験道が禁止され、壊滅的な打撃を受け、
伝わった寺宝類はほとんど失われました。
明治後期になって復興されるようになりました。
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本堂には賓頭盧尊者像が安置され、その横には「亀石」が置かれています。
「亀石」は持ち上げて、重くか軽く感じるかで占います。
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本堂前を通り過ぎると、三宝荒神社や一眼上人の供養碑があります。
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また、布袋尊も祀られています。
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振り返ると、本堂を仰ぎ見ることができます。
七宝瀧寺は近畿三十六不動尊霊場会の公式HPでは犬鳴山(いぬなきさん)
七宝龍寺(しっぽうりゅうじ)白雲院(はくうんいん)滝本坊
(たきのもとぼう)と紹介されています。
また、神仏霊場の第54番札所でもあります。
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清滝堂の先には行者の滝があります。
行者の滝は七宝瀧寺の聖地とされ、滝へは維持費の一人に付、
50円の協力が求められています。
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行者の滝は役行者、弘法大師、一眼上人も修行されたという由緒ある滝です。
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滝の前には役行者像が造立され、台座にはくぐり岩が設けられ、
三度くぐることにより六根清浄となると記されています。
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行者の滝から下った右側の滝が千手滝でしょうか?

仏塔古寺十八尊霊場・第12番札所の慈眼院(じげんいん)へ向かいます。
続く

慈眼院

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七宝龍寺から府道62号線へ戻り、「土丸」の信号を左折した先に
慈眼院の駐車場があります。
駐車場の先に鐘楼があります。
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鐘楼の左側に修行大師像が祀られています。
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修行大師像から左奥にコンクリート造りの本堂があります。
慈眼院(じげんいん)は山号を大悲山、寺号を願成就寺と号する
真言宗御室派の寺院です。
近世末までは、隣接する日根神社(ひねじんじゃ)の神宮寺でした。
神武東征の際、大阪湾で長髄彦(ながすねひこ)との戦いとなり、
神武天皇が逃れてきたのが日根(ひねの)とされています。
神武天皇はこの地の広い野原で、天の国を治める天照大御神と根の国を
治める素戔男尊を祭祀したことに日根野の地名となったとされています。
神武天皇が橿原で初代天皇として即位した後、この地に天皇の両親である
鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と玉依姫尊を
祀ったのが日根神社です。
慈眼院は寺伝によると天武天皇2年(673)、天皇の勅願寺として、
井堰山 願成就寺 無辺光院の名で覚豪阿闍梨により開創されました。
奈良時代の天平年間(729~749)、聖武天皇の勅願寺となり、
寺領1千石が加増されました。
その後、弘仁6年(815)から2年間に空海により多宝塔、
金堂をはじめとする諸堂が再興されたと伝わります。

南北朝時代の正平8年/文和2年(1353)、戦火を受けて焼失し、
その後、後村上天皇と後亀山天皇の勅命により再興されました。
慈眼院の位置する日根荘(ひねのしよう、日根野荘)は、五摂家の1つである
九条家の荘園で、文亀元年(1501)から4年間、前関白の九条政基
日根に滞在して領地の直接経営を行っています。
慈眼院の境内は「日根荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されています。
天正13年(1585)には豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火を受けて、
金堂、多宝塔を除いた全山が焼失しました。
慶長7年(1602)に豊臣秀頼によって伽藍の再興が始められ、
寛文年間(1661~1673)には岸和田藩藩主・岡部宣勝(おかべ のぶかつ)に
より修復が行われました。
寛文5年(1665)に秀頼により建立された中之坊は仁和寺の性承門跡から
現在の院号「慈眼院」を賜り、仁和寺の末寺となりました。
多宝塔や金堂へは入山料200円が必要です。
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金堂は鎌倉時代の文永8年(1271)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
本尊は鎌倉時代作の薬師如来坐像で、また、同時代作の毘沙門天立像も
安置されていることから、金堂は一眼薬師堂とも、
毘沙門天堂とも呼ばれています。
薬師如来坐像は正月三日間と2月3日に開扉されます。
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多宝塔も 鎌倉時代の文永8年(1271)に再建されたもので、
国宝に指定されています。
高さは10m余りで、国宝や重要文化財に指定されている塔としては
日本最小になります。
石山寺と高野山の金剛三昧院の多宝塔と共に日本三名塔の
一つに数えられています。
多宝塔の本尊は平安時代末~鎌倉時代初期の作と推定される大日如来座像で、
大阪府の文化財に指定されています。
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多宝塔から奥へ進んで行くと両側に灯篭が建ち、その奥に石の垣に囲まれた
台座が残されていますが、詳細は不明です。
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台座にも欠けている箇所があり、その上に何があったのか気になります。
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また、左側には多数の石仏が祀られています。

