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叡福寺

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叡福寺は山号を磯長山(しながさん)と号する真言宗系の単立寺院で、
太子宗を名乗っています。
新西国三十三所観音霊場・客番、仏塔古寺十八尊・第2番、神仏霊場・第57番、
聖徳太子霊跡・第6番などの札所となっています。
駐車場から石段を上った所に南大門があります。
戦国時代の天正2年(1574)、詳細な理由は不明ですが織田信長が叡福寺を
焼き討ちしています。
現在の伽藍は慶長年間(1596~1615)に後陽成天皇の勅願により
豊臣秀頼が一定の復興を成し、徳川第5代将軍・綱吉の寄進により
寺観を整えられました。
南大門は慶長8年(1603)に再建されましたが、
老朽化のため昭和35年(1958)に再建されています。
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扁額「聖徳廟」の揮毫(きごう)は当時の総理大臣・岸信介の筆によるものです。
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仁王像が門番をしていますが、やや小振りのため迫力に欠けているように
見受けられます。
草鞋の方が仁王像の足より大きいのでないかと思えます。
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門くぐった左側に多宝塔があり、国の重要文化財に指定されています。
多宝塔は豊臣秀頼の再興以降の承応元年(1652)に江戸の
豪商・三谷三九郎の寄進により再建されています。
堂内は非公開ですが、釈迦三尊像と大日如来像が安置されているようです。
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多宝塔の正面に金堂があります。
見つかった棟札から享保17年(1732)頃の再建と推定され、
大阪府の文化財に指定されています。
寺伝によると、聖徳太子が生前の推古天皇28年(620)に、
この地を墓所と定めたことが叡福寺の始まりとされています。
翌年、太子の生母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が
亡くなり、ここに埋葬されました。
その翌年の推古天皇30年(622)には聖徳太子と
妃の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)が共に病気となり、
妃が亡くなるとその翌日には太子も亡くなり、ここに追葬されました。
推古天皇は同年、菩提を弔うために土地を寄進し、墓守りの住む堂を建て、
香華寺と称しました。
その後、神亀元年(724)に第45代・聖武天皇の発願で東院・西院の
2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したと伝わります。
しかし、このことは正史には見えず、
叡福寺の創建年代については諸説あります。
叡福寺の本尊は聖如意輪観世音菩薩で、脇侍として愛染明王と
不動明王像が安置されています。
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また、賓頭盧尊者像とボケ封じ観音菩薩像が安置されています。
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奉納されていた絵馬。
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金堂の裏側に慶長8年(1603)に再建された聖霊殿(せいりょうでん)があり、
国の重要文化財に指定されています。
堂内には聖徳太子の十六歳像が祀られていることから
太子堂とも呼ばれています。
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聖霊殿の右側に二天門があります。
二天門と東西に連なる回廊は、元禄元年(1688)に徳川第5代将軍・綱吉の
命を受けた河内丹南藩主・高木正陳(たかぎまさのぶ)の寄進によるものです。
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左に増長天、右に持国天像が安置されていることから二天門と呼ばれています。
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門を入った正面に宮内庁が聖徳太子の墓として治定されている
「磯長墓(しながのはか)」があり、石室入り口には天保15年(1844)に
建立された「御霊屋」と称される唐破風屋根の覆屋があります。
石室の最深部に穴穂部間人皇女の石棺、前面右側に太子、左側に
妃の膳部菩岐々美郎女の乾漆棺が安置されている
「三骨一廟式」の合葬墓となっています。
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石室の模型が叡福寺横の「太子和みの広場」に展示されています。
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また、広場には松井塚古墳石棺が展示され、大阪府の文化財に指定されています。

聖徳太子が埋葬された叡福寺北古墳の墳形は南北約43m、東西約53mの
楕円墳で、3段築成された墳丘の高さは約7mあります。
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左側に「上の御堂」があり、高木正陳の寄進によって建立されました。
太子の像が祀られているらしいのですが詳細は不明です。
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右側には慶長2年(1597)に再建された浄土堂があり、
信徒永代供養専用のお堂となっています。
本尊として阿弥陀三尊像が安置されています。
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浄土堂から右へ進むと回廊の端は鐘楼堂となっています。
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隙間から梵鐘を覗き見ることができます。
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鐘楼堂から奥の方に見真堂があり、親鸞聖人が祀られていますが、
お堂は修理中のため聖人自作とされる御像は宝蔵に遷されていました。
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見真堂の奥に磯長村(しながむら)戦没者の墓があります。
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墓の奥に融通念仏宗の宗祖・良忍聖応大師の廟所があります。
良忍は平安時代後期の天台宗の僧で、22歳から23歳のころ京都大原に隠棲し、
来迎院などを創建しました。
分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させ、
永久5年(1117)には阿弥陀仏の示現を受けて融通念仏を創始しました。
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戦没者の墓の更に奥には科長岡神社(しながおかじんじゃ)があります。
神社の創建や由緒等は不明ですが、天照皇大神等が祀られています。
Wikipediaによると明治40年(1907)に科長岡神社は、
科長神社に合祀されたと記されています。
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科長岡神社から戻り、戦没者の墓の前方に大師堂があり、
弘法大師が祀られています。
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大師堂の前には修行大師像が祀られています。
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大師堂の右側に念仏堂があり、阿弥陀如来が祀られています。
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念仏堂の右側に客殿があります。
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叡福寺から石段を下り、道路を横断して、また石段を上り、
向かいに見える西方院へ向かいます。
続く

西方院

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叡福寺の南大門から石段を下り、道路を横断した所に隔夜堂があります。
隔夜は「よまぜ」とも読み、一日交替に特定の神社・仏閣に往復参詣
することを「隔夜修行」と言いました。
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堂内には平安時代末期の作とされ、大阪府の文化財に指定されている
阿弥陀如来の石仏が祀られています。
かって、隔夜僧がこのお堂を参拝していたのかもしれません。
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隔夜堂横の石段を上って行った右側に西方院があります。
西方院は、山号を南向山、寺号を法楽寺と号する浄土宗の寺院ですが、
当初は叡福寺の塔頭で法楽寺として創建されました。
南北朝の争乱時代から衰退し、戦国時代の天正2年(1574)には織田信長の
焼き討ちにより叡福寺と共に焼失しました。
江戸時代の寛永16年(1639)に蓮誉寿正尼(れんよじゅしょうに)によって
中興され、西方院と改称されました。
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山門を入った左側に鮮やかに着色された鐘楼堂があります。
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一般にある鐘楼堂と違い、堂内には阿弥陀如来像が安置され、
梵鐘は「引導鐘」と呼ばれ、納骨された時に鐘が撞かれます。
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本堂には聖徳太子作と伝わる本尊の阿弥陀如来像が安置されています。
また、太子の二歳時の姿とされる木造「南無仏太子像」及び木造・三尼公像が
安置されています。
寺伝によれば西方院は、推古天皇30年(622)に聖徳太子の薨去(こうきょ)後、
侍女であった蘇我馬子の娘・月益、小野妹子の娘・日益、物部守屋の
娘・玉照が出家して善信尼・禅蔵尼・恵善尼の戒名を授かり、
法楽寺を創建したと伝わります。
この伝承により西方院は日本最古の尼寺とされています。
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本堂前の左側にある納骨堂には、聖徳太子の遺髪が納められています。
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本堂の前には、「南無仏太子像」の石像が祀られています。
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本堂の右側にある観音堂には恵心僧都作と伝わる十一面観音像が安置され、
新西国三十三所観音霊場・第8番の札所本尊ともなっています。
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西方院の山門前からの叡福寺です。
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西方院から右側にある墓地の方へ進むと三尼公の廟所があり、
三基の多層石塔が祀られています。
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西方院から南方向に南林寺があり、
かって叡福寺の四季講堂であったと伝わります。

蘇我馬子の墓から用明天皇、孝徳天皇、敏達天皇の陵を巡ります。
続く

蘇我馬子の墓~敏達天皇陵

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西方院から南東の方向に進んだ所に植木家墳墓があり、
古くは蘇我馬子の墓と伝えられてきました。
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しかし、鎌倉時代初期の建久4年(1193)の古図には小野妹子の墓と記され、
真実は定かではありません。
蘇我馬子は敏達天皇元年(572)に敏達天皇が即位すると大臣となり、
以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、
54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築きました。
馬子は仏教を敬い、継体天皇16年(522)に日本に渡来した
司馬達等(しば の たちと)の娘・嶋を得度させて善信尼とし、
その弟子二人を禅蔵尼、恵善尼として得度させました。
こちらが史実だとすると西方院の三尼公は、蘇我馬子、小野妹子、
物部守屋の娘というのが誤りになります。
馬子は仏法に帰依して三人の尼を敬い、仏法を広めました。

一方で排仏派の物部守屋は、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませました。
用明天皇が崩御された後、後継をめぐって物部守屋と蘇我馬子が争いましたが、
蘇我氏が勝利し、第32代天皇には崇峻天皇(すしゅんてんのう)が
即位することになりました。
崇峻天皇元年(588)には馬子は、善信尼らを百済へ留学させています。
政治の実権を馬子に握られていた崇峻天皇は不満を感じるようになりましたが、
逆にそれが馬子の知るところとなり、
崇峻天皇は馬子の部下によって暗殺されました。
馬子は用明天皇の皇太后であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を
推古天皇として即位させました。
推古天皇34年(626)に馬子が亡くなり、桃原墓に葬られたとされ、
奈良県明日香村にある石舞台古墳が有力視されています。
植木家墳墓に誰が葬られているのか?...謎は深まります。
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叡福寺の駐車場まで戻り、バイクで東へ進み、二つ目の信号を右折した先に
用明天皇の河内磯長原陵(こうち の しなが の はら の みささぎ)があります。
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用明天皇は第29代・欽明天皇の第四皇子で、母親は蘇我堅塩媛
(そが の きたしひめ)、同母妹に推古天皇がいます。
用明天皇の第二皇子が聖徳太子です。
敏達天皇14年(585)に敏達天皇が崩御され、用明天皇が
第31代天皇として即位しました。
都は磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)で、
現在の奈良県桜井市阿部あるいは同市池之内などの説があります。
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また、平成23年(2011)に天香久山から北東に数百mの位置にある
発掘現場(橿原市東池尻町221)で古代の堤跡とその堤上の
大型建物跡が発見され、磐余池辺雙槻宮である可能性が高いと報道されています。
用明天皇は即位してから2年後の用明天皇2年(587)に病気で崩御されました。
天皇は当初「磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)」に葬られたのですが、
推古天皇元年(593)に現在地に改葬されました。
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用明天皇陵から東北方向に進んで竹ノ内街道を右折し、竹ノ内街道を
進んだ先に孝徳天皇大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)があります。
麓に駐車場があり、少し石段と坂道を登った先に陵があります。
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孝徳天皇は推古天皇4年(596)に茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男として
誕生しました。
姉の皇極天皇が在位中は蘇我蝦夷(そが の えみし)が大臣として重んじられ、
その子・入鹿が自ら国政を執りました。
蘇我氏の専横は甚だしくなり、皇極天皇2年(643)には次期天皇に蘇我氏の
血をひく古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を擁立しようと考えました。
そのためには聖徳太子の子で有力な皇位継承権者である山背大兄王
(やましろのおおえのおう)の存在が邪魔になり、
入鹿は山背大兄王一族を滅ぼしました。
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皇極天皇4年(645)、蘇我氏の横暴に反発する中臣鎌足は、
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)と画策し、
大極殿にて蘇我入鹿を殺害し、翌日には蘇我蝦夷が自宅に火を放ち自殺しました。(乙巳の変=いっしのへん)
蘇我蝦夷が自殺した翌日に皇極天皇から譲位され、
孝徳天皇が第36代天皇として即位しました。
孝徳天皇は中大兄を皇太子とし、後に「大化の改新」と呼ばれる
制度改革を行いました。
この改革により史上初めて元号を立て、大化元年と定められ、
「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が
始まったとされています。
しかし、改革そのものは、天皇ではなく、前の皇極天皇とその親友とされる
中臣鎌足(内臣)の主導のもと、年若い中大兄と大海人(後の天武天皇)
両皇子の協力によって推進されました。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、
その年の暮れに飛鳥から遷都しました。
その後、孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、白雉4年(653)に中大兄皇子が
難波宮を引き払って飛鳥へ戻り、群臣もこれに従い、
孝徳天皇は全く孤立して翌年病気になって崩御されました。
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竹ノ内街道を戻り、「太子町交番前」の信号を左折して府道32号線を進み、
「上宮学園南」の信号を左折した先に敏達天皇陵の駐車場があります。
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参道には「イノシシ出没注意!」の立札があります。
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敏達天皇 河内磯長中尾陵は駐車場からそれほど遠く無い距離にあり、
幸いにもイノシシと遭遇することはありませんでした。
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河内磯長中尾陵は宮内庁では敏達天皇と母親であり欽明天皇の皇后である
石姫皇女(いしひめのひめみこ)の合葬陵に治定しています。
陵は古墳時代後期前半頃の築造と推定される前方後円墳で、墳丘周辺では
埴輪片が採集され、墳丘周囲には空壕が巡らされています。
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敏達天皇は第29代・欽明天皇の皇子で、宣化天皇3年(538)に誕生しました。
欽明天皇32年(571)に欽明天皇が崩御され、敏達天皇元年(572)に
第30代天皇として即位しました。
敏達天皇4年1月(575年2月)に広姫を皇后としたのですが、同年11月に
皇后が崩御され、翌5年3月(576年4月に異母妹の額田部皇女
(後の推古天皇)を皇后としました。
欽明天皇13年(552)に百済から仏像と経文が伝来しますが、敏達天皇は
廃仏派寄りであり、崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、
仏を祀った時に疫病が発生すると、廃仏派の物部守屋に働きかけ
仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせました。
しかし、その年に天皇の病が重くなり崩御されました。

