叡福寺は山号を磯長山(しながさん)と号する真言宗系の単立寺院で、
太子宗を名乗っています。
新西国三十三所観音霊場・客番、仏塔古寺十八尊・第2番、神仏霊場・第57番、
新西国三十三所観音霊場・客番、仏塔古寺十八尊・第2番、神仏霊場・第57番、
聖徳太子霊跡・第6番などの札所となっています。
駐車場から石段を上った所に南大門があります。
戦国時代の天正2年(1574)、詳細な理由は不明ですが織田信長が叡福寺を
駐車場から石段を上った所に南大門があります。
戦国時代の天正2年(1574)、詳細な理由は不明ですが織田信長が叡福寺を
焼き討ちしています。
現在の伽藍は慶長年間(1596~1615)に後陽成天皇の勅願により
現在の伽藍は慶長年間(1596~1615)に後陽成天皇の勅願により
豊臣秀頼が一定の復興を成し、徳川第5代将軍・綱吉の寄進により
寺観を整えられました。
南大門は慶長8年(1603)に再建されましたが、
南大門は慶長8年(1603)に再建されましたが、
老朽化のため昭和35年(1958)に再建されています。
扁額「聖徳廟」の揮毫(きごう)は当時の総理大臣・岸信介の筆によるものです。
仁王像が門番をしていますが、やや小振りのため迫力に欠けているように
見受けられます。
草鞋の方が仁王像の足より大きいのでないかと思えます。
門くぐった左側に多宝塔があり、国の重要文化財に指定されています。
多宝塔は豊臣秀頼の再興以降の承応元年(1652)に江戸の
多宝塔は豊臣秀頼の再興以降の承応元年(1652)に江戸の
豪商・三谷三九郎の寄進により再建されています。
堂内は非公開ですが、釈迦三尊像と大日如来像が安置されているようです。
堂内は非公開ですが、釈迦三尊像と大日如来像が安置されているようです。
多宝塔の正面に金堂があります。
見つかった棟札から享保17年(1732)頃の再建と推定され、
見つかった棟札から享保17年(1732)頃の再建と推定され、
大阪府の文化財に指定されています。
寺伝によると、聖徳太子が生前の推古天皇28年(620)に、
寺伝によると、聖徳太子が生前の推古天皇28年(620)に、
この地を墓所と定めたことが叡福寺の始まりとされています。
翌年、太子の生母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が
翌年、太子の生母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が
亡くなり、ここに埋葬されました。
その翌年の推古天皇30年(622)には聖徳太子と
その翌年の推古天皇30年(622)には聖徳太子と
妃の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)が共に病気となり、
妃が亡くなるとその翌日には太子も亡くなり、ここに追葬されました。
推古天皇は同年、菩提を弔うために土地を寄進し、墓守りの住む堂を建て、
推古天皇は同年、菩提を弔うために土地を寄進し、墓守りの住む堂を建て、
香華寺と称しました。
その後、神亀元年(724)に第45代・聖武天皇の発願で東院・西院の
その後、神亀元年(724)に第45代・聖武天皇の発願で東院・西院の
2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したと伝わります。
しかし、このことは正史には見えず、
しかし、このことは正史には見えず、
叡福寺の創建年代については諸説あります。
叡福寺の本尊は聖如意輪観世音菩薩で、脇侍として愛染明王と
不動明王像が安置されています。
また、賓頭盧尊者像とボケ封じ観音菩薩像が安置されています。
奉納されていた絵馬。
金堂の裏側に慶長8年(1603)に再建された聖霊殿(せいりょうでん)があり、
国の重要文化財に指定されています。
堂内には聖徳太子の十六歳像が祀られていることから
堂内には聖徳太子の十六歳像が祀られていることから
太子堂とも呼ばれています。
聖霊殿の右側に二天門があります。
二天門と東西に連なる回廊は、元禄元年(1688)に徳川第5代将軍・綱吉の
二天門と東西に連なる回廊は、元禄元年(1688)に徳川第5代将軍・綱吉の
命を受けた河内丹南藩主・高木正陳(たかぎまさのぶ)の寄進によるものです。
左に増長天、右に持国天像が安置されていることから二天門と呼ばれています。
門を入った正面に宮内庁が聖徳太子の墓として治定されている
「磯長墓(しながのはか)」があり、石室入り口には天保15年(1844)に
建立された「御霊屋」と称される唐破風屋根の覆屋があります。
石室の最深部に穴穂部間人皇女の石棺、前面右側に太子、左側に
石室の最深部に穴穂部間人皇女の石棺、前面右側に太子、左側に
妃の膳部菩岐々美郎女の乾漆棺が安置されている
「三骨一廟式」の合葬墓となっています。
石室の模型が叡福寺横の「太子和みの広場」に展示されています。
また、広場には松井塚古墳石棺が展示され、大阪府の文化財に指定されています。
聖徳太子が埋葬された叡福寺北古墳の墳形は南北約43m、東西約53mの
楕円墳で、3段築成された墳丘の高さは約7mあります。
左側に「上の御堂」があり、高木正陳の寄進によって建立されました。
太子の像が祀られているらしいのですが詳細は不明です。
太子の像が祀られているらしいのですが詳細は不明です。
右側には慶長2年(1597)に再建された浄土堂があり、
信徒永代供養専用のお堂となっています。
本尊として阿弥陀三尊像が安置されています。
本尊として阿弥陀三尊像が安置されています。
浄土堂から右へ進むと回廊の端は鐘楼堂となっています。
隙間から梵鐘を覗き見ることができます。
鐘楼堂から奥の方に見真堂があり、親鸞聖人が祀られていますが、
お堂は修理中のため聖人自作とされる御像は宝蔵に遷されていました。
見真堂の奥に磯長村(しながむら)戦没者の墓があります。
墓の奥に融通念仏宗の宗祖・良忍聖応大師の廟所があります。
良忍は平安時代後期の天台宗の僧で、22歳から23歳のころ京都大原に隠棲し、
良忍は平安時代後期の天台宗の僧で、22歳から23歳のころ京都大原に隠棲し、
来迎院などを創建しました。
分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させ、
分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させ、
永久5年(1117)には阿弥陀仏の示現を受けて融通念仏を創始しました。
戦没者の墓の更に奥には科長岡神社(しながおかじんじゃ)があります。
神社の創建や由緒等は不明ですが、天照皇大神等が祀られています。
Wikipediaによると明治40年(1907)に科長岡神社は、
神社の創建や由緒等は不明ですが、天照皇大神等が祀られています。
Wikipediaによると明治40年(1907)に科長岡神社は、
科長神社に合祀されたと記されています。
科長岡神社から戻り、戦没者の墓の前方に大師堂があり、
弘法大師が祀られています。
大師堂の前には修行大師像が祀られています。
大師堂の右側に念仏堂があり、阿弥陀如来が祀られています。
念仏堂の右側に客殿があります。
叡福寺から石段を下り、道路を横断して、また石段を上り、
向かいに見える西方院へ向かいます。
続く
続く