新西国三十三所観音霊場・第4番及び神仏霊場・第53番札所の
水間寺へ向かいます。
続く

水間寺

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慈眼院から府道248号線を「土丸」の信号まで戻り、左折して府道62号線を
北上して「大久保東」の信号で右折して国道170号に入り、
進んだ先に水間寺があります。
慈眼院を11:10に出発し、約30分で到着しました。
水間寺は昨年の初夏にも訪れていますので、詳細はこちらをご覧ください。
11:40に写経場の裏側にある駐車場に到着しました。
写経場には西国三十三霊場全ての本尊が安置され、その前には
「聖観世音菩薩立像」(平和観音)が祀られています。
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手水舎の奥には享保12年(1727)に建てられた「千日隔夜宝篋印塔」があり、
基礎の一面に隔夜僧が浮き彫りにされています。
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隔夜(かくや)は「よまぜ」とも読み、一日交替に特定の神社・仏閣に
往復参詣することを「隔夜修行」と言いました。
平安時代の僧・円成法師は、春日社と長谷寺との間を往復した
隔夜僧の先駆けと見られています。
このコースは一般的となり、奈良の神仏に念仏を唱えてお詣りして泊まり、
翌日は歩いて長谷寺に詣でそこで泊まるを千日以上続けるという修行が
明治まで続いたと伝わります。
前かがみに歩く僧の姿は、その苛酷さを偲ばせます。
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現在の三重塔は、天保5年(1834)に再建されたもので、明治以前に建てられた
大阪府内唯一の三重塔であり、貝塚市の文化財に指定されています。
井原西鶴が記した『日本永代蔵』第一巻「初午は乗って来る幸せ」では、
「利生の銭」としてこの三重塔が取り上げられています。
利生(りしょう)とは、「仏・菩薩が衆生に利益を与えること」の意味になります。
内容は以下のようになります。
江戸時代、水間寺では、その年1文借りれば、翌年2文にして返し、
100文借りれば200文返すという風習がありました。
或る年江戸の名も知れない廻船問屋が、一貫の利生の銭を借りて帰りました。
その廻船問屋は、漁師が出漁するときに、銭の由来を語って100文ずつ
貸し付けたところ、借りた人は自然と幸運に恵まれました。
その評判は遠い漁村にまでにも伝わり、借りては返す銭が次々と、
1年2倍の計算で、13年目にはもとの一貫文の銭が8192貫文となりました。
廻船問屋は、江戸から東海道を通し馬で8192貫文の銭を運んで寺に返済し、
寺はその銭で三重塔を建立したと伝わります。
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三重塔の第一層の軒下のかえる股に十二支の彫刻が施されています。
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本堂
水間寺は新西国三十三所観音霊場・第4番及び神仏霊場・第53番札所と
なっています。
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今回は前回行き忘れた西山へ向かいます。
通天橋を渡り、国道170号線を横断した所に西山への登り口があり、
石段を少し上ると左側に行基堂(開山堂)があり、
貝塚市の文化財に指定されています。
天平年間(729~749)に水間寺を開山した行基菩薩は、自身の姿をすぐ
横の鏡池に写し、霊椿木で自作の像を刻まれ行基堂に安置されました。
天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めでは、水間寺は紀州勢に
加担したため、堀秀政の軍勢に攻められて焼失しました。
行基堂も焼失し、現在の建物は江戸時代に再建されたもので、
境内の諸堂中最古の建物となっています。
堂内には作者不明の行基菩薩座像が安置されています。
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鏡池の中には瑞泉堂があり、聖観音菩薩が本尊として祀られています。
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鏡池の向かいの高台には弁天堂があり、弁財天が祀られています。
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参道を先ほどの石段まで戻り、右側に進んだ所に閼伽井があります。
行基菩薩がこの先にある薬師堂の薬師如来に供える水を汲んだ霊泉とされています。
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閼伽井には現在も霊水が湧き出ています。
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閼伽井の右側には、中国産の大理石で造られた白衣観音像が祀られています。
第二次大戦で旧満州に侵攻したソ連軍及び現地の一部暴徒により犠牲となった
開拓民とその家族を慰霊するために建立されました。
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薬師堂は行基菩薩が当地を訪れたとき、聖観音の出現を願い薬師如来像を
祀ったと伝えられています。
現在の建物はコンクリート造りで近代になって再建されたと思われます。

西国三十三所観音霊場・第4番及び神仏霊場・第52番札所である
施福寺へ向かいます。
続く

施福寺

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水間寺から国道170号線を東へ進み、外環状線に合流し、更に東へすすみます。
「大野町北」の信号を右折し、その先の「大野町」の信号で左折し、
旧国道170号線を東へ進みます。
左側に郵便局があり、その先で槙尾川を渡る手前で右折して
府道228号線に入ります。
府道228号線を道なりに進み、左側に溜池が見える手前を右折し、
その先で左折した先に「この付近、孝女・照置き去りの地」が建っています。
これには「貧女の一灯、長者の万灯(まんどう)」と云う
以下のような伝承が残されています。
『昔、槇尾山の麓の横山村に、奥山源左衛門とお幸(こう)の
夫婦が住んでいました。
子宝に恵まれるようにと施福寺にお参りした帰り道に
幼子が捨てられているのを見つけました。
「千代までも ゆくすえをもつ みどり子を 今日しき捨(す)つる
 そでぞ悲しき」との歌が添えてありました。
夫婦は、子どもに「お照(てる)」と名付けてだいじに育てましたが、
お照が16歳になった時に相次いで亡くなりました。
父が息を引き取る前に、お照はその生い立ちを聞かされたのですが、
育ての親の心をありがたく思うようになり、両親のあの世の幸せを祈るため、
冥土の道を照らすという灯(ひ)を、高野山の「奥の院」に
お供えしようと決心しました。
貧しいお照は女の命とまでいわれる黒かみを切って、お金に変えて
小さな一つの灯ろうを買い求めました。
お照は高野山へ向かい、神谷(かみや)の里に着いた時に、高野山が
女人禁制であることを聞かされました。
途方に暮れていると高野山から下ってきた若い僧に出会い、
僧と共に女人堂まで上り、僧に灯篭を託しました。
「奥の院」のお祭りの日、新しい一万個の灯篭に灯がともされると、
長者が見知らぬ一灯に気付きました。
僧から貧しい娘が捧げた灯篭であることを聞かされた長者は、
「いやしい女の、明かりが何になろう。」と言い放ち、立ち上がろうとしました。
すると、にわかに風が吹き込み、万灯は吹き消されましたが、暗闇の中で
お照が納めた一灯だけが小さな明かりを灯していました。
それから、お照のともしびは「貧女の一灯」として、長い長い年月を一度も
消えることなく、今もなお「奥の院」で清い明かりを灯しています。
自分の行いを恥じた長者は天野の里に庵を造り、そこでお照は尼となりました。
ある年の冬の朝、慈尊院へ向かっていたお照が、行きだおれの老人を見つけました。
老人は高野山へ登る途中に倒れてしまったのですが、
お照に過去犯した過ちを話しました。
老人は旅の途中、妻に先立たれ、困り果てた末にわが子を捨ててしまった
ことを、お照に告白しました。
もしもと思ったお照が捨てられた際に残されていた和歌を詠むと、
老人が実の父親であったことが判明し、再会を喜びました。
その後、老人は高野山に登り僧になった』と伝えられています。