次回は葛井寺を巡る予定でしたが、5月29~31日に非公開寺宝が
特別公開されますので、それまでに奈良県の吉野を巡ります。

龍泉寺

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国道24号線を南下して御所市まで行き、
国道309号線との交差で左折して309号線に入ります。
国道309号線を進んで天川村に入り、県道21号線へ左折して進んだ先に
龍泉寺があります。
125cc以下のバイクは高速道路などが乗り入れできないので、
自宅を6:00に出発し、龍泉寺に8:30に到着しました。
龍泉寺の駐車場の奥に透明な水を湛えた池があり、
池を見ているだけで心が洗われるような気がします。
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池の奥の方には修行大師像が祀られています。
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車道に戻り、少し下って総門へ向かいます。
龍泉寺が立地する洞川(どろがわ)は昭和21年(1946)に大火があり、
境内の殆どの建物が焼失しました。
昭和35年(1960)に伽藍の復興が行われています。
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門を入った右側に第一水行場があります。
池の中には正面に役行者、右側に不動明王像が祀られています。
大峯山への修験者はこの行場で禊を行います。
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水行場の前に水子地蔵尊が祀られています。
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水子地蔵尊の左側に「なで石」があります。
駒札には『なでると軽く持ち上がり、叩いて持ち上げると重くなるという
龍泉寺に古くから伝わる不思議な石。
生き物にも心があるように、石にも心がある。
常にこの石をなでるときのような気持ちで、何事にも接することを、
この石は教えてくれているのではないでしょうか。』と記されています。
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行場に架かる橋を渡った先に本堂があります。
本堂前には右側に前鬼、左側に後鬼像が本堂を守護しています。
役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたと伝わり、
前鬼と後鬼を従え、水を汲み薪を採らせていたとされています。

龍泉寺は山号を大峯山と号する真言宗醍醐派の寺院です。
伝承によれば天智天皇6年(667)頃に役小角(えん の おづの /おづぬ)が
この地に泉を発見し、「龍の口」と名づけて、
その側に小堂を建て、八大龍王を祀ったのが始まりとされています。
平安時代に醍醐寺を開創した聖宝(しょうぼう)理源大師によって再興されました。
役行者が大峯開山の際に「一之行場」として開いた
蟷螂(とうろう)の岩屋(洞窟)に雄雌の大蛇が住着き、
修験者に危害を加えました。
それからは大峯山を訪れる人も途絶え、寺も寂れました。
そこで、聖宝理源大師が、真言の力で大蛇を退治し、寺を再興したと伝わります。
堂内には本尊である弥勒菩薩と、役行者、弘法大師、理源大師、
不動明王像が安置されています。
不動明王は「一願不動明王」と称され、一願成就の御利益があるとされています。
また、近畿三十六不動尊・第31番の札所本尊でもあります。
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本堂前には賓頭盧尊者像が安置されています。
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本堂の右側に紫燈(さいとう)護摩道場があります。
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正面には不動明王を象徴する利剣と左に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、
右に制多迦童子(せいたかどうじ)の像が建立されています。
三昧耶形(さんまやぎょう/さまやぎょう)では、不動明王が右手に持つ
降魔の三鈷剣は、不動明王の象徴そのものであり、貪・瞋・痴の三毒を破る
智恵の利剣であるとされています。
魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切とされています。
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背後には中央に不動明王、右側に役行者、左側に理源大師が祀られています。
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紫燈護摩道場の右側に「龍(たつ)の口」があり、岩窟より霊水が湧き出て、
水行場へと流れています。
龍泉寺が創建される由来となった泉であり、伝承も残されています。
『龍の口に棲む白蛇は、龍泉寺で修行しながら働く、まじめな寺男に惹かれ、
女に姿を変えて寺男の家に住着きました。
そして、いつしか二人は夫婦になり、かわいい男の子が産まれました。
しかし、ある日その女の正体が白蛇であることが寺男に知られ、
白蛇は龍の口へ帰りました。
その時、白蛇は自分の目玉を繰り抜き、子供に与え、「目を亡くしたので
昼夜の区別がつくように朝に六つ、暮れに七つ、
お寺の鐘を鳴らしてください」と告げました。
子供は、目玉をなめて育ち、龍泉寺の鐘は、毎日鳴らし続けられた』と伝わり、
鐘は今も撞かれているようです。
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龍の口の左側には多数の石仏が祀られています。
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龍の口の少し下流に龍王橋が架けられています。
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橋を渡って龍の口の方へ戻った所に善女龍王が祀られています。
善女龍王は八大龍王の一王・娑伽羅龍王(しゃがらりゅうおう)の
三女とされています。
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また、光明白龍王が祀られた祠などがあります。
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奥の方に石段があり、石段の右側には多数の石仏が並んで祀られています。
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石段を上った右側に龍王の滝があります。
龍泉寺が女人解禁された際に、女性修験者の水行場として建設されました。
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滝の右側には不動堂があり、不動明王像が安置されています。
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龍王の滝から下ってきた所に八大龍王堂があり、八大龍王が祀られています。
八大龍王は天龍八部衆に所属する龍族の八王で、法華経(序品)に登場し、
仏法を守護しています。
洞川から大峯山を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、
八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっています。
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堂内の天井には龍の図が描かれています。
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八大龍王堂から車道の方へ進んだ所に修験門があります。
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修験門から車道を下り、総門を超えた先にも修験門があります。
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修験門を入った右側に鐘楼があります。
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鐘楼の前方に寺務所があります。
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寺務所の右側に庫裏があります。
彦根城にあった大正天皇の行在所を移築したものです。
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庫裏の右側に納経所を挟んで神聖殿があり、神変大菩薩、
聖宝理源大師の精霊が泰安されています。

天河弁財天社へ向かいます。
続く

天河弁財天社

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龍泉寺から県道21号線を戻り、国道309号線へ右折した先の「川合」の
信号を左折して県道53号線を進んだ先に天河弁財天社があります。
明神鳥居と太鼓橋は平成10年(1988)に新築されましたが、
天川村は平成23年(2011)の台風12号により、約8割の家屋が浸水する
という大きな被害を受けました。
天河弁財天社でも約2mの高さまで浸水し、太鼓橋が浮き上がり、
その後修復されました。

天河弁財天社がある地は、日本で最初に海から隆起した所であり、
神武天皇が「日本(ひのもと)」を霊感した所とも伝わります。
高野・吉野・熊野の三大霊場を結んだ三角形の中心地でもあります。
天河弁財天社は、役行者が大峯山を開山した際に弁財天を勧請し、
弥山(標高1,895m)の鎮守として祀られたのが始まりとされています。
山頂には奥宮として弥山神社が残されています。
その後、第40代・天武天皇(在位:673~686年)により現在地に
社殿が建立され、「天の安河の宮」と称されました。
平安時代の弘仁年間(810~824)に空海は、高野山の開山に先立って
大峯山で修行し、最大の行場を天河社とし、「琵琶山妙音院」と称しました。
天河弁財天社には、空海が唐より持ち帰ったとされる密教法具など、
遺品が多数残されています。
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太鼓橋を渡った正面に本殿への石段があります。
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石段の途中に五社殿があります。
手前は「龍神大神」で、弁財天の化身とされる龍神の神が祀られています。
次の「代将軍大神」は八ツの社の内森本神社の祭神とされています。
次の「大日霊貴神(おおひるめのむちのかみ)」とは天照大御神の別名となります。
次の「天神大神」には菅原道真が祀られています。
次の「大地主神(おおどころぬしのかみ)」は琵琶山の地主守神とされています。
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社殿前に「天石」が祀られ、その云われとして次のように記されています。
『大峰弥山を源流とする清流は天の川にそそがれ坪内(壺中天)で蛇行し、
その形は龍をしのばせる。
 鎮守の森、琵琶山の磐座に弁財天が鎮まり、古より多くの歴史を有す。
この地は「四石三水八ツの社」と言われ、四つの天から降った石、
三つの湧き出る清水、八つの社に囲まれし処とされ、神域をあらわす。
その内三つの天石を境内に祀る。』
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拝殿の鈴は五つからなり、「五十鈴(いすず)」と呼ばれています。
天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命
(あめのうずめのみこと)が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、
岩屋戸の前にて舞を舞われ、岩屋戸が開かれたことに由来しています。
また、拝殿には能舞台があり、能舞台を含めた拝殿は、
辨財天の別名「妙音天」から「妙音院」と称されています。
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本殿には市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、
熊野坐大神(くまのにますおおかみ)、吉野坐大神、南朝四代天皇の御霊、
神代天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)より百柱の神が祀られています。
明治の神仏分離令により、祭神が弁財天から市杵島姫命に改められました。
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本殿の横から裏側へ下る石段があり、下った所に役行者堂があります。
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役行者堂の左側に「天石」が祀られています。
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何か由来のありそうな舟形の石が置かれていますが詳細は不明です。
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役行者堂から石段を上り本殿へ戻ります。
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本殿から下って駐車場の方へ進んだ所に平成12年(2000)に
新しく建て替えられた斉灯殿があります。
斉灯殿では千年間護り続けられている燈明が祀られています。
平成23年(2011)の洪水でも、寸前のところまで浸水しましたが、
灯は消えることは無かったそうです。
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宝物殿も階段の最上部まで浸水したそうです。
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天河弁財天社では本年7月16日(月)~22日(日)まで
「御造営三十年記念大祭」が行われました。
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駐車場の脇にある倉庫では大きな太鼓の調整が行われていました。

近畿三十六不動尊・第三十番及び役行者霊蹟札所である如意輪寺へ向かいます。
続く

平成30年(2018)9月30日、台風24号が日本列島を縦断!

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平成30年(2018)9月4日に近畿地方に甚大な被害をもたらした台風21号に続き、
9月30日に台風24号が和歌山県田辺市付近に上陸しました。
21号の時は台風が接近した午前11:30頃から強い風が吹き始め、
午後1時30分から2時30分までは今まで経験したことがない猛烈な風と雨が続き、
家を揺らしました。
午後4時頃になってようやく雨は上がりましたが、
まだ時々強い風が吹いていました。

24号の場合は、午後9時8分頃に腕時計の気圧計で968.1hPaまで低下し、
上昇に転じましたが、台風接近時には特に強い風や雨は感じられませんでした。
しかし、気圧が上昇に転じた途端、状況は一変し、雨風が激しくなってきました。
午後9時45分頃からより一層風が強くなり、ヒューっと音を立てて吹くようになり、10時30分頃には音を立てて暴風が吹きつけ、
横殴りの雨が窓に叩きつけるようになりました。
そして、午後10時45分には連続した暴風から、暴風と暴風の間が空くようになり、ピーク時より風の強さも若干弱まったように感じられるようになり、
10時50分から急速に風が弱まり、雨も小康状態となりました。
幸い京都では、21号の時ような猛烈な風は吹かず、時間も短くて済みました。
しかし、9月に非常に強い勢力の台風が近畿地方に2回も上陸するとは...
夏は猛暑で、秋雨前線も長い間停滞している今年が異常なのか?
それとも来年以降もこのような天候が続くのか?...
京都では青空が拡がり、朝日が昇ってきました。

如意輪寺

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県道53号線を国道309号線の方へ戻り、国道309号線を進んだ先、
「岡崎」の信号を右折して国道370号線へ入ります。
国道370号線はその先で国道169号線になり、「吉野大橋北詰」の
信号を右折して橋を渡って県道37号線を進んだ先に如意輪寺があります。
如意輪寺の駐車場は県道から少し下るのですが、入口を見過ごし、
少し迷ってしまいました。
如意輪寺は山号を塔尾山(とうのおさん)、院号を椿花院(ちんかいん)と
号する浄土宗の寺院です。
当初は真言宗の末寺でしたが、その後荒廃し、慶安3年(1650)に浄土宗の
文誉鉄牛(ぶんよてつぎゅう)上人によって復興され、
浄土宗の寺院となりました。
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山門をくぐり参道を進んだ先に不動堂があり、難切不動尊が祀られています。
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石像では日本最大とされ、近畿三十六不動尊・第三十番の札所本尊でもあります。
元は吉野に登る途中の不動坂に祀られていましたが、約60年前に
信者がお告げを受け、如意輪寺に遷されました。
不動坂に祀られていたとき、「牛車が転落したがその農夫の身代りとなって
左手を負傷され、人命を救助された」という記録が
あるそうですが、傷痕らしきものは確認できませんでした。
向かって左に制多迦童子(せいたかどうじ)、右に矜羯羅童子
(こんがらどうじ)の石像が安置されています。
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鐘楼
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役行者堂には役行者像が安置され、役行者霊蹟札所の本尊ともなっています。
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西側にある山門が表門だと思われます。
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門の正面に本堂の如意輪堂があり、本尊の如意輪観音が祀られています。
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本堂前には後醍醐天皇の腰掛石があります。
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木斛(もっこく)の木は楠木正成の手植えとされています。
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本堂の左側に「至情塚」があります。
後村上天皇に仕えていたた女官・弁内侍(べんのないし)は、天皇から
楠木正行(まさつら)の妻になるように薦められましたが、
正行は正平3年/貞和4年(1348)に四條畷の戦いで敗れ、自害して果てました。
弁内侍はその後、正行の菩提を弔うために尼僧となり、
ここに黒髪を納めたと伝わります。
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境内の北側に寺務所があり、納経所となっています。
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寺務所前を奥へ進むと後醍醐天皇陵への石段があります。
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石段の途中で右側に進んだ所に世泰親王(ときやすしんのう)の墓があります。
世泰親王は南朝の第3代天皇・長慶天皇の皇子で、
生前の事績については一切不明です。
また、親王墓は明治12年(1879)に宮内庁に治定され、現在は宮内庁の
管理下にありますが、実際の墓は如意輪寺付近の「児童松」という地にあり、
この墓は楠木正行の髻塚(もとどりづか)であるとの説があります。