府道228号線に戻り、施福寺へ向かいます。
13:05駐車場に着きました。
施福寺の詳細についてはこちらをご覧ください。
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13:20に仁王門に到着しました。
昨年は、午前中に訪れたため、逆光でしたので撮り直しました。
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門の手前に建つ寺号の石碑は花山法皇の三十三所観音霊場中興一千年を記念して、
昭和62年(1987)6月に建立されました。
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昨年
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今年
不明な建物のスズメバチらしき巣が昨年は2個だったのが3個に増えていました。
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一丁の丁石がある所から唯一下界が展望でき、今回は望遠レンズを
使って大阪湾を撮影しました。

14:00西国三十三所観音霊場と神仏霊場の朱印を頂き、下山します。
14:30に駐車場に到着し、新西国三十三所観音霊場・第7番及び
神仏霊場・第55番札所である金剛寺へ向かいます。
続く

金剛寺

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施福寺の駐車場から外環状線(国道170号線)まで戻り、外環状線を東へ進み
トンネルの手前で左折して旧国道170号線に入り、進んだ先に金剛寺があります。
金剛寺の詳細はこちらにも記していますが、昨年訪れた時は工事中でしたので、
画像を新しく撮り直しています。
昨年、南大門は左側にパイロンが置かれていましたが、今年は撤去され、
代わりにバス駐車場の案内看板が右側に置かれました。
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「水掛三尊仏」や「恵之橋」は昨年と変わりがありません。
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楼門前には今年3月27日に落慶法要が営まれた札が建てられました。
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楼門を入った左側に立つ木は枝垂れ桜です。
現在はピンクの花びらではなく、緑の葉が垂れています。
また、金剛寺の境内は国の史跡に指定されています。
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昨年は工事用のフェンスで囲われていた龍王池も改めて見ることができました。
たくさんの小魚が泳いでいます。
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昨年は脚立が置かれていた「天野殿」も不要なものは除かれています。
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昨年は経堂の左側にもパイロンが置かれ立入禁止の区域がありました。
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多宝塔前にあったフェンスは取り払われましたが、周囲には囲いがあり、
堂内が公開されていないのは昨年と同じです。
多宝塔は平安時代後期(1086~1184)に建立されたもので、
多宝塔建築としては日本最古とされ、国の重要文化財に指定されています。
昭和13~15年に修理が行われた際に、塔の中央付近の地中から
鎮壇具(ちんだんぐ=土地を鎮めるための道具)と火葬骨の入った
白磁の壷が発見されました。
これは、金剛寺に縁の深い八条女院(鳥羽上皇皇女)の蔵骨器ではないかと
推測されています。

本尊の大日如来坐像は鎌倉時代の作で国の重要文化財に指定されています。
正御影供が始まった承安2年(1172)ごろから、建久2年(1192)までに
造立されたものとみられています。
正御影供は弘法大師の供養祭で、承安2年(1172)、高野山より拝領した
真如親王筆・弘法大師図像を御影堂に奉安し、中興の阿観上人が修したのが
始まりで、以来800年以上にわたって続いています。
弘法大師が入定された旧暦3月21日を新暦にして4月21日に正御影供が催行され、
当日は稚児行列や餅まきが行われ、御影堂の厨子が開扉されます。
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多宝塔の蟇股には花鳥図が彫刻され、極彩色に着色されています。
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金堂もフェンスが取り払われ、扉も開けられてガラス越しに本尊の
大日如来を拝することができます。
堂内には中央に像高313.5cmの金剛界大日如来坐像、向かって右に
像高258.0cmの不動明王坐像、左に像高201.0cmの降三世明王
(ごうざんぜみょうおう)坐像が安置されています。
密教の曼荼羅の一つである尊勝曼荼羅を立体的に現したものであり
この金剛寺にしか存在しません。
尊勝曼荼羅は、長寿や健康などの幸福を願ったり、病気や天災を
鎮めたりするために行う加持祈祷の際に本尊として用いられました。
平成大修理の大規模調査の結果、胎内にあった墨書から、
「不動明王坐像」は仏師・快慶の高弟、行快(ぎょうかい)の作で、
天福2年(1234)に完成したことが判明しました。
また、3躯が揃うまで約50年という歳月がかかっていたことも判明し、
平成29年(2017)3月10日、三尊像は国宝に指定されました。
金堂が建立された年ですが、昨年は「鎌倉時代後期の元応2年(1320)に
建立された」と記載しましたが、文化遺産オンラインでは
そのように記されています。
一方、パンフレットでは平安時代の治承2年(1178)と記されていました。

平安時代末期の永万元年(1165)、高野山の僧・阿観上人が、後白河上皇と
その妹の八条女院の帰依と庇護を受け、御影堂を始め、金堂、多宝塔、
楼門、食堂などの伽藍を再興したとされています。
正平15年/延文5年(1360)に北朝の畠山氏の攻撃を受け、鎌倉時代末期には
100近くあった塔頭の40余りが焼失しました。
明治の廃部希釈で塔頭は更に減少し、現在では摩尼院、観蔵院、吉祥院を
残すのみとなりましたが、主要な伽藍は戦禍や災害からも護られてきました。
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金堂にも着色され、昨年は見ることができなかった
鳳凰図などが描かれています。
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金堂前
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金堂と多宝塔の間には後村上天皇御手植とされる桜の木があります。
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金堂の右背後には室町時代前期(1333~1392)に建立された鐘楼があり、
国の重要文化財に指定されています。
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観月亭
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御影堂
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五仏堂

金堂の左上部に後村上天皇が月見をされたと伝わる観月亭があります。
観月亭の背後には御影堂があり、左側の渡廊は五仏堂と接続されています。
観月亭と御影堂及び五仏堂は江戸時代初期の慶長11年(1606)に
再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
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五仏堂の左側に薬師堂があり、五仏堂と渡廊で接続されています。
薬師堂には薬師如来と日光・月光の両菩薩の薬師三尊像が安置されています。
また、平安時代作で河内長野市の文化財に指定されている
千手観音菩薩立像が安置されています。
前回、薬師堂は慶長11年(1606)に建立されたと記載しましたが、
近年に行われた修理の際には、平安時代末までさかのぼるのではないかと
思われる部材が見つかっています。
慶長11年(1606)に豊臣秀頼の寄進により、前身となった建物の部材を使い
再建されたものと考えられ、大阪府の文化財にしています。
また、五仏堂の左右の渡廊も慶長11年(1606)の再建で、
大阪府の文化財に指定されています。
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薬師堂前からの多宝塔です。
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前回ピンボケだった法具蔵を撮り直しました。
法具蔵も慶長11年(1606)の再建で、大阪府の文化財に指定されています。
慶長年間に建立された建物や、金堂や多宝塔のように大規模な修理が行われた
建物が数多く存在しているのは、金剛寺と豊臣秀吉・秀頼の関係がありました。
金剛寺と豊臣家との関係は、僧房酒「天野」の献上などを通じてより
強固なものとなり、秀吉は寺領307石を安堵し、秀頼の時代になると、
豊臣家の莫大な援助のもと境内の整備が行われました。
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開山堂は金剛寺を再興した阿観上人の墓所と伝えられ江います。
現在の建物は元禄13年(1700)に再建された約2m四方の小さなお堂で、
建物の内部には、凝灰岩で作られた2基の石造三重塔(高さ約1.3m)が
安置されています。

次回は観心寺から太子町にある叡福寺を巡ります。

観心寺

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第二京阪高速の側道を西へ進み、「讃良川(さらがわ」の信号から
国道170号線(外環状線)へと入り、国道170号線を進んだ先の
「原町北」の信号で左折して国道310号線に入ります。
国道310号線を進んだ先の「本町(七つ辻)」の信号を左折して
旧国道170号線を「河内長野駅」を回り込むように進み、
再び国道310号線に入って進んだ先に観心寺があります。
観心寺の詳細はこちらをご覧ください。
観心寺の山門前には「史跡 観心寺境内」の石碑が建てられています。
観心寺の境内は昭和9年(1934)に国の史跡に指定されています。
観心寺は山号を檜尾山(ひのおさん)と号する高野山真言宗の
遺跡(ゆいせき)本山です。
遺跡とは中世の日本で用いられた言葉で、過去に存在した人物が残した
財産・所領・地位などを指します。
位としては総本山、大本山に次ぐ順位となります。
飛鳥時代の大宝元年(701)、役小角(役行者)が開創し、当初は雲心寺と称し、
その後、平安時代の大同3年(808)に空海がこの地を訪れ、
北斗七星を勧請したとされています。
弘仁6年(815)、再度この地を訪れた空海は、衆生の除厄のために自ら
如意輪観音像を刻んで安置し、寺号を「観心寺」と改めたと伝わります。
弘仁7年(816)、第52代・嵯峨天皇から高野山の地を賜った空海は、
高野山を開くための拠点として観心寺を整備されました。
京都・東寺から奈良・東大寺、飛鳥・川原寺を経て観心寺に宿し、
高野山へと向かうルートは一日約千里(40km)を歩くとして、
東寺から高野山まで4日の行程となりました。
空海の一番弟子にあたる実恵は第53代・淳和天皇から伽藍建立を拝命し、
その弟子真紹(しんしょう)とともに天長4年(827)より 造営工事に着手しました。
以後、国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と
奈良・京都の中宿として発展しました。
鎌倉時代の末期には塔頭50か寺以上を誇る大寺院となっていました。
室町時代以降は、管領・畠山氏の庇護を受けて栄えたが、
戦国時代に入ると織田信長に寺領を没収されました。
しかし文禄3年(1594)、豊臣秀吉によって25石の寄進を受け、
豊臣秀頼によって金堂や諸堂の修復などが行われました。
江戸時代には塔頭・槙本院の檀家であった江戸幕府の旗本・
甲斐庄氏(かいのしょうし)などの支えにより、伽藍の維持が
図られましたが、塔頭は12まで減少しました。
明治の廃仏毀釈で更に塔頭は減少し、現在では本坊となった
槙本院と中院を残すのみとなりました。
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現在の山門は江戸時代初期の万冶2年(1659)に再建されたもので、
大阪府の文化財に指定されています。
丹塗りが施された四脚門で、心柱になる2本は円柱、控えの柱4本が
面取した角柱となり、通常四脚門の屋根裏は化粧屋根裏となりますが、
この門は天井が張られています。
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山門を入った右側に池があり、その中に「後村上天皇御旧跡」の
石碑が建てられています。
塔頭の惣持院があった場所であり、後村上天皇が正平14年(1359)から
約10ヶ月間、惣持院を行在所(あんざいしょ)としました。
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右側にある門の前には、「楠公 学問所 中院」と刻まれた石碑が建っています。
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中院は残った塔頭の一つで、正成の曾祖父・成氏が再建したと伝えられ、
楠木正成が8~15歳まで、この中院で仏典を学んだとされています。
また、湊川で討ち死にした楠木正成の首が届けられた時、正成の長男、
正行が切腹しようとした所と伝わります。
現在の建物は江戸時代に再建されたもので、大阪府の文化財に指定されています。
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現在の拝殿から延享元年(1744)に棟上げを行ったことが記された棟札が
見つかり、この棟札を含めて大阪府の文化財に指定されています。
建物の正面中央の柱と柱の間隔が広くなっており、もともとは、
中央部分を土間にし、通路として行き来できるようにしていたと考えられます。
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鎮守堂(訶梨帝母天堂)と拝殿との間には太鼓橋が架けられています。
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太鼓橋の左側には黄色の、右側には紫色の色違いの花が咲いています。
カキツバタでしょうか?
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鎮守堂(訶梨帝母天堂)には訶梨帝母天(かりていもてん)が祀られています。
訶梨帝母天は鬼子母神とも言われ、他人の子供を奪って食べてしまう
鬼神でしたが、釈迦が彼女が一番可愛がっている末子を隠して、
子を失う母の悲しみを諭しました。
これより、訶梨帝母は仏教に帰依して、仏法の守護神となり
子供安産の守り神となりました。
現在の建物は室町時代後期の天文18年(1549)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。