南北朝時代の正平2年/貞和3年(1347)、楠木正行の一族郎党は最後の戦いに臨み、
死を覚悟して如意輪寺に詣で、髻(もとどり)を切り、壁板に名を録して、
正行が扉に鏃(やじり)で
「かゑらじとかねておもへば梓弓(あずさゆみ)なき数に入る名をぞとどむる」
との辞世の歌を書き残したと伝わります。
その時の扉は宝物殿に展示されています。
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更に石段を上って行った所に後醍醐天皇の塔尾陵(とうのおのみささぎ)が
あります。
鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333)に後醍醐天皇は、天皇が自ら政治を
行うとして、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、
光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃して
建武の新政を開始しました。
しかし、その施策の大半が政権批判へとつながり、武士勢力の不満が大きかった
だけでなく、公家たちの多くも政権に冷ややかな
態度をとるようになりました。
建武2年(1335)には足利尊氏が新政から離反し、後醍醐天皇は新田義貞
尊氏追討を命じました。
足利尊氏は九州へと逃れ、翌年には態勢を立て直し、京都へと迫りました。
後醍醐天皇は楠木正成と新田義貞に尊氏追討を命じましたが、新田・楠木軍は
湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れました。
後醍醐天皇は吉野へ逃れて朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と
吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まりました。
後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に如意輪寺は勅願所とされました。
延元4年/暦応2年(1339)8月15日に天皇は病で倒れ、
義良親王(のりよししんのう=後の村上天皇)に譲位して、
翌日、吉野金輪王寺で崩御されました。
「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕(ほっけつ=京都の皇居)
の天を望まん」と病床で詠まれた歌に従い、天皇の遺体は座ったままの姿で、
北面して土葬し、そこに円形の山陵を築造したと伝わります。
天皇家の墓陵としては、唯一の北向きとなりました。

吉水神社へ向かいます。
続く

吉水神社~東南院

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如意輪寺から県道15号線へ戻り、南へ谷を廻りこむように進んだ所に
吉水神社があります。
吉水神社は天武天皇の御代(673~686年)に創建された金峯山寺の
僧坊・吉水院(よしみずいん)でしたが、明治の神仏分離令により
吉水神社に改められました。
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鳥居をくぐり参道を進むと「従是 吉水院」と刻字された石標が建ち、
ここから旧吉水院の境内地であったことが示されています。
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緩い坂道の上部に門がありますが、神門というよりは、やはり山門です。
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門をくぐった先に中門があります。
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門をくぐった左側に豊臣秀吉が自ら設計したとされる庭園が築かれています。
文禄3年(1594)、秀吉は徳川家康、宇喜多秀家前田利家伊達政宗
錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人の供ぞろえで
吉野山で花見の宴を催し、吉水院はその本陣となりました。
しかし、この年の吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから
3日間雨が降り続きました。
苛立った秀吉は、同行していた聖護院の僧・道澄に「雨が止まなければ
吉野山に火をかけて即刻下山する」と伝えると、道澄はあわてて、
吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じました。
その甲斐あってか、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、
盛大に豪華絢爛な花見が催されたと伝わります。
書院には秀吉愛用の金屏風や秀吉から寄進された青磁の花瓶、
湯釜などが展示されています。
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庭園の正面には「一目千本」の展望台があり、上千本と中千本の
桜を一望することができます。
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金峰山(現在の大峰山系)で修行を積んでいた役行者は、
金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)が出現して、これを感得し
蔵王権現像を彫ったとされています。
その時に用いられた木材が桜樹であり、以降、行者達は桜材を使い
権現を彫刻し、これを祀る習わしとなりました。
これより桜は神木となり、桜の枯れ木といえども薪にもされず、
一枝を折る者は指一本を切るといったような厳しい信仰が厳守されてきました。
蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが
最善の供養となる風習が起こり、平安時代の頃から多くの桜が
植えられるようになりました。
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展望台の先にやや違和感のある本殿があり、後醍醐天皇を主祭神とし、
宗信法印が配祀されています。
延元元年/建武3年(1336)、足利尊氏軍に京都へ攻め込まれ、
秘かに花山院を脱出した後醍醐天皇は、吉水院の宗信法印の援助により
吉水院を南朝の皇居と定めました。
左側がわには楠木正成が祀られています。
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境内には「弁慶の力釘」と伝わる石があります。
文治元年(1185)の冬、源頼朝の討伐を受け、義経と静御前や弁慶らは
吉水院の僧坊に匿われていましたが、追手が迫った来た時に弁慶が
表に飛び出し、近くにあった2本の釘を親指でこの石に打ちつけたとされています。
弁慶の怪力を見た追手は、蜘蛛の子を散らしたように逃げ去ったと伝わります。
豊臣秀吉は花見の際に「力をもらいたい」と言ってこの石に触れたそうです。
書院には義経と静御前の潜居の間があり、重要文化財に指定されている
義経の鎧などの遺品が展示されています。
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書院は室町時代前期に建立され、日本最古の書院建築として
国の重要文化財に指定されています。
また、「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産に含まれています。
書院には後醍醐天皇の玉座が残され、
豊臣秀吉により桃山様式に修繕されています。
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吉水神社の向かいに大峯山持護院の東南院があります。
東南院は役行者が金峯山寺を創建した際に巽(東南)の方角に当たる所に
建てられた寺で、一山の安泰と興隆を祈願した所とされています。
金峯山修験本宗・別格本山で、役行者霊蹟札所となっています。
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多宝塔は、元は和歌山県海草郡紀美野町の野上八幡宮にありましたが、
その後数度の移築が行われ、昭和12年(1937)に東南院に移築されました。
堂内には平安時代の作とされるの大日如来像が安置され、
奈良県の文化財に指定されています。
その他、鎌倉時代作とされる毘沙門天・不動明王などが祀られています。

神仏霊場・第39番と役行者霊蹟札所である
金峯山寺(きんぷせんじ)へ向かいます。
続く

金峯山寺

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東南院から北へ進んだ所に金峯山寺(きんぷせんじ)があります。
金峯山寺は山号を国軸山(こくじくさん)と号する
金峰山修験本宗(修験道)の本山です。
国軸山とは国の軸をなす山であるという意味とともに、
天界と地上界を結ぶ軸をなすことを示しています。
山岳を宇宙柱、宇宙軸と考える信仰を示すもので、金峯山寺では
古くから山号として「国軸山」を使っていました。
大峯山(山上ヶ岳=標高1,719m)の大峯山寺を「山上の蔵王堂」、
金峯山寺は「山下(さんげ)の蔵王堂」と呼ばれ、「金峯山寺」とは本来、
山上・山下の2つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称でした。
また、高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっています。
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蔵王堂への石段の脇に「後醍醐天皇導きの稲荷」神社があります。
延元元年/建武3年(1336)、足利尊氏軍に京都へ攻め込まれた後醍醐天皇は、
秘かに花山院を脱出し吉野へ向かったのですが途中で道に迷いました。
とある稲荷社の前で
「ぬば玉の 暗き闇路に迷うなり われにかさなむ 三つのともしび」と
歌を詠まれると紅色の雲が現れ、吉野山への道を照らしたと伝わります。
「導きの稲荷」はその稲荷を勧請したものとされています。

石段の上にはかって二天門があったと推定されています。
役行者が開いた吉野と熊野三山を結ぶ大峯奥駈道は、
天台宗系の本山派(聖護院)は吉野から本宮に向かう逆峯(ぎゃくふ)、
真言宗系の当山派(醍醐寺三宝院)は本宮から吉野に向かう順峯(じゅんぷ)で
行場を巡っていました。
順峯の場合は二天門から蔵王堂へ入り、逆峯の場合は北側の
仁王門から入っていました。
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蔵王堂の北側には室町時代の康正2年(1456)に再建された仁王門があり、
国宝に指定されていますが工事中でした。
門の左右には、延元4年(1339)に仏師・康成によって造立された
像高約5mの金剛力士像が安置され、国の重要文化財に指定されています。
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南側に戻り、石段を上った正面に本堂の蔵王堂があり、
その手前に4本の桜が植えられ、石柵で囲まれています。
石柵内に立つ銅燈籠は文明3年(1471)の作で、重要文化財に指定されています。
後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう)は、京都・岡崎の
法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたことから大塔宮(だいとうのみや)と
呼ばれていました。
鎌倉時代末期の元弘元年(1331)に後醍醐天皇が笠置山で挙兵し元弘の乱を
起こすと、還俗して参戦しましたが、笠置山は陥落し後醍醐天皇も
囚われの身となりました。
親王は僅かな手勢を連れて十津川に半年ほど滞在した後、
吉野に入ったとみられています。
しかし、元弘3年/正慶2年(1333)、幕府軍6万余騎が吉野金峯山城へ押し寄せ、
石柵で囲まれた地は、親王が落城前に最後の酒宴を催した場所とされています。
その後、幕府軍に攻められ、村上義光は親王の鎧を着て
身代りとなり親王を逃しました。
更に追手を義光の子・義隆(よしたか)が盾となって親王を護り、
親王は高野山へと落ち延びることができました。
村上義光が果てたのが二天門とされています。
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境内の東側には、いろいろな講の記念塔が建っています。
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愛染堂
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愛染明王像は廃仏毀釈に伴い廃寺になった安禅寺から遷されました。
安禅寺は大峯七十五靡(なびき)の第70番靡「愛染の宿」で宝塔院と号しました。
安禅寺蔵王堂の本尊であった像高4mの木造蔵王権現立像は金峯山寺蔵王堂の
内陣に客仏として安置され、国の重要文化財に指定されています。
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観音堂
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観音菩薩の縁日である4月18日に金峯山寺では毎年観音堂大祭が行われます。
当日は観音堂で大般若経六百巻を転読し、一年の残りの
家内安全・身体健全を祈願します。
『続日本紀』には飛鳥時代の大宝3年(703)に大般若経の転読が
行われていたことが記されています。
堂内には厨子の前に御前立と思われる観音菩薩立像が安置されています。
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また、左側には平成30年4月1日~平成31年3月31日まで開催されている
「吉野山寺宝巡り」の阿難迦葉(かしょう)の立像が安置されています。
阿難・迦葉とも釈迦の十大弟子で、迦葉は仏教の第二祖とされ、
八歳でバラモンに入門して修行していたのですが、釈迦と出会い弟子となりました。
釈迦に入門して8日目で最高の悟りを得たとされる阿羅漢になったと伝わります。
阿難は仏教の第三祖とされています。
阿難は出家後、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、
身の回りの世話も行っていました。
そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので
「多聞第一」と称せられました。
第1回の経典結集に参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、
経典が編纂されたと伝わります。
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本堂の蔵王堂は豊臣家の寄進により天正19年(1592)に建立されたもので、
国宝に指定されています。
高さ34m、奥行、幅ともに36mあり、木造の古建築としては
東大寺大仏殿に次ぐ規模となります。
一見すると2階建てのように見えますが、構造的には
「一重裳階(もこし)付き」の建物です。
内陣には巨大な厨子があり、本尊として3躯の蔵王権現立像が安置され、
重要文化財に指定されていますが秘仏とされています。
中尊像内に天正18年(1591)南都大仏師・宗貞、宗印等の銘があります。
寺伝では中尊が釈迦如来、向かって右に千手観音、左に弥勒菩薩を本地とし、
それぞれ過去・現世・来世の三世にわたって衆生救済の誓願を以て
現れたとされています。
像高は中尊が7m28cm、千手観音像が6m15cm、弥勒菩薩像が5m92cmの
巨大な像となります。

金峯山寺は役行者によって創建されましたが、
創建年度や創建に関わる詳細は不明です。
平安時代の寛平6年(894)に荒廃していた金峯山は、醍醐寺を創建した
聖宝(しょうぼう)理源大師によって再興されました。
聖宝は参詣路を整備し、堂を建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩を安置し、皇族や貴族なども参詣するようになりました。
寛弘4年(1007)には藤原道長が訪れ、金峯山寺蔵王堂付近に
日本最古の金峯山経塚を造営しています。
寛治4年(1090)に初めて熊野行幸を行った白河上皇は、
寛治6年(1092)に金峯山寺を訪れています。
熊野行幸の際、先達を務めたのが園城寺(三井寺)の増誉(ぞうよ)で、
増誉は初代熊野三山検校に任命されました。
検校(けんぎょう)とは社寺の総務を統括する役職で、増誉は智証大師円珍
開創し常光院と称された寺を聖護院と改称し、増誉以降の熊野三山検校は
園城寺か聖護院の僧から任ぜられることが慣例となりました。
役行者を開祖、智証大師円珍を派祖とする大峯修験道本山派の基礎が、
平安時代末期には固められました。