霊宝館などについては前回の記事をご覧ください。
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金堂は南北朝時代の正平年間(1346~1370)に建立された、大阪府下で
最古の和様、禅宗様、大仏様の折衷様式の本堂建物で国宝に指定されています。

本尊は如意輪観音で、不動明王、愛染明王を脇侍としています。
 新西国三十三箇所・客番、仏塔古寺十八尊・第13番、関西花の寺
二十五霊場・25番、役行者霊蹟札所、神仏霊場巡拝の道・第56番の
札所になっていますが、納経所は入山受付の横にあります。
本尊の如意輪観音菩薩坐像は空海作と伝わり、平安時代前期作で
像高109.4cmの彩色された六臂(手が六本)像で国宝に指定されています。
秘仏とされ、毎年4月17・18日の2日間のみ開扉されます。
如意輪観音菩薩坐像はもう一躯あり、霊宝館に安置されています。
平安時代の作で、空海が本尊を刻む前に試作で造ったと伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
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阿弥陀堂には阿弥陀如来・普賢菩薩・不動明王・地蔵菩薩が祀られおり、
ガラス越しに拝することができます。
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開山堂(本願堂)は天正6年(1578)に創建され、現在の建物は
正保3年(1646)に開山800年を記念して再建されたもので、
大阪府の文化財に指定されています。
3間四方(1辺約35m)の宝形造の建物で、周囲には縁が設けられています。
開山堂には実質の開祖とされる実恵(じちえ)が祀られています。
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開山堂の裏側には実恵の御廟があります。
実恵の出身は讃岐国で、俗姓は佐伯氏、空海の一族でした。
大同2年(807年/または延暦23年(804)とも)、に東大寺で受戒し、
一説によれば弘仁元年(810)に空海から灌頂を受けたとされています。
弘仁7年(816)から泰範(たいはん)と供に高野山開創に尽力し、
天長4年(827)からは弟子の真紹(しんしょう)と共に
観心寺の伽藍造営に着手しました。
実恵と泰範は共に空海の十大弟子に数えられています。
その後、承和3年(836)5月に権律師(一説に律師)に任ぜられ、
初代東寺長者となりました。
承和14年(847)に河内国にて入滅しまたが、生年が定かでないため
享年は61~63まで諸説あります。
安永3年(1774)に道興大師の諡号を賜りました。
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大師堂は慶長7年(1602)に観心寺の子院である持明院の住職であった
正遍によって建立され、江戸時代に改築されています。
3間四方(1辺約25m)の宝形造の建物で、背面に浅い庇がつき、
背面以外の3面には縁が巡らされています。
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堂内には弘法大師像が安置されています。

近畿三十六不動尊霊場・第32番札所である瀧谷不動明王寺へ向かいます。
続く

瀧谷不動明王寺

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観心寺から国道310号線を北西方向に進んだ先で右折して府道201号線へ入り、
府道を進んだ先の左側に瀧谷不動明王寺の駐車場があります。
駐車場の前には平成23年(2011)に建立された明王殿があり、
不動明王が祀られています。
正月には交通安全の祈願殿となります。
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府道を横断した所に山門があります。
背後に工事中のクレーンのアームが見えます。
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現在は2021年の開創1200年記念事業として、客殿棟と寺務所棟の
新築工事が行われています。
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山門をくぐって左側の参道を登って行くと「御加持水」があり、
眼病に霊験あらたかとされる霊泉が湧き出ています。
瀧谷不動明王寺は、平安時代の弘仁12年(821)に弘法大師が、
本尊の不動明王及び脇侍の矜羯羅(こんがら)童子・制吒迦(せいたか)童子を
一刀三礼して刻み、国家の安全と国民の幸せを祈るために開かれた道場です。
瀧谷不動明王寺が創建されたのは、今の境内から南約1kmの
嶽山(だけやま)の中腹で、その地で弘法大師が加持により霊泉が
湧出したと伝わります。
霊泉から湧き出た浄水で眼を洗えば眼病に、服用すれば諸病の平癒に
霊験があり「おこうずい」として尊ばれていました。
現在の「御加持水」は弘法大師の「おこうずい」を再現されたものと思われます。
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「御加持水」の先に鐘楼があります。
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鐘楼の横を通り過ぎた右側に本堂があります。
明治30年(1897)に建立され、昭和3年(1928)に奥殿が増築されています。
瀧谷不動明王寺は山号を瀧谷山と号する真言宗智山派の寺院です。
瀧谷不動明王寺は創建後の正平15年(1360)に足利義詮(あしかが よしあきら)の
嶽山城金胎寺城(こんたいじじょう)攻めの兵火により焼失しました。
その際、不動三尊像は滝の下へ遷され、焼失を免れました。
寛正4年(1463)には畠山政長・義就(よしひろ/よしなり)の
嶽山合戦により焼失し、その後江戸時代になって現在地で再建されました。