鎌倉時代に入ると真言宗系の修験者が「当山方大峯正大先達衆
(とうざんがたおおみねしょうだいせんだつしゅう)」と称し、
毎年日本各地から集まる修験者たちの先達を務め、様々な行事を行いました。
室町時代には36の寺院がこの組織に属していたことから、
「当山三十六正大先達衆」とも称され、室町幕府の後援を受け、
吉野を勢力圏として拡大しました。
しかし、中世後期になると本山派との確執が深刻化し、聖宝ゆかりの三宝院と
の関係を強めることになりました。
三宝院の義演は徳川家康に働きかけ、慶長18年(1613)に江戸幕府から
一派による独占は否定され、両派間のルールが定められました。

中世の金峯山寺は山上・山下に多くの子院をもち、多くの僧兵
(吉野大衆と呼ばれた)を抱え、中興の祖である聖宝との関係で、
当山派との繋がりが強かったのですが、その勢力を恐れた徳川家康は
天台宗の僧である天海に学頭を命じ、天台宗(日光輪王寺)の
傘下に置かれることとなりました。

明治の神仏分離令や明治5年(1872)の修験道廃止令により、
明治7年(1874)には金峯山寺自体も廃寺に追い込まれました。
僧侶・修験道者らの嘆願により、明治19年(1886)に「天台宗修験派」
として修験道の再興が図られ、金峯山寺は寺院として復興存続ができたのですが、
山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離されました。
第二次大戦後の昭和23年(1948)に、天台宗から分派独立して
大峯修験宗が成立し、昭和27年(1952)には金峯山修験本宗と改称、
金峯山寺が同宗総本山となりました。
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本堂前の賓頭盧尊者像
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本堂の左側に威徳天満宮があり、奈良県の文化財に指定されています。
椿山寺(竹林院の前身)で出家した日蔵道賢が大峯山中で修行していた時に、
醍醐天皇の霊が現れ「菅原道真を九州の太宰府へ左遷したのは誤りであった。
道真の霊を祀ってほしい。」と告げました。
威徳天満宮は修行を終えた日蔵道賢(にちぞうどうけん)上人によって
創建されました。
また、日蔵上人は如意輪寺も創建しています。
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現在の社殿は豊臣秀頼により改修された後、平成10年(1998)9月の台風7号に
より大被害を受け、平成13年(2001)に復旧されました。
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本堂の左横に鐘楼堂があります。
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鐘楼堂の手前を下り右側に進むと本坊があります。
金峯山修験本宗の宗務庁でもあります。
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参道を戻り、先へ進んだ所に不動窟があり、不動明王が祀られていますが、
扉は閉められ、詳細は不明です。
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不動窟の先に吉野朝皇居跡があります。
吉野朝皇居は当初吉水院に置かれましたが、手狭なためその後、
実城寺を皇居とされ、寺号を金輪王寺と改められました。
そして生涯を閉じられたのも金輪王寺でしたが、吉野大衆の勢力を恐れていた
徳川家康は寺号を没収し、元の実城寺に戻し、直轄の支配下に置きました。
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南朝跡地には昭和33年(1958)に南朝妙法殿が建立されました。
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堂内には旧実城寺の本尊であった釈迦如来坐像が安置されています。
像高83.2cm、平安時代の作で金峯山寺に現存する諸仏の内、最も古いもので、
奈良県の文化財に指定されています。
脇侍として向かって右側に普賢菩薩、左側に文殊菩薩像が安置されています。
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先へ進むと仏舎利殿があります。
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堂内
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仏舎利殿の前には由緒書きが立っていました。

石段を下り、金峯山寺塔頭で脳天大神を祀る龍王院へ向かいます。
続く

龍王院

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金峯山寺の仏舎利殿の先から下り道が続いています。
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少し下った所に役行者像が祀られています。
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石段の途中には鳥居が建っていて、下りの石段が続いていますが
先に何があるのか?見えてきません。
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不動明王像が祀られています。
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これは何か?詳細は不明です。
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滝行場があります。
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岩峯大神
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「狐忠信(きつねただのぶ)霊碑」
狐忠信とは歌舞伎や人形浄瑠璃の「義経千本桜」の四段目の登場する
佐藤忠信に姿を変えた子狐のことです。
静御前は源義経から預かった「初音」と呼ばれる鼓を持っていましたが、
それに使用されていた皮は子狐の親のものでした。
子狐は佐藤忠信に姿を変え、静御前を守りながら吉野山の
義経の元へと向かいました。
後に子狐は義経から「源九郎狐」と名付けられました。
佐藤忠信は実在した人物で、治承4年(1180)、奥州にいた義経が挙兵した
源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により兄・継信と共に義経に随行しました。
兄の継信は屋島の戦いで討死しましたが、忠信は一ノ谷、屋島、壇ノ浦などで
たたかい、義経四天王の一人と呼ばれました。
忠信は義経と頼朝が対立しても義経と同行し、吉野で山僧に攻められた際は
身代わりとなって義経を逃しました。
しかし、翌年の文治(ぶんじ)2年9月20日に京都の中御門東洞院に潜んでいる
ところを糟屋有季(かすやありすえ)に襲われて自害しました。
この碑は金峯山修験本宗の初代管長の五條覚澄大僧正が、昭和38年(1963)に
霊夢により、芸能の神として建立されました。
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ようやく石段の下が見えてきました。
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石段を下った所に手水があり、その脇には仏像が祀られています。
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石段を下った先に太鼓橋が架かっています。
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橋を渡った渡った南側に脳天大神の本殿があります。
正式には金峯山寺の塔頭の龍王院で、神社ではありません。
五條覚澄大僧正は、お瀧のある行場を探し求められていた際に、
頭を割られた蛇に遭遇され、それを哀れに思い丁重に葬られました。
その後、その蛇が何度も夢枕に立たれ「頭の守護神として祀られたし」と
告げられ、昭和26年(1951)に脳天大神が祀られるようになりました。
また、脳天大神は蔵王権現の変化神とされています。
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本殿の先には祖師堂があり、堂前には狛犬ならぬ、背中に子蛙を乗せた
狛蛙が門番をしています。
また境内には蛙の置物が多数見られますが、脳天大神の神使いでしょうか?
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堂内には中央に不動三尊像、向かって右側に五條覚澄大僧正像、
左側に役行者像が祀られています。

下ってきた450段の石段を上り蔵王堂まで戻ります。
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蔵王堂から県道15号線を北へ進むと銅鳥居(かねのとりい)があり、
国の重要文化財に指定されています。
この鳥居は第一門で「発心門」とも呼ばれ、俗世間からこの門をくぐれば
修験道へと入ったことが示されています。
当初は東大寺の廬舎那仏鋳造の際に余った銅を使い建立されたと伝わります。
『太平記』によれば、南北朝時代の正平3年/貞和4年(1348)に足利尊氏の
側近であった高師直(こう の もろなお)の兵火により焼け落ちたと
記されています。
この時、蔵王堂も焼失し、蔵王堂が再建された康正元年(1455)頃に
銅鳥居も再建されたと考えられています。
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更に県道を進むと金峯山寺の総門である黒門があり、
かっては公家大名といえども槍を伏せ、馬をおりて歩いたといわれます。
城郭によく用いられる高麗門であり、
吉野一山を護る門であったのかもしれません。

宮滝遺蹟へ向かいます。
続く

宮滝遺蹟~御首載石跡

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県道15号線を下り、吉野川を渡って国道169号線へ右折して、東方向へ進み、
国道から僅かにそれた所に宮滝遺蹟があります。
宮滝遺蹟は昭和5年(1930)から断続的に発掘調査が行われ、縄文時代後期から
飛鳥・奈良時代の遺跡が発見され、遺跡の中心部が国の史跡に指定されています。
第37代・斉明天皇2年(656)の時代に吉野宮造営の記述があり、
当地がその所在地であったことがほぼ確定されています。
第38代・天智天皇10年9月(671年10月)に天智天皇が病に倒れ、
天皇は弟の大海人皇子(後の天武天皇)に後事を託そうとしました。
しかし、大海人皇子は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、
妃の鵜野皇女(うの の ひめみこ=後の持統天皇)や子供の草壁皇子と
ともに吉野宮に隠棲しました。
天智天皇10年12月3日(672年1月7日)に天皇が崩御されると、
大海人皇子の兄の大友皇子が跡を継ぎましたが、長男ながら身分の低い
側室の子であることが弱点とされていました。
絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの反動から
大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成されるようになりました。
大海人皇子は吉野で挙兵して壬申の乱を起こし、これに勝利して
天武天皇2年(673)に都を近江から飛鳥浄御原宮に遷して
第40代・天武天皇として即位しました。
天武天皇8年(679)にも天皇は、皇后となった鵜野皇女や草壁皇子らを
連れて吉野宮に行幸し、草壁皇子を次期天皇とする事実上宣言である
吉野の盟約」を行いました。
しかし、天武天皇と皇太子となっていた草壁皇子が相次いで没し、
やむなく鵜野皇女が第41代・持統天皇として即位しました。
持統天皇は在位中に31回、退位後も2回吉野行幸を行い、その後も文武天皇・
元正天皇・聖武天皇によって行幸が行われ、吉野宮の管理のために
芳野監(よしののげん)という官司が設けられました。
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更に国道169号線を進んで行くと大滝ダムが見えてきます。
大滝ダムは昭和34年(1959)9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島から
東海地方を中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした
伊勢湾台風を機に、吉野川に建設されたダムです。
国土交通省近畿地方整備局。紀の川ダム統合管理事務所が管理する
高さ100mの重力式コンクリートダムで、吉野川は和歌山県に入ると
「紀の川」と名称が変わります。
計画以来地元の反対運動が激しく補償交渉が極めて長期化し、完成直前に
貯水池斜面が地すべりを起こして対策に時間が掛かるなど完成までに
50年の歳月を費やしました。
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ダムの下流の方は岩が露出し、風光明媚な吉野川の様相を呈しています。
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国道169号線をダムの上流側に進んだ所に「御首載石跡」があります。
元中9年/明徳3年(1392)に南北朝が統一された際に「明徳の和約」で
天皇は北朝系(持明院統)と南朝系(大覚寺統)から交代で出す
(両統迭立)ことが締結されました。
しかし、応永19年(1412)に北朝系の第100代・後小松上皇の次代として、
後小松上皇の皇子である称光天皇(しょうこうてんのう)が即位した
きっかけに、北朝系によって天皇位が独占されるようになりました。
正長元年(1428)に嗣子のなかった称光天皇が崩御された後、
伏見宮家から彦仁王(後の後花園天皇)が後継者とされたことから
南朝側の反発が強まります。
嘉吉3年(1443)9月には、南朝復興を唱える日野家嫡流の日野有光らの
勢力が後花園天皇の暗殺を企てて御所に乱入しました。
暗殺は未遂に終わったものの、三種の神器の剣と神璽(しんじ)を奪い
比叡山に逃れる「禁闕の変(きんけつのへん)」を起こしました。
幕府は数日のうちにこの変を鎮圧し、変の首謀者たちが討たれ、
剣が奪い返されたのですが神璽は後南朝に持ち去られました。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で取り潰された赤松氏の復興を願う
赤松家遺臣の上月満吉、石見太郎らは、長禄元年(1457)に後南朝勢力を襲い、
南朝の末裔という自天王(尊秀王)・忠義王兄弟を殺害して神璽を奪い返しました。
尊秀王(たかひでおう)の出身や生涯の詳細については不明ですが、
後亀山天皇の弟の孫とも、後亀山天皇の皇子の子とも伝わります。
南朝の再建を図った指導者で、地元民から
自天王(じてんのう)と呼ばれていました。
自天王は北山郷(奈良県上北山村)に、忠義王は河野谷村(神之谷)に
それぞれ御所を構えていたのですが、赤松の家臣により2つの御所が襲撃され、
二人は討ち取られました。
この惨事はいちはやく川上郷に伝えられ、郷土たちは、
自天王の首と神璽を手に逃走する赤松の郎等を迎え撃ちます。
塩谷村(北塩谷)の名うての射手・大西助五郎は、郎等の頭であった
中村貞友を見事射止めたと伝承されています。
郷士たちは皇子の首と神璽を取り返し、「御首載石」に載せられ冥福を祈り、
その後に金剛寺に葬られたと伝えられています。
しかし、翌長禄2年(1458)、赤松の残党に神璽を奪われ、これによって
赤松家はお家再興の悲願を達成します。

「御首載石」はかって、吉野川畔の寺尾地区にありましたが、
昭和34年(1959)の伊勢湾台風で流出しました。
代わりに吉野川沿いに「御首載石跡碑」が建立されましたが、
大滝ダムが建設され、現在地に移されました。
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また、「後南朝 最後の古戦場」と刻まれた石碑も建立されています。