本堂には不動三尊像が安置されています。
本尊の不動明王像は手に剣と縄を持ち岩の上に立つという
波切不動尊と呼ばれる形態のものです。
本尊の両脇にある二童子立像も秀作で、
いずれも国の重要文化財に指定されています。
銘から平安時代の寛治8年(1094)の作と判明し、
残念ながら弘法大師作の三尊像は失われたようです。
また、矜羯羅童子像の内部からは永長2年(1097)と
記載された紙片が見つかっています。
不動明王像は近畿三十六不動尊霊場・第32番の札所本尊でもあります。
また、本堂には弘法大師、聖天等が祀られています。
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本堂脇には賓頭盧尊者像が安置されています。
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本堂の前に建つ宝篋印塔には屋根が付けられ、
相輪の部分は屋根を突き抜けています。
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本堂の左側に昭和39年(1964)に建立された法楽殿があり、不動明王、
厄除け日輪観大師、役行者が祀られています。
交通安全祈願殿となっています。
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法楽殿の左側に慶長年間(1596~1615)に建立された観音堂があり、
聖観音が祀られています。
現在の本堂が建立されるまでは、本堂として使用されていました。
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境内の奥から多宝塔への参道の脇に子安地蔵尊が祀られています。
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子安地蔵尊の左側に手水舎があります。
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手水舎の奥に弁財天社があります。
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多宝塔への参道を進みます。
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どなたかの廟がありますが詳細は不明です。
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歴代住職の墓所でしょうか?
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多宝塔への参道には鳥居が建っています。
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参道を進むと鎮守社があり、高倉大明神・瀧尾大明神が祀られています。
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鎮守社の前に永楽大明神が祀られています。
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鎮守社の先の石段の上に多宝塔が見えます。
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多宝塔は昭和59年(1984)に弘法大師御遠忌記念として建立され、
内陣に金剛界大日如来と両界曼陀羅が祀られています。
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多宝塔の前から向かいにある三宝荒神堂が望めます。
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多宝塔から下り、駐車場の方へ戻ります。
駐車場の右側に「御瀧行場」の石碑が建っています。
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瀧行場への参道を進みます。
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一願不動堂があり、水かけ不動尊が祀られています。
祈願絵馬の奉納所となっています。
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一願不動堂の右横には倶利伽羅龍王や不動明王の石仏が祀られています。
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一願不動堂の先、瀧行場への参道脇に石仏が祀られています。
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瀧行場
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行場付近には延命石が祀られています。
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瀧行場から戻り「御瀧行場」の石碑の正面にある石段を上ります。
「瀧谷三十三所表参道」と記された石碑が建っています。
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正面に西国三十三所のミニ霊場巡りの惣拝所があります。
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堂内には金剛界・胎蔵界曼荼羅のステンドグラスが飾られています。
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背後には観音像が祀られています。
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惣拝所前には左右に石段があり、左側の石段を上ります。
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西国三十三所のお砂踏み霊場があります。
手前の一番から右側へ進むにつれ、三十三番へと並んでいます。
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通り抜けると上部への石段があり、鳥居が建っています。
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最上部に三宝荒神堂があり、三宝荒神が祀られています。
三宝荒神は仏法僧の三宝を守護し、一方で不浄や災難を除去する神とされ、
かまど神として祀られています。
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三宝荒神堂の前から多宝塔が望めます。

西国薬師四十九霊場・第13番及び役行者霊蹟札所である弘川寺へ向かいます。
続く

弘川寺

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瀧谷不動明王寺から府道202号線を東へ進み、約1.2km先で左折し、
その先で府道200号線へ入って進んだ先に弘川寺があります。
弘川寺は山号を龍池山と号する真言宗醍醐派の準別格本山です。
境内は大阪府の史跡に指定されています。
弘川寺は飛鳥時代の天智天皇4年(665)に役小角(役行者)によって
創建されたと伝わります。
役行者は大峰山山上ヶ岳より6年早く葛城修験道場を開山したと伝わり、
この年に金剛山 転法輪寺を創建しています。
弘川寺は葛城山の麓にあり、役行者が開いた葛城六坊の第一位とされています。
天武天皇5年(676)の夏に天皇から祈雨の祈願が命ぜられ、「龍池山」の
山号と「弘川寺」の寺号を賜りました。
同8年(679)の春には天皇の行幸があり、勅願寺となりました。
平安時代の弘仁3年(812)、嵯峨天皇の命により空海によって中興され、
密教の霊場と定められました。
文治4年(1188)には、当時の座主・空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願し、
天皇が回復された功により奥の院を建立され、
「善成寺」の寺号の勅額を賜りました。
文治5年(1189)に空寂を慕って歌人と知られる西行法師がこの寺を訪れ、
住しました。
「願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」との
願いどおり、翌文治6年(1190)2月16日に73歳で亡くなりました。
寛正4年(1463)、河内国守護・畠山政長が当寺に本陣を置いて、
弟の畠山義就(よしひろ/よしなり)が立て籠もる嶽山城を攻めたところ
(嶽山城の戦い)、逆に本陣である当寺を攻撃されて
善成寺もろとも伽藍は焼失しました。
その後復興され、江戸時代に入り寛延年間(1747~1750)に
歌僧・似雲がこの寺を訪れ、西行堂を建立し、境内に「花の庵」を
建てて住み、81歳で亡くなりました。
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石段を上った左側に鐘楼があります。
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鐘楼の右側に桜の木が植えられ「すやざくら」と呼ばれています。
南朝の忠臣・隅屋与市(すやよいち)は弘川寺の東方20丁に弘川城を築城し、
北朝軍と戦いましたが、戦に利がなく、城を捨て弘川寺にて奮戦し、
遂に桜の大樹の下で自刃しました。
桜の大樹の株は絶えましたが、「すやざくら」の名が残されています。
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「すやざくら」の右側に護摩堂があります。
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護摩堂には不動明王像と役行者像が安置されています。
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護摩堂の向かいには御影堂があります。
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御影堂の前に「三鈷の松」が植えられています。
空海が唐から投げた三鈷杵(さんこしょう)が高野山の「三鈷の松」
に引っ掛かっているのが見つかり、高野山が真言密教を広める聖地と
なったとの伝承が残されています。
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弘川寺の「三鈷の松」も高野山と同様に三葉の松であり、
拾って持っていると幸運があるかもしれません。
高野山と違い、ここではいくつでも見つけることができます。
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御影堂の右側に地蔵堂があります。
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地蔵堂の右側に手水鉢が置かれています。
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参道の正面に本堂があります。
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本尊は薬師如来で西国薬師四十九霊場・第13番札所の本尊でもあります。
寛正4年(1463)の畠山兄弟の争いで伽藍は焼失しましたが、
本尊は護られ焼失から免れました。
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本堂手前の右側上部に鎮守堂があります。
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本堂の右側に西行堂への登り口があります。
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石段を上った所に西行堂があります。
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西行堂の横に歌碑が建っています。
「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」
当時、都から関東に行くには、鈴鹿(三重)、小夜の中山(静岡)、
箱根(神奈川)の難所がありました。
仁安3年(1168)、69歳になった西行が関東へ旅立ち、30歳の頃通った
小夜の中山を、再び越えることができたことを詠まれた歌です。
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西行堂からも石段が続きます。
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石段を上って行くとやや広い平地になっています。
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右奥に西行の墓があり、「西行墳」と記されています。
墳の字が示すように、小さな円墳で、平安時代末期の墓としては
少々違和感があります。
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「西行墳」の付近に歌碑が建っています。
「願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」
願うことは春、桜の花の下で、釈迦が入滅された陰暦2月15日の満月の頃に
死にたいと詠まれ、願いどおり文治6年(1190)2月16日に
73歳で亡くなりました。
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左奥には「似雲墳」があります。
似雲(じうん)は寛文13年1月2日(1673年2月18日)に安芸宮島で生まれ、
宝永6年(1709)に出家し、浄土真宗の僧となって如雲と称しました。
翌宝永7年(1710)に上洛して、歌道を公家の武者小路実陰に学び、
実陰の歌論を書き取って『詞林拾葉(しりんしゅうよう)』を編纂しています。
その後、西行を慕い、似雲もまた諸国を巡り、60歳の頃に弘川寺を訪れました。
京都東山に雙林寺(そうりんじ)の塔頭・蔡華園院(さいかおういん)があり、
西行が隠棲していました。
現在も「西行庵」として残され、西行庵の公式HPでは、
西行の終焉の地とされています。
また、西行の墓は岐阜県恵那市にも残されているようです。
似雲も東山の西行庵を訪れただろうし、その頃の西行庵は
荒廃していたかもしれません。
似雲は西行庵が西行の終焉の地では無く、少々違和感が残る小さな
円墳を西行の墓と断定したのでしょうか?
残念ながらその根拠としたものは残されていません。
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「似雲墳」の右側に「花の庵」跡の登り口があります。
似雲は山深い「花の庵」に住し、西行堂を建て、生涯を西行追慕に捧げました。
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「似雲墳」の左側には桜山遊歩道の入口があります。
平成元年(1989)に西行の800年遠忌を記念して千本の桜が植樹されました。
似雲は西行墳の周辺に千本の桜を植え、
その中に「花の庵」を建てたと記されています。
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西行墳から下って本坊へ向かう途中、「紅葉谷」への標識が立っています。
新緑の季節ですので「まあ、いいか」と思いながらも弘川寺は桜だけでなく、
紅葉の名所となっているようです。
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庫裡門の手前に土蔵があります。
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庫裡門をくぐった正面に本坊があり、西国薬師の納経と庭園拝観及び
西行記念館の入館受付が行われています。
庭園拝観及び西行記念館の入館料は500円で、西行記念館は春(4~5月)と
秋(10~11月)しか公開されていません。
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本坊の左側に樹齢約350年とされる「海棠(かいどう)」木があり、
大阪府の天然物に指定されています。
海棠は中国原産のバラ科の落葉小高木で、4月中旬頃に淡紅色の
花を咲かせ「妖艶」との花言葉があります。
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本坊横の庭園です。
緑が鮮やかです。
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眼を落すと趣のある石の手水鉢があります。
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本坊の裏側には砂利が敷かれたシンプルな庭が築かれています。
篠峯殿の端から見ると山の奥からの川の流れが、
手前の岩にぶつかり二手に分かれているように見えます。
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緑の中に1本だけ深紅の葉を付けた小さな木がありますが、
圧倒的な緑の中ではその存在さえも消されてしまいそうです。
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篠峯殿を進んだ先に西行記念館があります。
西行の八百年遠忌を記念して建立されたもので、西行や似雲の貴重な資料や
弘川寺伝来の寺宝などが展示されています。
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西行記念館前の庭園。
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西行記念館前から篠峯殿を望む。

小野妹子の墓~推古天皇磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)へ向かいます。
続く

小野妹子の墓~推古天皇磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)