神仏霊場・第40番札所である丹生川上神社・上社へ向かいます。
続く

丹生川上神社・上社

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「御首載石跡」から国道169号線を進んだ先のトンネルの手前を右折して
山手へ登って行った先に丹生川上神社の上社があります。
丹生川上神社は、鎮座する標高の高さから下社、中社、上社とありますが、
それぞれの距離は結構離れています。
丹生川上神社・上社は大滝ダム建設に伴い、湖底に沈むことになったため、
平成10年(1998)から伊勢神宮の旧社殿の古材を用いて
社殿が造営され、現在地には平成13年(2001)3月に遷座されました。
境内の奥に平安時代の祭場跡が復元されています。
丹生川上神社・上社は明治初年まで高龗(たかおかみ)神社という
小規模な祠でしたが、平成11年(1999)に大滝ダム建設に伴い、
旧境内地の発掘調査が行われました。
調査の結果、本殿基壇直下から平安時代後半(11世紀末)以前に遡る、
長辺約5.4m、短辺約3mに渡って自然石を敷き並べた祭壇跡が出土しました。
また、付近からは縄文時代中期末から後期初め(約4000年前)にかけての
祭祀遺跡と見られる、立石を伴う環状配石遺構も出土しています。
古墳時代から奈良時代の遺跡は検出されませんでしたが、本殿の基壇は
平安時代末期から鎌倉時代初期に造営されたと考えられ、その後造替を繰り返し、
その都度規模が拡張されてきました。
『日本書紀』の「神武天皇即位前紀戊午(つちのえうま)年九月甲子
(きのえね)の条」に、「厳瓮(いつへ=お神酒の器)を造作(つく)りて、
丹生の川上に陟(のぼ)りて、用(も)て天神地祇(あらゆる神々)を
祭りたまふ」と記され、戦勝を占った地とされています。
但し、現在の地図で調べてみると、丹生川は黒滝村を源流とし、五條市付近で
紀の川(吉野川)に合流していますので、吉野川の上流が
「丹生の川上」と呼ばれていたかは不明です。
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拝殿
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本殿
平安時代の延長5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では官幣大社
(名神大社)に列格していたことから、江戸時代から神名帳の研究が進み、
まず丹生川上神社下社が式内大社丹生川上神社に比定されました。
しかし、下社の鎮座地は寛平7年(895)の太政官符(『類聚三代格』所収)に
記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘して
上社が式内丹生川上神社に比定されました。
明治7年(1874)に高龗神社は下社所轄の神社とされ、下社は「口の宮」、
上社は「奥の宮」と称されるようになりました。
その後、明治29年(1896)に高龗神社は丹生川上神社・上社と改称され、
「口の宮」は下社と改められ、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」と
なりました。
大正4年(1915) 、現・中社のある東吉野村出身の森口奈良吉が、
蟻通神社(ありとおしじんじゃ=現在の丹生川上神社・中社)が
丹生川上社とする説を唱えました。
これが受け入れられ、大正11年(1922)10月12日に上社・下社は中社に
包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされました。
その際、上社の祭神は中社の祭神でもある罔象女神(みつはのめのかみ)から
郷社時代と同じ高龗神に戻されました。
高龗神は貴船神社の祭神と同じで、龗(おかみ)とは、龍の古語であり、
龍は水や雨を司る神となります。
また、相殿には大山祇神(おおやまつみのかみ)と
大雷神(おおいかづちのかみ)が祀られています。
大山祇神の大山祇とは「大いなる山の神」という意味があり、
日本全国の山を管理する神となります。
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拝殿には「神雨霑灑(しんうてんさい)」の扁額が掲げられ、
「神の雨がうるほしそそぎ恩恵をほどこす」との意味になるそうです。
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拝殿前右側には旧境内地の神木であった樹齢約600年とされる
杉の輪切りが祀られています。
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また、杉玉が吊られています。
造り酒屋で軒先に吊られ、新酒ができたことを知らせる杉玉ですが、
なぜここに吊られているのかは不明です。
杉玉の起源は、酒神・大神神社(おおみわじんじゃ)の三輪山の
スギにあやかったとされています。
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左側には青龍が祀られています。
高龗神は山の峰の龍神とされています。
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拝殿前から望むと「天空の社」に相応しい光景が拡がります。
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本殿の左側には末社の山之神社があり、大山祇神が祀られています。
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右から水神社、恵比須社、愛宕社が祀られています。
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境内には平成26年(2014)11月16日に開催された
「第34回全国豊かな海づくり大会」で天皇・皇后両陛下が、
奈良県の魚に指定されているアマゴの稚魚と親アユを、大滝ダムでできた
「おおたき龍神湖」に放流の際に使用された「御放流台」が展示されています。

不動窟鍾乳洞へ向かいます。
続く

不動窟鍾乳洞

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丹生川上神社・上社から国道169号線まで下り、大台ケ原の方へと進んだ
右側に喫茶「ホラ!!あな」があります。
その喫茶店が不動窟鍾乳洞の入口となり、500円を納め店から国道の下を
くぐり鍾乳洞への129段の石段を下ります。
石段を下った正面に不動堂があり、かっては大峯山の修験道行場の一つでした。
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横には吉野川が流れています。
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入り口付近には石仏が祀られています。
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不動窟は役行者によって発見されたとも伝わり、
洞内には役行者像が祀られています。
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洞窟内には名称が付けられています。
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入口
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洞窟に入ると直ぐに右側に曲がり、下って行きます。
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「綱掛石」と記されていますが、これが石筍でしょうか?
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この下りが不動坂です。
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不動坂を下った正面に不動明王像が祀られています。
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左側に不動の滝があり、勢いよく水が流れ落ち、
その音が洞窟内に響き渡っています。
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滝から先は更に右方向に向きを変え、鉄板の橋を渡り、かがみながら
「奥の院」と呼ばれるエリアに向かいます。
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「奥の院」は広い空間で正面には薬師如来が祀られています。
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天井は「五色の雲」と名付けられています。
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周囲には「恵比須大国」や「じゅんさんぶつ」、「せいたか童子」、
「ごまざん」などと名付けられています。
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喫茶店へと戻り、大峰山から湧き出た冷たい水を頂きました。

神仏霊場・第41番札所の丹生川上神社・中社へ向かいます。
続く

丹生川上神社・中社

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喫茶「ホラ!!あな」から国道169号線を戻り、吉野川沿いに県道262号線に入り、突き当りを県道16号線へ右折し、更にその先の東吉野村役場を超えた所で
右折して県道220号線を進んだ先に丹生川上神社・中社があります。
神社の前には高見川が流れていますが、神社の少し先で三川が合流して、
高見川となっています。
『日本書紀』の「神武天皇即位前紀戊午(つちのえうま)年九月甲子
(きのえね)の条」に、「厳瓮(いつへ=お神酒の器)を造作(つく)りて、
丹生の川上に陟(のぼ)りて、用(も)て天神地祇(あらゆる神々)を祭りたまふ」と記され、神武天皇の時代、高見川が丹生川と呼ばれていたなら
条件に合致しそうです。
神社の上流には「神武天皇聖蹟の碑」が建立されています。
また神社の公式HPでは由緒について以下のように記されています。
『今を去る事千三百年余り前、第四十代・天武天皇白鳳四年(675年)
「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば
天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により
創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く
「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、
祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。』
現在地より少し高見川の上流の南岸に摂社・丹生神社があり、
その地が神武天皇が長随彦(ながすねひこ)との戦いで戦勝を占い、
天武天皇が雨師(うし)の明神を創祀した所とされています。
雨師とは古代中国の雨乞いの神で、日本神話に登場する水の神である
罔象女神(みずはのめのかみ)が現在の祭神となったと考えられています。
古来、天理に鎮座する大和神社(おおやまとじんじゃ)の別社とされ、
祈止雨の霊験著しい雨師神として、朝廷から重んじられてきました。
祈雨神祭祭神に預かり、祈止雨祈願のために貴船神社とともに奉幣がなされ、
『延喜式神名帳』では官幣大社(名神大社)に列格していました。
律令制の弛緩に際しても、二十二社の1社にもなるなど朝廷から厚く
崇敬されていましたが、次第に奉幣が減少するなど衰微していき、
応仁の乱以降は、ついにその所在すら不明となりました。
江戸時代の慶安3年(1650)に社名が「蟻通明神(ありとおしみょうじん)」に
改称され、旧社地に摂社・丹生神社の社殿が造営されました。
江戸時代から神名帳の研究が進み、まず丹生川上神社下社が
式内大社丹生川上神社に比定されました。
その後、上社が式内丹生川上神社に比定され、大正4年(1915) 、
現・中社のある東吉野村出身の森口奈良吉が、蟻通神社(ありとおしじんじゃ)が
丹生川上社とする説を唱えました。
これが受け入れられ、大正11年(1922)10月12日に上社・下社は中社に
包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされました。
丹生川上神社・中社は三社の中心的な位置付けでしたが、
第二次大戦後の官制廃止にともなって、昭和27年(1952)に3社はそれぞれ独立し、
現在は「丹生川上神社」として神社本庁に属し、その別表神社とされています。
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鳥居をくぐった正面に石段があり、その先に拝殿があります。
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石段を上った右側に建つ石灯籠は高さ2.6m、笠幅73cmで、鎌倉時代の
弘長4年(1264)の銘があり、国の重要文化財に指定されています。
東大寺三月堂の燈龍に次ぐ完全無欠の名作と賞せられています。
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拝殿には白馬と黒馬の絵馬が掲げられています。
天平宝字7年(763)から応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、
雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録に残されています。
雨乞いの祈祷には黒馬を、雨止みの際には白馬(後に赤馬)が
奉納されるようになりましたが、いつごろか馬の絵を描いた
「板立馬(いたたてうま)」が奉納されるようになりました。
それが現在の絵馬の起源とされています。
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拝殿から本殿へは「渡殿」と呼ばれる石段で結ばれていますが、
立ち入りはできません。
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本殿は高台にあり、江戸時代文政12年(1829)に建立されたもので、
東吉野村の文化財に指定されています。
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本殿は三間社流造で南面し、その左右に配祀神を祀る東殿・西殿が建ち、
それぞれが相の間で本殿と接続されています。
本殿の主祭神は罔象女神で、相殿に伊邪奈岐命・伊邪奈美命が祀られています。
東殿には大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと=天照大御神)・
八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)・誉田別命
(ほむたわけのみこと=応神天皇)が祀られています。
八意思兼命は日本神話に登場する知恵を司る神で、岩戸隠れの際に、
天の安原に集まった八百万の神に天照大神を岩戸の外に出すための
知恵を授けたこととされています。
また、葦原中国平定では、葦原中国(あしはらのなかつくに)に派遣する
神の選定を行い、その後の天孫降臨で瓊々杵尊に随伴しました。
西殿には第9代・開化天皇・上筒男神(うわつつのおのみこと=住吉三神の一)・
大国主命・事代主命(大国主の子)・綿津見神(海の神)・
菅原道真公が祀られています。
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相生の杉
樹齢800年程の杉の大木が相い対いするよう真直に聳え立っています。
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木霊神社(こだまじんじゃ)は昭和57年(1982)に和歌山市にある
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)から勧請して創祀され、
五十猛命(いそたけるのみこと)が祀られています。
五十猛命は須佐之男命の子で、林業の神とされ、小川郷木材林産協同組合市場
開設30周年を記念して勧請されました。
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境内には「吉野離宮跡」の顕彰碑が建立されています。
森口奈良吉が数々の考証を加えて、吉野離宮丹生川上説を唱えたものですが、
現在では宮滝遺蹟が「吉野離宮跡」とされています。
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手水舎
丹生の真名井(清めのお水)と呼ばれています。
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叶(かなえ)大杉(千年杉)
樹高51.5m、幹廻り7.1mの杉の古木で、大杉の幹に両手を当て、
心の願いをこう唱すれば、御神威が授かるとされています。
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丹生のなで梟
叶大杉にいつの頃からか住みつき、丹生の杜の夜の番人として境内を
守っていたとされ、那智黒石にて謹製の「丹生のなでふくろう」守りが
社務所で授与されています。
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境内はツルマンリョウの自生地として国の天然記念物に指定されています。

次回から大阪へ戻り、西国観音霊場の第5番札所・葛井寺とその周辺を巡り、
その後奈良県の観音霊場を中心に巡る予定です。

誉田八幡宮

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バイクで自宅を6:00に出発し、国道1号線から国道170号線(外環状線)に入り、
南へ進み「白鳥北」の信号を左折して東高野街道(旧170号線)を進んだ先に
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の東門があり、
門を入った所が駐車場となっています。
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東門から進んだ先に鳥居が建立され、拝殿まで真っ直ぐに参道が伸びています。
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鳥居の手前右側に放生池があり、池の中には埴輪が祀られています。
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放生池の向かいには神庫があります。
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「誉田林古戦場跡」の碑が建立されています。
かってこの地は戦略上の要地であったことから、
過去に何度か戦の舞台となっています。
延元元年/建武3年(1336)、楠木正成が湊川の戦いで敗れ自害した後、
正成の子・楠木正行(くすのき まさつら)が成長すると、
本拠地である河内国南部で次第に勢力を蓄えていきました。
正平2年/貞和3年(1347)9月、この地で楠木軍は細川顕氏
(ほそかわ あきうじ)を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破りました。
しかし、本格的な南朝攻撃を決意した足利方は、
高師直(こう の もろなお)を大将とする大軍を編成して河内に派遣し、
正平3年/貞和4年(1348)1月5日に四條畷の戦いが始まりました。
足利方の圧倒的な兵力の前に楠木軍は敗れ、
正行は弟の正時と刺し違えて自決しました。
勢いに乗った高師直は、南朝の本拠である吉野に攻め入り陥落させ、
後村上天皇はじめ南朝は賀名生(五條市)に逃れました。
室町時代中期の享徳年間(1452~1454)には畠山長政と従兄の畠山義就
(はたけやま よしひろ/よしなり)が、家督相続により再三に渡って
誉田合戦が行われ、後の応仁・文明の乱(1467~1477)の一因となりました。
応仁・文明の乱の後も長政の子・畠山尚順(はたけやま ひさのぶ)と
義就の子・畠山義豊(はたけやま よしとよ)の対立が続き、
明応8年(1499)に義豊が尚順に敗れて戦死したことにより義豊の子・
畠山義英(はたけやま よしひで)が家督を継承しました。
その後、畠山尚順は細川政元に攻められ、敗北すると永正元年(1504)に
畠山義英と和議となり、誉田八幡宮で「社前の盟約」が結ばれました。
大坂夏の陣では誉田八幡宮の境内に陣を置いた薄田兼相(すすきだ かねすけ)が「道明寺の戦い」に出陣しましたが、霧の発生により先陣の後藤基次
到着から8時間以上も到着が遅れてしまいました。
兼相が到着する直前に後藤基次は戦死し、兼相も奮戦しましたが討ち死にしました。
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「誉田林古戦場跡」の碑の奥に納蔵庫があります。
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参道の北側に恵比須神社があります。
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恵比須神社の左側にある神馬像
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神馬像の左側にある姫待稲荷社
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参道の正面に拝殿がありその前には「右近の橘」と「左近の桜」が
植えられています。
平安宮内裏の紫宸殿(南殿ともいう)の前庭に植えられている
桜と橘が起源とされています。
左近・右近は左近衛府(さこんえふ)・右近衛府の略称で、
左近は紫宸殿の東方に、右近は西方に陣を敷き、
その陣頭の辺に植えられているのでこの名があります。
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拝殿は間口11間、奥行3間の割拝殿で、本殿を防御するかのように
左右に長く建てられています。
社伝では欽明天皇20年(559)に第29代・欽明天皇により、応神天皇陵前に
神廟が造営されたことをもって創建とされています。
永承6年(1051)に第70代・後冷泉天皇の行幸があり、その際元の鎮座地から
1町ほど南の現在地に遷座されました。
建久7年(1196)には源頼朝によって社殿の修復が行われています。
八幡神は源氏の氏神とされ、源姓を名乗る歴代の征夷大将軍をはじめ、
武家の信仰を受けました。
享徳3年(1454)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより
社殿・伽藍を焼失し荒廃し、その後河内国を支配下に置いた織田信長により、
社領をすべて奪われました。
豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建しましたが、
天正14年(1586)に社殿が焼失しました。
慶長11年(1606)に豊臣秀頼が普請奉行に片桐且元(かたぎりかつもと)を
任命し、再建を行いました。
拝殿は、八割方出来上がった時に大坂夏の陣が起こり、豊臣家が
滅んでしまったため、そのまま放置されていました。
その後、江戸幕府第3代将軍・徳川家光が再建工事を続行し、
寛永年間(1624~1645)の初期に竣工したものと考えられています。
向拝部分は唐破風造りで、徳川家の三つ葉葵の定紋が付けられています。
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本殿は第15代・応神天皇と父である第14代・仲哀天皇及び母である神功皇后
主祭神とし、住吉大神が配祀され、最古の八幡宮とされています。
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本殿の右側に式内社の当宗神社(まさむねじんじゃ)があります。
かっては漢朝によって設置され、313年まで朝鮮半島北部に存在した
楽浪郡(らくろうぐん)から渡来した当宗家主(まさむね の いえぬし/やかぬし)
の祖神である山陽公が祀られていたと推定されています。
当宗家主は後漢第14代皇帝・献帝(けんてい)の四世孫・山陽公の
後裔とされています。
山陽公とは古代中国の役職で、皇位を失った献帝に兗州(えんしゅう)の
山陽郡が与えられたのですが、領地を直接支配したわけでも、
現地に赴いたわけでもなく、山陽郡からのあがりを生活費として支給されて、
洛陽の屋敷に軟禁されていました。
献帝の没後も山陽公はそのまま存続が許されました。
当宗家主一族の旧地が東高野街道と放生川(碓井川=うすいがわ)との
交差点の北東から8㎡に残されているそうです。
往昔は勅使が参向して神事が行なわれ、崇敬も厚かつたとされていますが、
中世になつて社運は衰退し、明治2年(1869)の神祇官制度により
無格社となりました。
明治40年(1907)11月16日に誉田神社(現・誉田八幡宮)に合祀され、
祭神は素盞鳴命に改められました。
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誉田八幡宮と応神天皇陵を横切る放生川には、長さ5.8m、幅2.5m、
高さ4.8mの「放生橋」と呼ばれる反り橋が架けられています。
橋が架けられたのは江戸時代前半と推定され、
その後何度かの修理が行われています。
9月15日の秋季大祭では、応神天皇の神霊をのせた神輿が、
本殿から応神天皇陵へ渡御する神事が執り行われますが、見るからにも
この橋を渡るのは困難で、現在ではその横の平橋が使われています。

応神天皇陵は、墳丘長約425mで国内最大の仁徳天皇陵に次ぐ
大きさの前方後円墳です。
体積の143万3960㎥は日本一とされています。
前方部の崩落部分のほぼ真下を活断層の生駒断層帯が走っているため、
奈良時代の天平6年(734)と戦国時代の永正7年(1510)にこの地で
内陸直下型の大地震があったため、前方部の一部が崩れています。
住吉大神の神託により三韓征伐に出兵した神功皇后が、その帰途に
九州の筑紫国で出産したのが応神天皇とされています。
応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、景行天皇の孫である仲姫命
(なかつひめのみこと)を皇后とし、後の仁徳天皇をもうけました。
『日本書紀』によると応神天皇14年(283)に弓月君
(ゆづきのきみ=秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を天皇に上奏し
援軍を求めました。
弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたですが、
新羅の妨害に遭っていました。
天皇は新羅国境に精鋭部隊を派遣して新羅を牽制し、
弓月君の民は無事に渡来することができました。
秦氏(はたうじ)は土木や養蚕、機織などの技術をもたらし、
技術の改革や文化の振興が行われました。
また松尾大社や伏見稲荷大社を氏神として祀りました。
天皇が崩御されて後、宇佐の地に示顕され、八幡神として
祀られるようになりました。
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「放生橋」から戻ります。
拝殿の左前方に絵馬堂があります。
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絵馬堂の左側に安産社があり、槐(エンジュ)の木が植えられています。
神功皇后が応神天皇出産の際に槐の木で産殿の柱を造らせたと伝わります。
また、永承6年(1051)に第70代・後冷泉天皇の皇后が懐妊されたある日、
皇后の夢枕に老婆が立ち、「安産を願うなら吾を祭るべし」と告げました。
老婆は木の下に立ち、その姿はさながら鬼のごとくでした。
これを聞いた天皇は、「木に鬼は即ち槐の木で、槐の木をもって産屋を
営むべしとの夢現であろう」と述べられ、誉田八幡宮の境内にあった
枝を伐りとり、これを産室の上に吊るして安産を祈念されると、
皇子が無事に安産で誕生されたと伝わります。
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安産社の左側に南大門があります。
奈良時代に行基によって創建された神宮寺である長野山護国寺の門でした。
天保9年(1838)の『誉田八幡宮古図』では、護国寺の本堂がは
この南大門の西方正面に位置していることが記されています。
搭頭十五坊を誇っていましたが、明治初年の廃仏毀釈により大半の
建物が取り壊され、現在は南大門のみが残っています。
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応神天皇陵の北側には仲姫命陵があります。

道明寺へ向かいます。
続く


道明寺

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誉田八幡宮から東高野街道を北上した先の左側に
「弘法大師 御休石」が祀られています。
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祠内には腰を掛けて休むには大きすぎる石が祀られています。
大師が休まれた頃はこの石も横になっていたのかもしれません。
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「弘法大師 御休石」から東高野街道を北上した先の左側に道明寺があります。
道明寺は山号を蓮土山と号する真言宗御室派の尼寺で、
聖徳太子の開基により尼寺が創建されたのが始まりとされています。
後に土師連八島(はじのむらじやしま)がその邸を寄進して規模を拡大し、
土師氏の氏寺として「土師寺」と号するようになりました。
当初は土師神社(現・道明寺天満宮)の南にあって、
七堂伽藍や五重塔のある大規模な寺院でした。
土師氏を祖とする菅原道真が大宰府に左遷され、延喜3年(903)2月25日に
亡くなった後の天暦元年(947)に、道真自刻と伝える十一面観音像を祀り、
道真の号である「道明」に由来して土師寺から道明寺と改称されました。
天正3年(1575)には、兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失し、
後に再興されますが、寛永10年(1633)には石川が氾濫したため、
道明寺は天満宮境内に移転し、やがて両者は一体化していきました。
明治元年の神仏分離令により、明治5年(1872)に天満宮は土師神社と改称され、
道明寺の五坊のうち二之室が神職となりました。
翌明治6年(1873)9月に道明寺は土師神社から分離され、
道を隔てた西隣の現在地に移転しました。
尚、昭和27年(1952)に土師神社は道明寺天満宮と改称しました。

山門は旧境内地で安政年間(1854~60)に建立された鐘楼堂を移し、
明治25年(1892)に鐘楼門に改築されたものです。
よく見ると瓦屋根の軒が、左側が少し高くなっているように見えます。
現在地に移転する時に寺領地の多くを国有化で失い、道明寺の財政悪化は深刻で、
鐘楼の移築が遅れ、この傾きも修整するのが困難だったのかもしれません。
現在ではこの傾きが道明寺山門のシンボルとなっているようです。
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門をくぐった右側に地蔵菩薩の石像が祀られ、その左側に
伊藤柏翠(いとう はくすい)の句碑「大安で 吉日梅の 道明寺」、
更にその左側には高浜虚子の孫である坊城中子
「国宝を 守る御寺の 虫しきり」の句碑が建立されています。
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護摩堂
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参道の正面に大師堂がありますが、工事中でした。
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大師堂の左奥に中門があります。
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中門を入った先には庫裏があります。
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門を入った右側には十三重石塔が建立されています。
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現在の本堂は大正8年(1919)に落成されました。
明治6年(1873)9月に現在地に移転した後、明治19年(1886)に
詳細は不明ですが本堂が大破しています。
平安時代には菅原道真の叔母に当たる覚寿尼(かくじゅに)が入寺し、
道真が度々道明寺を訪れています。
延喜元年(901)には左遷され、大宰府に赴く道真が覚寿尼を訪ね、
「鳴けばこそ 別れも憂けれ 鶏の音の なからん里の 暁もかな」と詠み、
別れを惜しんだと伝わります。
この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』
「道明寺」の場にも描かれています。
覚寿尼は道真が去った後、仏前にご飯を供え、そのおさがりを
分かち与えたのですが、病気が治ると評判になりました。
希望者が殺到したため、予め乾燥して貯蔵するようになったのが
「道明寺糒(ほしい)」の始まりとされています。
道明寺の本尊は道真作の像高98cmの木造十一面観音立像で、
国宝に指定されています。
元旦から3日までと毎月18日及び25日に開帳されています。
また、重要文化財に指定されている「試みの観音」と称される
木造十一面観音立像も安置されていますが、秘仏とされ開帳はされません。
この像は高さ50.3cmで、道真が本尊の木造十一面観音立像を刻む前に
試作したものとされ、平安時代作とされていましたが、
近年の研究では奈良時代末とする考えも有力になりつつあるそうです。
聖徳太子立像は、太子が16歳の時に父である用明天皇の病気が治るように
香炉をささげて祈願したという姿を表したもので、
「聖徳太子孝養像」と称されています。
像高は106.4cmで、胎内に納入されていた『法華経』
『勝鬘経(しょうまんぎょう)』などの経巻の奥書から、
弘安9年(1286)の作であることが判明し、像及び胎内一括品が
国の重要文化財に指定されています。

本堂前には富岡鉄斎の書による、北面に「道明寺」、東面に
「菅公御作 十一面観世音菩薩」と刻まれた石標が建立されています。
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本堂の左側に木槵樹(もくげんじ)の木が植えられています。
光孝天皇元慶8年(884)に菅原道真は、道明寺で五部の大乗経を書写し、
それを講堂の西側に埋めました。
この大乗経を納めた所から、数年後にもくげんじが育ったと伝えられています。
その後、鎌倉の田代寺の尊性上人が信州善光寺に参詣の際
「河内土師寺のもくげんじの実で数珠を作り、念仏百万回唱えると
極楽往生が叶う」と霊夢によって効験が告げられたとされています。
こうした伝承をもとに、中世末に謡曲「道明寺」が作られました。
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境内にある多宝塔は第一次世界大戦後の大正7年(1918)に、
藤沢薬品工業(現在のアステラス製薬)の創業者である藤澤友吉氏が、
亡父の17回忌供養のために、道明寺本堂の落慶に合わせて建立されました。
また、第一次世界大戦の戦死者の慰霊と世界平和の願いも込められています。
塔の下には激戦地であったフランスのベルダンの土が納められています。
塔の斜め前には、建立の趣旨が英文に訳された碑が
昭和4年(1929)に建立されています。
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多宝塔の右側に釈迦がその木の下で悟りを開いたとされる
菩提樹の木が植えられています。
旧境内地の本堂の前に菩提樹がありました。