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弘川寺から小野妹子の墓をスマホのナビで検索すると山道が表示されました。
ナビに示された道を進んで行くと、展望台があり、
持尾城跡への標識が立っていました。
持尾城は元弘2年(1332)に楠木正成が築いた赤阪城の支城の1つで、
元弘の変に平岩氏がたてこもったと伝わります。
城跡へは行っていませんが、この眺望の良さから、幕府軍の侵入を
監視するには最適の場所であったことが得心されます。
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道路脇の展望台からはPL教団の高さ180mの大平和祈念塔が望めます。
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祈念塔から左方向には嶽山が望めます。
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更にナビが示す通り、どこを走っているのか解らないまま進んで行くと
小野妹子の墓へと導いてくれました。
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石段の途中には「道祖 小野妹子 墓」と記された石標が建っています。
小野妹子は華道・池坊の始祖とされ、毎年6月30日の小野妹子の命日には
池坊により「道祖小野妹子墓前祭」が行われています。
聖徳太子が四天王寺を建立するための用材を求めて、訪れた地に
頂法寺(六角堂)を建立しました。
太子が頂法寺建立のきっかけとなった沐浴したとされる池の畔に坊が建てられ、
池坊と呼ばれていました。
頂法寺の住職は池坊と呼ばれ、小野妹子は頂法寺の初代住職として、
朝夕、仏前に花を供え始めたことが後の華道の始まりとされています。
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石段を上って行くと石垣で囲まれた円墳が見えてきます。
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右側へ廻ると「小野妹子之墳」と記された石碑が建てられています。
大正時代に池坊によって大改修されたようです。
小野妹子は近江国滋賀郡小野村(現在の大津市)の豪族で、
天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)を氏祖とする
小野氏の出身とされています。
推古天皇15年(607)、天皇の摂政である聖徳太子の任命を受け
遣隋使として派遣されました。
初めて日本の独立を強調する国書を携え、隋に渡ったのですが、
それを見た隋の皇帝「煬帝(ようだい)」は激怒します。
国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」と
書き出されていました。
当時の中国では天子とは「天から命を受けた天の子が、
全体の最高支配者となる」と考えられており、煬帝にとって自分以外の者が
「天子」を名乗ることは許し難いことでした。
小野妹子には返書が渡され、煬帝の家臣である裴世清(はいせいせい)を
連れて帰国させられています。
しかし、返書の内容が満足のいくものでなかったと判断した小野妹子は、
返書を百済に盗まれて無くしたと答え、実際は破棄したと推測されています。
小野妹子は一時は流刑に処せられますが、すぐに恩赦されて冠位十二階の
最高位である大徳に昇進し、翌年には返書と裴世清の帰国のため、
高向玄理(たかむこ の くろまろ)、南淵請安(みなぶち の しょうあん)ら
と共に再び隋に派遣されました。
推古天皇17年(609)に帰国してから、小野妹子の足取りは定かではありません。
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小野妹子の墓への石段の左側に科長神社(しながじんじゃ)があります。
科長神社は元は二上山上に鎮座して、二上権現と称し、
現在地には恵比須神社(道祖神社)がありました。
鎌倉時代の暦仁(りゃくにん)元年(1238)に科長神社が現在地に遷座するに当り、春日四神が勧請・合祀され、恵比須神社は末社となりました。
科長神社の主祭神は、風の神である級長津彦命(しなつひこのみこと)と
級長津姫命で、春日四神と誉田別命(ほんだわけのみこと)、
天照大神を加えて江戸時代までは八社大明神と称されていました。
明治40年(1907)に近隣の素盞嗚神社を合祀し、神饌幣帛供進神社
(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)に指定されました。
神饌幣帛供進神社とは郷社・村社を対象に勅令に基づいて県知事から、
祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社のことを指します。
神功皇后の誕生地との伝承があり、社宝に神功皇后所用と
伝える雛形の兜があります。
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鳥居をくぐった正面に拝殿があります。
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拝殿の右側に収蔵庫と思われる建物があります。
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本殿
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境内社として二上神社・恵比須神社・琴平神社・稲荷神社があるようですが、
唯一琴平神社が判別しました。
その他は不明のため省略します。
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再びナビを頼りに推古天皇陵へ向かいました。
麓に駐車場があり、バイクを置いて陵へ向かいます。
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緩い坂道を登って行った先に
推古天皇磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)があります。
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宮内庁は第33代・推古天皇と子の竹田皇子(たけだのみこ)の
合葬陵墓に治定しています。
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推古天皇は欽明天皇15年(554)に第29代・欽明天皇の第三皇女として誕生し、
諱(いみな)を額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と称しました。
敏達天皇5年(576)、23歳の時に第30代・敏達天皇(びだつてんのう=
異母兄)の皇后・広姫の薨去にともないその後添えとなりました。
敏達天皇14年(585)、32歳の時に敏達天皇が崩御されると
第31代・用明天皇が即位しました。
用明天皇は2年後に崩御され、その後継をめぐって物部守屋蘇我馬子
争いましたが、蘇我氏が勝利し、第32代天皇には崇峻天皇
(すしゅんてんのう)が即位することになりました。
しかし、5年後の祟峻天皇5年(592)に蘇我馬子の指図により、祟峻天皇が
暗殺され、額田部皇女が39歳で第33代・推古天皇として即位しました。

敏達天皇と額田部皇女の子である竹田皇子は、推古天皇即位時には
未だ成年に達していなかったために即位が見送られ、
推古天皇即位後間もなく薨去(こうきょ)されました。
また、一説では物部守屋と蘇我馬子との争いで馬子側として従軍し、
戦死したとの伝承もあります。
推古天皇元年(593)、推古天皇は竹田皇子の亡き後、甥の聖徳太子を皇太子とし、
馬子と共に補佐役に任じました。
推古天皇30年(622)に聖徳太子が49歳で薨去されると、
4年後の同34年(626)には蘇我馬子も亡くなりました。
そして、天皇も同36年(628)に75歳で崩御されました。
『日本書紀』では推古天皇36年(628)3月の崩御の後、同年9月に
遺詔(いしょう)により「竹田皇子之陵」に葬ったと記されています。
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推古天皇磯長山田陵の向かいの畑の中に二子塚古墳があり、
国の史跡に指定されています。
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来た方と反対側に標識が建ち、下の畑との高低差も大きいようです。
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二つの墳丘が連なった形の双方形という特異なもので、北東~南西方向に
一辺約25mの方墳2基が並列して連接されています。
これまでに盗掘に遭い、墳丘も中央部が大きく土取りがなされ、
戦後には墳丘上・石室内の調査が行われました。
平成28~29年度(2016~2017)に墳丘の発掘調査が実施され、
現在は無残な姿で残されています。
二子塚古墳は、古墳時代終末期~飛鳥時代の7世紀後半頃の築造と推定され、
推古天皇と竹田皇子の真の合葬陵墓とする伝承があります。
今となってはその真偽を確認する術がありませんが、二子塚古墳は
国の史跡にも指定されていますので、早急な整備が望まれます。
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二子塚古墳から磯長山田陵を見ると、管理の差の余りにも大きいことが
嘆かわしく思えます。

新西国三十三所観音霊場・客番、仏塔古寺十八尊・第2番、
神仏霊場・第57番他札所である叡福寺へ向かいます。
続く
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