神仏霊場・第58番札所である道明寺天満宮へ向かいます。
続く

道明寺天満宮

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道明寺から東へ進んだ所に道明寺天満宮への石段がありますが、
石段を上らず南へ進んだ車道の両側に蓮池があります。
享保年間(1716~1736)までは蓮池の南側の道までが道明寺の境内でした。
現在では消防水利施設として利用されていますが、古絵図にも南大門前の
参道に接して左右に蓮池が描かれていました。
但し、池名は北側の池は龍吟池と記されています。
南大門は現代になって自動車事故で損壊したようです。
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蓮池から少し北上した左側に「古代道明寺五重塔礎石」と刻まれた
石碑が建っています。
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安永2年(1773)に再版された絵図から見ると南大門を入った先に
五重塔礎石が描かれ、焼失後は再建されていなかったことが伺えます。
また、礎石の西側に伊勢八幡春日社が描かれ、その境内の西側に菅原道真が
書写した大乗経を埋め、その数年後に育ったとされる「もくげんじ」が
描かれていますが、講堂がどこにあったのかは不明です。
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石段下を右側に進むと、聖徳太子が開基した尼寺を、邸を寄進して道明寺
とした土師連八島(はじのむらじやしま)の廟窟碑が建立されています。
墓石が朽ちたために元文5年(1740)5月に再建されました。
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菅原道真が大乗経を書写する際に硯の水として使った
「夏水井(げすいのい)」があります。
光孝天皇元慶8年(884)、40歳だった道真が4月~7月まで
土師寺(はじでら=道明寺)に逗留されました。
当時、石段の南側にあった土師寺からこの井戸まで水を汲みに来ていたのですが、
ある日二人の子供が現われ、硯の水を汲んでくれました。
このため道真公は、写経を早く終わらせることができたと伝えられています。
また、その経文の納める場所に困った時に、3人の僧に姿を変えた神が現われ、
「我等こそ、伊勢、八幡、春日の三神なり」と講堂の西の方を指して
消えたと伝わります。
古絵図に「伊勢八幡春日社」が描かれているのは、その由縁によるものかと
想像されます。
また、道真が使ったとされる青白磁円硯(せいはくじえんけん)は
国宝に指定されています。
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夏水井の右側に登り窯が復元され、その中には埴輪が置かれています。
道明寺天満宮の周辺は、かって野見宿禰(のみのすくね)を祖とする
土師氏の根拠地でした。
野見宿禰は垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の時、
それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、
土師臣(はじのおみ)の姓とこの地を与えられました。
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石段下の石灯籠には嘉永3年(1850)の銘があるそうです。
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正面の石段を上った神門前の左側には「土師氏窯跡」の石碑が建立されています。
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門をくぐった右側に土俵があり、毎年9月1日に行われる八朔大祭では
奉納子供相撲大会が行われています。
菅原道真が誕生したのが旧暦の8月朔日(さくじつ=1日)とされ、
その日に神事が行われてきました。
道真の祖とされる野見宿禰は、第11代・垂仁天皇の命により
当麻蹴速(たいまのけはや)と角力(相撲)をとるために
出雲国より召し寄せられました。
蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた
大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられたと伝わります。
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門の正面には明治45年(1912)に奉納された注連柱(しめばしら)が建ち、
柱には通天閣を命名した藤澤南岳により選ばれた菅原道真を讃える文が
刻まれています。
右側に「神化粛雍百世長斯仰敬」左側に「玄徳明美万邦咸致尊親」と
記されていますが、その意味は...
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参道の左側に社務所と結婚式場の天寿殿があります。
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またその前には「明治天皇行在所」の石碑が建立されています。
明治10年(1877)2月12日、前日の紀元節に畝傍御陵に参拝された明治天皇が、
その翌日に宿泊されたことを記念して碑が建てられました。
翌13日には、明治天皇に西南戦争勃発の知らせが届いています。
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参道の東側には筆塚があります。
昭和34年(1959)に奉納されたもので、毎年4月25日に筆まつりが行われています。
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参道を進んだ左側に神牛舎があります。
菅原道真が誕生したのが承和12年6月25日(845年8月1日)の丑年でした。
寛平5年(893)癸丑(みずのとうし)の9月、道真が北山に茸狩りの宴を
催されていた時、子牛が現れ、道真はその子牛を館に連れて帰り、
可愛がっていました。
道真が左遷地の大宰府に赴く道中で、左遷に追い込んだ藤原時平が、
部下の笠原宿禰(かさはらのすくね)に命じ、道真を襲わせたのですが、
松原の中から牛が飛び出し、宿禰の腹を突き刺しました。
その牛は、道真が可愛がっていた牛で、後の道中を牛に乗って
大宰府に向かわれたと伝わります。
また、道真が亡くなり、遺骸を牛車で運んでいたところ、牛が突然歩みを止め、
そこを墓地と定めたとの伝承もあり、道真と牛との深い関係から、
牛は天満宮の神使いとされています。
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参道の東側には「撫で牛」が祀られています。
菅原道真が亡くなり、天神神として祀られるようになって、
平成14年(2002)が千百年に当り、道明寺天満宮では記念大祭が行われました。
台座は戦前から残されていましたが、この像は大祭の記念として復興されました。
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「撫で牛」の東側にも奉納された臥牛の像が祀られています。
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さざれ石
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大阪府で最も古い能楽殿で江戸時代の文化12年(1815)に建立されました。
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拝殿及び幣殿は江戸時代の延享2年(1745)に建立されました。
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本殿が建立された年代は不明ですが、桃山時代の部材が使われているそうです。
道明寺天満宮は土師氏の遠祖とされる天穂日命(あめのほひとのみこと)を
祀る土師神社として創建されました。
その後、第33代・推古天皇の時代に仏教が伝来すると土師神社の南側に
土師寺が創建されました。
土師氏は第50代・桓武天皇から姓(かばね)を与えられ、大江氏・菅原氏・
秋篠氏に分かれ、平安時代に菅原道真の叔母に当る覚寿尼(かくじゅに)が入寺し、道真が度々道明寺を訪れるようになりました。
昌泰4年(901)、左大臣・藤原時平の策謀により醍醐天皇が右大臣菅原道真を
大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将・源善らを左遷または流罪にした
昌泰の変(しょうたいのへん)が起こりました。
延喜3年(903)2月25日に道真は大宰府で薨去し、安楽寺に葬られましたが、
その後都には異変が相次ぎました。
道真を左遷へと追いやった藤原時平が延喜9年(909)に39歳で病死すると、
続いて延喜13年(913)には道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣・源光
狩りの最中に泥沼に沈んで溺死しました。
更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)が延喜23年(923)に薨去すると、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(よしよりおう=時平の外孫)も
延長3年(925)に次々に病死しました。
延長8年(930)には朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる
大納言・藤原清貫(ふじわら の きよつら)をはじめ朝廷要人に多くの
死傷者が出ました。
それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御されました。
これらは道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返されました。
朝廷は延喜19年(919)に、醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した、
安楽寺の道真の廟を安楽寺天満宮(現在の太宰府天満宮)に改修して
道真の祟りを鎮めようとしました。
更に清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられ、
天歴元年(947)に朝廷は北野天満宮を建立しました。
また、道真の没後に土師寺は道明寺に改称しています。

その後、天正3年(1575)には石山合戦の一部である高屋城の戦いの兵火を受け、
道明寺と天満宮が焼失しました。
更に寛永10年(1633)には石川が氾濫したため、道明寺は天満宮境内に移転し、
やがて両者は一体化していきました。
明治の神仏分離令により、明治5年(1872)に天満宮は土師神社に戻され、
道明寺の五坊のうち二之室が神職となりました。
翌明治6年(1873)9月に道明寺は土師神社から分離され、道を隔てた
西隣の現在地に移転しました。
敗戦後の昭和20年(1945)にGHQ(連合国占領軍・総司令部) から出された
「神道指令」によって国家神道の体制が解体され、神社は宗教法人として
再スタートすることになりました。
国家神道の縛りが無くなったことで、「道明寺」の寺号が使えるようになり、
昭和27年(1952)に「道明寺天満宮」に改称されました。
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本殿前の左側に宝物殿があります。
宝物殿は正月3ヶ日と1月~3月の各25日及び4月18日と
梅祭りの期間中にのみ開館されます。
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宝物殿の右側に復元された修羅が展示されています。
修羅は昭和53年(1978)5月に三ツ塚古墳の周濠から発掘されたもので、
古墳を造営する際に巨石を運ぶソリとして使用されていました。
大小2基が発掘され、大きい方は約8.8m小さい方は約2.8mあり、
現物は大きい方は飛鳥博物館、小さい方は藤井寺市立図書館で保存されています。
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白太夫社は天満宮の眷属神として祀られています。
白太夫は、伊勢神宮神主の度会春彦(わたらいはるひこ)とされています。
度会春彦は、若い頃より髪が白く、人々より「白太夫」呼ばれていました。
菅原道真の父・是善(これよし)は、長男、次男を幼くして亡くし、
伊勢神宮・外宮で度会春彦に安産祈願を託しました。
無事に誕生したのが道真で、是善はこれを喜び、度会春彦を道真の
傅役(もりやく)として京都の自邸に招きました。
度会春彦は、数十年にわたって道真の養育係として仕え、70歳の高齢ながら
大宰府に随行し、最期を看取ったとされています。
その後、道真の遺品を土佐国潮江村に配流されていた道真の長子・
菅原高視(すがわら の たかみ)へ届け、京都への帰途、
延喜5年(905)1月9日、79歳で亡くなったと伝わります。
現在の高知県長岡郡大津村の岩崎山に墓が残されていると伝えられています。
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樹齢300~500年とされるクスの木は、境内で最も古くから生育しているとされ、
NPO大阪緑と樹木の診断協会から「おじいさんの木」として認定されています。
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大成殿は儒学者である藤沢南岳(ふじさわ なんがく)により、
明治36年(1903)に建立されました。
孔子像が祀られ、同年3月30日に第1回釋奠(せきてん)が行われました。
釋奠とは孔子および儒教における先哲を先師・先聖として祀る儀式のことで、
儒祭(じゅさい)・孔子祭(こうしまつり)とも呼ばれています。
日本には大宝元年2月14日(701年3月27日)の大宝律令学令に大学寮及び
国学において、毎年春秋二仲(すなわち、春と秋の真中の月である2月と8月)の
上丁の日(上旬の丁の日(十干))に先聖孔宣父(孔子)を
釋奠する事が規定されました。
道明寺天満宮では毎年5月の第二日曜日に釋奠が行われています。
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大成殿から北側は梅園となっていますが、
現在は立ち入りが禁止されているようです。
梅園の北側には霊符社、白光社、八嶋社、和合稲荷社などがあります。

西国薬師四十九霊場・第14番札所及び聖徳太子霊跡・第5番札所である
野中寺(やちゅうじ)へ向かいます。
続く

野中寺

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野中寺(やちゅうじ)は山号を青龍山と号する高野山真言宗の寺院です。
伝承では聖徳太子建立48寺院の一つとされ、
太子の命を受けた蘇我馬子が開基とされています。
太子町・叡福寺の「上之太子」、八尾市・大聖勝軍寺の「下之太子」とともに
三太子の一つに数えられ、「中之太子」と呼ばれています。
一方で渡来系氏族の船氏の氏寺として建てられたという説もあります。
イメージ 2イメージ 3


















現在は府道31号線に面して北側に仁王門がありますが、楼門ではなく
安置されている仁王像も小振りなものとなっています。
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府道31号線から少し南へ進むと伽藍の礎石が残され、
ここに南大門があったのではと想像されます。
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仁王門をくぐった正面に本堂があります。
現在の本堂は江戸時代初期の寛永~寛文年間(1624年~1673年)に再建されました。
野中寺は南北朝時代までに兵火を受け、創建時の堂塔は全て焼失し、
その後の変遷は定かでなく、一時期は廃寺に近い状況だったと見られています。
江戸時代初期の寛文元年(1661)に政賢覚英(せいけんかくえい)和上、
慈忍恵猛(じにんえ いもう)律師らによって戒律道場として再興され、
勧学院と称されました。
本堂はこの頃の再建かと思われます。
江戸時代の享保年間(1716~35)の火災で本堂以外が焼失し、
その後再建されています。
享保9年(1724)、大和郡山藩主・柳沢吉里の帰依を受け、城内にあった
客殿が寄進され、それを方丈・客殿として移築されました。
江戸時代には律宗の勧学院として、和泉・神鳳寺(しんぽうじ=現在は廃寺)、
山城・西明寺とともに律院三大僧坊として栄えました。
 明治時代中期に現在の宗派である高野山真言宗に転じています。
本尊は薬師如来で、西国薬師四十九霊場・第14番の札所本尊でもあります。
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本堂への参道の左側に塔跡が残されています。
昭和60年(1985)に発掘調査が行われ、凝灰岩を加工した石材でつくられた
「壇上積み基壇」と呼ばれる基壇が認められました。
この基壇は、東西13.6m、南北12.9m、高さ約1.5mの規模を持ち、
東側に階段が存在しことから、塔が金堂の方を向いていました。
塔跡の調査で「庚戌年正月」の記念名平瓦が出土し、
白雉元年(650)頃には塔が建立されたとみられています。
聖徳太子が亡くなったのは推古天皇30年(622)とされていますので、
少なくとも塔の建立は太子の没後30年弱となります。
このことから船氏の氏寺説が有力になっています。
船氏(ふなうじ)は朝鮮半島から渡来した最も古い中国系の帰化氏族で、
東漢(倭漢)(やまとのあや)と西漢(河内漢)(かわちのあや)の
両系に分かれ、その後に渡来した今来漢人(新漢人)(いまきのあやひと)を加え、
巨大な氏族となりました。
その子孫は菅野氏(すがのうじ)、葛井氏/藤井氏(ふじいうじ)等の
祖となりました。
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塔跡の東側に金堂跡があります。
現在残っている土壇や礎石などから開口4間、奥行き3間の南北に長い建物で、
西面していたと推測され、東面していた塔跡と金堂跡とは
向き合っていたと考えられています。
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この伽藍配置は法隆寺と類似していますが、法隆寺の場合は塔と
金堂は向かい合わずに南面しています。
堂塔が向き合う形は川原寺にみられますが、野中寺の配置とは
金堂と塔が逆となります。
このことから、野中寺は飛鳥時代に多く用いられた四天王寺の配置方法より新しく、法隆寺より古い形態で、白鳳期の官寺に用いられていた川原寺の変形した
配置方法が用いられていたと考えられています。
「野中寺旧伽藍跡」は国の史跡に指定されています。
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金堂跡の北側に鳥居が建っています。
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鳥居をくぐると池があり、池の中には石造りの厨子の中に弁財天と
思われる石像が祀られています。
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大師堂
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本堂の裏側の参道を進みます。
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地蔵堂に安置されている木造地蔵菩薩立像は、
国の重要文化財に指定されています。
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鐘楼
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ヒチンジョ池西古墳石棺
ヒチンジョ池西古墳は野中寺から南へ900m行った聖徳太子の
弟・来目皇子(くめのみこ)墓(塚穴古墳)に近い
ヒチンジョ池西側にありました。
野中寺のある羽曳野陵一帯は、第二次対戦後の食糧難で農地として開墾された
歴史があり、この開墾時に偶然に古墳が発見され石棺が出土しました。
その後、昭和40年(1965)に、この石棺が野中寺に移設されました。
この石棺は、二上山凝灰岩を使用した箱型横口式と呼称されるもので、
古墳時代終末期のものと推定されています。
大きさは、長さ3.1m、横幅1.7m、高さ1.8mあり、被葬者は渡来系の
有力氏族であろう考えられているが詳細は不明です。
大阪府の文化財に指定され、平成6年(1993)に保存修理も行なわれています。
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墓地にはお染・久松の墓があります。
裕福な油屋のお嬢様お染は丁稚・久松と許されぬ恋に落ちました。
しかし久松にはお光という許嫁がいます。
野崎村の実家に戻された久松はお光と祝言を挙げることになります。
そこに「野崎まいり」にかこつけてお染が久松に会いに来ました。
お光は二人の心を察し、自分が身を引けば、二人が幸せになれると考え、
髪を切り尼の姿になっていました。
油屋へ帰っていく二人を見送ったお光は泣き崩れた、との物語が残されています。

西国三十三所観音霊場・第五番及び神仏霊場・第59番札所である
葛井寺へ向かいます。
続く

葛井寺

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葛井寺は、山号を紫雲山と称する真言宗御室派の寺院で、西国三十三所・第五番、
河内西国三十三所・特別客番、神仏霊場巡拝の道・第59番の札所になっています。

葛井寺の詳細はこちらをご覧ください。

当初は草創1300年記念の非公開寺宝特別拝観の日程・5月29日(火)~
31日(木)に合わせて巡る予定でしたが、当日は天候や仕事の都合と、
その後の猛暑で体調を崩し、9月中旬となってしまいました。
11月28日(水)~12月2日(日)にも特別拝観が行われますが、
他の巡礼の日程からそれも無理なような気がします。

葛井寺は王辰爾(おうしんに)を祖とする船氏の末裔によって
白鳳時代(645~710)に創建され、寺蔵の古絵図では、
東西に塔をもつ薬師寺式の伽藍配置でした。
王辰爾の甥である白猪胆津(しらいのいつ)は、新しい統治文筆技術を持つ
新来の渡来氏族で、欽明天皇30年1月(569)、吉備の白猪屯倉
(しらいのみやけ)の田部(たべ)の丁(よぼろ)の戸籍を定めた功績で
白猪氏の姓を賜りました。
屯倉とは大和朝廷の直轄地、田部は屯倉の耕作地で、
丁は耕作に携わる人数を指します。
その子孫の白猪広成は養老4年(720)に一族と共に白猪史から葛井連に改姓し、
神亀2年(725)に聖武天皇の勅願により葛井寺を創建したと伝わります。
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手水舎
弘法大師お手堀と伝わり、目の治療や心を開眼させる聖水の湧く井戸と
されています。
また、以下のような霊験譚が残されています。
『大和の住人で傍若無人な生活をしていた藤井安基は、ある時、
河内国平石の辺りで鹿を捕り、その山のお堂に入って仏具をまな板や薪にして、
鹿肉を煮て食べていたところ、仏罰で地獄に落とされました。
地獄で今までの悪行を反省していると観音様が現れ、
「今後は世の為に尽力せよ」との御言葉と共に、井戸の前に蘇りました。
井戸の水を飲んで改心した安基は、以後寺の興隆に尽力しました。
以来、この井戸水は「目と心を開かせる水」と有名になり、
「安基のようなあかん人間でも、あかん時に助けてくださるお寺」、
「あかん河内の藤井寺」として語り継がれるようになりました。』
永長元年(1096)に藤井安基が伽藍を修復したと伝わり、
その苗字から藤井寺とも称されるようになりました。
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本堂
本尊の千手観音菩薩坐像は、半丈六(像高1.5m)の大阪府下唯一の
天平仏として、国宝に指定されています。
聖武天皇の勅願により稽文会(け もんえ)、稽首勲(け しゅくん)の
親子2代にわたり脱活乾漆造りで制作され、行基菩薩により
開眼されたと伝わります。
脱活乾漆造りとは、粘土で像の原形を造り、この上に麻布を張り漆で固め、
漆に木屑を混ぜたもので、細かい造形を施す仏像の製作方法なのです。
原形となった粘土は抜き取られるので軽い仏像が出来上がり、
しかも細かい表現が可能なので、奈良時代には盛んに採用されました。
ところが、金銅製の仏像に比べると湿気や乾燥にデリケートで、もちろん
火災には弱く、現在まで残った仏像はわずかになってしまいました。
八稜形框(かまち)上に宝瓶を据えた五重蓮華座上に坐し、胸前で合掌する
2本の手を中心に1039本の大小の脇手が円形に展開しています。
脇手は持物をもつ大手38本、小手1001本(右500本、左501本)で、
合掌手を除く大小の脇手は、像の背後に立てた2本の支柱に打ち付けられています。
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西門は豊臣秀頼が寄進した四脚門で、国の重要文化財に指定されています。
元は南大門として建立されましたが、寛政2年(1790)に現在の南大門が
建立されたのに伴い、西門に移築されました。
葛井寺は室町時代には、奈良・興福寺の末寺として栄えましたが、
明応2年(1493)に畠山家の内紛に端を発した兵火にあって、楼門、中門、
三重塔、鎮守、奥院を焼失し、本堂と宝塔を残すのみとなりました。
残った建物も永正7年(1510)の地震で倒壊し、慶長6年(1601)に
豊臣秀頼により本格的な再建に着手され、徳川家代々の外護を受けて
再建されてきました。

神仏霊場・第60番札所である枚岡神社へ向かいます。
続く

枚岡神社(ひらおかじんじゃ)

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枚岡神社は近鉄奈良線の枚岡駅の駅前、東側にあります。
駅前の石段の途中には大正11年(1922)に奉納された注連柱が建っています。
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駅から石段を上り車道を横断した所には、昭和54年(1979)に建立された
二の鳥居が建っています。
二の鳥居から参道を西に約800メートル下った先の東高野街道沿いに
一の鳥居があります。
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参道を進むと注連柱が建ち、その先に石段が続いています。
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注連柱の手前右側の石段の上に昭和10年(1935)竣工の斎館があります。
昭和12年(1937)の大正天皇の貞明(ていめい)皇太后行啓に
先立ち再建されました。
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手水所は鹿の像の前から流れ落ちています。
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手水所から右奥に進んだ所に禊を行う滝行場があります。
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注連柱の両側には狛犬ならぬ狛鹿が神域を守護しています。
武甕槌命が白鹿に乗ってきたとの伝承から、鹿は春日神の神使とされています。
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石段を上った正面に明治12年(1879)に新築された拝殿があります。
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拝殿の奥に中門があり、本殿は透き塀で囲われています。
透き塀の手前には照沢池があります。
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拝殿の左側に御神木の「柏槙(びゃくしん)」があり、
大阪府の天然記念物に指定されています。
社伝によると神津嶽(かみつだけ)には神武天皇お手植えの柏槙の大木があり、
白雉元年(650)に神津嶽から現在地に遷座された際に、
その枝を切って挿し木したものと伝えられています。
昭和36年(1961)の第二室戸大風で損傷し、昭和40年代に地上3mを残して
伐採され、切株を保存するため覆い屋根が施されました。
胸高幹周囲6.5m、高さ25mありました。
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拝殿の右側には神津嶽や橿原神宮などの遥拝所があります。
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現在の本殿は江戸時代の文政9年(1826)に造営され、
東大阪市の文化財に指定されていますが、平成30年(2018)9月4日の
台風21号で倒壊し、現在修復が行われています。
春日大社と同様に春日造4棟から成り、第一殿に天児屋根命
(あめのこやねのみこと)、第二殿に天児屋根命の妻神である比売御神
(ひめみかみ)、第三殿に経津主命(ふつぬしのみこと)、
第四殿に武甕槌命(たけみかづちのみこと)が祀られています。
社伝では、神武天皇即位前3年、神武東征に際して天種子命
( あめのたねこのみこと )が勅命によって天児屋根命・比売神の2神を
東方山上の神津嶽(かみつだけ)に奉斎したことが始まりとされています。
その後、白雉元年(650)に平岡連(平岡氏)らが神津嶽から
山麓の現在地に遷座したと伝わります。
天種子命は天児屋根命の孫で、この地に留まって代々祭祀を司り、
平岡連(ひらおかむらじ)と呼ばれるようになりました。
中臣氏は平岡連の遠祖となります。
平城京に遷都された和銅3年(710)に中臣氏から分かれた藤原氏の不比等が、
春日の御蓋山(みかさやま)に鹿島神である武甕槌命を祀り、
春日神と称しました。
その後、神護景雲2年(768)に藤原永手が、鹿島神である武甕槌命と
香取の経津主命と枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売御神を
分霊、勧請し、御蓋山の麓に四殿の社殿を造営して春日神社と称しました。
このことから枚岡神社は「元春日」と呼ばれています。
宝亀9年(778)、春日神社から武甕槌命と経津主命が勧請され、
春日神社と同様に四柱の祭神が祀られるようになりました。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では名神大社に列し、
朝廷の月次祭・相嘗祭・新嘗祭では幣帛(へいはく)に
預かる旨が記されています。
平安時代末期からは河内国の一宮として崇敬を受けたとされています。
建治元年(1275)には西大寺の叡尊が衆僧100余人を率いて参詣し、
蒙古襲来に対する大般若経の転読を行いました。
天正2年(1574)に神官の水走氏(みずはやし)と織田信長の間で合戦が生じ、
本殿や摂・末社17社が焼失しました。
その後、慶長7年(1602)11月に豊臣秀頼により再建されました。
明治4年(1871)5月の近代社格制度では官幣大社に列しましたが、
戦後は神社本庁の別表神社に列しています。
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本殿の右横を登って行った所に摂社・若宮社があり、天押雲根命
(あめのおしくもねのみこと)が祀られています。
天押雲根命は天児屋根命と比売御神の間に生まれた御子神です。
皇御孫尊(すめみまのみこと)の御膳水(みけつみず)を国土の水に
天上の水を加えて奉れという神漏岐神漏美命(かむろき・かむろみ)の
委託により、 父神・天児屋根命の命を受けて、神漏岐神漏美命の元に
遣わされ、天水を天二上よりもち下ったとされています。
画像はありませんが、若宮社の右奥に「出雲井」と称される井戸があり、
古くより神聖な水が湧き続けています。
現在の枚岡神社の鎮座地・出雲井町は、この井戸の名称によるものと
考えられています。
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末社の天神地祇社(てんちしぎしゃ)には元境内にあった19末社や
近郊に祀られていた天津神・国津神が合祀されています。

画像はありませんが、天神地祇社の南側に梅園がありますが、
かっての枚岡神社の神宮寺であった黄檗宗の神護寺の跡地で、
神護寺は明治6年(1873)に廃寺となりました。
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境内の北側に鶏鳴殿があり、社務所などに使われています。
枚岡神社は神仏霊場・第60番の札所となっています。

次回は西国観音霊場・第6番札所である南法華寺(壺坂寺)から
明日香村を巡ります。
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